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春まぢか 山形 最上
山形新幹線の終着駅「新庄」
3月中旬、東北のヘソにたとえられる鉄道の要衝
新庄市にも、春の訪れが近づいていました。
駅の2階から、神室(かむろ)山をのぞみます。
古くから「山岳信仰」の対象となり、
天狗のすむ山々といわれてきました。
山形県は、大きく4つの地方に分かれます。山形市を中心とした村上地方。米沢の置賜地方、酒田・鶴岡の庄内地方、そして北に位置するのが、鳥海山、月山、神室山に囲まれた最上地方です。その中心となる新庄へは、東京駅から乗り換えなしで約3時間半(つばさ利用)。秋田へ向かう奥羽本線、最上川沿いを日本海・酒田へと行く陸羽西線、宮城へと続く陸羽東線と、東西南北へ延びる鉄道の十字路として、明治時代から栄えてきた街です。
豪雪と伏流水のめぐみ
積雪の多い新庄市には、雪を流すための水路が張り巡らされ、水を噴射する消雪パイプなど、神室山の伏流水を利用した融雪設備が整備されています。
石室で醗酵させる伝統食「丸亀八百清商店」(創業明治40年)の納豆
地元の人なら誰もがしっている「丸亀八百清商店」の納豆。山形県産の大粒大豆や緑色の「秘伝豆」、金山町産の大豆などを使い、店の工場で毎朝手作りされた納豆は、全国納豆鑑評会でも数々の賞を受賞しています。
豆は水が命。神室山の伏流水で茹であげた豆に納豆菌を混ぜ、手早く詰めてから、昭和40年に建てられた「石室」で1日かけて醗酵させるそうです。すり潰した納豆を野菜などの具とあわせた納豆汁は、この地方の代表的な家庭料理です。
「東の遠野、西の新庄」といわれ、昔ばなしの宝庫として知られる新庄の駅前どおりには、「こぶとり爺さまとおり」や「金の茶釜とおり」など、昔ばなしを記したポールが立っています。季節ごとに「みちのく民話まつり」をひらき、昔ばなしを語る会には全国からファンが訪れます。
武家の生んだ「隠明寺凧」
新庄市の名産品としていま注目を集めているのが、明治のはじめ、元新庄藩士・隠明寺勇象(おんみょうじ・ゆうぞう)氏によってデザインされた隠明寺凧です。「こぶとり爺さまとおり」にある隠明寺凧保存会(ササキ酒店)で、事務局長の佐々木新一郎さんに伺いました。江戸の新庄藩邸につとめていた勇象氏の父は、江戸錦絵の凧を新庄に持ち帰りました。成年した勇象氏は新庄藩士として幕末の戊辰戦争を戦ったものの新庄藩は消滅し、商売に挑むかたわら内職として工夫したのが「隠明寺凧」でした。
文武に優れた勇象氏は、狩野流の絵を習った経験を活かして版木を彫り、妻と協力して手彩色した色鮮やかな凧をつくります。勇象氏の没後、凧づくりは絶えていましたが、長い時を経た昭和38年、孫の隠明寺憲夫氏邸の屋根裏から発見された版木をきっかけに結成された保存会によって、幻といわれた隠明寺凧は復刻されました。
隠明寺凧には約30種類の絵柄が確認されているそうで、特に般若の絵柄は江戸凧にはない独自のものです。これは嫁と姑の確執を描いた”昔ばなし”を元に制作されたもの、と伝わっています。
事務局長の佐々木さんは、「凧は揚げるもの」というポリシーから、積極的に凧づくりに取り組んでいます。オリジナル版より少し大きめの揚げやすい凧をつくり、全国の凧揚げ大会に参加して普及につとめています。富士山山頂の凧上げ大会では、頑丈な骨組みをもった隠明寺凧だけが高く上がり、全国の凧ファンを驚かせたそうです。
隠明寺凧の作り方 般若の例 制作:佐々木新一郎さん(DVD「隠明寺凧制作」より抜粋)
新庄・もがみそば街道 築150年での民家で、石臼でひいた蕎麦「さぶん」 (最上公園近く)
新庄ふるさと歴史センター
新庄城址(最上公園前)の新庄ふるさと歴史センター。新庄まつりの山車(やたい)をはじめ、2万点におよぶ貴重な民具などを展示しています。写真は昨年の最優秀山車(物語部門)「落合町若連 風流 安珍 清姫絵巻」。今年の新庄まつりは8月24日〜26日の開催です。
2万点の民具が物語るくらし
新庄周辺の民家や蔵から集められた約2万点の民具は、数十年前まで営まれてきた雪国のくらしを語りかけます。稲作の盛んな新庄盆地は、日本有数の豪雪地帯であり、日照時間は短く、夏は盆地特有の猛暑に見舞われます。民具はこうした厳しい自然を生き抜く知恵を教えてくれるようです。
雪国の生んだワラデザイン
稲ワラは、生活道具の材料として欠かせないものでした。履き物だけでもワラジやジンベ、アシナカ、フミダワラ、ヘドログツ、ツマゴワラジなど作り、雪の状況にあわせ使い分けていました。冬の間にワラジ100足、アシナカ100足、縄100束くらいを家族総出で編み、春からの農作業に備えたそうです。
昭和の初めまで、農家の人々はクズ米や二番米にアワやキビ、イモ、豆などを混ぜて食べていました。この時代、冷害や洪水などはすぐに飢饉へつながりました。昭和5〜9年には、最後の飢饉といわれる昭和東北大凶作が起り、木の実や豆、干した山菜や大根の葉、そばなどの保存食「かてもの」で飢えをしのぎました。
卓上のきら星たち 第11回 大統領、最後の晩餐
大原千晴
今から20年ほど昔、パリでの出来事です。ノートルダム寺院を対岸に見ながら歩くセーヌ左岸沿い、細い路地を脇に入った場所にある落ち着いたレストラン。黒服がとてもいい感じなので、メニュー選びのかたわら、聞いてみました。「パリ市長だったシラクさんがよくいらっしゃるんですって?」「はい、たしかにシラク様もおいでになりますが、それよりも、ミッテラン大統領がよくおいで下さいます。閣下は大変にグルメでいらっしゃいます」と聞いてビックリ仰天。フランソワ・ミッテラン(1916-96)といえば長い間、左翼労働運動の先頭に立ってきた人です。社会主義の理想実現のため脇目もふらず政治の泥沼をかいぐってきた苦労人という感じで、ブルジョワでグルメで女性大好きというシラクさんとは正反対のイメージ。いつだって苦虫噛み潰したみたいな表情で、ニュース映像でも笑顔を見た記憶がなく、とてもグルメとは思えない。実際、氏が大統領に当選した時、フランス外務省では懸念する声があがったとか。ミッテラン氏だと、公式宴席は簡素にせよ、贅沢な料理や高級ワインは出すな、と言われそうだ。フランス料理は重要な外交手段ですから予算削減は好ましくありませんと、その重要性を新大統領に説得しなくては ……。
そんな人が、この二つ星レストランの常連で、しかもグルメだったとは。本当に、人は見かけや思想信条だけでは判断できないもの。特に、食と異性への嗜好ばかりは「好きなものは好き」という世界で「えっ、あの人が、まさかそんな」という話は決して珍しくない。で、ミッテランさんです。1995年までの14年間フランス大統領を務め、翌年1月8日に享年79才で逝去しています。癌の転移です。その亡くなる9日前の、大晦日の夜ことです。本人のたっての希望で、親しい人々四十人ほどを招いて、最後のお別れパーティーが開かれます。文字通り「最後の晩餐」となるわけで、だいぶ前から覚悟ができていた、ということですね。場所はワインで有名なボルドーにほど近い自宅。生まれ育った故郷です。肝心のメニューについては、料理からワインまで、すべて元大統領ご本人が決定したといわれています。では、その一夜がどんな感じで展開していったのか、ちょっと覗いてみましょう。ゲストが着席する大テーブルとは別にしつらえられた食卓。そこに、元大統領は抱きかかえられて「運ばれて」きました。ジャージの上下のような格好で、全身を毛布でくるまれています。こうして特別に用意された大きなリクライニングチェアに身を横たえた姿は、眠っているように、いや、死んでいるように見えた、といいます。
この日最初のお料理は、地元マレンヌで採れたカキ。氏の壮年期には一度に3ダース、一週間に百を超える生ガキを平らげることも珍しくなかった、というほどの大好物です。カキは精力剤として知られます。目の前にカキのお皿が用意されるやいなや、死んだようになっていた元大統領は、むっくりと体を起こして、生ガキの貝殻に口をつけて吸い始めます。あいの手にはソーテルヌ(甘い白)。ひとつ、ふたつとかたづけ、あっという間に1ダース。更に2ダース目へとすすんで、結局30個近いカキを食べてしまいます。そして最後に甘めのシャンパンをゆっくりと味わい、再び椅子に体を横たえると、すぐに軽い寝息をたて始めて、スヤスヤスヤ……。次のお料理はフォアグラ。ボルドーからツールーズにかけての一帯は産地です。その香りに眠りから目覚めたミッテラン氏は、脂肪肝のネットリした濃厚な味覚と質感を、先ほどとは別のソーテルヌで楽しみ始めます。料理に応じて白を変える。もう人民の敵です。そして次にメインの肉料理、鶏のローストが登場。去勢して太らせた肥育雄鶏で、柔らかく、ジューシーで、この夜は手に持つと自然に肉が骨から離れるとろけ具合に仕立てられています。ワインはフルボディの赤、シャトー・レスタージュ・シモン。シンプルで素朴でしかし深い味わい。卓上には、もう一本別の赤、シャトー・プジョーがデキャンティングされている。この夜、真打となる料理のために準備されたものです。
では、その真打の料理とは、いったい何か。野鳥「オルトラン」のローストです。ホオジロの一種で、鳴き声のきれいな愛らしい小鳥です。手の大きな人ならば、その掌で包めるほどの小ささで、秋、群れが空を移動するところを、カスミ網状の道具を使って捕獲し、キビを餌に鳥かごで数週間太らせます。ふつう料理前にアルマニャック(ブランデー)にくぐらせ、ローストの香りの素晴らしさを逃さないよう、食卓で特別な食べ方をする。ミッテラン氏の故郷の名物で、氏は子供時代から、晩秋になるとオルトランを味わっていたはずです。人生の様々な思い出が、このオルトランの、ローストの香りに込められている。だからこそ、生涯の旅のおわりに「敢えて」オルトランを選んだ、まさに「敢えて」。実はこの野鳥、絶滅危惧種に指定されていて、ご禁制の対象なのです。「地元の人間がこっそりと」というならともかく、元大統領がその宴席で堂々と、となると話は別です。そんなゲストの驚きをよそに、ミッテラン氏は頭から巨大なナプキンをかぶり、料理の香りを逃さないようにして、これを食べ始めます。
次回へと続きます。
ひとつき遅れの雛祭り
春のおそい最上地方では、旧暦にあわせ4月3日を雛祭りとする家も多くあります。新庄ふるさと歴史センターでは「新庄のひなまつり展」が開かれていました(平成24年4月2日まで)。豪商の豊かさを伝える高さ70cmの大きな享保雛や、今にも動き出しそうな竹田人形など、江戸や京都からやってきた個性豊かな人形達が並びました。
小野家の雛人形。家にある全ての人形を飾り、くじらもちやお菓子をお供えするのが新庄の習わしといわれています。
新庄の北、真室川で発見された土偶は、完全な形をとどめた貴重な史料として国指定重要文化財に指定されました。新庄市でも、とてもユニークな土偶の顔が発掘されています。縄文のころから人々は人形をまつり、様々な願いを託したのでしょうか。
昔話という、伝承の知恵
水蕗(みずぶき)バッケ
むがーし、むがし あったけど。
むがし、山の奥さ こんもりどしたブナ林あって、その中さ神様の力水、って、いう清水湧いでいで、その水飲ませっと、どげだ良く無え病気でも治る。って、いう言い伝えがあるんだけど。
ほんでも、山にゃ掟じゅものあって、男ど女で行げば、とんでもねぇごど起ぎるし、一人で行って貰って来ねぇごどにゃ、効ぎめも無ぇ。っても、言われでるんだけど。
その山の麓さ、「ふき」て、ついだ娘いで、病気の父親ば一生懸命なって看病してだっけど。ほんでも、ながなが治らねぇくて、だんだんとやつれで来る寝顔見で〈なんとが言い伝えの水、貰って来て飲ませってぇ〉ど、思って、手桶持って山さ出掛げだど。
(中略)
娘は泉にたどり着き、山の神に祈りながら水を汲んでいると、若い男が立っています。泉の主が娘を哀れに思い、姿を変えて現れたのでした。娘は山の掟を忘れ男と寄り添ってしまいます。たちまち山は猛吹雪となり、真っ白に埋め尽くされます。娘の不在に気付いた父親は、娘を捜しに山へ入り、泉に置かれた手桶を見つけます。
「ふきやふき。こごまで来てで、お前 ねぇして(どうして)戻らんねぇぐ なったなだや。」て泣ぎながら、手桶持って帰るかじゅしたでば、そばさ 黄緑のバッケ、ポックリど二つ出ったけど。なんだが、ほのバッケ、娘の面差しさ似だような感じで、根っこがらみ ソクっと取って来て、家の前さ植えだど。ほしたでば、だんだんと花開いで、綿毛フワリフワリど飛ぶようになったでば、娘の声そっくりな歌声が聞こえで来たけど。
〽バッケバッケふきのとう 風が吹いたらどげする
風の三郎にまもられで 遠いお山に飛んで行った
どんべ からんこ ねっけど。
話者 真室川町 柴田敏子さん
「新庄・最上の昔話」より
発行 新庄民話の会
編集 大友義助(新庄民話の会 名誉会長)
昔話の宝庫として知られる最上地方。昭和61年に設立された「新庄民話の会」会長の佐藤榮一さんにお話をうかがいました。同会は最上地方の昔話や伝説、方言、わらべ唄などの採話・記録活動を行い、毎週日曜日に開かれる新庄ふるさと歴史センター「語りの部屋」での民話語りや、夏・秋2回の定期公演など、語り手と聞き手が向きあう場をつくることに力を入れています。また新庄の小学校で伝承も行い、子どもたちによる語りの会も開きました。
今でこそ、昔話を映像や活字で残すようになりましたが「農家の子どもたちが学校に行けなかった時代、炉端で聴く話によって生活に必要な知識を学びました。また村の外の世界を知る手段も口伝えしかなく、語り手ごとに千差万別の昔話があります」と佐藤さん。絵本の活字とは違い、昔話は伝えられるたびにアレンジされ、生き物のよう変化していったのです。
「雪害」という言葉を生んだ 積雪地方農村経済調査所(雪の里情報館)
新庄ふるさと歴史センターから歩いて5分ほどの所に、「積雪地方農村経済調査所(雪調)」(現・雪の里情報館)があります。急勾配の三角屋根を特徴とする木造庁舎は、先月号で特集した今和次郎の設計です。
「雪害救済運動」を提唱し、雪調設立のきっかけを作ったのは、雪国の恩人といわれる松岡俊三代議士でした。昭和初期の東北地方は、たび重なる凶作や米価の下落、世界大恐慌などにより疲弊していました。娘の身売りや子供の栄養失調などが横行し、小作人と地主の対立も頻発したため、農村は将来への希望を失いつつありました。
そんななか、松岡代議士は、
1)地主も小作人も雪国全体の向上のため運動すべき。
2)雪国での不利益が大きすぎることは政治問題である。
3)凶作に対する農業技術の向上や経営安定のため、雪国の研究・指導機関が必要、と訴えます。
松岡代議士は電車や徒歩で東北をまわり、青年たちに「雪害」に立ち向かう勇気をもつよう講演を行いました。そして昭和7年には衆議院で雪国救済の施策を訴え、振興のための様々な制度を実現させました。その一環として、全国初の農林省による調査・指導機関「雪調」が開設したのは、昭和8年のことでした。
「雪調」の役割は大きく3つに分けられます。1)雪の理化学研究に関すること。
2)積雪地方の経済更生に関すること。3)副業・農産工業(ワラ製品、竹細工、木工製品や、瓶詰め、缶詰などの食品)に関すること。
「雪調」の設立当時、農林次官をつとめていた石黒忠篤は、初代所長として山口弘道を起用します。石黒に民家採集などの支援を受けていた今和次郎は、その縁もあり、庁舎や農村モデル住宅の設計を委託されました。今和次郎は視察旅行で発見した新潟県の住宅(大崎村小学校校長・瀧澤氏邸)をヒントにして、50度の屋根勾配をもつ一部4階建ての住宅を考案しました。屋根の雪は自然に落下し、住宅の1階部分にたまります。居住部分は2階以上に設け、雪で採光を遮らないようしています。雪下ろしに当てていた時間を省き、それを生産に振り分けようという工夫です。
斬新な今和次郎のモデル住宅は、農村にはなかなか受け入れられませんでした。しかしいま「雪調」の周辺でも、そのDNAを受け継いだと思われる住宅を沢山見られます。
コンクリートの土台を高くして車庫に利用したり、片屋根から滑り落ちる雪を溜めるスペースを作ったり、玄関を高い位置に設けて風除室で囲ったりと、冬の間、採光を確保しながら雪下ろしの労力を省く工夫をしています。
「雪調」の大きな功績のひとつは、民芸品やホームスパン、保存食品などの開発・製造でした。最盛期はさながら一大工場群のようで、その技術は東北全体へ広まり、農家が副収入を得る可能性をひらきました。
初代所長・山口弘道は幅広い人脈を活かし、柳宗悦や河井寛次郎たちに、民芸品の発掘やデザイン開発を依頼します。東北や東京、大阪で新しい民芸品の展示・販売会も開催され、大きな成果を上げました。
昭和15年 フランスから招聘されたシャルロット・ペリアンは、柳宗利と共に雪調を訪問。敷物や椅子などを考案し、寝椅子やテーブルセットの試作品が作られました。しかし戦争の激化から民芸品の開発は自然消滅してしまいました。
工房楽記
コメ コメ人情
BC工房 主人 鈴木 惠三
寒い日本を逃げ出して、ジャワに来ている。
30℃で湿度は90%。
雨季の蒸し暑さといったら天下一品である。
今年は雪が多い「ふじの工房」とくらべると、
とんでもない違いだ。
老いたカラダは、この気温差についていけない。
工房の片スミで昼寝ばかりしているのだ。
1週間ぐらいでカラダは順応するだろうから、
アタマが動くのは、それからだ。
南国は、それくらいがいいのだと思っている。
田舎の街でも、コメが1㎏=80円ぐらいになったと騒いでいる。
今までは1㎏=50円ぐらいだった。
オイラは日本で10㎏=3500円の安いコメを食べている。
コチラの人に話すと、「そんな高くて、暴動がおこらないのか?」になる。
農業を守るため、
国民がガマンしているのだろうか?
10㎏3500円の安いコメでも、旨いもんだ。
日本のコメは旨いのだ。海外旅行から帰ると、
いつも思う。
日本の農家は自信をもっていい、自信は自由だ。
自由化になったって、負けはしないと思うが、
長い間守られてきた人間は、
砦の外に出るのがコワいのだろう。
小さな自由でいいのだ。
砦の外のモノが入ってくるのもコワいのだ。
ホントの自由がコワイのだ。
でも、これじゃ鎖国みたいだ。
いや、まだまだ鎖国なのかもしれない。
江戸の頃から変わらない?
オイラはコチラで、時代小説ばかり読んでいるせいか、
「人情」大好きだ。
冷害で凶作になった農民と、
コメに頼っている藩財政のキビしさ、
その中にある人情は、時代小説の主題でもある。
市井の人々の小さな自由の中の「人情」。
耐え忍ぶ暮らしの中の「人情」。
昔も今も、変わらないのだろう。
「コメ コメ人情の日本」
「せめて、昼寝ぐらいいっぱいさせてくれ、
おねげーだ、お代官さま。」などと、
小さな自由の中で、
寝ぼけているのがいいかもしれない。
最上地方は1622年(元和8年)まで、山形一帯を支配した最上氏によって治められていました。しかしお家騒動により最上氏は改易となり、その後、領主となったのは戸沢氏でした。幕府から新庄藩6万石を与えられた戸沢氏は、当時まだ未開発だった新庄に城をつくり城下町を発展させます。
やがて幕末になると戊辰戦争による戦乱で、庄内藩の攻撃をうけ、城や城下町は一日のうちに焼け落ちてしまいます。いま新庄城の跡は、お掘りに囲まれた最上公園となり、公園内の戸沢神社は初詣の参拝客で毎年賑わうそうです。
樹齢300年のブナに見守られた羽州街道「鳥越一里塚」。江戸・日本橋から110里地点にあたります。羽州街道は新庄・金山を抜けて秋田・青森へと続く参勤交代に使われた道です。
農村演劇の地 鳥越八幡神社
市の東南部、鳥越地区に、新庄最古の建造物である鳥越八幡神社(国指定重要文化財)があります。初代新庄藩主・戸沢政盛の養子・定盛が、鷹狩りに出掛けた際に神威を感じ、城下を鎮める場としてひらいたと伝えられています。
大正の末、岩手で宮沢賢治に師事した松田甚次郎は、この境内に農村演劇の土舞台を築きました。鳥越の大地主の家に生まれた松田は、盛岡農林高等学校(賢治の母校)に入学し、まだ無名だった宮沢賢治を訪ねます。「小作人たれ、農村演劇をやれ」と鼓舞された松田は、これを生涯のテーマとし、鳥越で農村演劇を上演しつつ、農産加工品やホームスパンの製造を指導し、農村改善運動を実践しました。ベストセラーとなった農村の実践記録「土に叫ぶ」でも知られ、宮沢賢治作品の普及にも尽力しますが、30代の若さで夭逝します。
鳥越の「恩賜郷倉」
先月号の今和次郎特集で紹介した、新庄市鳥越地区の「恩賜郷倉」。
実物をひと目みたいと鳥越を訪ねました。道に迷いながら進むうち、
青山学院大学黒石研究室で制作された模型(「山形県鳥越の恩賜郷倉とその周辺」)、そのままの田園風景を見つけました。
雪原に埋もれた赤い屋根は「郷倉」か? 近所の伊藤さんにうかがうと、親切に道を教えてくださいました。最近、郷倉を訪ねに来る人も多いとのことです。
昭和9年に起った東北大飢饉を機に、皇室からの下賜金を元にして東北地方に数千棟の「恩賜(おんし)郷倉」が建てられました。その標準設計を行ったのは、新庄の「雪調」でも活躍した今和次郎でした。
そもそもの郷倉は、江戸時代に年貢を集める場として使われてきました。そこに米や雑穀などを備蓄し飢饉に備えたのです。明治になり農村にも貨幣経済が浸透すると、郷倉制度もすたれてしまいます。今和次郎はその制度を復活し、共生の大切さを唱えました。村々で大切にされた郷倉も、80年近いの歳月をへてわずかしか残っていません。その姿は、天災への備えの大切さを訴えているようです。
民間に払い下げられた後も、恩賜郷倉は村人によって大切に管理されてきました。外からは雪に埋もれたように見えましたが、入口はきれいに除雪され、屋根も葺き替えられているようでした。築約77年。コンクリートブロックの基礎の上に建てられているのが、恩賜郷倉の特徴です。
恩賜郷倉の前で写真を撮っていると、隣りに暮らす農家の伊藤さんに声を掛けられました。郷倉の持ち主は、少し離れた所に住む方とのことです。
伊藤さんは小屋のなかでカブの皮をむいて、漬物を作っている最中でした。秋に収穫したカブを、春先に漬けて食べるのです。一方、大根を雪の下に埋めて保存しようとしたものの、ワラでくるまなかったため傷んでしまったと残念そうでした ワラは農業用資材としても欠かせないものだったのです。コンバインを使った稲刈りは、ワラを粉々にしてしまい、ワラは貴重品になってしまいました(稲ワラを活かし、自動的に束にするコンバインもあります)。
カブは山形県の特産品で、各地で様々な種類のカブを作っています。最上地方のカブは小さな大根のような姿で、赤く色づいています。夏の盆をすぎた頃に植え、 雪の降る前に収穫できるカブは、米の収穫が少ない年に、穀物の代りにもなる大切な食物でした。山地では杉を伐採した斜面を焼き畑にしてカブを植え、次の植林のために土地を豊かにする工夫も行われていました。
軒先の「凍みダイコン」は、茹でた大根を外に吊るしておき、夜は凍り、昼は解凍を繰り返し1カ月半ほどでフリーズドライになります。長期間保存でき、一晩水で戻して煮物などに使います。ほうずきのように見えるのは乾燥したハバロネで「辛くないよ」といわれてかじってみると、とてつもなく辛かったです。
細長いニンジンは、新庄駅の物産館にだしたところ大好評。細長いニンジンを掘るのは大変とのことです。ネギは冬のあいだ保管しておき、春に植え直すとまた育ちます。
モミ殻を入れた箱に、電気マットを敷いてミツバなどを育ててみたところ、乾燥して失敗してしまったそうです。伊藤さんのいろいろな挑戦は続きます。
京都へのハイウェイ 最上川
古くから最上川は、新庄から酒田への河川交通に利用されてきました。酒田の港で北前船にのせられた材木や紅花などの特産品は、日本海をへて京都や大坂へと運ばれました。
新庄市の西南部、本合海(もとあいかい)で最上川は大きく蛇行します。ここは舟運の中継地として栄え、東北を旅した松尾芭蕉もここから舟に乗り最上川をくだりました。それを記念した芭蕉と曾良の像と、再現された舟つき場「芭蕉乗船の地」があります。
最上川によって削られた八向山の断崖に「矢向(やむき)神社」があります。舟運を守る神としてあがめられ、奥州平泉に向かった源義経も拝んでいったそうです。千年以上、女人禁制を守ってきましたが、数年前に初めて解かれました。春に開かれる「新庄カド焼きまつり」(今年は4月29日~5月5日)は、最上川をさかのぼって運ばれたカド(ニシン)を食し、春の訪れを喜びあう風習から生まれたそうです。
新庄・もがみそば街道 地元産の玄そばで、山形名物・板蕎麦を楽しむ。そば処「いせき」 (新庄ふるさと歴史センターむかい)
100年を見すえる杉の街 金山
新庄駅からバスで30分ほどの金山町は、秋田との県境にあり、江戸時代は羽州街道の宿場町として、明治からは林業で栄えた町です。車窓からは、名物の金山三山が見えました。全国にさきがけて街並みの大切さを訴え、昭和61年に独自の景観条例を施行した金山町。「金山型住宅」と呼ばれる伝統スタイルの家並みや「街並み(景観)づくり100年運動」を参考にしたいと、全国から視察に訪れる人はあとを絶ちません。朝、バスで着いたとき、金山の町には大粒の雪が降っていました。町で一番の寺「宝円寺」の山門も雪につつまれています。編み笠をかぶり、水路へと雪を流している方もいました。
たちまち広がった青空の先に、金山杉の山々が直立していました。明治11年(1878)この地を訪れたイザベラ・バードは、「杉の林で山頂までおおわれたピラミッド型の丘陵」と評しています。
名産の金山杉を使い、地元大工によって建てられた金山型住宅。切り妻屋根と白壁は雪景色に映えます。切り妻部分には構造材を一部露出し、外壁の木部は焦げ茶色に統一されています。伝統的スタイルを守りながらも、1階を車庫にして2階にサンルームを設けるなど、今の暮らしにあったプランニングをしています。明治20年の大火により、町の中心部を焼いた金山町には、それ以前の建物はほとんどありません。しかし、わずかに残った伝統建築をモデルにして、古きよき街並を再現しながら、現代生活と両立する試みを続けています。
米蔵を改修した蔵史館(くらしかん)は、音楽会や展示会を開く市民ホールに活用されています。金山杉と白壁の内装は、ピアノの音をバランスよく響かせます。この金山杉の木目の美しさ、優れた性能を活かそうと、地元・岸家具店の岸欣一さんは新たな試みをすすめています。
寒さの厳しい山林でゆっくり生長した金山杉は、緻密に揃った年輪と木目の細やかさが特徴です。狂いにくく強靱で、家具材にも適すると考えた岸欣一さんは 「きごころ工房」を立ち上げ、額縁をはじめとして子供家具やテーブル、椅子などの制作に挑戦しています。
新庄・もがみそば街道 築120年以上の商家の一角を活用。金山産「最上早生」を使った心あたたまる そば処「草々」 (金山町「蔵史館」向かい)
金山型住宅のモデルのひとつになった、築120年以上の商家を活用したそば処「草々」に入りました。岸さんは宮城県・加美町の陶飾家・三浦早苗さんと待ちあわせ、個展の打ち合わせを始めました。
岸さんが手しているアタッシュケースは、金山杉の寄木細工を使った試作品です。「金物や取っ手の部分はまだ不満」と、三浦さんに相談する岸さん。草々の女将で街並み案内人をつとめる阿部一代さんも加わり開発会議がはじまりました。宿場町として栄えた町ならではの交流の場です。間口よりも奧に長いつくりは町屋の特徴です。土間の中廊下には、取り外し式の橋を架けていました。天井はとても高く、金山杉をふんだんに使っています。上は岸さん制作の額縁です。
金山杉の住宅を体感
金山杉の魅力を体験できる「家づくり工房」の次世代型モデルハウスを訪ねました。
▲ 家づくり工房を主宰する・川崎 俊一さん。
このモデルハウスは、金山型住宅を若い世代へアピールするため、宝円寺の前に建てられた長期優良住宅です。80年以上大切に育てられた金山杉は均質で節も少なく、杉に対するイメージを一変させる力がありました。家づくり工房の川崎俊一さんは、先人たちが育てた金山杉を価値ある形で活用し、若い建主に知ってもらうことで林業を活性化させたいといいます。大黒柱と薪ストーブの煙突を呼応させ、ダイナミックな構造体を見せています。屋根までストレートな煙突は、ストーブの効率を高める効果もあります。床下には蓄熱暖房を取り入れ、外の景色を忘れそうな暖かさでした。2階は家族構成の変化にフレキシブルに対応できます。同社は東北から関東まで広く家づくりを手掛け、宮城など被災地からの相談も多いそうです。福島県浪江町では、津波で周辺の家々が流されるなか、金山杉の家は津波に耐えて残っていたそうです。
モデルハウス向かいの宝円寺。背後の山林は、川崎さんの先代たちが植林し、育て、守ってきた金山杉です。金山町の杉は、町のすぐそばで育てられていることも特徴です。
家づくり工房を主宰する(株)カネカの、百年以上たつ母屋(川崎家)です。4つある蔵のひとつは事務所に改装し、1階では呉服店も営んでいます。同社は明治から林業を手掛け、川崎俊一さんで4代目にあたるそうです。
明治の後期、政府が国有林の払い下げを行った際に、金山町の有力者達は森林を購入し林業を始めます。カネカの初代・川崎俊治氏も1500町歩(約450万坪)もの杉を植えたそうです。「当時の林業家たちは、天竜川の治水工事や植林に尽くした、金原明善の影響を強く受けました。林業を社会貢献としてとらえ、地場の柱にしたいと考えたのです。良質の金山杉を育てるには80〜100年の歳月が必要で、初代はもちろん、2代目も伐採できません。3代目でやっと伐採できたあと国産材価格は下落し、林業だけでは成り立たなくなりました。そこで住宅として金山杉を提供する事業を始めました」と川崎さん。全国から注目される金山町の「街並み(景観)づくり100年運動」も、こうした林業家達によってリードされてきたのです。「100年は1本の木が育つだけの時間です。林業の視点からみれば、遠い将来ではありません」といいます。
初代・俊治氏の孫にあたる川崎セツ子さん。古い着物を利用した、人形づくりを続けています。4月はじめの雛祭りには、代々伝わる雛人形を蔵からだし、一般公開するそうです。2012年4月28日〜5月6日(日)までは「春のかねやま展」が開催されます。
それでも 地球は 回ってる
[嵐の前]
長い髪が南風になびいている。あの時と同じ匂いだ。もうそろそろ雨が来るんだろう。ナツは砂の上に寝転んだ。夕方の空。ぼんやりとした時間。凪ネエが振り向いた。「そっかナツがあの時の子だったんだ。」ねっとりとした潮気。「全然、気づかなかった……。」「背も伸びたしね」「カイトは知ってるの?」 「 あの時の事?どうだろ。事故だと思ってる …… というよりそう信じたいって感じかな」「そう……」
[ナツ11歳]
修学旅行から帰ってきて玄関ドアにカギを入れた瞬間。すごく嫌な予感がした。背中がむず痒くて、でっかい虫が貼りついてるみたいな、そんな気持ち悪い感じ。「ただいま」……ほら、やっぱり返事がない。直観的に分かった。母さんが出て行ったんだ。案の定、部屋はガラガラ。父さんは海外に単身赴任中だったから。完全な一人ぼっちになったということだ。「ふうん」口に出して言ってみた。別にどうと言う事はなかった。あの男と逃げるだろうなってのは薄々感じてたから。ただ、母さんに、旅行中の出来ごとを話そうと思って頭の中で準備してたから、それだけが宙ぶらりんになった感じ。
[雨雲]
取り敢えず父さんの手配で、お手伝いさんが家にくるようになった。「冬までには帰るから」父さんはそう言ったけど、どうせそんなの無理だろ? ハワイだぜ? 分かり切ってるんだよ。幼なじみのカイトが毎日心配そうな顔をする。幸せの家庭の典型的な長男タイプ。嬉しいよ? 心配してくれんのはさ。でもマジで大丈夫なんだって。周りで思ってるほど悲劇の実感がないっていうか。だけど、なんだろう。確かに時々すごく心臓の鼓動が大きくなるんだよ。特に雨の前の朝とか。雨雲見てたりする時とか。
[飼育係]
結局、心の中の雨雲はある日急に爆発した。授業中。隣のタケヒロが俺の消しゴムをふざけて窓の外に投げ捨てた時。バチンって、頭の中ですごく怖い音がはじけた。……カッターで切ったんだ。ちょうど手に持ってて。でも間違って切ったんじゃない。あんとき俺、間違いなくタケヒロを切ろうとして腕を振ったんだ。タケヒロはちょっと知恵の足りない子で、いつも俺になついてた。ウサギに二人でご飯あげたりして、俺も可愛がってあいつの面倒を見てたのに ……。なんでなんだろ。分かんないけど、いい子の演出してただけで、きっと心の裏ではタケヒロにイライラしてたのかも。今思えばさ。
[蟻]
気づいたらカッター持って、学校飛び出してた。血だらけだよ。人ってあんなにいっぱい血がでるんだな。体中血だらけ。で、松林に逃げ込んで、雨が降って来て。空がゴロゴロ鳴ってて、すごく寒くて。サイレンの音が聞こえてきて、でも、俺ずっと蟻を見てたんだ。怖くて怖くてたまらないのに、足の下に居る蟻の行列から目が離せないんだよ。たぶんあの時、俺半分あっち側に行ってたんだと思う。座り込みながら、小便漏らして。じっと蟻を見てた。
[帰る場所]
人ってさ、居場所無くなると死ぬんだよ。家に誰もいなくて、こうなったら学校にも戻れないだろうし、小学生の居場所なんてその2つくらいしかないからさ。で、とにかく、もう帰る所ないなって思ったら、体がグニャッてなったんだ。仰向けになって、土砂降りの雨と土でグチャグチャになって。で、突然、林の向こうから声が聞こえた。大勢の人の足音と、無線の声。警察だって思った時、急にこう思ったんだ。「ごめん。母さん!! 」って。おかしいよな。なんで俺が? 捨てられたんだし、逆だろって。でもさ子供ってそうなんだよ。いや、もしかしたらきっといくつになってもそれが人間の本質なのかもしれないな。
[ハグレ]
逃げたよ。もう本能だね。警察が怖かった。俺、足早いからさ、視界の利かない防砂林の中だったし、結構捕まんないもんなんだよね。でも、警察もどんどん増えてさ。四方八方から。もう駄目だって思って、砂浜に飛びだした時、クロさんに出会ったんだ。血まみれの小学生が松林から飛び出してきたからクロさんもびっくりしてた。でもすぐ俺の手を捕まえて「ハグレか?お前。」って言ったんだ。凪ネエも横に居たよね。「 うわうわうわ 」って言ってたじゃん。クロさんは遠くの警察見て、ほらあの人すごく勘のいい人だから。「勇気出して謝ってこいよ」って言って横抱きに俺のこと抱えて、警察の前にポイッてした。で、連行されたんだけど、あの人が言った最後の言葉はずっと忘れられなかった。「よー、いつか一緒に波乗りやろうぜ。」って確かに言ったんだよ。
[ハワイ帰りのナツ]
「ふとした偶然で、友達を切って怖くなって逃げたってことになったの? 」「 うん。だからそんな大きな問題にはならなかった。でも、最終的には父さんの所に行くことになって、最近また帰ってきたんだ。」 「アメリカ? ハワイだっけ」 「うん。」 「ずっと考えてたよ」「ん? 」 「居場所についてをさ」 「どういうこと? 」「人には自分の体重を預けられる場所や言葉が必要なんだって」「 ……なんとなくわかる……かな? 」「だから帰って来たんだ。俺はここに。」でも……。「クロさんどこ行ったの? 」「うーん……分かんない。私も 」心の中の雨雲がまた少しずつ近寄ってくる。「凪ネエ」 「ん? 」「知ってるよね? クロさんの行方」空高く逆巻いた南風が二人を叩いた。髪を直しながら凪はナツを見つめる。長い髪の奥の目に底知れない影が覗く。「 俺、こっち戻って来てから調べたんだ。クロさんと凪ネエのこと 」「そう…… 」「 ねぇ。15歳ってそんなにガキじゃないんだよ? 」「……知ってるよ。そんなこと。」凪ネエは水平線を見ながらぽつりと言った。
SOL見参!
キモノデザイナー・斉藤上太郞氏とインテリアショップPOLISが初のコラボレーション。斉藤氏の新コレクション発表会にPOLISの新作ソファ「SOL」が登場し、ステージ上でモデル達と競演しました。SOLはジャケットを着せかえるようにカバーリングを交換できる新感覚のソファ。ジョウタロウモデルのジャケットも登場し、キモノをまとったソファも楽しめます。
SOLの発表と同時にPOLISは、ジェイアール京都伊勢丹に新店舗をオープンしました。SOLをメインアイテムとして、着せ替え用ジャケットも多数用意。季節感を大切にする京都で、衣替えするソファを提案しています。
真室川音頭の聞こえる町
全国的にファンの多い「真室川音頭」。その発祥の地である真室川は、林業や鉱山で栄えた町です。真室川(まむろがわ)駅の直販所には、朝から大勢の主婦が詰めかけていました。
真室川では様々な伝統野菜や山菜が栽培されています。なかには甚五右ヱ門芋や勘次郎胡瓜、長左エ門カブのように、一軒の農家だけで代々栽培された貴重な野菜もあります。
「秘伝豆」は、秋に収穫する大粒の大豆で、甘みが強く、独特の香ばしさがあります。ウドやワラビ、ゼンマイなど、春〜初夏にとった山菜は、乾燥したり、塩漬けにしておき、野菜の少ない冬場に水で戻して食べます。真室川は、山菜の「促成栽培」でも知られています。フキノトウやタラノメ、ウド、コゴミなどをビニルハウスで育て、天然の山菜が出回る前に出荷します。冬季に仕事の少ない雪国の農家にとっては、貴重な収入源となります。
平成15年に完成の「真室川森の停車場」。戦国時代のころ真室川には、最上一帯を支配した鮭延(さけのべ)城があり、新庄藩主・戸沢家も、最初はこの城に入ったといわれています(その後、新庄に移ります)。城門をイメージした木造建築には、地域の人々が集い、待合室のストーブを囲みながら話を弾ませていました。鉄道だけでなく、村営バスの起点ともなっています。いま注目の山菜「雪うるい」。天然のうるい(オオバギボウシ)は、春先に緑の葉をだします。一方、雪うるいはハウスのなかで完全に遮光して育てます。若葉色の葉は光に当てるとすぐ緑色になり、苦みが出てしまうそうです。少しネバリのあるシャキッとした食感で、サラダにも使える山菜として首都圏にも出荷されています。
正調 真室川音頭
私しゃ真室川の梅の花 コーオリャ
あなたまたこのまちの鶯よ (ハァコリャコリャ)
花の咲くのを待ちかねて コーオリャ
蕾のうちから通って来る (ハァドントコイドントコイ)
夢を見た夢を見た夢を見た コーオリャ
あなたと添うとこ夢を見た (ハァコリャコリャ)
三三九度の盃を コーオリャ
いただくところで目がさめた (ハァドントコイドントコイ)
真室川を代表する菓子舗「柴田屋」を訪ねました。金山町から嫁いだ柴田トシ子さん(左)は、ひとつで三つの味を楽しめる「鷹匠最中」や、もち米を使った醤油味の「真室川ゆべし」など、先代からの味を守り続けています。
町の名物である真室川音頭。保存会の会長をつとめる釼持順子さん(右)は、「町に炭坑や飛行場のあった時代、真室川音頭は宴会のさいに好んで歌われ、沢山の替え歌もありました。歌いやすいメロディーは、歌詞を選ばなかったのです」と教えてくれました。かつて町の通りには映画館や料亭が並び、各地からの労働者達で賑わっていました。その後「正調 真室川音頭」がレコード化されて全国に広まり、今は中学校の授業の一環にもなっています。釼持さんは「誰かがやらねば」という気持で6代目会長を引き受け、毎年7月にひらかれる全国コンクールでは、その運営や審査に尽力しています。
真室川町の歴史民俗資料館では、山仕事を生業とした「山かせぎ」の暮らしを紹介しています。真室川では4月3日となる深夜、15歳の少年を大将とした男の子たちが山の神を持って家々を訪ね歩き、米や豆、金銭を受ける「山の神の勧進」があります。その明け方から女の子の雛祭りもはじまります。毎月12日は「十二山の神」といわれ、山に入ることは戒められていたそうです。
むがーし。むがーし。あったけど。ある所に兄弟のまだぎいだっけど。兄の方まだこしぎ山さ、弟の方まだ飛びの森の方さ狩りする場所持って、したりあ(2人は)わがれ わがれんなて またぎしったけど。
あるおーぶき(大吹雪)の日に、兄あ山の小屋でふぎあ止むな待じっだけど。そしたら、その晩おそぐ山小屋の戸ただくおどあ すんなだけど。ほんで、えまごろ不思議だなど思って、兄あ山小屋の戸あげでみだれば、そどに一人のおなごのしとあ立てだけど。みっど そのおなごのしとのかっこてゆたら、まずまず、木の皮で作ったんだが、獣の皮で作ったんだがわがらねぁ着物着て、よっく見るど腹おっきくて、えまにも子供生みそな かっこだなだけど。ほんで兄あ、
「なえだ えまごろ こゆ山ながさ来るじゃ」
てゆたら、そのおなごしとまだ、
「ずずわ(実は)、おぼごなしでぁぐなたはげぁ(子供が生まれそうなので)、山小屋に宿貸してなさせで下され」て頼むだけど。ほんでも、まだぎじゅおのあ、むがしから おぼごなしどが ゆうおのは、忌み嫌たもんだがら(出産は忌み嫌った)、ほうゆう忌み火が、まざるど、わりどもて、(中略)
兄に断られた女は、弟の山小屋へ行きます。可哀想に思った弟は女を入れ、自分は吹雪のなか外で一夜を明かします。朝になり小屋から元気な泣き声が聞こえてきました。
「おがげさんで、なしたがら見でけらしぇぁ」て、ゆうもんだがら、弟あ山小屋の戸あげで覗こんで見だれば、そのあなごまだ、十二人の子供なしったなだけど。そして弟におなごのしとあ、「おかげさんで月月の守り神になる十二の神さまなすごど でぎだがら どうぞありがでぁがった。お礼にこの山の物なんでもおめぁさ上げるがら、木でも獣でも、なんでもみな上げるがら、沢山取れ。ほんでも子供連れだ獣だけは捕らねぁでけろよ」て、ゆって、山の方さほの十二人の子供軽々とだぎかがえで消でえだけど。(以下略)
弟はこの不思議な出来事を報告に兄の小屋へ向かいます。小屋には誰の姿もなく、小さなネズミが一匹、恥ずかしそうに穴にもぐっていきました。
話者 柿崎 宥存さん
古くから真室川は巨木の産地として知られ、京都や大坂、江戸の寺院建築に使われてきました。木を伐るのは冬場の仕事で、丸太は馬そりなどで川へと運び、イカダに組んで流しました。人よりも手当の多かったほど馬は重宝されました。
真室川町・及位(のぞき)の中屋吉蔵が発明した、伐採用の「窓ノコ」は、歯に隙間を設けたアイデアで全国に知られ、一時は「中屋」と名乗る道具屋が増えたほどの人気だったそうです。
真室川をバックに、真室川音頭保存会会長の釼持順子さんと、副会長の土屋キミ子さん。4月末(今年は4月30日)の「真室川梅まつり」では、約400本の梅の咲く真室川公園にて、真室川音頭の輪踊りを披露します。
このおだやかな川も1975年夏の大雨で堤防が決壊し、家や橋を流され、町は壊滅的な被害を受けました。日本初の「激甚災害対策特別緊急事業」に指定され、4年をかけて復興したそうです。