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特 集 今だから、今 和次郎
今 和次郎 採集講義 展
パナソニック 汐留ミュージアム(東京・汐留)
2012年1月14日(土)〜3月25日(日)
今 和次郎(こん わじろう)の多岐にわたる足跡を一覧できる大規模な回顧展が、パナソニック 汐留ミュージアムで開催中です(3月25日まで)。
青森県立美術館とパナソニック 汐留ミュージアムの共同企画により、青森では昨年の10〜12月に開催され、汐留の後は国立民族学博物館(大阪)で開催の「今和次郎 採集講義-考現学の今」の一部として展示されます。
板倉容子さん(青森)、大村理恵子さん(汐留)両学芸員は、工学院大学図書館や今和次郎ゆかりの地を訪ね、1年以上におよぶ準備を丹念に進めてきました。
東日本大震災を経験したいま、震災や大戦に立ち向かった今和次郎の足跡は、復興への勇気を与えてくれました。
明治21年(1888)、青森県・弘前に生まれた今和次郎は、「民家採集」、「バラック装飾社」、「考現学」、「住宅設計」、「服飾研究」など多彩な活動を85年の生涯にわたり続けました。
彼の残した膨大なドローイングや資料、著作などは、新宿の「工学院大学図書館今和次郎コレクション」に収蔵され、没後40近くたったいまもなお、資料の調査・研究が続けられています。
「今和次郎マーク」の付いた解説プレートにはドローイングに関連した彼の言葉も添えられ、それを熱心に読み解く来場者の姿が目立ちました。
「詳しく描いているといろいろ不思議なところ、疑問なところがでてくる。それを聞きだしたり、調べたりすることがそのまま研究、学問になる。」といった今和次郎は生涯にわたり民家を描きました。
今和次郎を民家採集の道へと導いたのは、柳田國男たちによって設立された「白芽(はくぼう)会でした。今和次郎は白芽会の調査に同行し民家を描きます。そして柳田から「今さんの話は画であるが故に、最も鮮明に故郷の路を案内する。その代りにはあの藁家の中に居て、笑つたり叱つたりする声は聞こえない。折角尋ねて見ても留守では無いかといふ様な気遣いがある」(民間些事」1927年)と指摘されます。これをきっかけに彼のドローイングが大きく変化したというのは、15年以上にわたり今和次郎を研究し、著作『「建築外」の思想 ー 今和次郎論』で知られる黒石いずみ教授(青山学院大学総合文化政策学部)です。彼の視線は人の暮らしや地域社会の仕組みへとひろがっていきます。
徳島県の民家(徳島県美馬郡西祖谷村)模型1934
今和次郎、竹内芳太郎作「工学院大学図書館今コレクション」
この模型をつくるため、今和次郎は10年以上前に調査した徳島を再訪し、石垣の石や土を採取してきたそうです。模型を共同制作した竹内芳太郎氏は、彼の活動にとって欠かせない人物でした。
山で採れる山菜や草花のリスト。糸車でマユから糸をつくる「ざぐり」をする人。神奈川県内郷村(後に相模湖に水没)を俯瞰して描いた、畑と川、民家、山、釣り場などの位置関係など、彼は人々の暮らしや社会背景を見つめ、活き活きした線で描きはじめます。
今和次郎は秩父の山村で暮らす母子の小さな家と持ち物を描き、ささやかな生活を解明しようと試みます。そして漁村では仕事をしながら子どもの面倒をみる母と祖母の姿を観察し、漁村の家がコールタールで塗られていることを発見すると「家と舟を区別するわれわれの常識が間違っているのか」と疑問を投げかけます。やがて民家採集は、人は生きるために何を作り、使ってきたか。そのルーツをさぐる旅となっていきました。
大正12年(1923))9月1日11時58分。東京の街に壊滅的な被害をあたえた関東大震災は、今 和次郎にとっても人生の転機となります。
関東大震災によって自宅を失った35歳の今和次郎は、震災で破壊された市街を走り回り、のちに舞台装置家となる吉田謙吉と共に、上野公園や芝公園、愛宕下、赤坂溜池、日比谷公園などで、市民が思い思いに作り始めたバラック建築をスケッチし写真に記録しました。
黒石いずみ教授は「この時こそ彼が、それまでの民家採集の意義を自覚した瞬間と思います」といいます。山村や漁村の人々によって作られた最もプリミティブな家ともいえるバラックを、昨日までサラリーマンだった都会の人達が建てている。この現実に向い合ったときから、今和次郎の実践的な活動はスタートしました。
当時・早稲田大学建築学科教授となっていた今和次郎は、吉田謙吉をはじめとする東京美術学校時代の仲間達と「バラック装飾社」を立ち上げ、神田・日本橋・銀座・新橋などの繁華街にたった仮店舗に、ペンキをつかったあざやかな装飾を描きはじめます。この活動は話題となりマスコミに取り上げられますが、その一方で建築界からは批判をうけることもありました。
一見地味な民家採集を続けてきた彼が、なぜ突然としてアバンギャルドな装飾を描きはじめたのか。「今和次郎の生立ちと美術教育の背景を知ることで、その線はしっかり結びつきます」と黒石教授はいいます。
バラック装飾社の活動は「考現学」の研究につながり、その成果を発表した「しらべもの展は」(昭和2年)は、多くの市民や学生の関心を集めました。会場では新宿・紀伊國屋書店での展示風景をイメージしています。
東京銀座街風俗記録「統計図索引」を、今回の展覧会のために立体で表現した人形。
特 集:今だから、 今和次郎
今 和次郎を育てた様式の世界
今和次郎のドローイングや資料を調査し、その世界の全容を解明した好著『「建築外」の思想 ー今和次郎論』(ドメス出版刊)の著者・黒石いずみ教授に、今和次郎の活動の原点をうかがいました。
今和次郎の多彩な活動をひもとくカギは、東京美術学校(現・東京藝大)や早稲田大学で「様式」をしっかりと学んだデザイナーであるという点にあります。明治21年(1888)に青森県・弘前に生まれた彼は、東北ではじめてキリスト教教育を導入した東奧義塾に入学し、アメリカ人宣教師から英語や先端的な教育をうけます。一方、彼の実家は津軽藩の御典医をつとめた家柄で、弘前は堀江佐吉に代表される洋館や教会の並ぶ街でもあり、国際感覚あふれるハイカラな少年時代を過ごしたことでしょう。家の事情で上京し東京美術学校図按科に入学したときも、東京の知識人に対する負けず魂を持ち、当時東北のスターだった国際人・新渡戸稲造に憧れる高いこころざしを持った青年でした。
岡倉天心やフェノロサによって創設された東京美術学校は、美術教育に対して2つの柱をもっていました。ひとつはフランスの古典的なデッサン教育です。もうひとつは、19世紀の中頃、イギリスのジョン・ラスキンによって提唱され、多くの建築家(ドイツ工作連盟)、デザイナー(モリスやドレッサー)、文筆家(プルースト)、政治家(ガンジー)にも影響を与えた思想です。ラスキンは生命力を表現した「動きのある生きた線」を重視し、ターナーやラファエル前派(ロセッティなど)の絵画を擁護しました。そしてヴェネチアをはじめとした中世の建築・絵画を再評価とすると共に、産業革命によって失われていく自然風景に心を痛め、人類は自然と融和して生きるべきと唱えます。こうしたラスキンの思想を、当時東京美術学校で教えていた建築家・岡田信一郎や早稲田大学の恩師・佐藤功一などを通して学んでいきます。今和次郎の著作にラスキンの引用が多く登場するのも、その影響と思われます。
当時の図按科の教育は、歴史的な図案(様式)を丁寧に模写する一方で、自然描写から図案を起こすテクニックを徹底的に学ぶ徒弟制度のようなプロセスを持っていました。その中で彼は、岡田信一郎からラスキンの思想を反映したオーウェン・ジョーンズの文様図集『グラマー・オブ・オーナメント』を紹介されます。これは従来の古典的な文様集とは異なり、自然の生命力を様式として表現し建築や暮らしに活かすことを伝えています。ドイツの建築家・ゴットフリート・ゼンパー(ウィーンのブルク劇場や美術史博物館などを設計)もこれを継承し、文様がどのように発生してきたかのルーツを探求した『 The Four Elements of Architecture 』という本を書いています。また明治19年(1886)、東京の官庁集中計画に招聘されたヘルマン・ムテジウスは、母国ドイツに帰国後、イギリスの田園住宅を詳細にスケッチした『イギリスの住宅 』(Das englischer Haus)を刊行します。やがてムテジウスはドイツ工作連盟の中心となり、ベルリン郊外の田園都市「ジードルンク」を計画します。その設計に参加したブルーノ・タウトは、その後来日した際に桂離宮を礼賛します。このように当時のヨーロッパには、建築・デザインのルーツを探り生活の豊さを取り戻そうという潮流がありました。今和次郎の卒業作品「装飾図案十八」は、このような時代背景を投影したものとして注目できます。今回は籐で編んだ乳母車の作品が展示されました(前期展示)。一般的な卒業作品とは異なり18枚もの図案を描くことで、自然風景の描写から生命力を感じさせる様々な文様を生みだす可能性を模索しているのです。
今和次郎は岡田の推薦で、創設間もない早稲田大学建築学科の助手となり佐藤功一に師事します。明治43年(1901)当時ドイツで盛んだった郷土運動に刺戟され、新渡戸稲造を代表として、柳田國男や石黒忠篤、佐藤功一たちの参加した「郷土会」が結成されます。やがてこの会を母体とした「白芽(はくぼう)会」(大正6年設立)に、今和次郎は佐藤功一の誘いで参加し、柳田から「君の目がいいよ」と評価され民家採集に同行します。そして民家こそ人々の営みや地域社会が複雑に絡まって形成された「働く家」であることを突きとめ、地域社会へと観察を広げていくのです。こうした彼の活動は、実は世界的な潮流の先端にあったのです。その足跡を辿ることで「バラック装飾社」や「考現学」、「東北地方住宅改善」などがひとつの輪でつながります。今和次郎は生涯にわたり人々の暮らしのルーツを追い求め、それを元に生活改善を目指した実践者であり、近代デザイン発展のルーツに、しっかりと根をおろした人物なのです。
「民家採集」や「考現学」によってクローズアップされてきた今和次郎ですが、この展覧会を機に建築の実作が確認され、飢饉や災害からの復興を支援した実践者としての姿も明らかになりました。1926年、支援者のひとり石黒忠篤(ただあつ)の推薦により、大越村(現・福島県田村市)の娯楽場を手掛けます。この施設は若者の地元離れを食い止めようとマユや葉たばこの共同集出荷場として計画されました。しかし石黒のアドバイスから農閑期には映画館や演舞場として利用できるよう設計されます。早稲田大学・演劇博物館(1928年:設計・今井兼次)にも似たファサードをもつこの建物は、東日本大震災の被害をうけながらいまも現存します。
昭和のはじめ東北地方はたび重なる飢饉や震災、経済恐慌におそわれ農村の疲弊は大きな社会問題となっていました。故郷・弘前には生涯戻らなかったといわれる今和次郎ですが、東北の復興プロジェクトに情熱を注ぎます。
山形県新庄市の「積雪地方農村経済調査所」は、農村住居の改善、工芸品の振興、雪害の防止を3本柱とした研究施設で、柳宗悦や柳宗理、シャルロット・ペリアンが工芸指導に参加したことでも知られます。その中で今和次郎は、積雪の多い農村向け住宅のモデルとなる「雪国試験農家家屋」を設計し、実際に農家が暮らす実証実験もおこなわれました。1階を作業場として2階に生活空間を設け、冬でも採光を確保できる画期的なプランでした。
一方、同潤会によって進められた「東北地方農山漁村住宅調査」の委員として参加し、竹内芳太郎氏と共に現地調査や一般からの住宅プラン募集を行います。その成果として農村向け12種、漁村向け7種の標準設計案や東北地方の気候区分図などが作成され報告書にまとめられました。しかし戦争の激化により住宅改善はなかなか進みませんでした。
積雪地方農村経済調査所 雪国試験農家家屋の模型。雪が積もった際は2階玄関からも出入りできます。当時このプランは斬新すぎて普及しませんでしたが、現在も雪国に多く見られる1階をガレージや物置に、2階をリビングとした住宅の原型ともいえます。
同潤会の東北地方農山漁村住宅調査により、畜舎を衛生上母屋から離すこと。藁布団や万年床をやめるため押入れをつくること。風呂場やトイレの改善。通風や採光の改善とカビの防止。囲炉裏や台所の排煙などが改善点としてあげられ標準設計案が作成されました。学者の押しつけと思われないよう一般からもプランを公募したり、地場の大工などに説明会を開くことで、住民の自発的な意識向上をはかりました。
今和次郎は、日本独特の住宅の使い方を大切に考えていました。土間や和室を仕切ったゆるやかな一室空間を、農作業や食事、就寝、調理などの日常と、正月やお盆の祭事や法事などの非日常に使い分けている様子を丹念に調べ、個室化とは異なった住宅の近代化を模索しています。
こうして今和次郎は、戦中の荒廃した農村の生活改善とコミュニティーの再生を目指していきます。昭和9年(1934)東北大飢饉の後、皇室の下賜金を元に計画されたのが恩賜郷倉(おんし ごうぐら)でした。元々の郷倉は江戸時代に米を蓄えるための倉で、農家が米を出しあって飢饉に備えたのです。
今和次郎は竹内芳太郎氏と共に明治になって失われた郷倉制度を調査し恩賜郷倉の「建築仕様書」を作成します。山形県・新庄市に残る恩賜郷倉を実測調査した黒石教授は「その建築仕様は、地元の大工や地域の材料、田畑の環境に合わせ、柔軟に変更できるよう工夫されていました。その結果、各地で個性豊かな郷倉が作られます。近代的な標準工法と伝統工法をつなぐものとしても注目できる」といいます。
山形県新庄市鳥越の恩賜郷倉とその周辺
景観模型1:500 青山学院大学黒石研究室
宮崎豊、荒ひかり、森岡渉、田中健太郎 制作 2011
地域全体の模型から、郷倉が田畑や用水路に寄り添うように建てられていることが分ります。またその周辺には、若者に縄や俵の作り方を伝える共同作業場も設けられていました。
恩賜郷倉はいま個人所有となっています。しかし持ち主でない人まで郷倉を大切に手入れする姿に驚いたと黒石教授。「祖父や祖母が大切にしてきたものだからと聞きました。文化財の価値には、思い出の価値、守ってきた価値という視点もあることを感じた」といいます。
今和次郎は大正14年(1925)、関東大震災をきっかけに盛んとなったセツルメント運動(貧窮者の救済活動)に参加し「東京帝国大学セツルメントハウス」の設計を手掛けます。続けて昭和10年(1935)には、自由学園の創立者で「婦人之友」の発行者・羽仁もと子の東北6県5カ年計画に参加し「生保内(おぼない)村セツルメント」(秋田県)を設計します。読者組織「友の会」が中心となり、施設に集まった貧しい農村の主婦に裁縫などを指導し、服装や寝具の改善を行いました。その平面図を見ると、土間の入口は広く作られ、仕事部屋のほかに子供部屋や食堂、医務室なども設けられています。農作業に疲れた子連れの主婦たちも気軽に立ち寄れるよう工夫し、広々とした明るい空間で温かい食事や医療を提供したいという思いが伝わってきます。
最小限の仮設住宅として設計されたY.T.邸。玄関から8畳間(リビング)に入り、そこから各部屋へ移動するよう廊下はわざと寸断されています。家族のコミュニケーションへの気配りを感じます。
保谷(西東京市)にあった今和次郎の自邸。このプランもY.T邸とおなじく、8畳間を中心に各個室が配置され、玄関の左脇には書斎があります。
岐阜出身の事業家・渡邊甚吉の依頼により山中湖畔に計画された別荘です(実現せず)。「茅葺き屋根とアーツ&クラフトを融合し、近代的な機能を組み合わせた設計で、彼が近代日本の設計理念を持っていたことを示しています」と黒石教授。
昭和9年(1934)、今和次郎は東京・白金台に建てられた渡辺甚吉邸のインテリアを担当します。照明器具やドアノブ、椅子、カトラリーなどをチューダー様式でいろどり、装飾家としての力量を示した貴重な実例となりました。
今和次郎は、婦人之友や婦人公論など、婦人誌を中心に生活改善案を発表していました。中でもダイニングテーブルは早い時期から登場しています。左は土間にテーブルを置き縁台のようなベンチに腰かけることで、生活のしやすさが格段に改善されることを提案しています。一方、ご飯を炊くカマドは旧来のものを残し、カマドの前で嫁がひとり泣く時間も大切にしたいといいます。
古くからの生活習慣を残しつつ、ゆるやかな生活改善を目指していくという、人間味あふれる彼の視線を感じます。
特 集:今だから、 今和次郎
工学院大学図書館 今コレクション
新宿駅からほど近い工学院大学。その図書館の一角に、今和次郎のドローイングや写真、ノート、著作などを所蔵する「今 和次郎コレクション」があります。資料の調査・研究を25年以上にわたり続けている工学院大学・荻原正三名誉教授にコレクションの一端を紹介していただきました。今和次郎は昭和48年(1973)85歳で亡くなりました。資料や蔵書が自宅の書斎に置かれたまま10年が過ぎた頃、彼の片腕であった竹内芳太郎氏との縁で工学院大学に引き取られました。
「書斎に積み重ねられた資料を、出来るだけそのままの状態でダンボール箱に詰めて引き取った」と語る荻原名誉教授。なかでも貴重なのは、今和次郎のエッセンスを凝縮した「見聞野帖」という6冊のファイルです。民家研究のドローイングや資料(葉書や名刺なども)を自ら台紙に貼付してまとめたもので、今回の展覧会も、このファイルから多くのドローイングが出展されました。
『長い間、民家を訪ね歩いてきたが、民家のほんとうの姿を知るというのはつくづく難しいことだと思う。草屋で、野ら着で暮らしている人たちは自然から逃れるわけにはいかない。彼らは自然の恵みのもとでのみ生きていかれるのである。このあたりの理解がないと、民家研究は根本から誤った方向に向かってしまう。それなのに、このごろのいわゆる民家研究家たちは、何をつかもうとしているのだろうか。』(今和次郎「民家の旅」/「日本の住まい」昭和49年・大蔵屋刊より)。萩原名誉教授は「この絶筆にこそ民家研究に対する思いが込められている」といいます。街並や地理的な環境、山の風景までを描くことで、彼は人々の暮らしと自然の関係を解き明かしているのです。
昭和12年、同潤会による東北調査の際に撮影された農村の風景です。4〜5000枚におよぶ写真の多くは、今和次郎に同行した竹内芳太郎氏によって撮影されました。囲炉裏の横にワラを敷いた万年床で寝たり、外の小屋にムシロをかけてトイレとしたり、当時の東北の苛酷な生活環境を記録した貴重な写真です。竹内氏は正確な間取り図の採集や「標準住宅設計案」の図面作成など、建築技術者として活動をサポートしました。「もし竹内氏が居なかったら、今和次郎の実践的な活動は実現しなかったかもしれません」と荻原名誉教授。竹内氏は戦後設立された農業技術研究所の住宅改善部門の室長となり農村における住宅改善運動に尽力しました。
「東北地方農山漁村住宅改善調査報告書」(全3巻)には、竹内芳太郎氏によって作図された住宅の標準設計案が掲載されています。なかでも母屋と畜舎(納屋)を分割した第9号案は「戦後の農家の標準的なプランとして普及した」と荻原名誉教授。
まだ交通手段の不便な時代、全国を旅した今和次郎を支えたのは郷土会の一員で、農林大臣となった石黒忠篤でした。ポケットマネーで旅費を出したといわれ、その成果は名著「日本の民家」として結実します。そして昭和5年、はじめての欧米視察旅行にでかけると、新婚まもない夫人にあてヨーロッパの人々を描いた絵葉書を毎日のように送りました。荻原名誉教授はそれを一冊に編集し「絵葉書通信 欧州紳士淑女以外」(柏書房)を刊行しました。
いまも、ほぼ当時のまま現存している渡辺甚吉邸(東京・白金台)の竣工写真集。今和次郎の装飾家としての一面を示しています。
「もし柳田や石黒と出会っていなければ、優れた装飾家として名を成したかもしれない」と荻原名誉教授。しかし彼はひとつのジャンルに安住せず、生涯を旅する建築家として生き抜いたのです。
クラフト・センター・ジャパン( CCJ )
クラフト見本市2012
自由学園 明日館(池袋)
2012年2月1日(水)〜2月3日(金)
全国から60組のつくり手が参加したCCJのクラフト見本市。
今年は初めて、自由学園「明日館」で開催されました。
全国から集ったクラフト作家達と、それをつぶさに見まわる人々。自由学園の校舎として建てられた明日館は、沢山の人々の集いによって完成される空間であると分ります。
壁や建具の幾何学模様、家具、照明器具と人々の動きが合わさって、心地よいリズムを創りだしていました。日本での2×4構造の先駆けともいわれ、壁は漆喰仕上げです。
自由学園明日館は大正10年(1921)、フランク・ロイド・ライトの設計により建設されました、自由学園の創立者・羽仁吉一、もと子夫妻にライトを推薦したのは、ライトの助手として活躍した建築家・遠藤新でした。
秩父銘仙を使った「新啓織物」のハンドバッグやアクセサリー。秩父銘仙は「ほぐし織」の技法で知られ、大胆な柄と色彩が特徴です。大正から昭和初期にかけて秩父銘仙は、モードをリードしたブランドのひとつでした。
今回のクラフト見本市は初出展者も多いとのことで、出展者同士の交流も生まれているようでした。遠藤新がデザインした椅子やテーブルで食事をとれる「クラフト食堂」も会期中にオープン。
高崎では古くから竹皮の草履表が作られていました。それを見たタウトは、その技法を活かしたパン皿やカゴ、バスケットなどをデザインします。一時は400名ほどいた職人も減り途絶えそうになったとき、前島さんはその技法を掘り起こし、タウトのデザインを復刻しました。材料には九州八女産の貴重なカシロダケを使っています。
ブルーノ・タウトが群馬県・高崎市でデザイン指導を行った際、職人達と共に開発した竹皮編の日用品。その技法を復刻し今に伝える前島美江さんのコーナーです。
クラフトの世界も今やインターネット販売の時代。そのなかで、クラフト・センター・ジャパン主催のクラフト見本市は、東京に居ながら作り手と直接対話できる大切な場となっています。
それでも 地球は 回ってる
新連載 ♯4 カイト
[カイト15歳]
よくカイトは健全だねって言われる。可もなく不可もない子。なんの特徴もない平凡な中学生。それがたまらなく嫌なんだ。いつも変わりたいって思ってる。でも何をどう変われば変わった事になるのか …… そこが分からない。「いいじゃん、カイトはそのままで」ナツはそう言ってくれるけど。
[シアター]
134号線から少し入った所にある小さなサーフショップ。シアター。変わった名前だな。初めて入った。怖いお兄さんが床に座ってギターを弾いてる。こっちを見ようともしない。ああ、この曲知ってるな。うー。ドキドキする。なんか悪いことしてるみたいだ。サーフボードが所狭しと置かれてる店内をうろうろする。独特のにおいがする。フルーツの甘い匂いだ。「カイト! 」ナツに呼ばれてさらに店の奥へ。「これこれ 」ナツの指差したUSEDのサーフボード。牙の生えたテディベアがイラストで入った白いボード。周りのボロボロの板に比べてすごくきれいだ。関係ないのになぜかカレンの顔が頭に浮かんだ。「カイトっファイトッ」って。
[ギターマン]
ナツは長い天パーの髪を団子に縛っている。それをほどきながら言った。「半分づつして順番に使おうぜ。」 …… 3万づつか。なんとかなるな。ばあちゃん! 参考書代でもらった小遣い、ここで使わせてもらうね。心で謝罪。「おっしゃ。買っとくかっ」
「すみません、お店の人って …… ?」ギターマンに聞いてみた。「あー? その板欲しいの?」睨まれる。ビビる。「呼んで来てやるよ」って優しい人じゃん。ギターを押しつけられた。「店、見といて。」え、俺らが? …… さすがサーファー、ルーズだな。ギターマンは戸口でピタっと止まって振り向いた。「それ、買うなら大事に使えよ。」「え、あの。」「まあ初心者だから …… 無理か。」呟くように言うとプイっと出て行った。
[凪]
しばらくして。「どこどこ ー 誰が買ってくれるの?」お店に綺麗な女の人が飛び込んできた。小柄で長い髪、大きな目。ナツが微かに体を震わせた。「あ、俺らっす。」「はい?」うわっ目がクリってなった。「え?僕ら? …… みたいな?」「 …… なんだ、ガキじゃん。」えぇー?「 いや、割とそうでも …… 」「静君店長‼ ガキに売るの?」遅れて店に戻ってきたギターマンが被りを振った。 …… てか、このギターマン、店長だったんだ。「なんで? 簡単には売れないって言ってたじゃん。」「いや、ガキだから逆にいいんじゃねーの?」その女の人が顔を寄せて来た。「ふうん。」本当にきれいな人だ。芸能人みたい。「まっいいか。分かった。売るわっ。二人ともかわいい顔してるし。」静君店長がホッとした顔をする。
「今日から私の事は凪ねえさんと呼びなさい。」「ナギねえ …… 分かりましたっ。」なんだか良くわからないまま、俺らはいわくつきのボードを手に入れた。
[クロさん]
後からナツに聞いた話。凪ネエには彼氏がいた。クロさんっていって、凄い人だったって。凪ネエに何が凄かったんすか?って聞いたら、「全部」って言われた。良く分かんねー。けど、まあ凄い人だったんだろう。それで、先月いきなり旅に出るって、このボード売っといてって、凪ネエに言っていなくなっちゃったんだって。うげ。ベタな話。ローカルヒーロー旅に出るってやつだな。あほらし。
[その後]
その日以来、ナツも俺も毎日夢中になって海に通った。朝も夜もコンディションの悪い日もいい日も波のある日も無い日も。「一中前」ってポイントは基本的にローカルしかいない。最初はローカルの大人たちにいっぱいいじめられた。でもちょっとしたいざこざがあった時、ナツが「 俺らだってローカルだ!!! 」って怒鳴った時があって、うわ、100%ぼこられるって思ったけど、何故かそうはならなくって、それから、なんか海の中で大人たちから声をかけれらるようになったりして。
[海を走るカイト]
海は不思議だ。毎日、毎回まったく違う顔を見せる。でも少し陸上競技に似ている。周りに仲間がいても、一人ぼっちなところとか。誰も助けてくれないところとか。エントリーして、パドル。ドルフィンでインサイドの波をやり過ごす。ポイントには凪ネエとかウサギさんがいる。「おはようカイト」「おはようございます。」「ナツとグリは?」「もうすぐ来ます。」
波待ち。膝のあたりで水が音を立てる。水平線の向こう。セットが入る。ピークを探る。少し移動。位置を合わせる。向こうで凪ネエがパドルを始めるのを横目に、俺もレギュラー狙いでパドル。低い目線に飛沫が飛び交う。腕を少しでも長く前に伸ばすように。前へ。フッフッフッ。自分の息使いが聞こえる。後ろから体がグッと押される感覚。顎で板をグッと抑えて、胸で板を前に押す。いきなり板が走り出す。走り出す海。走り出す空。加速、加速。そして世界が疾走する。15年生きてきて初めて分かった。幸せってこういうことだ。目を閉じる。海と一つになるんだ。地球とひとつに …… 。陶酔のワイプアウト。
[カイト25歳]
でも、俺はあの時薄々分かってたんだ。凪ネエとナツの間の微妙な空気、ウサギさんの遠くを見る目、時折見せるグリの涙。噂の中で見え隠れするクロとそこに収束していく不穏な予兆。「だからカレン、お前にだけは分かっていてもらいたいんだ。俺はあいつと戦わなければならない。それが存在するかしないか分からない霧のような相手だとしても、だ。そうだろ、夏姫?」白い壁は何も答えない。「まずはナツだ。あいつを探さないと …… 」
CARLOS MUÑIZ (カルロス・ムニィス)
ENSOU 円 相
Café & GalerÍa PARADA
2012年 1月20日(金)〜26日(木)スペイン・マドリードの彫刻家
カルロス・ムニィスさん。
吉祥寺PARADA(パラーダ)にて
ジュエリー作品展が開かれました。
スペイン出身のカルロスさんですが、エジプトやイスラエルで暮らした時期からジュエリーを手掛けるようになったそうです。「古代から装飾品の果たしてきた役割にひかれました。身に付ける人との相乗作用によって力を与えてくれます」と語るカルロスさん。
カリブの海賊の遺した宝の地図と隠し場所を記したバングル。スペインの黄金時代。南米からスペインへガレオン船で運ばれる銀やスパイスを襲ったのが「パイレーツオブカリビアン」にも登場する海賊たちでした。
今回のテーマ「円相」は、長い経験を経て原点に戻ってきた感覚から名づけられたそうです。世界をめぐってきたカルロスさんの変遷を垣間見るような、バラエティー豊かな作品が並びました。
このリングは、京都で印象に残った庭園の飛び石をモチーフにしています。手仕事をするなかで湧きおこったイメージを、銀や金、宝石、真珠などを使い、自在な形にしていきます。
太古の昔から、Amulett - アムレット(お守り)として、自然の猛威から身を守ると信じられてきたジュエリー。装身具や身分を示す道具として使われる以前から、人の歴史とともに身に付けられてきたのです。
実際に身に付けることで、その良さは初めてわかります。ジュエリーは人と共にある。カルロスさんのあたたかな人柄に包み込まれるような展示会でした。
椅子は人生を楽しくする。
「一脚の椅子に出逢ってください。」と、
突然、お客さんに語りかける。
いつもの、オイラらしいおせっかいが始まる。
「毎日、好きな椅子に座ると、ホッと心がなごみます。」
「人生の中で、自分に合った椅子に、出逢えるかどうか? その人の大事な責任です。」
人生、最後の食卓セットを探してるのに、
椅子オタクのうるさいオヤジに逢ってしまった?
お客さんは、迷惑なことだろう。
「つかう道具としての家具」が、通常の価値観では、いちばんだろう。
「家族でご飯を食べるため。」という目的のハッキリした道具である。
日常であれば、あるほどに、つかうその一瞬に感じる精神性
= 凛としたキモチになる一瞬
= フッーと息が抜けるようなキモチ
= 思わずタメ息が出ちゃう座り心地とか
曖昧模糊とした混沌、ますますワカラナイ ?
「機能から官能へ。」が、
オイラの椅子づくりのテーマなのだ。
35年前のミラノ・サローネから、30年前のスカンジナビアフェアから、
椅子づくりは、人の感応(官能)を刺激する道具じゃないだろうか、と考えるようになった。
35年前に感じたコトと同じように、
「アジアのオマエたちには、この椅子のもっている感応なんてワカラナイだろう。」と、
イタリアの名だたるメーカーのオーナーたちは、
今も、確実に思っている。
「買いたければ売ってあげるけど、この椅子の良さはワカラナイだろう。」
こんな風に思っているはずだ。
80年代は日本の、
90年代は中近東の、
2000年代は中国のお金持ちが上得意だ。
ヨーロッパのスゴイメーカーのしたたかさは、たいしたもんだ。
世界のデザインのムーブメントを、毎年演出しつづけているのだから。
しかしオイラは、なぜか悔しい。
こんなしたたかさに負けてたまるか。が、ホンネである。
「機能を超えて、官能の世界へ。」
あと10年かかるか、20年かかるか、
オイラはオイラ自身が楽しみだ。
「製作」展 〜 ものづくりの原点を求めて
藤本均定成 + 十河雅典展
藤本均定成さんの「税込 22050円 タジン鍋」
画廊スタッフ山田さんから「オープン前日は作品にタイトルと値段を付ける作業が大変になる。朝までかかることもある。何とかしてほしい。」という声を聞き製作。タイトルや値付けプレートを作る手間を省くことに成功しています。
卓上のきら星たち 第10回 お宝さがしは終らない
大原千晴
先月号の続きです。今も欧州各地で発掘され続ける大量のイスラーム銀貨。では具体的に、どれくらいの枚数が見つかっているのか。その量の多さで一番有名なのは、スウェーデンのゴットランド島です。バルト海に浮かぶこの大きな島は、中世ハンザ交易の拠点の一つとなる北海の海上交通の要衝ですが、ここからは既に発掘されたものだけでも、総計で7万枚を超えるイスラーム銀貨が出土しています。発掘されるのは、一部に限定されるわけですから、島全体に眠る総数がどれほどになるのか、想像もできません。推計で「総数30万枚」という数字を挙げる学者もいるほどで、発掘作業は現在も続けられています。
ところで、ロシアや北欧ほど数は多くありませんが、英国でもイスラーム銀貨はあちこちのヴァイキング遺跡から見つかっています。埋蔵品発掘に関する法制度が整備され、発見者に一定の報酬が保証されるようになったこともあって、金属探知機を使っての「地中の宝探し」はちょっとしたブームです。実際2007年には北ヨークシャーで、こうしたマニアの手で過去最大級のヴァイキング埋蔵銀が発見され、この発見者は50万ポンド(約6千万円)という大金を手にしています。宝探しがブームになるわけなのです。
ではヴァイキングたちは、壺にザクザク一杯になるほどのイスラーム銀貨や様々な銀の装身具を、いったいどこから、どうやって手に入れたのか。
まずは「略奪」です。本拠地である現在のデンマークやスウェーデンから船団を組んで、欧州各地の海岸沿いや河筋の町や村を急襲し、有力者の館、修道院や教会を襲って財産を略奪する。襲われた地域は驚くほど広範囲に渡っていて、地理的に近いスコットランドやアイルランドは言うに及ばず、ブリテン島の東海岸も広範囲にわたって、繰り返し襲われています。特に865〜879年の長期侵攻では、イングランド北部の中心都市ヨークが制圧される事態に。今ではその当時の大規模な遺構が「ヴァイキングセンター」と呼ばれる楽しい歴史博物館となっています。
フランス北部では、海岸沿いの集落が点々と襲われ、セーヌ河口からかなり入った所に位置するパリも、何度目かの襲撃の後、885年の冬から一年近くヴァイキングの支配下に。更に、大西洋岸のリスボン、セビリア、カディスが次々と襲われ、ここから地中海に入って、現在のモロッコ沿岸部も標的に。さらに南仏のナルボンヌからアルルへと、現在のコート・ダジュール沿いに侵攻を続けて、イタリアに到達。ローマに通ずるアルノ河を遡行して、860年頃ピサの街が制圧されています。
こうした略奪に加えてもうひとつ、銀を獲得する方法がありました。それは、町や村を襲って脅し上げた上で、以後「襲わない」という約束のもとに、毎年一種の「みかじめ料」を上納させるというやり方。これをデーン人(デンマークの語源)ヴァイキングにちなんで「デーンゲルド」(Danegeld)と呼びます。その凄まじい戦闘破壊力と殺戮の恐ろしさを思えば、狙われた都市の住民は毎年「恐怖の上納金」を納めるほかありませんでした。
ところで、これとはまた別のルートとして、スエーデンのヴァイキングたちのたどった道筋があります。こちらは北海を南下して、最終的に黒海を経てコンスタンティノープル(現イスタンブール)に到達した一派のあったことは先月号でご紹介したとおりです。
現在までに、ロシア領域内で銀ザクザクのヴァイキングの宝の壺が発見された場所は、およそ700カ所。イスラーム銀貨が見つかるのは、この「ロシアンルート」の中でも、ドニエプルやヴォルガなど大河沿いの要衝や、大河が黒海へと流れ出る河口付近の港町が中心です。注目すべきは、内陸部に奥深く入り込んだ中小河川沿いの遺跡からも、イスラーム銀貨が見つかっている点です。これは何を意味するかというと、イスラーム商人がそんな奥地にまで実際に訪れたかどうかは別にして、そうした地域までもが、広大なイスラーム経済圏の一部として組み込まれつつあった、ということを象徴しています。
面白いのは、こうした場所でヴァイキングが、「交易」を行なっていたという事実です。では、いったい彼らはどのような品物を「商品」としたのか。まず、本拠地である北海沿岸で多く採取される琥珀(こはく)、セイウチや一角(いっかく)の牙(象牙のようなもの)、スラブの住民から入手する貂(てん=セーブル)などの毛皮、蜂蜜と蜜蝋、「捕獲した」スラブ人奴隷等々、いずれもイスラーム圏で珍重され、高価に取引された品々(と人々)です。英語で奴隷をスレイヴ(slave)と呼びますが、その語源は、この当時のヴァイキングによるスラブ人の奴隷化に遡ります。ヴァイキングたちはこれらのものと交換に、銀貨や金銀製の装身具など、イスラーム圏で作られた優れた工芸品の数々を入手していたわけです。
ということで、ヴァイキングをはるか異国の彼方へとつき動かした原動力、それは「銀の獲得」にあった!
骨董銀器商の勝手な仮説、皆様いかが思われますでしょうか。
フィン・ユール生誕100年記念展
The Universe of Finn Juhl
生誕100年にあわせ、フィン・ユールのライセンスを継承するデンマークOnecollection社によって、数々の名作椅子が復刻され、その一部は日本でも生産されています。
日本での復刻に尽力したデニッシュインテリアスの岡崎基晴さんは、3次元NCルーター(コンピュータのデータを元に木材を立体的に削り出す機械)を操る山形のメーカーと協働して復刻にあたったそうです。デニッシュインテリアスは日本での販売元もつとめています。
復刻作品のなかでも特に注目された「NV-44」。オリジナルは十数脚しか作られず幻の名作といわれてきました。今回は神代ケヤキを贅沢に使っています。こぶりで座面の奥行きも狭いのですが、とてもゆったりした不思議な椅子です。
フィン・ユールの椅子の多くは、ニールス・ヴォッター工房でつくられました。デンマークでも指折りのスネーカー・マスター(名工)による工房で、その高い技術力なしではフィン・ユールの優美なフォルムを形にすることは難しかったのです。それが今、先端的な加工技術によって、オリジナルに忠実に復刻されました。「改善点もふくめて、フィン・ユールならばどう受けとめるだろうか、常に考えながら復刻を行いました。」と岡崎さんはいいます。
東海大学芸術工学研究科(北海道・旭川市)は、椅子研究家として知られる織田憲嗣教授などと共にフィン・ユール邸の実測研究を行っています。その成果も発表されました。1941年、29歳のフィン・ユールが設計したもので、コペンハーゲンの北部にあるオードロップゴー美術館の一部として公開されています。家具の配置なども含め、フィン・ユール家の暮らしぶりをそのまま保存し、建築家としての設計思想や家具と空間の関連性などを体感できる貴重な場所です。東海大の調査により、実現されなかった増改築プランなども解明されたそうです。
研究を元に作られた模型も展示されました。外観はとてもシンプルで「生活空間を設計してから壁を建てた」という言葉がぴったりの住宅です。動線の先に窓を配置するなど、生活のなかで自然を感じる工夫も随所にみられます。写真右側はリビングや書斎。左側は寝室で、その奧に浴室、客室、ダイニング、キッチンが並んでいます。中央は玄関などです。
フィン・ユールの代表作のひとつ「Chieftain Chair」(族長の椅子)。別名「エジプシャンチェア」とも呼ばれ、古代エジプトの椅子と共通の構造やディテールを持っています。古代文明へのリスペクトを感じさせる作品です。
フィン・ユールが初めてデザインした椅子「Pelican Chair 」。半世紀まえのデザインとは思えないかわいらしさです。アルプやムーアなどモダン彫刻からも影響をうけたフィン・ユールのデザインは「デンマークでは孤立した存在だったが、海外で評価され本国でも認めらた」と織田教授はいいます(「デンマークの椅子」より)。生誕100周年にあわせ「北欧デザインの巨匠 フィン・ユールの世界」(コロナブックス)も上梓されました。
わたしとMacintosh 惹かれた三つのマッキントッシュ
小林 清泰
アーキテクチュアルデザイナー・ケノス代表
マッキントッシュとの最初の出会いは、ステレオアンプの「Mcintosh」だった。高校一年の音楽授業で、先生は黙って、あまり上手くないピアノでシューベルトの「楽に寄す」という歌曲を弾き始めた。前奏の和音の美しさに引き込まれ、それ以来徹底したクラシック一辺倒になった。二年になって何としてもステレオが欲しく、親にねだりにねだって秋葉原の家電店でVictor製25センチウファー(低音用スピーカー)付きの家具調コンポーネントセットを買ってもらい、新譜はとても買えないから学校の帰りに、新宿西口近くの中古LPレコード屋で探しまくり傷の音を気にしながらも聴きまくった。その頃は「レコード芸術」等のクラシック音楽・オーディオの雑誌も読み始め、典型的な頭でっかち少年になった。その記事でどの評論家も褒めちぎっていたのが、アメリカ製オーディオ機器「Mcintosh」である。カリグラフィ調のロゴマークが特徴的だ。イラストの「C28プリアンプ」と「CM275真空管パワーアンプ」がその代表で、高級オーディオのシンボル的存在であった。艶やかでこくのある音質は愛好家が多く、前記の2機種は未だにネットオークションで活発に取引されている。その頃の私にとっては雲の上のまたその上という存在で、憧れでしかなかった。また私自身、部屋にこもるよりも演奏会へ行く方が嬉しいタイプであることも分かりはじめていた。しかし、いつか余裕が生まれたらと朧げながら夢見つつ、この年になった。
次のマッキントッシュとの出会いは30代の初め頃である。アールヌーボーのデザイン本をペラペラめくっているときに、目に留まった椅子「ヒルハウス」がスタートであった。ラダー型のハイバックチェアで、華奢なフォルムにしっかりと宿る存在感が印象に残った。それからSD選書や作品集を買って自分なりに研究し始めた。C.R.Mackintoshのことを、最初はインテリアデザイナーだと思っていたが、実は建築家と分かり、椅子「ヒルハウス」に込めた意味も理解した。スコットランド地方の大都市グラスゴーからかなり北、海岸沿いの丘に、その土地で採れるグレーカラーの石材で建てられた「ヒルハウス」がある。その寝室のベッドの足下に二脚、部屋のアクセントとして置かれたもので、フットボード側の壁面をまとめる役割を担っている。この椅子に座っていただくと、座るための椅子ではないことを納得していただけると思う。私が一番好きなこの作家の椅子は「アルガイユ」である。木構造の格子に馴染んでいる日本人にとって、ヒルハウスのデザインは自然すぎてインパクトに欠ける。一方アルガイユは、日本人の血の中にはあまり無い不可思議なフォルムが魅力である。ハイバックの楕円板に穿たれた切れ込みも印象的だ。マッキントッシュはアールヌーボーの作家として区分されているが、どこにも属さない独自の世界をスコットランドで展開したと感じる。彼の描いた絵画もいい。
三番目のマッキントッシュは、もちろんアップルコンピュータ社の「Macintosh」である。マッキントッシュというネーミングはカナダのMcIntosh氏が発見したこぶりのリンゴ(日本名は「旭」)からとられたといわれている。ちなみにアメリカではポピュラーな品種とのこと。アメリカで売られているリンゴは日本よりも比較的小さく、大玉はあまり見かけない。色も青リンゴが半分以上を占めている。
「Macintosh」の少し前にオフィスコンピュータ「AppleⅡ」が開発されている。それとは異なる小型高性能なパーソナルコンピュータというイメージを育てるため、ふさわしいネーミングを考えたと想像される。前述のオーディオ機器のマッキントッシュ社に対しては、ネーミングを使用するための補償をしたとのことだ。しかも「Mcintosh」に対し「Macintosh」とスペルも変え区別されるように配慮した。以降アップル社のパソコンはMacintosh(Mac)となった。
西洋のことわざに「Forbidden fruit is sweetest」というものがあるそうだ。「禁じられた果実は一番おいしい」との意味で、旧約聖書にあるアダムとイヴの話に由来している。蛇にそそのかされ禁断の木の実を食べたイヴと、それに同調したアダムは、キリスト教でいわれる「原罪」を背負ってしまった。私にとっての禁断の木の実は、まさにスティーブ・ジョブズが実らせた「Macintosh」である。それにもう骨の髄までおかされてしまった。なぜなら新型Macが出る度に、私は一生買い続けなければならないからだ。
特 集:今だから、 今和次郎 番外編
コラージが訪ねた、今 和次郎のあし跡
コラージ取材班が過去に巡った場所のなかから、今和次郎も訪れた街の景色をいくつかご紹介します。なお本項で掲載した写真は、今和次郎の研究やドローイングとは関係ありません。
特別寄稿:弘前人から見た、今 和次郎
石場 創一郎さん
( 弘前市・国指定登録有形文化財 石場旅館 )
今和次郎研究の第一人者、工学院大学の荻原正三先生は「和次郎と現代の共通点は、両時代とも危機の時代にあった」と仰ってました。関東大震災、太平洋戦争と危機を経験してきた和次郎。研究や観察の根本にあったのは、世のため、人のためになるべく、新しい社会の価値体系を築くこと。今和次郎の一連の活動の根底にはやはり、大きな物語”社会の為”というものがあったと思います。
和次郎の家は、弘前の百石町にあり、ラグノオの佐々木さん(弘前の有名な菓子店)の何軒か隣だったそうです。若かりし頃、在京中の佐々木さんは和次郎を訪ねたことがあるそうで、和次郎に、「ああ、あの菓子屋の倅か!」と言われたとか。
実家が医者だった和次郎ですが、弘前を追われるように去っていった今一家。弘前へのわだかまりもあったのでしょう。和次郎は死ぬまで弘前を再訪することはなかったという事です。しかし、弟の純三を使って、色々と郷土のことを探らせるのですね。郷土愛があったのでしょう。公の場でもジャンバー姿の出で立ちに、津軽弁丸出しの和次郎。その根底には、捨てきれない貧しい郷土への想いがあったのではないでしょうか?
今和次郎は秩父をたびたび訪ね、広範囲な調査を行っています。写真は三峯神社境内に保存された三峯神社神領にあった民家です。神社の千木のような棟おさえが特徴で、便所や風呂は別棟(左の小屋)にあります。
特別寄稿:青森県立美術館の今 和次郎展
高坂 真さん
( 八戸市・デザイナー・八戸工業大学 非常勤講師 )
今先生については、恥ずかしながら名前は知っていても、どんなことをされた方かは展覧会を見るまでは、あまり知りませんでした。(「Ahaus」の今和次郎特集もちゃんと読んでいなかった …… )。たしか青森県立美術館開館の頃、常設展示で今先生のコーナーを設けていたので、スケッチ等を見るようになりましたが、それでも、でした。
今回、大々的な展覧会が同館で行われました。それでも興味の無い県民は知らないと思います。青森市の県立郷土館では、弟の今純三の企画展を行っていたので、今和次郎展とはしごして見ました。弟については絵のタッチがどんどんいっちゃってしまうのが見えてきて、圧倒されました。兄弟どちらも派手さは無いと思いますが、会場内で偶然ツアー客と思しきおばさま集団4〜5人と遭遇したとき、今先生の手がけた建築作品のコーナーに興味を持たれていたのが印象的でした。あの時代に人々の「生」に着目し、徹底的に調べ上げ観察するというのは、地方出身というのがあるかもしれないと思いました。東京に住む地方出身の方が、東京人より東京のことに詳しかったりします。特に東北出身だからこそ、人々のリアルな「生」を観察し、「生」の中で生まれてきた人々のエネルギーに魅力を感じたのではないかと思いました。
札幌の「北海道開拓の村」。昭和23年、今和次郎は北海道各地をまわる開拓住宅調査を行っています。小樽にあった鰊漁場を集約的に保存した「旧青山家漁家住宅」は、往時の繁栄を物語る貴重な史料です。
昭和40年の頃、今和次郎は西伊豆・松崎町の旧家から、古い庄屋やナマコ壁の倉の活用法を相談され、出来る限り現状をいかしながら温泉ホテルに転用することをすすめました(今和次郎集4 住居論「ホテルに化けた民家」より)。そのホテルは大繁盛し今も大沢温泉ホテル依田之庄として営業しています(写真は同ホテルではありません)。
できるだけ広く住居に関する事実を集めて、机の上にそれらの材料を山盛りにしてから分類し、分析して、帰納的に人生の営む住居や工作について考察してみることを、このごろの私はひとつの仕事としています。
流行の夏帽子の型を作るような態度で、あれかこれかと、人の意向を気にしながら、自分の狭い弱い心をたのしむ趣味から、設計を美しく作って、お互いに示し合って、商人的な、美術家風な安易に仮住することが、私にはできないからです。
人の住む家についての私の考案をお目にかけるまでには、まだまだ時日を要すると思います。現在の諸家の設計している文化住宅は表面完全なようで、たいへん不完全なものだと思います。私はくふうする前に、表現テクニックをうんと勉強しなければならないと信じますので-ちょうど画家がデッサンをほんとうの絵をかく準備として、うんと勉強しなければならないように-種々な場合、どんなに人々は家を造っているかを、生活の現場に求めて注意して歩いているのです。結局私の仕事は学ぶことに終ってしまうかもしれません。でもどうして、安易な中流生活者の家というようなかつての一時代のマナーとして考古学のページだけで抹殺してしまわれるような計画に、全力をそそぐことができるでしょうか!
今 和次郎「関東・河岸の宿舟(1941年10月)」今和次郎集4「住居論」より