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時空にえがく美意識
2月号 情人節 2013
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記憶の方船
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端島(はしま)へ ……
軍艦島ツアーで知る炭鉱の暮らし
軍艦島上陸ツアーに参加するため、長崎港ターミナルビルにむかいました。ここからは、五島列島や伊王島、高島へ向かう旅客船も出港しています。ちょうど港に入ってきたのは、やまさ海運の運行する外輪船「観光丸」。長崎港をめぐる観光船として利用されています。オリジナルの観光丸は1855年(安政 2年)に長崎海軍伝習所の練習艦としてオランダより贈られた日本初の蒸気船です。現在の復元船は、当時の設計図を元にオランダ・フェロルメ造船所で建造されました。右は長崎港を象徴する三菱重工長崎造船所。明治期のハンマーヘッドクレーン(国の登録有形文化財)がいまも稼働しています。軍艦島ツアーの船が出港しました。三菱の造船所の向かいには、ソロバンドック(小菅修船場)をはじめ大小の造船所が林立しています。緑にかこまれた丘の上には、グラバー邸の姿も見えます。
▲ 補修や新造中の護衛艦も見られます。長崎の造船所は「武蔵」をはじめ数々の戦艦を送り出して来ました。
女神大橋を過ぎると、右手に白亜の神ノ島教会とマリア観音像が見えてきます。かつては独立した島だった神ノ島は(現在は陸続き)、キリシタン弾圧の時代に、各地から移住した信仰者が隠れ住んだ島として知られています。時代は明治となり、信者達は日本にやって来た神父に信仰を告白します。東洋の国に 250年以上の弾圧を耐えぬいた信者がいたことは、驚きをもってキリスト教圏に報じられたそうです。
▲長崎港をまたぐ女神大橋。裏側も美しくデザインされた斜張橋。
船はドルフィン桟橋に接岸します。端島住民の悲願だった旅客用桟橋は激しい波によって 2回も流され、現在は 3代目です。波の高い日は上陸できないこともあります。
長崎の島々では、高島炭鉱、池島炭鉱、端島炭鉱、崎戸炭鉱、松島炭鉱などの西彼杵炭田(にしそのぎたんでん)が明治から平成にいたるまで、良質な石炭を送り出して来ました。江戸時代から島々では、漁師たちが副業として地上に露出する石炭を採っていました。ちなみに18世紀後半、木崎盛標によって描かれた肥前州産物図考「石炭・焼物大概」には、石炭を露天掘する様子が描かれています。長崎の炭鉱開発を進めたのは、幕末に佐賀藩と共同したトーマス・グラバーでした。最初に高島炭鉱の開発がはじまり、岩崎弥太郎の三菱に経営権が移ると本格的な採掘が始まりました。グラバーは西洋の採炭技術を導入し石炭産業の礎を築きます。1960年代に高島炭鉱はピークをむかえ粉塵爆発事故を機に1986年閉山します。今も鉄筋コンクリート造の炭鉱集合住宅が多く残されています。集合住宅は、主に職員(三菱の社員)と鉱員に分かれていて、職員住宅は主に高台に建てられています。職員住宅は間取りも広く風呂付きの住居もありました。共同浴場も職員と鉱員で分けられていました。こうした住環境の違いは、山間部の炭鉱町と同様です。学校の 6階部分は講堂や音楽室として使われたため、天井高が高く、面積を広くするため廊下やトイレが張り出しキャンチレバー構造になっています。左はベルトコンベアの土台跡のようです。端島に上陸した我々を迎えてくれたのは、7階建の立派な小中学校(1958年)でした。端島炭鉱は、明治の初めから炭鉱の開発がはじめられますが、暴風や波をかぶる厳しい自然環境により開発はなかなか進まず、所有者であった旧鍋島藩深堀領主・鍋島孫太郎から三菱へ譲渡され100年以上にわたり三菱の所有地となります。三菱は炭鉱からでる「ズリ」を利用して島の面積を拡張していきます。明治 26年(1893)には三菱社立の尋常小学校が設立され、家族ぐるみで島に暮らす人々が多かったことも分かります。やがて端島には幼稚園、小学校、役場、派出所、消防施設、神社、寺、老人クラブ、病院、映画館、パチンコ、麻雀店、テニスコート、照明付きグラウンド、撞球場、海水プール、各種商店、食堂、数カ所の共同浴場などが次々と整備され、ひとつの街として完成します。戦前はタコ部屋労働などによって近隣国を含め多くの方々が炭鉱の犠牲となりました。一方戦後、高度成長期の炭鉱生活は市街地に比べても豊かで明るいものだったようです。電気、水道、ガスなどは定額制で、家賃も必要なく、映画館では最新のロードショーが封切られ、長崎から船に乗って観に来る人もいたといいます。廃墟の聖地ともいわれた端島は、長らく島内への立ち入りを禁止されていましたが、2009年から観光客の上陸が許可され、見学用のルートが整備されました。ルートには 3カ所の見学広場があり、地元ボランティアの方々が炭鉱の歴史や往時の生活を解説してくださいました。第 1広場の周辺はかつての作業場跡で、スクラップとして鉄骨の建物は撤去されているため、煉瓦造や鉄筋コンクリート(RC)の土台部分が残されています。明治期に焼かれたレンガの中には三菱の社印をうったものもあるようです。島には一切水が出ないため、明治 24年(1891)には、海水を蒸溜して真水をつくり、副産物として製塩を行う設備が作られます。昭和 32年(1957)に野母半島からの海底送水が始まるまで、端島の水事情は過酷なものだったようです。
1974年の閉山直後から、東京電機大学阿久井喜孝教授の研究室が中心となり、数年にわたる実測調査が行われました。その成果は建築雑誌「都市建築」(鹿島出版会)の特集や連載として発表され、現在はそれを1冊にまとめた「[復刻]実測・軍艦島」が刊行されています。当時、阿久井教授は端島の特徴として 5つの要素をあげています。
1)長さ
480m、幅 160m余り、面積 6.3ヘクタールに、一時は 6000人近い超過密人口を抱えた島だった。
2
)戦前のいわゆるタコ部屋労働者たちが、当時最先端の鉄筋コンクリート住宅で暮らしていた。
3
)岩盤を中心とした地形・台風が通過する気象・洋上の
孤島としての自然の厳しさ。
4
)炭鉱という機能を果たすため生活と職場が重層し、大
企業により丸抱えされた地縁的単一社会で、ヒエラルキー
が明確に別れた管理社会であった。
5
)ゆりかごから墓場まで、ライフサイクルの全てが島の中で完結していた。島に上陸して気づくことは、塀や柵が見当たらないことです。各建物は空中回廊や階段で有機的につながりあい、プライバシーのほとんどない濃密な近隣関係が築かれていました。これは端島だけのことでなく、採炭という単一の目的のために働く人々の集まる炭鉱町特有の街のあり方です。端島を理解するには、地下に縦横無尽に張り巡らされた炭鉱が、島の主役であることを忘れてはならないと感じました。
日本最初の鉄筋コンクリート造集合住宅といわれる 30号棟は、大正 5年(1916)に建てられました。建物の内側に中庭や通路、階段を設けた口の字型の平面で、高波を被っても中は行き来出来るように工夫されています。6畳一間にかまど、押入れ付きの部屋が連続していたようです。
軍艦島という別名の由来となった、西側から見た端島。
大正7年(1918)に建てられた16〜20号棟(通称:日給住宅)は、当時世界的に見ても先端的なラーメン構造の鉄筋コンクリート造です。「グロピウスのシカゴ・トリビューン社コンペ案やコルビジュエのドミノ理論にさきがけ、屋上庭園やピロティ、カーテンウォール、フリーパティション、吹き抜け廊下、メゾネット形式などを大正初期に大規模に実証している」と阿久井教授は評価しています。
帰りの船から見た、伊王島町の馬込教会。伊王島もかつては炭鉱の島で、今はリゾートの島として知られています。
現在の日本は世界有数の石炭輸入国であり、オーストラリアやインドネシアから年間約 1億 7000万トンもの石炭を輸入して、火力発電所や製鉄所などで利用してます。近年は「クリーン・コール・テクノロジー」など二酸化炭素や有害物質の排出を減らす技術も進化しています。日本の炭鉱はほぼ全て閉山しましたが(北海道「釧路コールマイン」は操業中)、全埋蔵量は 200億トン以上あるといわれています。
新連載素敵な人たちその1吉田龍太郎(TIME&STYLE)
生きていると沢山の素敵な人たちとの出会いがある。元気に生きている人たち。そして、今は亡き人たち。今生きている者もいつかは必ず死んでゆく。死からは誰も逃れることが出来ない。自分も愛する人たちも、いつか必ず死ぬ。それはいつか分からないし、ずっと先かもしれない。だから自分で今と言う瞬間を感じることはとても素敵なことだ。誰かに大切なことを伝え忘れてはいないだろうか。今すぐ誰かに便りしよう。今すぐ大切な人に会いに行こう。子供達や若者達、そして年老いた人々も、未来への希望を抱き続けることが、生きると言うことだ。今を感じて、今日を感じて、希望を抱いて生きることは、何と爽やかな気持ちになるのだろう。生きていると色んな人たちと出会う。一人一人が全く完全にオリジナルで、どこにも同じ人間は存在しない。その人が親から命を授かり、日々の瞬間を重ねて、年を重ねてきた積み重ねがその人の今となり、そして私達のその人の記憶となる。たぶん、その人の人生だけでなく、延々と生を繋いできた多くの今は亡き人々の深淵な経験の記憶が今を生きる人の面影として投影されているのだろう。今、元気な人もいつかは記録や記憶の中でしか会えない存在となってしまう。これまで出会った素敵な人々との記憶を忘れないように記しておこう。昨日まで旭川の自社工場に行ってきた。極寒の真っ白な世界の中に建つ工場の中で、白木の温もりのある材料を使い、一つ一つの製品を家具職人一人一人が丁寧に作り出している。マイナス 20度にもなる深雪の世界に建つ工場内では職人達が無駄のない動きで小走りしながら縦横に交差してゆく。外の世界とは対局にあるような温かみのある製品が丁寧に生み出されてゆく。その工場の中にも色々な人間ドラマが存在する。旭川に工場を設立して 5年になる。僕らは 23年前、ドイツのベルリンで会社を始めてから、16年前に自由が丘にお店を作り、いくつかの店舗作りをしてきたものの、自分たちの自社工場をたてるとは夢にも思わなかった。今から 8年前、会社の専務をしている弟の安志が突然に、将来、自社工場を作る為に北海道の旭川に移住し、委託生産をお願いしていた工場に行くと言い始めた。弟の安志とはこれまで 25年近く一緒に仕事をしてきた。時々、彼は政治家になる、とか、ブラジルに行くとか、農業をやるとか、ホテルをやるとか、親父に似て今でも時々寝ぼけたことを言い始める。その時もまた例の病気が始まったと思っていた。南国宮崎生まれで 3人の子供の 5人家族全員で世田谷から北海道の旭川へと家族みんなで移住してしまった。それから 8年の歳月が流れ子供も 4人となり6人家族、子供達は冬場、クロスカントリーや格闘技で鍛え上げられ、旭川生まれの子供達と同じように完全に旭川に腰を落ち着けてしまった。しかし、その家族のみんな、子供達も嫁さんも本当に幸せな顔をしているのだ。何が人生に幸せをもたらすかは分からない。しかし、彼らの挑戦は家族の笑顔が物語っているように、彼らの人生に大きな幸せを生み出したのだ。その幸せの感覚は旭川の自社工場にも繋がっているようだ。旭川の工場では熟練の 60代の職人達から 30、40代の働き盛りの職人、20代の若手まで様々な年代の職人が働いている。最低限の機械加工によって製品を一つ一つを手作りで生み出してゆく。受注生産でありながら、プロダクトとしての精度や安定性を生み出しつつ、作り手の手の痕跡をわずかながら残した佇まいの製品を目指している。全くの家具作りの素人といってよい人間が立ち上げた工場も、今では経験豊かな職人達の協力と本人達の努力もあり、メーカーとして新たな生産方法のあり方を追求し、未来に向けたビジョンを有する工場へと成長しつつある。23年前にベルリンで弟達と 3人でスタートしてから今日まで沢山の人々と出会い、そして時を重ねてきた。抽象的な創造的何かを作りたくて始めた仕事も、今では複雑で有機的な生き物のような形となってきた。偶然の積み重ねによる化学変化の組成物のように生み出されたもの達が、それぞれに呼応し合い結び合う奇跡のような偶然の産物が私達一人一人の人生なのだ。
80歳をむかえた今も世界各国で建築写真を撮り続ける二川幸夫
(ふたがわゆきお)氏。「自分は建築写真家ではない」と公言し、個展を拒んできた同氏の国内初めてとなる写真展が、パナソニック汐留ミュージアムで開催中です(2013年3月24日まで)。展示されている作品は、20歳前後に全国行脚しながら撮影された民家の写真です。二川氏といえばフランク・ロイド・ライトや磯崎新氏をはじめ、国際的なモダンアーキテクトの写真というイメージの強い方ですが、原点には日本の民家があったのです。京都や飛騨高山、佐賀、山形、岩手、秩父、山梨と、撮影地は全国に点在しています。写真は美術出版社社長であった大下正男氏の目にとまり、1957〜 59年にかけて刊行された「日本の民家」全 10巻は、毎日出版文化賞を受賞しました。二川氏はこの本の解説文を、新進の建築史家だった伊藤ていじ氏に依頼。二川氏は伊藤氏をつれて交通の不便な撮影地を再訪しています。徹底した現地取材を行う二川氏の姿勢は 20代から貫かれていたのです。また氏の特徴である建築航空写真も、当時から撮影されています。一方伊藤氏は、文化財としての民家を確立した研究者として、調査・保存活動の中心を担ってゆきます。
昨年1月の「今和次郎採集講義展」を契機に、民家への興味を深めたという学芸員の大村理恵子さん。「日本の民家」を再び世に問いたいという思いが、個展を拒んできた二川氏を動かしたようです。展覧会にあわせ同書を再編集した大型本「日本の民家一九五五年」が A.D.A.EDITA Tokyoから刊行されました。
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二川氏の指名により、会場構成は建築家・藤本壮介氏が手がけました。
▲ 二川氏の運営する出版社 A.D.A.EDITA Tokyoの本も展示。
BC工房 主人 鈴木惠三
椅子の師匠渡辺力さん
BC工房「安楽リキ椅子」 10年以上のロングセラー。
週間新潮 2013年 1月31日号
Vectorworks 2013発表会
CADは BIMの時代へ
1月10日、東京・品川を皮切りに全国 11カ所をめぐるVectorworks 2013全国キャラバンが開催されました(主催A&A)。東京、大阪会場にはソフト開発元 NemetschekVectorworks, Inc.の CEO ショーン・フラハティ氏が来場し、世界的な潮流のなかで Vectorworksが何を目指していくかを熱く語りました。
Vectorworks 2013新製品発表会。1月10日、東京コンファレンスセンター品川にて。ユーザーを中心にほぼ満席の来場者が集まりました。その後全国キャラバンは、大阪→鹿児島→福岡→高松→名古屋→札幌→仙台→弘前→新潟→福井をめぐりました。
予想以上のスピートで広がる「BIM」の普及
CADソフトの発表会といえば、まずは新機能の説明からというのが従来の流れでしたが、フラハティ氏が冒頭で語りはじめたのは「BIM(ビルディング インフォメーション モデリング) 」への対応でした。いま世界的に広がっている「BIM」は、今まで別々に扱われてきた意匠・施工・構造・設備・ランドスケープ・環境評価などの図面やデータを、全てひとつのモデリングデータに集約することで、設計から施工、メンテナンスまでを合理化し、質の高いものにすることを目的としています。BIMが注目される理由のひとつは、設計・施工に必要な知識や技術の多様化です。建築デザインの自由度がひろがり、1階、2階といった従来の設計図では表現できない建築物も増えています。それに伴って設備の納まりや、法規への対応、コスト計算、プレゼン CGの制作なども複雑化し、環境への影響予測など新しい設計要素も増えました。「ひとつの設計ソフトで全てを網羅する時代は終わった」とフラハティ氏。これからは、各専門ソフトが連携し、CADは BIMの中核(ハブ)として機能する時代といいます。
設計作業のグローバル化に欠かせない BIM
世界各国 70社が開発に参加したといわれるボーイング 787でも分かるように、建築設計・施工の世界もグローバル化が進み、東南アジア・中国で活躍する日本人デザイナーも急速に増えました。各国の専門家がサーバ上のデータにアクセスし、共同で
BIMの技術向上を目指し世界各国で開かれる仮想コンペ「Bu ild Live」。
休憩時間。参加者からフラティ氏へ様々な質問が……。
Vectorworks2013の新パッケージ。用途に合わせて 5種類あり。「Open BIM」に参加し、多様なソフトとのファイル互換性を高めています。
設計を進めていくという時代も目前に来ています。こうした背景をふまえ、BIMキャンプ(集会で専門家同士が意見交換する会)や BIMを利用した仮想コンペ「Bu ild Live」などが盛んに行われVectorworksもそれを支援しています。「米国で開催されたBIMキャンプの人気テーマは著作権法に関するものでした」とフラハティ氏。BIMによる作業を円滑に進めるためには、データ互換性や著作権など様々な壁を越える必要があるようです。
BIMによって変わるソフトビジネス
次に力説されたのが「Vectorworksサービスセレクト」。これは年間契約でクラウドや無償バージョンアップ、ポータルサイトキャラバン会場各地では、現地で活躍するクリエーターによるVectorworks活用セミナーも行われました。東京会場では窪田茂さんが登壇。 の利用、セミナーの優待などを受けられるサービスです。中でMini CAD時代からのユーザーで、六本木「メルセデス・ベンツ コネクション」や「今治タオル南青山店」の設計手法を語ってくれました。
もクラウドサービスは、レンダリングの計算もクラウド上で行い、パソコンの負担を軽減できるという本格的なもの。BIMでのデータ共有もにらんだサービスでしょう。また他の事務所と共同作業を行う際は、バージョンの一致したソフトで作業を進めることが大切です。年間契約による無償バージョンアップは同一バージョン環境を整えるために必須のサービスといえます。3Dにおいて先駆的な機能を次々と開発してきた Vectorworksが、BIM時代にそなえ進化の舵取りを変えたことを実感させる新製品発表会でした。すでに130カ国で利用され、中国語版も開発された Vectorworks。ソフト開発・販売ビジネスから、設計・デザインの作業環境をトータルにサポートする企業へと進化していくことを予感させました。
新機能や BIMへの対応が A&Aからも解説されました。3Dデータを自由にカットして見られる「クリップキューブ」機能が注目を集めました。
ぶらりトーハク東京国立博物館
東洋館リニューアル
2013年1月リニューアルオープンした東京国立博物館
「東洋館」をぶらり訪ねました。トーハクは上野駅からも近いですが、東京メトロ千代田線・根津駅から言問通りを行くルートも素敵です。江戸情緒を感じさせる鰻屋、豆腐屋、寺院などを眺めながら坂道をあがり、右手に曲がって、東京藝大の古いレンガ校舎を過ぎるとトーハクの正門に着きます。▲ 東京藝大の赤レンガ1号、2号館は、都内でも最初期のレンガ建築。▲ うなぎ、豆腐、フレンチ、イタリアン、沖縄料理。根津のグルメ通りです。
▲古い日本家屋を改装したギフトショップを発見。
▲ 話題の「円空」や「王羲之」展で賑わう正門(2013年1月現在)。
▲ 根津から谷中にかけては、古い寺院が密集した寺町でもあります。
昭和 43年(1968)にオープンした東洋館(アジアギャラリー)は、建築家・谷口吉郎氏の設計です。金沢で九谷焼の窯元に生まれた谷口氏は、戦後、記念館や美術館、博物館建築の名作を遺しました。息子の谷口吉生氏もMoMA新館や 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館などで世界的に評価され、同じ敷地に立つ法隆寺宝物館(1999年)を設計しています。東洋館の内部は中央に大きな吹き抜けをもつ広いスキップフロアになっており、ル・コルビュジエのドミノシステムと、日本寺院の意匠を融合したような感じを受けます。2009年から耐震・改修工事がはじまり、2013年1月2日にリニューアルオープンされました。
▼ 5階、朝鮮の展示室。
▼リニューアルを担当したトーハクの展示デザイナー・矢野賀一さん。
今回の耐震改修工事で、吹き抜けにはガラス張りのシースルーエレベーターが新設され、フロアを眺めながら希望の階へ移動できるようになりました。エレベーターの出入り口には、90度の角度で 2つの扉が設けられています。
通常の耐震補強工事では、柱の周りに鉄板を巻いたり、ブレース(筋交い)を入れることで耐震性を向上する手法がよく使われます。一方、東洋館では谷口吉郎氏の意匠を出来るだけ生かすため、従来の壁に新しい壁を加える「増し打ち」工法が採用されました。新たに焼かれた壁面タイルも、当時の色ムラまで忠実に再現したそうです。展示ケースや石彫の台座には、様々な「制震装置」が組み込まれています。重ねあわせた金属プレートを滑らせるタイプや、ローラーを利用したタイプなど、展示品の重量や展示法に合わせ使い分けています。またケース全体をガラスで覆い、従来の金属フレームにガラスをはめ込んだスタイルを一新しました。
工事中に東日本大震災が発生しましたが、耐震補強をほぼ終えていたこともあり、建物に被害はなかったそうです。
▼ 緑釉連弧文長頚瓶 三国時代 (百済)6〜 7世紀 小倉コレクション保存会寄贈
▼ 印花文把手付壺 三国時代(新羅) 7世紀 小倉コレクション保存会寄贈▼四脚付壺 三国時代 (百済)6世紀 小倉コレクション保存会寄贈 ▼ 青磁蓮唐草文水注 高麗時代 12世紀
5階、朝鮮陶磁の展示が充実し、朝鮮半島における土器から磁器までの変遷をたどれるようになりました。壁付けの展示ケースは奥行きを出来るだけ抑え、展示品を身近に感じられるよう工夫したそうです。これらの多くは、朝鮮で電力会社を興した実業家・小倉武之助氏が蒐集したものです。
▲ 紅陶鬲 紀元前 2500〜前 2000年。中国で使われた煮炊き用の土器。
▲ 三彩牛車 馭者 唐時代 7世紀 横河民輔氏寄贈▼ 彩釉壺 紀元前 6〜前 4世紀 ガラス玉を埋め込んで装飾した土器。▼ 灰陶竈 後漢時代 1〜 3世紀 カマドをかたどった副葬品。
スキップフロアの吹き抜け通路部分も、展示空間として有効利用しています。展示室から吹き抜けにでて、半階層分の階段を登り降りしながら次の展示室に向かえます。展示を快適に見て欲しいという、谷口氏の心配りを感じさせます。
▲高さ 5mを越えるガラス板をフレームレスに連続させた中国絵画の展示。LEDのライン照明は色温度を変えられ、絵画作品の劣化を軽減する効果もあります。
▲曲面ガラスを使った中国青銅器の展示ケース。ケース内の小型スポット照明などには演色性の高い LEDが使われています。3種類の色温度をもつ LED器具を用いて、明るさを細かく調整することで展示品に合わせた光環境を作り出しています。
▲ 円形切子椀 イラン出土 ササン朝時代 左:松本徹氏寄贈 宙吹きガラスの切子椀。
▼ リュトン(角杯) シリア出土 8〜 9世紀 個人蔵 宗教儀式にも使われたガラス製の杯。
柱状のガラスケースをシンメトリーに配置し、神殿をイメージした古代エジプトのコーナー。中央のミイラは明治 37年に寄贈されたもの。▼ クメール美術の常設展示コーナーが新設され、アンコール(カンボジア)の彫像やレリーフが展示されていました。戦時中の昭和19年、ハノイに本部を置いたフランス極東学院と、当時の東京帝室博物館の間で美術品の交換をした際にやってきたものです。右はインド細密画の展示コーナー。額全体をガラスケースで覆い、顔を近づけて見られるように工夫しています。
昨年 140周年をむかえたトーハク。そのルーツは明治 5年(1872)御茶ノ水駅近くの湯島聖堂大成殿(孔子廟のひとつ)でひらかれた日本初の博覧会にさかのぼります。全国の絵画や書、剥製、漆器、陶磁器などをガラスケースに入れた陳列が評判を呼び、15万人もの人が訪れました。これは翌年に開催されたウィーン万博への出展準備を兼ねていたともいわれます。その後、明治 14年に現在地に竣工したコンドル設計のレンガ建築が博物館(旧本館)として利用されますが、大正 12年(1923)の関東大震災により崩壊します。そして昭和 12年、耐震耐火性を強化し700万円を投じた現在の本館が竣工し、戦中の厳しい時代をへて日本美術の殿堂となりました。一方東洋館には、小倉武之助氏をはじめ、横河民輔氏、松永安左エ門氏、広田松繁(不孤斎)氏など明治〜戦前に活躍した実業家・蒐集家のコレクションが多数寄贈されています。その収蔵品の変遷からも、日本と近隣諸国との関係の歴史を感じられます。
ち★第20回ヘミングウェイ、ウォッカを飲む
星ら卓上きたの
食文化ヒストリアン
大原千晴英国骨董おおはら
闘牛が好き。ボクシングが好き。釣りと狩猟が好きで、そして何より、
お酒が大好き。体は人並み優れて大きく逞しく、酒をめぐる逸話は数え
切れず、作品の硬質な文体とも相まって、作家ヘミングウェイ( 1899
〜 1961)は、男っぽいイメージが一杯だ。その一方でこの大作家には、
大嫌いなものが、あった。それは、スペインのフランコやヒトラーに代
表される、ファシストとその思想。全体主義を心の底から嫌っていた。
その憎悪の激しさは、いつしか彼をして、ドンキホーテのごとき波瀾万
丈の実戦行動へと駆り立てていくことになる。『陽はまた昇る』そして『武器よさらば』の成功で作家として世界的な
名声を博したヘミングウェイは、人生の転換点ともなったパリ時代を経
て、第二次世界大戦前から、三人目の妻マーサ・ゲルホーンと共に、キ
ューバの首都ハヴァナ近郊で暮らし始めていた。当時ハヴァナには、戦
乱急を告げる欧州を逃れ、米国入国を目指しながらも、それが認められ
ずに宙ぶらりん状態でそのチャンスを待つ亡命者の数が急激に増え始め
ている。黒いマネーが飛び交い、ドイツやスペインの諜報員も活発に活
動するなど、政治の暗流が渦巻く都市ハヴァナ。様々な謀略うごめくこ
の都市で作家は、海を一望する広大な敷地に建つ自邸「フィアンカ・ビ
ヒア」に人を招いて宴を楽しみ、当時としては超贅沢なクルーザー「ピラー号」を駆っての海釣り三昧という毎日。功成り名遂げた作家は、壮年にして志を喪ったかと思いきや、 1941年、ヘミングウェイは夫妻揃って、抗日民族統一戦線の将兵を取材する目的で、中国の重慶を訪れている(次ページ写真)。真珠湾攻撃直前のことだ。妻のマーサは、戦争取材に命をかけるという、当時としは突出した女性ジャーナリスト。二人は共に戦う「反ファシスト主義の同志」であって、その立場は明確に「反日」だった。そんな二人であってみれば、決してキューバで静かに隠棲していたわけでは、ない。釣り三昧は、実は、世間の目をくらますカムフラージュ。では、一体何を、作家は隠していたのか。スペイン系の人々が多く住むハヴァナの街に巣食うファシスト親派の動向を監視し、不穏な行動が見られるときには、その情報を在キューバ米国大使に報告することで、お国の役に立ちたい。スペイン人民戦争の現場を肌で知る自分には、そうした連中を嗅ぎ分ける経験と能力がある。ヘミングウェイは自ら大使にそう申し出て、その助力を得ながら、新たな「機関」(俗称「クルック・ファクトリー=悪党軍団」)を組織して活動を開始する。スパイ大作戦の始まりだ。しかし、この動きには FBIが厳しい監視の目を送ることなる。半素人に勝手な動きをされては困る、ということだ。やがて日米開戦をきっかけに欧州での戦況が激しさを増し始めると、ドイツ海軍の誇る潜水艦 Uボートがキューバ近海にも出没し始める。ヘミングウェイは、これが許せなかった。「この俺様が沈めてやる!」大まじめにそう考えた彼は、友人である在キューバ米国大使らを通じてONI(米国海軍情報局)に掛け合い、簡易レーダーや手榴弾など、
「ピラー号」搭載用の銃器や通信装置、本格的な武器と高性能の情報機器の提供を求めている。 ONIの窓口となったジョン・トマソンは血気にはやる作家の意気に相投じ、要望通り装備一式を提供している。「大作家の釣り」として度々雑誌に記事が掲載さることになる「ヘミングウェイの釣り三昧」は、実は、「Uボート探し」の隠れ蓑でもあったのだ。もっとも工作の成果は、わずかに一度、間近に Uボートの浮上を目撃しただけで終わっている。が、本人が本気でヒトラーに戦いを挑んでいたことだけは、間違いない。当時在ハヴァナ米国大使の下でヘミングウェイとの窓口となっていたのが、
以前イタリアで OSS(CIAの前身組織)の地区責任者を務めていた、ロバート・ジョイスだ。その彼を作家に紹介したのは、イタリア戦線の取材でジョイスを知った、作家の妻マーサである。マーサは夫同様「戦争の前線取材」という「刺激の強い一種の麻薬」の味が忘れられず、七十歳を越える年齢に至るまで、アメリカの戦争を前線に赴いて取材し続けることになる、大変な女性だ。 1944年2月、ノルマンディー上陸作戦が遂行されるという情報を入手したマーサは、夫の制止を振りきって、従軍記者として欧州に飛ぶ。その従軍先で出会った OSSの幹部に対して、夫をその特別部門 SIの
要員として欧州に招いて欲しいと懇願したというから凄い。ところで、ヘミングウェイの活動に対して FBIが厳しい監視の目を敷いていた裏には、長らく秘されてきた別の事情がある。それは、作家とソヴィエト・ロシアの諜報機関 NKVD(KGBの前身組織)との関係だ。両者の接触は、スペイン内戦時のマドリッドにまで遡るという。「敵(フランコ+ヒトラー)の敵(ソヴィエト)は味方」この発想が、ヘミングウェイが NKVDと関係を持つに至った原点にある。当時極度の物資不足に悩むこの街で作家は、NKVDから上質のウォッカとキャビアをふんだんに振舞われていて、 1937年のロシア革命記念日には、当地の NKVDの責任者アレクサンドル・オルロフに対して、心からの感謝を述べたという。その数年後ロシア側は、
「アルゴ」という諜報名を作家に与えて、情報交換の機会を絶やさないようにする途を講じ、両者の接触は、 1945年まで続くことになる。作家本人が乗り気であったからこその展開であり、この大作家は実は、本物のスパイになりたかったのではないかと言われている。ヘミングウェイは晩年に至るまでFBIを忌み嫌ったことで知られているが、 FBIの側からすれば、彼の身辺を探るに十分すぎる理由があったことになる。
12月5日から7日まで幕張メッセで開催された「第 7回再生可能エネルギー世界展示会 2012」。次世代エネルギーの開発が急がれるなか、約 42,500人の来場者でにぎわいました。同展は太陽光発電の総合イベント「PV Japan」と併催され、これからのスタンダードになる自然エネルギーを肌で感じ取れました。
華々しいのは、やっぱり太陽電池パネル
大手メーカーが並んでいるのは、やはり「PV Japan」の太陽光発電パネルコーナーでした。三菱、ホンダ、東芝、京セラ、シャープ、カネカ、パナソニックの他、カナダや韓国メーカーもあります。2012年から「再生可能エネルギーの固定価格買取制度」がスタートし、太陽光、風力、水力(3万 kW未満)、地熱、バイオマス発電による電気を電力会社が定額で買い取ることになりました。
なお買い取りにかかる費用は国民全体の電気料金に上乗せされます。なかでも太陽光発電の買い取り価格は、42円 /kWh(平成 24年度)という高値となり、太陽光発電パネルを設置する住宅や、太陽光発電事業に参加する企業が急増しています。はたして自然エネルギーの主軸となるか? 検証が進む前に制度やメーカーが過熱し、プチバブルを迎えた熱気がありました。
静かな熱意をもやす、マイクロ水力発電
水資源の豊富な日本で、安定したエネルギー供給源となるのが水力です。大規模な水力発電ダムは、環境や生活文化を破壊する悪者というイメージもありましたが、いま注目されているのは、自然環境を出来るだけ保全した中小規模な水力発電所や、より小規模なマイクロ水力発電です。
「水力アカデミー」のブースには、設備メーカーや大学の研究室など15企業・団体が出展し、マイクロ水力発電の技術や設備をアピールしていました。マイクロ水力発電の長所は、つねに安定した電力が得られ、24時間利用できる点です。例えば電線を引くのが難しい山小屋の電力を供給している例もあります。課題は河川の利用を定めた「水利権」などですが、自然エネルギーの利用促進を契機に見直しの機運が高まっています。マイクロ発電よりも規模の大きい、中小の水力発電設備を建設する企業も出展していました。いま各地の自治体から、水力発電施設を作りたいという問い合わせがくるそうです。その目的は町おこしや、教育活動、エネルギーの自給促進など様々で
マイクロ水力発電のメーカーや大学研究室が参加した「水力アカデミー」。
▲マイクロ水力発電は取水口を詰まられる葉っぱやゴミが悩み。そこで取水口のゴミを自然に流すスクリーンを提案。日本エンヂニヤのブース。▲水車を稼働させ、マイクロ水力発電を実演。LEDが沢山つきます。中越工業 +ウィンベルのブース。
すが、発電所として経済的に成り立たせるためには立地場所を慎重に調査する必要があるとのことでした。
一見地味だけれど、有望な地中熱利用・小型バイナリー発電
次に向かったのは地熱利用を促進する「地中熱利用促進協会」のブースです。地熱というと大規模な地熱発電所を思い浮かべますが、住宅でも可能な地中熱利用を提案していました。その一例が「地中熱ヒートポンプシステム」です。エアコンにも使われているヒートポンプを地中熱利用に生かす仕組みで、ヒートポンプの熱交換を地下に埋めたパイプによって行います。地中の温度は年間を通じて約 15℃と安定しているので、空気と熱交換するよりも省エネになり、ヒートアイランド現象の抑制にも役立ちます。通常のエアコンを使うのが難しい寒冷地では、すでに一般住宅のエアコン暖房に利用されているそうです。都心部でも省エネをすすめる有効な手段になると感じました。新技術として注目されていたのは「バイナリー発電」でした。これは 100℃以下の温水で蒸気を発生させ、タービンを回転して発電できる仕組みで、大規模なものは地熱発電に利用されています。これを小型化した装置は、焼却施設や工場の排熱、温泉水などを利用した発電に利用できるそうです。再生可能エネルギーの利用には様々な方法があり、それを細かく積み上げていくことが、全体の力になることが分かりました。一時のブームや華やかさに左右されず、現実をしっかりと認識して判断する必要があると痛感した展示会でした。▲イタリアの再生可能エネルギーについて講演会もひらかれました。
▲小規模な水力発電施設の建設を提案していた日本工営。
▲ 地中熱利用を促進する団体のブース。もっと積極的にアピールしたい所。
▲ IHIの小型バイナリー発電装置(試作品)。温水で発電できる。
Kenostein's Relativity Special小林 清泰アーキテクチュアルデザイナーケノス代表ケノシュタインの相対性
プラグインハイブリッド(PHV)がやってきた
昨年12月16日、プリウスプラグインハイブリッド(PHV)がやって来た。この30数年間、HONDA車にしか乗らなかった私が TOYOTA車を入手したことは、自分自身でもいまだに信じられない。本田宗一郎を尊敬してやまない私だから、浮気など絶対しないと思っていたし、考えもしなかった。HONDAオデッセイの初期モデルを9年間で 22万キロ乗ったが、エンジンは絶好調だった。しかし、さすがに足回りに「ガタ」が来つつあった。多少の修理をすればまだまだ乗れるのではと考え、車検も迫っていたので見積りを依頼したところ、50万近い数字が出てきて唖然としてしまった。これでは買い替えも視野に入れなければならない。近い将来、ガソリン価格の高騰は充分予測出来る。新車を買うならやはり HONDAと思い、ハイブリッド(HV)車であるイン サイトを検討した。一般道や高速道を試乗し、おおむね感覚を掴んだが、スペックがどうしても気に入らなかった。サスペンションが F1と同じダブルウィッシュボーンではない事と、後輪のブレーキがディスクではない事である。これでは HONDA車としての魅力がない。本来ならば、燃料電池型電気自動車(F C V)に買い換えたいところだ。1回のエネルギー充填(水素)でガソリン車と同様に 500km以上走れ、二酸化炭素を排出しない FCVは理想的だが、一般向けの販売は 2015年からの予定で、水素ステーションの普及もまだこれからである。環境負荷の軽減を考えれば、日産リーフのような電気自動車
(EV)という選択肢もある。しかし郊外型ショッピングセンターのデザイナーという仕事上、EVの実用航続距離(フル充電で150.180km)は現場へ行くのに短すぎる。元々 FCVまでのつなぎはハイブリッド車と考えていたので、不本意ではあった
フル充電でどのくらい走れるか都内をドライブ。柿の木坂の自宅から、渋谷の事務所を経由して上野公園まで。約 17kmを電力だけで走った。もちろん電気を使い終わったあとは HVとして走行できる。
ものの、ある日曜日の朝、一応プリウスをネット検索してみた。プリウス PHVのことは、懐かしいスターウォーズの R2-D2とC3-POが「エコカーに新しいエピソード」とアピールしているのが眼が留まっていた。今の時点の「最先端」はこれしかないかと瞬時に思い、即刻ディーラーに試乗を申し込んだ。この車は、EVでの走行距離はフル充電でも20km弱しかない。往復 17km程度の近場を電気のみで EV走行し、遠出には燃費のよいハイブリッド機能を生かして走行することになる。両方のいいとこ取りともいえる。購入を決めてから分かったことだが、プリウス PHVは電気自動車の一種でもあるので、クリーンエネルギー自動車補助金の対象になる。それに加え東京都からの補助金もあると、ディーラーから改めて連絡があった。予想外のありがたい事である。ただしハイブリッド車と異なり、PHVの特性を発揮させるためには充電設備が必要で、単相 AC200Vの専用コンセントを駐車スペースに設置しなければならない。それは単独回路の必要があり、事前にディーラー手配の電気工事業者が配線の経路などをチェックしに来た。年の瀬の迫った日曜日、専用コンセントの工事を行った。配線
専用コンセントにつなげた充電コネクターを差し込んで充電を開始。反対側にはガソリンの給油口がある。
現状の走行方法(EV ←→ HV)や EVでの走行可能距離などが運転席のモニターに表示される。
が露出しないように工夫しながら工事を進めてもらった。充電状況をモニタリングするシステムも必要と考え、簡易的なHEMS(ホームエレクトリックマネージメントシステム)も取り付けてもらった。自宅のエネファーム(都市ガスで発電・給湯する燃料電池)も、PHV充電の一部をになっている。さて実際の走行はどうだろうか。納車から半月ほどはハイブリッド車として使ってきたが、工事の終わった後さっそく充電し、EVだけで走ってみた。カタログ上のスペックでは、EV走行距離は 21.3kmとあるが、実際に都内を走ってみると、フル充電で 17km強である。やはり10年前の車とは勝手が違い、車載コンピュータが全てをコントロールして、燃費などの情報をモニターで表示してくれる。私の走り方はエコでないと車から叱られているようで癪にさわるが、少しづつ自分を慣らして車の特性を素直に理解しようと思っている。この車のフィーリングは、従来のガソリン車のように腕で操るというよりも、自動車機能を持つ乗用ロボットのアドバイスを受けながら、エコ社会実現に向かって走っているような気がしている。
▼ 次ページから PHV専用配線工事の様子をレポートします。
PHV配線工事 @ K邸
PHVや EVを利用するためには、専用のコンセントを駐車場近くに設置する必要があります。大容量の電流を長時間流し続けるため、配電盤から専用回路(単独配線)を引くことが推奨されています。電圧は単相 AC100Vと同 200Vが選べますが、コストはほとんど変わりません。プリウス PHVの充電時間は 100Vで 180分、200Vで 90分かかります。今回の工事を行ったのはトヨタホームの方達でした。自動車メーカーやディーラーが住宅に関わるのは初めての経験で、住宅に慣れたグループ会社トヨタホームがパートナーとして選ばれたのでしょう。プリウス PHVの発売前には、配線工事の研修会がひらかれたそうです。
▼ 設計図をみながら、配線をどこに通すか検討します。
▲ 配線工事のため、朝早くから工事がはじまりました。
▼配線を隠すため、玄関の配電盤からキッチンの天井を通すことに。
▼造作家具に穴を開けたりと、想像以上に大掛かりな工事です。
▲ 配電盤のブレーカーから単相 AC200Vの単独配線を引きます。
工事が大変な理由のひとつは、この太い配線にあります。30Aの電流に対応した太さ 2.6mmの配線で、アース線を含め 3本セットです。曲がりにくく取り回しが難しそうで、化粧カバーも大き目です。プリウス PHVの充電は 12Aなので、20A用の配線でも問題ありませんが、将来の EV利用にも備え 30A用が推奨されています。専門知識のない業者の場合、外部コンセント用の既存配線をそのまま利用してしまうこともあり、注意が必要とのことでした。
▲ 外壁に配線用の穴を開けるので、構造の知識も欠かせません。▲ 専用コンセント。右は ON・OFFスイッチ。左はコンセントです。
▼ 単相 AC200Vが来ているかどうかテスターで確認します。▼ コンセントにプラグを差し込むときは、スイッチを OFFにします。
今回の工事では、専用コンセントに加え「H2V Manager」という
簡易的な HEMSを取り付けました。これは住宅も含めた使用電
力量をパソコンやスマートフォンで確認できるシステムで、充電
時間の予約も行えます。またエアコンや IHヒーターなどで電力
使用の多い時は、車への給電を制限してブレーカーを落とさな
いようコントロールしてくれます。配電盤に設置した装置は W iFi
でデータを送るため、屋内配線は必要はありません。
さて小林清泰さんが興味をもったのは、7年ほど前に導入した
燃料電池「エネファーム」の電力を、プリウス PHVに給電でき
るかどうかでした。小林さんは照明やエアコンなどを全て消して
から、PHVの充電を行なってみました。結果 PHVに2.26kW
充電される際、エネファームはその内の1kWを給電しているこ
とが HEMSやエネファームのモニタで確認できました。
▲ 手前の箱が「H2V Manager」です。右はエネファームの装置。
▼ コネクターを差し込んでおけば、充電開始時間を設定できます。
▼パソコンで充電の状況や、全体の電気使用量をモニターできます。
▼走行時、電気とハイブリッド運転の差はほとんどありませんでした。
▲ 最大で約1kWを発電する燃料電池「エネファーム」。
[ 悪夢の前夜に至るまでの話5 ]
母親の死に涙を流すことができない子。それが私だ。それなのに今私は泣いている。なぜだろう。感情の昂りは不思議とない。額が燃えるようだ。その熱に急かされるように両目から涙が流れ出す。ただ淡々と涙が出る。熱が涙といっしょに流れ出るからだろうか。なんだか心が冷えていく感じがする。心が固く黒く凍っていく気がする。
親との別れ、結婚、子供を成し、そして今、彼は再び静かに椅子に座っている。絶望しているように見える。彼はその半生を生き、多くのモノを得て、その実、途方に暮れている。世界は彼から何を奪ったのか。窓の外の遠く。海の青さは変わらない。テーブルも椅子も変わらない。ただ彼だけが変わっていく。
劇中の彼は苦悶している。朗らかに友人と食事をしながら。手に持ったフォークを握りしめている。時折その視線を観客である凪に向ける。明らかに劇の外の世界を気にしている。
凪を取り巻く夜がその濃度を密にしていく。咳払いの音 ?加湿器の音 ?違う。さんざめく音。夜の音。
それでも地球は
♯ 14
凪3
異形のものたち
回ってる
野田 豪(AREA)
背後で不穏な音がした。凪は劇から目を外し、自分が入ってきたドアを振り返る。闇に目を凝らす。キィ。と音がして、ドアが開く。外から生暖かい大気が忍び込んで来る。闇。その中の …… 大きな目。異形の者がその隙間から凪を覗いていた。全身毛むくじゃらの鬼が。戸口で凪を求めている。本能的に両手で口を覆う凪。か細い声。「ぅ・ぅぅぅ ……ぅぅぅぅ」凪に何かを伝えようとしているようだ。なぜだろう。怖くない。大きな体。熊よりも大きいかしら。「一緒に見たいの ?」鬼は目をしばたたかせる。「いいよ、おいで」鬼は唸りながら戸口からおずおずと入って来る。体に比べて頭が異常なほど大きい。ひとさしひとさし。足を引きずって近づいて来る鬼。凪の座るソファの下にうずくまる。顔をこっちに向けて、おうおうっと吠えた。「ねえ、なんでこの男の人はこんなに悲しんでるんだろうって思って見てたの」舞台を指差す凪。鬼は凪の指差す先に目を向けず、おうっおうっと吠えた。「いいよ、じゃあおとなしく見ててね」凪は鬼の頭らしき部位を撫でた。ゴワゴワとした体毛。
次に戸口に立ったのは背のひょろ長いバレリーナだった。身長は 3mほどあるだろうか。天井につかえた頭を曲げるよう
ごとっ。にしてこちらを覗き込んでいる。体が細い。騙し鏡に映った
ような体。んーんー。口から音を漏らすが、上下の唇を縫い合
わされているから、上手く喋れないようだ。壁をカリカリと引
っ掻いている。筆記で何かを伝えようとしているのだろうか ?
「あなたも?いっしょに見たいの」んーんー。天井に頭を押し付ける。嬉しそうだ。「おいで ?」「いっしょに見よう」バレリーナは長い手足をもつれさせながら部屋に入って来る。ソファの後ろに座り込んだ。それでも頭は天井に届く。嬉しいのだろうか。その頭をぐるぐるまわし始める。「おとなしくね」
その後も、異形の者はぞくぞくと集まって来る。A゛A゛A゛ —古時計を体に埋め込んだ者。足のない兄を肩車した手のない弟。透明な腹部を露にした妊婦の少女。ずっとキスをしているシャム双生児 …… 。ぞくぞくと ……ぞくぞくと集まって来る。異形の夜は果てしなく続く。一様にして言葉を持たない彼らの漏らす音が集まる。渦巻いて、うねりになる。I゛I゛I゛ —coe
その間も劇中の男は、その一生の駒を進めている。今や彼は
お爺さんになり、あまり身動きが取れなくなっている。窓の外
の海は青いまま。彼は何かを感じて、よたよたと窓際に近寄る。死が近いのだ。子供がお爺さんの傍らに立っている。友人たちも集まって来る。一生を添い遂げた彼の妻が側に立つ。かつて愛した女性たち。彼の物語を彩った様々な人々で部屋がいっぱいになる。しかし、彼は誰の事も見ていない。そして部屋に集まった誰もかもが ……それぞれにあらぬ方向を見ている。彼を見ていない。そして最後の独白が始まる。
「独白っ」隣で鬼が大きな声をあげた。まわりの異形のものたちがざわざわとざわめいた。「私は生れ落ちてより長い間、この部屋に閉じ込められていた」とバレリーナが金切り声を上げる。「私の魂は常にこの部屋とあった」と目のない芋虫。「その実この鉄柵の中の暮らしは悪くなかったが」と「果てしない愛も」と双生児。「見果てぬ夢もっ 窓の外の青い海もっ」と妊婦。
「所詮は誰かに作られた物語」と瞼の無い性倒錯者。「こ・この箱の世界のぉ、そ・外の者に告ぐ」と手足の無い兄弟。「私は今解放されるのだ」と時計を体に埋め込んだ男が最後に叫び……。幕が降りる。そして、静寂が訪れる。
異形のものたちは寂しい影を身にまとい、その場から立ち上がる。そして、みなそれぞれ凪に一礼をして部屋から出て行った。
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