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3月号 桃月 2 013
Ambiente
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3月号 桃月 2 013
Ambiente
access
数年前にリニューアルしたプレスセンターは、ヨーロッパ各地の見
本市会場の中で、最も快適なプレスセンターといわれ、ドイツ料
理の本格的なレストランやサロン、パソコンコーナーを備えていま
す。中国や中東、インドからのプレスも多く訪れていました。
▲ 空港からのシャトルバスは、デザイン性の高い製品の集まるホール 11「L oft」入り口に到着します。
ドイツ・フランクフルトにて、毎年 2月に開催される世界最大級の国際消費財見本市 Amb iente(アンビエンテ)。今年は 2月 15日〜 19日まで開催されました。世界的なハブ空港のひとつフランクフルト国際空港からは、見本市会場行きのシャトルバス( 7.5ユーロ)を利用して
ノンストップで会場へ向かえます。世界各国のプレスが集結するプレスセンターは、初日から大勢の取材陣でにぎわいました。
数年前にリニューアルしたプレスセンターは、ヨーロッパ各地の見
本市会場の中で、最も快適なプレスセンターといわれ、ドイツ料
理の本格的なレストランやサロン、パソコンコーナーを備えていま
す。中国や中東、インドからのプレスも多く訪れていました。
▲ 空港からのシャトルバスは、デザイン性の高い製品の集まるホール 11「L oft」入り口に到着します。
ドイツ・フランクフルトにて、毎年 2月に開催される世界最大級の国際消費財見本市 Amb iente(アンビエンテ)。今年は 2月 15日〜 19日まで開催されました。世界的なハブ空港のひとつフランクフルト国際空港からは、見本市会場行きのシャトルバス( 7.5ユーロ)を利用して
ノンストップで会場へ向かえます。世界各国のプレスが集結するプレスセンターは、初日から大勢の取材陣でにぎわいました。
自然光の入るガラリアに設けられた「Trends2013」。デザインスタ
ジオ
bora.herke.palmisanoにより4つのテーマ別にコーディネート
されました。左下のリンクから
allaboutの記事もごらんください。
世界
81カ国・地域から
4,688社が出展し、毎年
14万人以上の来場者が訪れる
Amb
iente。ホール
1〜
12まで会場をひとめぐりするだけ
でも数日かかります。そのため優れた製品をピックアップし、最新のデザイントレンドをまとめた「Trends2013」というテーマ展示が用意されています。はじめての方は、ここから見るのがいいかも。各製品には出展ホール・ブース
No.が記され、皆さん熱心にメモをとっていました。
ガラリアではドイツデザイン賞(German Des ign Award)の展示会も開催。金賞 Naber社によるキッチンは、厨房用キッチンをアレンジしたようなデザインでパーツを追加して拡張できるように工夫されていました。
橋本夕紀夫さんデザインの製品が「JAPAN STYLE」の各ブースに
出展されていました。出展者と製品のチェックをする橋本さん。
日本からデザイナー・橋本夕紀夫さんが到着。来年のパートナーカントリーとして日本がフィーチャーされることもあり、企画展デザインの
ための視察に訪れました。メサゴ・メッセフランクフルトのスタッフの案内で、ホール間を行き来するバスに乗り込んで会場をめぐります。
小松誠さんデザインの作品で知られる瀬戸の陶磁器メーカーセラ
ミックジャパン。代表作クリンクルの石膏型を展示していました。
「出展者たちが交流することで、自分たちの製品を客観的に見つ
め直すいい機会になっているのではないでしょうか」と橋本さん。
まずは Amb ienteでの日本製品の反響をヒヤリング。新潟・三条市「SANJO JAPAN」のブースに出展した角利産業は、10年ほど前からド
イツへ大工道具を輸出しています。ヴァイオリン職人や建具職人にも、繊細な日本の道具は大好評とのことでした。カンナの台やノミの柄を、
ヨーロッパ好みの赤樫で統一した細工用大工道具セットをお披露目。カンナの歯はネジ式で調整できるようになっていました。
今年のパートナーカントリーであるフランスは、オリヴィア・プットマン女史(アンドレ・プットマンの実娘)プロデュースによる企画展「LAFRANCE, UN ART DE VIVRE」を開催。人通りの多い 4号館 2階の通路に展示されていました。直球勝負のミニマルな空間づくり。
精力的に会場をまわる橋本夕紀夫さん。「半透明なものやカラフルなものがとても多く、製品自体を並べてディスプレイ化している。日本に
輸入される前のオリジナルな製品を見られるのも国際見本市の魅力。今まで見たことのないものに触れるとこで、想像力が沸き立ってくる。
日本の展示では実演なども行って、生活シーンをはっきり提案したらいいと感じた。日本らしいマネキンやロボットを利用したディスプレイ
も面白いし、会場の高さや自然光を生かし、通行人を引き込むようなアイコンを工夫したい」といいます。
「日本の感覚からすると異様に大きな皿や花瓶が面白い。ディスプレイ用品のバリエーションも多彩。モダンでシンプルなものもいいけれど、
日常はミニマルな空間だけでは成り立たない。こうした装飾の世界は日本でも必要だと思う。例えばテーブルと器の中間的な存在で、テーブル自体が器になっているといった新しい機能を提案したい。インテリアのエンタテインメント性を考える時が来ている」と橋本さん。
小松誠さんデザインの作品で知られる
瀬戸の陶磁器メーカーセラミックジャ
パン。代表作クリンクルの石膏型を展
示していました。「出展者たちが交流
することで、自分たちの製品を客観的
に見つめ直すいい機会になっているの
ではないでしょうか」と橋本さん。
京都から鉄瓶や清水焼を輸出する、西川貞三郎商店にて代表の
西川加余子さんと。同社は
1960年代から鉄瓶を海外に輸出して
いたそうです。今回は山形・鋳心ノ工房(増田尚紀さん)や岩手・
及源鋳造の鉄瓶、オリジナルで開発した清水焼を出展しました。
古い清水焼の文様を復刻したシリーズ。鉄瓶の色もそれに合わせています。伝統工芸に情熱をそそぐ若者達に光を当てて欲しいと西川さ
んはいいます。「会場を巡って、日本の伝統的な鉄瓶などを真似た安価な製品が出回っていることに気づかされた。それは製品としてコピ
ーされるだけの需要があるということ。清水焼はとても印象的で、きちんと作り込んだ色や形を新しい目で見直すことができた。鋳物は鉄
瓶以外にもレバーハンドルや水栓金具にも応用できそう。異文化の中で日本製品を見ると、新しい発展性を思いつく」と橋本さん。
左:天然の繭玉を使ったペンダント(スイス neweba社のブースにて)。
右:プリーツ状の紙で造形したフランス CHARLOT & CIEの照明器具。
会場を視察したあと橋本夕紀夫さんと、Amb ienteの主催者代表 ニコレット・
ナウマンさんとの会見が開かれました。「難しい要求かもしれませんが、日本
の企画展では、日本の繊細な文化をポピュラーな手法で表現して欲しい」と
ナウマンさん。橋本さんは「海外で日本を表現すると『ワビサビ』に引きずら
れがちですが、その感覚が生まれたのは 400年ほど前のこと。それ以前にあ
った日本人の感性も表現していきたい。例えば日本のディズニーランドは、サ
ービスのクオリティが世界一高い。異文化のエンタテインメントであっても、
自然と日本の感性は表現されている。茶道の世界も亭主と客が共演したエンタ
テインメント空間ととらえると面白い。目に見えない部分にまで手を尽くす日本
人の気質を、ダイナミックに表現したいと思います」と語りました。
小林 清泰
アーキテクチュアルデザイナー
ケノシュタインの相対性ケノス代表
Kenostein's Relativity
実現間もない水素エネルギー社会の到来
スマートエネルギー Week2013が、東京ビッグサイトで 2月 27
日から3月1日まで開かれた。30カ国1,890社が出展し、PV
EXPO(太陽電池展)や FC EXPO(燃料電池展)、バッテリー
ジャパン(二次電池展)、エコハウス &エコビルディング、国際
スマートグリッド EXPO、国際風力発電展の主に 7分野で構成
され、東館と西館の大半を使った大規模な展示会だった。
会場を占める面積としては東館の PV EXPO(太陽電池展)が
一番大きい。太陽光発電はほぼ成熟した市場となり、会場はも
う見慣れた風景である。元々この業界は日本がトップを走って
いた。しかし自家発電の普及に脅威を感じた電力会社の圧力に
政府が屈したかどうかは分からないが、突然業界への補助金は
打ち切られた。そのため国内市場は急速に冷え込み、すぐにド
イツに追い越され大きく市場を奪われた。政府は慌てて補助金
の復活を行ったが、その間に圧倒的低価格の中国製品などが
▲ HySUT主催の燃料電池自動車試乗会。世界でも
最大規模の一般向け試乗会になったそうだ。
▲ 東芝の、停電時でも発電可能なエネファーム。
大きくシェアを伸ばした。会場では中国やカナダなど海外メーカ
ーのブースが目立つ。一方日本メーカーは発電効率の高さをア
ピールしたり、システムインテグレートやメンテナンス分野であ
たらしい事業の方向性を探っているようだ。
そしてどの出展企業も、政府が決めた電力会社による 42円 /
kW(2012年度)という高い固定価格買取制度を後ろ盾に「い
ますぐに太陽電池を設置すれば、7年後以降には大きな利益
が得られますよ」と土地持ちやビルオーナーに向けて「売電事
業の有利性」を判で押したようにうたっている。ここでは「創エ
ネにより地球環境改善に大きく貢献する技術のひとつ」という
本来の目的がほとんど語られず、ビジネス面ばかりが表に出て
いる。売電による経済性・事業性が強調されすぎていて、何と
も情けない気持ちになった。
西館2階の FC EXPO(燃料電池展)は太陽電池に比べ、技術
的にはまだまだ発展途上である。ここは未来の社会像を「知ろ
う、得よう」とする来場者で熱気にあふれ、大混雑だった。
ここには見るべき技術が数多く提示されていた。ひとつは新型
エネファームである。本連載でもご紹介したように、8年前から
自宅にエネファーム(都市ガスによる燃料電池発電及び給湯の
コジェネレーションシステム)を導入している。現在の機種は 2
号機で 1kwの発電能力を持つが、残念なことに、停電時など
電力会社からの電気が止まると発電できない仕組みである(開
発当初、ガス会社と電力会社の関係でそうなったらしい)。
そこに 3.11東日本大震災が起った。震災による停電や計画停
電などの被害にあったユーザーから「ガスは来ているのに発電
できないのはおかしい」というクレームが数多く寄せられた。
高額な「発電機」でもあるオンサイト型のエネファームが、停
電時に発電できないのは根本的問題という訴えである。それは
全く正しいことで、私も1号機導入当時からおかしな話だと感
じていた。流石に今回は社会からの声に抗しきれなかったよう
で、東芝から自立運転機能付きのエネファームが発売された。
発電量は 700Wと少し低いが、停電時には自立運転モードに
切り替わり、専用コンセントから電気を取り出せる機能を付加
できる。我家の 2号機もあと 2年でリースが修了するので、可
能であればこの機種を導入したい。
もうひとつの見所は、HySUT (素供給・利用技術研究組合)の
▲ NISSAN X-TRAIL FCVのカットモデル。手前の床に
燃料電池スタック、後部座席下に水素容器が見える。
▲ HONDA FCVクラリティはの可搬型インバーターボ
ックス。AC100Vコンセントが計 9個ついている。
ブースだった。石油依存型の社会から脱し、地球環境改善に貢
献する水素社会への先駆けは燃料電池自動車(FCV)である。
HySUTは FCVの普及啓蒙や水素ステーションの整備を目指す
団体である。屋外では試乗会も開かれ、昨年夏に試乗した 3
車種が全国から約 20台も集結した。テレビで取り上げられた
こともあり、試乗会の予約に朝から沢山の人が並んだという。
その中で私が一番注目したのは、HONDA FCVクラリティー
のトランクに置かれた可搬型のインバーターボックスであった。
FCVの発電量は非常に大きい。車本体は 100kw程発電できる
能力を持つが、このインバーターボックスの出力は 9kW程で、
非常時には一般住宅 2軒分の最低限の電力を一週間程賄える
そうだ。FCVはこうした小型の装置によってオンサイト発電機と
しても機能するため、災害時にはとても有効である。
2015年度には HONDA、TOYOTA、NISSANと国産 3社が
揃って FCVを市販化する予定だ。2、3年前までは 2020年
頃に実用化といわれていたが、予定はどんどん前倒しになり、
TOYOTAは 2015年度 500万円前後で販売するといっている。
スマートエネルギー Weekは水素社会の到来が明確に見えてき
た胸躍る展示会であった。そこで今後数回にわたり水素エネル
ギー社会の到来の「兆し」についてお話したい。
G a l a D i n n e r a t A m b i e n t eG a l a D i n n e r a t A m b i e n t e
見本市会場のイベントスペース「Festha
lle」にて、出展者や主催者、
関係者の集うガラディナーが開催初日の夜に開かれました。
パートナーカントリー・フランスを全面にだした演出。エッフェル塔のたもとにはシャンソンの弾き語りにパントマイム。舞台のムーランルージュ
のセットでは華麗なレビューやフレンチカンカンが披露され、フレンチのビュッフェには長蛇の列ができました。Amb ienteの運営会社 MesseFrankfurtは、世界初の民間見本市会社として1907年にスタートし、見本市の街として発展したフランクフルトにとって、近代的な都市開発を牽
引する大きな役割を果たしてきました。ナウマンさんはじめ運営責任者達が壇上にあがり、トレードビジネスの成功を参加者と誓い合いました。
古くから交通の要衝であったフランクフルト・アム・マインは、12世紀にはすでに見本市(当時は農作物や羊毛を取引する市場)
の盛んな街として知られていました。14世紀には自由都市としての特権を与えられ、以来、見本市や金融の街として発展します。
市民自治による自由な気風は、やがてゲーテなど新時代を築く人物を生み出す土壌となり、世界最大の書籍見本市「フランクフ
ルト・ブックフェア」はグーテンベルクが活版印刷を発明した
500年前から続いているといわれています。
Ambienteのガラディナーは、中世から世
界の人々が集い、夜を明かして親睦を交わ
した伝統を引き継いでいます。
Ambienteをビジネスにつなげるために
鈴木里美さんに聞く、ヨーロッパへの出展から販売まで
ミュンヘンを拠点として、見本市の運営や日本企業の出展サポ
ート、ディストリビューター業務など多方面で活躍し、2011年
にショップ「SHU SHU」をオープンした鈴木里美さん。日本
企業が海外見本市で成功するための知恵をうかがいました。
■ 約 20年前、見本市の説明員からキャリアをスタート
「ドイツでの見本市に関わりはじめたのは 1994年。モーター
ショーや産業関連見本市の説明員の仕事からでした。徐々に
日本企業とのネットワークができ、見本市出展をサポートする
会社 Sa:Su Networkを立ち上げました。見本市のブースを作
る施工会社を手配したり、ブースをデザインしたり、説明員な
どの人材派遣から DMの手配、集客、見本市の運営など様々
な仕事を行ってきました」と鈴木さん。見本市に深く関わるう
ち、ヨーロッパ特有の習慣が見えてきたそうです。
■ ブースの床を上げると、企業のステイタスも上がる
「1、2日で設営・撤収を行う日本の見本市と異なり、こちらの
ブースは家族的な見本市施工会社が、1週間ほどかけてゆっ
くり設営します。例えばアクリルケースなどは日本に比べ高価
だったり、部材や什器も日本と異なるので、日本企業のイメー
ジに合わせたものを手配するよう心がけています。ドイツでは
鈴木里美さん(プレスルームの壁面緑化まえにて)。
ブースのクオリティで企業への信頼度が変わってきます。床
ミュンヘンで日本製品を紹介する鈴木さんのショップ「SHU SHU」。
を1段上げたり、柔らかいカーペットを敷くとステイタスが高い企
業という印象を与えられます」。ブースの仕様やデザインだけでな
く、説明員の配置についてもコツがあるようです。
「少し前まで、日本のブースはスーツ姿の男性が目立ち、現地の人
は入りにくかったと思います。私は日本語を習っているドイツ人学
生や日本人留学生など、若い現地の人をスタッフに加えることをす
すめてきました。また、日本で製品をつくるシーンを映像で流した
り、実演を行うとより興味をひくと感じます」。
■ その場で商談できる資料を揃えておくこと
「日本の見本市では、カタログを持ち帰って検討し、改めて連絡
をとる事が一般ですが、Amb ienteには多くのショップオーナーや
レストランオーナーが来場し、その場で商品を買い付けます。その
ためユーロで表示したプライスリストを用意すること。為替の変動
に備え、商品カタログとプライスリストは別にしてすぐに差し替え
られるようにすること。取引条件の解説書を英語・ドイツ語で用
意することなど、その場ですぐに取引できるよう準備する必要があ
ります。ただし最低でも 3回は同じ場所に出展を続けないと存在
を認めてもらえません。継続して出展することがなにより大切です」。
■ 2011年 3月、震災直後にショップを開店
見本市での評判はよかったけれど、ビジネスの成果はないという
日本企業も多いようです。長年それを見てきた鈴木さんは、日本
製品を扱うショップ「SHU SHU」をミュンヘンの一等地にオープン
しました。「ミュンヘンは、日本製品のターゲットになる富裕層の
▲ SHU SHUでは今、新潟産業創造機構が発信する新潟製品の
ブランド「 Hyakunen Monogatari 」の展示を行っています。
▲「 Hyakunen Monogatari 」はAmb ienteにも出展しました。
多い街です。店舗を 3年がかりで予約し、オープンしたのは 2011
年 3月16日、東日本大震災の直後でした。大変な時期ではあり
ましたが、日本のために何をできるかを考え、日本の産物を海外
に紹介し、販売し、流通させることが使命と決断しました」。
■ SHU SHUは街にひらかれた見本市会場
SHU SHUを企画したきっかけは、見本市に出展された日本製品
を持ち帰らず、継続して展示できる場所を作るためと鈴木さん。
「商品が売れ、再注文を受けて、はじめてビジネスは成立します。
それを自分の手で実践したいと思いました。SHU SHUはマンダリ
ンオリエンタルホテルの目の前という一等地にあります。この通り
を歩く富裕層の方々は、今まで見たことのないもの、人が持って
いないものを探しています。SHU SHUでは Amb ienteにも出展し
ている日本のメーカー約 50社、1000点以上の製品を扱いながら、
メーカーや地場産業の歴史的な背景や、日本での使われ方を説
明しています。その上で、ヨーロッパのライフスタイルに合った提
案を行います。例えば蕎麦猪口があれば、蕎麦とはどういう食べ
物か、どう食べるかを説明してから、ティーカップとしての使い途
を提案します。このようなストーリーが製品に価値を与え、それを
持つことにステイタスを感じさせる。こうしたノウハウも接客する内
に分かってきました。製品も買取なのでリスクは高いビジネスです
が、自分なりの視点で日本製品をジャッジし、地場産業のために
貢献したいと思います。私の能力を認め受け入れてくれたドイツと、
支えてくれた日本の方々を、ビジネスで結びつけられたら幸せです」。
食文化ヒストリアン
エゾ鹿のソテーはいかが?
大原千晴
英国骨董おおはら
数が急増し始める」段階に入り始めた地域が広がりつつあるようなので
す。となると、鹿肉の供給は、今後、増えることはあっても、減ること
はなさそうだ、ということになります。
じゃあ、「安くなったから今夜は鹿のシチューにしましょう」なんて話
になるかというと、現状でこれはちょっと考えられません。食習慣や味
覚というのは、なかなかに保守的なもので、人間、食べ慣れないものには、
そうおいそれと手を出さないものです。だいいち、鹿生肉が肉屋やスー
パーの店頭に並んでいるの、見たことありますか? 最近一部のスーパ
ーでは、燻製やジャーキーっぽく加工したものに、日本のものが出始め
ましたけれど、せいぜい、その程度です。当然、主婦層をメインのター
ゲットとする家庭料理本に、鹿肉を素材とする料理が紹介されるなんて、
あり得ません。それに、日本で鹿肉を日常的に食べるという習慣がある
星ら上卓きたの
東京のフランス料理系の店で「本日は鹿肉オススメでございますが」と
ち★第21回
いう言葉を聞くようになったなあ、と感じ始めたのは、もう五〜六年ほ
ど前のことになります。それがこの一〜二年、「エゾシカ」という文字
をメニューに見かけることが、珍しくないという感じになってきた。日
本人の味覚の嗜好が大きく変化して、いよいよ「鹿肉ブーム」到来?
いえいえ、そんなことでは、なさそうです。これ、需要があるから供給
量が増えた、ということでは、まったくないのです。話は逆で、供給量
が急増したので、価格も低下し、あちこちで出されるようになった、と
いうのが正解です。じゃあ、なぜ、突如として、鹿肉の供給量が増え始
めたのか。
まず一番にあげられるべき背景は、北海道を中心に、鹿がどんどん増え
ているという現実がある。もはや地元の猟友会だけでは、間に合わない
ほどに増殖している地域が多いとのこと。では、なぜ鹿がそんなに増殖
しているのか。幾つか理由をあげることができます。山間部人口の過疎
化が急速に進行している。そのため、山仕事を日常とする人々が大きく
減少し、以前に比べて、山に人が入らなくなった。森林事業の衰退で、
放置される山が増えてきた。猟友会の会員数の減少と高齢化などなど、
いろいろな理由が複合的に作用して生じた事態だと見てよさそうです。
本来鹿は繁殖力が強く、あるポイントを越えると、個体数が急増し始め
るという側面があるとのこと。どうやら、この
1〜2年で、この「個体
エゾシカ料理。ヘーゼルグラウスマナー(標茶町)にて
30
が相次いでいるという報道がなされ、悲
しそうな眼をした骨と皮のようになった
母親が、痩せこけた赤ちゃんを抱いている写真が、毎日のように全世界に配信
されるという事態です。このとき、日本からも様々な援助物資が送られていて、
その中に、なぜか大量の「サバの缶詰」が含まれていた。後に判明したことですが、
現地で日々飢えに苦しみ、餓死者が相次ぐ状況下にあっても、この「サバの缶
詰」を食べた人は、極めて少数だった。ほとんどの人は、缶を開けて臭いを嗅
いだだけで、拒否反応を示したというのです。何も食べるものがない、それでも、
食べたことないものには、無意識的に拒否反応が出る。
これが日本人であれば、まず間違いなく食べるはずですから、食文化の違いと
いう他には、説明がつきません。私の母
は
1946年に食べ物の入手に苦労し
た東京を、今も鮮明に覚えている世代です。アメリカの進駐軍から大量の食品
が横流しされ、その豊かさに驚くと同時に、初めて目にしたものも少なくなか
った。その代表例がトマトジュースの缶詰です。これ、彼女の周りで喜んだ人
は、誰ひとりいなかった。コーラでさえ、かなりの拒否反応があったといいます。
初めて持ち込まれた食品が、単なる「普及」を越えて、これを「おいしい」と
感じる味覚が生まれるまでには、だいだ
い
年くらい掛かるようです。とすると、
鹿生肉がスーパーに並ぶのは2045年頃になる?
30
ボル、記号、コード、という側面がある、
という意味です。この点こそは、人間と
動物を分ける決定的なポイントのひとつ
ではないかと思われます。
では、その「食の文化性」という力が、
どれほど強力なものか、一例を挙げてみ
ます。今か
ら
年ほど前にさかのぼりま
す。アフリカのビアフラだったと記憶し
ますが、凄まじい内戦により、深刻な飢
饉が生じた。食べるものがなく、餓死者
地域なんて、ごく一部に限られているはず。馬肉を食べる伝統のある地域の方が、
ずっと多いのではないかと感じます。我々のご先祖様たちは、およそ野生の四
足動物の肉を食べるということには、極めて慎重だったと言う他ありません。
決して、野生動物の数が少なかったわけでは、ありません。イノシシ、猿、鹿、
野うさぎ、なんていうのは、それこそ列島中に溢れていた。だからこそ、古く
から歌に詠まれ、襖絵や屏風に描かれ、様々な工芸品のモチーフともなり、果
ては「猪鹿蝶」にまで美しく描かれているほどです。また、どれほど多くの民
話やお伽話に、ときに愉快に、時に悲しく、時に神々しく、登場する機会の多
いことか。しかし、そこに「食べる対象」としての視線が入り込むことは、まず、
稀です。言うまでもなく、鹿は古来、我が国でも、「狩り」の重要な対象でした。
しかし、狩猟の中心目的は、その皮革と角の採取にあった。印伝細工、衣服履
物の素材、武具や工芸品の部材としての用途です。実際、「イノシシ鍋」ならば
まだしも、「鹿鍋」だの「鹿汁」なんて言葉、まず耳にしませんよね。
ちょっと話が脱線してしまいましたけれど、食の世界には、歴史的に積み上げ
られてきたイメージというものがあって、そう簡単に、そのイメージを打破で
きない側面がある。そのことを申し上げたいのです。要するに、文化的なシン
鹿革をつかった伝統工芸品「甲州印伝」
ウェステンドのアパルトメント
フランクフルトお宅訪問
Ambienteの開催されるフランクフルト市民は、どのような暮らしをしているのでしょうか? メッセフランクフルトの Sparkesさんにご案内いただき、
街の中心部から近い閑静な住宅街ウェステンドの集合住宅に暮らす、Ewa ldさんのお宅を訪ねました。建物には箱型のベランダが増築されています。
玄関を入ってまず通されたのが、階段ホール。Ewa ldさんのお宅は元々
1階だけだったものを、天井を開口して
2階の部屋と内階段でつなげたそうです(玄関の外にはアパルトメントの階段室があります)。ド
イツらしいシステム階段や、オブジェを吊したワイヤー照明が素敵で
した。階段をあがると、2階の踊り場には色鮮やかなサウナ。
階段からキッチンへとつながる通路スペースには、ゆるやかな曲面をもった本棚。フレーム部分が大きく、収
納にはもったいない感じもありますが、この曲面が動線
を誘導する大切なポイントになっていました。
プルトハウプ製のシンプルなキッチン。Ewa
ld夫人がマシ
ーンエスプレッソを淹れてくださいました。ガゲナウのオ
ーブンは腰の高さで使いやすく、スライサーはパンや肉
類など様々な食材に使うそうです。パン生地をこねるミキ
サーもあり、育ち盛りの子どものいる家庭では料理は大
会社から近い場所に暮らすことの多いドイツでは、温かい昼食を家に
変なようでした。食洗機は延長した木製カウンターの下に
帰ってとる人もいます。そのかわり、夜は軽く済ませるのが一般的です。
ビルトインされ、写真奥ハッチの向こうはダイニングです。
レンジフードの棚にはバルサミコと共に「寿司酢」が置かれていまし
キッチンの奥はデッキにつながっています。バウハウスのキッチンに
た。ちなみにフランクフルトは、システムキッチンのルーツといわれ
もみられる「ダイニングに隣接した独立空間で、機能的に調理がで
るマルガレーテ・シュッテ=リホツキーのフランクフルト・キッチン
き、清潔な自然光の入るキッチン」という思想が継承されています。
が開発され、集合住宅に大量に採用された地でもあります。
デッキのサンルームでは、野菜や保存食を保管していました。
▼左側がキッチンのハッチ部分です。
▼ LEDによってグラスのシルエットがフロストガラスに映ります。照
明を効果的に使う一方、使わない部屋の電気はすぐに消していました。
キッチンに隣接したダイニング。ハッチ部分はホームバーのようになっています。リビング収納を設けることで、バウハウス調のダイニングセ
ットはすっきり。窓際のオイルヒーターがあった所には、ピンクのLED照明をいれたグラス収納がビルトインされています。
「子育てを終え、様々
なスタイルの家具や絵画を少しずつ揃えていくのが楽しい」と奥様。時にはケルンの家具見本市にも出掛け、絵画はバカンス先で探すそうです。
▼ ベランダからの眺め。中心部のオフィス街が見えます。
リビングでくつろぐご夫妻。インテリアデザインは全て自分たちで行うそうです。バウハウスやコルビジュエ、リートフェルトなどの名作椅子を
使いながら、鮮やかな色使いや絵画を効果的に組み込んだアレンジはさすがと思いました。昨年改装し、ベランダを増築したり、床材を張り
替え温水式床暖房にしています。ベランダは部屋と一体化し、サッシは全面開口できます。転落防止のためガラス製の柵が付いていました。
ミュージシャンとして活躍する夫人の1階仕事部屋。天井の照明はイ
ンゴマウラー、キーボートを弾く椅子にはヴィトラを使っています。
夫人が制作に参加した「Der
karierte Kaefer」のオーディオブック。
壁にはウォーホール作のベートーヴェ
ンが掲げられていました。
▲
ご主人の書斎とバスルーム。洗練されたコーディネートの中にファ
ニーな要素を取り込んだ、粋な都会人の暮らしを感じさせるお宅で
した。Amb
ienteに出展される多様な製品は、こうしたアレンジを楽
しむ生活者に支えられていることを実感しました。
▲
日本のいまを発信する JAPAN STYLE初出展の「ニトムズ」は、手帳に貼るシールやフセンを提案。 ヨーロッパにはない習慣が注目されていました。
11号館 1階の入り口近くに日本企業 6カ所が軒を連ねた「JAPAN
STYLE」。日本の今のライフスタイルを世界に発信することを目
的に、メサゴ・メッセフランクフルトと参加企業が協力し 5年前
から Amb ienteへの出展を続けています。その立ち上げから共に
歩んできた「YO no BI」の渡邊真典さんは「Amb ienteは、カフ
ェオーナーやホテル・レストラン関係者など、直接のユーザーが
多い見本市」といいます。「ヨーロッパで認知してもらうためには、
実際に使ってもらうことが大切。カフェやレストランで、上質な日
本製品を沢山の人に体験して欲しい。円安の今は、そのチャンス」
と抱負を語ります。
▲ 高岡市の金属鋳造メーカー「ナガエ」
秋田県・角館の名産品・樺細工を扱う冨岡
商店。デザイナー橋本夕紀夫さんなどとコラ
ボした斬新な作品はヨーロッパでも評価さ
れ、昨年の Amb iente出展をきっかけに有名
ブランド店での扱いも始まりました。代表の
冨岡浩樹さんは「国内見本市に比べ、海外
は新しいバイヤーとの出会いが多い。ヨーロ
ッパで扱われることで中国・アメリカ・中東
へと普及していくことを期待してます。これか
らは海外からの受注にも応えられる若い作
り手を増やすことが課題」といいます。
▼ 大館の「曲げわっぱ」とコラボしたシリーズも開発。
ヨーロッパでブレークし、日本でも人気となった紙の器「WASARA」
が、Japan Sty leに初出展しました。プロデューサーの田辺三千代
さんは、「パーティ文化が盛んなヨーロッパでは、デザインのいい
エコロジカルな紙皿が求められていました。WASARAがヒットし
たのは、その需要にうまくマッチしたからと思います」といいます。
WASARAは葦や竹、バガスを原料として、表面の微細な質感まで
表現できる精密金型で成型されています。ヨーロッパで急速に広ま
ったのは、パリMerc iのオープニングで使われ世界のバイヤーに注
目されてからだそうです。「口コミの波及効果は大きいです。ヨーロ
ッパではどこで使われたかによって、製品のステータスが評価され
ることを実感しました」と田辺さん。
TIME & STYLEのブースでは、吉田龍太郎さんが熱心に製品説明をしていました。A mb ienteの出展も 5
年目を迎え「数年前に商談をした方から注文がくるなど、徐々に成果が見えてきた」とのこと。出展のあと
はスウェーデンに立ち寄り、ホテルへのプレゼンテーションを行うそうです。「これからはもっと製品の使
い方を具体的に提案していきたい。来年は日本がパートナーカントリーとして選ばれたので、橋本夕紀夫さ
んともコラボして日本の出展者が一体となったアピールで盛り上げたい」といいます。
TIME & STYLEのブースでは、吉田龍太郎さんが熱心に製品説明をしていました。Ambienteの出展も 5
年目を迎え「数年前に商談をした方から注文がくるなど、徐々に成果が見えてきた」とのこと。出展のあと
はスウェーデンに立ち寄り、ホテルへのプレゼンテーションを行うそうです。「これからはもっと製品の使
い方を具体的に提案していきたい。来年は日本がパートナーカントリーとして選ばれたので、橋本夕紀夫さ
んともコラボして日本の出展者が一体となったアピールで盛り上げたい」といいます。
素敵な人たち 2吉田龍太郎(TIME&STYLE)
藤本勲会長(藤本ジム)
若い時(40までとしておこうか)は、とにかく無茶苦茶な生
活を続けてきた。健康とか安心なんて悠長なことを考えるヒマ
は無く、とにかく頭も体もフル稼働して無意味な前進を俺の
生き方の信条としてきた。時に生命の危機に陥っても、心に
生命の尊さへの理解が無かったが故、若い時は死に対する
恐怖心は無かった。心と体がどのような結びつきを持っている
のかを意識し始めたのは自分の体が思い通りに動かなくなっ
た
40を過ぎてからのことだ。その頃からだろうか、自分の意
識が前進することから内向きに変化した。無我夢中に前進し
ている時は、余計な心配は起こらないものだが、体が若い時
のように動かなくなり、意識が内側を向き始める頃には、様々
な心配事や不安感を自らが増幅させてゆく。痒さを意識する
と、なおさら痒みが増すように。人間の体は心の在り方によ
って大きく左右される。心の在り方を尊さや強さ、正しさや
清らかさに置いて、いつも前向きな心の状態を心がけて、悲
観的なものや消極的なものを心に入れないことで、体の状態
や精神の状態が大きく良い方へ変化してゆくことを実感するよ
うになった。言葉の大切さも同様に消極的な言葉を無意識
に使うことは、自分の精神や体調をマイナスへと追い込んで
ゆく。心と体を結び付けている精神を良い状態で保つ為にも、
常に良い方向をイメージして、悲観的、消極的なことを言葉
に出さず、頭から排除して、希望と目標を持って生きることが
大切だ。単純なことだが、苦しんだことでその大切さを再認
識した。
気持ちいい。とにかく何よりも、気持ちいいのだ。俺の一番
気持ちの良い場所と言っていい。
練習が終わりシャワーを浴びて、地下のジムからの階段を上
がると火照った体に新鮮な空気が何よりも気持ちいい。この
快感が止められずにもう
9年間、目黒のキックボクシングジム、
藤本ジムに通っている。俺はこのジムの藤本勲会長に人生を
教わり、救われたと思っている。人生を救われたのは俺だけ
じゃない。ワイスワイスの社長、佐藤岳利も
6年前から藤本
ジムに通う練習生で救われた者だ。人生、何処で何が待っ
ているか分からない。この藤本ジムは現在、ムエタイ世界チ
ャンピオン
1人、日本チャンピオン
4人を抱えるキックボクシ
ングの名門であり、昔はキックの鬼、沢村忠も在籍していた
ジム。藤本会長も現役時代は東洋ミドル級チャンピオンとし
て、膝蹴りを得意とし、切り裂きジャックナイフと呼ばれてい
た。そんな藤本会長は 71歳になるが、今も現役のトレーナ
ーとして週 6日間、午後 3時から21時まで毎日数十人の俺
たち練習生のパンチやキックを体全体で受け止めてくれてい
る。練習生は小学生から10代、20代の元気の良い若者たち、
俺たちおじさん達まで幅が広いのだが、藤本会長は誰に対し
ても平等で暖かく優しく、そして厳しい。71歳になる会長自
らが、初めて入門する小学生から全ての入門者に対して指導
を行い、毎日何十ラウンドも激しいパンチングや重い蹴りのミ
ット練習を行うことは若いトレーナーにも簡単にできることで
なはい。俺はキックボクシングの練習に行くと言うよりも、藤
本会長に会いに行き、会長にミットを持ってもらいながら、一
蹴、一拳に感謝の気持ちを込めて思い切り打ち込み、体と
心を正す神聖な場所、俺の聖地巡礼のようなものだ。そんな
藤本会長はどんな人たちとも本当に仲が良い。ある低学年の
小学生に練習を教えながら話をしている藤本会長と小学生の
会話は微笑ましい。キックの練習をしながらの会話。
小学生 :
『会長サー、聞いてくれる?あのサー、うちのおじい
ちゃんサー、酔っぱらってサー、ウンコもらしちゃってサー』
会長 ::
『 おじいちゃん、いくつ? 』小学生 『 67、それがサー、
『誰か :臭っさくってサー、むっちゃ臭っさくってサー』会長
拭いてやった』小学生 :『それがサー、ほんと臭っさくって
サー、誰も近寄んなくてサー、会長、俺まいっちゃってサー』
会長 ::
『 お父さんいくつ? 』小学生 『 42、それでおじいち
ゃんサー、酔っぱらうとサー、よくやるんだヨー、俺、もう限
界でサー 』会長 :!
『 ちゃんと真面目に蹴りなさい 』小学生
:
『会長、うちのおじいちゃんサー』そんな子供との違和感
の無い世間話を聞きながら、まだそのレベルの会話をするこ
とができない俺たちは、藤本会長のキャパシティとスケール
の偉大さにさらなる尊敬の念を抱くのです。藤本会長の指導
と練習は基本の反復と継続だと感じる。この 9年間の練習
内容や日々の練習のリズムは少しのズレも変化も無く、延々と
基礎の反復に始まり終わる。礼を知らない若者達もしばらく
練習に通うようになると自然に礼節をわきまえた引き締まった
青年の顔へと変わり、彼らから切れの良い挨拶が贈られるよ
うになる。そう言う意味では、心身のバランスを重んじて鍛え
ることができるのがスポーツの素晴らしいところだと思う。
一昨年、藤本会長の夢であったムエタイの世界チャンピオン
がジムから誕生した。これまでタイの国技であるムエタイの世
界チャンピオンでタイ人以外のチャンピオンはムエタイ500年
の歴史で 5人しか存在せず、また防衛できた選手は未だ世
界に存在しなかった。藤本会長の育てた世界チャンピオンは
既に防衛を 2回行い、3月 10日には 3回目の防衛戦を行う。
長く抱き抱き続けてきた夢を実現した藤本会長を誇りに思う。
いつも藤本会長にミットを持って練習してもらいながら、あと
何年、こんな風に会長と練習できるんだろうかと考えている。
これまで 62歳から71歳まで変わらぬ内容の練習を続けてき
ていただいた藤本会長にこれからもずっとミットを持ち続けて
欲しいと心から願うのであった。一蹴一拳に感謝の思いを込
めてこれからも練習に向き合います。そして俺は闘い続ける。
ゲーテとバウハウスを育んだ街巨大なガラスドームをかぶせたフランクフルト空港長距離駅
の設計はハンブルグを拠点とする BRT Architektenです。
ワイマル Weimar ヘ
今日は見本市を少し離れ、フランクフルトから約 270km離れたワイマルへ向かいました。ドイツの偉人ゲーテの生まれたフランクフルトと青年期〜晩年を過ごしたワイマル間は、ゲーテ街道とも呼ばれています。
フランクフルト空港駅は高速鉄道網の中心にあり、北部へは
ケルン、ハンブルグ、ベルリン、南部へはミュンヘン、シュツ
ットガルト、バーゼルと各方面への
ICEが次々に到着します。
フランクフルト空港に直結した鉄道駅は、近距離駅と長距離駅の
2カ所に分かれ、ICE(Intercity-Express)には長距離駅から乗車します。どこまで
も続く牧草地の雪原、家々からのぼる煖炉の煙、古い街並みに林立する教会の尖塔。冬景色を眺めながらゲーテゆかりのフルダ、アイゼナハ、エア
フルトをとおり2時間
40分ほどでワイマルに到着しました。ジャーマンレイルパス(外国人用フリーパス)は、切符を買う手間もはぶけ便利でした。
ホームには、その番線に到着する列車の時刻リストと列車
の編成が掲示されています。指定席と自由席は分かれてな
く(1等・2等があり)、座席の上に指定区間が電光表示
されます。初めはどきどきしながら座りましたが、座席を
無駄にしない工夫と思いました。環境意識の高まりもあり、
近年の
ICEはどれも混んでいます。
週末のワイマル駅。ベルリン行きの列車は、大きな荷物を
抱えた里帰りの人たちや旅行者で賑わっていました。ワイ
マルは
2つの意味で世界遺産に登録されています。ひとつ
はゲーテやシラーの活躍した「古典主義の都」、もうひとつ
は「バウハウス関連施設群」(デッサウと共に)です。
ワイマルの駅は、街の中心部から
800mほど北にあります。これは昔、馬をとめる場所が町外れにあった名残とのこと。駅の向こうの丘陵地帯には、
ナチスのブーヘンヴァルト強制収容所がありました。今は
ICE一本で行けるワイマルも、旧東ドイツ時代は鉄のカーテンの向こうにあり、西側のゲ
ーテ研究者にとっても、入国許可をとるのが難しい場所でした。東西ドイツ統一から
20余年、こうして気楽に来られることのありがたさを感じます。
駅からタクシーでイルム公園にあるリストの家へ。リストは 1848〜 58年までの 10年間ワイマールの宮廷楽長をつとめ、ここで生涯を終えました。近くには強制収容所で亡くなったソ連兵を埋葬した墓所があります。駅からタクシーでイルム公園にあるリストの家へ。リストは 1848〜 58年までの 10年間ワイマールの宮廷楽長をつとめ、ここで生涯を終えました。近くには強制収容所で亡くなったソ連兵を埋葬した墓所があります。
▲駅前から中心部まで真っ直ぐな並木道が通っています。
イルム公園は、イルム川の両岸に広がる公園です。
散策道を囲む崩れた古城跡や石積みは、ゲーテの
設計によりわざわざ造られたものといわれています。
冬の山歩きを好んだゲーテは、ドイツ風「わびさび」
を公園に投影したのでしょうか。
イルム川に架かる白い木橋を渡ると、若きゲーテの暮らしたガーデンハウスが見えてきます。
1749年、フランクフルトの裕福な家に生まれたゲーテは、25歳のとき「若きウェルテルの
悩み」で国民的流行作家となります。そのゲーテをワイマールに招いたのは、ワイマール
公国の若き領主カール・アウグスト公でした。8歳年下のアウグスト公はゲーテを兄のよう
に慕い、ワイマールの国政を補佐して欲しいとゲーテに訴えました。そして公園の敷地とガーデンハウスを与え、年俸
1200ターラー(現在で
1200万円以上)という厚遇を約束します。
展示会の後は、バウハウスの織物工房としても利用されていたようです。
11月〜3月中頃までは休館中。
展示会の後は、バウハウスの織物工房としても利用されていたようです。
11月〜3月中頃までは休館中。
ガーデンハウスの横を上がると
バウハウスの実験住宅「ハウス
アムホルン」があります。1923
年のバウハウス展のためゲオル
グ・ムッヘにより設計された最
初期の規格化住宅といわれ、リ
ビングを中心にキッチンやダイ
ニング、子ども部屋などが配置
されています。古典主義の街ワ
イマールでは、かなり異質な存
在だったかもしれません。
BC工房 主人 鈴木惠三
椅子の師匠 4
ミラノのジョージ
ミラノにて、タケオ、オイラ、ジョージ
「日経社通販歳時記」とBC工房のコラボ
ワイマル・バウハウスの本校舎ワイマル・バウハウスの本校舎
ヴァン・デ・ヴェルデ設計の校舎
ワイマル・バウハウスは、今も建築美術大学として運営されています。
ワイマルのバウハウス
古典主義の街ワイマルに、合理主義・機能主義を代表するデ
ザイン教育機関バウハウスが開校したのは
1919年のことでした。
しかしそれ以前に、この地にはワイマール大公に招聘されたア
ンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの美術工芸学校がありました(彼の
設計した校舎が残っています)。ベルギーの建築家で、ドイツ
工作連盟の中心人物であった彼は、ヘルマン・ムテジウス(明
治政府の官庁集中計画に参加したドイツ人建築家)との規格
化論争でも知られています。アーツアンドクラフツ運動の影響
を強く受けながら、工業製品の規格化を推進するムテジウスに
対抗したのが、芸術家の創造性を重視したヴェルデでした。
国民劇場向かいのバウハウス博物館は、ワイマール時代の貴重な
作品を展示しています。建築や家具だけでなく、陶芸、写真、服
飾など多彩でユニークな学科の作品がならび、バウハウスの源泉
が機能性や合理性だけではなかったことを忍ばせます。
作品を展示しています。建築や家具だけでなく、陶芸、写真、服
飾など多彩でユニークな学科の作品がならび、バウハウスの源泉
が機能性や合理性だけではなかったことを忍ばせます。
バウハウスの初代学長となったワルター・グロピウスを推薦したのは、
ヴァン・デ・ヴェルデでした。発足当初のバウハウスは美術工芸学
校の雰囲気を残していて女子学生も多く、予備課程を担当したスイ
ス人教育者ヨハネス・イッテンの影響により、マスダスナンと呼ばれ
るスピリチュアルな活動が盛んでした。自家製野菜のベジタリアン
料理や独自の体操によって共同体意識を高め合う、ユートピア的な
創造集団として周囲から見られていたようです。これに危機感を抱
いたグロピウスはイッテンと対立し、1923年、イッテンは辞職します。
1923年のバウハウス展は、グロピウスの提唱した「芸術と技術の
融合」を示すものとなりました。なかでも「ハウスアムホルン」は、
家事労働を軽減し住居の無駄なスペースを省いた、機能的住宅を
体現したものでした。実際には、そこで織物工房の女学生が絨毯
を織って販売し、学校の活動資金を助けていたといわれます。
1925年バウハウスはデッサウに移転し、建築・工業デザインを中
心とした実践教育に重点を置くようになり、女生徒も減りました。
ワイマールのバウハウスは古い街並みと一体になった場所にあり、
垣根はありません。ここをモダンなビルで埋め尽くそうという気に
はなれなかっただろうと、キャンパスに立ちながら思いました。
ゲーテが12年にわたり
7000通以上の手紙を送
り、彼を古典主義への道
へ導いたといわれるシャ
ルロッテ・フォン・シュタ
イン夫人もこの墓所に眠っています。
バウハウスの近くにある大公家の墓所には歴代の大公が眠り、84年
の生涯を終えたゲーテの棺も並んでいます。ワイマールの領主は代々、
芸術家の招聘に熱心で、そうした土壌が文豪ゲーテの創造をはぐくみ、バウハウス創立のきっかけをつくることにもなったのでしょう。
ワイマルのゲーテハウス
ゲーテハウスと呼ばれる家が、ドイツには 2棟あります。ひとつは
フランクフルトの生家。もうひとつがワイマル・フラウエンプラン
広場のゲーテハウスです。細い石畳の道はゲーテの散歩道でした。
左はワイマル憲法が制定された国民劇場前のゲーテ像(左)。
客間のひとつは、帝政様式(ナポレオン様式)風のインテリア。1808年ナポレオンがドイツに侵攻した際、アウグスト公と共にゲーテはナポレオン
と面会しています。アウグスト公の処遇を心配し緊張気味のゲーテでしたが、意外にもナポレオンは「若きウェルテルの悩み」の大ファンで、文学
談義に花が咲いたと伝えられています。ドイツを戦乱に巻き込んだ敵軍の将とはいえ、ゲーテ自身はナポレオンの指導力を評価していたようです。
アンナ・アマリア図書館は入場人
数制限があるため、朝一番に入場
予約をとるのがおすすめです。
アンナ・アマリア図書館は入場人
数制限があるため、朝一番に入場
予約をとるのがおすすめです。
ゲーテハウス近くの「アンナ・アマリア図書館」。
アウグスト公の母アンナ・アマリアは、息子の摂
政として公国を導き、苦しい
7年戦争(プロイセ
ン対オーストリア同盟の戦争)を乗り越えました。
その一方で文学者ヘルダーやゲーテ、シラーを
招き、人口約
11万人の貧しい小国であったワイ
マル公国に、文化の花を咲かせようと尽力します。
公妃の創設した図書館は、マルティン・ルターの
聖書をはじめとする
85万冊もの貴重な蔵書を誇
り、当時珍しい市民に開放された図書館でした。
2004年の火災により蔵書の一部を失いロココ調
のホールも被災しましたが、2000万ユーロを超え
る義援金が寄せられ、2007年再オープンしました。
ゲーテハウスは、ゲーテの亡くなった当時(1832年)から生前の
まま保管され、ヨーロッパ各国からゲーテファンが訪れていたよ
うです。オーストリア・ウィーンの劇作家カステリは、1839年の
旅でゲーテハウスを訪れ、偉人の活動に触れた感動と書斎などの
様子を詳細に書き残しています。ワイマルのゲーテに期待された
のは、行政官として政治を担うことでした。その範囲は道路や森
林整備、農地改革、財務、税制、軍隊、鉱山開発、行事の主
催など様々で、馬車に乗り公国の隅々をめぐります。26歳からの
約
10年間は、貧しい農家の現実に直面し、鉱物の研究など自
然科学への目をひらかせた貴重な歳月であったといわれています。
劇作家カステリが約170年前、紀行文に書いた書斎です。ゲーテが孫に読み書きを教えた小机や、立ったまま執筆をした書見台、貴重な書庫……・。ゲーテはここで
20年をかけた一大テーマ「色彩論」を完成させます。
市庁舎のあるマルクト広場。夏の青空市場は沢山の人で賑
わいます。広場に面した1696年創業の高級ホテル「ホテル
小説「若きウェルテルの悩み」や詩劇「ファウ
スト」で知られるゲーテですが、解剖学や植
物学、地質学の分野でも先進的な研究をして
います。そのひとつが「色彩論」で、ゲーテ
にとって非常に重要な仕事でした。ニュートン
の光学的な色の理解に反発したゲーテは「色
彩は人間の眼と光の共同作業によって生成す
るものである」として、色が与える心理的な
影響を調べ独自の色彩環を作り上げます。これは色彩心理学の礎ともいえるもので、バウハウスのデザイン教育にもつながっています。
市庁舎のあるマルクト広場。広
場に面した1696年創業の高級
ホテル「ホテルエレファント」
は、著名な文人が宿泊したことで知られます。アドルフ・ヒ
トラーもこのホテルのファンで、
バルコニーから広場に演説しました。いま立っている黄金像
は、ヴァン・デ・ヴェルデでした。
▼ 東ドイツ名物の信号機「アンペルマン」グッズの専門店がありました。
▼ワイマル城美術館のクラナハ作品。ルターと妻カタリナが並んでいます。
北方ルネサンスを代表する画家・ルーカス・クラナハは、最晩年をワイマルで過ごしました。広場に面したその家は小劇場になって
います。マルティン・ルターの友人として、彼の肖像画を描いたクラナハは、ワイマルの北 200kmほどの街・ヴィッテンベルクで宮
廷画家や市長もつとめた有力者でした。1517年、ルターがヴィッテンベルクの聖堂の扉に「95カ条の論題」を張り出したところから、
宗教改革は始まったといわれています。
ワイマル城の一画は、美術館として
公開されています。ゲーテが招聘された当時、城は
1774年の火災で焼
け落ちたままでした。ゲーテは再建
計画をすすめ、完成後はこの城に
つとめていました。クラナハの名作「ザクセン選帝侯妃ジビュレ」。絵画と共に宮
廷の暮らしぶりも垣間見られます。
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