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時空にえがく美意識
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11月号 秋灯 2 012
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Copyright . 2012 Shiong All rights reserved
時をリンクするWIEN
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時をリンクするWIEN
クリムト生誕
150周年の今年。ウィーン各所で記念イベントがで開かれていました。ブリューゲルのコレクションで知られる「美術史博物館」では、クリムトの壁画を間近で見られる仮設の橋をかけていました。
普段は遠くからしか見られないクリムトの壁画「パラス・アテネ」。
エジプトの裸婦。壁画には美術史の各時代をテーマとした肖像が描かれています。
クリムトの下絵。工芸美術学校を卒業したクリム
トは、弟エルンストや級友フランツ・マッチュと、
劇場装飾などを請け負う芸術家商会を立ち上げ、
壁画を協働して描いていました。美術史博物館
の仕事は、彼らの敬愛した人気画家・ハンス・マ
カルトの急死によって引き継いだともいわれ、ま
だ20代だった彼らの若き情熱が伝わってきます。
クリムトの下絵。工芸美術学校を卒業したクリム
トは、弟エルンストや級友フランツ・マッチュと、
劇場装飾などを請け負う芸術家商会を立ち上げ、
壁画を協働して描いていました。美術史博物館
の仕事は、彼らの敬愛した人気画家・ハンス・マ
カルトの急死によって引き継いだともいわれ、ま
だ20代だった彼らの若き情熱が伝わってきます。
美術史博物館・ブリューゲルの部屋には「バベルの塔」や「雪中
の狩人」「農民の婚礼」などが贅沢に並び、写真撮影も自由です。
美術史博物館は1891年、分散していたハプスブルク家のコレクショ
ンを集約し、ウィーン市民に公開するため開館しました。
の狩人」「農民の婚礼」などが贅沢に並び、写真撮影も自由です。
美術史博物館は1891年、分散していたハプスブルク家のコレクショ
ンを集約し、ウィーン市民に公開するため開館しました。
ブリューゲル作「バベルの塔」の左上には街をとり囲む城壁が見え、その下には建設現場を視察する王様がいます。19世紀中頃のウィーンも城壁に囲まれた人口過密都市で、外には田園が広がっていました。
▲
クリムト「ユディト」1901
ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館
ウィーン ふたりのユディト
旧約聖書外典に登場するユディトは、ユダヤ人の街を包囲したアッシリ
アの司令官ホロフェルネスの元に赴き、着飾った姿で司令官を魅了しま
す。やがて寝室に呼ばれたユディトは、泥酔する司令官の寝首をかき、
それをきっかけに街は反撃に転じ、アッシリア軍を撃退します。この題
材は古来から様々な画家によって描かれてきました。工芸美術学校で
古典絵画を学んだクリムトも、もちろんその技法を継承し壁画に生かし
ています。
1901年、20世紀の始まった年に、クリムトは個人的陶酔におぼれるか
のようなユディトを描き、新世紀の幕開けを告げたのです。
ルーカス・クラナッハ(父)「ユディト」1530頃
美術史博物館
▲
18 5 0年代半ばウィーンは街を囲う城壁を壊し、幅数百メートルの空き地を利用して環状道路(リンク通り)や新王宮や国会議事堂、市庁舎、オペラ座などを次々と建設。ウィーン市街改造計画の時代を迎えます。
リンクを走る市民の脚、路面電車は、時間制チケットなので乗り降りが便利です。
今回紹介した場所の地図
(g oogle map)
18 5 0年代半ばウィーンは街を囲う城壁を壊し、幅数百メートルの空き地を利用して環状道路(リンク通り)や新王宮や国会議事堂、市庁舎、オペラ座などを次々と建設。ウィーン市街改造計画の時代を迎えます。
リンクを走る市民の脚、路面電車は、時間制チケットなので乗り降りが便利です。
今回紹介した場所の地図
(g oogle map)
ウィーン7区ツィーグラーガッセの店舗。店舗の裏に工房があります。
Jarosinski & Vaugoin ヤロシンスキー&ヴァゴォン
ウィーンで最も古い銀器工房ヤロシンスキー&ヴァゴォンは1847年、フランスから移住したヴァゴン家によって創業されました。様々な様式のカトラリーを製作し、精緻な銀細工の技術でも知られています。
けいざいがけいざいが
▼伝統ある工房を引き継いだ若きオーナー・J・P・ヴァゴンさん。
上は分離派の時代のカトラリー。長い歴史の中で培った様々な年代のカトラリーを揃えていました。家紋やイニシャルを入れることもできます。
経済の不安な時代は、銀器の需要も増えるそうです。中世の昔から、銀器は財産保全の手段のひとつと考えられてきました。
ウィーン・プロダクツ展
-現代に息づく華麗なる逸品
2012年 11月 8日〜19日まで
和光 本館 6階 和光ホール(銀座)
ウィーンの歴史と芸術を受けついだ質の高い逸
品を認定する「ウィーン・プロダクツ」。その認定
をうけた 6社の製品をコーディネートして、ルネ
サンス、バロック、ビーダーマイヤー、ユーゲン
トシュティール、現代をデーブルコーディネート
で表現した展覧会が、11月19日まで銀座の和
光で開かれています。 会場撮影:Takaya Endo
参加企業(本特集でも紹介)
「ウィーン磁器工房アウガルテン」、「ロブマイヤー」、
「フリードリッヒ・オットー・シュミット」、「バックハ
ウゼン」、「ウィーン・シルバー・マニュファクチャー」、
「ヤロシンスキー&ヴァゴォン」
中世の銀器工房を彷彿とさせる作業場。イニシャルを透かし彫りにするという難しい仕事を行っていました。銀の板を金型でプレスしてからハンマーで伸ばし、あとは全て手加工で削りながら仕上げていきます。
▼ 金型の保管庫。ハプスブルク家で使われた銀器の金型もあります。
▲ スプーンの凹みをつけるため、ハンマーで金型をたたきます。
▼ 分離派の時代「ウィーン工房」の影響で作られた銀器。
▲ハプスブルク家の至宝「サリエラ」(塩壺)をモチー
フにした彫刻作品。貴重な塩は富の象徴でした。
▼カップ型の工房の刻印。銀の純度は 92.5%です。さ
らに 99.99%の銀をメッキして曇りや傷を防ぐという、独
自の仕上げをしているそうです。
季節ごとに変わるウィンドディスプレイもデメルの名物です。
美味しいコーヒーを飲みたくなりコールマルクト通りデメルのカフェへ。1786年創業の名店で働く女性店員たちは「デメルレディ」と呼ばれ、接客マナーの行き届いた職業婦人として敬意をもたれてきたそうです。
DEMEL K.u.K. Hofzuckerb.ckerデメル
カフェではオーストリアの伝統メニューやオープンサンドを楽しめます。名物ザッハトルテもさりげなくケースに並んでいました。頻繁に来店する海外の要人も一般と同じ扱いでもてなすそうです。地下のデメル・ミュージアムへ。
元々の店舗は王宮劇場とつながり、劇場のパーティや貴族のイベントを彩ってきたデメル。店と客とケーキの織りなす劇場の一員になった気分にひたれます。
ミュージアムに展示されているマジパンの彫像。造形にたけた
菓子職人「ツッカーベッカー」が工夫を凝らしてきました。王侯
貴族やを楽しませるエンタティナーの役割も担っていたのです。
デメルの菓子づくりは現在の「ツッカーベッカー」たちに受け継がれ、これからもユニークな菓子を次々と生み出していくでしょう。
[ ナツ25歳 ]
まれそうになる体をかろうじて抑えつける。
モトローラ.の着信音。静かに息を吸い込む。ポケットから
「 カイトはあなたを救ってくれるわ 」
携帯を取り出し、長い指で着信ボタンを押す。男は遠目から
「 なあ、カレン 」
でも分かる長身を引きずりながら、表参道をゆっくりと下っ
「 うん、分かってる。それ以上言わないで 」
ていく。ファッション誌から抜け出て来たような男を通り過
ぎる誰もがこっそりと目で追う。黒いカーゴパンツ、フード
男は目を閉じる。西高東低の気圧配置が生みだすうねり。
そうさ、殺したのは俺たちだ
それでも地球は
♯
12
ナ
ツ
Ⅱ
の付いたフルスリーブ。軽く左足を引きずっている。切れ長の
目もとには、皮肉屋にありがちなある種の光が溜まっている。
薄く口角の上がった唇が何事かを囁いている。
「 そうか … わかった 」
「 あなたは? どうするの? 」
「 俺は一旦ホノルルに帰る 」
「 そう 」
ため息が出るほど美しい波の形。俺たちはパドルを始める。
さらりとした水の感触。流れる風景。自分の息使い。持ち
上がる体。滑り出すボード。目を閉じる。世界とシンクロ
するんだよ。なあ、分かるだろ。逆らうな。ほら、波は何
て言ってる?次はどうするなんて、そのちゃちい頭で考える
なよ、体で、五感で、ただ感じろ。そもそも、お前の役割
なんてこの世には … ないんだ。だから俺たちは一つだ。分
かるだろ、俺の言ってる事が、お前なら。神は囁く。善も
「 あいつらの薄汚い尻尾をつかんでやる 」
回って
る
悪もない。そんなのはお前が決めりゃいいんだ。
「 念のため、カイトのアドレスを送っておく 」
「 必要ない 」
「聞いてる? …… ナツ?」
「 万が一のためよ … 」
「カレン … 俺たちはどうしてこんな所にいるんだろう」
「 俺はあいつを巻き込みたくなかったんだ 」
「…… ねえ 」
野田 豪(AREA)
何度も自問自答してきた言葉が宙にさまよう。俺とカレン
いつの間にか季節が変わっている。空が高い。青に吸い込は、あの日大きな淀みに引っかかってしまった。
そして、あの忌まわしい出来事を10年以上も引きずって、今ものうのうと生きている。
何度も忘れようとしたよな。次に進もうともがいてきた。でも駄目なんだ。そのたびに、
声が聞こえる。あいつの声からは逃れられない。
「 ナツ? 」
「 …… 」
「 ねえ、聞いてる? 」
「 そうだな、カレン … 。もう逃げないと決めたんだ。
俺たちは、あの夜の償いをしなければならない 」
「 私のせいだ。私のせいだ。私のせいだ 」「 違う。カレン。違うよっ 」
カイト …… 。
そう。違うんだ。
夏姫を殺したのは、カレンと俺なんだ。
[ 悪夢の前夜に至るまでの話 1 ]
ここにきて、過去が至る所で湧き上がる。遡って考えれば、この話は、
あの時の凪ネエの言葉から始まった。いや、言葉というよりは ……。
…… 「 ねぇ。15歳ってそんなにガキじゃないんだよ?」「…… 知ってるよ。そんなこと」
coe
凪ネエは水平線を見ながらぽつりと言った。
「俺知ってるんだ。クロさんて悪人だよね」「考えようによってはそうか
それを本当に知 ?」「ナツ ?もしれない」「クロさんは何から逃げてるの
りたい ?」「ウサギやグリも絡んでるの? 」「ある意味では、そうね」「う
ん。そんな気がしてた」「話すと後戻りできないわよ」凪ネエは風に流
れる長い髪をかきあげて、俺の目を覗き込んだ。いいの ?目がそう聞
いている。あの時、俺は精いっぱい動揺を隠して言ったんだ。「さっき
も言っただろ。俺はもう子供じゃない。」仲間のみんなが知っているこ
とで俺だけが知らない。その状況が嫌なだけだった。今思えば子供っ
ぽい感傷だ。でも、そう。凪ネエはそんな俺の気性を知っていたんだろ
う。もしかしたらその上で俺たちを巻き込みにかかったのかもしれない。
いや、今思えば、それは …… 間違いない。
ナツは見る。凪ネエが自分の顔に唇を寄せた時、彼女の舌が唇の端で
チラッと翻るのを。悪魔の微笑だ。今でもよく覚えている。あれは合
図だったんだ。
「 じゃあ、話すよ? 」
美しい女の舌が翻り、長い悪夢の幕が上がる。
ViennaPorcelain Manufactory Augartenウィーン磁器工房アウガルテンViennaPorcelain Manufactory Augartenウィーン磁器工房アウガルテン
ヨーロッパで2番目に古いウィーン磁器工房。ハプスブルク家の軍務官だったデュ・パキエは、
磁器製造の秘術をウィーンに持ち帰り工房を開きます
。
174
4
年、女帝マリア・テレジアに
よって工房は皇室直属となり、以来、ハプスブルク家の盾型紋章を使用しています。
上は初期のコーヒーカップ。両側に取っ手の付いた中国風の柄です。
左のフィギュリンは、王宮のスペイン乗馬学校をモチーフにしています。
第
1次世大戦後、ウィーン磁器工房はかつてマリア・テレジアの狩猟の館だったアウガルテン宮殿に移転しました。工房の隣には公園が広がり、第
2次大戦時代に建造されたナチスの高射砲台が見えます。
成形や組み立て、絵付けなど全て手作りで行われています。自然光を
ふんだんに採り入れ、手元を明るく照らすよう工夫していました。
磁器の原料はカオリン、長石、石英を独自にブレンドでし、製品の種類によっ
て使い分けていました。絵付けには各職人によって得意の柄があるそうです。
上)初期の中国風カップには取っ手がありませんでした。右)金の浮
き彫り装飾は、ウィーン磁器を代表するものとして人気を博しました。
下)アールデコ期にヨゼフ・ホフマンとのコラボレーションでデザイン
された「デコ・ヴィエナ」。現在も製造されています。
工房の博物館は歴代の名品を展示しています。コーヒーカップを初め
て磁器で作ったのはウィーンだそうです。17世紀オスマン・トルコ軍に
攻撃されたウィーンは、フランスからやって来たオイゲン公の活躍によ
りトルコ軍を撃退します。そのときにトルコ軍の残したコーヒーが貴族
階級にひろがり、ウィーンのカフェ文化を生み出すこととなりました。
MuehlbauerミュールバウアーMuehlbauerミュールバウアー
1903年、JULIANNA M.HLBAUERによって創業された帽子工房ミュールバウアーは、シルクハットなど伝統的な帽子作りで知られていました。近年のデザイ
ン性の高い帽子もウィーンの工房で昔ながらの製法によって作られ、その約 4割はヨーロッパや日本、アメリカなどグローバルな市場に向けて輸出されています。
新作のテーマはアメリカの帽子。帽
子のラインを崩したり、しわを入れ
ることで、農夫やカウボーイ、工場
労働者が使い古したヴィンテージ感
を演出していました。同社から日本
に輸出する割合も多いとのこと。一
方地元ウィーンでは冬の寒さをしの
ぐため、左のような毛皮の帽子もよ
く被るそうです。
小林 清泰
Kenostein's Relativity
アーキテクチュアルデザイナー・ケノス代表
東北で感じたこと シリーズ 2
宮城県と岩手県の県境にある南三陸町。本吉街道と呼
ばれる県道
398号線を北上すると、山と積まれた大量
の瓦礫の向こう側に、津波で全ての窓が失われた白っ
ぽい
3階建て合同庁舎が見えてくる。その奥には仮設
建築によって建てられた「南三陸さんさん商店街」が
現れる。今では多くの人が訪れ、観光名所の感を呈
している。昼食のために立寄った際、その道筋
3.
400m程手前の左側に、仮設のファミリーマートを見
つけた。「コンビニの業態感」を作り上げたデザイナー
を自負する私としては、見ないわけにはいかない。昼
食の「三陸海の幸丼」もそこそこに一行を離れて、交
通量が多く歩道の無い小雨の道を小雨の中小走りで、
傘なしで店へ向かった。
いわゆる郊外型店舗規模の敷地で駐車場も広い。一般
のフリースタンディングタイプと呼ばれる店には、道
ケノシュタインの相対性
▲南三陸さんさん商店街近くのファミリーマート。
店舗の入口は雪や風を防ぐためのスクリーンで囲われていた。
路からの入り口付近に
6.
8mの高さのポールサイン
がほとんどの店に建っているが、ここにはそのコンビ
ニ象徴アイテムは無い。店舗本体は鉄骨プレハブで、
道路に面する側の幅が約
13.5m、奥行き方向は約
8m、
面積約
33坪位か。標準型の
3分の
2程だ。店全体の
色は軍艦のようなクールグレーだ(プレハブメーカー
の標準色と思われる)。この場所は海岸から数キロ離
れているが、冬場は風も雪も厳しいと想像される。そ
のためか透明の浪板による防風を兼ねたスクリーンに
よって、店舗入り口全体が囲われている。舗装された
駐車場面から店の床面までは、4段の階段が設けられ
ていた。店の床面が高いのは仮設だからで、簡易基礎
の上にプレハブの箱をのせているからだ。また雨仕舞、
雪仕舞のためでもある。一方、バリアフリー対応もしっ
かり行われていて、建物に沿って透明な屋根、壁があ
り手すり付きのスロープが設けられている。
営業時間は午前
7時から午後
8時まで、主要道路沿い
とはいえ
24時間営業ではない。コンビニ業態のお決
まりである内照式ハチ巻き看板は、当然付けられてい
ない。要するに、いつも何気なく感じるコンビニ店舗
のアイデンティティー表示物が遠くからは見えないの
だ。近づくと幅
1.5m程の店名表示パネルが入り口上部
に掲げられている以外は何も無い。
少し内陸に入ったこの周辺でも、海からここまで続い
ていたであろう建物は基礎部分を除いて殆ど津波で失
われていて見る影も無い。向かいの小さい山に上る階
段の白い手すりの歪み方が津波の高さを表していて、
震災時の凄さが胸に迫ってくる。この一角を見るだけ
でもこの町が受けた壊滅的な打撃は計り知れない。そ
のような状況下で、このやや目立たない仮設コンビニ
は、この町の人々にとって十二分以上のありがたい商
業施設の機能を果たしている。
一方店内は、一般のファミリーマートとほぼ同じイメー
ジである。天井がやや低いこと、中島什器の配列が標
準よりも一列少ないことなど狭さを除けばあまり変わ
らない。その中で目立ったのは、正面奥の米飯、惣菜
用冷蔵ショーケースの足下いっぱいに並べられた沢山
の野菜類だ。コンビニが八百屋さんのピンチヒッター
になっていた。良く売れている様で商品の鮮度もよかっ
た。バス出発の時間が迫っていたためチェック出来な
かったが、流石に魚や肉までは置いていないと思われ
▲ 手すり付のスロープを設け、バリアフリーに配慮している。
▲津波の痕跡を残す階段手すり。海岸から 2kmほど離れた地点。
た。スーパーバイザーとおぼしきユニフォーム姿の若
い人に売り上げを尋ねてみると、「よく売れていて同規
模の他の店と変わらないです」とのことだった。たし
かに次々と車が入ってきて、この店の地域での役立ち
が嬉しい。
電気、ガス、水道等のエネルギー系をライフラインと
呼ぶ。人々が生きるための食料品を扱う店は私企業と
いえども、地域の人々にとって暮らしを支えるライフ
ラインそのものだ。人々は被災直後は配給食で凌いだ。
時が経ち気持ちを奮い立たせて自立に向かっての一歩
を踏み出すのは、自分の意志で自分の暮らしを構築して
ゆくことではないか。言い換えれば「買い物に行く」と
いう行為は、自己意志を社会に向けて発するこになり、
真に自分らしさの始まりといえる。自分らしさを取り戻
すこ引き金になるということでもある。店舗が「暮らし
のためになくてはならない社会的存在」であるといわれ
るのはこのためである。非常時にあってもお金を支払
うお客様からからありがとうといわれる店の存在こそ、
コミュニティーを支える大切なライフラインなのだ。
ウィーン国立オペラ座。1869年、ウィーン市街改造計画にともな
いリンク通りに建設されました。年間300日の公演を行う、世界
で最も重要なオペラ座のひとつです。設計はシッカート・フォン・
シッカーズブルクとエドゥアルト・ファン・デア・ニュル。ギリシャ、
ゴシック、ルネサンスなどの様々な様式をリバイバルした「歴史
主義建築」です。
ウィーン国立オペラ座。1869年、ウィーン市街改造計画にともな
いリンク通りに建設されました。年間300日の公演を行う、世界
で最も重要なオペラ座のひとつです。設計はシッカート・フォン・
シッカーズブルクとエドゥアルト・ファン・デア・ニュル。ギリシャ、
ゴシック、ルネサンスなどの様々な様式をリバイバルした「歴史
主義建築」です。
建築版画を並べたお店。1873年ウィーンを訪れた岩倉具視の使節団は、ウィーン万博を見学しています。
リンク通りに建った歴史主義建築に刺激を受け、明治の西洋建築の参考にしたのではないでしょうか。
▼ウィーン万博には明治政府が初めて公式参加しました。
17世紀、ペストに襲われ 10万人ともいわれる犠牲者をだしたウィーン。ペスト終結を記念して皇帝レオポルド1世が神に捧げた「三位一体柱(ペスト記念柱)」です。当時は感染を防ぐため白ワインを飲用していたそうです。
高さ136.7mの南塔は、ウィーンの街歩きの目印になります。
北塔は未完のまま残されています。
高さ136.7mの南塔は、ウィーンの街歩きの目印になります。
北塔は未完のまま残されています。
街の中心に建つシュテファン大聖堂。14世紀、建設公と呼ば
れたハプスブルク家・ルドルフ
4世により建てられゴシック様式
の教会です。ルドルフ4世は
26歳で亡くなりますが、ドイツ語
圏最古の大学・ウィーン大学を設立したり、商工業者を庇護す
るなどハプスブルク家の基盤となる社会作りを進めました。
オーストリアやドイツで発展したフルーツティーは、
様々な果物のドライフルーツだけで作られ、添加物
やカフェインのない健康茶として愛されています。
haas & haas ハース&ハース
観光客でにぎわうシュテファン大聖堂の広場に面し、16世紀の修道院建築を生かしたハース&ハースのショップ。フルーツティーやフレーバーティーを量り売りしてくれる缶を並べたカウンターが人気でした。
ウィーン・プロダクツとは
今回の特集で紹介した工房や企業などは「ウィー
ン・プロダクツ」に認定されています。その目的
は伝統を継承した産品の輸出促進です。
プロダクツのジャンルは 6つに分かれています。
AMBIENCE OF VIENNA (家具・インテリア)、
TREASURES OF VIENNA (アクセサリー)
FASHION OF VIENNA(ファッション)
PLEASURES OF VIENNA (内装小物・バッグ)
TASTE OF VIENNA(レストラン・カフェ・食材)
TOP TABLES OF VIENNA(磁器、銀器、ガラス器)
PERFORMANCE OF VIENNA (美術館・劇場)
ウィーン・プロダクツの認定は、ウィーン商工会
議所の委員によって行われ、ウィーンの伝統・芸
術性を表しているか、品質が高いものか、輸出に
対する強い意識を持っているかなどを厳しく審査
するそうです。
ウィーン・プロダクツでは、海外見本市への出展
を支援したり、海外メディアへの PR活動をおこ
なっています。伝統を継承し守るためには、マー
ケットのグローバル化は不可欠な課題なのです。
ウィーン・プロダクツとは
今回の特集で紹介した工房や企業などは「ウィー
ン・プロダクツ」に認定されています。その目的
は伝統を継承した産品の輸出促進です。
プロダクツのジャンルは 6つに分かれています。
AMBIENCE OF VIENNA (家具・インテリア)、
TREASURES OF VIENNA (アクセサリー)
FASHION OF VIENNA(ファッション)
PLEASURES OF VIENNA (内装小物・バッグ)
TASTE OF VIENNA(レストラン・カフェ・食材)
TOP TABLES OF VIENNA(磁器、銀器、ガラス器)
PERFORMANCE OF VIENNA (美術館・劇場)
ウィーン・プロダクツの認定は、ウィーン商工会
議所の委員によって行われ、ウィーンの伝統・芸
術性を表しているか、品質が高いものか、輸出に
対する強い意識を持っているかなどを厳しく審査
するそうです。
ウィーン・プロダクツでは、海外見本市への出展
を支援したり、海外メディアへの PR活動をおこ
なっています。伝統を継承し守るためには、マー
ケットのグローバル化は不可欠な課題なのです。
季節ごとに工夫をこらしたショップのディスプレイ。
ハース&ハースの「Porta Dextra」。地方のデリカテッセンやジャム工房で作られた食品を集めたショップです。統一したパッケージをつくり、個々では流通にのせにくものを選んでブランド化したいそうです。
「Porta Dextra」の地下。レンガ造りの地下室を利用したワインセラーには、地方のあまり知られていないワインを揃えています。
J &L LOBMEYRJ& Lロブマイヤー J &L LOBMEYRJ& Lロブマイヤー
1823年、ヨーゼフ・ロブマイヤーのガラス店から出発したロブマイヤー。その工房は、職人たちも暮らす古いアパルトメントと一
体になっています。イギリス・アーツ&クラフツ運動の提唱した物づくりを、今も守り続ける数少ない工房のひとつといえるでしょう。
日本との交流も古く、1869(明治
2年)横浜で開催されたオーストリア見本市のリストにもロブマイヤーの名が掲載されています。
カットの前に模様の割り付けを行います。
(未署名の署名フィールド (クリックして署名)) 署名フィールドが未署名です
繊細な模様を彫刻できるカリガラス。銅の円盤も職人が制作します。
ロブマイヤーのガラス器は、硬度や透明度の高いカリガラス(無鉛ガラス)を原料に職人が手吹きして作る極薄グラスです。工房では銅の円盤を使う独自のカット技法によって、繊細な模様を描いていました。
(未署名の署名フィールド (クリックして署名)) 署名フィールドが未署名です
1835年、皇室御用達のガラス器メーカーとなったロブマイヤーは、王宮のシャンデリアも手掛けるようになります。1881年にはルードヴィヒ 2世のヘレンキムゼー城のシャンデリア、1883年にはエジソンの白
熱電球を初めてシャンデリアに使用し、王宮の舞踏会場やホテル・ザッハーに納めます。現在はこうした時代に作られた製品の修復依頼も多く、シャンデリア事業の軸となっています。
1895年ウィーンの目抜き通り、ケルントナー通りに開店したロブマイヤーのショップ。当時流行した高級ブランド店の姿を守り続けています。
ロブマイヤーのショップでは、ビーダーマイヤーの時代からウィーン分離派にいたるデザインの変遷を見ることができます。19世紀前半ビーダーマ
イヤーの時代、産業革命により力をつけた裕福な市民たちは王侯貴族のような華麗なカットのガラス器を求めました。やがてウィーン市街改造計
画にともない、リンク通りのアパルトメントで暮らしはじめた事業家たちは、新時代の都市生活に似合うモダンな生活用品を求めました。
左の「ドリンキングセットNo.4」は1856 年ルードヴィヒ・ロブマイヤーによりデザインされ
ました。その約 60年後、ウィーン分離派を代表するヨゼフ・ホフマンは、No.4の影響を
受けた「パトリシアン」(上)をデザインします。ウィーン分離派の前身には、こうした工
房オリジナルのデザインがありました。ロブマイヤーは分離派から生まれた「ウィーン工房」
のデザイナー(オットー・ブルチャー、オスカー・シュトルナード、オズワルト・ヒェーテル、
ミヒャエル・ポボルニーなど)とコラボレーションし、数々の名作を送り出しました。
デザイナーとのコラボレーションは、今も続いています。
マルコ・デッシのバスケットシャンデリア(2009 年)。
(未署名の署名フィールド (クリックして署名)) 署名フィールドが未署名です
(未署名の署名フィールド (クリックして署名)) 署名フィールドが未署名です
王宮前のミヒャエル広場に建つロースハウス(1910年)。建築家アドルフ・ロースがモダニズムの幕開けを告げた重要な建築であり、装飾のない壁面を非難され建設中止の命令を受けたことでも知られています。同時期に
建てられた左側の歴史主義建築のアパルトメントと比べると、ウィーンの街並みにとっていかに異質であるかも分かります。しかし1階の店舗部分には大理石を多用しギリシャ風の美しい列柱を立てるなど、古典様式も採
り入れています。スキャンダルとなった背景には、皇帝の暮らす王宮の目の前に建てたこともあるようです。ロブマイヤーにはロースのデザインしたグラスのシリーズがあります。底を格子状にカットしたシンプルなデザイン。
Hotel Sacherホテル ザッハー
ザッハトルテを考案したフランツ・ザッハーの息子によって、ウィーン国立オペラ座の隣に開業したホテル ザッハー。ウィーンを代表する五つ星ホテルです。そのレストランは宮殿のダイニングを連想させます。
Hotel Sacherホテル ザッハー
ザッハトルテを考案したフランツ・ザッハーの息子によって、ウィーン国立オペラ座の隣に開業したホテル ザッハー。ウィーンを代表する五つ星ホテルです。そのレストランは宮殿のダイニングを連想させます。
ダイニングにはフランク・ヨーゼフの肖像が掲げられています。下はニシンのア
ボカドクリーム添えと、牛のタルタル・葡萄とマスタードのアイスクリーム添え。
ホテル・ザッハーの名物料理「ターフェルシュピッツ」。時間をかけてボイルし
た牛肉をその場で皿にとりわけ、ほうれん草ソースやホースラディッシュ+りん
ウィーン会議を主宰したメッテルニヒの要請で発明されたといわれるザッハトルテ。
ごソースなどをたっぷりつけて頂きます。カリカリに焼いたポテトも美味でした。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地として知られる楽友協会。ニューイヤーコンサートの会場となる黄金のホールは
1870年の完成です。
王侯貴族ではなく、ウィーン市民の力で作られた絢爛豪華なホールは、立体的な文様や彫像が豊かな音響効果をもたらすといわれ、シャンデリア
はロブマイヤー製です。協会員の年間予約席は代々引き継がれ、演奏中は市民と楽団員のシンパシーによって満たされた独特の雰囲気に包まれます。
(息子への手紙)
2012年10月28日
まだ日本語を読めない君が、いつの日かこの手紙を読むことができる日が来
ることを願っています。今日10月28日は君の18歳の誕生日、ドイツで
は成人となり、大人として生きてゆくスタートの日です。親父から息子へ、
大人となった君へ、言葉を贈ります。
君がベルリンの病院で難産で生まれてきた時、頭がひょうたんみたいに長く
て少し心配しました。それから君は生後3ヶ月の頃、ベルリンから東京の江
戸川の小さなアパートに移り、そこでしばらくの間育ちました。ある日、突然、
江戸川のアパートで君は、癲癇のような引き付けを起こし、声にならない泣
き声を上げながら救急車で虎ノ門病院に搬送されたことがありました。救急
車の中で僕は神に祈るしか無かった。それからアパートの階段で転んで唇を
縫う大怪我もした。それから世田谷に引っ越して、しばらく4歳になるまで、
世田谷の幼稚園に通い、幼稚園までの桜並木を自転車に君を乗せて通ったこ
とを思い出します。深沢1丁目の桜の美しい公園では初めての自転車乗りの
練習を何度もし、毎日、毎日練習して、転んでは泣いていました。君は昆虫
と機関車トーマスが大好きだった。
君は4歳からベルリンへ戻り、僕らは離ればなれに暮らすことになった。そ
んな君は6歳の時から毎年、首から名札をぶら下げて、一人ベルリンから飛
行機に乗って東京の僕のところにやってくるようになった。君が東京に来る
1ヶ月間は仕事中もずっと、四六時中一緒に過ごした。僕の仕事中は、オフィ
スの机で退屈そうに過ごすことも、取引先との打ち合わせにも、どこでも連
れて行った。いつも一緒だった。そんな時の君の退屈しのぎの落書きは、今
でも僕の机の中に沢山残っている。九州までローカル線を使って二人で長旅
もした。二人でよく魚釣りにも出かけた。毎晩、僕らはいつも一つの布団に
包まって、君を抱きしめながら腕枕をして寝た。夏休みの1ヶ月が終わり、
君が成田からベルリンに戻る時、君は何度も手荷物検査のゲートを潜っては、
また何度も僕のところに戻って来て涙を流しては、抱きしめて、また、泣き
Brief an Takeshi
ながら何度も、何度も別れをしました。いつも君の飛行機が飛び立ち、その
姿が遠くに見えなくなっても、しばらくの間、飛行機が消えた空から目を逸
らすことも、その場から離れることもできませんでした。
12歳の夏に君は一人で東京にやってきました。東京での生活は今日まで、
6年近い歳月が流れました。そして、君は今日18歳となり、東京での生活
も残すところ僅かとなりました。来年の夏にはドイツに戻り、新しい生活を
始めるのです。
人生は奇跡の連続です。奇跡が奇跡を呼び、次の奇跡を生み出す。自分の人
生の奇跡は自分の心が作るものです。君がこれまでに自分の願いを叶えてき
たように、これからの長い人生も、君自身が夢を描き、そのことを沢山考えて、
行動してゆくことで、一つ一つの夢を実現してゆくことができると思います。
自分の好きなことって何だろうと自分の心の奥底にある自分の声を聞いてみ
てほしい。これから時間はたっぷりあります、自分の心の声に耳を澄まし、
自分が好きなことを見つけて、追いかけていってほしい。そのことを続けて
ゆけば自分の想像を超えた、本当にたくさんの奇跡が次々に生まれると思い
ます。自分の好きなことをずっと続けてゆくことは、人生の幸せでもあると
思います。
素直な心を持ち続けること、素直であることはとても大切です。自分の意見
や考え方だけでなく、他人の意見や考えに耳と心を傾けるのは素晴らしいこ
とです。自分のことの前に、他人や相手の心や気持ちを理解できる人間であ
りたい。
そして、すべての経験に無駄なことは一つもありません。良いことも悪いこ
ともすべての経験に、学ぶべきことは潜んでいます。その経験を良い方に行
かすのは自分自身の考え方次第です。素直な気持ちで経験に向き合うことが
大切です。自分のことや自分が好きなことだけでなく、世の中で起こる全て
のことから学ぶことができます。
何事にも興味を持ち、それを味わうことで、人生の楽しみを知ることが出来
ます。
そして人生には色んな困難や問題、悩み、そして迷いが訪れます。その多く
の問題は自分を成長させてくれるものです。大切なことはその困難や問題か
ら逃げないこと。問題から目を逸らして逃げていても、その問題は君から離
れません。問題や悩みから逃げずに、一つ一つの問題に対して自分ができる
前向きな考えに向かい、前向きに行動することです。学業にしても仕事にし
ても、目標に向かって進んでいると必ず問題は現れますが、どんなに大きな
壁にも乗り越える道は存在します。問題や課題は君がさらに大きな目標を目
指すことができるように、君を愛するおじいさん達が君に成長するための試
練を与えていると言うことです。だから君の周りで起こるすべての困難には
理由があり、それは君の成長に欠かせない試練であると言うことを肝に銘じ
ていてほしいと思います。困難は必ず克服できるものです。諦めなければ良
いのです。
お金や財産、権力などの立場の力に屈しない、一人の人間として自立した心
を大切にして欲しいと願います。君は優しい心を持っています。家族や友人
たちにだけでなく、すべての人に優しい心でいてほしいと思います。人に対
する後ろ向きの批判や言動からは何も良いものは生まれません。また、人を
妬んだり恨んだりしても誰も幸せになることができません。どの国の誰に対
しても同じように、優しい心で接して欲しいと願っています。優しさや愛情
は見返りを求める物ではありません。自分から惜しみなく沢山の優しさと愛
情を将来の家族と友人たち、沢山の人々と育んで欲しいと願っています。
僕はいつも君のおじいさんたちが僕をどこかで見守っている気がしています。
いつもどこかで僕のことを遠くから見ていてくれると感じています。
これからは僕は、どこにいても、これからもずっと君のことを見守っています。
君が東京に来て5年半が経ちました。
これまでの日々は僕にとって毎日が幸せを感じる一秒一日でした。
こんな毎日を送ることが出来た自分の人生を本当に幸せだといつも感じてい
ます。
僕らが一緒に過ごした時間、そして沢山の奇跡のすべてに、感謝しています。
これからは一人の大人として、失敗を恐れずに挑戦し、努力してください。
親父より龍
WITT MANNヴィットマンWITT MANNヴィットマン
ヨゼフ・ホフマンの名作家具で知られるヴィットマンは、あと数年で創業
120周年を迎えるそうです。馬のサドルづくりから出発
し、第二次大戦後に家具製造を開始しました。ヨゼフ・ホフマンの友人であった建築家ヨハン・シュバルトとの縁で、ホフマン
のライセンスを取得した同社は、その家具を復刻し得意な革張りの技術を生かして看板的な製品に育てます。その後も若き日の
パオロ・ピーバやマティオ・ツゥーン、喜多俊之を起用し、今も積極的に若手デザイナーを支援しています。
ジャン・ヌーヴェルデザインの「V iena」は同氏の設計した Hote l Sofitel
Viennaで使われています。下は Soda Des ignersの新作「LESLIE」。
ヴィットマンのショールームの向かいには、観光名所ともなっている分離派会館(セセッション館)があります。設計はヨゼフ・マリア・オル
ブリッヒ。1898年に開館し、館内にはクリムトの名作「ベートーヴェン・フリース(帯状装飾)」が展示されています。
1897年にクリムトを代表として結成されたウィーン分離派。若手の建築家やデザイナーを中心とした組織が作品発表の場として分離派館を建設できた背景には、製鉄業で成功したカール・ウィトゲンシュタイ
ンなど実業家や銀行家の支援があります。その多くはクリムトの肖像画のクライアントであり、ヨゼフ・ホフマンは彼らの暮らすアパルトメントで内装デザインを手掛けました。
分離派という名称を生んだのは、分離派館近くの「キュンストラーハウス(ウィーン美術家同盟)」です。1861年、美術家の権利を守り、定期的な
作品発表・販売を行う組織として結成され、クリムトも会員として活躍しました。しかしパトロンの中心が貴族から実業家へと移り、パリなどで新
しい絵画の潮流が起こるなか、変革しない同盟から「分離」したのです。ここでは今、クリムト生誕
150周年の記念オペラを開催していました。
▲ヴァーグナーのカールスプラッツ駅。カールス教会との対比が見事。
ウィーンの市場(ナッシュマルクト)から見るオットー・ヴァーグナー設計のマジョリカハウス(左・1899年)とメダイヨンハウス(右・同)。メダイヨンハウスの装飾は、ヨゼフ・ホフマンと共にウィーン工房を設
立したコロマン・モーザーが担当。ヴァーグナーは分離派の中心人物で、当時は市の都市計画顧問として活躍していました。この集合住宅も複数棟建てる計画でしたが、市民には受け入れられなかったようです。
Backhauzen バックハウゼン
1849年ケルン出身のフランツ・バックハウゼンによって創業した「バックハウゼン」。ショールームの地下は分離派を紹介した博物館です。
Backhauzen バックハウゼン
1849年ケルン出身のフランツ・バックハウゼンによって創業した「バックハウゼン」。ショールームの地下は分離派を紹介した博物館です。
▼ 1870 年には工場をホーエナイヒ(チェコ国境付近)に移転しました。 ▼ 1870年には工場をホーエナイヒ(チェコ国境付近)に移転しました。
1903年、ウィーン工房の設立にも参加したバックハウゼン。ヨゼフ・ホフマンの代表作プーカースドルフ・サナトリウムやストックレー邸、フレーダーマウス(こうもり座)などの生地を手掛け、その貴重なオリ
ジナル生地見本を保存・展示しています。また浮世絵などの版画と分離派の関係も分かりやすく解説されていました。1873年ウィーン万博に日本政府が出展して以降、ウィーンでも日本ブームが起こっていました。
オイゲン公は、サヴォイア家の血を引くフラ
ンス出身の貴族。軍人としてオーストリアに
仕官し、17末〜18世紀はじめにかけ、オス
マントルコ軍との戦いやスペイン継承戦争で
活躍。ハプスブルク家を救った名将として、
皇室のなかで大きな権力と富をもちました。
オイゲン公の離宮としてウィーン市街を望む高台に建てられたベルヴェデーレ宮殿。宮殿内のオーストリア・ギャラリーはクリムトのコレクションで知られ、生誕150周年を記念した展覧会が開かれていました。
オイゲン公は、サヴォイア家の血を引くフラ
ンス出身の貴族。軍人としてオーストリアに
仕官し、17末〜18世紀はじめにかけ、オス
マントルコ軍との戦いやスペイン継承戦争で
活躍。ハプスブルク家を救った名将として、
皇室のなかで大きな権力と富をもちました。
オイゲン公の離宮としてウィーン市街を望む高台に建てられたベルヴェデーレ宮殿。宮殿内のオーストリア・ギャラリーはクリムトのコレクションで知られ、生誕150周年を記念した展覧会が開かれていました。
ソニア・クニプスの肖像(1898年) ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館
Amalie Zuckerkandlの肖像(1906年)ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館
クリムトの肖像といえば金箔を多用した絢爛豪華なスタイル。金箔をまとう前の描きウィーン分離派を設立した頃から、クリムトの仕事は新興実業家の夫人を描いた肖像
かけの絵からは、古典や自然主義、印象派に学んだクリムトの技法をうかがえます。画や内装デザインへと主軸を移し、新しいパトロンたちとの交流が始まりました。
接吻(19
0
8
年) ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館
フリッツァ・リードラーの肖像(1906年) ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館
20世紀に入り、クリムトの絵画は渦巻きや幾何学模様に彩られていきます。バックハウゼン博物館に展示された分離派のファブリックスにも、これらの柄と共通のモチーフが見られました。クリムトは分離
派のメンバーが手掛けた内装や家具を、その作品のなかに描いていたのです。ウィーンの新しい上流階級の姿を、様々な工芸的手法を用いてリアルに描き出そうとしたのかもしれません。
王宮前のミヒャエル広場を再び訪問。広場からはローマ時代の遺跡も見つかっています。王宮の北門から中に入り、英雄広場へ抜けます。
アドルフ・ロースデザインの
MANZ書店ファサード。ローマを感じさせる
力強いフォルムです。王宮内ではスペイン乗馬学校の馬たちに会えます。
ウィーン市街改造計画の目玉、英雄広場の設計にはウィーンの建築家が一斉に名乗りを上げ、計画はなかなか進みませんでした。そこで皇帝フランク・ヨーゼフは、
ドレスデン歌劇場を設計したドイツ人・ゴットフリート・ゼムパーを招聘し、新王宮や美術史博物館、自然史博物館、ブルク劇場などの設計を命じました。
ウィーン側の建築家として協働したのは、ヨゼフ・ホフマンの師でもあったカール・フォン・ハゼナウアーでした。
新王宮は広場を包む込むよう左右に2棟建てられる予定でしたが、片方しか完成しませんでした。新王宮の前にはオイゲン公の銅像が立っています。
皇帝フランク・ヨーゼフ
ウィーン市街改造計画の目玉、英雄広場の設計にはウィーンの建築家が一斉に名乗りを上げ、計画はなかなか進みませんでした。そこで皇帝フランク・ヨーゼフは、
ドレスデン歌劇場を設計したドイツ人・ゴットフリート・ゼムパーを招聘し、新王宮や美術史博物館、自然史博物館、ブルク劇場などの設計を命じました。
ウィーン側の建築家として協働したのは、ヨゼフ・ホフマンの師でもあったカール・フォン・ハゼナウアーでした。
新王宮は広場を包む込むよう左右に2棟建てられる予定でしたが、片方しか完成しませんでした。新王宮の前にはオイゲン公の銅像が立っています。
皇帝フランク・ヨーゼフ
新王宮の完成は
1913年。人々の心はすでに歴史主義建築から離れていたのかもしれません。翌年にはオーストリアの皇位継承者暗殺事件(サラエボ事件)をきっかけとして、第一次世界大戦が勃発します。
中央のマリア・テレジア像は化粧直し中でした。
英雄広場前に対峙する美術史博物館と自然史博物館(1872〜1891年にかけて建設)。両博物館の特徴は、ハプスブルク家のコレクションを1カ所集め、広く市民に公開することを目的に建てられたことです。
城壁の面影を残した英雄広場のブルク門。門の前から路面電車に乗りこむと、国会議事堂(ギリシャ風)、
市庁舎(ネオゴシック風)、ウィーン大学(ルネサンス風)、ブルク劇場(ルネサンス風)などを車窓か
ら見学できます。これらの建設資金は、リンク通り沿いの土地を民間に売却することで得ていました。
当時のウィーンには周辺各国から多数も移民がやってきました。人口は200万人に膨れあがり、なか
でもユダヤ系移民は、銀行や商業、医師、弁護士、法務家など重要な位置を占めるようになりました。
城壁の面影を残した英雄広場のブルク門。門の前から路面電車に乗りこむと、国会議事堂(ギリシャ風)、
市庁舎(ネオゴシック風)、ウィーン大学(ルネサンス風)、ブルク劇場(ルネサンス風)などを車窓か
ら見学できます。これらの建設資金は、リンク通り沿いの土地を民間に売却することで得ていました。
当時のウィーンには周辺各国から多数も移民がやってきました。人口は200万人に膨れあがり、なか
でもユダヤ系移民は、銀行や商業、医師、弁護士、法務家など重要な位置を占めるようになりました。
かつて、ベートーヴェンの暮らした家(ウィーン19区)にある、1683年創業・マイヤー・アム・プァールツプラッツのホイリゲ。ワイン醸造家の経営するホイリゲは、家族連れも気軽に楽しめるワイン居酒屋です。
ホイリゲでは食べ物をセルフサービスで購入し自分の席に運びます。ウィーンワインはゲミシュター・サッツと呼ばれる3種以上のブドウを混植したものや、気温差を生かした芳醇なアイスワインなどが有名です。ホイリゲでは食べ物をセルフサービスで購入し自分の席に運びます。ウィーンワインはゲミシュター・サッツと呼ばれる3種以上のブドウを混植したものや、気温差を生かした芳醇なアイスワインなどが有名です。
工房楽記
BC工房 主人 鈴木惠三南国 自転車 生活工房楽記
BC工房 主人 鈴木惠三南国 自転車 生活
Friedrich Otto Schmidtフリードリッヒ・オットー・シュミット
1853年創業のフリードリッヒ・オットー・シュミット。1904年に購入したコテック宮殿を、ショールームや工房に利用しています。
コテック家のソフィー・コテックは、サラエヴォ事件で暗殺された
フランツ・フェルディナント大公の妻。夫と共に犠牲となりました。Friedrich Otto Schmidtフリードリッヒ・オットー・シュミット
1853年創業のフリードリッヒ・オットー・シュミット。1904年に購入したコテック宮殿を、ショールームや工房に利用しています。
コテック家のソフィー・コテックは、サラエヴォ事件で暗殺された
フランツ・フェルディナント大公の妻。夫と共に犠牲となりました。
彫刻家の作った支え柱のない階段。
同社はルネサンスから分離派の時代まで、様々な様式の家具・内装を、クライアントの要望に応じてデザイン・製作しています。コテッ
ク宮殿のショールームは、その実物見本として利用されてきました。リンク通りに建てられたアパルトメントの内装を多く手掛け、一時
は
600人もの職人を抱えていたそうです。当時の施工例写真が、キャビネット一杯のガラス乾板に記録されていました。
分離派メンバーとのつながりも深く、べつにアドルフ・ロースも同社のために沢山の家具をデザインしてします。シュミット兄弟はロース
の結婚式の仲人もつとめました。ロースはあまり図面を描かず、職人の手仕事を尊重し一緒に物作りを行うタイプの建築家だったそう
転々と住所を変えたロースのアドレス。
分離派メンバーとのつながりも深く、べつにアドルフ・ロースも同社のために沢山の家具をデザインしてします。シュミット兄弟はロース
の結婚式の仲人もつとめました。ロースはあまり図面を描かず、職人の手仕事を尊重し一緒に物作りを行うタイプの建築家だったそう
転々と住所を変えたロースのアドレス。
です。同社との密接なつながりから、ロースは単に様式を否定した訳ではないこともうかがえました。
数千種類のファブリックスも自社で企画しています。1mあたり数十万円する生地もあるそうです。
▼オスカー・ココシュカの描いたシュミット三兄弟の肖
像画(複製)。元々は一枚の絵でしたが、分割されオー
クションで 2点が発見されました。
「伝統技法を守るためにはグローバル化は欠かせない」とオーナーのクラウス・ローレンツさん。世界各地で多くのプロジェクトを同時進行中です。日本にも日本フリードリッヒ・オットー・シュミットがあります。
▼オスカー・ココシュカの描いたシュミット三兄弟の肖
像画(複製)。元々は一枚の絵でしたが、分割されオー
クションで 2点が発見されました。
「伝統技法を守るためにはグローバル化は欠かせない」とオーナーのクラウス・ローレンツさん。世界各地で多くのプロジェクトを同時進行中です。日本にも日本フリードリッヒ・オットー・シュミットがあります。
wiener silber manufactur ウィーン・シルバー・マニュファクチャー
銀細工師アレクサンダー・シュトルムの銀器工房(1882年創業)をルーツにもつウィーン・シルバー・マニュファクチャー。ウィーン工房のデザイナーたちと協働して新しい時代の銀器を作ってきた工房です。
ウィーン工房を離れたオットー・プルチャーとは
長年にわたりデザイン開発を続けました。
同工房は分離派の時代の作品を復刻しながら、新進デザイナーとのコラボレーションを進めています。 Thomas Feichtnerの直線的な水差しやフルーツボールなど、ユニークな作品が次々と生まれていました。
ウィーン工房を離れたオットー・プルチャーとは
長年にわたりデザイン開発を続けました。
同工房は分離派の時代の作品を復刻しながら、新進デザイナーとのコラボレーションを進めています。 Thomas Feichtnerの直線的な水差しやフルーツボールなど、ユニークな作品が次々と生まれていました。
コロマン・モーザーがデザインした Coral Sugar Box(1902年)。
作曲家マーラーが妻アルマに贈ったといわれています。
Tino Valentinitschは流行の巻き髪をヒントに「Cur ls Bowl」(2011)をデザイン。スペイン人デザイナーTom.s Alonsoのティーサービスセット(2011)は、シリンダー状の今までの銀器にないフォルム。
シュトルムの銀器工房で作られたホフマンのシン
プルなカトラリーは、ウィーンの食卓文化に変革
をもたらしたといわれています。
ホフマンはウィーン工房の作業プログラムのなか
で、生活用品の安易な工業化を非難し「我々がし
たいことは日本人がいつもしてきたことなのであ
る。日本の工芸品を機械で生産することを、だ
れが想像できるだろうか」と述べています。
Dorotheumオークションハウス ドロテウムDorotheumオークションハウス ドロテウム
1707年開業の国営質屋をルーツに持つオークションハウス・ドロテウム。年間
600回以上のオークションが開催され、クリスティーズやサザビーズと並ぶ規模をもつヨーロッパ最古のオークションハウスです。
特別なオークションが開催される夜。TV取材の入った会場に、着飾ったウィーン市民たちが続々とやってきました。オークションハウスは競売を行うだけでなく、社交界としての役割も果たしています。
各年代の絵画にあわせたクラシック家具も展示されています。
オークションに先立って、下見会場では品物が一定期間展示され誰でも見学できます。ここでめぼしい作品をチェックし、落札予想価格
などを確認してから指定日時のオークションにのぞむのです。古くは貴族、そして市民の日常の中で愛されてきた作品を見ていくと、美
術館とは違った楽しみがあります。ビーダーマイヤーの時代に市民のために描かれた絵画は、はじめは貴族趣味を反映したものでしたが、
やがて独自の世界を築いていったことも分かりました。その場で購入できるダイレクトセールのフロアもあります。
絵画、宝石、家具、書籍、切手など、ドロテウムには 40以上の部門
があり、100名以上の専門家が調査・鑑定にあたっています。
分離派などのデザイン部門を担当する Dr.Julia B lahaさんは、当時の芸
術活動を促進した要素のひとつに「情報化」があるといいます。ユーゲ
ント・シュティールの基盤となった「ユーゲント」をはじめ、ウィーン分
離派の「聖なる春」など各団体の機関誌が発行され、フランスやイギ
リスなど他国の活動も雑誌から知ることができました。また各国で盛ん
に開かれた万国博覧会を外国メディアが取材し、自国の新聞や雑誌に
掲載するという仕組みも確立され、芸術家たちの名前が一般市民の目
に触れる機会も格段に増えていきます。分離派の時代は、国境を越え
て情報が行き交う現代のさきがけでもあったのです。
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