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シュガーロード塩田〜有田〜長崎編
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時空にえがく美意識
http://collaj.jp/
1月号 新年 2 013
「蒲原コレクション」(有田町所蔵)シュガーロード塩田〜有田〜長崎編
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時空にえがく美意識
http://collaj.jp/
1月号 新年 2 013
「蒲原コレクション」(有田町所蔵)
塩田の街を流れる塩田川は、有明海からの荷物を運ぶ水上交通路でした。有明
海の干満の差を利用して、満潮の時に大きな和船が塩田まで遡上し塩田津(港)に、
天草から運んだ陶石や砂糖などを荷揚げし、昭和
50年代まで港として利用されま
した。塩田津跡に整備された公園には、荷揚用クレーンの柱が残っています。
登り窯で使い古した耐火煉瓦や陶磁器の廃材を使ったトンバイ塀。西岡家は石材を扱う商家として繁栄しました。
木造家屋の瓦の上に太陽光発電パネルを載せています。晴れた
日の多い佐賀県は、太陽光発電の普及率が高い地域です。
街道沿いに栄えた商家は「嬉野市塩田津伝統的建造物群保
存地区」に指定され、保存・復元が進められています。古い
商家のひとつ江口家には、5代目・平兵衛氏による天保 12年
(1841年)から14年間におよぶ貴重な日記「天相日記」が残
されています。天保の飢饉で疲弊した状況のなか、産業振興
に尽力した平兵衛さんは、隣村の窯元の再興を依頼され、窯
業の研究や売り先のマーケティングを行なっています。長崎で
異国船を砲撃した事件や、浦賀への黒船来航の情報収集など、
国際情勢を機敏に感じながら開国への備えを進めた経緯もう
かがえます。(江口家ホームページ 井上米蔵氏寄稿文参照)
砂糖で出来た大きな鯛。塩田の馬場菓子店
で作られる「金花糖」は、焼き物の里「有田」
とも深いつながりをもったお菓子です。
砂糖で出来た大きな鯛。塩田の馬場菓子店
で作られる「金花糖」は、焼き物の里「有田」
とも深いつながりをもったお菓子です。
塩田に100年以上つづく馬場菓子店では、六代目の馬場安
谷さんによって「金花糖」という砂糖菓子が作られていま
す。お湯に砂糖を溶かし約
125℃に加熱、白く泡だった所
で勢い良く撹拌し、空気を抱き込ませて鯛を模った素焼き
の型に流し込みます。小型の鯛や蛯を作るための木型もあ
ります。砂糖の塊ともいえる「金花糖」は、その昔、大変
貴重なお菓子でした。結婚式の飾り物や引き出物に使われ
ました。今はお供えものや昔の味を懐かしむ人たちに愛さ
塩田川の川沿いには陶土を製造する工場が点在しています。
陶石は水車の動力で砕かれ、陶土に加工されました。陶石は水車の動力で砕かれ、陶土に加工されました。
シュガーロードの宿場町として栄えた塩田。街道の脇には田
畑が広がります。今は珍しくなった稲の天日干し「稲架掛け(は
さかけ)」を続ける方がいました。ちなみに稲架として使い古
された木材は数寄屋や茶室の材料としても使われてきました。
塩田川をさかのぼり、山中に入ると長崎県の陶磁器産地「波佐見」です。江戸時代には世界最大級の登り窯を有し、江戸庶民にも愛された生活器を量産した産地です。コンプラ瓶やくわらんか椀でも知られます。塩田川をさかのぼり、山中に入ると長崎県の陶磁器産地「波佐見」です。江戸時代には世界最大級の登り窯を有し、江戸庶民にも愛された生活器を量産した産地です。コンプラ瓶やくわらんか椀でも知られます。
森正洋さんデザインの生活器をつくる白山陶器には、現代のトンバイ塀とも
いえる陶磁器で彩られた壁が築かれています。
長崎出島にて。オランダ交易で輸出された醤油や酒の容器「コンプラ瓶」。
波佐見から山を超えると佐賀県・有田です。長崎県と佐賀県の県境は、江戸時代まで鍋島藩と大村藩を隔てていました。周辺の山々からは良質な陶石が産出され、木々は窯の火を焚く燃料となりました。
食文化ヒストリアン
英国骨董おおはら大原千晴食文化ヒストリアン
英国骨董おおはら大原千晴
ブを中心に強い結束を誇るシーク教徒の総本山だ。歴史的にイスラーム
的要素を含むシーク教は、ヒンズー中心のインド社会では少数派であり、
このデモが行われた当時、インド政府軍と戦闘的なシーク教徒の間で、
かなりの死者を出すほどの激しい紛争が起きていた。この時のデモは、
英国在住のシーク教徒(現在約四十万人)の有志がロンドンに集結し、
インド政府の「暴挙」に強く抗議の声を上げる、というものだったのだ。
これがシーク教徒との、初めての出会いだった。
縁とは不思議なもので、やがて私は、一人のシーク教徒の女性ヤスファ
と知り合いになる。運命のお導きか、なぜか気が合って、ロンドン出張
の際には時々食事を共にする。「一度私達ロンドンのシーク教徒の寺院
を見に来ない?」と数年前から誘われていて、それが昨年の秋ついに実
現した。ロンドンには非常に大きなインド系の人々のコミュニティーが
ある。その中心が、郊外(西部)に位置するサウスオールだ。ここは、
まさにリトル・インドそのもの。突然ここに連れてこられたら、そこが
英国だとは信じられないほどだ。この町にはヒンズー寺院、イスラーム
のモスク、そして、シーク教徒の寺院が混在している。ところで、イン
卓上のきら星たち●第 19回ロンドン シーク教徒 食の施し
今から二十年ほど前、十一月中旬の、雨のそぼ降る寒い日曜日の午後の
ことだった。地下鉄のマーブル・アーチ駅を出てビックリ仰天。ロンド
ン一の繁華街オクスフォード・ストリートを占拠する形で進む大規模な
デモ行進に出くわしたのだ。濃い褐色の肌をした人々の果てしない波が、
ハイドパークから押し出されるようにして、道いっぱいに広がって流れ
てゆく。ターバンを巻いた男たちとサリーをまとった女性の姿が目立つ
中、老若男女多様な人々が、プラカードや横断幕を掲げ、時おり腕を振
り上げ、叫び声を上げながら、霧雨の中を行進していく。どう見ても参
加者数千人に及ぶ一大デモだ。この場所でデモを見るのは初めてのこと
だったので、驚いた私は傘を手に歩道の端に立ってその様子を眺めてい
た。すると、デモ隊の中から黄色い雨具に包まれた小さな女の子が小走
りに駆け寄ってきた。雨具のフードからは水滴がしたたり落ちている。
年は十歳前後だろうか、肩からかけたバッグからビラを取り出して押し
付けてくる。濃い褐色の肌、黒髪、そして、黒い大きな瞳から放たれる、
何かを強く訴える鋭い視線。私は手のかじかむのを覚えながら、その小
さな手からビラを受け取った。「ゴールデン・テンプル」と記された大
きな文字が目に留まる。それでピーンときた。「黄金寺院」はパンジャ
ド人の男といえば頭にターバン、そう思っている人が少なくない。でも、こ
のターバン姿は実は、シーク教徒の象徴なのだ。インド社会で少数派の彼ら
は、昔から差別を嫌って海外へと勇躍する人々が多かった。その活動領域は、
東南アジアからアラブ諸国、更には東アフリカ諸地域へと広がっている。い
つしか世界各地でターバン姿のインド人の姿が目立つことになる。これが「イ
ンド人の男=頭にターバン」というイメージ誕生の背景だ。ヤスファの両親
はパンジャブを出てウガンダ(東アフリカ)へと移住している。ここで苦労
して商売で一旗挙げたところを、悪名高きウガンダのアミン大統領によるイ
ンド人(印僑)弾圧政策
(
1972年)のために亡命を余儀なくされ、ロン
ドンでイチから出直しを図ることになった。ヤスファはその時の恐怖と困難
を忘れることはないという。このように遠い異国で暮らす人々の多いシーク
教徒にとって寺院は、それぞれの移住先でも、家族の次に大切な絆の結び目
となっている。「信仰心は薄い」というヤスファでさえ、年に何度かは寺院を
訪れ、昨年はパンジャブの総本山に巡礼の旅をして「聖地の湖に全身を沈め
る大切な儀式を経験してきた」と真剣な表情で語っていた。
さて、このシーク教徒の寺院を実際に訪れて
みれば、驚くことばかりだった。遠目にも目
立つ黄金色のドームが燦然と輝く建物の入
り口で靴を脱ぎ、黒いターバンの下足番から
番号札を受け取って中に入る。礼拝堂の入り
口では、さつま芋を潰して練ったような甘い
お菓子が手渡され、これを口にしてから中に
入る。巨大なドームとなっている礼拝堂は、
一面絨毯が敷き詰められていて、他に何もな
い広大な空間が広がる。イスラームのモスク
の内部に雰囲気が似ている。その最奥に一段
高くなった経壇が置かれ、お坊さんが座って
お経を読んでいる。信者はその前に進み出
て、膝まずいて一礼し、その後は広い礼拝堂
に自由に座って、祈りのひとときを過ごす。偶像らしきものは一切、飾られ
ていない。シーク教徒にとって寺院内で礼拝する対象は、経典そのものなのだ。
従って、日中はほぼ終日、お経の途絶えることはない、という。
礼拝堂を出て次に案内されたのが、「施しの間」とでも呼ぶべき広大な「食堂」
だ。ここでは「常に無料で」食事を取ることができる。どれほど貧しい信者でも、
寺院にたどり着くことさえ出来れば、飢えをしのぐことができる。学食や社
食の要領で、カウンターに並んでトレイを手にし、食器に料理を盛ってもらう。
立ったままハイカウンターで食べる場所もあるが、多くの人々は床に座って、
あぐらをかく姿勢で、ゆっくりと「施し」を味わっている。この「施し」は、
毎日必ず行われていて、誰もがこの「施し」を受けることが出来る。シーク
教の原点である「寛容の精神」を象徴する、重要な行いなのだという。シー
ク教の基層には「食の施し」の精神が横たわっている。これは恐らく、この
宗教が誕生した時の、信者たちの置かれた厳しい状況を物語っているような
気がする。飢えを知らない私は、想像を絶する厳しさから生まれた寛容の精
神の、その深さを思うばかりだった。
有田の街を見下ろす山頂にたつ佐賀県立九州陶磁文化館。有田や唐津など佐賀県の陶磁器を中心に、九州の焼き物を学べる博物館です。
なかでも柴田明彦・祐子ご夫妻から寄贈された1万点以上にのぼる有田焼の「柴田夫妻コレクション」は、国の「登録有形文化財」(工芸
部門第
1号)で、貴重な初期伊万里から江戸期の庶民的な磁器までを体系的に収集した世界でも類をみないコレクションです。
窯場から発掘された磁器の陶片。白磁、青磁、染付など様々な磁器を焼いていたことがうかがえます(佐賀県立九州陶磁文化館の展示から)。
▲ 磁器の原料となる陶石。これを粉砕して陶土を作ります。
▼陶器と磁器がよう着して出土した砂目積みの陶磁器。
日本で磁器が焼かれたのは17世紀の初頭、肥前(佐賀)からといわれています。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、肥前・鍋島軍は半島から沢山
の陶工を連れ帰りました。陶工たちは磁器に適した陶石を探し求め、有田泉山に石場を発見します。有田には山の斜面を利用した登り窯が築かれ、
短期間のうちに陶磁器の一大産地へと成長します。一方陶器としては、侘び寂びの茶器としても愛された「唐津焼」が知られています。16世紀
末から佐賀・長崎の各地で焼かれはじめ、17世紀初めには磁器と同じ窯で焼かれていたことが古い窯跡の発掘からも分かっています。
同館は常時 1000点ほどの「柴田夫妻コレクション」を公開し、年代順に展示された作品から有田焼
のダイナミックな歴史を体感できます。磁器が焼かれはじめた17世紀はじめ、砂目積みの跡を残した
皿や吹墨の技法を使った作品には素朴な味わいがあります。中国からの高価な輸入磁器しかなかった
当時、唯一の国産磁器は鍋島藩にとって重要な産品となり、藩は増えすぎた陶磁器の窯元を統合し
磁器製造に集約させます。その一因は窯の燃料となる薪の乱伐にあったともいわれます。当時の有田
焼は積み出し港のあった伊万里にちなみ「伊万里焼」と呼ばれ、大坂や江戸などに流通していきました。
▲ 「柴田夫妻コレクション」染付花唐草文小皿 1610.30年代 九州陶磁文化館蔵
▼ 「柴田夫妻コレクション」染付吹墨鷺文皿 1630.40年代 九州陶磁文化館蔵
▲ 「柴田夫妻コレクション」染付岩草花雉文水注 1650.70年代 九州陶磁文化館蔵
▼ 「柴田夫妻コレクション」染付蝶花唐草文輪花皿 1670年代頃 九州陶磁文化館蔵
▼ 「柴田夫妻コレクション」色絵山水花唐草文大皿 1655. 60年代 九州陶磁文化館蔵
伊万里(IMARI)の名を世界に知らしめたのは、オランダ連合東イ
ンド会社(VOC)でした。VOCは中国・景徳鎮窯の磁器をヨーロ
ッパへ輸出していましたが、明朝末期の動乱により景徳鎮を扱えな
くなったため、長崎・出島にも近い有田焼に着目します。1650年
代にバタビア(現ジャカルタ)の VOC本店へ試験的な輸出がはじ
まり、1660.1700年代にピークを迎えます。VOCの難しい要求
に応えながら窯元は工夫を重ね、ティーポットやビアジョッキなど、
ヨーロッパの生活習慣に合わせた磁器も開発されていきました。
▲ 「柴田夫妻コレクション」色絵蓮文水注 1660.80年代 九州陶磁文化館蔵
▼ 「柴田夫妻コレクション」染付牡丹蝶文蝶形小皿 1660.80年代 九州陶磁文化館蔵
故・柴田明彦氏は生前のインタビューの中で「有田は海外からの注文に応え、自
国にない文化・歴史に合わせた質の高い磁器を生んだ特異な産地。磁器の美しさ
だけでなく、技法の変遷や時代にそった嗜好の変化といった歴史的背景を作品か
ら感じとり、現代の製品開発に活かして欲しい」という意味の言葉を遺されています。
▲ 「柴田夫妻コレクション」染付唐草文瓶 1780.1820年代
▲ 「柴田夫妻コレクション」色絵東屋山水草花蝶文大瓶 1840. 60年代
九州陶磁文化館蔵
九州陶磁文化館蔵
▼ 「柴田夫妻コレクション」1670.1690年代 色絵松竹梅岩鳥文輪花皿 九州陶磁文化館蔵
▲ 「柴田夫妻コレクション」染付花唐草透彫輪繋文鉢 1680.1700年代 九州陶磁文化館蔵
▲ 「柴田夫妻コレクション」色絵団鳳凰梅樹文兎形鈕付蓋物1690.1720年代 九州陶磁文化館蔵
▼ 「柴田夫妻コレクション」色絵松竹梅獅子牡丹文輪花小皿 1730.70年代 九州陶磁文化館蔵
▼「柴田夫妻コレクション」染付阿蘭陀船文輪花大鉢 1820. 60年代 九州陶磁文化館蔵
柿右衛門をはじめとする色絵磁器はヨーロッパ諸侯の間で珍重され、
ヨーロッパで初めて硬質磁器の製造に成功したドイツ・マイセン窯
も柿右衛門を精密に模写します。やがて景徳鎮の輸出が再開しヨー
ロッパ各地でも磁器を作るようになるとVOCを通じた輸出は下火と
なり、江戸中期に有田の磁器は国内向へシフトしました。また波佐
見焼などは庶民の雑器にも使われはじめます。それから約 100年後
幕末から明治にかけパリ万博やウィーン万博に有田磁器が出品され
ると、その美しさはジャポニズムブームを巻き起こしました。ウィー
ン万博の出展を企画したドイツ人化学者・ゴットフリード・ワグネルは、
有田焼の近代化に貢献した人物としても知られています。
展示室の一画を占める「蒲原コレクション」。蒲原 権氏が昭和 49年にヨーロッパで蒐集し、
(有田町所蔵)日本へ持ち帰った肥前磁器のコレクションです。17世紀後半から18世紀前半の輸出用古伊万里が中心で、
フランスの窯などで模倣された作品も一部含まれています。中国やヨーロッパとの国際競争に打ち勝つため、絢爛豪華な絵柄や様々なデザインを創り出した職人たちの熱意を感じます。
有田駅まえに
40年つづく喫茶店「サンフラワー」。有田の街を見
続けてきた中島さんが、伝統工芸士・村島昭文さん(昭文窯)の
器でコーヒーをたててくれました。100万人が訪れる陶器市などイ
ベント以外の日は静かな有田。もっと賑わって欲しいといいます。
ろくろの名手として知られる村島昭文さんは、深川製磁に約
40年つ
とめる間、宮内省御用達の磁器を作り続けていました。昭和天皇の
ために極薄の軽い器を作ったこともあるとか。
BC工房 主人 鈴木惠三
椅子の師匠その 2
別冊商店建
築
78「日本の木の椅子」
長崎の路面電車と長崎新地中華街。
有田から長崎へ。JR大村線からのぞむ波静かな大村湾は、
深い呉須色に見えました。
長崎中華街を代表する菓子「麻花兒
江戸時代、長崎の中国人居留地には1万人ほどの中国人が暮らしていました。貿易量もオランダをしのぎ
3分の2以上は対中国貿易だったそうです。かつての新地中華街には貿易品の倉庫が立ち並んでいました。
」は、小麦粉、砂糖、塩などをこねたものを、縄状にねじって油で揚げたお菓子で、その姿から「よりより」とも呼ばれます。一説には素麺のルーツともいわれます。
)マファール
(
オランダ坂をのぼりライトアップされた活水学院へ。明治12年(1879)米国から出島メソジスト教会に招聘された女性宣教師エリザベス・ラッ
セル女史は、来日わずか1週間で女学校を開校しました。大正15年完成の本館はヴォーリズ事務所で活躍したJ.H. ヴォーゲルの設計です。
東山手の居留地はかつて治外法権の外国人街でした。急坂を登り降りするうちに、路面電車の終着点・石橋電停にたどりつきました。
▲ 2段となった洋風住宅が細い路地と坂道でつながっています。
▼ 東山手住宅群から「長崎孔子楼」を望めます。
東山手洋風住宅群には 7棟の洋風住宅が並んでいます。明治 20年代後半に外国人向けの社宅か賃貸住宅として建てられたといわれ、今
は資料館として一般に公開されています。日本が開国されたのち急増した外国人によって開発された居留地には、貿易会社のオフィスや住
宅、ホテル、学校、劇場、バーなどが立ち並んでいました。瓦屋根の木造洋風建築は、武家屋敷のような瓦を載せた塀で囲まれています。
英国人・トーマス・ブレーク・グラバーが長崎に上陸したのは、開国間もない1859年。当時 21歳のグラバーが
商会をたちあげ最初に手がけたのは、お茶の輸出でした。グラバー邸の中には茶を煎った小屋も残っています。
▲ポルトガル伝来のカステラと日本の緑茶を合わせた抹茶カステラ。
▼ お茶を煎った小屋と馬屋。
ベランダを周囲に巡らせたコロニアル風の住宅は 1863年に建てられた日本最古の木造西洋風住宅です。外国人
居留地の建物を多く手がけた小山 秀によるものといわれています。
旧グラバー邸を中心に長崎にのこる歴史的洋館を移設したグラバー園。戦艦武蔵を建造したことで知られる三菱重工長崎造船所を望む高台にあります。旧グラバー邸を中心に長崎にのこる歴史的洋館を移設したグラバー園。戦艦武蔵を建造したことで知られる三菱重工長崎造船所を望む高台にあります。
幕末にグラバーが武器商人として活躍したことは有名な話です。日本の内乱は予測よりも早く決着し、
大量の武器を抱え困ったグラバーは、薩摩藩や佐賀藩と共同して造船業や炭鉱開発にのりだします。
ソロバンドックとも呼ばれる小菅修船場は三菱重工長崎造船所のルーツとなり、高島炭鉱は明治
14
年、三菱の岩崎弥太郎が引き取ります。こうしてグラバーは三菱のよきパートナーとなっていったのです。
グラバー亡き後、邸宅には息子の倉場富
三郎氏が暮らしました。水産学者の倉場
氏はトロール船漁法を実践したり、グラ
バー図譜と呼ばれた「日本西部及び南部
魚類図譜」をまとめるなど水産業の発展
に貢献しました。一説には第2次世界大
戦中にスパイ容疑をかけられ、邸宅から
見える戦艦造船の機密を保持するという
理由からグラバー邸から立ち退かされまし
た(後に三菱が買い取ります)。原爆投下
の惨状を体験した倉場氏は、終戦直後の
1945年
8月
26日に自ら命をたっています。
日本4大魚図譜のひとつといわれる「グラ
バー図譜」は、遺言により渋沢敬三氏に
贈られます。渋沢栄一の孫であり、漁業
民俗学者としても活躍した敬三氏は、倉
場氏の理解者のひとりでした。
中島川にかかる「出島橋」は、現用されている最古の鉄橋です。明治
23年(1890)に米国から輸入した鉄骨を組み立てて架けられ、その後現在の場所に移設されました。橋のたもとには出島跡があります。
▲旧長崎内外倶楽部。煖炉の上に掲げられた名札入れに
は、倉場富三郎氏はじめ政財界人の名が入れられています。
▲出島跡の旧長崎内外倶楽部。明治 36年(1903)に
国際的な親交の場として倉場富三郎氏たちにより設立さ
れました。隣には 1878年に建てられた現存する日本最
古のミッションスクール「旧出島神学校」(▼ )があります。
長崎出島は寛永 13年(1636)、岬の突端に築かれた奥行き約 70m、幅約 190mの扇状の人工島です。その造営方
法などは謎でしたが、平成 8年から開始された本格的な発掘調査により徐々に明らかになっています。また当時の
礎石や絵画、模型(ブロムホフの出島模型)などをもとにして、江戸時代の住居や蔵の復元工事も進められています(現
在 10棟完成)。出島に最初に暮らしたのはポルトガル人でした。キリスト教の布教を避けるためポルトガル人の来航
が禁止されると、平戸のオランダ連合東インド会社(VOC)が出島に移転します。以来 700隻以上のオランダ船が出
島に入港し、発掘調査によって陶磁器や商館員の生活器など 50万点以上の遺物が発見されています。
▲海に面していた南面の護岸石垣。石垣の上部には石積みの練塀を再現しています。
▼オランダ・マーストリヒト産の小花模様の陶片。19世紀中頃イギリスやオランダで量
産されたプリントウェア(銅版転写陶器)も沢山発掘されています。
出島からはヨーロッパ、東南アジア、中国、中東など世界各国の
陶磁器が発掘されています。VOCなどの幅広い交易によって陶磁
器文化が交流し、互いに影響し合った歴史をうかがえます。
陶磁器が発掘されています。VOCなどの幅広い交易によって陶磁
器文化が交流し、互いに影響し合った歴史をうかがえます。
▲ イラン産の陶片。イランには VOCの支店がありました。
▲ 中国・景徳鎮の染付人物文皿(1 7世紀)
▲蔵の耐火性を高めるために使われたバタビアからの輸入レンガ。
▲ 出土品を展示した旧石倉(考古館)。
▲ オランダ・デルフト産の芙蓉手花卉文皿(17世紀中頃)
▲ イギリス・スタッフォードシャーの中東風景図皿(19世紀中頃)
一番船船頭部屋には、オランダ人船長や商館員の住居が再現されています。基本的な作りは長崎の町家と同様で、家具調度や壁紙を工夫して洋風の生活を営んでいたようです。1階の土間は倉庫になっていました。
オランダ船は毎年夏場に入港し数カ月停泊しましたが、それ以外
の時期、出島に常駐した外国人はわずか十数名でした。出入りの
厳しく制限された小さな島で、商館員たちはパイプや酒(ワイン、
ジン、ビール)などで心をいやしたのでしょう。故郷をしのばせる
洋風のガラス窓や手すりは商館員が自費で作らせたといわれます。
特にオランダがフランスと戦った19世紀前後、オランダ船の来航
がとだえたため商館員は厳しい立場にあり、一時はアメリカの船を
やとい、オランダ船として入港させたこともありました。
▼ 河原慶賀「商館絵巻」より宴会の図 長崎歴史文化博物館蔵
当時の出島に唯一出入りできた女性は長崎の遊女たちで、失恋を
苦に失踪したオランダ人医師もいたほどででした。料理人も駐在し、
出島内で飼育した牛や豚を料理部屋で調理していました。南蛮菓
子を日本人に伝えたのもこうした料理人だったのかもしれません。
▲商館員の愛用したクレイパ
イプ(陶製の使い捨てパイプ)
▼ VOCロゴを中心に描いた芙蓉手花鳥文の有田磁器(17世紀末.18世紀初頭)。中・蘭・日のコラボレーション作品といえるでしょう。
▲ 大坂住友で作られた棹銅。長崎市教育委員会蔵
江戸時代に出島から輸出されたのは銅や陶磁器、樟脳、漆器、醤油などです。重要な輸出品だった銅は、大坂で「棹銅」と呼ばれ
るインゴットに加工され、多くはアジア地域の硬貨に使われました。輸入品は砂糖をはじめ絹織物や、スパイス、染料(スオウなど)、
ガラス製品、書籍などでした。また商館長(カピタン)による定期レポート「オランダ風説書」は幕府にとって重要な海外情報源でした。
商館員や船員は、VOCの正式な貿易品の他に「脇荷」
と呼ばれる私貿易も行ない利益を得ていました。
砂糖を納めた「三番蔵」では江戸の役人が綿アメを作っていました。シュガー
ロードの源流にやっと到着です。砂糖はジャワ島のプランテーションで栽培さ
れ、一説には輸入品の
2.
5割を占めていたといわれます。
幕末の長崎ではオランダ商館長のすすめにより西洋式軍艦の訓練所「長崎海軍伝習所」が開かれ、オランダ国王ウィレム
3世
から「観光丸」が寄贈されました。1987年、観光丸はオランダ・フェロルメ造船所で復元され観光船として活躍しています。
師走とお正月。
昭和30年代から50年代に掛けて幼少期を育った僕は、その頃の決して豊
かではなかった田舎の日常生活に強く憧憬する。遊び道具は工夫して山や海
に行って、自分たちで何でも作った。小さな頃から先生には随分と殴られたし、
顔には何度も青彩が出来るくらいのけんかもした。工作用のナイフを持ち歩
いて山に入り、ナイフで手を切って怪我をしてでも何でも作った。山ではタ
ーザンの真似をして木から落ちたり、海に行けば溺れそうになったりしなが
ら自然から色んなことを学んだ。そして、年末年始になれば家の大掃除やお
せちの準備を嫌々手伝ったり、餅つきをしたりした。大晦日はこたつに入っ
て紅白を家族で見ながら、母が年越しそばを作り、みんなで除夜の鐘と新年
をお寺にお参りして迎えることが厳かで温か
みのある家族の大切な思い出だ。年末やお正
月独特の晴れやかで厳かな匂いは今も故郷の
大切な記憶なのだ。その頃はそれぞれの家庭
にそれぞれの師走とお正月の景色があり、そ
んな時代の景色を思い出すと昭和の時代は良
かった、と思う。
多くの時間を掛けて、沢山の人々がしのぎを
削ってきた過去の歴史の上に今の私たちの平和な日本が存在していることに
敬意と感謝の思いを忘れてはならない。本当は靖国参拝をすることが悪いわ
けではないし、祖先を敬い、礼を重んじる日本人の素晴らしさであることは
私たちが誇るべき日本の精神文化だと思う。そんな先人達の苦労の上に今の
平和があるとすれば、昨今の表層的な豊かさと先進国意識は日本人の精神性
を堕落させ、日本人としての生き方の美学を喪失してしまったのではないか
とさえ感じる。
茶の湯文化や武士道や明治維新やら、現代日本人の拠り所になっている過去
の象徴的日本が形骸化してしまい、とっくの昔に中身(魂)は失われ、骨抜
きにされてしまっているのではないか。そんな気がしてならないのは私だけ
なのだろうか? 震災復興の遅さにしても、この冬の寒さを考えるとこの2
年間で国や私たちがやるべきことを行ってきたのか? 自らを問わなければ
ならない。お題目ではなく、公約でもない、今、本当にやるべきことを考えて、
今、実行してゆかなければ手遅れになってしまう事実が山積している。
大声で政治と宗教の話はするなと昔から言われている。先日の衆議院選挙の
結果を見ると『日本の国や政治がヤバいのは、私たち国民がヤバいからじゃ
ないか?』と言う社会人として発すベカラザル禁句もこぼれてしまう。この
ままでは日本は彼らの掲げる国粋主義へと偏り、戦後の平和と成長の鍵であ
った日本の誇る平和憲法さへも捨てかねない勢いだ。日本の国民はそれで本
当に良いと思っているのだろうか?
3年前には国民がこぞって持ち上げた政権を完全に放り、泥付きの靴でその
顔を思いっきり踏みにじり、今度はポンコツ寸前の右化した爺揃いの帆船に
全員で乗り換える(僕にはそのように見える)ありさまには、これからの日
本の未来が心配になる。それがこの国の現実
であり、多くの国民の総意なのだと今回の選
挙結果を見てしみじみと脱力した。国民がこ
のまま政治の迷走を許せば、平和憲法9条は
改憲されるような取り返しの付かない道を私
たち自らの手で進めることになりかねない。
それは同時に東アジアの近隣諸国に宣戦布告
することに同義であることを私たち国民は理
解しているのだろうか?韓国や中国、北朝鮮
を含め、日本が第二次大戦で侵攻した多くの
アジアの国々の人々に対する大きな怖れとなることを政治家だけでなく、日
本国民が認識するべきではないだろうか。もっと私たちは近隣の国々の人々
と強調し、双方の立場に配慮して、アジアの同胞として仲良くしてゆくべき
ではないだろうか。
マスコミや評論家達の論評を真に受けて、そのままを鵜呑みにして自らが思
考して判断することをしない、戦後処理が進まない日本は本当の意味で文化
的な先進国と言えるのだろうか。国際的分別において日本は歴史認識が甘く
(ほとんど分かっていない気がする)幼児性が抜けないと言うのが真実だと思
う。世界に自分達だけが生きている訳ではなく、様々な国や人種、そして宗
教や考え方を持った人々が存在する。貧しかったけれど謙虚で一生懸命に明
るい未来を信じていた成長期の時代を懐かしく思い出す。龍
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