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伊勢の御師 と
ブルーノ・タウト
第一次世界大戦後のドイツ。市民は劣悪な生活環境のなかで苛酷な労働を強いられていました。それを改善しようとドイツ工作連盟により計画されたのが、ベルリンなどに建てられた集合住宅「ジードルンク」です。庭園の緑と共生した生活空間は世界的な評価を得て、日本の同潤会や公団住宅にも影響を与えました。
設計の中心メンバーだった建築家・ブルーノ・タウトは、その後ナチス・ドイツの迫害をうけ日本に渡ります。そしてタウトが桂離宮と共に称賛したのが、伊勢の神宮でした。
貴族や武士の手厚い庇護により繁栄を続けた伊勢の神宮ですが、戦国時代には衰退の時期もありました。その危機を救ったのは、伊勢の御師(おんし)たちでした。
御師は各地の農村などに出向き、伊勢暦や大麻(お札)を配りながら今でいう観光誘致を行ったのです。行動を制限されていた農民達は「一度は伊勢へ」の思いを強くしたことでしょう。やがて江戸時代、街道の整備や貨幣の発達と共にお伊勢参りは爆発的なブームとなります。
「伊勢講」という旅費の積立てシステムによって一般の農民達も旅に出られるようになり、農村に情報革命をもたらしました。全国から新種の稲籾や農業技術、農具などのほかにも様々な情報が伊勢へと集まり、流行歌やファッションも伊勢参りと共に全国に伝搬されたのです。
伊勢の外宮から内宮に続く伊勢街道には、かつて大きな歓楽街「古市」がありました。吉原、島原と並ぶ遊廓にも数えられ、参拝客で賑わったそうです。そのおもかげを今に伝える「麻吉旅館」。伊勢の御師はツアーコンダクターの役割も果たし、お伊勢参り一行を豪勢な料理や名所巡りでもてなしました。ちなみに前号○ページの「山田羽書」(日本初の紙幣)は、参拝客の釣り銭としても使われていました。
「伊勢は世界建築の王座である。芳香高い美しい檜の用材と萱の屋根、この単純な材料で他の追随を許さない。しかも正確には、いつこの形式ができたのかも、最初にこれを造った人も伝わらない。おそらく天から降ってきたのだろう。」
ブルーノ・タウトは伊勢の神宮について、このような言葉を残してします。タウトが来日したのは1933年のことで、1929年には第58回の「式年遷宮」(20年に一度の建替え)が行われています。タウトが見たのは、まだ真新しい神殿の姿だったのでしょう。集合住宅ジードルンクの設計では色彩を多用したタウトでしたが、素材そのままの美しさを表現した神宮の姿は、彼に何かの変化をもたらしたのでしょうか。ちなみに次回の遷宮は平成25年に予定されています。20年に一度の式年遷宮は、伝統工芸の技術保全にも大きな役割を果たしています。漆芸など、千年以上前から神宮に伝わる技法の記録は、現在の工芸家にとっても、仕事の規範となっているのです。
第二次世界大戦の末期、伊勢の宇治山田は大規模な空襲におそわれ市街の半分以上を焼失。神宮も大きな被害を受けました。空襲の際、多くの人が避難したといわれる宮川では、神宮に奉納される花火大会が毎年開かれています。
ヴァレンタイン七変化
「小山ロール」でロールケーキブームの火付け役となったパティシエ エス コヤマの、コヤマススムさん。2012年ヴァレンタインコレクションの発表会が開かれました。「ショコラの表現に無限の可能性を感じる」というコヤマさんの新作は、京都の伝統食材とチョコのマリアージュから生まれました。
「DNA京都2011」
大徳寺納豆や金胡麻、米こうじ味噌、黒七味、黒大豆醤油など、生まれ故郷・京都に縁の深い食材と、世界各国のカカオを組み合わせたショコラデギュスタシオン。繊細な技を駆使したチョコのテイスティングを楽しめます。ショコラの原点でもある飲むチョコレート
「ショコラショー」発表会に出された5品。「一休」は大徳寺納豆の味がストレートに感じられ、「金胡麻のプラリネ」は胡麻の香ばしさと濃厚さが引立ちます。「米こうじ味噌」は兵庫県多可産の米こうじ味噌をコスタリカ産トリニタリオ種のミルクチョコに練り込んだ挑戦的な一品。この3点はカカオに唐辛子を加えて飲んでいた頃の、貴族的なショコラの原点を彷彿とさせました。一方「アナイス-es」や「小山流バウムクーヘン 冬ショコラ」は気軽でホッとする美味しさです。
京都の洋菓子職人の家に生まれたコヤマススムさん。2003年兵庫県三田市の自然あふれる空間に「Kingdom of Sweets PATISSIER eS KOYAMA」をオープンしました。
「C.C.C degustation No.5」
2011年10月、パリで開催された「SALON DU CHOCOLAT」に初出展し、Club des Croqueurs de Chocolatの品評会にて5タブレットを獲得という、外国人として、また初参加としては史上初の快挙を達成した一品。
3年前、エクアドルのカカオ農園を訪れた際に出会った農園主の息子ダニエル君へのエールから生まれた「ダニエルズ カカオツリー」。フェアトレードで仕入れたオーガニックカカオを使用しています。パッケージデザインは丹下紘希さん。
エクアドルのカカオ農園で、初めてカカオの実を食べたコヤマさんは「こんなに美味しいフルーツなんだ」と感激し、チョコレートの無限の可能性を確信したそうです。様々なメッセージを閉じ込めたショコラたちは、これからどんな世界を描いていくのでしょうか。
工房楽記
180日の「老人と椅子」
BC工房 主人 鈴木 惠三
「老人と椅子」展の180日。
かつて、オイラは、展覧会の企画が本業であった。
本業のかたわら、家具屋をやっていた。ホントの話。
しかし、この10年は、家具屋が本業。
展覧会の企画なんぞ、忘れていた。
ほんとに久しぶりの展覧会が、
今回の「老人と椅子」展なのだ。
自分で作ったモノを、自分で企画した展覧会にするテレくささがあったので、
「じっと、こっそりの観察者」を、していた。
毎週土、日は、会場で観察の日々。
「座る人の動きを、興味深く見せてもらった。」
おそるおそる座る人が多い。
「勝手に座らないでください。」などと言われてきたからかな?
元気な老人のおばあちゃんが、一脚ずつ座りくらべるように、じっくり座ってくれていた。
おばあちゃんは、いろんな座り方をしながら、ブツブツ言っている。
「ちょっと背がなぁー。」などと。
毎日の暮らしの中で、
老人にぴったりの椅子が必要なんだ。を、
この目で、カラダで感じさせていただいた。
「ひとりの人のための一脚」
椅子の開発の時には、いつも、「ひとりの人」をイメージしてやってきた。
「たったひとり」をハッキリさせることで、より大胆なモノづくりが出来ると思っている。
「老人と椅子」などという、少々ふざけた名前の展覧会が、受け入れてもらえるかどうかも心配であった。
「時之栖」という、ユニークなリゾート施設のおかげ、というよりユニークな経営者のおかげで、
もっとおもしろく、もっと楽しくを追求させてもらえた。
感謝、感謝です。
■ 椅子は店を出て、展覧会へ。
■ 誰もが座って楽しめる椅子の展覧会を。
■ 普通の使い手が、好きな椅子に出逢える場を。
「椅子が楽しめるギャラリー」
「楽しい椅子の美術館」
これが、オイラの夢になってしまった。
皆に楽しんでもらえる椅子づくり、あと100脚。
展覧会から、こんな大きなテーマがもらえて幸せである。
ヴィクトリア女王 と
シャーロック・ホームズ
日本が明治維新に揺れるころ、アメリカ大陸からオーストラリア、インド、中東、アフリカまで、「太陽の沈まない国」として君臨した大英帝国。その国の母として神格化されたヴィクトリア女王の時代(在位1837〜1901年)は、探偵シャーロック・ホームズを生みだしました。ホームズとワトソンの活躍した1880年代から1900年代初頭、ロンドンの都市生活は大きく変化しました。電報は電話へ、ガス灯は電灯となり、2階建て公共馬車を石炭車が牽引しています。そして1900年はじめには、晩年のヴィクトリア女王の姿が動く絵(動画)の中にとらえられました。18歳で即位したヴィクトリア女王は1840年、母方の従弟にあたるアルバートと結婚し多くの子にも恵まれます。ウィンザー城での団欒を描いた絵のような家族像は、国民のあこがれとなりました。そして当時のロンドンでは、貴族でも労働者でもない「ミドルクラス」が暮らしはじめます。彼らは産業革命で成功した工場主や、インド・アフリカなど植民地で蓄財した鉱山開拓者や軍人、投資家などです。ホームズの依頼主の中には、そうした人々が沢山登場します。彼らの都市型アパートメントや都市近郊の住宅のために、様々な時代の貴族的な様式を復刻した家具が大量に作られました。シェラトンスタイルのライティングビューロー。デスクを閉じて鍵を掛ければ、貴重品や秘密を保持できます。他にも収納付きベンチなど、都市生活に便利な家具が流行しました。いま流通する英国アンティーク家具の多くは、この時代に愛用されたものなのです。
illustration Kenji Unoki
1908年発表の「ブルースパーティントン設計書」のなかで、ホームズは事件解決の褒美として、ウィンザー城にて「さる高貴な女性」(ヴィクトリア女王?)からタイピンを贈られます。
ホームズの物語は、アーサー・コナン・ドイルによって1887〜1927年にかけて執筆されますが、小説の中の世界は1880年代当時のまま描かれ続けます。ドイルとその読者もまた、ヴィクトリア女王の時代を愛し続けたのです。現実のロンドンは、19世紀末の爆発的な人口増加による交通渋滞や工場のスモッグに見舞われ、貧民街には阿片窟がはびこるなど、近代都市を巡る様々な問題に直面します。そんななかコナン・ドイルは、19世紀末に南アフリカで勃発したボーア戦争に医師として従軍し、戦場報告をまとめます。国際的に非難された英軍を擁護し、その功績からサーの称号を与えられました。ドイルもまた、ヴィクトリア女王につかえた最後の騎士の一人となりました。一方デザインの世界では、工業化による大量生産品に異議を唱えたウィリアム・モリスを中心に「アーツ・アンド・クラフツ運動」が展開されます。中世の手仕事の復権を訴えるモリスの情熱に多くの職人が共感し、素晴らしい作品を作り上げました。それは一般には受け入れられませんでしたが、騎士道精神の最後を飾る作品として今も高く評価されています。そして20世紀、ヨーロッパは近代的な世界戦争の時代へと突入していくのです。中世から続く工芸とモダンデザインをつなぐため、大切な役割を果たしたアーツ・アンド・クラフツ運動は、日本の民芸運動にも大きな影響を与えます。過去を知ることこそ、将来を築く礎となることを、無言で語りかけているようです。
英国骨董おおはらのコレクションから。
それでも 地球は 回ってる新連載 ♯3 夏姫
野田 豪(AREA)
[小人]
ベッドの中。夏姫は掛け布団に隠れて息を殺してその様子を見守っている。ついに全裸の小人はドアの隙間からおずおずと入ってきた。続いてもう一人が姿を現す。親指ほどの二人の小人は戸口で何か囁き合っている。あの娘だね。あの娘さ。夏姫は知っている。あの男女の小人は私にとってひどく不吉な存在だ。そして夏姫は予感する。あの二人は、ほどなく私の布団に入ってくるはずだ。二人はいやらしく囁き合いながらこっちに近づいてくる。女のほうが体をくねらせた。ああ、だめだ。夏姫は布団の中で身を小さくする。彼らがついには自分の服に入り込んでくることを想像する。………その間中。女の小人は耳元で、大丈夫よ、大丈夫よと繰り返し囁き、男の小人が私の ………。
[薬の時間]
「夏姫なんか最近やつれてない?部活にも出てこないし……・。」「大丈夫?相談に乗るよ?」学校からの帰り道。夏姫はため息をついて携帯を閉じた。地区大会は無理だろうな。ごめん。みんなごめんね。授業中の優菜の視線。分かってる。すごい心配してくれてるよね。でも私はもう駄目なの。ここ数日涙も出ないの。ほら、今も肩に乗った小人が私の耳を引っ張ってる。「薬の時間だぞー。ちゃんと飲まないとだめなんだぞー。また太っちゃうぞー。ダイエットだぞー」私だってもう分かってる。ダイエットの薬なんかじゃないってことくらい。でも …… やめられないの。
[カイト大好き]
今日もベッドの中できつく目を閉じる。キレイなことを考えよう。なるべくキレイなモノを……。そう……例えば……。走るカイトの独特なフォームを思い浮かべる。彼のしなやかな体。そのまま未来に届きそうな手足。私はトラックをぐるぐる走り続ける彼を校舎の図書室からこっそり見ている。なんてキレイなんだろう。クラスの中のカイト。すっごい人気者なんだ。いつも脚を机の上に乗せてえばってる。親友のナツ君が横に居て、二人はとても仲良さそうにしている。陸上部の部室でスパイクを振りまわしているカイト。子供みたい。子犬みたい。かわいいね。もう一緒に走る事は出来そうにないけど。私はすごく汚れてしまったから。あの男にメチャクチャにされちゃったから。でも ……。まだ間に合うかな。私もきれいな世界に戻れるかなあああそうだお薬。おくすり忘れてる。ばかねわたし大事なおくすりわすれるなんて!! これないときれいになれないから。かいとに好きっていってもらえないじゃないこびともわたしのむねのうえですとれっちをはじめたわわたしもやらなきゃすとれっちおいてかれるからかいとがどんどんさきにいっちゃうからほらほらこびとがいっぱいわたしのけっかんのなかにはいってくる。き、き、ききもちいいいい。
[陸を走るカイト]
「はい、次は300、15本!」
もう口を聞く元気もない。まじかよ……15本……て。口の中で小さく呟くのがやっとだ。風景が白く光ってる。酸欠だ。トラックを横切って位置につく。はいっ、はいっ優子さんが手を叩くたびに部員が一人一人走り始める。俺の前に4人、3人、2人、うー、くそっ。パンッ。行ったれ。風景が流れる。前を走る一年の女子、グリの黒い背中が揺れる。自分の息と風を切る音。風になる、風になる………ってなれるかっっ。フィールドで幅飛びの女子がじゃれあってる。カレンと目が合う。「カイトっファイトッ」くそっ、かわいい声しやがって …… スゲ~嬉しい。グリがすぐ目の前に ……… 抜いてやるっ。
[部活帰りの風景]
7月。海辺の街。夏の始まり。潮の香り。陸上部の練習の帰り。一年の多田が俺らのまわりをうろちょろしている。「やっぱり、ナイキっすかね」「知らねーよ。つーかお前どっか行けよ。」北島が蹴りを入れる。「いいべよ、こいつ他の一年と馴染めねーんだって。かわいそうじゃねーか。」「おーさすがカイト先輩。」「つーかお前もそろそろ馴染めよ、周りとよ。おーとか言ってんじゃねー。」「ははっ。」「なあ、カイト、今日行くだろ。」ナツが肩を組んでくる。公家顔のナツ。俺の幼なじみ。昔はちゃらけてる奴だったけどな。転校して、最近また戻ってきてからは少し暗い感じ。まあ、あれだけの事件起こせば……無理ないか。「なんだよ、お前らやっぱりやんのかよ、サーフィン。」「おう。北島、お前もやる?」北島は丸い顔を膨らませた。「俺、泳げねーんだわ。」「大丈夫っだって、なんせお前モテモテだよ、女群がるよ?」「女かぁ。いいよなぁ、でもカイトとナツはサーフィンしないだってもててんじゃん。」まあなって顔するけど、別にもてた事なんて実は生まれてから一回もねえよ。「夏姫ちゃんとかさ。あいつ絶対カイトに気があるでしょ。」「夏姫?まーさーかー。ウチの部活でっていうか、西中のナンバーワンじゃん、美女じゃん。カイトを?うっそだー。」「こらこらナツ君?」………夏姫。そういえば最近部活にでてこないな。どうしたんだろ。
[左の道]
痺れた脳の片すみが映す夕暮れの街。幻の街。夏姫はバス通りで立ち尽くしている。大通りの向こうに目を細める。行き交う車が邪魔をする。あの道はどこに続くんだっけ。夕陽に照らされた路地の突き当たり。右は行き止まり。それは知ってる。左に行けば?どこに出るんだっけ。思い出せないな。でも……うん。……誰かと手をつないであの左の道の先に行きたいな。
ねぇ?……カイト……。一緒に行こうよ。
ねぇ?……カイト……。手を握って大丈夫だって言ってよ。
ねぇ………カイト……。あのね……。
……………… たすけて。
葛飾北斎 と高井鴻山
長野県・小布施町。沢山の観光客でにぎわうこの街は、江戸時代から交通の要衝として「六斎市」(月に6回開かれる市場)でにぎわってきました。その繁栄を象徴するもののひとつが、岩松院に描かれた巨大な鳳凰の天井画です。この絵を描いたのは89歳、最晩年の葛飾北斎でした。毎年1月14、15日に開かれる小布施の祭「安市」は、かつての六斎市を思わせます。この市場でなした財を元に、京都や瀬戸内にいたる幅広い商圏を持ち、北信濃きっての豪農商といわれたのが高井家でした。飢饉に見舞われるたび倉を開放し、村民を救済した行いは、今も「おふるまい」の慣習に残されています。19世紀の初め高井家に産まれ、三九郎と呼ばれたのが、後の高井鴻山です。兄が次々と亡くなったため、跡取りとして期待された鴻山は、京都に遊学して儒学や漢詩、絵画などを学ぶかたわら、島原遊郭で豪勢に遊び多くの知己を得ます。その鴻山が絵師・葛飾北斎と江戸で出会ったのは1840年頃のことでした。1833年に代表作「冨嶽三十六景」を完成させた北斎の創作意欲は衰えず、その興味は肉筆画へと移っていきます。北斎は当時すでに80歳代、一方の鴻山は30代半ばでした。
天保の改革にゆれる江戸をたち、高井家を訪ねた北斎を、鴻山は熱狂的にむかえ、北斎のためにアトリエを設けます。祖父と孫といってもいい年の差でありながら、ふたりはパトロンと芸術家の関係を結ぶのです。鴻山は北斎から絵の手ほどきをうけ、花鳥図や妖怪絵図など素晴らしい作品を描いています。そのさなか、中国ではイギリスがアヘン戦争に勝利し、日本の危機意識は一気に高まります。鴻山の元には京都の縁で出会った佐久間象山(吉田松陰の師)をはじめとする志士達が夜な夜な出入りし、熱い議論を交すようになりました。そして岩松院の鳳凰が完成し北斎が90歳で亡くなった5年ほど後に、浦賀にはペリー率いる黒船がやってきます。幕府への多額の献金によって高井家は零落し、明治になると鴻山は東京へ出て私塾をひらきます。北斎にかわり時代の変化を肌身で感じながら、1883年(明治16年)に鴻山は77年の生涯をとじました。その年には鹿鳴館が開館します。
イタリアワイン3000年
昨年の11月21日〜27日にかけて開催されたイタリアワインウィーク「イタリアワイン三千年」。
イタリアから各産地の代表や醸造家たちが訪れ、試飲会やセミナー、ワークショップ、販売会などが、
都内各地で開催されました。写真はイベントを締めくくるガラディナー(イタリア大使館)での様子です。イベントの開始にさきだち、イタリア大使館で記者発表会がひらかれました。すっかりおなじみのイタリアワインですが、東アジアで消費されている量は、輸出量全体のたった5%と聞き、ちょっと驚きました。そのうちの約半数は日本、中国・香港で約3割が消費されています。今後中国での需要は急増するでしょう。その中で日本はアジアのトレンドリーダーとして重要な市場と見られているそうです。いまイタリアの各産地では、古くから作られてきた「土着品種」を復刻する動きが続いているそうです。1990年代には、カベルネ・ソーヴィニヨン、メルロ、シャルドネなどインターナショナルな品種に植え替え、競争力を重視した時期もありましたが、主張の強いワインよりも、その地域の特性を活かし、地場の料理と共に毎日飲みつがれてきたワインを大切にしようという流れに変化しているとのことでした。20世紀の作家・映画監督マリオ・ソルダーティは「ワインは、とりわけイタリアでは、大地の詩である」という言葉を残しています。イタリア各地の土壌や気候、歴史的背景を凝縮したともいえるワインの風味から、その土地の情景を思い浮かべることも出来るのです。イタリア統一150周年を記念して、イタリア20州から集めた土着品種を1本に詰めた記念ボトル「UNA」も発表されました。ボトルのデザインは建築家アルド・チビチとのことです。3000年前といえば古代ギリシャのポリス(都市国家)が形成されはじめた頃で、フェニキア人から伝えられたワイン醸造がはじまります。その頃アテネの詩人エウリピデスは「ワインのないところには愛もない」といい、そのワイン文化を引き継ぎ発展させた古代ローマの詩人オウィディウスは「ワインは人の心を鍛え、情熱を燃え立たせる」といっています。当時からすでにワインは人生にとって欠かせないものだったのです。
イタリア各地には、ローマ時代から作られ続けている地場のワインも多いそうです。ワインを飲みながら数千年をさかのぼり、ローマ人の日常を想像する旅も楽しめそうです。
前川國男 と
堀江佐吉
弘前図書館前の広場から左右を見ると、堀江佐吉の「旧市立図書館」と、前川國男の「弘前市役所」が望めます。津軽氏の築いた城下町に、新たな風を吹込んだふたりの作品です。旧市立図書館。棟梁・堀江佐吉たちが明治39年、市に寄贈した図書館です。弘前には、明治・大正期に建てられた洋館や教会が数多く残されています。前川國男の建築は、そうした古きよき建物と呼応するように設計され、街の光景に溶け込んでいます。ル・コルビュジエに学んだ前川國男は、帰国後まもなくデビュー作となる「木村産業研究所」(1932)を手掛けます。パリでえた設計思想を最もストレートに表現した作品といわれますが、積雪に対しては不都合な点も多くありました。その反省から、日本の風土にあった建築を追求するという前川のスタイルが確立していきます。弘前の人々は前川の建物を大切にすることで、近代建築の迎える未来を教えてくれます。ちなみにブルーノ・タウトは弘前を訪れた際、コルビュジエ風の建物に出会ったことに驚いています。前川國男がパリに留学した約50年前、弘前から北海道に渡った棟梁・堀江佐吉は、開拓使の仕事をとおして、函館や札幌で洋風建築のスタイルを学びます。その最晩年の作である「旧弘前偕行社」(1907年)は、陸軍の将校倶楽部として建てられました。
ケノシュタインの相対性
わたしとMacintosh -その2
小林 清泰
私とMacintosh出会いは1984年の秋か冬頃だったろうか。高円寺近くの友人の医療機器デザイン事務所でであった。白い画面中を矢印形のポインターが上下左右に動いている。しかしキーボードを操作していないのに、なんでポインターが移動しているのか最初は理解できなかった。今では至極当たり前の「マウス」という道具概念が自分の中になかったからだ。そのくらいコンピュータというものを知らなかった。しかし「白い画面が美しい!」と感じ、そのトールボーイ型機器のシルエットが強く印象に残った。
実は白い画面のコンピュータとは1982年頃、富山市内のゼロックス支店を訪ねた時、初めて出合っている。もちろんモノクロだがやはり画面が美しくさわやかな印象で、オフコンではあったがコンピュータはこうあるべきだと漠然と考えた。
結果的に購入に踏み切ることになったMacintoshとの2回目の運命の出会いは比較的早く訪れた。1985年夏前、建築確認申請書類提出で出向いた葛飾区役所出口横に、テント張りに設えられたキャノン販売のイベントがあった。通り過ぎようとしたものの「白い画面のあの機器」が目に入り、マウスを操作したくて思わず販売員に声をかけてしまったのだ。日本語が走るモデルである事はそのときに確認している。4〜5日後に当時神宮前2丁目にあった事務所にデモ機類が持ち込まれた。
本体の性能とデザインにはもちろん改めて感動したが、持ち込まれた中で一番感激したものは「Mac Paint」と言うソフトである。マウスだけで自由自在に絵が描けるのだ。比較的手が動く私にとってこのソフトとの出会いは「Macintoshという人間のためのパソコン」の「とても自由で、ありたい姿」を私の記憶の中に強烈に刷り込んだ。電子計算機イコールコンピュータという私の既成概念を根底から書き換える体験であった。グラフィック ユーザー インターフェイス(GUI)のありたい姿のすべてがここに盛り込まれていると直感し、非常に高かったが購入を決断した。
他に購入したソフトは「Mac Draw」という簡易の図形と線を描くソフトで、すでに「面」という概念を持っていた。また、表計算ソフト「Excel」と「MiniCad」も揃えた。MiniCadは、いまやアトリエ系設計事務所に欠かせない製図ソフトであるVector Worksの前身で、当時はまだ英語版しかなかった。
嬉しくて、自慢したくて、前号で掲載した年賀状を「Mac Paint」を使って制作した。ビットマップデータであるためドット一つずつをコントロールできる。加筆修正が楽に行える。プリンターがまだドットタイプしかなかったし、スムーズなカーブの描写は叶わなかったが、可愛く温かい賀状が出来たと大満足であった。
PS
初期のMacintoshにはOSにソフトキーボードというアプリケーションが組み込まれていて、現在のiphoneやipadのように画面上に現れるキーボードを、マウスのポインターで一文字一文字クリックして、アルファベットを入力出来ました。それを使ってキーボード入力の20倍以上の時間を掛けてノロノロやっていました。正直申し上げますが、私は未だにキーボードが苦手なのです。
尾崎紅葉 と
泉 鏡花
東京・神楽坂。黒塀に囲まれた花柳界の息づくこの街で、明治期に圧倒的な人気を誇ったふたりの作家が師弟関係をむすんでいました。
夏目漱石や芥川龍之介が活躍する前の時代、明治文壇のリーダーとして圧倒的な力をもったのは幸田露伴と尾崎紅葉でした。漢学や英語に長けた紅葉は、学生時代に「二人比丘尼 色懺悔」でデビューし人気作家となります。帝大中退後は読売新聞に連載小説を次々と発表し、20代からすでに泉鏡花をはじめとする門徒達に囲まれ、神楽坂の家で充実した日々を過ごします。そして明治30年から連載が始まった「金色夜叉」は、国民的な人気を博す大ヒット作となりました。
師を崇拝する弟子・鏡花との仲に亀裂が生じたのは、明治36年頃のことでした。鏡花は神楽坂の元芸妓・桃太郎(すず)と恋仲になり同棲をはじめます。それを知った紅葉は激怒し「女を捨てるか、師匠を捨てるか」と迫られた鏡花は、すずと泣く泣く分かれるのです。その直後、紅葉は病に倒れ35歳の若さで亡くなります。鏡花は紅葉の一番弟子として、葬儀をとりしきり、生涯にわたり師への尊敬をつらぬきます。
では、すずとの関係はどうなったのでしょうか? 紅葉の死後ふたりは結ばれ終生を添いとげます。そして紅葉に反対されたエピソードを物語の中心にすえたのが、鏡花の人気作「婦系図」(おんなけいず)なのです。
松本清張は著作「文豪」のなかで紅葉と鏡花の関係をとりあげ、原稿の手直しまで面倒をみた弟子が人気作家となり、自分を追い越そうとするときの焦燥感を描いています。
「金色夜叉」と「婦系図」は、明治文学揺籃の地・神楽坂で育てられた、師と弟子の物語ともいえるかもしれません。
淀屋と
安宅英一
江戸時代からビジネスの中心地として発展した中之島。公会堂や図書館、美術館なども並ぶ憩いの場ともなっています。元々の中之島は、堂島川と土佐堀川にはさまれた葦のしげる砂地でした。豊臣秀吉の命により中州を開拓したのは、やがて全国一の豪商となる淀屋常安です。常安は徳川家康の大坂城攻めの際、家康にとりいり米市の設立を許可されます。中之島には諸藩の蔵屋敷が建てられ、全国から年貢米や産物が運ばれるようになりました。淀屋はこれを現金化し売りさばくことで、巨万の富を得ました。また世界初の先物市場といわれる米の手形売買も行われるようになります。明治初期、鉄橋に架け替えられた高麗橋の絵皿には、川沿いに並ぶ土蔵が描かれています(2009年 水都大阪再発見展 大阪市立東洋陶磁美術館より)。
大阪市中央公会堂は、株式仲買人・岩本栄之助の寄付によって建てられました。岩本は建物の完成前、株の損失により非業の死をとげます。全国から集まった物資は、瀬戸内海を通る船によって運ばれていました。水上バス「アクアライナー」に乗って、水面から眺める水都大阪を楽しめます。淀屋の米市から始まった米の先物取引市場は、2011年8月、72年ぶりに復活しました。栄華をきわめた淀屋は宝永2年(1705)五代目淀屋のとき、贅沢な暮らしぶりを幕府にとがめられ闕所(とりつぶし)となります。一説に淀屋は、大名に百兆円以上の融資を行っていたといわれています。当時は幕府の財政も困窮し、銀貨の改鋳を繰り返すことでその価値をさげ、大坂商人に大きな打撃を与えます。利権のふくれあがった商人に対する弾圧のはじまりとも受け取れます。ちなみに宝永2年(1705)に起った伊勢参りブームは、京都を中心に数カ月で300万人以上にのぼったといわれ、宝永4年には、東海・東南海・南海連動型地震と考えられる宝永地震が発生します。淀屋がとりつぶされてから約200年後、中之島の近くに安宅産業が創業します。日本最大の官営八幡製鐵所との取り引きをきっかけに、10大総合商社の一角を占めるまでに成長した同社は、石油ビジネスの失敗などから、1977年、伊藤忠商事に吸収合併され消滅しました。戦後最大の破綻劇のなかで話題となったのが、元会長・安宅英一氏による東洋陶磁器コレクションでした。朝鮮陶磁器を中心としたコレクションは、中之島の大阪市立東洋陶磁美術館で公開されています。
1901年生まれの安宅英一氏は、20代半ばロンドンで暮らしながらピアノを学びます。音楽界のパトロンとしても知られ、東京藝大の「安宅賞奨学基金」(奨学金制度)は今も継続して支給されています。30歳の頃から古陶磁の収集をはじめ、1951年、50歳のときに美術品の収集は社業の一部となり、本格的な蒐集が始まります。吸収合併時、会社の資産であったコレクションは安宅氏の手を離れ、様々な変遷をへて住友グループ21社から大阪市へ寄贈されるかたちで散逸を逃れました。一方、社の事業はバラバラに解体され、社員はちりぢりになってしまいます。企業が後世に残せるものは何か。安宅氏の眼はそこまでを見すえていたのでしょうか。
中之島でとりつぶされた淀屋は、のれん分けの形で鳥取県・倉吉にその血をつなぎます。倉吉の牧田淀屋はいなこき千刃(農具)の発明などで力をつけ、大阪への出店も果たしました。しかし幕末の頃、突然店を精算し、倒幕資金として朝廷に寄付します。中之島をめぐる不思議な商人たちの物語は、これからも連綿と続いていくのでしょうか。
卓上のきら星たち 第9回 銀ざくざくヴァイキング大原千晴
写真を見てください。コイン、首飾り、腕輪など、すべて銀を素材とする品々です。完品もありますけれど、ナイフでスパッと切断されたものも多い。実はこれ、ヴァイキングの首長たちの遺跡からの発掘品です。壺に入れられて、しっかりと封印され、その上で、地中に埋められたものです。こうした銀器ザクザクの宝の壺が、今も欧州のあちこちから発見され続けています。いつ頃埋められたものかというと、そのほとんどが西暦九百〜千百年頃。銀のコインから年代が判るんですね。じゃあ、どこで見つかるのか。その発見場所はそのまま、かつてヴァイキングたちが侵攻していった場所の地図と重なります。九世紀中頃、彼らは突然炎の如く、あらゆる方向に向かって船で侵攻を開始する。寒風吹きすさぶ北の海の荒波をものともせず、小さな船を操って、海と川の続く限りどこまでも獲物を求めて進んでいく。まさに勇猛果敢。攻められる側からすれば、これほど恐ろしい集団もまず他にありません。約二世紀半に渡って続くヴァイキングの侵攻。その爆発的なエネルギーは、一体何が産み出したものなのか。諸説紛々ですが、今日のお話が、その疑問と解くひとつのヒントになれば、と思います。
どんな船で攻めていったのかというと、一番一般的なもので、全長十五〜十八メートル、幅2.5メートルほど。20人ほどの漕ぎ手全員が力を合わせれば、陸地に船を揚げ、コロなどを使って原野を移動させることも可能な軽量船で、水深一メートルでも航行できる造りです。そんな船だと、あまり遠くには行けない、そう思いがちです。でも、そうじゃないんですね、これが。今のデンマークから出発してアイスランドに基地を築いた一派は、大西洋を渡って北米東海岸、現在のアメリカ・カナダ国境付近に到達していたことが判明しています。また一方で、現在のスウェーデンから南へ下り、ロシアの河川に入り、ドニエプル川を下って、途中キエフの基礎を築き、更に南に下って黒海へ。この内海を南下して、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に到達し、ここでキリスト教の洗礼を受けて、再び出発地へと戻った一団もありました。ちなみに、「ロシア」という国名の語源をたどっていくと、ヴァイキングに至る。定説です。但し、これにはスラブ系ロシア人から強い反発があります。
ところで、コペンハーゲンの博物館で、11世紀にコンスタンティノープルからもたらされたという、エナメルで細密なキリスト像が描かれた、見事な金のペンダントトップを見たことがあります。地中海と黒海を取り囲む様々な地域からやってくる無数の船舶が行き交うボスポラス海峡。海上から仰ぎ見れば海岸から背後の丘陵へと途切れることなく連なる家並み。ひときは目立つアヤソフィアの壮大な建築は、一歩中に入れば黄金色燦然たるモザイク画で覆われている。当時コンスタンティノープルは世界一の繁栄を謳歌していました。そこに北欧の果てから小船でたどり着いたヴァイキングたち。想像を絶する先進的な文化と遭遇し、おそらく非常な驚きを持ってキリスト教に帰依するに至ったのではないでしょうか。別の機会に、モスクワからイスタンブールへと向かった時のことです。飛行機はモスクワを飛び立ってほぼ一直線に南へ。ウクライナの穀倉地帯上空を通過し、やがて黒海北岸に至り、そこから延々と海の上を飛行してイスタンブールに到着。「ああ、ヴァイキングたちがかつてたどった道筋の上空を飛んでいるんだ …… 」窓に顔をつけて地上の景色を見続けていた時の記憶が今も鮮明です。
で、銀器ザクザクの宝の壺です。これはいったい何を意味しているのか。発掘される銀のコインの多くは、驚くべきことに、イスラーム諸地域で造幣された銀貨なのです。銀貨の表面にコーランの文字であるアラビア文字が打刻され、これを読み解くことで造られた年代と場所が判明する。その場所は驚くほど広範囲に渡っていて、サマルカンドやブハラなんていう、思いがけない地名が出てきます。この頃イスラーム帝国は、広大な世界を支配していました。西は現在のスペインから、北アフリカ全域、東地中海から中東諸国、イランを経てアフガニスタン、パキスタン、インド東部に至るまで、コーランの言葉で互いに意思疎通が可能な、巨大な商業交易圏が成立しています。一方で当時ヨーロッパはといえば、広大なイスラームの海に浮かぶ小さな島のような存在。科学技術から工芸文化さらには思想哲学まで、イスラーム圏にはるかに及ばない未開発な地域に過ぎません。
その圧倒的に先進的なイスラーム世界の経済を影で支えていたのが、他でもない、各地で造幣される銀貨だったのです。交易で使われる銀貨は、取引のたびに商人から商人へと手渡されて、果てしない旅を続けます。ひたすら船を進めてヨーロッパの果てにまでたどり着いたヴァイキングは、そこでイスラーム圏のモノや商人たちと出会うことになります。具体的には、ヴォルガ河の河口付近など、黒海北岸から東岸にかけての一帯、そして大河沿いに点在した内陸の交易拠点などがその舞台です。では、ヴァイキングたちはいったい、いかにして、大量の銀貨や貴金属の装飾品を手に入れたのか。編集部からの要望で金銀のお話が続きます。では次回をお楽しみに。
澁澤栄一 と
澁澤敬三
埼玉県・深谷市の血洗島。ここに澁澤栄一の生家「中の家」が公開されています。天保11年(1840)に生まれた栄一は、藍玉づくりで財を成した生家の事業を手伝い、ビジネスの基礎を学びました。やがて幕末の気運にかきたてられた栄一は、生家をでて風雲吹き荒れる京都へと旅立ちます。それは、高井鴻山と親交をもった佐久間象山が京都で暗殺された頃でした。京都で一橋慶喜(のちの将軍・徳川慶喜)に仕えることになった栄一は、はからずもヨーロッパ視察団のメンバーに加わります。そこで最新の産業や金融、社会制度を体験したことが、栄一の人生を決定することとなります。やがてそれは、明治維新をへた日本の運命を大きく左右していくのです。日本初の商業銀行「第一国立銀行」を設立した栄一は、大小500以上の企業設立に関わったといわれています。栄一は財閥系の実業家とは異なり、設立した企業の運営にはタッチせず、第一銀行以外はそれぞれに任せていました。そのため澁澤家の収益は、各企業の株式を数%程度保持することで得ていました(ただし企業の成長と共に膨大な額となりました)。
その澁澤家を継ぐことになったのが栄一の孫にあたる澁澤敬三でした。わずか17歳の敬三を、栄一は後継者に指名したのです。しかし敬三は柳田國男との出会いから民族学への興味をつのらせ、大学時代には三田の澁澤邸ガレージの2階を利用して「アチックミューゼアム(屋根裏博物館)」を開きます。中の家には、藍玉や養蚕に使われた民具が展示されています。こうした道具を工夫しながら生きてきた農民の血が、敬三にも流れていたのでしょうか。敬三の小さな博物館は、「民族学博物館」(東京・保谷)をへて、大阪万博公園の国立民族学博物館(みんぱく)へと発展していきます。
敬三は宮本常一や今西錦司、梅棹忠夫など、日本の民族学をリードした学者達へ出版や研究費の援助を惜しみなく行うと共に、生涯にわたり調査旅行を続けました。
その一方、祖父の志をついで金融の道を歩むことになった敬三は、40代半ばで第一銀行副頭取となり、日本銀行総裁となった後、第2次世界大戦終戦直後の混乱期に、大蔵大臣に就任します。戦後インフレーションの解決に尽力し成果を残した敬三でしたが、自らが導入した財産税によって、広大な三田の邸宅の大半を物納します。そして財閥解体の規範となるため、すすんで同族会社を解散するのです。東京・世田谷から深谷市に移築された「誠之堂」は、澁澤栄一の喜寿を祝い、第一銀行員の寄付により建てられた小ぶりのレンガ建築です。
構造には2級品のレンガを用い、木材もあえて上等なものは使っていません。しかしステンドグラスなどはかなり手の込んだものになっています。栄一の好みをよく知った、銀行員達の温かな思いが伝わる建物です。屋根は宮城県・雄勝のスレートで葺かれています。故郷への恩返しの思いもあってか、栄一はレンガ製造工場を深谷に誘致します。深谷ネギで知られる肥沃な土は、煉瓦の原料にも適したものでした。中の家の裏手に、栄一の雅号「青淵(せいえん)」の由来となった池があります。
国の復興を優先するため敬三のとった選択を、栄一が生きていたとしたらどのように感じたでしょうか。
「ニコニコしながら没落していけばいい。いざとなったら元の深谷の百姓に戻ればいい」といった敬三の民俗学への情熱は、祖父の生まれた地に戻るための道筋だったのかもしれません。