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時空にえがく美意識
http://collaj.jp/
8月号 月見月 2 012
ここをクリックすると進みます
Copyright . 2012 Shiong All rights reserved
白井晟一の唱
U T A
がきこえるin湯沢
時空にえがく美意識
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白井晟一の唱
U T A
がきこえるin湯沢
秋田特集第
2弾。今月は湯沢市から、白井晟一の建築をご案内します。
新庄駅で奥羽本線に乗り換え、
横堀駅で下車しました。
秋田は雪が深く、そのように人情もまた深いところと思う。秋田との交通も
もう数年になるが夢のように短かった。夜上野を発って暁方、汽車が山形
との境の峠を轟々と雄物川の平野へなだれおりると左手に鳥海がふるさと
の山のようになつかしく見える。
『おもいで』(1954) 白井晟一エッセイ集「無窓」(晶文社刊)から
上野から山形新幹線の終点・新庄(4月号で特集)へ。奥羽本線に乗り換え、
真室川、及位を過ぎ、古くははイザベラ・バードも難儀した「雄勝峠」を越え、
秋田・南部の玄関口、湯沢に入ります。1940〜50年代、湯沢を中心に活動し
た白井晟一が、夜汽車に乗って幾度となく通った道程です。
東鳥海山
新庄駅で奥羽本線に乗り換え、
横堀駅で下車しました。
秋田は雪が深く、そのように人情もまた深いところと思う。秋田との交通も
もう数年になるが夢のように短かった。夜上野を発って暁方、汽車が山形
との境の峠を轟々と雄物川の平野へなだれおりると左手に鳥海がふるさと
の山のようになつかしく見える。
『おもいで』(1954) 白井晟一エッセイ集「無窓」(晶文社刊)から
上野から山形新幹線の終点・新庄(4月号で特集)へ。奥羽本線に乗り換え、
真室川、及位を過ぎ、古くははイザベラ・バードも難儀した「雄勝峠」を越え、
秋田・南部の玄関口、湯沢に入ります。1940〜50年代、湯沢を中心に活動し
た白井晟一が、夜汽車に乗って幾度となく通った道程です。
東鳥海山
奥羽本線「横堀駅」から車で秋ノ宮温泉郷へ。秋田杉の
植林が田畑のそばから山頂まで広がり、車内にまで杉の香
りがただよってきそうです。秋ノ宮は「秋田」と「宮城」を
結ぶ街道の町で、温泉郷に向かう「仙秋サンライン」をさ
らに進むと、石巻や仙台へと抜けられます。
奥羽本線「横堀駅」から車で秋ノ宮温泉郷へ。秋田杉の
植林が田畑のそばから山頂まで広がり、車内にまで杉の香
りがただよってきそうです。秋ノ宮は「秋田」と「宮城」を
結ぶ街道の町で、温泉郷に向かう「仙秋サンライン」をさ
らに進むと、石巻や仙台へと抜けられます。
白井晟一作品のひとつ秋ノ宮の「稲住温泉」に到着しました。戦争中、この山深い旅館に家財を預けたことをきっかけに秋田との濃密な関係が築かれ、前期を代表する作品が次々と生まれました。
父の死後、近藤浩一路と生活を共にした若き白井晟一
は、京都の近藤宅を訪ねた近藤の同窓生・藤田嗣治を
はじめ、岸田劉生や中川一政と出会い、ヨーロッパの話
題に親しんだといわれています。
父の死後、近藤浩一路と生活を共にした若き白井晟一
は、京都の近藤宅を訪ねた近藤の同窓生・藤田嗣治を
はじめ、岸田劉生や中川一政と出会い、ヨーロッパの話
題に親しんだといわれています。
義兄(姉きよの夫)であり、育ての親ともいえる日本画家・近藤浩一路が、秋田
と白井晟一を結ぶきっかけとなりました。近藤の絵を扱う画商・旭谷正次郎(横
手出身)の紹介で
43歳の白井は文化講演会に呼ばれ、はじめて秋田を訪れます。
その席で依頼されたのが、秋田での第一作となる「羽後病院」でした。その工
事中に稲住温泉を訪れた白井は、当時のオーナー・押切永吉氏から旅館増築の
相談を受けます。そして当時の秋田にはないモダンな建物を、圧倒的なローコス
トで実現したのが「浮雲(うきぐも)」でした。押切氏は白井晟一の手腕を高く評
価し、秋ノ宮村役場の仕事を紹介します。ちなみに同じく旭谷正次郎の紹介で、
武者小路実篤は稲住温泉に疎開し、ここで終戦を迎えています(庭園にその記
念碑があります)。稲住温泉を訪れた白井晟一とも交遊をもっていたようです。
浮雲浮雲
チロル地方の山荘を思わせる「浮雲」(1952)。白井晟一の愛した栗材が窓枠や内装などに多用されています。竣工当時
2階は
54畳の和風大広間、1階はモダンなダンスホール、バー、卓球室などを備えた娯楽施設でした。
上は当時つくられた「浮雲」の絵葉書。ちなみにドイツ留学中の白井晟一とパリで親交をもった林芙美子の代表作「浮雲」が出版
されたのは、1951年のことでした。また白井の代表的エッセイ「めし」は林の絶筆となった小説「めし」の
5年後に書かれています。
このような僻陬の地にある温泉旅館には都会の人
のリゾオトを目標とする場合と、地元の人々のレジャ
アを対象とする場合と、それにこの二つを兼ねた
いという要求がある。(中略)「浮雲」はとにかくこ
んな省慮を計画の土台にして始められた。(中略)
旅館経営にとって建物は一番大きい資本であり、
その六割を投資しなければならぬそうである。訪
客の誘致のためには常に建物の趣好を新鮮にしな
ければならないが、この方針を営業的な意味で最
も的確につかんでいる経営者にとって、建物の本
質的な問題についての関心はない。(中略)この
建物の施主はこの地方きっての建築通であり、施
工者は不慣れな仕事をいとわず、誠実に責務を全
うした。しかしこの温泉ホテルの訪客にとって、ま
た経営者にとって果たして有用であり得たか、また
どのように不如意なものになるか、短い月日では分
からない。
『地方の建築』(1953) 「無窓」(晶文社刊)より
秋ノ宮村役場秋ノ宮村役場
白井晟一前期の代表作である「秋ノ宮村役場」(1951)は、道路拡張による解体の危機をのがれ稲住温泉に移築されました。積雪に配慮した軒の深い大屋根や、2階に張り出したバルコニーが特徴です。
トラスの角材には、丸鋸で製材した跡がのこっていました。旧秋ノ宮村役場
は現オーナーによって「友誼(ゆうぎ)館」と名づけられました。
現在
2階は卓球場に改装され、福原愛選手をはじめ一流卓球選手の合宿場ともなっています。天井のトラス構造や木製の
窓は当時のままに移築されていました。竣工当時は広い会議室の奥に畳敷き
8帖の談話室
2部屋がありました。竣工式の
スピーチで白井晟一は、村民も役人も上下なく「いつくしみ合う心」をもって接しあう場となることを期待すると述べています。
2階の正面には、優雅な曲線を描くバルコニーがあります。3本の柱は側面をすこし膨らませ、やせて見えない
ように配慮されていました。保守的な山村で、白井晟一の斬新なプランは容易に受け入れられなかったようです。
しかし白井の本意は、地域の伝統民家をモチーフにした、親しみやすく開かれた役場を建てることにありました。
右の写真は、湯沢市を代表する酒蔵「両関」。緩勾配の切り妻の大屋根などに秋ノ宮村役場との共通点が見られます。
一九五〇年の秋、村の民家にモチイフを得て、その年の初
冬から五一年の春、木の芽の萌える頃まで橇(そり)にのり、
ゴム靴をはいてこの労作に通った。嘲笑も悪罵も今ではほほ
えましい想い出となった。この建物もそれからもはや二度目
の冬をむかえようとしているが幸に所期の目的は達し得たと
思っている。雪深い秋田にもやがてはその風土自然に導かれ
るようなほのぼのとした建物が民衆を目標としてたくさんでき
るようになってくるように。渺たる寒村の役場にすぎないこの
小作だが、この地方の人々の将来にとってその希望をしめす
ささやかな道標ともなり得るならば望外のよろこびである。
『秋ノ宮村役場』(1952) 「無窓」(晶文社刊)より
急な螺旋を描いた階段。昇りやすい右側の方がすり減っています。急な螺旋を描いた階段。昇りやすい右側の方がすり減っています。
稲住温泉の現オーナから、秋ノ宮村役場移築・修繕の経緯や、
その維持の大変さをうかがいいました。村役場の役目を終え
てからは事務所などに転用され、すでに内装も変わっていた
ようです。道路拡張で取り壊し寸前だったものを前オーナー
が
20年ほど前に移築し、現オーナーにより卓球の合宿場な
どに利用するため改装されました。窓を二重にするなど、断熱・
積雪対策を施しているものの、オリジナルの部材を残し、必
要な時は当時のまま復元できるよう工夫されています。建物
を生きた状態で保存するための、ひとつの方法と感じました。
秋ノ宮村役場平面図
(竣工当時)
談話室
会議室
バルコニー
2階
事務室
村長室
土間階段
1階現代日本建築家全集 9白井晟一(三一書房刊)より
ローコストでも貧しくないもの、うつくしくてつよい
ものをつくれるのはどういうわけかときかれて何と
説明したらよいか。まあ材料の選択按配や工法の
工夫の一つ一つを探ってみるしかない。市場基準
をこえた部材断面の大きさ。垂木構造と軒出の
多い金属板葺の屋根。壁体の主張と開口面の収
斂等いろいろあるだろうね。もちろんそういうファ
クタァはいつの場合でも、日頃肉体化しているは
ずの造形理念に直結する。自分にとっては不断
で機敏なインスピレーションに支えられているもの
といえるだろうが、どんなささやかな仕事でも、そ
の成功、不成功は、それなりに自分の身体から
でて、こうした部分部分に通じる構想力内実の過
不足ない綜合が遂げられているかどうかということ
になる。創作工夫の真相ってこんなものではない
のか。
『建築に思う』 白井晟一インタビュー 聞き手・宮嶋圀夫
「白井晟一、建築を語る」(中央公論社刊)より
竣工当時の様子 撮影:間世潜竣工当時の様子 撮影:間世潜
Kenostein's Relativity
東北で感じたこと シリーズ 1ケノシュタインの相対性
小林 清泰
アーキテクチュアルデザイナー・ケノス代表
を訪れた。丘の上に建つ木造建築でコルビュジエのサボ
ア邸を思わせるようなシルエットはシンプルで美しい。
東北大学大学院環境科学科「Ecollab」
電気をバケツに溜め、テーブルで使う。
このラボでは、
日本デザインコンサルタント協会
(以下
JDCA)の総
・自然エネルギーを最大限に活用する技術
会が、今年は東北で行われた。7月
7日の創立に合
・新しいバッテリーを利用した社会実験の拠点
わせ、隔年で地方へ出掛けている(前回
2010年は
・ライフスタイルを低環境負荷に変えていく
フィールドミュージアム奈良遷都
1300年祭であっ
という3つのテーマを中心に様々な研究が行われている。
た)。今年はメンバー
10名と7月6、7日、被災
後はじめて宮城、岩手を中心に東北を回り、一ノ関
で締めくくりの総会を行った。毎年曜日に関わらず
この日が総会である。
JDCAメンバーには大学教授も多い。3.11以降、東
北復興のために素早く行動を起こした方も多い。そ
の一人である東京造形大学教授・増田先生の引率
で、東北大学大学院環境科学科が運営する「Ecollab」
地元の杉間伐材を活用した木造
2階建ての「Ecollab」
DC「DCライフスペース」。DC「DCライフスペース」。
それぞれのテーマは
21世紀型社会におけるライフ
スタイルの創造に向け、最終的にひとつに収斂する
だろう。「エネルギーの分散と自前がこれからのラ
イフスタイルの鍵」と提唱している私にとっても、
非常に共感出来るコンセプトである。
その中で特に興味を抱いたテーマは「新しいバッテ
リーを利用した社会実験」だ。その中心となるの
は、様々な方法で発電した微弱な電気を溜めるバケ
ツ(バッテリー)である。例えば「樋を流れる雨水
(直流)のまま家電機器を使用できる
トンボの羽の形状に学んだ、室内の微風でも回る風力発電機。
リチウムイオンバッテリー。カセット式の充電器から取り出して使う。
で超小型発電機を回し発電」したり、「トンボの羽
の形状に学んだ、風速
20センチというわずかな風
で回転する風車で発電」したり、「自転車にバッテ
リーを積み、小さな発電機で微弱電気を回収」、「エ
アロバイクによる発電」といった、微弱なエネル
ギーを丁寧にバケツに回収し、必要に応じて使用す
るシステムの研究である。この微弱な発電によって
「Ecollab」で使用する電気の約
10%をまかなってい
るという。そしてポータブルな小型バケツ(小型バッ
テリー)を持ち歩き携帯電話の非常用電源としたり、
「Ecollab」の一角にある「DCライフスペース」の
電源として活用していた。
「スマートグリッド社会のレポート」(2011年
7
〜
8月号)でもとり上げたが、発電して作られた
電流は元々
DC(直流)である。DCそのままで使え
ば、AC(交流)への変換ロスは発生しない。この
Ecollabでは屋上の太陽光発電パネルで作られた
DC
の電流を直接リチウムイオンバッテリーに送り込ん
で蓄えている。「DCライフスペース」では、パソコ
ンや
LED照明を、ダイレクトにバケツ(バッテリー)
につないで給電している。長いテーブルの下に「ポー
タブル型小型バッテリー」をカセット式でセットし、
逐次交換してゆく仕組みだ。
この試みの目的は、微弱な発電であっても自らエネ
ルギーを作り出し、その価値を知ることでライフス
タイルを低環境負荷に変えてゆく所にある。ちなみ
に携帯電話をフル充電するためにはエアロバイクを
何と
2時間!漕がなければならないのだそうだ。
昨年の東日本大震災では、この東北大学でも
20日
間以上、電力会社からの電気は供給されなかったと
のことで、仲間の安否や情報収集に欠かせない携帯
電話の電源等として、バッテリーが大きく役立った
とのことであった。
そもそもこのコンセプトが生まれたのは「90歳ヒア
リング」というプロジェクトかららしい。90歳の
方々といえば戦前の
1941年に
20歳、高度成長期
の
1960年頃には
40歳であった。特に東北地方で
は、自然の恵みをよく理解し、共生に必要なノウハ
▲ 「D Cライフスペース」のテーブルの下に備えられたカセット式の
バッテリー。壁から配線せずにパソコンなどをテーブルで使える。
▲ エアロバイクを2時間漕ぐと、やっと携帯電話をフル充電できる。
ウの宝庫ともいえる世代だ。今は失われつつある地
域の特性もよくご存じである。急がなければ近いう
ちに、その知識や情報を失ってしまうという問題意
識から、90歳ヒアリングがスタートし、研究のテー
マとなる様々な気付きを与えてくれたそうだ。
ある方は、「昔は水、燃料など暮らしに大切なもの
を近所で共有し、それがコミュニティーをつなげて
いた」という。その言葉を現代の暮らしに置き換え
れば「隣近所で発電設備やバッテリーを共有し、そ
れがコミュニティーをつなげていく」という構想も
も生まれる。例えば太陽光発電を行っているコミュ
ニティーの場合、自家使用量以上に作られた電気
を電力会社に売らずにコミュニティーでシェアし、
バッテリに貯めた電気を近所で貸し借りするという
システムの開発を目指している。昔、醤油を貸し借
りしていたようなイメージだ。既存の電力会社から
見れば、この自前のグリッドは脅威だろうが、私と
しては、この研究を大いに応援したい。発電キット
などが出れば率先して実行したいと考えている。
RAN TEI 嵐亭
一段上がった「次の間(控えの間)」によって、離れの個室らしさを演出しています。アーチ型の出入り口は、4室共に使われています。
RAN TEI 嵐亭
一段上がった「次の間(控えの間)」によって、離れの個室らしさを演出しています。アーチ型の出入り口は、4室共に使われています。
1959年、54歳の白井晟一は、稲住温泉の離れ 「嵐
」「.亭「漣亭「杉
亭(らんてい)、(かんてい)」、(れんてい)」、
亭(さんてい)」の 4室を設計しました。この年、秋
田では湯沢の「四同舎」(酒造会館)や「横手興生病
院」の増築をてがけ、その他にも「増田夫妻のアトリエ」
など、前期を代表する作品を生みだしています。
白井作品の住宅にあるモチーフを随所に使った離れ
は、4室ともに異なったをテーマを持ち、白井晟一の
居室空間に泊まれる貴重な場所となっています。
部屋に入ると、衝立を兼ねた床脇が視線をさ
えぎります。畳から生えたような太い磨き丸
太が印象的です。柱の先には床脇の形と呼
応するように、部屋の目玉となる木製デッキ
があります。斜めのラインを活かし、部屋の
広がりを演出しています。
4室の「離れ」を廊下でつなげるという、
当時としては画期的なプランになっています。
寝室
嵐亭
.亭
漣亭
杉亭4室の「離れ」を廊下でつなげるという、
当時としては画期的なプランになっています。
寝室
嵐亭
.亭
漣亭
杉亭
寝室となりの「茶室」。水屋の低い位置から採光をとることで、小さな部屋にシン
ボリックな印象を与えていました。上は棚と収納になっています。
寝室となりの「茶室」。水屋の低い位置から採光をとることで、小さな部屋にシン
ボリックな印象を与えていました。上は棚と収納になっています。
木製デッキの外観
KAN TEI .亭KAN TEI .亭
嵐亭の向かいにある「.亭」です。階段を
2段上がった所に簡素な木製ドアがあり、
開けると広々とした次の間。左手の入口は
寝室へ、右手は居間です。
カーペット敷きの土間から約
24.5cmの
段差を設け、左手の柵に翼のような角度
をつけて広がりを与えています。ちなみに
「.(かん)」には白いキジの意味がありま
す。柵の高さは土間から
84cmほど。厚
み約
4.5cmの横棧が
6本入っています。
磨き丸太は直径約
10cm。右手の横棧は
7本と左手より1本多いものの、厚みと
間隔を合わせています。障子を開けると、
居間をちらみせする効果もあります。
居間の床の間は「釣床」式になっています。床は畳のままにし
て、畳の幅
2枚分の所に「落とし掛」を設け、天井を低くしたり、
素材をかえることで、力強さを感じさせます。また床の間を畳
スペースとしても使えるという、合理性も持っています。床脇は
シンプルな衝立として、内側には貴重品入れを隠しています。
居間の天井を左官材で塗りこめ、傘型のゆるい傾斜
をつけています。天井と壁のスミには回り縁の代わ
りに、高さ
6cmほどの堀込をいれていました。少し
低い床の間の天井は
230cm位。葦を張り、棹縁に
は黒く塗った「吹寄せ」を使っています。落とし掛は
天井から約
34cm下がっていて、12cm角ほどの面
取した角材を使っています。
アーチ型の寝室への入口は、高さ約 170cm、
幅約 80cmで、少し頭をぶつけてしまうほど。
一方、木製デッキに出入りする引き戸は、2
枚開きの大きなガラス戸です。
アーチ型の寝室への入口は、高さ約170cm、
幅約80cmで、少し頭をぶつけてしまうほど。
一方、木製デッキに出入りする引き戸は、2
枚開きの大きなガラス戸です。
寝室の押入れは天袋が下にあるような形になっています。
襖を 3枚に分け、内側に開き戸のクローゼットを隠していました。
寝室の押入れは天袋が下にあるような形になっています。
襖を 3枚に分け、内側に開き戸のクローゼットを隠していました。
▲ 寝室天井の棹縁は、床の間と同じ「吹寄せ」になっています。
▲ アーチ型の出入口の内側には、杉のへぎ板を張っています。
古くからの宿帳には、武者小路実篤をはじめ、著名
な作家、俳優、デザイナーの名前が連なっています。
古くからの宿帳には、武者小路実篤をはじめ、著名
な作家、俳優、デザイナーの名前が連なっています。
REN TEI 漣亭
4室の「離れ」は白壁のスッキリとした建物で、都会的なモダンさと山中の自然とのコントラストを生みだしています。積雪を考慮した軒の深い、ゆ
るい勾配の切り妻屋根は、秋ノ宮村役場とも共通します。50年以上にわたり大切に使われ、厳しい環境に耐えてきました。
▼ ドアの寸法は、高さ 172cm、幅 76cmとやや小ぶりです。
廊下の突き当たりにある「漣(れん)亭」は、竣工当時の姿をもっともよく残しているといわれています。左右に波板ガラスをはめた部
屋のドアは、階段を三段上がった位置にあり、廊下からは額縁に入っているようにも見えます。縦棧は「猿頬」に加工されていました。
部屋に入ると、左手に茶室があり、右手にリビングセットが
置かれています。入口に斜めの角度をつけ、黒い壁紙を貼る
ことで、空間にコントラストを付けていました。竣工当時は、
各室に黒、赤など原色の壁紙を使っていたようです。茶室に
入る障子は幅約
67、高さ約
158cmと小さいものの、床か
ら立ち上がっているので、頭を打つ心配はありませんでした。
カーペットを敷いたリビングを「通り庭」にみたて、茶室や
居間を一段上げることで、和と洋を違和感なく調和させてい
ます。高さ関係、垂れ壁、素材の違い、明るさの違いなど
を巧みにコントロールしていることがよく分りました。
▲ 茶室の照明はとても暗くなっています。
直径16cmほどの太い磨き丸太が和室に結界をつくり、空間を隔てています。柱は床の方を太くすることで安定感をだしていました。
秋田の旅館のためと思われる貴重なデッサ
ン。白井晟一は完成した建築のデッサンを
ほとんど遺していません。材料や部材のディ
テール、寸法などが細かく記されています。
「白井晟一研究Ⅴ」(南洋堂刊)より
秋田の旅館のためと思われる貴重なデッサ
ン。白井晟一は完成した建築のデッサンを
ほとんど遺していません。材料や部材のディ
テール、寸法などが細かく記されています。
「白井晟一研究Ⅴ」(南洋堂刊)より
[○○○○]
から。カレンには関係ないの」すれ違う時、夏姫から甘い匂い
一週間してようやく学校に出て来た夏姫を見て、だれもが息を
がした。ココナッツみたいな。「冷たいじゃん、夏姫、彼氏でしょ、
飲んだ。落ちくぼんだ目とバサバサの髪。無言で席に着く夏姫。
ねーねー」振りかえった夏姫の顔。表情のない能面みたいな・
・・。
大丈夫 ?口々に取り巻くクラスメイトのみんな。ちょっとの間、
「違うよ、近所の大学生」「へーすごいね、年上だ〜」「じゃあ、
私は動けなかった。人の隙間から見える夏姫の微かな笑い顔。
そういうことにしといて」「っていうか、知らない人じゃないじゃ
あ、笑ってる。良かった。私はようやく席を立って、夏姫の机
ん」夏姫の脇腹をくすぐる。「プハハ !!」笑った顔の夏姫。……
に近寄った。「夏姫—
ホントに綺麗。「夏姫、今日のお祭りどうする?」「カレンは ?」「カ
心配したよ ?」振り向く夏姫、ぼんやりと私を見る目。ちょっと
焦点が合ってない?・
・・と思ったのもつかの間。「カレン、ごめんね。
心配した ?」笑顔でそう言ってくれた。
[○○○○]
緩やかに、いつもの日常が戻ってくる。でもなんて言うんだろ
う。私の中の何かが戻らない。心のどこかに何かが引っかかっ
○○○○○○○○○○○○○○○○
それでも地球は
♯
9カレ
ン
Ⅱ
イトが一緒に行こうって」「じゃー私はやめとく」「ちがうの、カ
イトが夏姫も呼んどけって」
その時、ドウッと風が吹いた。
うわっ !!
一瞬体ごと持ち上がったような気がした。
逆巻いた髪を直して見上げると、夏姫が私をじっと見ていた。
この前と同じだ。少し焦点の合わない目。何か言おうとして口
ているんだ。細くて小さいけど、なんかすごく頑固な棘が。ハー
ドルを倉庫に片付けている時、小屋の外で誰かの話し声が聞こ
えた。「……」夏姫 ?急いで倉庫小屋を飛びだした。「カレン ?」
夏姫の肩の向こう。黒いスーツの男の人が遠ざかっていくのが
見える。それは・・・なんて言えばいいんだろ。大きく翼を広
げたカラスのような、不吉で恐ろしいモノ……に見えた。
[○○○○]
「ねー夏姫、今の誰 ?」「だって話してたじゃん」
「知らない人」「いー
野田 豪(AREA)
回って
る
を開きかけて・・・。でもその前に夏姫に先を越された。「うん。
じゃあ、一緒に行こ」
[○○○○]
夏姫。もしね、あの時に時間を戻せたらって何度も思うよ。私
たちは 14歳で、本当に本当に子供だった。あの夏祭り。あの
日を今でも夢に見るよ。あれが最後のチャンスだったんだよね。
でも ……救えなかった。
[夏祭り]
夏の宵過ぎ。ほのかに暗い海岸が熱気に包まれている。道すが
ら衝突を繰り返してきた各地区の神輿がついに砂浜に集まってき
たのだ。かがり火に案内されて、いくつもの神輿が海に入ってい
く。カレンは高台の砂浜からボウッとその景色を眺めていた。暗
闇を切り裂くかがり火のオレンジ。夜より暗い人々の影。濃密な
油絵のような風景。ああ、そうか ……。私は確信する。これは
獣の宴だ。人とは獣なんだ。
急に脳内にフラッシュする。あの男の後ろ姿。黒いスーツの男。
大きな背中から噴き出すように生えた巨大な翼。
……邪な方角へ飛び去った。
[秘密]
遊歩道にはたくさんの出店が出ていた。りんご飴とか、綿菓子
とかそんなクラシックなお店がずらっと。その中に風車のお店が
あって、色とりどりの風車が風に吹かれて回ってた。その向こう。
あ、夏姫とカイトだ。手を振ろうとして ……やめた。夏姫の腕
を掴むカイト。その手を振りほどく夏姫。カイトの顔。あんな顔
を私は見たことがない。すごく ……怒ってる顔。夏姫がその場
に顔を覆ってしゃがみこむ。私は反射的に大きな松の木のかげ
に隠れる。「約束したでしょ?」夏姫の声が切れ切れに聞こえた。
それを無視するようにカイトが歩き去っていく。約束 ?なんの ?
夏姫の前をいろんな人が通りすぎる。
coe
よるよりくらいひとびとのかげ。
心臓が大きく鳴っている。その時、私の頭の回路が何かを告げた。
のうみつなかげ。けもの。ひととはけものなんだ。
ああ、だめだ ……。直感する。
……夏姫を守らないと。
[豹変]
カレンは木の陰から飛び出すと、一人残された夏姫に向かって走
り寄った。「どうしたの ?」反射的に私を見上げる夏姫。あから
さまに動揺している。「夏姫 ?」「 ……何でもないよ」夏姫の気
だるげな声。口に半分笑いがこびり付く感じの・・すごく嫌な声。
私の体が硬直する。「え?だって、今 ……」夏姫が立ち上がる。
ワンピースについた土を手で叩いて。「ねえ、カレン、前から言
おうと思ってたんだけど」夏姫が一呼吸置いて、私の目を見据
える「私、あなたが嫌いなの」「え?なんで ?」「私の邪魔ばかり
するからに決まってるからじゃない !」邪魔って ……。何のこと
か分からないよ ……。「もう、私に構わないで」
言い残して、夏姫は松林に消えていった。私はポツンって感じで
そこに残された。
リビングから見た庭
居間
リビングから見た庭
居間
▼ 居間の段差の分だけ追加された障子。格子が均等
割でなくても、不思議と違和感はありませんでした。
床の間の天井には凹凸のある木製パネルを張っています。左側の小さな衝立と天井が呼応していました。黒塗りの床は畳とフラットになっています。
寝室の天井寝室の天井
SAN TEI 杉亭SAN TEI 杉亭
入口の通路は斜めに仕切られています。障子の向うは居間。左の入口は茶室です。居間は24cmほど上がっています。
横長の窓がパノラマ感を与えています。
入口の通路は斜めに仕切られています。障子の向うは居間。左の入口は茶室です。居間は24cmほど上がっています。
横長の窓がパノラマ感を与えています。
目の前に蓮の池が広がる「杉(さん)亭」。広い庭園には沢山の池
が点在し、温泉水の熱により蓮の花を長い期間楽しめます。
杉亭は入口から奥まで土間空間が続き、室内にありながら、池を
眺めるデッキのような役割を果たします。通り庭にそって部屋(ミ
セやオエ)を配置したプランは、秋田の商家にもよく見られます。
居間。低い位置の明り採りと、「床脇」
の棚によって床の間を表現していま
す。床脇の裏は茶室の出入り口です。
居間。低い位置の明り採りと、「床脇」
の棚によって床の間を表現していま
す。床脇の裏は茶室の出入り口です。
だんだん、仕事にもなれ、日本の建築遺構のすぐれた
ものを見せてもらう機会が多くなり、歴史の勉強が多少
すすんできてからも、私はやはり教えられたものでなく自
分の中からでてきた、分にあったものを発展させてゆく
より他にないと考えてきました。”曰く因縁”に達者な人
からみますと、でたらめといわれるかもしれません。
(中略)
そんなことでもし私の造形に伝統的な気配があるとしま
したら、それは何も知らない、辨(わきまえ)ないうち
に、ヨーロッパの重い歴史世界に強烈な洗礼をうけたこ
とから触発されて、育っていった空間、感覚のせいかも
しれません。いわゆる日本的感性の目覚めと、伝統的
な造形指向が早々身についていたとしたら、どちらにせ
よ今、僕風として見て下さるようなものをつくることにな
らなかったかもしれません。
『木のはなし』白井晟一と神代雄一郎(建築評論家)の対談から
「白井晟一、建築を語る」(中央公論社刊)より
土間や寝室の天井はクロス貼りで、緩やかに傾
斜させることで、視線を外部へと誘導しています。
茶室寝室の襖は
2枚引きになっていました。背の低い障子
は、出窓のように外壁から飛び出しています。
杉亭外観。切り妻屋根は非対称に傾斜しています。
パソコンを買い換える時期になると新宿に行く。ヨドバシと
ビックカメラであれこれ見比べ、悩みに悩む。一日仕事だ。そ
んな時、お昼は軽く済ませたい。で、西口地下の立ちそば屋に
行ったりする。入り口に券売機があって、半分は立ち席、半分
はスツール席が並ぶという構え。この季節になると、券売機に
は「冷やし」という文字がズラリと並ぶ。千円札を差し込み、
「冷やしたぬきソバ」四百円のボタンを押す。半年前はたしか
三百八十円だったはず。最近「値上げ」は珍しい。そば粉価格
が上昇し始めているのだろうか。おばちゃんに券を差し出すと
「ワカメサービスお付けしますか?」と威勢のいい声。「ハイ、
お願いします」。冷やしたぬきに、ワカメがひとつまみ付いた。
こうしたお商売は、十円の価格変更が売上の上下に直結する厳
しさがある。ワカメは二十円値上げの印象を和らげるための臨
時サービスかもしれない。
昼時で店は混雑。運良くひ
とつ空いたスツール席に素
早く座る。目の前に置かれ
た容器からコップに水を注
ぎ、割り箸を箱から取り出
し、食べ始める。ソバ粉何
割だろうか。四百円のたぬ
きで、そんなことを考える
のは邪道だ。などと思って
いると、左隣の男の後頭部
が目にとまる。丼に顔を
突っ込む姿勢で食べてい
る。鼻の先端が汁面にくっ
つく勢いで、「ジュルズル
ズルーッ」と盛大な音。こ
れほど凄い「犬食い」は、
見たことがない。男が顔を上げたスキに丼を見るとラーメン
だった。コーンとメンマが沢山入って、なるとが浮かんでいる。
それにしても、随分と具が多い。トッピングてんこ盛りの追加
券購入したんだ、と思った瞬間、丼の隣に驚くべきものを発見
する。蓋の開いたコーンの小缶と、桃屋のメンマの空き瓶。そ
して百円ローソンのレシート。これを店に持ち込み、四百円の
ラーメンに自分勝手トッピングをして、特製ラーメンを作って
食べているのだ。凄い
!
犬食い男はコップの水を手にしてひ
と口飲むと、再び丼に顔を突っ込んで、「ジュルズルズルーッ」。
「食べる」というよりも、特製ラーメンと「格闘」している。五
分刈りの頭を丼に突っ込む男の体全身から、エネルギーが一杯
に発散されている。ギラギラとした野生のエネルギーだ。「犬食
い」だろうが何だろうが、知ったことか。こうやって毎日を精
一杯生きてんだ。体全体で男は、そう、吠えている。野良犬だ。
卓上のきら星たち☆第 14回新宿西口パワーランチ食文化ヒストリアン
英国骨董おおはら大原千晴
最高気温三四度の昼の新宿駅、西口地下。ラーメンをすする度に背中を汗
が流れ落ちていくはずだ。1946年八月、ここは闇市が一杯に広がる街
だった。全てを喪った人間たちの、裸の欲望が交差する巨大な闇の市場。
この男には、喜之助親分が仕切った新宿の闇市こそが、似つかわしい。突
然、黒澤明の『野良犬』が頭に浮かぶ。三船敏郎の、あの圧倒的な存在感。
女に騙し取られた拳銃を追って、ドロドロした欲情が渦巻く街を、野良犬
のようにほっつき歩く刑事。手ぬぐいで汗を拭き、怒り一杯の眼を見開き、
見えない何者かを追い求めてさ迷う終戦直後の東京。モノクロの画面から
あふれ出る、汗と臭いと混沌が、「湾岸警察署」の百万倍、見る者の心を
ワシ掴みにする。むしろ今、見るにふさわしい映画だ。などと思いながら、
犬食い男の白いシャツの背中に、イメージを浮かべてみた。
やがて特製ラーメンを食べ終えた男は、丼の脇に置かれた白いレジ袋に手
を伸ばしていた。袋の中から出てきたのは、何と、海苔おむすび一個と、
ツナ缶。これも百円ローソンだ。素早くツナ缶のプルトップを開くと、箸
を突っ込み、その半量をひと口で飲み込む。そして、むすびをガブリ。特
製ラーメンに続けて、特製ツナむすび。いくら何でも、ちょっと、である。
クロサワ三船の世界から現実に引き戻さ
れた気分でガッカリしたけれど、それに
しても、面白い。小柄だががっしりした
体格で、年は四十前後だろうか。元気いっ
ぱいで、生活に疲れた様子なんて、微塵
も見られない。犬食い男は、あっという
間にツナむすびを食べ終えて、水のコッ
プを手にしている。頭オカシイ奴じゃな
さそうだと瀬踏みをした私は、好奇心を
抑えきれずに、声を掛けた。コーン缶と
メンマの瓶を指さしながら「それ、凄い
アイデアですね」。男は一瞬ギョッとし
た顔から、恥ずかしげな微笑みに変わり、
「いえ、あの、これ、なに、その」と言
葉にならない言葉を続ける。「ワタシ、
コレね」。あっ、この人、日本人じゃない。この発音は、中国人だ。
なるほど、そうだったのか。日本人じゃないんだ。そうだよな。でなきゃ、
ここまでは、ちょっと出来ないよな。そう思うと同時に、ふたたび野良犬
の凄さが頭に浮かんできた。男は、おそらく、一人暮らしだ。どんな食べ
方をしようと、誰からも、何も言われない。新宿の西口近辺で、一人で必
死に働いている。日本語も満足にできない。だから、券売機で済む店が、
気楽で一番なんだ。きっと言葉ができなくても済む職場なんだ。体を使う
仕事だから、猛烈に腹がへる。だから、猛烈に食べる。毎日が、その繰り
返しだ。金は貯めなきゃいけない。家族に送金しなきゃいけない。俺はこ
こで、なんとか食っていかなきゃ、いけない。その必死さが、野良犬の凄
みになるんだ。そう思うと再び、クロサワ三船の『野良犬』の世界へと、
グイグイと引き戻されていく。今の日本人が忘れてしまった、あの嗅覚と
諦めない貪欲さ。『三丁目の夕日』なんかに、泣いてる場合じゃない。
藤野倶楽部「安心農園」、気分爽快な野菜づくり
山里の畑で汗を流して気持すっきり。藤野倶楽部・桑原敏勝さんの「安心農園」は、地元農家をスタッフに迎え、
安心・安全・楽しいをモットーに、新しい「体験型農業」の姿を提案していました。
藤野の農家
もっちゃん
藤野倶楽部
くわさん
藤野倶楽部「安心農園」、気分爽快な野菜づくり
山里の畑で汗を流して気持すっきり。藤野倶楽部・桑原敏勝さんの「安心農園」は、地元農家をスタッフに迎え、
安心・安全・楽しいをモットーに、新しい「体験型農業」の姿を提案していました。
藤野の農家
もっちゃん
藤野倶楽部
くわさん
夏本番の藤野倶楽部。ニワトリたちもますます元気です。畑ではジャ
ガイモの花が咲き、べんり菜やレタスが最盛期をむかえていました。
この広大なお茶畑。静岡や狭山ではありません。都心から
中央高速道で
1時間ほど、相模湖をのぞむ藤野町です。
「つくる・食べる・生きる」を楽しむ場として「藤野倶楽部」
を設立して
10年、地元にもすっかり溶け込んだ桑原さん。
そのなかで気になっていたのは、高齢化などによって放置さ
れた畑や茶畑でした。畑の再生こそ藤野の活性化につなが
ると確信した桑原さんは、昨年「農業生産法人」の資格を
とり、本格的な再生事業を実践しています。
5月末、茶摘みの様子。約 500kgの収穫がありました。写真提供:唐沢 耕さん5月末、茶摘みの様子。約 500kgの収穫がありました。写真提供:唐沢 耕さん
5月の末、藤野倶楽部の茶畑で、記念すべき初の茶摘
みが行われました。放置された茶畑を
3年以上かけ根
気強く再生するなか、桑原さんが目指したのは、専門家
でも難しい無農薬の茶畑でした。「ネオニコチノイド(農
薬)の問題を知るにつれ、無農薬で安全なお茶を飲み
たいと思いはじめました。専門家の指導や農家の協力
をうけ、雑草を一本一本抜きとり、有機肥料で地力をつ
けていきました。幸いチャドクガ(害虫)も発生せず新
茶を収穫でき、専門家から『農薬を使わないことで、害
虫を食べる虫が生き返ったのでしょう』といわれたのが
うれしかった。無農薬の可能性を実証できました。素人
だから、チャレンジできたのかも」と桑原さん。
藤野倶楽部「安心農園」は、藤野の名倉地区にあります。
今日はコラージサポーターの面々と、畑の見学にうかがい
ました。まずは古民家を改装したゲストハウスにて、とれ
たての野菜と、新茶をいただきました。曲がったキュウリ
はイボイボが痛いくらい。レタスもシャキッとして噛みごた
えがあり、スーパーとは違う味わいがあります。「安心農園」
では、すべての野菜を無農薬・有機栽培で育て、藤野倶
楽部「直子の食堂」の食材にも活用されています。
畑を管理するスタッフのリーダー・もっちゃんは藤野の農家出身。
無農薬・有機農法は初めての経験だそうです。とにかく草とりは
大変とボヤくもっちゃんですが「本当は草とりに困るような畑でな
いと、いい野菜はできない。自然にとって、雑草も野菜も区別は
ないから、雑草の生える畑はいい畑。虫だって美味しい野菜につ
くから、虫食いのあるのはいい野菜」。さすが、長年土と向きあっ
てきた人の言葉です。
▲ 「安心農園」のパンフレットもでき、利用者募集を開始しました。
▲ 「安心農園」のクラブハウス。暑い夏もここで休めば安心です。
安心農園では、個人・法人ユーザーの「専用区画」を設け、会員を募集中です。
一般の家庭菜園とは異なり、スタッフが完全サポート。季節ごとの野菜を確
実に収穫できます。詳しくは「藤野倶楽部」のホームページ(下記リンク)へ。
安心農園では、個人・法人ユーザーの「専用区画」を設け、会員を募集中です。
一般の家庭菜園とは異なり、スタッフが完全サポート。季節ごとの野菜を確
実に収穫できます。詳しくは「藤野倶楽部」のホームページ(下記リンク)へ。
山並みをのぞむ斜面にひろがる「安心農園」。面積も広く、
藤野では絶好の立地ですが、長く放置され雑木林になってい
ました。「木々を伐採し、土地の開拓から再生はスタートした」
と桑原さん。大切にしたのは、地元農家との協働だそうです。
「従来農薬が使われてきたのは、真っ直ぐなキュウリや虫食い
のないレタス、丸まると大きなトマトを消費者が選んできた
から。曲がっていても、虫食いがあっても無農薬・有機がい
いという声が強くとどけば、農家もその要求に応えるように
なる。無農薬・有機を藤野に普及させるには、まずビジネス
として成り立つことを実践し、示すことです」と語ります。
「安心農園」でとれる主な野菜
春:こまつな、ほうれんそう、はるきゃべつ、べんりな
夏:じゃがいも、きゅうり、ブロッコリー、なす、スッキーニ、
ミニトマト、いんげん、レタス、すいか、トウモロコシ、だいこん
秋:さといも、さつまいも、にんじん等々
雨上がりの畑で、ジャガイモの収穫などを体験。身も心もすっきりしてきます。「東京からいろ
いろな人が来ることは、藤野の農家にもいい刺戟になっている」と桑原さん。唐沢 耕さん(食
生活ジャーナリスト)をはじめ各界の講師を招き、クラブハウスでのセミナーも開催していきます。
畑を見学したあとで「藤野倶楽部」へ移動。「直子の台所」特
製のサムゲタンを、重機名人のアーティスト・ユンボさんがア
ツアツにしてくれました。盃を交わしながら、ゆっくりとお昼
タイムを愉しみます。都会ではできない話が弾むひととき。
ハーブ園ではラベンダーが満開でした。お土産に花
束を作ってくれたみつこさんは、まごころにあふれた
「安心農園」にかかせないスタッフのひとりです。
食事のあとは近所の「やまなみ温泉」へ。畑仕事の
汗を流します。もっちゃんから聞いた話を思い出しな
がら、「土」や「野菜」は正直な生き物だな〜と痛感
しました。居心地のいい場所に植えれば、手を掛け
ただけ応えてくれる。野菜づくりのこと、もっともっ
と知りたくなりました。
人間の生活や精神を引き上げられるロウコストでなければならない。
『試作小住宅』白井晟一エッセイ集「無窓」(晶文社刊)より
試作小住宅 設計:白井晟一、移築:白井原多
ロウコストは建築のエレメントである。しかし、
白井晟一もよく通った160年の歴史を持つ湯沢の医師・渡部
家の自邸。下は渡部三喜さんの希望で作ったステンドグラス。
造り付けのテーブルと書棚。皮付きの丸太を床柱のように立て、脇床のように書棚を配置した、床の間的な勉強場所です。造り付けのテーブルと書棚。皮付きの丸太を床柱のように立て、脇床のように書棚を配置した、床の間的な勉強場所です。
秋田での白井晟一の支援者のひとり、湯沢の医師・渡部均
(ひとし)博士は、東京で学ぶ長男・三喜(さんき)さん
と長女・幸子さんのため、小さな住宅の設計を依頼します。
1953年、世田谷に竣工した「試作小住宅」は、半世紀以
上にわたり渡部家の学び舎として大切に使われました。
やがて
2007年、この建物は渡部三喜氏の強い希望を受
け、白井晟一の長男・白井彪弼(ひょうすけ)氏の長男・
白井原多(げんた)さんにより湯沢市に移築され、その経
緯はさまざまなメディアで取り上げられました。白井晟一
の訴えた「人の精神を引き上げられるロウコスト」を実現
した住宅といえます。
移築後の試作小住宅は、白井原多さんにより
「顧空庵(こくうあん)」と名づけられました。
移築後の試作小住宅は、白井原多さんにより
「顧空庵(こくうあん)」と名づけられました。
軒を大きく低くだした、小さいながらも風格を感じさせる佇まい。玄関の軒先は高さ180cmほどしか無く、愛らしさを感じさせます。波板ガラスの玄関ドアを開けると、廊下に茶室風の袖壁が立っています。
部屋から玄関を見る。屋根に合わせ傾斜した天井や、天然木の曲線を活かした袖壁(壁は紙製)、アーチ型の出入り口、斜めに配置された壁面など、それぞれの微妙なズレが絶妙のバランスを保っています。
渡部三喜先生デザインのステンドグラス
4.5帖の畳の間には框(カマチ)を設け、板の間よりも10cmほど上げています。衝立には直径約15cmの磨き丸太を立て、家の中心的な存在としていました。天井の隅に回り縁はなく、左官で仕上げています。
白井晟一研究Ⅴ(南洋堂出版)より白井晟一研究Ⅴ(南洋堂出版)より
試作小住宅のパース(竣工当時のもの)。
部屋の中心に立つ丸柱を軸に、回転動線
を描くプランであることが分ります。
この住宅の画期的な点は、白井晟一が試
みた「真壁式大壁」です。これは現在の
一般住宅の真壁に似た工法で、主要な柱
を表にだしながら、間柱や配線などを壁
の中に隠し、壁内で断熱や通気を行いま
す。柱を全て密閉した大壁よりも長寿命
の家を建てられると白井は考えました。
この工法は、外観や内装にも大きな影響
を与え、柱や束(ツカ)を見せたり隠した
りすることで、空間の見せ方を絵画的に
コントロールしています。
南側(移築後は西側)に開いた大きな開
口部には、内側から障子、網戸入りのガ
ラリ、ガラス戸が入っています。
▲南側の外観(元は東側) ▼西側の外観(元は南側)
モンドリアンの絵画にも例えられるファサード。小屋束を隠すことで、スッキリとした印象を与えています。軒を支える母屋材を
3次元的に削ることで、屋根を薄く軽快に見せる工夫もされています。
畳の間の奥にある
3帖の和室。わずか
3帖でありながら、茶室
的な奥行きを感じる空間です。右は畳の間で折り上げられた天井
部分。バッサリと梁を切ったように見せています。折り上げの位
置は、押入れ下の明り採りに合わせていました。
丸柱と板材の納りが見事です。
白井原多さんが描いた移築前の「試作小住宅」。
稲住温泉離れにも見られた
3枚引き戸と明り採りが、空間に艶っぽさを与えていました。押入れの脇に立てられた丸太は、左官壁との納りが見事です。小住宅には贅沢すぎるほどの造り込みを行っています。
自分がつくらせてもらった家に住んでくれる人たちが胸をはっ
て、この混濁貧寒な環境におかされず、豊かで毅然とした
生活意識が定着できるような空間をつくることが、何より大
事な仕事だと信じていました。
(中略)
市場規格の四寸角、十尺の檜心持柱、同材二間もので土台・
桁・梁で主体構造を。単.・帯鉄でつなぎ、やっぱり四寸
角二つ割の垂木構造の小屋に鉄板♯
28の瓦棒葺屋根をの
せました。間柱は同寸の杉材四つ割尺五マ。真壁式大壁は
こうした配材から自然にできたものです。それでパイプ・スペー
スと通気インシュレーションの二重壁になるわけです。ささ
やかでもこの発想と展開については、いまでも自ら慰めるに
足るものだと思っています。それから杉四寸角二つ割の垂木
は軒出を一メートル二、三〇ミリ位に深くすることが出来、
だいたい二寸五分という緩勾配で、私のロー・コスト小住宅
の構成は出来上がりです。
『木のはなし』白井晟一と神代雄一郎(建築評論家)の対談から
「白井晟一、建築を語る」(中央公論社刊)より
白井晟一建築研究所 「アトリエ no.5」訪問白井晟一建築研究所 「アトリエ no.5」訪問
秋ノ宮村役場や試作小住宅と同時期に建てられた「アトリエ
no.5」。
大きな開口を持つ切り妻の大屋根が特徴。秋田杉も使われています。
現在の白井晟一建築研究所「アトリエ
no.5」は、1953年
東京・中野区に画家のアトリエとして建てられました。その後、
白井一家が仕事場兼自宅として暮らし、白井晟一の孫であ
る白井原多さんはここで生まれ育ちました。
「2005年、渡部三喜先生の連絡をうけ、世田谷の試作小住
宅にはじめて伺いました。入った瞬間、50年以上大切に使
われてきたことが分りました」と原多さん。ディテールなど
に生家との共通点を見つけたそうです。
「約
15坪という面積でありながら、数字を越える広さを感じ
ました。天井高も低い所は
190cm位しかありません。それ
を折り上げ部分のデザインによって高く見せています。天井
は
240cmなければという常識をくつがえさせられます」。
さらに玄関に見られるように、傾斜した天井や壁面が単純に
整合していないことにも驚かさたそうです。
「ふつう建築家は、図面上で線が揃わないと気持ち悪かった
り、構造的に意味のない飾り柱や梁を嫌う傾向もあります。
しかし祖父はそういう考えから自由で、細部にフォーカスし
たり、俯瞰してみたり、そのバランスに長けていたと思います。
部屋の中心に飾り柱を立てても、わざとらしくなく自然に見
える。単純に和と洋の融合ともいいきれない、縛られない空
間を感じました」と語ります。
100余りある白井晟一作品の中で、約3分の1は秋田
に集中し、1940〜50年代(40代半ば〜50代)の10
年間に凝縮されています。渡部家に残る白井からの手紙
には、秋田杉の調達や資金計画などが、事細かに記され
ていたそうです。渡部家や稲住温泉・押切家との誠実で
綿密なやりとりによって、秋田との信頼関係を築いていっ
たことがうかがえます。そして白井原多さんの心を動かし
たのも一通の手紙からでした。渡部三喜先生の試作小住
宅に対する強い思いをはじめて知り、白井家と湯沢との
縁が再び結ばれたのです。
▼ 当時の図面を整理し、移築用の図面をあらたに起こしました。『白井先生は 100年住める家と言っていたそうなので、こ
れを今、地上から消し去ってしまうのは無惨無常の極み
です。又、この家を今壊すと言う事は、白井先生と亡き
父の魂をも葬り去る事と同等です。』(渡部三喜先生の手
紙から)。実は白井原多さんは試作小住宅の依頼を受ける
まで秋田を訪ねたことはありませんでした。移築をきっか
けに頻繁に通い、建物の保存運動や建築ツアー、展覧会、
ミニコンサートなどにも関わりました。「試作小住宅をきっ
かけに祖父の残したものを再認識し、その仕事を伝える
役割を担うこととなりました」と原多さん。今は震災で
被災した東北の古民家の修復も手掛けはじめました。
▲ 試作小住宅解体時の写真。撮影した位置も詳細に記録されています。
▲ 部材保存の優先度リスト。基礎以外は大半を再利用しています。
▼ 当時の図面を整理し、移築用の図面をあらたに起こしました。
移築の仕事は、どういったタイプの移築にするか渡部三
喜先生との共通認識を持つところからスタートしました。
解体工事前に原多さんは部材を一点ずつ調べ、保存の優
先順位を決めてリスト化します。部材の痛みは想像以上
に少なく、床下の通気と軒の深さの大切さを思ったそう
です。検討の結果、部材は出来るだけ再利用し、オリジ
ナルに忠実な移築を行いないつつ、台所や風呂などは現
代の生活にあわせ、一部増築することとなりました。東
京での解体・保存は、文化財修繕で知られる風基建設が
行い、湯沢での施工は棟梁・小嶋修造さんが担当するこ
ともあり、解体時の写真を多数撮影し、ディーテールの
記録に努めたそうです。
今回の移築を通し、白井晟一の実践的手法は現在の家づ
くりの手本にもなると考えた
原多さん。多くの人にそれを
伝えたいと「白井晟一の手と
目」(鹿島出版会刊)をまと
めました。「芦屋山本邸」計
画のスケッチ集や講演会の生
原稿から、白井晟一の生の
感覚が伝わってきます。
▼ 最も大変だったのは左官壁の色の再現といいます。図面や書面化で
きない感覚的な部分をどう伝えるかに苦心したとのこと。
原多さんの母、・白井雅恵さんは、アトリエ
no.5に帽子工房「シャポー・
シルヴァン」を開き、リヨン国際帽子芸術コンクールでも入選しています。
「祖父が亡くなったのは
9歳の時でした。私にも子ども扱
いせずに接し、ストイックで甘えのない関係だったことを
憶えています」と原多さん。試作小住宅についても、そ
のスタンスは変わらないと感じました。若者のための小
さなローコスト住宅だからこそ、質の高い暮らしを学んで
欲しいという、白井晟一の思いがこもっているようです。
50年以上大切に使われ、渡部先生の「移築してでも残し
たい」という気持を喚起させたのも、同じ思いからでは
ないでしょうか。試作小住宅は「話は建物に聞いて欲しい」
と語った白井晟一のメッセージそのものかもしれません。
「白井晟一の手と目」奥付より
白井晟一と姉・きよ、真ん中は原多さん。
馬鹿は死ななきゃ治らない
四同舎 湯沢酒造会館
1959年、湯沢市の醸造業者たちの依頼で建てられた「四同舎」。
雪害を緩和するためアールをつけた屋根。どっしりとした
黒い鋼板を張った角柱。割石調の外壁タイル。女
性的なうねりを強調したエントランスホー
ルの階段など、後期の白井建築の
萌芽を感じさせる建物です。
四同舎 湯沢酒造会館
1959年、湯沢市の醸造業者たちの依頼で建てられた「四同舎」。
雪害を緩和するためアールをつけた屋根。どっしりとした
黒い鋼板を張った角柱。割石調の外壁タイル。女
性的なうねりを強調したエントランスホー
ルの階段など、後期の白井建築の
萌芽を感じさせる建物です。
入った瞬間、清廉な空気にうたれるエントランスホール。南面した大小の窓から、階段ホールに光が降りそそぎ教会建築を思わせます。酒神へのおごそかな敬意と高揚感の伝わってくる空間です。
南面する大きなバルコニーを持つ
2階大広間。かつては酒造関係者の結婚式場としても利用されていました。内部見学については創建築設計事務所(TEL.0183-72-2653)へ問い合わせの上、要相談
45度に取り付けられた5段の階段がドラマを演出しています。壁仕上げは打ち放しコンクリートとタイルで、天井には天然木を張っていました。50年以上たった今も、とてもよい状態で保存されています。
inspireR帝国ホテル インペリアルラウンジ アクア
ヘミングウェイ、ピカソの愛した料理を再現inspireR帝国ホテル インペリアルラウンジ アクア
ヘミングウェイ、ピカソの愛した料理を再現
連載「卓上のきら星たち」でおなじみ大原千晴さん。ウディ・アレンの映画「ミッドナイト・イン・パリ」をテーマとしたレクチャーを
帝国ホテル アクアで行いました。それにあわせ、1920年代、芸術の都パリで愛された料理が島田シェフにより再現されました。
ピーチジュレをシャンパンでわった「ベリーニ」。ヴェネチアのハリーズ・バーで生まれ、ヘミングウェイによって世界的なカクテルとなりました。
大原さんからリクエストされたメニューは、当時ヘミングウェイや
ピカソが食べていた「ローストチキン」、「ハッシュトポテト」、「エ
今回のレクチャーは、大原さんの新刊「名画の食卓を読み解く」
スカルゴ」、「オニオングラタンスープ」、「ほうれん草のクリームソ
(大修館書店刊)の出版記念も兼ねた特別版でした。
テー」、「仔牛のテンダーロイン」。レクチャー主催者 石澤季里さん
(プティ・セナクル)も交え、シェフにメニューの印象を伺いました。
「小説や実話を元に料理をイメージしたのは、初めての体験」と
島田シェフ。1920年代は、フレンチが国際的な料理として確立
され始めた時代。ヨーロッパ各地やアメリカからやってきた芸術
家がパリの文化を開花させたように、フランス料理も各地方に伝
わる田舎料理を取り入れ、食材の保存方法、加工技術の向上と
共に洗練されていったそうです。最近はこの時代の基本を見直し、
昔ながらの素材感を取り戻そうという傾向もあるようです。
▲レクチャーの最中、隣室ではビュッフェの準備も進んでいます。
アレン監督が、パリを舞台に選んだわけ
この春公開されたウディ・アレン監督「ミッドナイト・イン・パリ」。
創作への壁を感じたアメリカ人脚本家が、婚約者であるセレブ
な娘と共にパリを訪れ、真夜中の路上で1920年代の「エコール・
ド・パリ」にタイムスリップ。敬愛する小説家や画家がたむろす
るカフェに迷い込むというロマンティックコメディです。
主にニューヨークを舞台としてきたアレン監督。今回なぜ古きよ
き時代のパリを描いたか。それを考察していくと、パリ〜ニュー
アレン監督が、パリを舞台に選んだわけ
この春公開されたウディ・アレン監督「ミッドナイト・イン・パリ」。
創作への壁を感じたアメリカ人脚本家が、婚約者であるセレブ
な娘と共にパリを訪れ、真夜中の路上で1920年代の「エコール・
ド・パリ」にタイムスリップ。敬愛する小説家や画家がたむろす
るカフェに迷い込むというロマンティックコメディです。
主にニューヨークを舞台としてきたアレン監督。今回なぜ古きよ
き時代のパリを描いたか。それを考察していくと、パリ〜ニュー
ヨークをむすぶ歴史の流れが見えてくると大原さん。
20世紀初頭、アメリカは経済的に成功したものの、文化・思
想の点はヨーロッパに及びませんでした。そこで資本家達はヨー
ロッパの城を買ったり、貴族と血縁関係を結んだり、文化や名
誉の充足を求めます。なかでもパリは憧れの的で、裕福な子女
のパリ暮らしが流行りました。キリスト教の倫理観にしばられた
アメリカに比べ、パリは世界で最も自由な街。しかも為替の関
係でアメリカ人は贅沢に遊べました。それと同時にパリは労働
者の街でもあります。産業革命で急速に増えた労働者のために
4万件以上のカフェが開かれ、熱気にあふれていました(前号
の連載参照)。ヘミングウェイやフィッツジェラルドも、こうした
背景に引き寄せられるようにアメリカからやってきたのです。
▲ニューヨーク旅行中、スーパーのレジでアレン監督を見かけた大原
さん。チノパンにラフなシャツというイメージ通りの姿に驚いたそう。
▲ ガートルード・スタインのサロンでピカソが食べた「ホウレン草の
クリームソテー」。スタインの恋人アリスの料理本に記されたレシピ。
▲ 伝説的なアーティストたちも、この頃はまだ無名でした。
朝まで騒いだあとは、早朝のカフェで「オニ
オングラタンスープ」。出勤前の労働者やアー
ティスト、紳士・淑女たちが席を並べて同じスー
プをすすります。有名な帝国ホテルのオニオ
ングラタンスープは、チキンブイヨン、ビーフ
ブイヨンにコンソメも加えた贅沢な一品。
朝まで騒いだあとは、早朝のカフェで「オニ
オングラタンスープ」。出勤前の労働者やアー
ティスト、紳士・淑女たちが席を並べて同じスー
プをすすります。有名な帝国ホテルのオニオ
ングラタンスープは、チキンブイヨン、ビーフ
ブイヨンにコンソメも加えた贅沢な一品。
「パリに行けば素晴らしい作品をかける」。それがアーティ
スト共通の思いでした。映画の中にも、ピカソをはじめ、
ジェイムズ・ジョイス、ダリ、マン・レイ、ブニュエル、コール・
ポーター、ジョセフィン・ベーカーなどヨーロッパやアメリ
カの異邦人が登場し毎夜カフェで騒ぎます。資本家の子
女たちは彼らと交わり、パトロンにもなりました。そのひ
とり、ピカソの肖像画にも描かれた、ガートルード・スタ
イン(キャシー・ベイツ演じる)は若い画家の絵を買い集め、
アリスと同棲する自宅をサロンとして解放します。料理人
をやとい本格的な料理でもてなし、画商やコレクターに新
しい価値をもつ作品を紹介していったのです。
アレン監督は、まだ価値の定まらない芸術家に投資し、世に知
らしめた彼女を映画の中で高く評価しています。一方、キスリン
グや藤田、マン・レイのモデルとして知られる「キキ」は、フラ
ンス田舎町の出身です。パリを夢みた女性たちはアーティストを
渡り歩き、創造のエネルギーとなります。やがて
1930年代の
末、パリの夢は戦争によって終りをむかえ、アメリカ人はパリを
離れます。彼らの行き着いた場所こそ、ニューヨークのグリニッ
ジビレッジでした。エコール・ド・パリの精神はニューヨークに
引き継がれ、芸術・思想の新たな中心地となっていったのです。
アレン監督は愛する街のルーツを、パリに見つけたのかもしれ
ません。こうした話をうかがって料理を頂き、会話を楽しんでい
ると、1920年代パリのカフェにいるような気がしてきました。
ヘミング・ウェイがセーヌ川の中州、サンル
イ島で食べたローストチキン。ハッシュト・
ポテトと白インゲン豆を添えています。下
はヘミングウェイとフィッツジェラルドが旅
先で食べたエスカルゴです。
この時代、パリで最も成功した日本人は、
藤田嗣治でした。また薩摩治郎八(バロ
ン薩摩)をはじめ文学界からは林芙美子、
辻潤、武林無想庵、山本夏彦。建築界で
は前川國男、坂倉準三が当時のパリで暮ら
しています。ちなみにドイツ留学した白井
晟一は、パリで林芙美子と出会いました。
たの
は
かな?
ロッキングチェア100脚 ((o(^∇^)o)) BC工房主人鈴木惠三
温泉ダイエットのヌード写真
は
……?「見るのも恥ずかし
い」と悪評いっぱいだ。老いたカラダをさらけ出したオイ
ラの勇気は空回りなのだ。
「そこで温泉ダイエットしながら、オイラは考えた!!」
もちろん、おもしろい椅子づくりのコト。
ヌード写真をさらけ出したついでに発表しちゃいます。
「ロッキングチェア
を
100脚つくる夢」。
出来るか、出来ないか? なかなか大変そうだが、面白い
ロッキングチェアをいっぱい作りたくなった。
「甘い生活」のはての糖尿。元気を出して「温泉ダイエット」。
そして怠惰に温泉につかりながら考えたのが、
「ロッキングチェアの夢」。とんでもない夢だ。
どうせ売れない椅子を作るなら、
おもいきって「ロッキングチェ
ア
100脚」の展覧会を
人生最後のあだ花に
したくなってしまっ
た。
「世界のプリミティ
「日本の木の椅子展」
ブな椅子展」をやっ
30
年前くらい
をやったの
は
くらいかな?
20
年前
「老人の椅子展」は昨年のこと。
今度は「夢のロッキングチェ
ア
100脚展」
オイラの人生、椅子の展覧会ばかりだ。
ところで、コラージを読んでいる皆さんへのお願いです。
糖尿病のオイラの人生最後のお願いです。
「ロッキングチェア持ってたら、オイラにちょうだい。」
「ロッキングチェアの資料を、オイラにちょうだい。」
あいかわらず「甘い性格」の身勝手なお願いです。
ところでオイラの数値は
る。コレワ温泉のおかげだ。
糖尿病には藤野の温泉治療が効くらしい。
と良くなってい
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