Colla:J コラージ 時空に描く美意識

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陸奥巡礼10月号 鎮祭月 2011宮城震災から約半年がすぎた宮城県の沿岸を、TIME & STYLEを主宰する吉田龍太郎さんと訪ねました。 東北道は福島に近付くにつれ修復工事が増えていきます。福島に入り安達太良山が見えてくると、もうすぐ宮城です。 名取川 東北自動車道の仙台南ICから仙台南部道路に入り、仙台東部道路の名取ICでおりました。震災の夕刻、数キロにおよび津波におおわれた名取川の流域です。名取川の左岸域、仙台市若林区中野バス停付近から。市の中心部が蜃気楼のように浮かびます。広大な草原と化した田園地帯。天正19年(1591)、豊臣秀吉の命をうけ、陸奥の国 岩出山に入った伊達政宗は、関ヶ原の合戦(1600)と同時期に、仙台に城下町を築くとともに大規模な新田開発を進めました。重機などを使った大規模な除草作業が行われていました。草を刈ったのちに土壌を調査し、田畑へと復元する作業を進めるそうです。 名取川の下流はかつて入江になっていて、その名はアイヌ語の「静かな海=ニットリトン」からきているという説もあります。河口にある閖上(ゆりあげ)漁港も甚大な被害をうけましたが、名物の朝市は「イオンモール名取エアリ」で一部復活し話題となりました。仙台港周辺の主要道はいち早く整備が進められ、ショッピングセンターやビール工場、住宅展示場も再開されていました。 北上川から阿武隈川にかけての海岸線には、延長44キロにおよぶ運河が築かれています。「貞山(ていざん)運河」をはじめとする運河は、伊達政宗の時代から明治まで3世紀にわたり工事が続けられ、水運のハイウェイとして木材や米が運ばれました。100万石以上にのぼった仙台藩の米は、江戸に流通する米の3分の1〜3分の2をにない江戸を世界最大の都市に育てました。仙台藩では武士達も自ら湿地を新田に開拓し生計を立てました。その優れた能力は明治の北海道開拓にも活かされ、伊達市や当別町をはじめ仙台藩士によって開拓の基礎が築かれたのです。 【 仙台港を北上し、多賀城市をぬけて塩竈に入りました。街のシンボルである鹽竈(しおがま)神社そばの釜処「汐のや」で、仙台牛や海の幸をいただきました 】律令時代からの歴史を伝える鹽竈神社。森に囲まれた境内を権禰宜の浅野さんと菅野さんが案内してくださいました。江戸時代、同社の神職で知識人として知られた藤塚知明の屋敷跡に建てられた「鹽竈神社博物館」は、震災の影響をうけ展示品の整理を行っていました。博物館の屋上からは塩竈の街を一望できます。塩竈の港を襲った津波は市の中心部を飲込み、神社の山の下まで達したそうです。境内の灯籠が倒れ、燃え上がる仙台港のコンビナートが見えたことなど被災時の様子をうかがいました。 ▼ 御座船「鳳凰丸」の模型。塩竈港に停泊中だった鳳凰丸は津  波にも耐え、今年のみなと祭でも活躍しました 【 約270年前に作られた鹽竈神社の御神輿(左奧は志波彦神社の御神輿)。7月に開かれる「塩竈みなと祭」では、御神輿を奉安した2隻の御座船が松島湾内を巡幸します 】明治13年頃に描かれた鹽竈神社周辺の絵図を見ると、神社の山(一森山)のふもとまで入江が入り込み、現在の港周辺の市街地は埋立てによって造成されたことが分ります。 みなと祭の日。重さ約1トンの2基の御神輿は、16名の担ぎ手により表参道の急な石段(202段)をくだります。石段はベテランの担ぎ手でないと無理だそうです。稀代の神官・藤塚知明は、林子平による「海国兵談」の出版を援助したことでも知られています。天明7年(1787)に第一巻が発行された「海国兵談」は、ロシアの南下政策を危惧した林子平が海防の近代化を訴えた本で、大砲などの兵器も図解されています(全16巻)。幕府により禁書となりましたが、写本により明治まで伝えられ帝国海軍にも影響をあたえました。鹽竈神社の参道をあがり拝殿にすすみます。鹽竈神社の拝殿は2カ所あり、正面の「左右宮」と右側(海側)の「別宮」に分かれています。市外からきた人の多くは正面の「左右宮」から参拝しますが、本来は「別宮」から参拝するそうです。別宮には主祭神である「塩土老翁神(しおつちおぢのかみ)」を祀っています。塩土老翁神は潮流を司る神であり、茨城県の鹿島神宮主祭神・武甕槌神(たけみかづちのかみ)と千葉県の香取神宮主祭神・経津主神(ふつぬしのかみ)を案内して、東北を平定したと伝えられます。また塩土老翁神は塩の作り方を伝え、それが地名「塩竈」の語原とされます(塩竈の竈はカマドの意味です)。 江戸時代、仙台と千葉の銚子は米や海産物を運ぶ海運で結ばれていました。銚子には鹿島神宮や香取神宮がひかえています。鹽竈神社の伝説は、古代からひらかれていた海の道を連想させます。 権禰宜・菅野さんが樹齢500年以上の多羅葉(タラヨウ)を教えてくれました。葉に傷をつけ文字を残すことから葉書の起源といわれます。【 別宮の本殿を見上げたところ。まるで城壁のような石垣が築かれています。歴代の権力者が大神主をつとめた鹽竈神社は、古くから武家の信仰をあつめてきました 】正面の拝殿から奧を見ると、背後には森がひろがっています。これは武甕槌神と経津主神それぞれの本殿が、拝殿から先で左右に分けて祀られているからです。拝殿の脇からは、その左右の2カ所の本殿をうかがえます。 この全国でも珍しい配置の社殿を造営したのは、伊達政宗のひ孫にあたり「伊達騒動」でも知られる4代目藩主・伊達綱村でした。万治3年(1660)わずか2歳で藩主となった綱村は、防風林や運河の造成を進める一方で、社寺建築にも力を注ぎます。鹽竈神社の社殿造営は元禄8年(1695)からはじまりました。綱村はこの数年前、日光東照宮の修復を担当しています。その職人を仙台に呼び寄せたことから、一部に東照宮風な様式を見ることもできます。今年は20年に一度の「式年遷宮」の年にあたり、屋根の葺き替えなどが行われていました。 鹽竈神社が発展してきた背景には、多賀城の存在があるといわれます。多賀城は8世紀はじめ、朝廷により蝦夷(えみし)制圧のため今の多賀城市に築かれ、朝廷支配の北端として国府や鎮守府が置かれました。鹽竈神社はその「鬼門」にあたる東北方向に位置し、蝦夷の地と接する最前線を守護して、朝廷の役人や武人にとって精神的な支えにもなっていました。創建当時の様子は定かではありませんが、古来から神聖な場所として崇められていたのかもしれません。【 境内の一画に置かれた巨大な井内(いない)石。通称・仙台石とも呼ばれ、石巻市の稲井で産出し、鹽竈神社の階段などにも使われています 】【 「しおがまさま」と呼ばれ様々な願いを受けとめてきた鹽竈神社。震災の際は多くの人が神社に避難し難を逃れました。境内のふかい緑は塩竈を守る力を放っているようでした 】#15 終章のあいさつ 「私から私以外のあなたへ」 「人の状況や行為そのものを切り取った現象は絵画のようだ。」 そんな瞬間を、写実的に書いても美しいが、できればイメージの置換によるメタファーで描きたい。それらの心象風景的なスケッチは時や場所をいともたやすく結びつけたり、遠くへ飛ばしたりする。私は元来そんな頭の中の遊びを繰り返す子供だった。子供の頃の美しく透き通った印象絵画は大人になるとだんだん寂しく、暗いモノになっていく。しかし、よくよく見れば一つ一つがひどく興味深いものだったりするから、心の隅にいつも大事に取っておいたものを今回全部実験的に、そして無作為に放ってみた。それらに委ねて任意の「あなた」に問いかけたかったのは、幸せとは一体何か?というテーマだった。 状況や行為が幸せそのものなら。 青い鳥は探すべきものではない。 坐して得られるものでもない。 それは、 流れる涙の軌跡の先に。 舞い上がるパレードの紙吹雪の行方に。 ラストワルツを踊る少女の指先に込められた力強い意志の中に。 ある。 最後に、 このお話は私の過去に見聞きしてきた絵画、小説、風景、彼女の言葉などの模写がベースになっている。そこに私のメタファーを乗せた、いわばコラージュ作品である。大きな意思によるいたずらが「あなた」に何らかの影響を及ぼすことができるなら、私にとってそれはとても幸福なことだ。 ■ メタファー解説 ■ 脚を引きずる猫→悪意に満ちた不平等 草の匂い→遠い日の後悔 少女→無垢なる危険性 黒蟻→狂気の前兆 携帯の振動→避けられない悪意 水銀灯→夏の夜のノスタルジー 一本の道→破るべきではない約束 マーチ→同一性による怠惰 巨視→抗う事の出来ない母親像 アードヴェック→慢心による傲慢 烏の城→抗う事の出来ない運命 烏→抑えることのできない性欲 ドアのない部屋→無知なる喜び 男娼→迫りくる運命 踊り子→献身の純真 音のない真昼→死と永遠 草の青い血→破壊的な欲求 廃墟→茫漠とした誘惑 真夏の階段→青年の苦しみ 丘→苦しみの連鎖 招待状→夢の続き ガーデン→集合の地 ブドウの実→エゴイズムと野心 金のシャララ→存在し得ない幸福 アートマン→絶対的な父親 霊園→完全なる静寂 花のリボン→成長への憧憬 白い野原→絶対的な幸せ #16 BEAUTIFUL 「NAGI+ (凪) LAST」 あの時。 私の網膜に焼きついた とある情景。 羽ばたく蝶がついに、 太陽を目指す。 日本三景のひとつ松島は、いち早く復興がすすんだこともあり、多くの観光客でにぎわっていました。夕暮をむかえ遊覧船乗り場につかのまの静寂が訪れます【 桟橋からみた「観瀾亭(かんらんてい )」。伊達正宗が豊臣秀吉より譲り受けたといわれ、松島見物に訪れた諸公の接待施設としても使われていました 】古来から多くの歌人に詠まれてきた松島。元禄15年(1702)刊行の松尾芭蕉「おくのほそ道」は、その名声をさらに高めました。芭蕉を松島に導いたきっかけのひとつは、松阪生まれの俳人・大淀三千風(おおよど・みちかぜ)といわれます。裕福な商家に生まれた三千風は30代のはじめ仙台を訪れ、俳人あこがれの地である塩竈・松島を探勝します。そのまま15年も仙台に暮らしながら、松島の詩歌を全国から募集し「松島眺望集」を刊行します。芭蕉はこの本に描かれた情景を辿るように、みちのくへと旅だったのです。前号で特集した伊能忠敬も「おくのほそ道」に誘われた旅人のひとりでした。安永7年(1778) 、忠敬は33歳のとき妻ミチをつれて芭蕉をたどる約1カ月の旅にでます。竹駒神社(宮城県岩沼市)では「桜より松は二木を三月越し」の句碑を見たことを紀行文「奥州紀行」に記しています。 それから約23年後、56歳となった忠敬は第2次測量の途中でふたたび松島を訪れます。前回の個人的な観光旅行にくらべ、今回は「幕府御用」としての旅でした。石巻市雄勝町分浜で忠敬は運命的な再会を果たします。仙台藩に指定された宿舎の主が、23年前に偶然の出会いから陸奥への旅をともにした秋山忽兵衛だったのです。まだ「旅慣れぬ身」であった往時を振り返りながら、夜通し再会を喜びあったことを忠敬は「測量日記」に詳しく書き残しています。 ちなみに忠敬が2度目の妻としてむかえたノブは、「赤蝦夷風説考」で知られる仙台藩医・工藤平助の娘で女流文学者・只野真葛の従妹にあたり、忠敬と仙台藩の不思議な縁を感じさせます。【 松島の桟橋に向かって「瑞巌寺」の参道がのびています。瑞巌寺(松島青龍山瑞巌円福禅寺)は平安時代に創建し、様々な時代の遍歴をへて伊達政宗によって再興されました 】【 参道脇の小径にそって「瑞巌寺洞窟群」がならんでいます。鎌倉時代から洞窟は掘り始められ、僧侶達の修業の場ともなっていたそうです。古代人の洞窟住居を思わせます 】【 政宗は瑞巌寺を、青葉城につぐ第2の城郭として考えたとも伝えられています。松島の情景とあわせ奥州王の威厳を示す迎賓施設としての役割も果たしたのでしょうか 】夜、塩竃名物の寿司を頂きました。生マグロの水揚げ日本一をほこる塩釜港には、三陸沖の新鮮な魚や貝があがります。数ある寿司屋のひとつ、はま勢の親方は「復興のスピードが遅いといってもしかたない。自分達よりもっと大変な人が沢山いるし、自分達の力で徐々に取り戻すしかない。信号機も昨日から使えるようになったばかり。浸水した店を奇麗にしても水道や電気、ガスが使えず、復旧したのは7月に入ってから。店を再開しようにもインフラがなければどうしようもなかった」と被災当時を静かに語ります。復興関連の宿泊者により街のホテルは満室で、真新しいネオン街は活気にあふれていました。 BC工房 主人 鈴木惠三 9月、初めて「上海国際家具見本市」へ。 ミラノ・サローネ会場にポスターが貼ってあったので、好奇心オジさんはスグ行動したのだ。 会場はキレイだし、スケールはミラノ・サローネ以上。 胸はワクワク、ドキドキ。 どんなデザインに出逢えるのか? 35年前のミラノ・サローネ初訪問みたいな高揚感いっぱいだった。 「アレッ、こりゃまずいんじゃないかい?」 ★ Yチェアのほんとのニセモノが、いたる所にある ★ イームズのほんとのニセモノが、いたる所にある ★ フィンユールのエジプシャンチェアも、 ★ 柳宗理さんのバタフライチェアも、 「どーだ、と堂々と並んでいる。」 なかなかの出来だ。 出品メーカーの人も、「どーだ、いい出来だろー。」と、胸をはっている。 恥じらいもないのだ。 これじゃニセモノ国際家具見本市。 ミラノ・サローネもコピーいっぱいだけど、ちょっと恥じらいが作り手にある。 ちょっと修正、アレンジしている「もどき」が多い。 「ゆるせる、もどきデザイン」の品評会を、 カシブチ先生(オイラのミラノの先生)と会場でやるのも、ミラノ・サローネの楽しみなんだけど、 上海の展示会は、まったくのニセモノコピーなので、困ってしまった。 冗談じゃないから楽しめない。 ウェグナーさんに、フィンユールさんに、イームズさんに、柳さんに、申し訳なくなってしまう。 デザインって、何だろうか? Yチェアだって、元をたどれば1500年代の明の「曲碌(きょくろく)」にヒントがあるのだろうし、時代を超えて、国を超えて融合し、進化するものでいいと思っている。 椅子のデザインって、どこかで似ているようなコピーアレンジも良し、と思っている。でも、ここまで同じニセモノは許せないのだ。 ニセモノは、どこか品がない。 ニセモノは、うすっぺらな感じだ。 日本人よ、世界の人よ、買っちゃダメだ。 「買ったら、人間失格だ。」ぐらいのキモチになってしまった。 おもしろいデザインの椅子2~3脚に出逢ったけど、 もう二度と上海の展示会に行きたくない。 デザイナーを目指している日本の若者よ、 「デザインはヘタでいい。マネもいい。そこから苦しんで、自分のものにする努力をしてくれ。オリジナルなんて、10年や20年じゃ作れないと思え。」 精度が高ければ、完成度が高ければ、いい作りであればいいなんていうモノづくりはヤメにしてくれ。 考え方がデザインなんだ。 「ダメでいいから、ヘタでいいから、正しいデザインのモノづくりを、心がけていくぜ !!」 と、好奇心オジさんは、ヤケに真面目に学習させてもらっている。 【 奥松島パークラインをとおり塩竈から石巻にむかう車窓には、田園風景が延々とつづきます。宮城県の水田面積は、県全体の6分の1にもなるそうです 】 【 東松島市に入ると海に水没した一帯が見えてきました。奥松島ともいわれる東名(とうな)、野蒜(のびる)をはじめ、東松島市は特に被害の大きい地域として知られています 】【 東名地区は、松島の桟橋から約6キロ東にあります。海岸から奥松島の島々を見渡す、風光明媚な田園地帯でした 】【 地盤沈下によって水没した地盤を回復するため、懸命な作業が続けられていました。一時はガレキで埋っていた道路や運河も、通行できるよう整備が進んでいます 】【 仙台から石巻を結ぶJR仙石線。いまも高城町駅〜矢本駅間は不通の状態で内陸への路線変更も検討されています。浚渫作業のつづく吉田川・鳴瀬川を越え石巻に入りました 】早朝、塩竈を出発して1時間半ほど。石巻市街の中心を流れる旧北上川河口の中州に、幻のように佇む「石ノ森萬画館」が見えてきます。「仮面ライダー」や「サイボーグ009」・「佐武と市捕物控」・「HOTEL」・「まんが日本の歴史」・「まんが日本経済入門」等々、大人から子供まで親しまれる膨大な量のマンガを残した石ノ森章太郎氏のテーマパークは宇宙船のような姿で出迎えてくれました。【 中瀬地区は石ノ森章太郎氏により、マンハッタンにちなみマンガッタンと名づけられました。津波でさらわれた中州地帯に「石ノ森萬画館」と「ハリストス正教会」が奇跡的な姿を残しています 】人口約17万人の石巻は広範囲にわたり津波に襲われ、その犠牲者はひとつの市町村としては最も甚大です。河口に近い中瀬地区も大きな被害をうけ、今年10周年をむかえる「石ノ森萬画館」も休館を余儀なくされました。 休館中にもかかわらず全国から多くのファンやボランティアが訪れ、入口に張られたパネルには沢山のメッセージが描かれています。津波に襲われた柱には「石ノ森萬画館の理念」が力強く輝いていました。そこには萬画館のもつ役割が明確に示されています。『石ノ森作品の収蔵・展示施設にとどまらず、マンガの特性を活用した地域文化の発信拠点となり、市民が集い交流し、マンガを通じて潤い、ロマンや創造性を育む「マンガで結ばれるまちづくりステーション」として、さらには中心市街地活性化の中核施設として重要な役割を担っています』。石ノ森氏はマンガを萬(よろず)画と表現し、無限の可能性を模索していました。萬画館の運営を担うのが、第三セクターの(株)街づくりまんぼうです。石巻を訪れた石ノ森氏に共鳴し、マンガを活かした街の活性化を目指した市民たちが中心となり、萬画館設立の気運が高まりました。やがて地道な活動は実を結び「市民の力によって萬画館は完成した」と同社執行役員・木村 仁さんは語ります。同社は萬画館の理念を実践するため「マンガロード」の整備や、仙石線「マンガッタンライナー」の運行、「マンガ灯ろう祭り」をはじめとするイベントの開催など、地域ぐるみの活動をサポートしてきました。 「今こそ街づくりに対する自分達の力が試されている。ここで出来なければチャンスはないという気持です」と木村さん。地震発生時、魚市場にいた木村さんは萬画館へ戻り来館者やスタッフの退去を確認し山に避難しました。その後萬画館に残ったスタッフは津波で橋に取り残された20名ほどを萬画館に誘導し、川に流されてきた人を約20名も救助したそうです。2本の橋はガレキにより不通となり、約40名の方々が喫茶店に残された食料などを頼りに数日を過ごしました。石ノ森氏自らが宇宙船をイメージしてデザインされた萬画館は、まさに箱船の役割を果たしたのです。2階に保存されていた原画なども難を逃れ、スタッフも全員無事でした。 宮城県登米市出身の石ノ森氏は、萬画館設立のため石巻に何度も足を運んだそうです。残念ながらその完成(2001年)を見ることはありませんでしたが、氏のまいた希望の種は石巻の大地に根をおろし、復活のための光を放っていると感じました。「萬画の国・いしのまき」復興祈念企画展は、商店街の店頭などを展示会場としてとらえ、街全体を萬画館にしようという試みです。第一回のテーマは「サイボーグ009」【 商店街の店先には「サイボーグ009」の複製原画が飾られていました。この精肉店では冷蔵ショーケースを修繕し、再開に向けた着実な努力を続けていらっしゃいました 】【 明治13年(1880)建設の「旧石巻ハリストス正教会教会堂」。現存する木造教会としては日本最古といわれ、石ノ森萬画館と共に津波をうけながらも、その姿をとどめていました 】旧石巻ハリストス正教会教会堂は、宮城県沖地震(昭和53年)で一度被災し、この地に移築・復元されました。ハリストスとはロシア語で「キリスト」を意味し、日本ハリストス正教会は東京・神田のニコライ堂に名を残すニコライ・カサートキンによって、明治初期に活動をはじめています。 全国にさきがけ、石巻の教会堂は明治13年に信徒の寄付により建設されました。それ以降、石巻周辺や北上川流域に正教会の布教は広まっていきます。 十字架を表わした外観は漆喰で仕上げられ、瓦にも十字架が彫られていました。2度の震災をへた教会堂は、中瀬を守る十字架のように見えました。石巻港をのぞむ日和山(ひよりやま)には多くの人が訪れ、石巻の姿に手をあわせていました。日和山は海の天候を見るための山として知られ、鎌倉時代には石巻城が築かれていました。日和山近辺には多くの市民が避難し津波を逃れました。甚大な被害を受けた日本製紙石巻工場も半年ぶりに操業を再開していました。 かつて北上川流域は「日高見国(ひだかみのくに)」と呼ばれ、ヒダ・カ・ミ(蝦夷の住むところ)を意味していたともいわれます。伊達政宗の時代になると、川村重吉による北上川の治水工事が行われ石巻港が開港します。遠く岩手からも流域の産物が運ばれ、江戸や大坂へ米や海産物を送る集散地として宮城県第2の都市に発展していきました。松尾芭蕉はその豊かな情景を「数百の廻船入江につどい、人家地をあらそいて竃の煙り立ちつづけたり」と記しています。【 沿岸の住宅の大半は押し流され、工場やガレキ、自動車の火災は数日間おさまらなかったといわれます。ガレキの撤去が進み、土台の跡だけがかつての住宅地を示していました 】 卓上のきら星たち ☆くずの5 ハリケーン前の熱い夜 大原千晴 8月26日金曜日午後7時過ぎ。明日は超大型ハリケーンがやってくる。翌日土曜日の午後から日曜日一杯はニューヨーク市内全域で、すべての公共交通機関を完全にストップさせるという発表のあった、その夜のことだ。前日知り合ったばかりのアニーとダニエルに誘われて、私はブロードウェイをタンゴ好きが集まるクラブへと向かっていた。週末のタイムズスクエアは人々々の波。台風なんてどこ吹く風で、街は活気とエネルギーが渦を巻いて熱を発している。やがて到着したマンハッタン38丁目にあるオフィスビル。6階でエレベーターを降り、殺風景な廊下の奥の扉を開ける。突然耳に飛び込んできたのはタンゴの旋律。ブエノス・アイレスの下町で演奏されていたに違いない古い録音。照明を落とした空間は小学校の教室ほどの広さだろうか。そこに隙間なく二十数組の男女がぴったりと体を寄せ合って踊っている。4〜5曲目で曲調が変わり、それが終わると少し休憩。カウンターに用意されたワインやビールそれにソフトドリンクを飲み、談笑し、しばらくするとまた音楽再開。人によっては、相手を変えて、また踊る。この形式をミロンガと呼ぶ。カップルで来る人も多いけれど、一人で来て相手を探して組むというのもミロンガの大事な要素。部屋の壁際には、踊りを待つ男女が踊りの輪を見つめている。それぞれが自由に踊りながらも、ぶつからないように気を使い、全体として輪を描く形で、時計と反対方向に大きく回っていく。上手と下手では天地ほど開きがある。でも、そんな差なんて気にすることなく、誰もが思い思いに楽しんでいる。ヒスパニックを中心とするラテン系が多いようにも思われたけれど、日系や中国系を含めて、あらゆる人種が混じり合って踊っている。まさに多文化人種混合都市ニューヨークの縮図だ。 ここでの共通語はタンゴ。男はエレガントに女をリードし、女はそれに応えて足をからめて更にステップで挑発する。それさえできれば、男も女も年齢も見かけもまったく関係なし。ハゲででっぷりと腹の出た中年男も、小太りで美人からはほど遠い中高年のオバサンも、踊りがうまければもう大変なモテようだ。実際ひとりのチビデブ&ハゲおじさんが、見事な身のこなしで次々と相手を変えて踊っていた。女性のひとりは彼のリードの見事さに参ってしまって、一種エクスタシーに通じる歓びの表情を浮かべ、早いステップになった時、感極まって声を上げるの目撃した。踊りという肉体言語で女を泣かせる。凄い! なんといっても男のリードが基本だから、男がヘタで女が上手だと、困ったことになる。私の見ている前で男が女の靴を踏んでしまい、曲が終わった途端、真紅のタイトドレスの女は男に噛みついた。両手を腰に置き、胸を張り、男を見上げながら怒る様子は、しかし絵になっていた。男と女、相性があるのだ。こうして徐々に雰囲気が盛り上がってきたところでバンドネオン奏者登場。ピアソラが好きだと言ったら「日本から来た友のために」とアナウンスして、「天使のミロンガ」を情熱一杯に演奏してくれた。今度はこちらが感極まってしまった。タンゴ好きは心が熱い。彼が登場してからは会場の雰囲気がどんどんヒートアップしていき、踊りはますます激しさを増していった。これほど熱狂的な踊りを目の当たりにしたのは初めてだ。我々は途中で抜け出し、グリニッチビレッジの一角にあるアニーの家へと向かったが、あのハリケーン前日のミロンガは、深夜まで異様に盛り上がったという。 NOHOと呼ばれる場所にあるアニーのロフトは、1900年頃建てられた紡績工場を改装した本物。床は分厚いオーク板で覆われ、柱は電柱のような太さ。天井高4mほどで、広さはおそらく300平米近いのではないか。画家であるアニーは手作りのディナーを御馳走してくれた上、楽しい食事の後で、夜のグリニッジ・ビレッジを案内してくれた。深夜近いというのに、どこに行ってもレストランは人で一杯。入り口で入店を待つ列ができているクラブも何軒か目にした。この熱気はどこから来るのか。 マンハッタンは成功を求める人々が激しい競争を繰り広げている社会だ。そのストレスは東京の比ではないと感じる。それだけに、人とのつながりを渇望する気持ちも非常に強い。厳しさの一方で驚くほどの優しさ。その陰影の深さがこの街の強い個性となっている。多様な人種がそれぞれの文化を背景にしながら個性をぶつけ合い、出会い、時に熱い思いを込めてタンゴを踊る。 ハリケーン一過の月曜日、わが街を愛する「地方紙ニューヨーク・タイムズ」には、書き手の心が伝わってくる記事が幾つも掲載されていた。私の体験もまた、そんな街の熱狂の一場面だったのだ。得難い出会いのあった旅から戻った今、ちょっと生き方を変えてみたい、と思っている。旅は、してみるものだ。 編集部からの要望により今回もNYの話となりました。果たして次回は如何に。 【 北上川中流域の登米市は「平成の大合併」で生まれた大きな街です。元 中田町の石森(いしのもり)に、「石ノ森章太郎 生家」と「石ノ森章太郎ふるさと記念館」があります 】石巻から北上川をさかのぼり約30キロ。登米市は河川改修と共に拓かれた県内有数の稲作地帯で、東京駅の屋根に使われた玄昌石の産地としても知られています。 「石ノ森章太郎ふるさと記念館」は、石ノ森萬画館の1年前2000年にオープンしました。1938年、父・小野寺康太郎、母・カシクの長男として生まれた石ノ森氏の実家は、街道沿いで雑貨店を営んでいたそうです。 50歳を前にして石森章太郎を石ノ森章太郎に改名した際の理由書には『もともと出身地名 石森町(いしのもりまち)を借りてのデビューだった訳ですが それも早や30年。もう一度、更に初心に帰ってグワンバローというのが、つまり 思うところ なのでございます。』と書かれています。出発点としての故郷への想いを感じます。43歳の作品「小川のメダカ」には、実家の脇を流れていた小川の思い出がつづられています。メダカやタガメ、ゲンゴロウ、オハグロトンボ……。姉と追ったホタルを蚊帳に入れ、光に包まれながら眠った記憶。小川でおぼれかけ母に救われたり、洪水で屋根の上に一家で避難したり、自然の怖さと与えてくれるものの大きさを我が子へ伝える物語です。記念館のシアターでは、この作品を元に制作されたアニメーションが観られます。 石ノ森氏は記念館の全体をS字にカーブさせ、遺伝子の姿を表現したといわれています。天然石をあしらった壁面と庭園を流れる小川は、石と森をイメージさせます。【 記念館の常設展示室には、再現されたトキワ荘の部屋や、デビュー前の貴重な肉筆回覧誌「墨汁一滴」、デビュー作「二級天使」の原画などが展示されています 】自伝「章説 トキワ荘の春」(清流出版刊)のプロローグは「姉の死……」から始まります。『夢の中の姉は、いつも笑っている。コロコロと、少女のように笑っている。苦悩の翳(かげ)はない。楽しそうだった。幸福そうだった』。1956年18歳のとき、トキワ荘での漫画家生活をスタートさせた石ノ森氏のもとに姉が上京してきます。小児喘息で身体の弱い美しい姉はたちまちトキワ荘のヒロインとなりました。その数年後、大きな発作を起こした姉を救急車で病院へ送り、注射で発作が治まったあと、辛さに耐えかねた若き石ノ森氏は誘われるまま映画に出掛けます。そしてトキワ荘に戻った彼を待っていたのは、姉の死を知らせる電報でした。その場に寄り添えなかった苦しみを自伝で告白しています。 1961年23歳のとき、美しい龍神が土地開発から村を守る代表作「龍神沼」を描きあげ、突如70日間の世界一周旅行へと旅立ちます。『トキワ荘に戻り、三か月留守にして、なにかよそよそしい部屋に唖然と座り、結局は何からも逃げられないのだ、と悟った。姉の夢と同じように、目覚めれば苦痛があるのだ。目覚めずに、生き続けることなど、誰にも出來はしないのだ。それから間もなくして、ボクは「サイボーグ009」を描き始めた……。』石ノ森作品の多くには「姉」を思わせるヒロインが登場し、ヒーローに寄り添うエピソードが綴られていきます。数々の物語をとおし、苦悩から何度も立ち上がり闘い続けることの素晴らしさを教えてくれたのです。1967年からCOMに連載された「章太郎のファンタジーワールド ジュン」。マンガの世界ではじめて詩情を表現した氏の思いは「ジュン」に結集されたといわれています。1998年、60歳の若さで旅だった石ノ森章太郎氏。中庭で今もジュンと向きあいます。