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日本の武士達が太平洋を渡った記録としては、幕末の1860年、サンフランシスコへ向かった「咸臨丸(かんりんまる)」が知られています(勝海舟や福澤諭吉が乗船)。それからさかのぼること約250年、今から約400年も前に、太平洋を渡りはるかローマまで旅した武士達がいました。伊達政宗によって派遣された仙台藩の「慶長遣欧使節」です。
1613年10月28日、彼らは日本人の手で作られた500トンのガレオン船「サン・ファン・バウティスタ号」で出航し、太平洋を越えメキシコを目指しました。今ならば月旅行にも匹敵する偉業を伝えるため石巻市牡鹿半島に開設されたのが、宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)です。同館も東日本大震災による地震や津波の被害をうけ現在休館中です。
江戸時代の初頭、牡鹿半島でなぜガレオン船が建造されたか? そのストーリーはスペイン帝国がインカ、アステカを滅ぼした15世紀にさかのぼります。アメリカ大陸に広大な植民地ヌエバ・エスパーニャ副王領(新イスパニア)を築いたスペインは、太平洋を渡ってフィリピン諸島に進出し、フィリピン〜メキシコ航路を開発。メキシコで産出した大量の銀を使い、ガレオン船貿易により中国の絹や陶磁器、東南アジアのスパイスをヨーロッパにもたらします。日本のすぐ側にまで迫った新イスパニアの興味は、世界有数の産出量をほこった日本の銀鉱山に向かいました。
1611年に派遣されたスペイン大使セバスチャン・ビスカイノは、夢の「金銀島」を探すため奥州沿岸を調査します。ちなみに船上で「慶長三陸地震」(1611年)の津波に遭遇しています。暴風雨で船を失ったビスカイノは、通訳をつとた聖フランシスコ会のスペイン人宣教師・ルイス・ソテロのアドバイスで伊達政宗に助けを求めます。ソテロは伊達政宗との縁で仙台藩での布教活動を容認されていました。
サン・ファン館には、建造中のガレオン船(黒船)を背景にして、伊達政宗とビスカイノ、宣教師ソテロ、そして支倉常長の会見風景が再現されています。交易により国力増強を狙う政宗、交易に乗じて布教活動を拡大したいソテロ、スペインの覇権を拡大したいビスカイノ。思惑が錯綜するなか、使節団を率いることとなった支倉常長が静かに佇んでいました。
サン・ファン館の目玉は、地元石巻の船大工達によって復元されたサン・ファン・バウティスタ号です。
3月11日。船を展示したドック棟は数回にわたる津波に襲われ、引き波により船は転覆しそうに見えたそうです。しかし外洋航海も可能な頑丈な構造により、波の力に耐え抜き、現代船大工の技術を証明しました
ガレオン船建造の理由には様々な説があげられます。その第一は伊達政宗による海外交易への野望だったといわれています。16世紀末、スペインの東洋交易の拠点・フィリピン(ルソン)には、すでに大坂・堺の商人が進出し巨万の富を築いていました。それに対抗すべく政宗は、仙台〜メキシコ航路を確立して新イスパニアとの直接交易を目指したのです。
当時の江戸幕府は新勢力オランダとの関係を深めていました。一方、キリスト教の布教を交易の条件としたスペインは不利な立場にありました。そのため幕府はスペインとの交渉を仙台藩にまかせたという説もあります。伊達政宗は幕府からガレオン船建造の許可を受け、幕府の船奉行・向井将監は大勢の船大工や船鍛冶を派遣しています。「慶長使節」は仙台藩と幕府のコラボレーション事業だったともいえるのです。
今回の津波によりドック棟の展示施設は壊滅的な被害を受けました。また4月末の暴風雨により、サン・ファン・バウティスタ号のマストが折れるなど、たび重なる損害をこうむりました。
17世紀はじめの仙台藩は、仙台城の築城や瑞巌寺の再建、貞山運河の掘削など様々な建築・土木事業を矢継早に行っています。その最中、ガレオン船の建造が牡鹿半島・月浦(つきのうら・雄勝という説もあり)で数千人を動員し急ピッチで進められました。
船材には仙台藩内の杉や松材などを使い、まさにメード・イン・ジャパンの黒船を作ったことは驚異的な史実です。この頃の伊達政宗は、幕府の意向をかわしてソテロなどキリスト教徒の活動を許していました。彼らの造船、航海技術などを利用し、太平洋にひらかれた国際都市建設の夢を描いたのかもしれません。
月浦を出航したサン・ファン・バウティスタ号は、沖合からアメリカ大陸へ向かう海流にのって新イスパニアの貿易港アカプルコを目指しました。使節の正使は宣教師ソテロ、支倉常長は副使となり、仙台藩士12名の他、スペイン人約40名、幕府の役人約10名、堺や京都の商人など合わせて180名以上が乗り込みました。90日におよぶ航海を異国人同士が協力し合い、太平洋の大海原を乗り切ったのです。復元船は可能な限り当時と同じ工法と材料で作られ、船員の生活風景なども再現されています。船首にはカマドが設けられ、日本人は干した飯や魚を食べ、ニワトリやブタも飼われていたと推測されています。船倉はスペイン王への贈物や、商人達の持ち込んだ工芸品で一杯だったことでしょう。
サン・ファン館から牡鹿半島沿岸の道を走っていくと「支倉常長ローマ出航の地」の看板を見つけました。急なS字カーブの道を下りると月浦の港にたどり着きます。400年前、サン・ファン・バウティスタ号の威容が浮かんでた場所です
天然の良港といわれた月浦。前方にある小出島が防波堤となり、水深も深く、大型船建造には最適な港だったことがうかがえます。今は静かな漁港となった月浦も津波によって甚大な被害を受け、地盤沈下によって港は水面に覆われていました
新イスパニアの首都メキシコシティに到着した一行は、スペインを目指す使節団約30名と、商人達に分かれます。商人達は約1年間メキシコに滞在し、積み荷で交易を行ったといわれています。アメリカ大陸で初めての日本人によるビジネスが展開され、中にはメキシコに残った人々もいたようです。
一方使節団はメキシコの陸路を横断し、べつの船で大西洋を渡りスペインに到着します。滞在先のセビリアにはハポン(=JAPON)という姓の侍の子孫と呼ばれる人々が数百人もいます。首都マドリッドで国王フェリペ3世と謁見した支倉常長は、仙台藩でキリスト教布教を奨励することや、通商の許可を求めた伊達政宗の書状を読み上げ、国王臨席のもと洗礼をうけました。これは日本人がスペインで授かった最高位の儀式として現地に伝えられています。
支倉常長は次にローマへと向かい、盛大な入市式で招かれたのち教皇パウロ5世と謁見します。常長が輝かしい日々を送る一方で、江戸幕府のキリシタン弾圧は厳しさを増してゆきます。
常長一行が日本に戻ったのは、月浦を出帆してから7年後のことでした。日本の情勢は大きく変化しメキシコとの通商は叶わず、使節団の記録や洋船の建造・航海技術なども明治になるまで封印されていたようです。幕府は長崎・出島に限ったオランダとの交易を200年以上続け、太平洋への目はペリーの黒船来航まで開くことはなかったのです。400年前、自ら建造した船で太平洋へと漕ぎ出した男たちの夢を後世に伝えるためにも、月浦の復興は欠かせないと感じました。
秋深まりゆくロンドン。昨今はパリにも劣らぬ美食の都です。これ信じない人が多いので困るんですけどね。そのロンドンの食の世界で、この秋目立つ流れについてお話してみましょう。きっとそこから「今」という時代が見えてくるはずです。
まず、食品スーパー。店に足を踏み入れて驚くのが、その安値ぶり。生鮮から加工食品に至るまで、多くの食品で、昨年よりも目に見えて価格が下がっています。一年前に比べてざっと25%ほどの値下がりか?という感じです。あっ、これ、今回の円高を考慮に入れないでの話です。その上、同種類の品を2つもしくは3つまとめて買えば、三〜五割引の価格にするという表示が至る所に。例えば電子レンジでチンして食べるスパゲッティ・ミートソース、ラザニア、マカロニグラタンの類。基本的に2人前のパックで、いずれも日本のそれの五割増しといっていい内容量です。1ポンド=百二十円で概算すると、ひとパック定価百八十円のものが、三つで三百六十円。英国を代表する庶民派スーパー「テスコ」(TESCO)での実際の価格です。手に持つとズシリと重みを感じるラザニア2人分パックが、ひとパック百二十円ですから、1人前六十円! ロンドンでは食品価格のデフレーションが確実に進行し始めています。英国政府の超緊縮財政政策とユーロ危機から来る景気低迷が基本要因です。
しかし、今回の食品価格下落の背景には、大手スーパー間の熾烈な安値競争があることも事実です。いずれにしても、そのあおりを食らった形で多くのスーパーの店頭でめっきり影が薄くなったのが「オーガニック食品」すなわち、有機栽培の野菜・果物と、有機飼料とフリーケージ(放し飼い)で育てた食肉です。もともと有機の食品は、そうでないものに比べて二〜三倍の価格で売られるのが当然の世界。三年前のリーマンショックをきっかけに、その人気に陰りが見え始めたことははっきりしていましたが、今年はその傾向が極めて鮮明に。昨年までは、多くの野菜果物で、有機と非有機の両者を併売するのが普通でした。今年は、有機併売が大幅に減少、昨年の三分の一くらいになってます。目立つ形で有機専用の売り場を設けていた店では、売り場そのものが消滅していました。
ところで、今回の経済危機で一番大きな影響を受けているのがミドルクラスだと言われています。昨今のオーガニック食品ブームを支えていた中心層です。この層は今も「できれば有機を」という指向性は変わりません。しかし、肝心の所得に余裕がなくなってきた。ミドルクラスにとってさえ、有機食品を選ぶということが「贅沢」になり始めているわけです。日本よりもはるかに格差社会である英国。そのアッパークラス御用達の最高級食品スーパーでも、明らかに価格の値下がり傾向が見られます。特に、高級オーガニック中心の有名店は、かなりの苦戦を強いられている様子がハッキリ。数年前にはレジの前に長蛇の列ができるほどだったのが、今では売り場も閑散、日々売れ残った生鮮の処理をどうしているのか、心配になるほどです。同じタイプの高級店が大混雑のニューヨークとは別世界で、ロンドンに来て改めてニューヨークの底力を知る、という思いです。
こうした中で低価格化の影響をあまり受けることなく、品質の向上と種類の多様化が続いているのが「パン」です。フランス風、イタリア風、南欧風、ドイツ風、中東そしてインド風まで。実に様々な種類がスーパーの店頭に並びます。店内ベーカリーでの焼き立てを提供する店が増え、全粒粉でマルチグレイン(多種混合)が目立つのが最近の傾向。とにかく、この10年で劇的に水準が向上していて「英国=白い角型パン」なんていうのは、もはや昔話。食品スーパーに水準の高い多様なパンが並ぶという点はニューヨークと同水準で、いまだにフランスパン中心のパリを越えています。
さてここで目を外食に転じてみましょう。繁華街ビジネス街共に、レストランやカフェは増加傾向が続いています。ランチは一般サラリーマン中心の店で、5〜7ポンド=六〜八百円くらいというのがというのが平均でしょうか。東京と大差ないと感じられるかもしれませんが、5〜6年前までは10ポンドを越えるのが当然だったことを思うと、大変なかわり様です。スーパーやテイクアウト専門店のランチが値下がりしている事態に引っ張られているのではないでしょうか。多様なエスニック料理への指向の強さは相変わらずで、中でも、お寿司から始まった和食の流行は既にブームを越え、一つのジャンルとして確立。最近はラーメン、豚肉の生姜焼き、ギョーザ定食など、まるで学食のようなメニューを並べる「日本料理チェーン」が大当たり。同様のメニューの和食テイクアウト専門店も支店網を伸ばしています。店の移り変りが激しいのはロンドンも東京同様で、去年まで時々食べに行っていたシンガポール料理の店が、今年はグルジア料理の専門店になっていてビックリ。オリンピックを来年に控えたこの秋のロンドンは、食の世界に限らず、あちらこちらで大きな変化が進行中です。
【 一説には50kmも津波がさかのぼった北上川。河口から十数キロにわたり、洪水のような広範囲の浸水を受けました。1カ月以上も水がひかず豊かな田園も荒れ地と化しました 】
【 川沿いの道の水没や橋の崩落により、河口付近の地域は物資の運搬や復旧作業が大幅に遅れました。橋の右岸から釜屋峠を越えると雄勝町に入ります 】
海の波紋を思わせる黒い石のプレートは、5年ほど前からTIME & STYLEで販売されていた石巻市・雄勝(おがつ)産のスレートです。水を良くはじき、自然の割れ肌の美しいコースターや食器プレートは、同店の人気商品でした。大津波により雄勝町は崩壊し、伝統ある雄勝石の産業は存亡の危機にあります。プレートがふたたび生産される日はいつ訪れるのでしょうか。
TIME & STYLE MIDTOWN(六本木)にて
TIME & STYLEのプレートを生産していた雄勝天然スレート(代表・木村 満さん)も、工場や記念館「雄勝石ギャラリー」を流されました。同社は深い黒色の良質な雄勝産スレート瓦で全国に知られ、保存工事が進められている東京駅のスレート屋根瓦の再生も委託されていました。津波によって倉庫から流された数万枚のスレート瓦は、熊谷産業(43ページ)などの協力によって回収や洗浄作業が行われ、ふたたび東京駅に使われる予定です。
スレート(粘板岩)は板状に割れるのが特徴で、日本では硯として、西洋では屋根材として使われてきました。東京駅をはじめ日本の古い洋館の多くには、雄勝や登米のスレート瓦が使われています
2011年10月8〜23日まで、東京六本木のアクシスギャラリーで「水戸岡鋭治の大鉄道時代展 駅弁から新幹線まで」が開かれ、40年におよぶ水戸岡鋭治さんの活動を見ようと、多くの来場者でにぎわいました。
今回は展示会の様子と共に、5月11日、コラージ・サポーターを交えドーンデザイン研究所での懇親会でうかがった水戸岡さんの提言をお伝えします。
■ デザインの目的
私たちを鉄道のデザイナーと勘違いされることもありますが、私たちにとっては街づくりが一番の目的です。電車の走る風景や駅舎などが絡んで街ができます。若い頃は初めから絵を描いていましたが、今はきちんと文字を書いてからスケッチを描き図面を描くようにしています。1週間で絵を描ける時間は5時間位しかありません。葛飾北斎は90代になってから「絵というものがやっと分かってきた」といいましたが、私も40年以上かけてやっと分かりはじめたようです。私の実家は岡山にある家具屋で、この事務所の椅子も実家で作ったものです。昔ながらの製造販売をする家具屋で、子どものころから製材の天日干しを手伝ったり木は生活の一部でした。だから木の家具をデザインするときは、かっこよさよりも使い勝手や、やさしさを優先したいという思いがあります。スチールやプラスチックの家具が台頭してから、木製家具屋の仕事は一時減りましたが、最近はまた手作り家具が欲しいという人が増えて、私のデザインを提供することもあります。鉄道を手掛けるようになってからは電車の椅子も作り始めました。鉄道会社には木製家具を使う発想はありませんでした。車体への固定方法や木の不燃性について研究を重ね、木製品をふんだんに使った内装を実現できるようになりました。
■ 「おもいで」はデザインの全て
最近ようやく気づいたのは、人は「おもいで」の中に生きているということです。子どもの頃に見た原風景であったり、家族と過ごした日々をよく思い出します。戦後すぐに生まれ物のない少年時代でしたが、今はない豊かさがありました。週末や夏休みに預けられた吉備津の本家では、朝早くニワトリが鳴き始め、とれたての目玉焼きはぷりぷりで、ご飯は土間のテーブルでいつでも、誰でも自由に食べられる。10時の休憩には畑へお茶を持っていき、3時には柿の木の下に白い天幕を張って、祖父母や叔父叔母が揃って同じ時を過ごしました。こうした何もない時代にヨーロッパの高級リゾート並の豊かさがあったわけです。子どもは感動という言葉すら知らなくても、その景色を心の中にしまっているんですね。私のアイデアは全てこの「おもいで」からきます。記憶のタイムトンネルをくぐって当時に戻ることは出来ても、おもいでをリアルに切り取って持ち帰るにはものすごいエネルギーが必要です。その断片に現在の技術や感性を組み合わせると新製品が出来ます。それが今の私のデザインなんです。優れた小説や映画も、個人のおもいでを源泉としています。だから若いときから、おもいでを明確に記録しておくといいと思います。
■ 人の手の豊かさ
デザイナーは自分の手で製品をつくれませんから、自分の考える以上のものを持っている職人をつねに探しています。九州にいる80歳位の船大工は、四角い木の柱から丸太を削りだしていきます。鉋の跡があったりして粗っぽく見えますが、それを自然の中に置くととても引き立ちます。フリーハンドの線には、ものすごい情報量があるから自然の中でも力を持っているんです。木はまっすぐがいいのではなく、まっすぐな感じがいい。人には繊細な削り跡を見抜く力があります。その職人は和船を造っていたので、音を聞いて割れる寸前まで木を曲げる技術をもっています。木でモダンなカーブを描けるんです。山に入って鹿児島の厳しい環境で育った木を探してきます。だから庭の門を作っても全然傷みませんし、10年以上経つとその価値が分かります。こうした職人の潜在的な能力を活かすのがデザイナーの役割です。
■ 地球人であること
既製品のレベルの高い国は、そのまま美しい国になります。例えば塗料メーカーが何種類か統一された色を用意しておいて、その中から住宅の色を選べば街は自然と美しくなる。その国にふさわしい色や形、素材を「良識・常識・美意識」にもとづいて専門家がセレクトしていけばいいと思います。
ヨーロッパで窓辺を花で飾るのは、次の世代を担う子どもを教育する役目もあります。個人が街並(公共)を美しくしたいという意識のある環境で育てば、自然にデザイン意識や美意識が身につくでしょう。そういった街をどうやって作りだすかがデザイナーの仕事です。子どもにとって初めて見る色彩や形は生まれた家です。歩けるようになれば、街の風景や音、風、香りを心に写し込んでいきます。一生のベースとなる美意識を家族や街が創りあげるのです。儲かればいいという段階ではこうした街はできません。文化とビジネスのバランスが50:50だと、すべて質を高くして生きていける。昔の日本人はかなりのレベルでバランスをとっていたと思いますが、戦後は60年以上も経済を優先してきました。それを一旦止めて、日本らしいやり方を見つけることが出来ませんでした。いま日本人全体が求め始めているのは、経済と文化のバランスのとれた、安全で豊かな国ではないでしょうか。
今回の震災の復興は、住宅を提供して元通りにするレベルでは無理で、区域全体を移動しなければ解決しないと思います。こうした根源的な問題解決はデザイナーの努力だけでは出来ません。これからはプライベートな感覚はおさえ、公共的な発想を優先するときです。災害を受けたものも、そうでないものも同じ心の痛みを持っています。日本中、そして世界中が傷んでいるという意識を持ち、地球人という認識を持たなければいけないという所に来ています。
経済優先から豊かな国へとボタンを掛け替える人材が日本には不足しています。優秀な才能というのは皆のためにあって、神からもらったもの。それで得た利益は分配しないといけません。江戸や明治の頃は、村の優秀な子どもをお金持ちが教育したり養子にした例がいっぱいありました。利己主義の発達で大事な意識を失ったと感じます。本来は貧しくて未発展の国を救えないと、地球全体の豊かさは得られないはずです。
■ プレゼンテーション
JR九州では、こういう話をしながらプレゼンテーションしていくと、プラスティックではなく木を選ぼうという方向へ進みます。みんな本当は木の方がいいと思っていても、会社の立場では量産品で安くて手入れのしやすいものが正しくなり、街も新幹線も味気ないものになります。
JR九州の社長の場合は「椅子の形が色々あってもいいでしょう」と提案すると何も反対しません。「水戸岡さんに全てお任せします。ただしデザイン料は一定ですよ」ということです。これを実現するためには限られた予算内で、図面をいっぱい描かなければなりません。均一化すればデザイナーも効率がいいのです。しかしデザイナーは、最低のコストで最高のものをどれだけ作るかを目指す仕事です。将来こういう利用者が育って欲しいという理想の利用者像を描き、その方向へ進む道を考えてデザインします。自分の作りたい物を作るわけではありませんし、デザイナーの力だけではビジネスは成り立ちません。JR九州はデザイナーによって成功したとよくいわれますが、本当は歴代の社長がすごいからです。九州の鉄道を繁栄させるには「今までに無いものを作る」と決めて実践した結果です。リーダーの力で企業や国は変わります。次の世代を育てる環境をどうつくるか、会社ではなく父親の立場にたって判断することが大切です。目先の利益を追求するのは容易な道ですが、これからは、こんなことをしたら儲からないと言われるほど文化度の高い企業が成長する時代だと感じます。
■ 日本人のDNA
人間国宝となった漆芸家の松田権六さんは「伝統工芸にはデザイン力が大事」と書いています。スペインの教会には螺鈿細工の箱が大切に残されていて、それは日本の職人によるものでした。江戸から明治にかけて作られた日本の工芸品が、今も世界中で大切に使われています。ただしデザイン力が備わっていないと、何千年の技術の蓄積は活かせません。
戦国〜江戸時代の権力者は財産を投じてデザインを開発し、美意識の追求や地場産業の振興につとめました。それが国を守り栄えることにつながったからです。いま日本人はそのDNAを活かす時代となりました。それは日本人の唯一の存在理由であり、それに早く気付いた企業が生き残るでしょう。
今年3月にオープンした博多駅ビル「JR博多シティ」の屋上には、鉄道神社や里山、ミニトレイン(実際に乗れる)などを設けました。駅ビル利用者の約1割が屋上にあがるそうです。神社を作りたいと思ったのは、私が柏手の打ち方を正しく知らなかった反省もあり、子どもたちに作法を習って欲しかったからです。参道には行列ができ賽銭箱はすぐ一杯になってしまいました。経済の優先を唱える方たちも、会社を一歩離れれば子どもや孫を連れて行きたいと思うはずです。
北上川河口の白浜地区は、美しい浜辺にある漁業に支えられた集落でした。津波により大半の住宅は流され、住民たちは内陸部の仮設住宅や借上げ住宅へ避難している状態です。その姿を見て奮起したのが熊谷産業社長・熊谷秋雄さんでした。同社は北上川の葦(ヨシ)を利用した茅葺き屋根で知られ、全国各地の古民家や寺社仏閣、文化財の葺き替え工事で活躍しています。熊谷さんは自ら白浜地区の高台の土地を購入し、復興住宅建設に向けて動き出しました。その熱意にうたれた工学院大学(東京・新宿)は、125周年記念事業の一環として「白浜復興住宅プロジェクト」の推進を決定しました。石巻周辺の調査・研究を行っていた建築学部・後藤 治教授の主導のもと民間企業からの寄付も受け、建設は6月から始まりました。
白浜復興住宅の第一の目的は『恒久的に暮らせる復興住宅の建設』です。「プレファブメーカーによる仮設住宅を建てるだけでは本当の復興は進みません。数年後に新しい家を建てることは2重に資金を使います。地元の業者が参加した美しい街並を作るために、恒久的な復興住宅の有効性を自分達で実証し、地域の雇用創出や森林再生にも貢献するモデルを示したかった」と熊谷さん。自身も津波の被害にあい、数百人の友人・知人を失うなか「亡くなった仲間達を背負い、ガンバレと励まされながらここまで辿りついた」と語ります。
ここは標高40〜50mほどあり、津波の危険を避けながら海も見える絶好のロケーションです。「今の借上げ住宅は港まで車で30分かかる。ここで暮らせるととても助かる」と漁師さん。海を見ながら漁に出るかを判断するため、海の景色はとても大切な情報源なのです。平屋建て3棟(約13坪)、2階建て7棟(約20坪)、共同住宅1棟(約30坪)が建ち、7棟に漁業関係者が入居するそうです。
地元工務店のほか、関東からも井戸掘りや石積などの業者が駆けつけました。井戸を掘っていたのは「井戸屋」(神奈川)の皆さんです。標高が高いため70m以上掘る必要があり、しかもこの山は固い岩盤で出来ているため、約2ヶ月間泊まり込みで作業を続けました。強固な岩盤なので、地震には強いだろうといいます。
石垣は穴太衆(あのうしゅう)が戦国時代に行った積み方を踏襲しています。コンクリートよりも早く頑丈な擁壁ができるそうです。設計を担当した関谷真一さん(結設計室)は「国産の杉材を使った伝統工法をテーマとして、以前に増して満足できる暮らしを提供することを目指しました。沿岸部の高台移転は難題ですが、それを実現した先例としての価値も高いでしょう」と語ります。
BC工房 主人 鈴木惠三
「JAWA」の工房暮らしは35度の暑さ。
「ふじの」の工房はすっかり秋、朝晩は寒いくらい。
「JAWA」では、マンゴの旬を味わっていた。
市場で5キロ買ったマンゴを生で食べ、
フレッシュジュースにしてもらって飲み、
マンゴ三昧の日々。
「ふじの」の工房はカキの旬。
もぎとっては食べている。
果物がいっぱいあると幸せ気分だ。ハイになる。
きっとオランウータンのDNAが残っているにちがいない。
オラン+ウータン=インドネシア語なんだ。オランは人、ウータンは森=「森の人」という意味。なかなかいいコトバだ。オイラは「森の人」。
この秋のテーマは「老人と椅子」と「贈る椅子」。
大きくて楽しいテーマなので、「いいあんばい」で「いいかげん」で楽しんでいる。
今までの椅子デザインとはちょっと違う。「楽しいクセありーき」、「なんでもアリエール」がキーワード。
オヤジギャップがキーワードとは相当いいかげんだ。
時之栖(ときのすみか)美術館の「老人と椅子展」でお客さんと話していると、〈ちょっと軽快で、ちょっと小さくて〉などど、ちょっとひかえめな要求なのだ。
もっとこうして、もっと、もっとなどとせがまれた方が考えやすいんだけど。
椅子に関して、皆さん、あれこれ言わないってことは、
椅子はまだまだ未成熟の段階かな?
龍馬が長崎で、畳の上の椅子に坐ってた頃から、
まだ100年そこそこ。
中国やイギリスの椅子の歴史は1000年以上かな。
日本の椅子のデザインは、まだまだコレカラ。
「椅子の夜明け」?
「夜明けの椅子」?
挌闘史に残る一戦 ムエタイ世界タイトルマッチ 石井宏樹VSアピサック K.T. ジム at 後楽園ホール
2011年10月2日(日)。後楽園ホールは異様な熱気に包まれていました。世界最強の立ち技競技といわれる「ムエタイ」の世界タイトルマッチが開かれたのです。ムエタイはタイの国技であり、2大聖地といわれるラジャダムナン・スタジアムとルンピニー・スタジアムのタイトルは、事実上の世界タイトルといわれています。今回はラジャダムナン・スタジアム認定スーパーライト級王座決定戦として、石井宏樹選手(日本ライト級王者)とアピサック K.T. ジム選手が闘いました。日本のキックボクシング界では7度の王者防衛を成しながら、ムエタイのタイトル戦では過去3回の挑戦を果たせなかった石井選手(32歳)。4度目の今回は引退も辞さない選手生命をかけた一戦でした。
試合後、リングは石井選手のファンたちで埋め尽くされました。日々苛酷な練習を積み重ね、世界の頂点にたった石井選手。次は日本人初のタイトル防衛に挑戦です。「NO KICK NO LIFE 」その攻防はまだまだ果てなく続きそうです。