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おばこ浪漫
田沢湖
角館 編
今月のコラージは、秋田特集第一弾。まずは県を代表する名所、
日本で一番深い(水深423.4m)田沢湖です。
色合いを変える神秘の湖は、辰子の龍神伝説でも知られます。
むかし田沢湖が、
まだ田沢潟と呼ばれたころ
辰子という美しい娘がいた
年老いても美貌を保ちたいと
観音様に百夜の願掛けをした
願いは通じ、
山深い泉を告げられた辰子は、
ひとり山に分け入り、
泉の水を口にした
一口すすると、
ますます喉はかわき
腹ばいになるまで飲み続けた
気づくと辰子のからだは
大きな龍となり、
田沢湖の奥深く沈み、湖の主となった
湖畔に立つ「辰子像」は舟越保武の作品です(昭和43年)。田沢湖の固有種「クニマス」も棲んだ湖水は、第2次世界大戦の頃、水力発電や農業用水調達のため玉川の強酸水(玉川毒水)を引き込んだ結果、魚の棲めない湖となりました。近年は石灰を使った中和処理により、生命力の強いウグイが生息できるまでに回復しています。絶滅したと思われたクニマスは、2010年富士五湖の西湖で発見され話題となりました。湖水を活用した「生保内発電所」(昭和14年竣工)は、今も最大約3万KWの発電を続けています。
田沢湖でつくり、たべる ハーブガーデン「輝湖」の15年
秋田新幹線の「田沢湖駅」から車で20分ほど、農家民宿「輝湖」にうかがいました。
高橋忠さん・輝子さんの築いたハーブガーテンが、湖面と見事に調和しています。
秋田出身の高橋夫妻。高校卒業後、千葉県で暮らしながらも、いつかは秋田に戻りたいと考えていた輝子さん。田沢湖畔の土地を見て一目惚れし、ログハウス風2階建ての家を建てたのは45歳のときでした。それから15年、高橋夫妻はこつこつとハーブガーデンや畑づくりに励み、編みカゴづくりや農業体験学習の受け入れ、農家民宿の開業など、様々な試みを続けてきました。
田沢湖名物の「ねまがりたけ」をはじめ、山菜の王様といわれる「こしあぶら」、シャキシャキした「みず」、やわらかい「わらび」など、忠さんの採った山菜が並びます。わらびの歌を沢山残した山形出身の斎藤茂吉も、田沢湖のわらびの美味しさに驚いたそうです。
ジャンボニンニクやイチゴ、ブルーベリーなど、様々な野菜・果実も育てています。「都会にいた20年間、食事は出来合いで済ませていたけれど、野菜を作ったり山菜を採ったりという生活にもすぐ慣れました。祖母や母の元で育った経験が、いい方向に活きていると思う」と輝子さん。たけのこは瓶詰、ぜんまいは乾燥、わらびは塩漬と、短期間しか採れない山菜は保存食にして、野菜の少ない冬から春先に備えます。
古布・古裂を縫い合わせ、バッグや衣服をつくる輝子さん。春〜秋は畑仕事や体験学習の世話、冬場は手内職と、自然と一体になったサイクルで生活は巡っています。
布の大半は、近所の人達が「もったいなくて」と持ち寄ってくれたもの。「昔の人にとって布は貴重品。どんなボロも継ぎ足して使った」といいます。その作品は、ものを無駄なく活かす美意識にあふれていました。
田沢湖の農家では、農業体験学習を積極的に受け入れています。田植や林業、酪農、山菜採りなどメニューも多彩で、中高生の修学旅行や野外活動に利用されます。高橋夫妻も生徒達を預かり、季節に合わせた農業体験やハーブのクラフト体験を行っています。7月はアメリカの学生も受け入れるそうです。
「千葉の用品雑貨店に勤めていた頃、仕入れのため、問屋や見本市をまわるうち、物づくりに目覚めました」。自分の好きなハーブを育て、思う存分クラフトに取り組みたいというのが最初の目的だったと語る輝子さん。
朝食に供されたのは「ねまがりたけ」や「ジャンボニンニク」のみそ漬け。そして忠さんの旧友がつくる「いぶりがっこ」。このひと皿に秋田の漬物文化が凝縮されています。「貧乏は宝だと思う。山菜をとったり、野菜を育てる。そうしたら都会の人からみて一番贅沢なものを食べていることになる」としみじみ語る忠さん。
横手市郊外に生まれた忠さん。少年の頃イタチを捕り、姉に雑誌を買ってあげた思い出を話してくれました。「無いからこそ知恵が働く」という忠さんは10年前から編みカゴづくりに挑戦してきました。
思い出の潟(がた)分校
「輝湖」から少し山へ入った潟(がた)集落に、旧「生保内小学校潟分校」があります。昭和49年廃校になったあと、平成16年に「思い出の潟分校」として修復され、一般公開されています。
昭和2年竣工の木造体育館はレトロモダンな建物で、内部大空間を出来るだけ広くするため構造を外側に張りだしていました。正面はガラス張りにして自然光をふんだんに取り入れています。
校庭には大きなカエデが枝を広げています。校舎は「たざわこクラフト市」などのイベントに利用され、6月には「昔ばなし大学」(小澤俊夫氏主宰)の記念大会により全国から約6百名が訪れました。
輝子さんのすすめで、60歳頃から「編みカゴ」づくりを始めた忠さん。「ものになるまで最低10年はかかると思った。気の遠くなる話だった」といいます。いま忠さんは山奥に入り、泊まりがけでヤマブドウやサワグルミ、クズなどを採取しています。元々田沢湖の農家にはカゴを編む人がいて、山菜やキノコを傷つけずに運ぶための実用品でした。高橋夫妻に材料の採り方を教えてくれたのも、近所の牛乳屋さんだったそうです。編み方を教えてもらったり、専門書を読んだり試行錯誤を繰り返しながら「やっと製品が売れるようになって、注文も来るようになった」と忠さん。田沢湖に伝わるカゴづくりを引き継いでいます。
こちらは珍しいクズ(根はクズ粉になる)で編んだバッグ。クズは晩秋に採取し、芯のスポンジ部分を手作りの道具で掻き取っておきます。編む前に湯で柔らかくし、平にのしてから使うそうです。
サワグルミの皮を使ったバッグづくりに挑戦しました。サワグルミの皮は、昨年の乾燥したものを使います。まずは鍋に湯を沸かし、皮を茹でて柔らかくします。
バッグを編むためには、合板製の木型を使います。木型の寸法を計り、皮の長さや本数を割り出し、ハサミで切って長さを揃えます。次に8〜10ミリの帯状に皮を数十本切ります。「自分で作ってみないと材料は分らない」と忠さん。どこに材料があるか、どういうものを採ればよいか経験を積んできました。ツルや皮は貴重品となり、編みカゴ作家に材料を送ることもあるそうです。
自作の治具に帯状の皮を固定してから、バッグの底を「アジロ」に編みます。編み目を間違え、やり直しの連続です。底を編んだら「木型」を底の部分にのせ、輪ゴムの中に皮を通していきます。こうした工夫は忠さんが考案しました。
ここでひと休み。工房のデッキで湖を眺めながら秋田名物・稲庭うどんに舌づつみ。ガーデンで採ったウドの天ぷら、クレソンのおひたしと頂きます。「湖の色は毎日変わって、見て飽きない」と忠さん。
写真左から、側面のあじろを編みます。あじろ編みは4本1組になるため、縦の本数は4の倍数にします。端の部分が重ならないよう、1本編んではひっくり返します。側面を編み終えたら、ヒモ状の皮を使って縁を固定します。いよいよ型から取り外し、余分な部分を切り取ると、バッグの形になりました(半分以上は忠さんの手で)。ここからバッグの縁をかがる作業に入ります。3本の帯で縁を折り込み洗濯ばさみで止めます。そこに帯を差し込みながらかがります。縁の丈夫さは耐久性を左右します。
生保内節
吹けや生保内東風
七日も八日も
吹けば宝風ノオ
稲みのる
わしとお前は 田沢の潟よ
深さ知れないノオ 御座の石
とろりとろりと沖行く船は
十七招けばノオ 岸に寄る
吹けや生保内東風
秋吹くならば
黄金波うつノオ
前たんぼ
秋田駒ヶ岳から吹き下ろす
生保内東風(おぼねだし)。
ときには冷害をもたらす風を
「吹けや」と言い放った
力づよい唄です。
農家民宿「輝湖」では、2泊3日程でバッグづくりを体験できます。高橋夫妻のお話をうかがい、ハーブガーデンや湖を眺めながら制作するうちに、田沢湖で暮らすことから生まれた、ものづくりの原点を感じました。
ひと息ついた忠さんに届いた郵便は、横浜の中学生たちが送ってくれた体験学習の写真でした。嬉しそうにながめる忠さん。輝子さんと二人三脚で育ててきた「輝湖」での日々は、まだまだ忙しさが続きそうです。
小林 清泰
アーキテクチュアルデザイナー・ケノス代表
「チャンバーミュージック ガーデン」で過ごす6月
昨年から6月は忙しい事になってしまった。何故ならサントリーホールで「チャンバーミュージック ガーデン」が開催されるからだ。今年は6月2日(日)から17日(土)までの2週間で、18プログラムである。プロデューサーはサントリーホールの館長でもあるチェリストの堤 剛(つつみ・つよし)。日本における名実ともにチェリストの第一人者だ。小沢征爾が率いる斉藤記念オーケストラのネーミングの由来である「斉藤秀雄」の弟子である。堤 剛も小沢征爾もともに桐朋学園出身で、学園創立者の一人である偉大な教育者・斎藤秀雄の薫陶を受けて世界的な音楽家に育ち、多くの弟子達とともに世界で羽ばたいている。
クラシック音楽の中でも英語で「チャンバーミュージック」と表されるいわゆる室内楽は、どんなジャンルを指すのだろうか。例えばということで今回の楽器編成の一部をご紹介しよう。最小編成はヴァイオリンソナタあるいはチェロソナタで、ヴァイオリンまたはチェロ一本と伴奏のピアノだけなので2人。最大はピアノ協奏曲でヴァイオリン12本、ヴィオラ6本、チェロ4本と指揮者を兼ねたピアノの編成だ。管楽器が一人もいないという珍しいものだが、室内楽としては多めの総勢23人であった。
チャンバーミュージックの一般的な編成は、トリオ(3人)、クヮルテット(4人)、クインテット(5人)、シックステット(6人)、オクテット(8人)等である。トリオという小編成を取り出してみても、弦楽器だけでなく主楽器が管楽器であるクラリネットやホルンであったり、ピアノであったりと音色もヴァラエティーに富む。
その中でも私が最も入れ込んでいるのが「ストゥリング クヮルテット」と呼ばれる弦楽四重奏だ。第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロという四本の楽器で構成される。全て基本的には同じ構造の弦楽器だから、大きさによりそれぞれの楽器が持つ音の高低はあるものの、弦を弓で擦り音を出すという音源は変わらないため、各楽器の音色はかなり似通ってくる。聴く側にとって音色の変化や華やかさは大幅に欠けるし、オーケストラ等に比べれば遥かに地味な音しか出さない。
クラシック等の作曲の基本は四声で作られる。四声はソプラノ、アルト、テノール、バリトンまたはバスの様なものだと考えればよい。その各声部を先程述べた四本の弦楽器がそれぞれ担当している。作曲家の勉強は、この四声によるエスキース作成から始まると行っても過言ではない。だから優れた四重奏曲は作曲家の構想や音楽性のエキスが各声部に全て詰まっていて、何の脚色も無い状態で、聴く者に曲想がストレートに伝わってくる。そんな意味で、ストゥリング クヮルテット曲は音楽として誠にシンプルだが、何事にも代え難い普遍的な魅力があふれている。
特にベートーベンの16曲のストゥリング クヮルテット曲が顕著だ。昨年から始まったサントリーホール チャンバーミュージック ガーデンでは「ベートーベン サークル」というストゥリング クヮルテット曲16曲の全曲演奏会が五夜にわたって行われる。昨年はアメリカのクヮルテット、今年はドイツのヘンシェル クヮルテットが招かれた。両クヮルテットとも四十代前半の若手である。最晩年に作曲された12番から16番の演奏は流石に深さの点ではもう少しと感じたが、5回ともすばらしかった。ベートーベン サークルは超一流のクヮルテットでもなかなかチャンスに恵まれない。若手演奏者にとって大きなチャレンジになったはずだ。
オープニング日とフィナーレ日には堤 剛もアンサンブルに加わって演奏する。彼の音色はひときわ深く透き通り、心を打った。今年もチャンバー ミュージックのデリケートで美しい花咲くガーデンに、昨年同様7回も通ってしまった。ああ6月は忙しい。
セツルメントから生まれた、
生保内友の会72年
田沢湖駅のある「生保内(おぼない)」地区は、
今 和次郎 設計の「生保内セツルメント」があった街です。
その敷地に当時からたつ栗の木は、「友の家」を見守り続けてきました。
田沢湖駅周辺の生保内地区。ここに今 和次郎が設計した「生保内セツルメント」の建物がありました(コラージ2012年3月号「今和次郎特集」参照)。その敷地には今も、生保内友の会 会員の集う「友の家」があります。
雑誌「婦人之友」の愛読者により1930年に結成された全国友の会には、海外もふくめ約188の会があり、会員数は約20,500人。日本初の女性記者となり、婦人之友を主宰し、自由学園の創立者でもある羽仁もと子さん(1873〜1957)の思想をもとに、健全な家庭をはぐくみ、よりよい社会を創りだすことを目的とした活動を行っています。生保内友の会で長年総リーダーをつとめてきた千葉千鶴子さん(左)と、現総リーダーの田口佳枝さん(右)にお話を伺いました。
田口佳枝さんの手記からは、生保内セツルメント設立のきっかけや、その活動内容がよく分ります。
「昭和10年(1935) 東北地方は大凶作にみまわれました。ミセス羽仁が長い年月しいたげられた風土の中で、希望なく暮らす東北の貧しい人達に光をあたえられたらと、東北セツルメントを提唱されました。友の会で経験してきたことを生かし、セツルメントに来るおばさん達が、自らやる気をおこして、立ち上がれるような手助けをしましょうとおっしゃられ、さっそく実行に移されました。昭和10年、「東北農村生活合理化運動」5カ年計画が始まり、各地に農村セツルメントが開かれました。秋田県では最も貧しい村として生保内村に決まりました。5年計画が終り、昭和14年に農林友の会として「生保内友の会」が発足しました。その後、農閑期衣食住学校によって、村の若い女性たちへ洋裁などの技術が伝えられ、農繁期には自由学園の生徒さんや近隣の友の会のお手伝いを頂き、農繁期託児所も開かれました。その後、生活団も始まり、30年間、そこで約千人の子供たちが学ぶことが出来ました。」
東北セツルメントは生保内の他に、田山(岩手)、鎌田(福島)、小湊(青森)、藤尾(宮城)、大蕨(山形)に設置されました。セツルメントの活動は、今 和次郎が参加した「東北更新会」とのつながりも深く、更新会が住宅の改善をすすめる一方、服飾や食事、家計の管理による向上をはかったようです。
生保内セツルメントで最初に行われたのは、中央から送られた古着を再利用して布団や子ども服を縫うことでした。ワラを敷いた万年床や、ツギハギの着物を廃し、清潔な生活への転換がすすめられます。子どもの着る新入学の服を手作りしながら、1日あたり20銭支給された衣料券を「友愛セール」(バザー)での購入にあてました。こうした活動は東北更新会の住宅改善とセットで行われ、当時の村長で医師・クリスチャンだった鬼川貫一氏の尽力も大きいと2人はいいます。
セツルメントの5年計画は昭和14年に終了し、引き続き結成された「生保内友の会」により、セツルメントの建物は平成6年に取り壊されるまで、「友の家」として利用されます。他のセツルメントが廃止されていくなか、生保内友の会の活動は自発性を増しながら、戦後ますます活発になりました。
日立市(茨城県)から生保内に疎開した千葉千鶴子さんは、戦中に友の会と出会い洋裁を習い始めました。手記「今、思う事」は、当時の様子をくわしく綴っています。
「思えば67年前、終戦の年の4月、父が戦争に行っている時、日立より疎開し、戦後の教育制度が変り4年で卒業出来るはずの女学校を三年でやめ、叔母の家のお手伝いをし、小さい従妹を託児所に送り、友の会を知り、勉強したい一心で街から遠い家へ帰り、往復16kmの道を歩いて洋裁を習いに通いました。『明日休んで』と云われ、どうしてと尋ねると、例会との事で、私も出させて頂きました。『つとめいそしめ』の讃美歌を歌い子供読本を読み、たくさんの小母さん達が勉強している姿に感動し、すぐ会に入れて頂き64年になりました。セッツルメントの話、五年間の勉強が終った時、羽仁先生からご褒美に友の会を頂いたと喜んでお話してくれました。間もなく娘の為の農閑期衣食住学校が開かれ(昭和24〜26年)、よい勉強をさせて頂き、自由学園の生徒さんのきびきびした態度、中央委員の方々のやさしい教えに心から感謝し、卒業式に出席した母も感心し会員となり89歳で亡くなるまで共に学ばせて頂きました。」
当時まだセツルメントは「特別な人の行く所」という偏見もあったそうです。しかし千葉さんの手記から、「往復16km歩いて」まで通いたい、ハイカラな魅力ある場所だったことが分ります。
農村の若い女性を育成する「農閑期衣食住学校」を指導したのは、生保内出身で自由学園を卒業した金沢祐子(旧姓・田口)さんでした。「卒業まぢかにミセス羽仁、ミスター羽仁からよばれ、『あなたは自由学園を卒業したら古郷に帰って何かお役に立つことをしなさい。』と言われ」たそうです (田口佳枝さんの手記から)。そこで学んだ千葉さんは17歳で結婚し夫と農場で働きますが、暮らしは好転しませんでした。「羽仁もと子著作集の「家事家計扁」を読んでから、家計簿はずっと続けています。結婚して15年後、家計簿から開拓を続けても将来の展望は見えないと感じ、夫と共に転職しました」といいます。羽仁もと子さんによって推奨された家計簿が、人生に大きな転機をもたらしたのです。
生保内友の会は現在18名、社会の変化や高齢化により、何度も無くなりそうになりました。「セツルメント時代の会員から、いま活動に参加できない人もいつかは戻ってくる。それをじっと待つことが大切と教わりました」と現総リーダーの田口さん。今も1カ月に一度集まり、羽仁もと子著作集を読み、互いの感想を述べあっています。セツルメント時代から続く「友愛セール」には、会員が自宅で「持ち物調べ」を行い、不要と分った衣服などを持ち寄ります、昨年の大震災の際は、女川の方々をセールに招待したそうです。
戦後、生保内友の会が地域に果たした大きな役割に、昭和27年から始まった「幼児生活団」があります。保育園や幼稚園のなかった当時、子どもが将来に向かって夢を膨らませ、自らの力で歩きだす手助けをする場として認められ、合計千人以上が巣立ちました。「子どもを育てることは、楽しい社会事業であり、社会から預かって、役立つ人を育て、社会に帰していく」と羽仁もと子さんの思想を語る千葉さん。公的施設の充実により生活団は解散しましたが、今も「リビングルーム」という名で子どもたちの集まりを開いています。戦前から70年以上にわたり、セツルメントの精神を大切に受け継いできた「生保内友の会」。どんな時代にあっても、活動を続けることの大切さを教えてくれました。
角館- 武士たちの手内職を知る
武家屋敷と、しだれ桜の街として知られる角館。戦国時代は戸沢氏(後の新庄藩主)の本拠地であり、関ヶ原の合戦後、1620年頃、芦名(あしな)氏によって現在の街並がつくられました。観光地として有名なのは格式ある武家屋敷の並ぶ内町(うちまち)ですが、今回は商家や町屋、一般武士の侍屋敷が混在した、外町(とまち)の「田町武家屋敷通り」周辺を訪ねました。
新潮社の創設者・佐藤義亮(さとう ぎりょう)は角館の出身で、自社の全出版物を角館に送り続けました(現在も続いています)。それを顕彰した「新潮社記念文学館」は、仙北市の公共施設です。
「みちのくの小京都」とも呼ばれる角館。街の南側で玉川と桧木内川は合流し、雄物川に注ぎます。雄物川は秋田との物資が行き来する物流の大動脈。北前船により北陸や西国とも結ばれていました。
明治15年の大火により大半を焼失した外町。明治期に再建された洋風建築や、レンガ造りの蔵なども残っています。
樺細工 藤木伝四郎商店
秋田を代表する伝統工芸「樺細工」は、天明年間(1780年代)に角館に伝わったといわれます。最初は武士の「手すさび」(ホビー)として、やがて外町に暮らす武士たちの大切な手内職となりました。主に薬を入れる「印籠」や煙草の葉を詰める「胴乱(どうらん)」がつくられ、武家の高級アクセサリーとして全国へ運ばれました。
ペリー来航の2年前、嘉永4年(1851)創業の「藤木伝四郎商店」6代目の藤木浩一さんは、5年ほど前からデザイナーとのコラボレーションをはじめ、ドイツのアンビエンテ、フランスのメゾン・エ・オブジェなどの海外見本市に出展し、樺細工に新風を吹き込む存在として広く注目されています。
樺細工の技法には「型もの」や「木地もの」、「たたみもの」などがあり、明治以降、それぞれの時代に合わせた製品や流通を開拓してきました。それをリードしたのは伝四郎商店のような問屋の力でした。
店内にかかげられた賞状は、1915年(大正4年)、パナマ運河開通を記念した「サンフランシスコ万博」のもの。藤木伝四郎商店は「Cherry Bark Ware」でシルバーメダルを獲得しました。
現在の伝四郎商店も、フランスの茶葉専門店から2600点もの茶筒の注文を受けたり、中国や韓国のショップに陳列されたりと、輸出比率20%を目標に海外プロモーションを積極的に行っています。それを強力に後押しするのが、山田佳一朗さんはじめ、若手デザイナーによるコンテンポラリーな製品です。一方国内市場でも、インテリアショップやセレクトショップなど、カジュアルなマーケットに樺細工は広がっているそうです。
藤木浩一さんに、樺細工の意外な歴史をうかがいました。昔よくみたブリキ缶に貼った樺細工の茶筒。実は本体を木製にしたのはブリキ缶仕様の後で、それ以前の樺細工は茶筒に使われていなかったそうです。
木製の茶筒は、印籠などを作った「型もの」の技法で作られます。円筒形の木型に、ニカワを塗ったサワグルミの経木とヤマザクラの皮を巻き付け、金ゴテで貼り合せます。木型はずらして取り外せるようになっています。200年以上前に発明された突き板の「成型合板」ともいえ、一定の形を再生産できる、プロダクトが確立されていたのです。
木型を使い、内芯と外芯の2種類を作り、輪切りにして蓋や中蓋、本体を組み合わせるのが「型もの」の特徴です。それにより、密閉性のよい茶筒が生まれます。古くから作り続けられている「印籠」も、この輪切りの特性を活かしています。
さらに山田佳一朗さんの「輪筒」シリーズは、外芯にクルミやカエデを使うことで、デザインのバリエーションを広げました。昔の知恵を上手に受け継いだ、新しいプロダクトです。
藤木浩一さんが「最高の工人」と評価する田口芳郎氏(1920〜2004)の作品。田口氏は若い頃に柳宗悦の工芸指導を受け、後世にのこる様々な技法を模索してきました。この作品は菱形に切った樹皮の断片を精密に割り付け、ヤマザクラのもつ様々な表情をひき出しています。
卓上のきら星たち ☆ 第14回 パリ 職人たちのカフェ 大原千晴
十年ほど前のことになるだろうか、表参道の交差点、交番の側を原宿方向に三〇メートルほど行ったところに、突如として大きなカフェがオープンした。ビルが建つまでの臨時の建物だったが、内部は見事にパリの街角のカフェそのまま。ギャルソン(ウェイター)の衣装からバーのたたずまい、椅子や卓子、酒や道具類の並べ方に至るまで「すべてそっくり本場パリの雰囲気を再現しました!」で、あっという間に人気のカフェ誕生とあいなった。でも …… なんか違う。何もかもがそっくりなのに、決定的にパリのカフェとは違っている。今回は、この時に感じた、強い違和感の源を探ってみたい。
一八四〇年代の後半、パリにはカフェが約四千百軒あった。やがて一八八〇年には二万一千軒にまで増えている。さらに、わずか五年ほどの間に倍増し、一八八〇年代の半ばには何と、四万二千軒に達している。しかも、この時点で既に、午前二時までの営業で、ほぼ現在と変わらぬ営業形態が完成している。これが百三十年前の話なのだから、都市としてのパリの先進性は突出している。それにしても、なぜ当時のパリでは、そんなに短期間にカフェが増殖したのか。
一番の理由は、労働者人口の増加だ。英国に遅れて産業革命が進展し始め、農村からパリに向けて、特に年若い労働者の爆発的な流入が続いた。こうした労働者の大半は、男なら何らかの「職人」が大半であり、女はお針子と帽子作りそれに家事労働(女中)が中心だった。こうした労働者人口の爆発的な増加の結果、住環境は急速に悪化し、労働者向けのアパルトマンが集中する地区では「五人相部屋」も珍しくない、という状況にいたっている。まさに「劣悪な住環境」というほかない。そんな「家」に帰りたくない彼らは、寝る時以外「なじみのカフェ」で過ごすのが当たり前だった。実際、一九世紀末のパリで爆発的に増えたカフェの大半は、市壁の周辺に広がる貧しい労働者たちが住む街にあった。この時代をかえりみて一般に「ベル・エポック」(「古き良き時代」)と呼ぶ。「五人相部屋」の労働者からすれば、「オフザケじゃないよ!」で絶句だろう。
こうした背景の中でカフェは、田舎から出てきてパリで働くひとり身の労働者にとって「第二の家」となり、カフェの親父はほとんど親戚みたいな存在となっていく。これはもう「店の常連」なんて言葉ではとても足りない、深い密着度だと思っていい。職人として働く男たちは、仕事の途中でひと休みするとき、馴染みのカフェに行って一杯ワインを引っ掛けるというのが当然だった。それどころか、朝仕事前に一杯引っ掛けてからというのも、珍しくなかった。「ワインは活力の源」と、大まじめにそう信じられていたからだ。この伝統は、今だって下町のカフェで続いている。また、新入りの職人は職場の先輩職人全員に、カフェでワインをおごらねばならなかった。これを何度か繰り返して、はじめて、仲間に入れてもらえるのだった。親方がいて、その下にベテラン職人がいて、その下に若い見習いがいる。職場が一丸となってひとつの仕事をこなしていく。時計の時間ではなく、仕事の進み具合によって、親方の裁量ひとつで、ちょっとカフェでワインを一杯。まだまだ今から見れば、おおらかな働き方が許されていたのだ。要するにパリの職人にとって、「酒はカフェでみんなで飲むもの」だった。もちろん、飲み過ぎもあった。職人が集団で飲んでいて、たまたま、別の集団と出会う。酔った勢いで集団同士が喧嘩になる。そんなことは珍しくなかった。何やら、江戸の職人の気風に通じる威勢のよさだ。一方カフェは、同業種の親方職人が情報交換する場所でもあって、互いに新しい仕事先を紹介し合う、一種ハローワーク的な役割も果たしていた。
こうしたカフェの盛衰は、ひとえに、親父の人柄と、店の営業の中心となる家族の働きいかんに掛かっていたが、一九世紀後半パリで新規に開店したカフェの経営者は、これはもう圧倒的にフランス中央山塊の中心オーベルニュ地方の出身者が占めていた。彼らは前の時代からパリに出稼ぎに来ていて、水運びという力仕事を独占していた。水道の発達でこの仕事が減り、飲料運びの関係からカフェの経営に進出していったのだ。このため、「カフェの親父」といえば、「猪首で胸板厚くレスラーのような体躯のオーベルニュ男」というイメージで、店で酔って暴れる気性の荒い職人連中をひねりつぶせるようでなければ、とても務まる仕事ではなかった。客と一緒に呑んだくれて依存症になって店をつぶす者も少なくなかったが、克己心の強い店主であれば、店も繁盛し、多くの貧しい客から「親父」と慕われた。実際、店の常連に依頼されて、婚姻届の証人や、死亡時の証人という、重要な役割を担うことも珍しくなく、まさに町の顔役だった。
一方、一九世紀末といえば、労働運動が盛んになっていく時代でもある。当時規模の大きなカフェの親父は、店で自分の支持する勢力が政治集会を開くことを積極的に歓迎した。その大半は、店の顧客である貧しい労働者の立場に立つ、社会主義・共産主義的な勢力の政治集会であり、この頃から治安警察にとって、労働者カフェが危険な要監視対象となっていくという歴史がある。表参道の「見かけパリのカフェそっくりさん」。強い違和感は、おそらく、このあたりに源がある。そこにはパリの街にどっしりと根ざしたカフェの、歴史的な積み重ねが、何も、ないのだ。
娘たちへの思いから生まれた、レンガの婚礼場 安藤醸造元
美味しそうな井戸水に誘われ立ち寄ったのは、約300年前からつづく安藤家の「安藤醸造元」です。江戸時代からの味噌・醤油が、田沢湖周辺を水源とした豊富な伏流水を使い醸造されています。
安藤家は木綿や古着を手広く扱う商家で、地主も兼ねていました。江戸時代の後期には、小作からあがってくる米を利用し、味噌・醤油の醸造に取り組んだと伝えられています。角館の外町も江戸の下町とおなじく、商家や町屋が密集し、たびたびの大火で焼けました。そのため武家屋敷の並ぶ内町とは、広い火除け地で隔てられています。
安藤家も4たび焼け、特に明治15年の大火では、仕事場である醸造蔵や歴代の史料を焼失しました。当時の当主・安藤利助が最も哀しんだのは、自邸で婚礼を開けなくなったことでした。安藤家では親類も含め、15歳頃の娘たちの式を本家で行うのが習わしとなっていました。「絶対に焼けない婚礼場を建てる」と決意した利助は、近くの荒川鉱山などでイギリス・フランス人技師の指導によって建てられたレンガ造建築を研究します。そして貴重なレンガの型を入手し、角館の窯で焼かせました。約9年の歳月をかけて完成した「煉瓦造造座敷蔵」は、木造の土蔵の外側をレンガの外壁ですっぽり覆うという、珍しい耐火建築です。内装は、西宮礼和(にしのみや れいわ)による10枚のめでたい襖絵で彩られ(襖を開けるとすぐに白壁です)、昭和になってからも婚礼に使われました。子犬の絵は礼和が特に気に入ったもの。これを床の間と並べて見せたいたと、床の間を脇に向けたそうです(通常は正面向き)。
それでも 地球は 回ってる ♯8 カレン
[左の道の先]
夏姫が死んだ。その事実は一晩で学校中の話題となった。薬物の過剰摂取による中毒死。学校の担任はそう説明した。生徒の親たちも学校側も次なる連鎖を恐れたが、警察の捜査が進んでいくうちに、やがてその声も少しずつトーンダウンしていった。捜査報告として、彼女は放課後に都心の繁華街で外国人から購入していたという事実がほぼ確定されたからだ。つまり、今回の事件は夏姫の単独行動であり、可能性として第二の事件に続く伝播性が認められなかったからだ。思春期の少女、心の闇と薬物。どこでも転がっているそんな話は、週刊誌どころか地元誌さえまったく取り合わなかった。
しかしその中で、その事件とクロの存在を暗い目で見透かし、疑っている人間がいた。ナツ(後のNATTS)とカレン(後のキャズ)だ。
[危険な風船]
カレンはごく平凡な家庭の一人っ子として生まれた。遅くに生まれた念願の子だったから、祖父母も両親も彼女を本当に大事に育てた。無菌シートの中ですくすく育つカレン。だが、小学校に通い始めてすぐに、彼女は知ることになる。
「この世界は他人との戦いだ」
彼女は「自分の世界観を共有できない他人」と初めて遭遇したのだ。自分の見ている世界と周りの子が見ている世界にズレを感じるたびに彼女は下唇を噛んだ。しかし、生まれつき聡明な彼女はそれを解決する方法をすぐに見つける。自我と他者を切り分ける方法だ。生まれつき美しい顔を持った彼女は、時折みせる思慮深い表情と、表面的だからこそ出来るテンションの高い行動力でクラスの人気者になっていく。本来、自我と他者のズレを埋める何かとは言葉であるべきだ。しかし、別の意味で類まれな才能を持った彼女は、それを持たずに世界と堂々と渡り合えるほどに成長してしまう。ただ、もちろん、切り離された自我は日々膨張していく。風船式時限爆弾のように。彼女が自分本来の意思に沿わない笑顔を作れば作るほど、剣呑な予兆は大きくなっていく。そして、彼女が13歳の夏に。ちょっとした小さな事件が起こる。
[100Mの女神]
「佐々木夏姫です。種目は100Mをやってみたいです。」
うおっ。誰だ?この娘。ドキッとした。細くて長い手足。キレイな長い髪。……ていうか顔小さっ。陸上部の部室。そこにいる全員がどよめいた。先生も先輩も私以外の新一年生部員も……。ホケーって見惚れてたら、いきなり夏姫がこっちを見た。私の息が止まる。目が離せない。どうしよう。彼女の唇が動く。あなたのばん。…… へ?「カレン、お前だよ」隣にいるカイトが私の頭をひっぱたいた。いったー。
[運命のように髪は流れる]
陸上部の練習はきつかった。なんでこんなことしなきゃいけないんだろう。トラックをぐるぐるぐるぐる回ってさ、っていつも思ってる。でもでも、陸上部にはカイトと夏姫がいる。カイトは毒のない子だ。彼は「正義」で出来ている。心と体と行動が乖離していない。だから私にはすごく眩しい。太陽みたいだ。「なーカレン、俺さーお前の声好きだな」そういうことを簡単に言う。ヘヘッ。照れた顔してスパイクをぶつける。私も好きだよって、でもそれは言えない。なんでだろ?自分でもわかんない。で、いつも夏姫は私たちがじゃれているのを近くで見てる。優しく笑いながら。高跳びのマットに腰掛けて。長い髪が/運命のように/風に/流れていて。
[ポチ]
ある日、足の悪い三毛猫が部室に迷い込んだ。みんなでお弁当を分けてあげた。私がポチって名前をつけた。カイトはポチにいっぱい引っかかれて、俺こいつきらーいって言って、すごく可愛がってくれた。でも一番世話してたのは夏姫だ。夏姫は授業中もソワソワして校舎の窓から部室を見下ろしていた。「私がこの子と出会ったのは運命だから」あの時の夏姫の言葉。そんな深い訳があるって知らなかった私は、「だねー運命だよーっ」とかいつものノリでチャラっと言ってたと思う。
[避けられない悪意]
そして、あの日。古文の授業中。いきなり夏姫がガタッて立ち上がった。先生も私もみんなびっくりして彼女を見た。「カレン! ! 」ほとんど絶叫で私が呼ばれた。え …… 何? 私?? 夏姫は窓をバンって叩くと、クラスを飛びだした。4階から見下ろす窓の外、部室の前、2、3人の男がポチを囲んでいた。何かで弾かれてる。ゴルフのクラブ …… ? 一瞬で分かった。私も走ってクラスを飛びだした。部室に着いた時、男たちはもうそこには居なかった。…… ポチはまだかろうじて生きていた。夏姫がゆっくりポチを胸に抱いた。ポチの腰から足がダラッてなった。ポチの前足が甘えるように少し動いた。そして、ゆっくりと目を閉じた。痛かったね。夏姫がそう言ってポチの頭を撫でてる横で、私はただ大声で泣いていた。
[Big Eye]
次の日、夏姫は学校に来なかった。私は部活を休んで、夏姫の家に行った。夕方の潮の匂い。海の向こうに大きな入道雲。せわしなく走り回る市場の人達。堤防沿いに延びる自分の長い影。足が止まった。夏姫になんて言ったらいいんだろう。急に不安になった。言葉が出てこない。少しパニックになった。私の数少ない言葉の引き出し。私の気持ちをしっかり伝えられるだろうか。「もし、大きな意思のような目があったとして、それは夏姫も私もポチも実は等分に見ていて、だから …… 大丈夫だよ。夏姫、元気出して」これで通じるだろうか? 通じるわけがない。どうしよう。私が生まれて13年、たぶん今初めて人に正確に自分の気持を伝えなければいけないのに。私はクルッと踵を返した。そしてそのまま家に逃げ帰ってしまう。だって …… すごく怖かったから。
ようこそ TIME&STYLE の ストレージへ 「HOUSE STORAGE TIME&STYLE」 南青山にオープン
TIME & STYLEが収納家具を開発し、南青山のショップをリニューアル。「HOUSE STORAGE TIME&STYLE」としてオープンしました。
マンションの一室のようにコーディネートされた店内は、リビング、キッチン、玄関、洗面・脱衣所、ワードローブ、寝室などの収納家具によって、空間を構成しています。リビング収納は壁面とフラットに納められ、扉に「スイングドア」や「プッシュラッチ」を採用して、すっきりとした、手掛けすら見えない美しい壁面を作り上げています。
キッチンのパントリー収納は、天然木をつかった大きなガラス扉を採用。オリジナルの食器類にもよく似合っています。扉が大きく開くので一覧性もよく、内引き出しによって奥のものを取り出しやすくしています。一方キッチン収納は「リフトアップドア」や「スライドテーブル」を設け、調理家電などの使いやすさを重視した優等生です。全ての開き扉は「耐震ラッチ」付きです。リビングや寝室をTIME & STYLEの家具で揃えても、洗面台にはいいものがない。そんな声に応えるため、洗面収納も開発しています。表面の天然木突き板には、通常よりも厚い「厚突き板」を採用し、置き家具に負けない木の質感を表現しています。洗面・脱衣所の収納をたっぷりとることで、リネンやサニタリー用品はもちろん、下着類や寝巻きなども収納でき、お風呂あがりに下着を探しながらウロウロする心配もありません。大型の「フラットスライドドア」で開閉するワードローブ。扉が邪魔にならないので、狭い廊下やウォークインクローゼットにも設置できます。この設置例では、左の扉を夫のスペース、右の扉を夫人のスペースと使い分けています。夫人のスペースに設けられた、「ワードローブリフト」はロングコートも楽に出し入れでき、汗をかきながらのドレス選びも解消できそうです。フラットな「スライドトレー」は、明日着る服やアクセサリーを準備するのにも便利です。扉を開くと、LED照明は自動で点灯します。扉の厚い突き板は「木目が単調に揃いすぎないように選別している」そうです。空間を左右する大きな扉だけに、突き板の表情は大切なポイントです。あわただしい一日もやっと終りに近づき、ベッドに腰かけて、映画や読書をゆったりと楽しみたい。「ウォールタイプ」のテレビ収納や、「スイングドア」の書庫収納が願いを叶えてくれます。テレビ収納は見る位置に合わせテレビの向きを変えられます。書庫収納はドアが全面に開くので、探している本をストレス無く探せます。TIME & STYLEの収納提案は、ただの箱では仕舞いきれない、さまざまな思いを「ストレージ」してくれると感じました。家具、食器、小物、リネンへと幅を広げてきた物づくりは、収納を媒介として、空間へとメタモルフォシスしそうです。
デザイナーたちの贈る、手づくりの映画上映
「 The City Dark(ザ・シティ・ダーク) ー 眠らない惑星の夜を探して 」
8月11日〜17日までの一週間、渋谷「アップリンク」にて上映
アメリカで大きな反響を呼んだ「The City Dark」は、都市の光による様々な障害(光害)をテーマにしたドキュメンタリー映画です。8/11〜17までの一週間、日本初公開となる渋谷「アップリンク」での上映会を企画したのは、照明デザイナー・岡安 泉さんをはじめとするデザイナー達で結成された「エッセンシャルライト ジャパン プロジェクト」。映画上映はもちろん初めての経験で、上映の交渉や資金調達、字幕制作など、全て手探りで進めてきたそうです。
「光害」(こうがい)とはまだ聞き慣れない言葉ですが、動物の生態系への影響や、人体への影響、そしてなにより、天の川を見たことのない子どもたちや、まばゆいほどのディスプレイに彩られた、眠らない都市を生みだしています。明るいことは安心・幸せの象徴なのか? まぶしさは一種の害ではないのかという「疑問」や「気付き」をもつことから光害対策はスタートするのかもしれません。
7月12日には一般公開にさきだち、山梨知彦さん(建築家/日建設計)と岡安 泉さんによる「都市と照明」についてのトークショー+記念上映会が開催されます。
Interior Lifestyle Tokyoの会場から
東京ビッグサイト、西ホールのアトリウムは真っ白な空間に ……
仮想店舗をイメージした「 FEEL GOOD STORE 」
インテリア ライフスタイル
2012年6月6日〜8日 東京ビッグサイト
主催:(社)日本家具産業振興会、メサゴ・メッセフランクフルト(株)
「 FEEL GOOD STORE 」から、建築家・芦沢啓治さんを中心に石巻市街に設立された「石巻工房」。ベンチやスツール、バッグなどを、石巻周辺の方々が制作しています。街の復興や販売に結びつけられるようデザイナーや企業が協力し息のながい活動を続けています。
「日本のものづくり」をテーマに、ドイツのアンビエンテ(国際消費財専門見本市)に出展してきた、「JAPAN STYLE」(プロデュース・吉田龍太郎さん、渡邊真典さん)は、初めての里帰り参加。約30社のブースが揃いました。海外からのプレスツアーも、日本ならではの生活様式に熱心に耳を傾けてます。日本の伝統工芸を世界へ発信する 「YOnoBI」のブース(デザイン橋本夕紀夫)も出展し、カフェで提供された岩手・中洞牧場乳のソフトクリームが評判でした。「JAPAN STYLE」はこの後、10月に中国・上海で開催されるインテリア ライフスタイルへ出展し、日本のIFFT (10月)やドイツ・アンビエンテ(2月)にも巡回します。
工房楽記
ただいま温泉ダイエット中
BC工房 主人 鈴木 惠三
jawaの工房では「甘い生活」から一転しての、苦い生活を1か月したら、なんと4kgも減った。お腹も、なんとなくスッキリ&スリムになった気がする。この夏、日本でも温泉ダイエットを、しよーと思う。
オイラの住むふじのには、天然温泉が2カ所ある。だから毎日、温泉で1時間ゆったり、ぐったりしている。この1時間を1時間半に延ばすのだ。5割アップするのだ。
地元のおっチャンたちと、世間ばなしをしていると、あっという間に時間はすぎる。野良仕事の話を聞きながら、なにもせず、怠惰な温泉時間で、これまたダイエットできれば一石二鳥の捕らぬ狸の皮算用。
甘い戯言を夢みている甘い性格は、あいかわらずだ。
若い女性たちのダイエットは、ちょっと悲壮感漂うが、老人のダイエットは、冗談のようで楽しさがある?
温泉だけで済めば極楽。
その後 居酒屋へ行けば、これまた極楽。
そのあと待っているのは、ホントの極楽。
てなもんで、いつまで、どこまで温泉ダイエットがつづくのか、あやしいもんである。
「粗食の少食」が、うれしいなんてオイラは人間として成長したのかなぁ、と錯覚してしまう。野獣派が、仙人になったような気分だ。
「椅子の仙人」に、なれるかいなや?
温泉ダイエットから生まれる妄想、邪念、イマジネーションに、期待するオイラです。
BAMBOO EXPO2012の会場から
BAMBOO EXPO
2012年6月7日〜9日 TABLOID
主催:BAMBOO MEDIA、SOULPLANET
笈川 誠さん(雑誌「商店建築」元編集長)の企画する「BAMBOO EXPO」は、昨年の秋につづき2回目。「知らない人同士の出会いを大切にしたイベントを開きたい」という笈川さんの呼びかけに応え、今回は約25社の商空間に関わる企業が出展し「日の出駅」そばのTABLOIDで開催されました。
富山の米澤製材所は、様々な樹種を割った「へぎ板」をパネルに仕立てた壁装材を出展。「来場者には実際に現場に関わる設計者やデザイナーが多く、一人一人と内容の濃いコミュニケーションがとれた」といいます。英財産業は、松岡智之さんデザインの家具ブランド 「トリシュナ ジバーナ」を出展。デンマーク・Gabriel社の生地を張った贅沢な掛け心地のソファが印象的でした。エイジングや様々な技法を使ったフィニッシング・ワーカー「Ar,TEE'S(アーティーズ)」は、凝った空間展示を行っていました。夕方からはサントリーの提供で白州のハイボール飲み放題のイベントが開かれ、多くの来場者で賑わいました。来場者数や規模の大きさを競うのではなく、中味の濃いトレードフェアとして発展しそうです。