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時空にえがく美意識
http://collaj.jp/
9月号 祝月 2 012
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Copyright . 2012 Shiong All rights reserved
深川八幡夢のあとさき
時空にえがく美意識
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9月号 祝月 2 012
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深川八幡夢のあとさき
2012年盛夏。東京・深川の町々は、八幡祭り一色に染め上がります。東日本大震災の影響で昨年は中止となり、今年は2008年以来、4年ぶりの開催となりました(通常は3年に1回)。2012年盛夏。東京・深川の町々は、八幡祭り一色に染め上がります。東日本大震災の影響で昨年は中止となり、今年は2008年以来、4年ぶりの開催となりました(通常は3年に1回)。
江東区・三好 2丁目にご協力いただき、6月 17日お神輿の点検から取材を始めました。4年間の眠りについていたお神輿が倉庫からだされ、神輿の飾りや提灯などに傷みや不足がないかを確認します。
▲ 三好 2丁目町会長・田巻さんの挨拶で祭りの準備は始まりました。
▼ 2階に安置されたお神輿を特製のエレベーターで下に降ろします。 2012 _6_17(sun.)9:00〜
神輿点検・奉納板の設置
江東区・三好 2丁目にご協力いただき、6月 17日お神輿の点検から取材を始めました。4年間の眠りについていたお神輿が倉庫からだされ、神輿の飾りや提灯などに傷みや不足がないかを確認します。
▲ 三好 2丁目町会長・田巻さんの挨拶で祭りの準備は始まりました。
▼ 2階に安置されたお神輿を特製のエレベーターで下に降ろします。 2012 _6_17(sun.)9:00〜
神輿点検・奉納板の設置
平成
15年、町の人々の寄付などによって建てられた「神輿備品倉庫」。壁に掲げられた集合写真は町の歴史を伝
えます。亡き祖父や父・母の若い頃の姿も。三好2丁目のお神輿は昭和
27年「行徳・後藤直光」の作。漆など
を塗らず、屋根にも彫刻を施した「総彫」が特徴です。側面には「天岩戸」の絵柄を彫っていました。
釘を使わない伝統的な組み手によって、組み立て・分解しやすい構造になっ
ています。木槌の音が朝の町内にこだまして、祭りの始まりを告げました。
町角で奉納板の組み立てが始まりました。江東区の無形文化財であり厚生労働省の「現代の名工」にも選ばれた、建具・木工職人 友國三郎さんの手によるもの。伝統の技に触れる機会ともなっています。
▼ 祭りの運営費として総計 1000万円以上が寄進されたそうです。
4年ぶりだけに、植え込みに隠れた土台を探すのも一苦労でした。力をあせてフレームを立ち上げます。リストを見て順番を慎重にチェックしながら、寄付者の名を記した札を取り付けていきます。
2012 _7_22(sun.)18:00〜
総代 祭礼委員 神輿同好会顔合わせ
清澄白河駅そばの「清澄庭園」は、都の名勝第 1号に指定された人気
スポットです。閉園時間をすぎ、来園者とお祭り関係者が入れ代わります。
清澄庭園の池に浮かぶ「涼亭」にて、三好 2丁目の総代、祭礼委員たちと、神輿同好会の皆さんの顔合わせ会が開かれました。
三好
2丁目の総代、山中さんと西崎さん。顔合わせは親睦を深め
るための大切な場。緊張した面もちで席次を確認します。
ここで深川八幡祭りを運営する仕組みについて、少しご紹介します。祭りの運営を主に行うのは「富岡八幡宮神輿総代連合会」です。
各町から選ばれた約
330名の「総代」によって組織され、神輿巡行を計画し、警察などの調整を行い、安全な巡行を管理します。一方、
各町で組織される「祭礼委員会」は、神酒所の設営や管理、食料・飲料水の配給、神輿巡行の指導、予算管理などの実務を行います。
また町会青年部にあたる若手で組織された「睦(むつみ)会」も、次代の育成やお祭りの実行に大切な役割を果たしています。
このような会のため、総代や睦会の面々は揃いの半纏や浴衣をしつらえます。玄関に並んだ小粋な履き物に深川っ子の風情を感じます。
神輿の巡行には一基あたり300人以上の担ぎ手を必要とするため、町外から参加する神輿同好会などの協力も欠かせません。深川睦
をはじめ神輿同好会の方々へ、8月11日に行われる「町内渡御」、12日の「連合渡御」についてスケジュールや注意事項が説明されます。
三好2丁目
隅田川
清澄庭園
田巻町会長。三津田祭礼委員長。多賀祭礼副委員長。
空襲後の東京
三好2丁目
隅田川
清澄庭園
田巻町会長。三津田祭礼委員長。多賀祭礼副委員長。
空襲後の東京
清澄庭園は、江戸の豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷跡とい
われ、その広大な敷地を買い取った岩崎弥太郎により、明
治13年「深川親睦園」として開園しました。その後、関東
大震災(1923年)では避難所の役割を果たし、岩崎家か
ら東京市に寄贈された歴史があります。また1945年
3月
10日の大空襲では、下町を中心に推定
10万人以上が犠牲
となりました。三好周辺も火の海となり、隅田川に向かった
多くの方々が亡くなる一方、清澄庭園に逃げ込んだ人々は難
を逃れました。深川八幡祭りは、下町を襲った数々の天災・
人災による犠牲者への鎮魂をこめた祭りでもあります。
食文化ヒストリアン
ローマ遺跡と伊勢参り大原千晴
英国骨董おおはら
大きな地図を広げてみれば、イングランド西南端、大西洋に向かっ
て三角形の半島状に突き出てているのがコーンウォール。ここは
「地の果てに荒野広がる」というイメージで、そのすぐ東隣に位
置するのがデヴォン(郡)。その中心エクセターは、人
口
ほどの小都市ながら
、
世紀に創建されたノルマン様式の見事な
教会が名高く、さかのぼれば、古代ケルト人の足跡が残り、紀元
前3世紀半ばからは地中海交易の拠点ともなっていくという、歴
史の集積の分厚い土地柄だ。
二十年ほど前、骨董銀器を調べる目的でロンドンから列車で4時
間ほどの、この町を訪ねたことがある。駅から目的の小さな博物
館に直行し、2時間ほど掛けてあれこれ調べる中で、地元の遺跡
から見つかったという古代ローマ時代の銀器の僅かな展示が印象
にのこった。博物館の調べを終えた後は簡単なパンフレットを手
に、町の探訪コースを歩いてみた。
まずは、壮麗堅固なノルマン様式
の教会、ハイストリート(中心商
店街)、川の河口付近に作られた
ヨットハーバー。そして最後に、
古代ローマの遺跡を整備したとい
う、歴史公園にたどり着いた。
自然の林の中を縫うように作られ
たその散策路を歩いていくと、目
前に地面から十数メートル高さに
まで、崖の土中にレンガのような
石が積み重ねられている一角に至
る。西暦五十五年頃、古代ローマ
人が築いた城壁の遺跡だ。六月末
の初夏を思わせる快晴で、一帯に
はキラキラと木漏れ日が降り注い
でいる。その枝葉をわずかに揺ら
す風が心地よく、静まり返った林には誰一人、人影を見ない。たっ
た一人の訪問者である私は、ごく当然の事のように二千年の時を
耐えてきた城壁にそっと手を触れてみた。するとその瞬間、ある
独特の空気に体全身が包まれる思いがした。それは、伊勢神宮内
宮の奥や、北九州宗像大社の奥など、日本の古層につながる歴史
ある社(やしろ)の、その境内を包む自然の中に身をおいた時に
感じる、独特の感覚に通じるものだった。
星た
ち☆第 16回
「清浄にして神聖」という特別な場所だけが生み出す空気感。
そ
こに身を包まれると、ごく自然に、かつて同じ場所に立ってい
た
であろう古代の人々と感覚を共有していると感じる。それに
し
ても、ヤマトの国からはるか離れたイングランド南西部のエク
セ
ター林の中で、日本の社と同じような感覚に包まれるとは。不
思
議、というほかはない
。
ところで、このエクセターの城壁が作られてから十四年後の西暦
きら卓上の
12
11
万人
※ヘロドトス
※内藤湖南
※宮崎市定
七十九年八月、ベズビオ火山の大噴火によって南イタリアのポンペイ一帯は
一瞬にして火山流に飲み込まれ、以後千八百年近くに渡って眠り続けること
になる。そのポンペイの隣町といっていいボスコレアーレという土地からは、
膨大な量の銀器が見つかっている。二千年近くに渡って地中にあり、真っ黒
な石の塊のような状態で発掘されたものだ。しかし、時間を掛けて丁寧にそ
の表面を洗い浄めていくと、その黒い塊は元の姿を取り戻していく。地中で
二千年を経た銀器が往年の輝きを取り戻し、銀器工房から前日運び込まれた
ばかりのような姿を取戻していく。どれほど表面が変色していようとも、内
部にまで腐食が至ることは、めったにない。銀が金と並んで「貴金属」の一
角を占めている要因のひとつだ。こうして元の姿を取り戻した銀器のほとん
どは銀の食器だった。
一方、エクセターの博物館に飾られていた僅かな数の古代ローマ銀器。ほぼ
同じ時期、南イタリアのボスコレアーレでは、写真のように驚くべき水準の
銀食器が大量に使われていたわけだ。エクセターではボスコレアーレほど凄
い銀器が出ているわけではない。が、このイングランドの島国の果てにあっ
ても、「銀の食器を使って食事をするロー
マ人」という、ボスコレアーレに共通す
るライフスタイルを営んでいた人間が、
間違いなくその時代に存在した。発掘さ
れた銀器を通して、そんなことが見えて
くる。骨董銀器の世界を追いかける面白
さの一端がここにある。
そうなのだ。銀器は既に今から二千年も
前から、食器として存在していたのだ。
このローマ人の文明の広がりが凄い。現
在の地名で表すならば、南は北アフリカ
の地中海沿岸全域、西はスペイン、東は
シリアのパルミラ、北はイングランド北
部まで。この広大な帝国の領域では、エ
クセターの小さな遺跡同様に、古代ローマの銀食器が発掘され続けている。
さらに、食器もしくは飲食器としての銀器の歴史を遡っていくと、古代地中
海キクラデス諸島の遺跡から発掘された、紀元前二千六百年頃と推定される
銀の皿その他一式の銀器にたどりつく。今から約五千年前に作られた銀器だ。
その中には、現在の我々から見ても、なかなかおしゃれな意匠のものがあり、
これを実際に間近に見れば、人間が手で造り上げる工芸品については、五千
年前の昔も現在も大差ないと感じるようになる。「我々は歴史上、人類進歩
の最先端にいる」などという思考は、馬鹿げた思い上がりに過ぎないと思い
始めるはずだ。そしてこの心境にいたれば、二千数百年前に書かれたヘロド
トスの『歴史』を読むときも、内藤湖南や宮崎市定の言葉と同じように、一
人の人間が語る言葉として、素直に耳に入ってくるようになるから不思議だ
。
世界最初の歴史書といわれる『歴史』
全
9
巻を記した古代ギリシャ人
。
秋田出身の戦前を代表する中国史学者。邪馬台国論争でも知られる
。
内藤に師事した東洋史学者。インド、イスラム、ヨーロッパ文明まで
を網羅した広域な研究を行った。
江東区三好地区集会所
2012 _8_1(wed.)19:00〜
三好2丁目最終祭礼委員会
江東区三好地区集会所
2012 _8_1(wed.)19:00〜
三好2丁目最終祭礼委員会
祭りを10日後に控えた 8月1日。三好の集会場で祭礼委員会の最終打ち合わせが行われました。総代たちも資料の整理に追われます。
祭礼委員会・各班の責任者から報告が行われます。会計・用度・配給・
伝令・救護・接待などを町の方々が分担しています。最後は一本締め。
▲ 用度(物資供給)の責任者・鈴木さん。
▲ 大神輿指導班・会計の責任者・高橋さん。
▲ 山車係の責任者・岡野さん。
▲ 滑川総代から日程の詳細を説明。
2012 _8_8(wed.)〜 8_10(fr i.)
神酒所・お仮小屋の設営
2012 _8_8(wed.)〜 8_10(fr i.)
神酒所・お仮小屋の設営
祭りまであと数日。鳶(とび)職と町会が協力し、神酒所(神様をまつる場所)とお仮小屋(御神輿を安置する場所)を建てます。
お仮小屋の骨組みの接合部には針金を使い、解体しやすいように組まれていました。屋根は一般の住宅とほぼ同じ手順で作り、一番手間をかけるそうです。仮設トイレの土台や流し台も設置します。お仮小屋の骨組みの接合部には針金を使い、解体しやすいように組まれていました。屋根は一般の住宅とほぼ同じ手順で作り、一番手間をかけるそうです。仮設トイレの土台や流し台も設置します。
▼ 山車係の青木さんも電気設備の現役に復帰。祭り用の配電盤です。▼ 神酒所に欠かせない紅白の幕。平日にも関わらず多くの人が集まります。
炎天下に町内の各所をまわり、総代たちの作成した計画書にしたがって「駐車禁止」の知らせを掲示していきます。スムースで安全なお神輿巡行のため、地味ですが最も大切な仕事のひとつです。
▼ 山車係の青木さんも電気設備の現役に復帰。祭り用の配電盤です。▼ 神酒所に欠かせない紅白の幕。平日にも関わらず多くの人が集まります。
炎天下に町内の各所をまわり、総代たちの作成した計画書にしたがって「駐車禁止」の知らせを掲示していきます。スムースで安全なお神輿巡行のため、地味ですが最も大切な仕事のひとつです。
松田修展「ニコイチ」2012年8月4日〜9月8日
「異なるものふたつから完成品をひとつ仕上げる」こ
とをテーマとした作品が展示されました。
2年ほど前、深川資料館通りにオープンした SNAC(無人島プロダクション /吾妻橋ダンスクロッシング)は、
アーティストの作品展やダンスパフォーマンスの企画を行っています。SNACのメンバー・加藤さん
とフォックスさんが三好 2丁目「睦会」に加わり、神酒所設営や交通整理などで活躍しました。
2012 _8_10(fr i.)
お神輿の飾付け
2012 _8_10(fr i.)
お神輿の飾付け
▼ 「神武東征」(神武天皇の大和征服神話)と思われる彫物。
「神輿備品倉庫」から大人神輿と子神輿の2基をおろし、神酒所まで慎重に運びます。
▲ お神輿の金属パーツは、磨き粉で丁寧にみがいておきます。
▲ 総代たちは作業の合間をぬって各町の神酒所へ挨拶まわり。
▲ 大切な手彫りの「駒番」が出来上がりました。三好 2丁目は 38番。
▲ 神酒所の祭壇も急ピッチで準備中。記録写真を参考にして飾ります。
▲ 玄関先でサカキの準備。呉服店では祭り用品が飛ぶように売れます。
▲ 「蕨手(わらびて)」など金属パーツを取り付けていきます。
▲ お神輿の金属パーツは、磨き粉で丁寧にみがいておきます。
▲ 総代たちは作業の合間をぬって各町の神酒所へ挨拶まわり。
▲ 大切な手彫りの「駒番」が出来上がりました。三好 2丁目は 38番。
▲ 神酒所の祭壇も急ピッチで準備中。記録写真を参考にして飾ります。
▲ 玄関先でサカキの準備。呉服店では祭り用品が飛ぶように売れます。
▲ 「蕨手(わらびて)」など金属パーツを取り付けていきます。
江戸時代の山車「富岡八幡宮の御祭
神と深川八幡祭り」松本伸也著より
江戸時代の山車「富岡八幡宮の御祭
神と深川八幡祭り」松本伸也著より
山車は、深川八幡祭りのルーツを伝えています。
お神輿とはべつの倉庫から山車を出します。江戸〜明治初期の
深川八幡祭りは、各町の山車を中心とした祭りでした。電線や
市電の架線などで背の高い山車の運行が難しくなり、お神輿へ
と徐々に変化し、明治
40年頃に今の姿になったといわれます。
▼ 深川八幡祭り用の素地の麻ナワを使って神輿を締め込みます。必要な長さは、ヒロ( 大人が両手を一杯に広げた長さ≒1.5〜1.8m )で測っていました。
「霊岸島の頭(れいがんじまのかしら)」と呼ばれる鳶の頭・成田さん(右写真)を中心に、お神輿の飾り付けが行われます。成田さんは霊岸島(いま
の中央区新川)を拠点として10代つづく江戸時代からの鳶職で、三好周辺の町会の神酒所設営やお神輿の飾り付けを代々手掛けてきました。
▲ 屋根の鳳凰を中心にして、ナワを四方に巻き付けていきます。
屋根の四方に突きだした「蕨手(わらびて)」に麻ナワを巻き、担ぎ棒に南京結びをしてから、四方のナワを4人でいっせいに引き、きつ
く締め付けます。担いだ時に上下・左右に大きくゆすっても分解しないのは、このナワによって胴と屋根を連結しているからだそうです。
麻ナワを隠すようにして「飾り紐」を結びます。次に横方向の担ぎ棒を連結します。麻ナワを巻き、木槌を上手
に使ってぎりぎりと締め上げます。ナワがゆるくなると巡行に差しさわるため、念入りに作業を進めていました。
素地の麻ナワに水を掛けることで、水を含んだナワが固まって強度を増します。
隅田川の対岸・霊岸島の鳶職が、三好周辺の祭りを手伝うのはなぜでしょうか? 三好
2丁目の近く深川資料
館通に面した霊巌寺(れいがんじ)は、元々霊岸島にありましたが、明暦の大火(1657)により焼失し現在地
に移転しました。広大な敷地を与えられた霊巌寺は江戸の名所となり、かつて葦の原だった三好周辺は門前町
として発展していきます。数百年に渡ってつづく霊岸島・鳶職との縁は、こうした歴史を物語っているのです。
富岡八幡宮の神主が各町をまわり、お神輿の「御霊入れ」を行います。これによってお神輿は神様の宿る社となります。お神輿は、神社の本殿をミニチュア化したものともいわれています。
勇壮な「葵(あおい)太鼓」(代表・滑川智大さん)の演奏のあと、町会婦人部の準備による前夜祭(神酒所開き)がひらかれました。明日(8月
11日)からいよいよ深川八幡祭りが始まります。
工
BC工房主人鈴木惠三
グリコな生活
暑い日々の「甘い生活」は熱き闘いだ。
糖尿病の告知から5ヶ月。
「甘い生活」からの脱却。そして「温泉生活」と「野菜生活」
を実践する日々。
体調はすこぶる良くなっている。
「甘い生活」からの脱却はいいのだが、
逃げても逃げてもチラつくのは「甘い誘惑」?
夏といえば、アイスクリーム!
オイラは「あづきモナカ」が大好物なのだ。
こんな暑い夏には、毎日でも「アイス生活」がしたい。
ついつい「甘い誘惑」に負けそうになる。
そんな時に
「
のアイスクリームがありますョ」
甘くささやいてくれた可愛い女性がいた。
糖尿病の食事も指導してくれる栄養士さんで
ある。
「あまりムリしないで、好きなものを少しは食
べてもいいですョ」などと、
甘いコトバで、オイラのキモチをゆさぶる。
グリコの「カロリーコントロールアイス」の抹茶あずきモ
ナカは
、
とおどろきの低カロリーである。
セブンイレブンにはない、が、ローソンにはある。
ダイエーにはない、が、サンドラッグにはある。
この8月は
、
コも買い溜めして「1日1アイス」で、
暑い日々をのりこえた。
グリコのアイスに救われた
8月だ。
感謝、感謝
「甘い生活」の「甘い性格」の人間にぴったりの低カロリー
商品開発は人類を救う。
インドや中国で糖尿病がそろそろ大量発生しそうだ。
この人口2大大国で糖尿病がふえたら、食糧問題の中味が
変わるだろう。日本の低カロリー食品メーカーは、自動車
産業に変わって、輸出産業の花形になるかもしれない?
というわけで、この夏は「グリコの生活」で、
おおいに楽しませてもらった。
80
K
cal
30
80
K
cal
ご鳳輦2012 _8_11(sat.)
神幸祭 鳳輦渡御
ご鳳輦2012 _8_11(sat.)
神幸祭 鳳輦渡御
8月
11日早朝。富岡八幡宮(門前仲町)に総代たちが集合し、成功を祈願してのお参りです。富岡八幡宮からは「ご鳳輦(ほうれん)」が出発して、氏子たちの町内を約
60km巡幸します。
社務所からあらわれた神職たちによって、ご鳳輦に向かい祝詞をささげ八幡宮の神様を遷す「鳳輦降神祭」が行われました。
鳳輦渡御のトラックが正面参道に並びます。先頭には猿田彦や神職が乗り、途中
12カ所で巫女による「富岡の舞」を奉奏します。
約60年ぶりに復活した「網代車」に富岡長子宮司代務者が乗車しました。昭和
5年に作られ戦災を逃れた輿車です。東京大空襲の後、昭和天皇はここを訪れ深川の惨状をご覧になっています。
2012 _8_11(sat.)
町内神輿巡行
祭りの初日は各町内でお神輿の巡行を行います。集合した担ぎ手に、神輿指導班をつとめる睦会の高橋さん、青木さんからスケジュールや注意事項が伝えられ、 1本締めからスタートします。
▼ ねぶたの本場青森からやってきたゲストにあたたかな拍手。
2012 _8_11(sat.)
町内神輿巡行
祭りの初日は各町内でお神輿の巡行を行います。集合した担ぎ手に、神輿指導班をつとめる睦会の高橋さん、青木さんからスケジュールや注意事項が伝えられ、 1本締めからスタートします。
▼ ねぶたの本場青森からやってきたゲストにあたたかな拍手。
三好2丁目の町内巡行は、大人神輿、子神輿、山車で構成されています。山車は幼児、子神輿は小学校中学年位までが対象で、後進の育成に欠かせない子神輿には特に力を入れています。三好2丁目の町内巡行は、大人神輿、子神輿、山車で構成されています。山車は幼児、子神輿は小学校中学年位までが対象で、後進の育成に欠かせない子神輿には特に力を入れています。
お祭りのベテラン達で構成された山車係。やっと歩けるようになった小さな子も多いので、安全第一を心がけているそうです。
子ども達は神輿の飾りつけに興味津々。他の町会からも子神輿の担ぎ手がやってきます。
総代・田巻町会長の拍子木でスタートします。神輿を担ぐ衣裳は、白のハンダコに白のダボシャツ、白の地下足袋と決まっています。
お仮小屋からお神輿をひきだし、いよいよ祭りの本番です。屋根に掲げられた駒番は、12日に行われる「連合渡御」の際の順番を示しています。祭りのたびに作り替えられ、最も功績のあった方に寄贈されます。
▼ 先頭にたつのは、富岡八幡宮神輿総代連合会・山形副幹事長。
▼ お神輿の後ろに付くリアカー。脚となる「馬」や備品を積んでいます。
総代や交通整理担当がお神輿の前を走り、ロープを使って道を確保します。交差点や車とすれ違うときは特に注意して規制を行います。
勇壮な水掛で知られる祭りだけに、子どもたちにも容赦ありません。子神輿は
100kgほどあり子神輿係(責任者・池永さん)が前後を支えます。水しぶきをはね返し、大人顔負けの力強い「さしあげ」。
お神輿は深川資料館館通りに入りました。小さな子どもたちは山車のロープを引きながら、お祭りの空気をからだで感じているようです。
各総代の家の前で小休止。飲み物とともに、おでん、どら焼き、きな粉もち、ソーメンなどが振る舞われます。炎天下の祭りだけに、こまめな水分補給は欠かせません。ただし巡行中のアルコールは禁止されています。各総代の家の前で小休止。飲み物とともに、おでん、どら焼き、きな粉もち、ソーメンなどが振る舞われます。炎天下の祭りだけに、こまめな水分補給は欠かせません。ただし巡行中のアルコールは禁止されています。
霊巌寺の寺町として発展した三好には、浄土宗の寺院
が16カ所もあります。そのひとつ雲光院は、優れた才
能で家康をサポートした阿茶局(あちゃのつぼね)の発
願により創建され、天和3年(1683)この地に移転し
たといわれます。
霊巌寺の寺町として発展した三好には、浄土宗の寺院
が16カ所もあります。そのひとつ雲光院は、優れた才
能で家康をサポートした阿茶局(あちゃのつぼね)の発
願により創建され、天和3年(1683)この地に移転し
たといわれます。
三好1丁目の成等院には「紀文」と呼ばれた江戸の豪商・紀伊
国屋文左衛門の墓所があります。材木商として莫大な財をなし
た紀文は富岡八幡宮に
3基の神輿を寄贈。それは関東大震災
で焼失するまで本社神輿として担がれていたといわれています。
昼食や子どもたちに配るお菓子の用意などで、婦人部はいつも大忙しです。神輿の巡行に婦人部や配給班の存在は欠かせません。副町会長・鈴木さんも、おでんのおすそ分けで一息。昼食や子どもたちに配るお菓子の用意などで、婦人部はいつも大忙しです。神輿の巡行に婦人部や配給班の存在は欠かせません。副町会長・鈴木さんも、おでんのおすそ分けで一息。
本多総代は、潮江院という寺院のご住職です。「かつては霊巌寺をは
じめとする寺院関係者もお神輿の巡行に皆で協力していたはず。そ
の志を継ぎたいという思いから総代になりました」といいます。
本多総代は、潮江院という寺院のご住職です。「かつては霊巌寺をは
じめとする寺院関係者もお神輿の巡行に皆で協力していたはず。そ
の志を継ぎたいという思いから総代になりました」といいます。
町会の境で白河 2丁目のお神輿と出会いました。清澄橋通りに面した白河地区は、霊巌寺を庇護した老中・松平定信(白河藩主)にちなんだ地名です。定信は「寛政の改革」で知られています。町会の境で白河 2丁目のお神輿と出会いました。清澄橋通りに面した白河地区は、霊巌寺を庇護した老中・松平定信(白河藩主)にちなんだ地名です。定信は「寛政の改革」で知られています。
▼白河 1丁目には、銚子からくる干鰯(干した
イワシ)を荷揚げした「干鰯荷揚場(銚子場)」
の跡があります。干鰯(ほしか)は野菜畑の肥
料となり、江戸庶民の生活を支えました。
▼江戸の暮らしを体感できる「深川江戸資料館」。
商店や長屋、船宿などが再現され、司馬遼太郎も
「街道をゆく」(本所深川)で紹介しています。
交差点で、白河
2丁目と三好
2丁目の交歓会が行われます。白河のお神輿の先頭を、三好の総代が担ぎ(白河はその逆)、お神輿を寄せ合いながら、お互いの健闘を称えます。
お昼過ぎ、鳳輦(ほうれん)渡御のトラックが三好地区にもやってきました。鉢巻きをとって、皆で鳳輦を見送ります。三好
1丁目で一端止まり、鳳輦に向かい「富岡の舞」が奉奏されました。
子神輿の一行が神酒所に戻り、西崎総代提供のところてんに舌鼓。子神輿の巡行が終ると、子どもたちはお目当てのお菓子に一目散に駆け寄ります。
山車に乗りながら、一日中お囃子の演奏を続けた「美よ志会」の方々。リーダーは滑川総代の同窓生です。神酒所で行われた獅子舞の演奏で、フィナーレを盛り上げました。
神酒所の近くにて、自宅前に写真を掲示して祭りの歴史を伝える方がいました。昭和
5年、お神輿の列を先導する「手古舞(てこまい)」
は、男装した深川の辰巳芸者がつとめました。羽織を着た男まさりな辰巳芸者は、深川の気っ風を象徴する誇り高き存在でした。
「世界遺産となった平泉が先
頭にたって、東北の復興に寄
与していきたい」と菅原町長。
平泉のお神輿は今回、三好
2丁目の後ろにつくことにな
りました。
▼ 津波による甚大な被害で、お神輿を流された岩手県・山田
町。担ぎ手たちが招待され、テレビ局の取材を受けていました。
夕方、古石場文化センターで開かれた「平泉の担ぎ手歓迎会」に総代達が向かいました。今回、世界遺産登録を記念して平泉のお神輿がゲスト参加。300人以上の担ぎ手が東京にやってきました。
[ 残 像 ]
ずもない。
今でも夏の終わりになると必ず思い出す。
カイトはエントランスを見つめる。ガラスの向こう。月桂樹の葉先
祭りの日。振りほどいた夏姫の白い腕を。
に光が踊る。通りのアスファルトが蜃気楼に揺れている。そのぼ
んやりとした風景の中に … 唐突に現れる一人の女。
[ 過去からの使者 ]
カレン …… ?
「外線 3番です」オペレーターの声。嫌な予感がする。手の中の
夏
それでも地球は
♯
10
カイ
ト
Ⅱ
子機。点滅する赤いライトを見つめる。月曜日の昼過ぎ。同僚た
ちが忙しそうに歩きまわるフロア。「はい。赤坂デザインワークス
です」「 ……・ 」「もしもし? 」「カイト? 」女の声。腕に鳥肌が
立つ。その声の持ち主を頭が認識する前に体が反応した。
「 …… 」「カイト? 」「カレン?」「うん」「よくここが分かったな 」「ウ
サギさんとグリに聞いた」「そっか」「今、大丈夫 ? 」「ああ、いい
[ 薄い空気 ]
ワンピースに羽織った薄いカーディガン。カレンは白く淡い残像を
残すようにカイトの前に立つ。
「久しぶり」「ああ」「どうしたの ?」白い肌、美しい鼻梁、大きな
目も変わらない。しかしあの時とは明らかに違う。目の前のカレン。
どこか日本人離れした雰囲気。体にまとった剣呑なオーラ。カイ
トはネクタイを緩めると無理やり笑顔を作った。「いや。きれいに
よ…いや、携帯から折り返す」「うん」「番号教えて 」窓の外。神
終わりの
宮外苑のイチョウ並木。風のない青い空。不吉なほど雲のない青
い空。
カフェのテラス席。カイトはアイスコーヒーを注文すると背の低い
ラウンジチェアに深く腰をかけた。マルボロに火を付ける。
カレン…… 。高校を卒業して以来 …… 頭の中で計算する。7年
にもなるのか。しかし、あの忌まわしい夏がカイトの頭から離れる
事はなかった。一時でも。コーヒーに口を付けて、すぐに顔をし
かめる。そうだ。努力はしてきたんだ。でも。…… 忘れられるは
野田 豪(AREA)
なったなと思って」「そう? 」そうか。表情だ。中学を卒業して以
来、無邪気な笑顔が消えている。記憶とのギャップ、圧倒的な違
和感はそこから来ているのだろう。「元気だった ?」「うん」「そうか」
「カイトは ?」「見た目通り」「黒いね。まだ波乗りしてるんだ」「ああ。
地元じゃなくて千葉の方だけど」「そう」沈黙。店の BGMが遠の
いていく錯覚。時間が薄く引き伸ばされて空気が希薄になってい
回ってる
「夏姫」
く。「ねぇ、カイト」ささやくような声。「自殺じゃなかった」「え?」
[ 二 人 ]coe[ 二 人 ]coe
[ 反 芻 ]
カイトの携帯に残された夏姫の最後のメール。
あの道はどこに続くんだっけ。
夕陽に照らされた路地の突き当たり。
右は行き止まり。それは知ってる。
左に行けば ?どこに出るんだっけ。
思い出せないな。
でも … うん。… 誰かと手をつないであの左の道の先に行きたいな。
ねぇ? … カイト … 。一緒に行こうよ。
ねぇ? … カイト … 。手を握って大丈夫だって言ってよ。
ねぇ …… カイト … 。あのね …。
………… たすけて。
[ 運命のフラッシュ ]
世界史の授業中。教室に飛び込んできた学年主任。「死んだ ? 」担
任の声。自分の声がもたらす影響にすぐ気付き、自分の口を押さえる。
しかし… 生徒は聞き逃さない。ざわつく教室。クラスメイトが騒ぎ
始める。「どうしたんですか ー ?」「今、死んだって言わなかった ? 」
「え、誰が ? 」「まじで ? 」「誰誰 ? 」カイトの右後ろ。椅子が後ろ
に倒れる音。カレンが立ち上がっている。皆の目がカレンに向けられ
る。口を手で覆って、目を見開いて。脚が大きく震えて。カレンの
… この表情 … 予感 ……? カイトの目が細められ、ゆっくりと斜
め下に流れる。次の瞬間。頭を後ろから殴られたような衝撃と直観。
ああ、そうだ。間違いない。欠席中。空白の席に目を向ける。
「夏姫 ?」カレンの小さな震える声。一瞬教室が静まり返る。息を
のむ生徒たち。そして静寂は破裂する。一気に騒然とする教室。
カイトが倒れ込むカレンに飛びつくようにして彼女の体を支える。
真っ青な顔。それを待っていたかのように。カイトの制服。ポケッ
トの携帯が不吉に震え始める。二度目の直観。ほぼ確信する。ポ
ケットから取り出す。夏姫からのメッセージ。今 ?いや違う。サー
バーのタイムラグ。遅れて来たメッセージ。カイトの腕の中でカレ
ンが呟く。「私のせいだ。私のせいだ。私のせいだ」
「違う。ハルカ。
違うよっ」カレンが不規則に痙攣する。ショック状態だ。ハルカ違
う。あの夏祭り、彼女を救えたのは、俺だったんだ。担任が声を
張り上げている。席に着きなさい、まだはっきりした事は分からな
いっ。違う、違う、違う。俺たちには分かる。間違いない。夏姫
はもう …… 。
「カイト」「うん」「クロだよ」「うん」「付き合って 」「……分かった」
「ごめんね」「いや、いいんだ。いつかこういう日が来るって … 」
分かってたんだ。だから … いいんだ。
▼ 西崎総代の会社(ニシザキ工芸)。お神輿を担ぐため、前夜から
泊り込んだスタッフたちも、暗いうちから容赦なく起こされます。
深川の町が最も早く目覚めるとき。それは富岡八幡祭りの本番
ともいえる「神輿連合渡御」の朝です。8月12日(日)4時頃。
前夜はしゃいだ若者たちも目をこすりながら準備を始めます。
▲ 11日の夜。町のあちこちでパーティがひらかれます。お祭りを機
会に深川育ちの人たちも沢山やってきます。
▲先輩が粋な着付けを伝授。
2012 _8_12(sun.)
各町神輿連合渡御
婦人部も集合し、おにぎりやお茶を用意します。おにぎりを頬張りながら担当ごとに集まって、スケジュールや役割分担を最終チェック。婦人部も集合し、おにぎりやお茶を用意します。おにぎりを頬張りながら担当ごとに集まって、スケジュールや役割分担を最終チェック。
▲三津田委員長の発案により、東北へ向け黙祷をささげました。
創立約 40年の葵太鼓が、神酒所前で勇壮な出陣太鼓を披露します。富岡八幡宮のイベントに欠かせない葵太鼓は、三好 2丁目との縁も深く、震災復興支援のチャリティー演奏を頻繁に行っています。
▲三好 2丁目の後ろから来た「平泉」に熱い声援が送られます。
▼お神輿を送りだした葵太鼓は、大急ぎで富岡八幡宮に移動。
▲救急箱等リアカーの備品を入念にチェックして送り出します。婦人
部や神酒所詰め担当は、神酒所を守りながら神輿の帰りを待ちます。
木更木橋のたもとに、神輿総代連合会「六部会」(三好、白河、平野、清澄)に所属する11基
+平泉のお神輿が一直線に集結します。順番通りに並ぶため、各町が協力し到着時間をコントロールします。
富岡八幡宮神輿総代連合会 総代の心得 1)秩序を守り整然と祭りを行う。 2)伝統を大切にして後世に伝える。 3)他人に迷惑をかけず、事故のない渡御を行う。 4)酒を慎しむ。 5)他町と同調し無用の競合を避ける。
こうした心得をもって総代の大役を果たすため、六部会は月に一度の会合を毎年欠かさず続けることで、総代同士の信頼と親密感を高めています。連合会には各町を束ねた1〜7部会があります。
六部会の総代が円陣となり、
渡御の安全を祈って一本締め。
▲お神輿が出発し、町に静寂が戻ります。交通警備担当の総代は、
お神輿の障害になるものがないか見回りを続けていました。
永代通りを全面通行止めにして、総勢 55基のお神輿が集結し出発に備えます。出発時に富岡八幡宮前で大きな盛塩を踏みます。
永代通り、三好 2 丁目の集
合場所の近くには「東海道四谷
怪談」で知られる江戸時代の
脚本家・四代目 鶴屋南北の住
居跡(黒船稲荷神社)がありま
す。今も多くの演劇人に影響を
与え「鶴屋南北戯曲賞」にその
名をとどめています。
▼ 東北美人の揃った平泉のお
神輿。神輿に水をかける所に、
深川との共通点もあります。
三好 2丁目の配給車が、お神輿を先回り。まだ眠気の覚めない担ぎ手たちをサポートします。
▲
白河
3丁目の神輿に同行していたのは、室町時代から
500年以上続く塗師(ぬし)の家柄で、神輿修復を手掛
ける藤戸伸治さん。数百点あるパーツを分解し、補修して
漆を塗るという気の遠くなるような仕事です。今年は白河
3丁目の神輿を修復し、段を追加して背を高くしたそうで
す。三好2丁目と同じく後藤直光作で、彫刻がそっくりです。
深川のお神輿は他に浅子周慶作が多く、大半は空襲で焼
けたため、各町が競うように復興を進めました。
8時過ぎ、いよいよお神輿の出発。8km以上の渡御を行う長い一日がはじまりました。出だしから猛烈な水掛けに見舞われます。
▲ 「江戸名所絵図」(1836)にも描かれた伊勢屋にちょっと寄り道。
▲ 葵太鼓は富岡八幡宮の鳥居前で、お神輿を送り出していました。▲ 交通量の多い普段の永代通り。今日だけはお神輿が占領です。
木場の旦那衆に支えられていた「下木
場」の神酒所は、橋の上から川に付き
だすように経っています。戦後の昭和
26年
8月13日、復興第1号の神輿
を完成させ、浅草から筏に載せて隅田
川を下り、富岡八幡宮に担ぎ込みニュー
スとなりました。その記録写真を解説
とともに神酒所に展示。今回は
55番
のトリをつとめます。
木場で生まれた山東京伝(さ
んとうきょうでん)は「黄表紙」
などの絵と文章を自在に描い
たマルチクリエーターの元祖。
黄表紙は、滑稽話や怪談、好
色物、SF、歴史物など、世間
を茶にした奔放なストーリー
を表現し、江戸文化の成熟ぶ
りを伝える「大人の絵本」です。
山東京伝は、松平定信による
寛政の改革で手ぐさり
50日
の刑を受けますが、創作意欲
は衰えませんでした。
▼ 三好2丁目の先頭は、花笠をかぶった有志がひっぱります。
▼ 扇橋小学校の子どもたちが、アナウンスでお神輿を紹介。
石島の扇橋小学校に見物席が設けられていました。三好 2丁目・有志の方も知合いとバッタリ。祭りには思わぬ再会があります。
▼ 地元・深川資料館通りに戻って小休止。あたたかな声援が迎えます。
▼ 通りに事務所をかまえるデザイナー・松岡智之さんも水掛に参加。
大川(隅田川)にかかる清洲橋を渡ると中央区に入ります。
平泉の一行は、深川への感謝を掲げながら渡御します。
▲ 箱崎で首都高をくぐります。お神輿と高速道路のコントラスト。
▲ 300人分の昼食を配る配給班も大忙し。交通規制のなか時間通
りに届けるのは大変な仕事です。弁当は全て冷凍保存され炎天下で
の安全性を高めています。
▼ お神輿の前を走り回り、道路状況を知らせる伝令係
の藤本さん。携帯があっても伝令は欠かせないとのこと。
霊岸島の交差点(中央区・新川)で大休止。火
災により深川に移転する前の霊巖寺(れいがんじ)
があった場所です。深川のお神輿が隅田川を渡る
ことは、祭りが始まった当時(1640年代)から
続く慣例でした。かつて霊岸島の開発に寄与した
霊巖寺(1624創建)と、対岸の深川開発を促進
した富岡八幡宮(1627創建)とのつながりは、
江戸沿岸部の開拓史とも大きく関わっています。
干拓地に寺や神社を誘致して開発を進めるという
幕府の計画は、現在のお台場を思わせます。
大休止で力をつけ、祭りのクライマックス・永代橋へ。明正小学校前からは、六部会による「金棒曳き」がお神輿を先導します。
文化
4年(1807)。喧嘩によって
12年間中止された八幡祭りが復活し、見物客でごったがえした永代橋が崩落。
1,000人以上が犠牲になったといわれます。この事故は多くの書物に記録され、江戸時代の祭りの様子を伝
える貴重な史料となっています。現在の橋は大正15年、関東大震災復興事業の第一号として架けられました。
水を吸ったお神輿はアメ色に染まり、
水掛祭り特有の、
木地本来の美しさが橋に映えます。
震災の早期復興を祈願した今回の八幡祭り。両陛下が富岡八幡宮を訪れ、東京大空襲の体験者と面談ののち、お神輿を楽しみました。三好
2丁目もぎりぎりで陛下のいらっしゃる時間に間に合いました。
出発地点に神輿が戻り、有志をはじめ婦人部や配給班、山車係、神酒所詰めの方々が、思いをこめて神輿を担ぎます。睦会長の高橋さんは、今年の祭りを楽しみにしていた父の姿を掲げていました。
▼ 長年の功績をたたえ、三津田祭礼委員長に駒番が授けられます。
2012 _8_26(sun.)
神酒開き 終りは次のはじまり
8月 26日。ホテルイースト 21東京で「神酒開き」が開かれ、祭りの思い出を語りあいました。霊岸島の頭・成田さんによる木遣りでフィナーレを迎えます。そして、次の祭りへの準備が始まります。
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