コラージは下記オフィシャルサポーターの提供でお送りいたします
|
Colla:J について
|
定期配信のお申込み(無料)
|
オフィシャルサポーター
|
プライバシーポリシー
2012金銀宝典スペシャル
日本銀行金融研究所 貨幣博物館をたずねて
貨幣は歴史のかたりべ
紀元前8世紀頃から使われた中国の青銅製貨幣。畑で使う鋤(スキ)や、木簡などを削る小刀をモチーフにしています。
貨幣は価値観を示す
貨幣はモノの価値をやりとりする道具として、人類とともに歩んできました。今月は日本銀行金融研究所「貨幣博物館」を訪ね、貨幣のはじまりから日本銀行券の誕生までを追いました。
貨幣の起源は「物品貨幣」といわれ、稲籾や砂金、矢じり、貝殻などが使われました。物品貨幣の条件は、① 誰もが欲しがるもの、② 集めたり分けたり出来て任意の値打ちを表すもの、③ 持ち運びや保存の容易なものといわれています。このように貨幣の変遷は「人々が魅力や価値を感じたもの」を示すプロダクトの歴史でもあるのです。
紀元前7〜8世紀頃、中国や中東、ヨーロッパでの国際交易が盛んになると共に、金・銀・銅などの金属貨幣が登場します。
トルコ西部の王国リディアでは、大粒の砂金に動物の顔などを金属型で打刻した「打刻貨幣」がつくられます。これらの素敵なコインは異国人との交易をスムーズにしたことでしょう。
一方中国では銅を鋳造した「鋳造貨幣」がつくられます。紀元前3世紀、秦の始皇帝は「半両銭」を発行し全土に流通させることを目指します。強大な権力による通貨統一のはじまりです。
貨幣は「顔」が命です
打刻貨幣はギリシャ・ローマへと伝わり、各地の都市国家で、皇帝や英雄、神々の姿を刻印した銀貨や金貨が盛んにつくられました。偉大な人物や神々の「顔」は信用の証となり、やがてローマ帝国によって通貨は統一されていきます。
貨幣は様々な姿に
中国では唐代(7〜10世紀)以降、産業・商業が発展し、宋代に入ると膨大な量の銅銭や鉄銭が発行されます。またイスラム交易などで流入した銀によって「銀錠」がつくられ、四川地方では世界初ともいわれる紙幣「交子」が、銭と交換できることを約束した兌換(だかん)紙幣として発行されました。商業の発展や人々の価値観の変化とともに、貨幣は様々な姿に変わっていったのです。
統一の夢果てて渡来銭へ
奈良時代・和銅元年(708)、日本の朝廷は唐の「開元通宝」を手本として「和同開珎」を発行しました。通貨を流通させ支配力の拡大を試みたものの、実際は畿内(京都・奈良大阪など)にしか流通しませんでした。権力の衰えとともに銅銭の価値はさがり、10世紀末には稲籾や絹による「物品貨幣」の時代へと後退します。
平安時代に入ると農業や手工業が発展し、北宋の滅びた12世紀半頃から、中国から大量の銭(渡来銭)を、砂金や水銀、硫黄などと引き替えに輸入し始めます。これと共にわが国の貨幣経済は一気に拡がります。室町時代以降も大量の銅銭(主に明銭)が流入しますが、経済の拡大に応じた量は満たせません。そこで有力諸侯や大商人等が渡来銭を真似た「私鋳銭」を国内で鋳造します。質の劣る私鋳銭は「びた銭」と呼ばれ、渡来銭より安く扱われました。
貨幣博物館では、年代順に展示された実物の貨幣を見ながら、その歴史を体系的に学べます。開館時間は9:30〜16:30(入館は16:00まで、月曜・祝日、年末年始休館)、入館無料です。
卓上のきら星たち 特☆編 羊はライオンを生んだ
大原千晴
食卓できらりと光る銀食器。文字通り卓上のきら星たちです。本号の特集は「貨幣」すなわち「お金」の世界。で、今回は新年号特別編として、「銀器」と「貨幣」の意外なつながりについてお話いたします。
その昔、英国の銀貨は純度(品位)92・5%の銀で作られていました。残りの7・5%は銅だとお考えください。この純度の銀をスターリングシルバーと呼びます。イングランドの王権によってこの基準が定められたのは12世紀に溯ると言われます。今から9百年近く昔の話です。この当時、通貨となる銀について王権が統一基準を定めることになったのは、わけがあります。幾つか説がありますが、次の仮説が一番有力です。
この少し前頃から英国で羊毛の輸出が伸び始める。輸出先は欧州大陸、特に当時欧州全域で最も経済の先進地だったフランドル向けの羊毛輸出が盛んになっていく。やがてフランドルの商人が定期的にイングランドの産毛地帯を回って買い付けるまでになる。このとき羊毛の代金としてフランドルの商人は大陸から持ち込んだ銀もしくは銀貨を使用した。
しかし、その銀及び銀貨は、純度が様々で、その多くは当時イングランド流通していた銀よりも純度が低かった。経済の先進地であるフランドルの商人はそのからくりに気づいていた。で、純度の違いを無視して、重さを量って、英国の純度の高い銀同様の価値で、大陸の質の低い(低純度の)銀貨で、羊毛の代金を支払った。こうして羊毛の輸出が伸びれば伸びるほど、イングランドには、大陸の純度の低い銀が流入していくようになる。
その一方でフランドルの商人たちは、イングランドに対してモノを売るとき、銀で支払いを受けた。そのとき、ごく当然のことのように、イングランドの質の高い銀での支払いを要求した。羊毛輸出が伸び、これに応じて、イングランドへの大陸からの輸出も伸びていく。こうして国際交易が活発化すればするほど、島国には、従来よりも低純度の銀が溜まっていくという結果に至る。ここではじめて、事の重大さに王様も気づいて愕然とする。で、輸出入に伴う代金のやりとりを監視し、イングランドから不当に貴金属が流出していくのを防ごう、という発想が生まれてくる。その手始めに行ったのが、王国の銀の統一基準スターリング制定という一大事業だった。要するに、貿易の活発化という事態を通して、イングランドは初めて「国際貿易のからくり」と出会い、その過程で初めて、貴金属貨幣の純度統一の重要性を知った、ということになります。
こうして誕生したスターリング基準は、以来英国の「銀の基準」として現代にいたるまで続く、重要な役割を果たすことになります。
注目すべきは、この基準が適用されたのが通貨(銀貨)だけではなかったという事実です。スプーンやお盆など銀の工芸品を作る金銀職人のギルド(1300年創立)もまた、銀器はこのスターリング基準の銀を素材としななければならないという規則を作り、これを厳しく守り続けていくことになったのです。
ところで、ヘンリー八世(在位1509〜47)の治世下、王権は何度かに渡って、銀貨の銀の純度を引き下げます。銀の純度を引き下げても、「1ポンド銀貨」は1ポンドの価値があるものとして流通させる。要するに政府によるごまかしです。歴史を振り返れば、我が国を含めて、どこの国でも起きている事態で、政権がこれを行うとふつうインフレになります。ヘンリー八世のときには、一時、銀貨の銀の純度が30%を切るほどにまでに銀貨の質を低下させたようです。事態のあまりのひどさに当時、こんな皮肉な歌がロンドンで流行しました。
「王様の鼻は真っ赤か。コインの色も真っ赤か。銀貨のはずが真っ赤か。」要するに、銀貨と言っても銀の割合が3割、残りの7割が銅すなわち「あかがね」であるため、銅の地色が優ってしまって、「あかい色の銀貨」になっているという皮肉です。
では、このとき、金銀職人組合のギルドは、どうしたのか。立派なことに、スターリング基準を守り通します。王権の発行する銀貨の純度が3割を割り込もうという時に、ギルドは従前どおり92・5%基準の銀を素材として、銀器を送り出し続けます。政府が発行する通貨よりも、ロンドンの金銀職人組合が送り出す銀器の銀の純度(品位)の方が信用できる。ロンドンの金銀職人ギルドと、ここから派生的に生まれた市場に出回る銀器の質を監査するアセイオフィス。このふたつの「民間の機関」が、政府よりも信用できる。この時の経緯は、ロンドン銀器に対する絶大な信用が生まれた、ひとつの基礎となっていきます。
これを象徴するのが「ホールマーク」(hallmark)という言葉です。現代の英語で「折り紙つき」(信用度満点)という意味。語源をたどればこの「ホール」とは、金銀職人組合のホール(組合会館)を意味しています。ところで、欧州の銀器には、それが純銀の品物(銀メッキでないという意味)である限り、必ず刻印が打たれています。その筆頭格にある英国の純銀製の工芸品には一般に、次の4つの刻印が打たれています。
① 純度刻印(standard mark)
② 産地刻印(assay mark)
③ メーカー刻印(maker's mark)
④ 年号刻印(date letter)。
①は純度92・5%の銀であるスターリングシルバーを表す「ライオンが左を頭に歩く姿」が刻印されています。「ライオンの刻印」があれば、銀メッキじゃなくて純銀の品、というわけで判別は簡単、信用の証です。
こうして、政府発行の銀貨にも勝る信用度を保持し続けてきた英国の銀器。その品質を監視し続けてきたのが、アセイオフィスです。このアセイ(assay)の刻印なしには、市場に銀器を出すことが許されません。では、アセイの検査官には、誰がなったのか。金銀職人組合の親方職人の中から、経験豊富で信頼の高い人物を互選で選びました。これが組合の外側から、自らの出身母体の親方たちが市場に出す銀器を検査する。組合(ギルド)の自浄努力の賜物、民間の組織です。
毎年2月、王室造幣局が金銀職人組合のホールに検査用の通貨(金銀貨幣)の入れられた箱(PYX)を持ち込みます。これをアセイの検査官がその組成に間違いがないかどうか、検査する。これを"The trial of PYX"と呼び、伝統ある格式高い儀式として挙行され続けています。民間の組織が政府発行の通貨を検査する。英国という国家におけるチェック&バランスの理想形をここに見る思いです。
というわけで、歴史的に見て銀器と銀貨は表裏一体と言ってもいい密接な関係にありました。そのため骨董銀器専門商として私は、否が応でも、金貨や銀貨の歴史を勉強せざるを得ませんでした。あんなに勉強したのに、金貨や銀貨がちっとも手元に溜まらない。不思議です。でも、その過程で、沢山の面白い話に出会うことが出来ました。まだ幾らでもお話したいことあるのですけれど、新年早々の長話は野暮というもの。今日はこれくらいにしておきましょう。次回はまた「おいしい食卓」のお話に戻りたいと思います。皆様の2012年が、金貨銀貨ザクザク一杯の素晴らしい一年となりますように。
貨幣をたずねる小さな旅
秩父・和同開珎のふるさと
秩父鉄道・和銅黒谷駅のホームには、大きな「和同開珎」のモニュメントが置かれています。ここから里山の道を歩いて1kmほどの所に、和銅の露天掘り跡があります。
露天掘り跡を流れる沢は「銅洗堀」と呼ばれ、ここで採掘した銅鉱石を洗い清めてから、都に送ったといわれます。
和同開珎の誕生には諸説あり「武蔵国秩父で自然銅が発見・献上され、それをきっかけに年号を和銅にあらため、はじめに銀銭を、次に銅銭を発行した」(続日本紀より)ともいわれています。
和同開珎に続いて「皇朝十二銭」と呼ばれる銭が次々と発行されます。朝廷は貨幣を沢山所有した者に位(くらい)を与えたり、土地の売買を貨幣で行わせたり、貨幣によって納税させるなど様々な政策をとりますが、金属貨幣という新しい価値観の浸透には、長い歳月が必要でした。
狭い山道を登ると、露天掘りの跡が見えてきます。
和本や書画などの古典籍を扱う「東京古典会」が、創立100周年記念イベントを開催しました(東京古書会館にて10月2〜3日)。和本の世界を紹介する貴重書展(江戸川乱歩のコレクションなど)やロバート・キャンベル氏のトークライブが開かれるなか、アダチ版画研究所による「浮世絵 摺りの実演と体験」が行われました。
摺りの実演を行ったアダチ版画研究所は、昭和3年、安達豊久氏によって創業されました。東洲斎写楽の全作品144点の復刻や、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」、「諸国滝廻り」、歌川広重の「名所江戸百景」、「東海道五十三次」の他、没後150年で注目された歌川国芳などの復刻を手掛け、内外から高い評価を受けています。
摺り師の京増(きょうそう)さんが壇上にあがり、道具の支度を始めました。今回は北斎の「冨嶽三十六景」から人気作「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」を摺ります。竹皮を編んだ細い縄を螺旋状に巻いて作られる馬連(ばれん)は摺り師にとって一番大切な道具であり、日本独自の技術です。
浮世絵は版元・絵師・彫り師・摺り師の共同作業で作られます。版元(現在の出版社)は、時々の世相から売れそうな題材を選び企画を立てます。「冨嶽三十六景」シリーズは江戸後期の富士講ブームをねらった企画として、永寿堂から北斎に依頼されました。当時の絵師は輪郭線だけの下絵を描き、彩色した肉筆画は描きませんでした。下絵が出来ると彫り師はそれを版木に貼り「主版」を彫ります(彫ることで下絵は無くなります)。
絵師は主版を摺ったものに色の部分を指定し、それを元に彫師が色版を彫り上げます。すべての版木が揃うと版元と絵師が立ち会い、色の指示をして完成図を摺りあげます。優れた絵師は摺りの効果を最大限に引き出す能力にたけていたのです。
「冨嶽三十六景」は流行色の「ベロ藍」(ベルリンの酸化コバルト青)を使い、遠近法による大胆な構図が人気を呼びました。
摺りの実演中、アダチ版画研究所の中山 周さんよって浮世絵の技法や時代背景などの解説が行われました。浮世絵は江戸庶民の娯楽であり、売れない絵は初版(数百枚)だけで消えてしまうことや、版元は長く続かない所が多く絵師のギャラも安かったことなど、現代の出版界にも共通する部分が多いと感じました。
実演の後、いよいよ体験会です。実物より小さな「神奈川沖浪裏」の主版だけを摺りました。まずは和紙の持ち方から教わります。絵の具を木版に刷毛でならしから、和紙を置くところで緊張します。見当に合わせて置こうとしてもなかなか合いません。馬連で擦る感覚はとても気持ちいいものでした。ただし紙の裏側まで浸透するように力を入れて摺らないと、右のように掠れてしまいます。
オリジナルの浮世絵は美術品として高価な値で取り引きされていますが、本来はアイドルのブロマイドや風景写真集と同じ感覚で作られたものです。江戸時代の制作者達の意気込みを想像しながら、現代の浮世絵を気軽なインテリアアートとして飾るのが、一番浮世絵らしい楽しみ方だと感じました。
もらってうれしい金と銀
16世紀に入ると一段と経済は発展し、城下町の楽市・楽座や六斎市など、商取引や物流が活発化します。そのなかで各地の戦国大名たちは、軍資金や家臣への報奨として金貨や銀貨を活用しました。石見銀山をはじめとして、東北から九州まで活発な鉱山開発が行われ、鉱山は戦国大名の力を左右する要素となりました。金銀によって大勢の家来や武器を迅速に調達することが出来るようになったのです。
この時代の金銀貨は「秤量貨幣」(重さを計って取り引きされる貨幣)でした。1個1個の重さはバラバラで、必要な分だけ切り刻んで取り引きされました。特に西日本では商業の発展と共に銀貨が人気を得て、 丁銀(ちょうぎん)と呼ばれるナマコ型の銀貨は江戸時代半ばまで主要な貨幣として使われました。
また「古豆板銀」のような、少額の支払いに便利な小型の銀貨も登場しました。
貨幣体系のはじまり
甲斐の武田家が発行した「甲州金」は、日本で初めて体系的に整備された金貨といわれています。 【 1両=4分=16朱=64糸目 】という4進法による単位を定め、それぞれに額面が打刻されています。これは「秤量貨幣」とは異なり、額面により通用する「計数貨幣」で、江戸の貨幣制度にも応用されました。鉱山資源を最大限に活かし、領内経営に卓越した能力を発揮した武田信玄の先見性がうかがえます。
天下統一と貨幣統一
関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、織田信長や豊臣秀吉も成しえなかった貨幣制度の統一を目指します。江戸幕府以前の貨幣は、① 戦国大名によって発行された領国貨幣(金・銀貨など)、② 西日本の商人などが使用した銀貨(秤量貨幣)、③ 庶民が使用した渡来銭やびた銭、といったものが入り組んだ状態でした。それをまとめるため幕府は独自に貨幣を発行し「三貨(金・銀・銭)間の公定相場」を制定します。天下統一は、貨幣統一と挌闘する歴史でもあったのです。
伊勢から生まれた紙幣
日本初の紙幣を発行したのは、伊勢神宮の門前町「山田」の商人集団といわれています。1600年頃、山田の商人は丁銀などの釣り銭の預かり証として「山田羽書」を発行しました。このような「私札」のほか、各藩の「藩札」も流通するようになります。
上の山田羽書には、札と引き替えに丁銀5分(1.875g)を渡すことが記されています。私札や藩札は、実物の金・銀と交換できる兌換(だかん)紙幣の一種です。金貨や銀貨を切ってから渡すよりも遥かに便利でした。
一方イギリスでは、金・銀の工匠たちが「金匠」手形を発行し1640年頃には紙幣として流通しはじめます。
スウェーデンでは銀の不足から大型の銅板貨幣を発行しますが、あまりに重く不便なためストックホルム銀行はその代わりとなる世界初の銀行券を発行しました。
幕府の威信 小判
徳川家康は江戸に幕府をひらく以前から、伊豆や佐渡などの金を背景にして、甲州金のような「計数貨幣」による金貨中心の貨幣経済を構想しました。そこで武田家の元家臣・大久保長安を重用し、各地の鉱山を奉行として管理させます。また京都の彫金師・後藤庄三郎を招聘し「小判座(金座)」を設立。「一両」の額面を打刻した計数貨幣「小判」を量産しました。しかし大坂では銀を中心とした秤量貨幣が主流で、庶民には渡来銭(1枚=1文)などが浸透していました。
「東の金遣い・西の銀遣い」といわれるように、東西の貨幣に対する価値観には隔たりがありました。そこで幕府は「銀座」で丁銀を製造し西日本に流通させます。こうして幕府は金・銀・銭を同時使用する制度を確立し、三貨間の公定相場を定めます。しかし実際は、相場は日々変動し、三貨を交換する両替商が活躍しました。彼らは江戸・大坂間の送金に使われた手形の発行や金貸し業など銀行の役割も担うようになり、莫大な利益をあげます。
禁断の果実「改鋳」
宝永に行われた改鋳では、小判の他に丁銀や豆板銀の改鋳も行われました。宝永永字丁銀(銀含有量41.60%) → 宝永三っ宝丁銀(同32.65%)→ 宝永四っ宝丁銀(同20.40%)と1年ほどで含有量が大幅に減ったため銀相場は混乱し、大坂の商人に大きな打撃を与えました。
17世紀末から、幕府は財政難や金・銀の不足などを解決するため8回にわたる「改鋳(かいちゅう)」を行います。改鋳とは金・銀貨を回収して溶かし、品位をコントロールしてから再び鋳造して流通させる手段です。
例えば前ページ、1601年の「慶長小判」は、
重量17.9g、金含有量15.0〜15.5gです。一方、1710年に改鋳された「宝永小判」は、重量9.4g、金含有量7.9gと約半分になりました。改鋳により幕府は膨大な差益を生みだし一時は財政を立て直します。江戸後期になると、さらなる財政悪化から幕府は改鋳を繰り返し、貨幣の価値が下がることによるインフレにより庶民は苦しみます。
一方、長崎の出島からは、オランダや中国との交易により大量の金・銀・銅を輸出したため、幕府は1715年に来航船数を制限します。鎖国により交易の場を出島に限ったのは、貿易の利権を独占しながら貨幣の流出をコントロールする意味もあったようです。
ハリスの言い分
嘉永6年(1853)、ペリー来航により日本は開国を迫られます。「日米修好通商条約」締結のために来日したタウンゼント・ハリスは、まず銀貨交換レートの改定に取り組みます。それまでの、
天保1分銀1枚=メキシコドル銀貨1枚を
天保1分銀3枚=メキシコドル銀貨1枚に
するよう幕府に求めます。メキシコドルの銀含有量は約24.5g、1分銀3枚は約25gとなり、貿易商でもあったハリスは「同種同量交換」(金は金、銀は銀の同量を交換する)は当然のことと主張します。しかし独自の貨幣制度を200年以上続けてきた日本にとって、それは様々な問題を引き起します。
当時、江戸幕府の定めた金と銀の交換レートは1:5と、国際基準の1:15よりも著しく金の価値が低いものでした。そこで欧米の商人たちは大量のメキシコドルを日本に持ち込み、小判と交換してから海外に持ち出して莫大な利益を得ました。それを阻止しようとした幕府は、金の含有量を1/3におさえた万延小判を発行します。しかし万延小判はハイパーインフレの引き金となり、倒幕の気運を加速することとなります。
新時代を告げた
新しい紙幣たち
明治元年、明治政府は全国通用紙幣として「太政官札(だじょうかんさつ)」を発行しました。この時の単位はまだ「両」で、デザインは藩札のようです。
「太政官札」や「民部省札」は金属版で印刷されましたが、偽札も多く出回りました。江戸時代から続く金・銀・銭や藩札も同時に流通したため、通貨制度は混乱を極めたといわれています。
明治4年(1871)5月に「新貨条例」を制定した明治政府は、十進法による新しい通貨単位「円」を採用し、明治5年、新紙幣「明治通宝札」を発行します。これはドイツのドンドルフ・ナウマン社で印刷された色鮮やかな紙幣で「ゲルマン札」とも呼ばれました。
新貨条例が制定された明治4年の7月には、明治の一大改革といわれる「廃藩置県」が行われます。各藩が発行した藩札の「円」への引き替えは、全て明治政府が引き受けると通達され、藩札と新紙幣の交換が約束されます。これによって旧藩主たちは債務問題から解放され、内乱にも発展しかねなかった藩の廃止を円滑に進める要因になったともいわれます。
「両」から「円」の交換レートは基本的に1両=1円でしたが、藩札の交換レートは、廃藩置県の際の各藩の藩札発行高などを考慮して定められ、財政状態の悪い藩の藩札は安い値を付けられることが多かったようです。
明治5年「国立銀行条例」が制定され、第一国立銀行(みずほ銀行の前身)をはじめとする民営のナンバー銀行が全国で153行も設立されます。第一国立銀行の実質的な創業者となったのが大蔵官僚をやめた渋沢栄一でした。全国の国立銀行はそれぞれ独自に紙幣を発行しましたが、その絵柄は同一で銀行名や頭取の名前だけを変えていました。
明治8年、ドンドルフ・ナウマン社で紙幣の銅板画を手掛けていたイタリア人・キヨソネがお雇い外国人として招聘されます。キヨソネは紙幣の国産化を指導し、明治14年日本初の肖像入り紙幣「神功皇后(じんぐうこうごう)札」をつくりました。その後も紙幣・切手製造技術者の育成に尽力しています。
日銀とジョサイア・コンドル
明治10年に起った西南戦争の戦費を調達するため、大量の政府紙幣や国立銀行紙幣が発行されます。これは激しいインフレを招き、通貨の発行管理を一元化することが急務となりました。そこで明治15年(1882)、中央銀行として日本銀行が設立されます。
日本銀行誕生の地は、北海道の物産を紹介するショールーム「旧北海道開拓使出張所(開拓使物産売捌所)」でした。永代橋にあった2階建煉瓦造ベネチアン・ゴシック風のこの建物は、工部大学校(現東大工学部建築学科)教師時代のジョサイア・コンドルによって設計されました。
明治14年の竣工後間もなく開拓使が廃止されてしまったため、翌年に日本銀行として利用されたのです。日本銀行金融研究所アーカイブには、コンドルによる貴重な図面が保管されています。
日本銀行は明治18年(1885)、最初の日本銀行券「大黒札」を発行します。これは銀貨と交換できる兌換銀券でした。
明治29年(1896)、江戸時代の「金座」(小判などの鋳造所)の跡地に、レンガと石を使ったおなじみ「日本銀行本店」が竣工します。上空から「円」の字に見える重厚な建物を設計したのはコンドルの弟子である辰野金吾でした。
そしていま、貨幣は電子化の時代を迎えました。「お金」の姿やカタチはますます多様化していくことでしょう。人々の貨幣に対する価値観は、これから何をより所にしていくのでしょうか。
フードコートブルースBC工房 主人 鈴木 惠三
11月から12月はジャワの工房暮らし。
新作デザインの椅子を5点も作れた。
雨季が始まり、1日1回は雨が降る。
ムシ暑い日々の季節だ。
おいしいマンゴーは、もう終わり。
ドリアンの旬だ。
オイラはどうしてもドリアンは苦手だから、食べない。というより食べられない。
工房には、大きなドリアンの木があって、
デカイ実が屋根に落ちる。
瓦が割れるぐらいカタイ。
熟れて落ちたドリアンを、皆はおいしそうに食べる。
うまそうだから、何度もチャレンジしたが、ダメだ。
「12月はドリアンが食えない」の、悔しい思いの季節だ。
いつもだが、ジャワとの行き帰りは、シンガポールで2~3泊するようにしている。
活発に動いている感じがする、この都市が好きだ。
アジアの数多くの大都市の中で、オイラはシンガポールが、いちばん好きである。
人種のミックスと言うか、欧米とアジアのミックス。
アジアの大都市は、年々こうした傾向が強い。
どの都市も、東京よりも、外人が多い気がする。
「チャンプール」
そうした中で、やはりシンガポールは、いちばんのチャンプールシティだ。
「文化が、ない。」なんて、失礼なコトを言う人がいるが、シンガポールの「欧米アジアミックス」の文化は、
これからの地球地域文化の先端にあると思う。
シンガポールでは、いいホテルに安く泊まり、
「近くのフードコートで食事をする。」のが、オイラ流。
「フードコート」は、いたるところにあるので便利である。
何を食べようか? 食事も世界中ミックス。
安くて、変わったモノを、はしごする。
カッコつけず、気ままに、ゆったり出来るのがいい。
しめは、いつもの「ティー・ウィズ・ミルク」
「まだまだ鎖国日本」へ、帰る心の準備を、
インターナショナルなフードコートで、メシを喰いながらするのだ。
「フムフム、もうすぐ、温泉に入れるぞ。」
赤い月の夜に
2011年12月10日、TIME & STYLE MIDTOWN(六本木)にて恒例のケイ赤城Christmas special Jazz Liveが開かれました。このライブは毎年、客席とプレイヤーの仕切りのない店内にて、TIME & STYLEの家具でくつろぎながら演奏を楽しみます。こうした環境に「大きな価値」を感じるとケイ赤城さん。
仙台に牧師の子として生まれ、4歳のとき渡米した赤城さんは、10代の頃帰国し、青森県・弘前の高校時代にJazzと出逢います。国際基督教大学(ICU)を卒業後、再び渡米し、哲学を学びながらジャズプレーヤーの道を歩みはじめました。今回のライブは、生まれ故郷への思いをこめた演奏となりました。
水谷壮市展
空間の中の一本の棒。
TIME & STYLE EXISTENCE(南青山) では、デザイナー水谷壮市さんの個展が開かれました(2011年12月2日〜25日)。
それでも 地球は 回ってる
野田 豪(AREA)
[桜は嫌い]
ウサギはいつも怒ってる。幼いころ滑り台から友達と絡まって落ちた時、喉をけがして、それ以来彼女はしゃべることができない。だから、コミュニケーションは態度で表現して伝えるしかない。
なかなか分かってもらえないから、自然と乱暴になる。もーなんで?って感じで。といっても手話は面倒だから、携帯に打ち込んで相手に見せる。例えばある日、家のそばのコンビニで『きのこの山はどこですか?』ってバイトの男に見せたら大笑いされた。小学生のウサギは自分の赤いスカートをギュっと握りしめるしかなかった。例えばある日、デパートで『トイレどこですか?』って聞いたら、そのおじさんに男子便所の個室に連れ込まれそうになった。助けてを言えないから、そうなるとどうしようもない。たまたまそれを見てた通りすがりのおばちゃんに助けてもらったけど …… 。そんなんばっかりの人生。「大したことじゃない」その時親にそう言われて、包丁を振り回した。夕方の台所。窓から差し込む赤い西日。なんで私ばっかりこんなんなの?そんな毎日が …… っていうか、そもそも生きてる事自体がめんどくさいから、何百回も死のうと思った。何千回かもしれない。特に桜の季節が無性に嫌いだ。なんでだろ。自分は変わらないのに、周りがどんどん成長していくように見えるから、かな。
[決行日和]
薄曇りの18歳の誕生日。最初の授業。クラス替えがあったって同じ。新学期のみんなの笑顔。これから起こる高校最後の一年にワクワクしてる顔。また同じクラスだね、キャーって言って抱き合う女子たち。ひそひそと何かを話し合う男子たち。 ……うんざり。もうほんとに …… 全部壊したい。クラスの窓から見える海をぼんやり見つめた。防砂林の向こう。どんよりした暗い雲の下。遠目にも海は荒れていて、校庭の桜は満開で …… すごく不吉にキレイで…… 。ああ。今日だ。って自然に思った。スゴク静かな気持ち。授業中に席を立った。カタンって音がして、みんながこっちを見た。古文の先生が「 …… 兎戸沼さん?」って言ったけど無視した。後ろ手でクラスの戸を閉めた。蓋をした。
[春のテトラ]
でも土壇場で迷いが出た。もしかしたら、この先にいいことがあるかもしれないって。テトラポッドの上で荒れた波に吸い込まれそうな体と暴れる心を必死に抑えてたら、後ろから声をかけられた。「おい。」無視してたら強い力で引っ張られた。大きい男。腕も胴も脚も全部しなやかな男。「死ぬぞ」もがいて振り払った。「うえぇ。」死にたいんだよ、でも死ねないんだよ …… 文句を言った。男はすぐ察した。「なーんじゃ喋れないんか、お前」うるせー。「なるほどな。」死ねっ「まーいいわ。勝手に死ねば」何が分かる、お前なんかに。くそっくそっ。足をバタバタさせる。「分かんねーよ。けどな、やっぱ死ぬのはよくねぇ」男がすごく寂しい顔をして言った。ウサギはそこで愕然とする。
[死ねないの]
会話? …… が …… 出来てる。なんで?「あー俺な、そういうの鋭いんだわ。昔っから」相変わらず寂しい笑顔。急に、ホントに急に何かのスイッチが切り替わった。昂ぶってた気持ちが一気に振れた。すっごく真逆の方向へ。ふいに自分の感情のドロッとしたヘドロが抜け落ちた感じがしてその場に座り込んだ。「クロ。」え?名前?「うん。俺の名前。」ねぇ、死ねないんだよ。死ねないの。なんでだろう。辛いことばっかり。死んだ方が楽なのに。なんで …… ?上目でクロを見つめるウサギ。分かる?この人なら分かるのかな?「 …… なあ、なんか探そうか?」なんかって …… 。「うん。お前の居場所。」居場所 …… 私の?クロが手を差し出す。ううう …… 。ガツーンって恋に落ちるウサギちゃん。吊り橋効果って話もあるけど、本当は恋に落ちるのに時間なんていらないんだ。そうだよね?
[ウサギちゃん大行進]
雲のない晴天の日曜日。歩道に光が氾濫する祝福の日。サーフィン雑誌を駅前の書店で根こそぎ買ってスタバで調べる。フラペを左手、携帯を右手に。高速で早押し。「茅ケ崎」「サーフィン」「黒崎」で検索、検索、検索。あった!! うわぁいっぱいヒットする。サーフショップ …… シアター? …… こっから、えっと …… うお、すぐじゃん。ダッシュ。さえないおじさん(静君店長)に文字通り詰め寄った。クロ君は?「え、なになに?うわっ」 …… そして毎日通う海。音を立てて仲間が増えていく。みんな優しい。凪は嫌いだけど …… まあ、いい子だけど …… 私より少しブス。真っ赤なロングボード。赤い髪。色素の薄い瞳。ウサギはガンガンうまくなる。レッドデビル=ウサギのライディングはひどく乱暴だ。アウトからショートをなぎ倒すように進む。ビギナーがモタモタしてたら余裕で乗っかる。「ガ-ッ」凄い声で吠える。「ロングはどっかよそでやれよっ」誰かに文句を言われても睨み返す。舌をだす。中指を立てる。「ウサギッ」クロに怒られた時だけ周りのみんなが呆れるくらい、シュンとする。もじもじする。
[恋するウサギ]
恋する日々。朝、目が覚めて、学校に行って、海に行って …… っていういつもの日々だけど。家の両親にも相変わらずの態度だったけど …… 。周りの人や物が(道路に落ちてる小石でさえ)全部気に入らなかったウサギ。でも、最近気になるのは自分自身のことだ。なぜ私の髪はこんなに赤いんだろ?とか。普通より太いかな …… 足。とか。ドライヤーで髪をギュウギュウ引っ張ったり、鏡の前から離れられなくなった。「クロに …… 」ウサギは言う。「私はあの時救われたの。ぐるんって世界が変わったの。誰も気づいてくれなかった私のスイッチを押してくれたの」恐る恐るクロの背中を盗み見ながら …… 彼女は思う。まわりの景色が全取っ換えで色づいたあの日のことを。クロ、ありがとう。ありがとう。クロ、大好き。ずっとずっといっしょにいたいよ …… 。
-震災がつないだ生活空間とクルマ
ダイハツは独自の燃料電池を搭載した「 FC商CASE 」を発表しました。将来は住宅の電力源となることも期待されます。
今回の東京モーターショーは初めて東京ビッグサイトで開催され(12月2日〜11日)、前回比37%増、85万人近い来場者が訪れました。 取材協力:Hiroki Mori
燃料電池車 始動する
車体の下部に燃料電池ユニットや燃料タンク、リチウムイオン電池、モーターなどをフラットに並べています。椅子を倒すと、室内空間を商スペース(移動店舗やショールーム)としてフル活用できます。
軽自動車のサイズにおさまるコンパクトなボディに、35kWを出力する燃料電池を搭載しています。単純計算で10軒ほどの住宅の電力をまかなえる計算になります。
究極のエコカーとして注目される燃料電池自動車ですが、コストやインフラの問題で、その実現にはまだ時間が掛かるともいわれています。今回ダイハツが発表した燃料電池は、燃料に液体の「水加ヒドラジン」を使うタイプです。液体のため水素ガスなどに比べ取り扱いが容易で、現在のガソリンスタンドを流用することも可能。効率も高く、燃料電池を小型化できるとのことでした。
いま主流の燃料電池は交換膜が強酸性のため、電極に耐蝕性の高い、高価な白金が必要です。一方、ダイハツが開発中の燃料電池「PMfLFC」は、交換膜がアルカリ性のため安価な金属を電極に使えます。現状の課題は交換膜の寿命を延ばすことだそうです。また燃料に水素ではなく、水化ヒドラジンという液体を使えることも、インフラ整備や安全性の点から大きなメリットがあります。
交通高齢化社会にむけて
地方都市では交通社会の高齢化が問題となっています。80歳前後の高齢者であっても、自動車がなければ生活の成り立たない地域が多くあります。そのため高齢者同士の事故も増えています。
ダイハツが発表した「PICO(ピコ)」は、幅を1mにおさえた2人乗りのEV(電動)コミューターです。旧市街や商店街などの狭い道にも対応しながら雨や雪も防げます。高齢者が運転をミスしても被害をおさえられるよう、時速をシニアカー並みの6km/hに制限した低速モードや、バック時の障害物や人を感知して自動停止する機能も付いています。従来は軽自動車が担っていた役割の一部を、こうしたEVコミューターが担うようになると思われます。それにともない、住宅の玄関内にコミューターの駐車・充電場所を設けるケースも増えてくるでしょう。
1月末から販売のはじまる「プリウスPHV(プレグインハイブリッド)」は、電気自動車(EV)とハイブリッドカー(HV)の両方の性能をもった車です。自宅で充電し電気で走行するEVとしては約25km走行でき、電気を使い終るとガソリン車(HV)として走り続けることができます。トヨタの調査では平日の乗用車の走行距離は20〜30kmまでが多く、大半の日はEVだけで間に合うそうです。PHVの大きなメリットは、電気切れの心配をせず自由に行動できることです。現状のEVで長距離を走る際は、走行距離や急速充電器の設置場所などを確認しておく必要があります。
PHVの普及にともない、充電設備だけでも作りたいという建て主が増えることも予想されます。プリウスPHVの場合は、単相AC200Vの専用回路や30A対応の配線、専用コンセント、手元スイッチの設置などが推奨されています。トヨタのグループのトヨタホームでも、PHVに対応した住宅をさっそく商品化しています。
トヨタは次世代環境自動車として、PHV(プレグインハイブリッド)、EV(電気自動車)、FCV(燃料電池自動車)の3種類を提案していました。まずPHVの発売を開始し、2015年頃にはFCVの市販化を目指すそうです。FCVのコンセプトカー「FCV-R」は走行距離700km、値段は1000〜1500万円程になると予測されています(従来は1億円以上)。
インフラはまだこれから
トヨタの「FCV-R」など、燃料電池車の大幅なコストダウンが予測される一方で、燃料となる水素のインフラ整備はこれからです。
水素供給・利用技術研究組合のブースは、FCVに水素を供給する「水素ステーション」を紹介していました。水素の運搬やステーションの設置には、様々な法律がからんできます。特に建築基準法の用途制限が大きな壁となるそうです。FCVの燃料タンクには700気圧の水素を充填させるため水素ステーションはより高圧の水素を貯蔵する必要があります。
また北九州市では、新日本製鐵八幡製鐵所から排出される水素をパイプラインで街に供給し、水素ステーションや住宅の燃料電池で利用する「水素タウン」の実証実験も行われています。
水素ステーションや水素タウンは、官民一体の事業として、これから全国的に促進されると思われます。上は、トヨタの提案した「スマート モビリティ パーク」です。発電・給電・通信サービスなどの機能を備え、風力・太陽光発電した電力を、電動バイクやEVなどに非接触充電できます。また災害時には非常用電源や通信サービスを提供する避難スポットにもなります。集合住宅やショッピングセンターには、こうしたサービスが不可欠になるかもしれません。
ニッサンは市販中の電気自動車(EV)リーフを利用した、住宅用電力供給システム「LEAF to Home」を展示していました。これは住宅の配電盤に接続した「PCS(パワー・コントロール・ユニット)」によって、リーフにためた電力を住宅に供給したり、住宅で発電した電力を給電できるシステムです。
昨年の夏、節電に対する生活者の意識は大きく変わり、計画停電に備えた家庭用蓄電池にも注目が集まっています。リーフに搭載されたリチウムイオン蓄電池の容量は24kWh。これは住宅2日分の消費電力量に相当し、出力6kWのPCSによって一戸分の家電製品を充分に稼動できます。これを活用すれば、電力消費のピーク時に夜間に蓄電した電力を利用して、不便なくピークシフトに協力できます。また計画停電時にもパソコンなどを安心して使え、従来は売電するしかなかった太陽光発電の余剰電力も蓄電して自家消費できます。このようにEVは住宅設備としても大変有効で、PCSの発表後、大手住宅メーカーなどからの問い合わせが殺到したそうです。ちなみにリーフ並の能力を持った蓄電池を揃えようとすると、リーフより高価になってしまうという話もありました。
ニッサンのメイン会場では、「LEAF to Home」を活用したスマートハウス「NSH-2012」が発表されました。モノコック構造の頑丈な本体をタイヤとサスペンションで支えた高床式の住宅で、電力を太陽光発電でまかない、リーフと連携することで災害時にも安全な暮らしを維持できるように工夫したそうです。震災の津波による被害から発想された設計のように思えました。住宅産業と自動車産業が密接に関連していく未来を感じます。
三菱自動車は、小型電動自動車i MiEVをリビングに駐車した「MiEVハウス」を出展しました。EVやPHVは駐車時に排気ガスを出さないため、リビングに引き込むことも可能になるといわれ、オーディオやエアコンなどの機能をリビングと共用することも可能になります。
三菱自動車は「HEMS(住宅用のエネルギーマネジメントシステム)」と連動したEVの電力供給システムを開発し、「MiEVハウス」の照明やテレビなどを作動させていました。非接触充電装置によって充給電するので、プラグを差し込む必要はありません。また、EVで使い終ったバッテリーを住宅用に再利用する試みも提案されていました。
最近のヨーロッパ高級スポーツカー市場には「高性能スポーツカーを楽しむ=環境に対して負荷をかける」というジレンマがあり、その意識は富裕層になるほど高くなります。そこで各社とも、高性能のEVやPHVなどをコンセプトカーにすえ、心おきなく性能を楽しんで欲しいというメッセージを発信しているのです。
次世代ラグジュアリーカーの方向性を示したともいわれる「F125!」。内装は旅客機の上級クラスのような凝った作りになっていて、後部座席を寝椅子状態にしてテレビも見られます。タッチやジェスチャーによって様々な操作が出来るなど、人と車のコミュニケーションに着目している点も特徴です。燃料の水素はボディ一体型のタンクに貯めるそうです。