今から200年ほどまえ。日本の沿岸や街道を測量し、細密な日本地図をつくりあげた偉人・伊能忠敬(いのう・ただたか)。彼が50歳までをすごした街、千葉県・佐原を訪ねました。水郷として知られる佐原は液状化による被害をうけ、伊能忠敬にちなんだ「忠敬橋(ちゅうけいばし)」では、国土地理院による測量が行われていました。
佐原の街並は、関東地方で初めて「伝統的建造物群保存地区」に指定され、千葉県の有形文化財にもなった古い建物が数多く現存しています。
天保3年建造の「正上」(現在は佃煮屋)も瓦が落ちるなどの被害を受け、復旧工事を進めていました
【 佐原に残る商家や土蔵は、明治の大火をきっかけに建てられたそうです。佐原観光の目玉である情緒あふれる街並や、観光船が行き来する小野川も震災で大きな被害をうけました 】
小野川と利根川の合流点付近は、液状化の被害がいまだに目立ちます。放置されたり、すでに建替えた家もありました
液状化により川底が持ち上がり、川の手すりが傾いています。
泥を浚渫し、水が流れるようにしたそうです
【 舟から見上げる古い家々は、道路からの眺めとはまた違って見えます。小野川から利根川をさかのぼり江戸へいたる水運によって、佐原は直接江戸と結ばれていました 】
【 観光客がほっとできる場所を提供し佐原を盛り立てたいという願いを込め、8月頭にオープンしたばかりの「カフェ 河岸日和」。きれいな水で抽出した水出しコーヒーが自慢 】
千葉県・有形文化財に指定された「福新呉服店(明治25年)」、「小堀屋本店(そば屋・明治33年)」、「正文堂(書店・明治13年)」が並ぶ一画(忠敬橋の近く)も、屋根瓦が落ち土蔵が崩れるなどの被害を受けていました。
【 文化元年(1804)創業の福新呉服店。店舗部分は補修工事を行い営業を続けていました。地震で瓦が落ちやすいのは、屋根を軽くして震動から家を守る工夫ともいわれています 】
福新呉服店は、佐原おかみさん会がすすめる「佐原まちぐるみ博物館」に参加し、古い生活用具などを店の一画で展示していました。いまは土蔵が壊れたため、きちんと展示できなくて残念とのこと
【 昭和のはじめ多くの人でにぎわう「恵比須講」の写真は、佐原が千葉県北東部の商都の中心だった頃をしのばせます。利根川の水運によって江戸との交流も盛んな街でした 】
【 土蔵は必ず直してみせると、力強い言葉をうかがいました。お盆の提灯には「佐原の大祭(7月、10月)」で曳きまわされる山車の姿が描かれています 】
大人形をのせた高さ9mにもなる山車を曳く佐原の大祭は、300年の歴史があります
【 敷地の奧にある土蔵を見せていただきました。軒先が崩れ、中に入るのは危険な状態のようです。解体すべきか補修できるか、判断の難しい状態であることが分りました 】
佐原の商家の多くは、間口が狭く奥行きの深い敷地になっています。敷地の奧には土蔵があり、表からはうかがい知れない被害も多いと感じました。通路が狭いため改修工事も難しそうです
【 関東地方で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された佐原の街並。保存改修工事を行った建物は比較的無事だったようです。茶房さかしたで耳かきを作る八木さん 】
【 一本一本を木材から削りだす独特の耳かきです。元は鉄工業を営んでいた先代・八木実さんによって開発され、今は2代目が跡をつぎ、佐原の新名物になっています 】
ギャラリー卯兵衛では、大祭で唄われる「砂切(さんぎり)」や「佐原囃子」の演奏会なども開かれています
【 佐原張子は、三浦屋の鎌田芳朗氏によって作られています。型取りによって作られた人形でありながら、ひとつとして同じものはない、不思議な世界をもっています 】
卓上のきら星たち ☆くずの4 マンハッタンのイスラーム屋台 大原千晴
久しぶりにニューヨークを訪れたので、『食卓のきら星たち』今回は特別編として、2011年夏NYで出会ったちょっと面白い出来事のお話を。
ロワ・イーストの「リトル・イタリー」をぶらぶら散歩していたら、いつのまにか有名デパート「ブルーミングデールズ」ソーホー店の裏口に出くわしました。この支店は若者向け流行ブランドの展開に注力していて、これが夏のセールの真っ最中。ざっと店内をひと巡りしてブロードウェイに面した正面玄関を出ると、目の前の広い歩道に、ニューヨーク名物、大きなホットドッグ店らしき派手な屋台が営業しています。で、ホットドッグ大好き人間の目は自然と、店のカート壁面一杯に張られた大きな写真入りメニューに引き付けられます。
するとそこには「HALAL」の5文字。まさか、そんな! ご丁寧にも、アルファベットの下には、同じ意味を表すと思われるアラビア文字が。これ、ホットドッグの屋台じゃないの? 一瞬目を疑いましたが、ちゃんとホットドッグというメニューも書かれています。ご存知の方も多いと思いますが、食関連でHALAL(ハラール)という語が使われる場合はふつう、「イスラームの教義に反しない形で適切に処理された食品」(特に羊を中心とした食肉で)という意味です。近年欧州諸国ではイスラーム系移民の増加に伴って、このハラールの看板を掲げた食品店の増加が顕著です。ロンドンやパリ、ミュンヘンのような大都市はもちろん、移民労働者が多く住む郊外市域や中小の産業都市では、ハラールの店こそ地元の中心的存在という地域もあるくらいです。しかし、ここはニューヨークです。9・11以降、イスラーム諸国とアメリカの関係が良くないことは周知のこと。まして、ホットドッグといえば、NYどころか「アメリカを象徴する」といってもいい食べものです。それを売るのが「ハラール」の屋台だなんて。一体何がどうなっているのか。
その後道ばたで出会うカートを気をつけて見ていると、ハラール表示のある屋台にあちこちで出くわします。そのメニューを見ると、これが実に面白い。ラム肉ご飯 (1)、鶏肉ご飯(2)、シシケバブ(3)、ラム肉ジャイロ(4)、ファラフェル・サンド(5)、それに申しわけみたいな感じでホットドッグと並びます。(1)はケバブ風の羊肉にターメリックで黄色くしたご飯、それにトマトやレタスなど多少の野菜を添えて、これにホワイトソース(濃厚なヨーグルトにキュウリ、レモン汁、ディル、ニンニク、塩コショウを合わせたもの)をかけて出来上がり。(4)「ジャイロ」とはドネル・ケバブのギリシア風の呼び名で、NYではこの呼称が優勢。(5)ファラフェル・サンドとは、ひよこ豆やファバなど豆を素材とした揚げ団子をピタパンにはさんだもの。こうした中東の香りが濃厚にただよう中で、「ホットドッグも一応ありますよ」という感じです。
実際、昔ながらのホットドッグ専門の屋台というのは、急速に数を減らしつつあって、この「中東風」屋台に乗り換える業者も珍しくないとのこと。「ホットドッグ屋台は観光客相手の場所でもないとお客が少なくて……」そんな業者の声があるほどです。では一体、どのような背景から、このような大きな変化が起きてきたのか。ひとつは、お客の変化です。この20年で寿司がすっかり日常化したように、多様なエスニック料理がサラリーマンの簡単なお昼や夜食として、広く受け入れられるようになったこと。また、マンハッタンの夜の屋台の大切な顧客であるイエロー・キャブ(タクシー)の運転手に、バングラデシュやエジプト出身の人たちが大幅に増えていること。また同様にイスラーム圏からの移民労働者が増加していること、などの理由が挙げられています。次に、屋台を営業する人たちの変化が挙げられます。かつては屋台営業の中心だったイタリア系はすっかり影を薄くし、バングラデシュ、エジプト、ギリシア、メキシコなどの系統の移民たちが営業する屋台が、大きく数を伸ばしています。冬寒く夏暑いNYで一日中街路で営業を続ける屋台は、きつい仕事です。これで足場を築いたら次へ進む。その代表例が食品スーパー"D'Agostino"。今ではマンハッタンの高級住宅街を中心に十数店舗を数えるこの店も、元をたどれば大恐慌時代のカート営業が始まりまです。「いつかは俺だって」そんな夢があってこそ、あの辛い仕事を続けられるのかもしれません。
ところで「ハラール屋台の増加」という変化がいつ頃から目立ち始めたのかというと、これが意外なことに2001年の「9・11以降」とのこと。あの大事件以来イスラーム諸国と米国の関係は「悪化の一途」です。なのに、それに反比例する形で、米国経済の中心ニューヨークでハラールの軽食がホットドッグを駆逐する勢いで伸びている。食の変化は社会の変化を象徴します。世界中からやってくる移民たちの文化と宗教がぶつかり合う街ニューヨーク。このほかにも、中華街の膨張、メキシコ系を筆頭にスペイン語を話す中南米系移民の台頭、ロシア系移民の増加などなど、変化の続くマンハッタンからはしばらく目が離せそうにありません。では次回は再び、海亀との航海に戻ります。
佐原の風土が育てた偉人 伊能忠敬
明治32年、幸田露伴は『伊能翁のような真摯なる経歴をもつ人は、最も国家民人に対して益を与えたにも関わらず、世間はあまり尊重・称賛しない。ゆえに私はその功績を伝えたい』(意訳)と伊能忠敬(いのう・ただたか)伝の冒頭に書きのこしました。
そしていま、伊能忠敬は江戸時代の人物のなかでも最も興味を持たれ、研究される人物の一人となりました。忠敬橋の近く伊能忠敬記念館には、国宝に指定された関係資料2345点が収蔵され全国から多くのファンが訪れています。
50歳で家業をセミリタイアして江戸へ移り、全国地図の作成という偉業を成した伊能忠敬。一民間人であった彼が、なぜ幕府の一大事業を任されたのかというナゾは、いまも歴史ファンの想像力を駆りたてています。
記念館の展示室入口に飾られた「高瀬舟」は、その謎のカギを解くヒントのひとつといえます。江戸初期に利根川を銚子へとみちびいた「利根川東遷事業」により、利根川をさかのぼり関宿町から江戸川をくだって日本橋へとでる水運が確立されます。同時に利根川によって自然に堆積した砂利は佐原周辺の内海(香取海など)を埋立て、新田の開発が進められました。広大な新田で収穫された米は佐原に集められ、数百表の俵を積んだ大型の高瀬舟で大消費地・江戸へと運ばれたのです。
「国宝に指定された地図や測量器具をじっくり見て、本物でしか分らない細部を味わって欲しい」と語る学芸員の酒井一輔さん。
『 伊能先生の出生地である下総や上総の国では、広く算術を好む気風があった。各所の神社仏閣には、数学の難問を描いた額面が数多く奉納されている 』(意訳)と幸田露伴の忠敬伝はつたえています。九十九里の網元・小関家に生まれた三治郎(のちの忠敬)は数学や囲碁を好む早熟な少年でした。6歳のとき母が亡くなり、婿養子であった父は家を離れ三治郎は小関家に一人残されます。10歳で父の神保家に引き取られ、宝暦12年(1762)17歳で伊能家の婿養子となり、幕府の学問方総裁・林大学頭から論語にちなむ「忠敬」という名を与えられます。
妻となった伊能ミチは、すでに亡夫・景茂との子供・忠孝を生んでいました。忠敬が婿入りしたのはその7年後です。こうした複雑な生立ちが、粘り強い性格を育てたのかもしれません。
記念館の近くには、伊能家の旧宅が保存・公開されています。震災によって瓦が落ちたため屋根にはシートが掛けられ、内部の公開は中止されていました(8月10日現在)
当時の佐原村は月に6回の市(六斎市)がたつ物資の集散地であり、江戸からも利根川を使った香取神宮の参拝客が多く訪れ「江戸まさり」ともいわれました。その佐原を取り仕切ったのは「両家」と呼ばれる伊能家と永澤家でした。
17歳で当主となった忠敬は、家業の酒造業を拡大し江戸へ問屋を出すなど、永澤家におされ気味だった伊能家の再興に力を注ぎます。親族からのプレッシャーに負けじと奮闘する忠敬を支えたのは、伊能家の土蔵に残された蔵書や村の記録でした。特に4代前の当主・景利による22冊におよぶ「部冊帳」(佐原の歴史書)に忠敬は感銘を受けます。代々の名主をつとめた伊能家は、村の新田開発や河川改良工事を指導してきました。そして「部冊帳」を残した景利は、佐原の詳細な地図を作成した測量家でもあったのです。
伊能家の旧宅前から、佐原の水運を支えた小野川を遊覧する「小江戸さわら舟めぐり」。運営は第3セクター「ぶれ きめら」が行っています
忠敬27歳、安永元年(1772)に、江戸では田沼意次(たぬま・おきつぐ)が老中となります。経済を米本位制から貨幣本位制へ移行しようとした田沼は、商人に様々な新税を科しました。その影響は佐原にもおよび、水運の問屋機能を担ってきた伊能家や永澤家に対して運上金(税金)が求められました。
忠敬は代官や勘定奉行所との交渉を繰り返し、取り引きに関する過去の資料を提出して話を有利に進めます。あえて運上金を負担する道を選んだことで、伊能家は幕府公認の問屋になり、江戸での商売を拡大するきっかけをつかみました。
忠敬はこの成りゆきを「佐原村河岸一件」という議事録にまとめます。記録を元に実証を重ねることで幕府とも充分に渡り合えるという、近代的な意識の芽生えを感じさせる一件です。
天明3年(1783)浅間山の大噴火に前後して、東北や関東で数十万人の餓死者を出したといわれる「天明の大飢饉」が起ります。厚く積もった火山灰が利根川の川床を浅くして、洪水の頻発などで佐原も大凶作に見舞われました。
凶作をいち早く予見した忠敬は大阪の米を買付け、農民達に分け与えます。この迅速な対応により佐原は一人の餓死者も出さなかったといわれています。また測量技術を活かして利根川の堤防改修工事を行ったり、東北から逃れてきた人々へ食事や金銭を与えたり、災害時に備えた基金を設立したりと、永澤家と協力して莫大な私費を投じながら、民間の力による村の復興に尽くしました。功績により忠敬は38歳で苗字帯刀を許されますが、天災の最中に妻ミチを失います。
数々の天災や飢饉を乗り越えながら、忠敬は婿入りしてから隠居するまでの約30年間で伊能家の収入を3倍に増やし、ついには永澤家をしのぐ家勢を誇るようになります。
災害が一段落したころ、仙台藩医の娘・ノブを2番目の妻にむかえた忠敬は、お伊勢参りをかねて関西旅行に旅立ちます。後に貴重な史料となる「測量日記」のルーツともいえる「関西旅行記」を残しています。この頃の忠敬は江戸から歴史書や思想書、博物図鑑、偉人伝など様々な本を取り寄せ独学を進めます。なかでも「暦学」(天文学)は当時流行の学問でした。幕府は中国の暦書を元にしたこよみを改め、西洋暦学を取り入れた「寛政の改暦」を検討します。こよみの正確さは日食や月食を予知できるかどうかで証明されるため、地球の正確な大きさを知ることが不可欠です。それこそが忠敬を地図製作にいざなう原動力となったのです。
寛政5年。48歳の忠敬は佐原から江戸、駿府、伊勢神宮をへて、堺、大阪、姫路、京都をめぐる約3カ月の旅行記には、箱根や駿府、大阪などで方位や緯度を観測したデータが記録されています。
妻ノブの死をきっかけとして、忠敬は隠居して勘解由(かげゆ・伊能家当主の隠居名)を名乗り、江戸・深川に移り住みます。江戸には伊能家の支店があり、薪炭、米穀の他、貸家業も営んでいました。
さらに高度な天文学を学ぶため、忠敬は40歳年下の若き天才・高橋至時 (よしとき)の門徒となります。当時、江戸よりも天文学の進んでいた大阪で認められた高橋は、幕府に招集され浅草の天文台につとめました。大阪の豪商で高橋のパトロンとなった間重富(はざま しげとみ)も一緒でした。間は大金を投じて京都の職人に天文観測器具を作らせ、天文学書を購入したことでも知られます。忠敬も深川の自宅に天文観測器具を揃え、影で高橋を支援します。隠居してからもこうした資金を引き出せた忠敬は、伊能家にとってかけがえのない存在であった事がうかがえます。
【 当時、最新の天文書であった「暦象考成」は西洋の天文学を解説した本でした。すでに中国の暦学をマスターしていた忠敬は、高橋の元で「暦象考成」を学びはじめました 】
北極と南極を結ぶ「子午線の1度(=緯度の1度)」を正確に求めることで地球の円周や直径が分ると考えた忠敬は、深川と浅草を丹念に歩測しました。しかし「そんな距離で正確な数値は割り出せない」と高橋に指摘されます。たしかに測量する距離が長いほど、数値の正確性は増していきます(図参照)。ただし民間人が諸国を歩き測量することは許される訳もありません。ちょうどその頃、幕府はロシア船などから蝦夷地(北海道)を守るため正確な地図を作ろうとしていました。それを知った高橋は地図作成の名目で蝦夷地測量の許可を取り付けます。つまり伊能忠敬の地図作成は「長い距離を計測するため」にスタートしたのです。忠敬は幕府から蝦夷地まで船を用意すると言われたものの、海路では蝦夷までの距離を測れないため、役人と交渉し江戸から奥州街道を北上するルートを認めてもらっています。
寛政12年(1800)、忠敬は5人の助手をつれて江戸を出発し、約180日をかけて函館から根室周辺までを測量します。その際にかかった費用は約100両といわれ、8割方は自己負担でした。完成した地図は幕府に納められ、「改暦」を主導した若年寄の堀田正敦にも一部渡されます。
堀田正敦は佐原の近く、佐倉藩の藩主・堀田正睦の後見人でした。その影響で佐倉藩では蘭学(西洋学)が盛んになり、開国派の先頭に立った堀田正睦は、後年タウンゼント・ハリスとの「日米修好通商条約」の交渉にあたりました( Colla:J 8月号参考 )。
さて蝦夷地図の出來のよさは幕府にも注目され、第二次、第三次測量へと続きます。この頃忠敬は子午線1度=28.2里という数値を導き出しました。これはフランスのパリ天文台長・ジェローム・ラランデの天文書に記載された数値とほぼ同じでした。
江戸に来てから同居した内妻・栄は女流漢学者として知られる人物で、地図の制作や観測器具の目盛りの作成などで忠敬をサポートしたといわれています。
一度をさらに6分割した「半円方位盤」など、機器の精密性も地図の正確さを支えた重要な要素でした
【 伊能図の最終完成版は焼失してしまいましたが、記念館でそのプロトタイプや写しの実物を見られます。厚い和紙に繊細に書き込まれた線や文字から当時の気迫が伝わってきます 】
目標を達成した後も忠敬は幕府の要請により測量を続け、第四次測量の後ついに幕吏に取り立てられます。そして70歳になるまで測量の旅と地図制作を続けました。文政元年(1818)忠敬の死後4年目にして弟子達による「伊能図」は完成し幕府へ納められます。国家の重要機密として厳重に保管されますが、全国の諸藩にはその写しが残り、今に伝えられています。その後、伊能図が歴史に登場したのは有名な「シーボルト事件」です。長崎オランダ商館の医師・シーボルトは、西洋書と引き替えに高橋景保(高橋至時の長男)から伊能図を手に入れます。これを知った幕府によってシーボルトは国外追放、逮捕された景保は獄中で死去しました。シーボルトは密かに写した伊能図を元に日本地図を作成し、著書「NIPPON」に掲載します。はからずも伊能忠敬は西洋諸国の日本への感心を高め、開国に大きな役割を果たす人物となったのです。
幕末に、幕府開成所(東大のルーツ)から刊行された「官板実測日本地図」の版木(種子島の部分)。伊能小図を元にしています。伊能図は明治・大正に入ってからも様々な地図の基礎資料となりました
CAD時代のデザイン・
建築教育を考えるシンポジウム
「デザイン教育におけるCAD活用の現状とこれから」
Vectorworks教育シンポジウム2011
8月25日 品川コクヨホール(東京)
主催:エーアンドエー
今年で3 回目の「Vectorworks 教育シンポジウム」。CAD と建築・デザイン教育の関係や教育内容、CAD の新機能などについて、建築家や教育者たちが様々な角度から発表を行います。今回は被災地との関わりについても活発な活動報告がありました。
まず開催の挨拶にて「被災地に寄り添っていく活動を続けたい」と語るエーアンドエー・内田和子社長。今はVectorworksの無償提供活動をすすめ、現地へおもむき直接ソフトを手渡しています。
今年の基調講演には、建築家・伊東豊雄さんが登壇しました。山本理顕さん、内藤廣さん、隈研吾さん、妹島和世さんと共に「帰心の会」を結成し、被災地支援を行っている伊東さん。「事務所をスタートして40年、70歳になった矢先に大震災があって建築人生が一変した」と語ります。特に印象的だったのは仙台市宮城野区の仮設住宅で進む共同住宅「みんなの家」でした。高齢者の多い仮設住宅を訪ねたとき、縁側もひさしも無い家にはみんなの集まる場所がないと訴えられた伊東さん。コミュニケーションを生きる糧とする人達を前に、小さくても縁側があり将棋をさせる「家ってこういうものと思える住宅」に一度立ち戻ろうと考えたそうです。我々の建ててきた住宅とのギャップをどうしたら埋められるか? 若い人達と共に考えながら作りたいといいます。
「1カ月ほどかけてスケッチしたみんなの家は、ごく普通の切り妻の家。もうちょっと工夫できるのではといわれたけれど、あえて原点に立ち戻ってみた」と伊東さん。建築資材は、くまもとアートポリスを進める熊本県から提供されるそうです。
シンポジウムを主催したエーアンドエーは、教育支援プログラム「OASIS(オアシス)」によってVectorworksを導入した教育機関を支援しています。震災をきっかけに今年から「OASIS加盟校研究・調査支援奨学金制度」が誕生し、同社設立メンバーのひとり大河内勝司さんから第一回の奨学金が授与されました。大河内さん達が目指したのは「奨学金を学生に直接渡し、自由に使ってもらう」ことと言います。Vectorworksの使用やCADに有利な成果は求めない。ますます盛んになる「産学共同」の枠に縛られず、誰にも配慮する必要のない研究環境を守りたいそうです。今年の応募はまだ受付中で、研究・調査テーマは「この震災を次代に伝承していくために」です。
会社設立時の企業目的のひとつ「あとに続く世代をサポートする」を今こそ実現したいと大河内勝司さん
第一回授与者の専門学校ICSカレッジオブアーツ大石昴史さん・河埜智子さん、明治大学の高橋侑万さん
明治大学 理工学部建築学科准教授・田中友章さんは、等高線を立体化した模型を被災地に提供し復興計画に役立てた事例を発表しました。
金沢工業大学環境・建築学部講師・円井基史さんは、建築環境設計教育の一環として「熱環境シミュレーションソフト」を使った事例を発表しました。
コーディネーターをつとめた
東京都市大学准教授・河村容治さん
シンポジウム登壇者 女子美術大学教授・飯村和道さん、多摩美術大学教授・田淵 諭さん、東京造形大学准教授・上田知正さん、日本大学教授・桑原淳司さん、武蔵野美術大学教授・寺原芳彦さん
「美大でのデザイン学科におけるCAD教育」をテーマにしたパネルディスカッションが開かれ、まず各登壇者が行っているCAD教育の現状を発表しました。東京造形大学の上田知正さんは、展示会の出品作品として丹下健三設計「ピースセンター(広島平和記念資料館)」の原設計模型を作ったプロセスを紹介しました。学生達とピースセンターを訪ね実測したデータを活かしながら、CADを利用して図面を模型化していきます。また日本大学の桑原淳司さんは、利休の茶室「待庵」の展開図をつくり、それを原寸大に立体化して内部空間を実体験する授業風景を紹介しました。こうした試みにより実物の空間をイメージしながらCADデータをコントロールする能力が育つようです。一方大学でCADの使い方を教える意義についても論じられました。CADは手描きの代用ではなく、描くのが難しかったアイデアを3D(3次元)の造形力によって表現する手段でありたい。発想を豊かにする教育に力を注ぐべきという提言もされました。
今日も現役 横利根閘門
【 佐原の北部、利根川と横利根川の合流点には大正10年(1921)完成の「横利根閘門」があります。平成の大改修をへて90年たった今も現役で活躍しています 】
横利根閘門は利根川増水時の逆流を防ぐと共に、船の航行を可能にするため、当時最新の技術を投入しで建設されました。閘門には2カ所の水門が設けられていて、その間の「閘室」に船を導き、給排水バルブの操作により水位を調整して船を通過させます。近くの公園は液状化の被害が見られましたが、閘門は無事稼働中でした。今も年間1000隻以上がこの閘門を利用するそうです。
【 6月には、あやめ祭りで賑わう「水郷佐原水生植物園」。新田開発によって利根川や香取海(内海)を干拓してできた「十六島」と呼ばれる水郷を今に伝えています 】
【 「十六島」は佐原の市街地から水郷大橋を渡った、利根川下流の北側にあたります。水の豊かな稲作地帯であると共に、古くからたびたびの水害に見舞われてきました 】
十六島の農家には、水害と共に生きた人々の知恵の名残が残されています。今は舗装された道路は「サッパ舟」と呼ばれる小舟が行き交う水路(エンマ)でした。田園に点在する家々は田畑と水路に囲まれ、サッパ舟を足代わりにして移動しました。いざ洪水となると、平屋から生活用具や仏壇を持ち出して2階屋に避難します。1階の土間に米や麦を蓄え、2階の板の間にあがり、水が引くまで暮らしたそうで、洪水中の移動はサッパ舟で行います。なかには「水塚」という1〜4m程の盛り土をした2階屋もあります。このように、母屋の浸水を前提とした住宅プランがあることに驚かされます。
「水塚」の盛り土は、利根川の堤防とほぼ同じ高さになっています。普段は母屋の近くの水路にサッパ舟を浮かべ、農具や穀物を運んでいました
【 佐原駅南口の商店街。「街の駅 わいわい」は農家の野菜を直売しています。市役所など街の中心機能は北口に移り、利根川の埋め立て地だったため市役所も被害を受けました 】
【 十六島の田畑を埋立てたショッピングセンター。液状化により今も再開していませんでした 】
実相寺昭雄展 ウルトラマンからオペラ「魔笛」まで 川崎市市民ミュージアム
テレビ、映画、クラシックコンサート、オペラなど
様々なジャンルで活躍した、実相寺昭雄監督。
監督が永く暮らした川崎市の市民ミュージアムにて
2011年9月4日まで回顧展が開催されています
実相寺昭雄監督の仕事として最も広く知られるのは、1966〜68年に制作された「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」の作品群でしょう。ウルトラマンでは6本(脚本は全て佐々木守)、ウルトラセブンでは4本を監督しています。1937年東京四谷に生まれ幼少時代を中国・チンタオで過ごした実相寺監督は、早稲田大学文学部から一時外務省につとめますが思い直してTBSに入社します。大島渚監督にドラマの脚本を依頼したり、脚本家の石堂淑朗氏や佐々木守氏と出会い、ドラマや歌謡番組の演出をつとめます。しかしその大胆な映像手法は局内の批判をよび、円谷 一氏(後の円谷プロ2代目社長)の働きかけで、円谷プロの仕事を手掛けはじめます。
著書「ウルトラマンの東京」(1993年)のために描きおこした原画。
撮影現場を訪ねながら当時をふりかえった叙情あるれるエッセイ集です。
絵の巧さに感嘆しつつ、味わい深い書とペーソスの効いたコピーに感涙。
「宇宙人には、座布団をすゝめるべきか」はウルトラセブン第8話「狙われた町」の名シーンにちなんでいます
円谷プロでの第一作は、「現代の主役 ウルトラQのおやじ」(1966)という円谷英二氏のドキュメンタリー番組でした。自宅で家族とくつろぐ英二氏を窓の外から覗き込むように撮影したり、怪獣にインタビューさせたりと、後の作品にも多用される独特のカメラワークがドキュメンタリーに活力を与えています。ウルトラシリーズの後、実相寺監督は円谷プロの「怪奇大作戦」を4本手掛けます。京都で撮影した「京都買います」(脚本・佐々木守/主演・岸田 森)は、古都の名刹を背景にした美を見事に描き、ファンにも高く評価されています。またこの時代のスタッフ達が、実相寺作品を支えていくこととなります。
1970年TBSを退社し円谷プロの元スタッフを招集して「コダイ・グループ」を結成。ATGで長編映画第一作「無常」を撮ります。ロカルノ国際映画祭のグランプリを獲得し、脚本を書いた石堂淑朗氏にとっても代表作のひとつとなりました。
古い商家・日野家に生まれ、跡継ぎを拒否した主人公・正夫(田村 亮)。両親のいないある日、正夫は実の姉と関係をもちます。やがて姉に子を授かると、書生と結婚させて自分は住み込みで仏師に弟子入します。仏師やその若妻とも倒錯した共同生活を送る一方、正夫は石仏や仏像を真から愛し独自の仏教観を構築します。それを影から傍観してきた幼なじみの僧侶は、正夫と仏教の概念を闘わせますが ……。寺社や古い街並を背景にして、日本人の仏教観に肉薄した美しい作品です。
「無常」ののち、「曼荼羅」、「哥(うた)」とつづくATG 3部作が映像ダイジェストと共に展示されました。また実相寺作品の上映会や、寺田 農さん、田村亮さん、清水紘治さんなどが参加したトークショーやコンサートも開かれました
1978年からテレビマンユニオン制作の「オーケストラがやってきた」(司会・山本直純)のディレクターに就任し、音楽番組やクラシックコンサートの演出を手掛けはじめます。カラヤンとベルリンフィルの特別番組や、ホロヴィッツのピアノコンサート、小澤征爾と新日本フィルのコンサート演出・収録などを通してクラシック界との関係をふかめ、1995年には東京藝大演奏芸術センター教授に就任します。そして2000年、クラシック界での経験を集大成した東京二期会によるオペラ「魔笛」を演出します。こうした活動の中から、キャスリーン・バトルの歌う「オンブラ・マイ・フ」で一世を風靡したニッカウヰスキーのCMも生まれたそうです。
2006年、沢山のファンを悲しませた実相寺監督の死後、貴重な資料は知佐子夫人から川崎市に寄贈されました。会場の出口ではテレビのなかの監督が今日も微笑んでいました。
「魔笛」2005年公演で使用された衣裳は、漫画家加藤礼次朗さんのデザイン。監督との飲み会で突然依頼され、コンセプトを説明されたとのこと
angle 3
冷たいリノリウムの床が赤く染まっている。
凪は半ば閉じた目で、薄く笑う。
シロイノハラノヨウダ
そうね。この世界は白い野原のようなもの。
さよなら。
凪は丈に別れを告げると遠くを見つめた。
次はどこに行こうか …… 。
ホールで悲鳴が上がった
バチン。
舞台の照明が落ちた。
真っ暗闇の空間で。
丈役の青年が立っている。
右手に握った
刃渡りの長いナイフ。
血を滴らせて笑っている。
観客が立ち上がって
一斉に逃げ出す。
混沌をあなたに。
薄く儚いアルペジオ。
そして、悪夢の舌。
腰に手を当てて?
次は?
右?左だっけ?
「ああ。この世はシロイノハラのようだ。」
羽虫が言う。
その方角には何もないよ。
そっちもだめだよう。
混沌をあなたに。
大きな白い蛾の。
大きく太った腹が。
あなたを誘うように蠕動する。
楽屋で
カーテンコールを待っていた役者たちが
バタバタと倒れて行く。
倒れ、
そして …… 。
虚空に消えて行く。
月が綺麗な夜。
君が磔にされて、
今、僕のまえで焼かれようとしている。
こめんね。君を救えなかった。
明日のパンのために君を売ってしまった。
でも、なんてなんて、美しいのだろう。
月が綺麗な夜。
足の下に火が点いたね。
あっという間に燃え上がるね。
何度も僕を救ってくれた。
あなたの美しい手に。
火が燃え移っていく。
月が綺麗な夜。
苦しいね。苦しいね。
僕を見つめる君の瞳。
分かったんだね。僕の本性を。
見開くその両目に。
何度も投げキッスを贈ろう。
月が綺麗な夜。
君がパチパチと音を立てている。
タンゴを踊る君の脚。
美しいよ。
ほら皆も君を見ているよ。
君を慕っていた村のみんなが …… 。
月が綺麗な夜。
男も女も。
こそこそと欲望を押し包みながら。
欲情に濡れた目で君を見ているよ。
きつと君は優しすぎたんだね。
温かすぎたんだよ。
月が綺麗な夜。
今、君が死んだね。
君も良く知っている
僕の隣のおじさん …… 。
こっそりと。
いやらしい吐息を漏らしたよ。
ところで。
ところでお前 …… 。
さっきからずっと、
こっちを覗いているお前。
そんなところにいないで。
こっち来いよ。
ほら。
ほら。
白い野原が呼んでるぞ。
工房楽記
BC工房 主人 の ナツヤスビジネス inときのすみか(御殿場)
ナツヤスビジネス BC工房 主人 鈴木惠三
御殿場・時之栖(ときのすみか)の「老人と椅子」展会場をウロチョロ。温泉に入って、ビアホールをウロチョロ。と展覧会を楽しんでいる、
時之栖は広い、いろんな施設がある。いちばんはなんと言ってもサッカー場がど真中にあること。ウンがいいと「なでしこユース」の練習が見られる。近い将来の「なでしこジャパン」のメンバーになる女の子たちだ。
施設の中央部にある時之栖美術館はA・B・C棟の3棟の建物から出来ている。木造で「ふつうにぜいたく」である。会場で「老人と椅子」に座っていると、ウトウトしてしまうほどおちついたいい空間だ。
メイン展示の前島秀章さんの木彫は、ほんとにいい表情をしている。オイラの好きな木喰上人の仏像のように、やさしさがあふれているのだ。是非、観ていただきたい。
オイラの好きな木喰上人の仏像のように、やさしさがあふれているのだ。是非、観ていただきたい。
オイラは8月はいつもジャワ島の工房暮らしなんだけど、今年は御殿場の「時之栖」の展示会暮らし。
老人らしくおちついた8月?いやいや「老人と海」の主人公のように「若い者に負けないぞ、おもしろい椅子を作ってやる」の熱いキモチになっている8月です。
「遊びに来て下さい」
「1日1アイデア」がテーマです。
「老人と椅子」100脚に向けて、
「日々椅子」のオタクになっている。
「老人と椅子」展
2011年8月3日〜2012年2月末 9時〜18時/無休
時之栖美術館( 静岡県御殿場市神山719 時之栖内 )
TEL:0550-87-5016
新宿から直通バスもあります(左したのリンクをクリック)
前島秀章さんの木彫に見つめられている。お客さんの要望をその場でスケッチし、すぐ試作を作ることにした。椅子を買うとは思ってもみなかった人との、偶然の出会いが楽しい
【 全国から小学生が集まりサッカーの強化合宿を開いていた。時之栖はこのグラウンドをきっかけに10数年をかけて温泉、レストラン、ホテルなどを集約した総合施設に発展した 】
巨木をくぐり抜けると、日のふりそそぐ「ブックス&カフェ」。
引き取った家具の部材を再利用したり、高速バスの座席に使われるモールドウレタンを使ったり、クラシックのモチーフを取り入れたりと「老人と椅子」は常に挑戦的だ
スマートグリッド その3 「 家庭用蓄電池 」
今月21日で、83日間にわたる「家庭でも15%節電」励行が終わります。皆さんはどのような節電努力をされたのでしょうか。さて、スマートグリッド時代の到来に向けて各分野で開発が加速しています。そのなかでも特に重要な技術は蓄電技術だと私は考えています。スマートグリッドを構成する各分野の中で、蓄電技術こそが中枢技術となるでしょう。そこで今回は蓄電池の役割を紹介したいと思います。
新エネルギーといわれる自然エネルギー(太陽光発電、風力発電など)の発電力は、その日その時間の天候に大きく左右されます。電力会社から購入する電気のように一定の出力を維持できないため、そのままでは利用しにくいエネルギーです。ですから大型の太陽光発電所や風力発電所では大規模な蓄電設備を作り、いったん電気を貯めて平準化してから安定した電力として供給しています。
オンサイト発電(使う場所で発電する)の極致である家庭での発電も同様です(ただし燃料電池発電はエネルギー源がガスですから安定した出力が得られます)。このように新エネルギーで 「自前の発電」を安定的に使うには、適切な能力を持つ家庭用蓄電池が必要となります。我々にとって一番身近かな電池は、単一や単三といわれる乾電池です。乾電池は一次電池といわれ使ってしまえば充電は出来ません。しかし外形は乾電池と同じでも「エネループ(商品名)」のように繰り返し充電できるものを二次電池=蓄電池といいます。蓄電池といってすぐイメージできるのは自動車のバッテリーです。車のバッテリーはエンジンの出力で発電機を回して電気を貯め、スパークプラグやヘッドライト、エアコン等、車載機器の全てを作動させます。ところが家庭用のバッテリーとなると、どんなものかイメージできませんよね。その通りでメーカーの中でもまだ実験段階を出るかでないかで、市場に出回るまでにはいたっていません。大型蓄電池の実用化はEV(電気自動車)の方が先行しているのです。
今回の東日本大震災で関東・東北は深刻な電力不足に陥り、分散型発電の重要性が見直されました。車で持ち運べるHONDAの小型発電機(ガソリンなどで発電)等は注文が殺到し、生産が追いつかない状態です。まだ商品化は早いと思われていた家庭用蓄電池も災害需要におされ、急遽発売した中小メーカーもいくつかあります。しかし非常時対応の域を出ず、実生活に組み込まれ継続的に使われていくレベルにはいたっていません。一方、大手電池メーカーは開発速度を上げて発売の前倒しを目指していますし、ハウスメーカーも採用を検討しています。
家庭用蓄電池を理解する上でもう一つのポイントがあります。家庭で使われる電気機器は、大半が直流(以下DC)で動いています。エアコンや冷蔵庫、洗濯機等も、省エネのためにインバータ化されてDCで動いています。パソコン等も当然DCです。ところが家庭のコンセントから出てくるのは交流(以下AC)です。使用する家電製品の中でACをDCに変換して使っているのです。
AC→DC変換の度にロスが発生しますから、何とも無駄なことをやっているのです。なんで家庭の中にDCコンセントが無いのでしょうか? これは私にとって昔からの疑問です。送電にACを採用しているのは、ACは電圧の変換が容易なためだそうです。水力・火力発電所で発電される際はDC発電ですが、遠方へのDC送電はロスが大きいため、ACに変換して超高圧で送電します。そして電気が使われる場所近くの変電所や電柱上トランス(変圧器)で徐々に電圧を落とし200V〜100Vにして家庭に入ります。ですから家庭用蓄電池へは電力会社の電気をDC変換して蓄電します。その一方、元々DC発電である新エネルギー系の電気はそのまま蓄電されるので効率的です。
前回掲載したスマートグリッド時代の住宅イメージ図はAC、DCの系統を分けていませんので改めて系統分けしました(右図)。
電力会社から電気を買わないで自前で発電する「創エネ」分野では、太陽光発電や燃料電池発電が普及してきました。創った電気を大切に使う「省エネ」分野では、デジタル家電やLED照明等が急速に家庭に入り始めています。しかし「蓄エネ」分野はまだまだこれからで、特に家庭用蓄電池の開発は本格化したばかりです。蓄電技術の発展はやがて私たちの暮らしを変え、社会インフラを根本から変革します。注目して見守っていきましょう。
もう一つお話ししたい事があります。私の予測では、来夏、政府からの節電要請は今夏の15%を大幅に上回り、25〜30%程度の削減要請が打ち出されると思います。この数値は照明を消すとか家電製品の待機電力の節減程度では達成が出来ないレベルだろうと想像できます。今から来夏に向けての対策をそれぞれが考え、春には対応の準備が整う様にしなければならないと思います。