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時空にえがく美意識 コラージ
4月号 植月 2013
emotional ROCK
ヘルマン・ヘッセ、1928年の随筆 「ある時ヴュルツブルクで」(ヘルマン・ヘッセ エッセイ全集6 臨川書店刊 鈴木直行訳)には 『もしも私が将来作家となる人間であり、自分の誕生の地を選んでいるところだとすれば、私はマイン河畔のヴュルツブルクを大いに考慮するだろう。この美しい町ヴュルツブルクは、その土地で生まれた作家に持参金として持たせる何かがあるような印象を抱かせるのである』と書かれています。
1650年頃のヴュルツブルク(マテウス・メーリアン画)は高い城壁で囲まれ、その外にブドウ畑が広がっています。フランク族の支配地であったヴュルツブルクは、700年代にアイルランドからやってきた聖キリアンによってカソリックの街となります。その後ローマと太いパイプを持つキリスト教布教の拠点として発展し、11世紀には交易の盛んな都市国家として栄えます。右側の丘の上に立つマリエンベルク城砦には、街を支配する領主であったキリスト教の司教が暮らしました。マイン川にかかる唯一の橋だったアルテ・マイン橋や沢山の教会の尖塔も描かれています。マリエンベルク城砦から見た街は、17世紀の銅版画と驚くほど同じ姿をしています。アルテ・マイン橋をはじめ、街の守護聖人キリアンの大聖堂、市民広場のマリエンカペレなど、教会の多い街であることを一目で俯瞰できます。
『私はゆったりと街路や広場を歩き回った。堂々とした街路と、見事な広場である! いくつものゴシック様式の教会では細い優雅な棟の先端が明るい朝の空にそそり立っていた。古い時代の豊かで感じのいい有力市民の家が道沿いに立ち並び、裕福そうな風情で大いに体面を保っており、日陰になった泉の上には、快活で躍動的なバロック様式の彫像群が、青空に向かって体をくねらせ立っていた。』ヘッセ「ある時ヴュルツブルクで」より
アルテ・マイン橋には、守護聖人キリアンをはじめ、12人の聖人が並んでいます。『石で築かれた高い岸壁は、陽光ときらきら水面に反射する光ばかりでなく、予期しなかった激しい色彩の交錯で私を迎えた。そこには年の市がしつらえられていたのである。晩の開始を待ちながら、岸辺に沿って気をそそる屋台の長い列が立っていた。白鳥や馬のメリーゴーランド、船形ブランコ、白と赤の縞模様の日覆いの菓子売り屋台、人を惹きつける力強い絵画、美しく荒々しい風景や大胆に考案された想像上の動物や野性的に髪をなびかせたロマンチックな少女や妖精の絵のかかった見世物小屋や魔法館を見ていると、私は芸術や文化の領域へと引き戻された。』 ヘッセ「ある時ヴュルツブルクで」より
水車小屋を利用したレストラン。
マイン川では魚も豊富に捕れたようです。橋を渡り、マリエンベルク城砦を目指して急な坂道を上がってみました。
素敵な人たち 3吉田龍太郎(TIME&STYLE)
パトリック・シア Patrick Chia(デザイナー・シンガポール)
創造に於いて独自性を貫き通すことは難しい。生活がある、生きてゆかなければならない。創造性の高い人間は生きてゆくのが難しい。その個性が強ければ強い程、世の中との距離は乖離し、ますます孤立することになってしまう。それが、多くの才能と個性ある創造主を苦しめ、世の中に知られずして没していった多くの強い個性は計り知れない。しかし、世の中との脈略を図りながら調和を形成してゆくことが創造の本質では無いはずだ。私達には挑戦してゆく責任がある。その時々の通過地点での挑戦が無ければ世の中は進化してゆかない。懐古することや調和ばかりでは新たな価値を見いだすことができない。私達は日本の過去の歴史の大きさや創造性の深さに怖れが在り、物事の価値基準を過去との脈略のつながりで図りすぎて、創造の概念の背景に常に歴史的背景という根拠の保険を求めてしまう。そこには独自の価値創造への挑戦と言うよりも、既成価値との距離感を図った焼き直しに近い懐古的価値や調和と言う美意識に隠された妥協でもある。過去と言う亡霊に私達自身が惑わされ、未来への創造の可能性を過去の強さに負けて諦めている。もっと純粋に感情に忠実になってみることも大切なことだ。現在の可能性をもっと信じ、過去から逸脱して新しいことに挑んでゆく勇気が必要なのだ。現代の私達の存在はこれまでの人類の歴史が繋いでくれた延長線の最も最先端に私達が存在しているのだから、未来に挑み、新たな道を切り開くのは私達に与えられた使命なのだ。過去ばかり振り返っていてはダメだ。人は物の存在の中から、その創造主の意思や感情を読み取り、そこに自分の気持ちを重ねて共感することで感動する。感動とは頭から感じるものではなく、心の奥から静かに沸き上がってくる感情のことだ。それは人間が与えられた感情の素晴らしさであり、豊かさだ。僕らはもっと創造することを恐れず
Object next to the object that does nothing Object that does nothing
自らと向き合い、人生と挑むことを楽しむことだ。創造することの価値は感動を共有することなのだ。私達はそんな感動を生み出したいし、感じ取ってみたい。その感動を共有する人々が仕事を共にするデザイナーやそれを共有する仕事の仲間達なのだ。幸いなことにプロダクトの世界は多くの人間が介在しなければ成立しない。デザイナーだけでなく、メーカーで製造する人、店舗で伝える人など多くの人間の意思と経験の共有によって創造者の意思が形を成し、人から人へ感情が伝わってゆく。パトリック・シアが生み出すものは独自の価値観から産まれた自然の創造物のように美しく独特の存在の香りを放つ。パトリックのオブジェは本人の感情と思想を造形として写し取り、形にしたものだ。機能的な目的を持たないように見えるオブジェは彫刻のようだが、パトリックのプロダクトは、空間とそこに介在する人々に新鮮で清らかな空気が生み出し、人々に緩やかな、さざ波のような心地よい感情を呼び起こす。それが、パトリックの生み出すものなのだ。パトリックの生み出すものは、家具として、道具としての機能性を持たないものがほとんどだ。しかし、私達が生きてゆく空間の中で作品やプロダクト、道具と言ったカテゴリーや活動の線引きは何の意味を持つのだろうか。新たな概念の価値の創造に挑む勇気が必要だ。権威の概念に惑わされること無く、自分の意思と可能性に向き合うことで新たな価値を見いだすことができる。創造は孤独だが、勇気を持って自分を信じ、前に進むことだ。パトリックとの挑戦は単純にはいかない長期に渡る闘いでもある。私達自身が生み出しながらも、自らが壊し、そして迷い、そして戻ってゆく旅のようなものだ。新しい価値の概念を生み出し、その可能性を持続性のあるものにする為にもこれからも挑戦は続くのだ。そして、いつの日か共に歩み続けた僕らの旅の感動を人々と共有できる日が訪れるかもしれないし、それは僕らの存在が消滅した後に訪れるのかもしれない。いずれにしても挑み続けることに意味と価値があるのだ。パトリックとの物作りは旅であり、新たな価値の創造と言う夢なのだ。夢はいつか叶うものではなく、夢は常に現実の中に在ることを認識することだ。夢に向き合っているこの瞬間が真実であり、未来へと繋がって行く。私達は全てのことを守ることはできない。しかし、多くのものを失いながらもいくつかの大切なことを守り続けることができる。その大切ないくつかのことが、それぞれにとって生きる意味であり、存在そのものなのだ。
学校帰りの子ども達とすれ違いながら、開いている門をやっと見つけました。厚い城壁にうがたれた通路はトンネルのようです。門を入ると1990年、庭園博覧会の際に造園された公園があり、丘をあがった所には市民たちの農園(クラインガルテン)が広がっていました。
マリエンベルク城砦は、ケルト人の時代から要塞として使われ、近代に至るまで増改築を繰り返してきました。街を囲う城壁と丘の上の堅固な城砦は市民の安全を保証し、交易の発展に欠かせない商人たちを呼び込みました。
時代が14世紀に入り、裕福な市民層が力
を持ち始めると、領主である司教や教会への不満が高まっていきます。そこに勃発したのが、マルティン・ルターによる宗教改革を発端とした「農民戦争」でした。ドイツ各地で蜂起した農民たちは、ヴュルツブルク市会の賛同をえて、1525年マリエンブルク城砦に押し寄せました。
白井晟一の作品を彷彿とさせる塔。ベルリンの大学で学んだ白井は、こうした城郭を各地で見たのでしょうか。背の高い塔は見張り台の他に、地下に捕虜を収容したり、最後の砦としての役割をもっていたといわれます。
▲ 1833年にリヒャルト・ワグナーが暮らした家。た彼はヴュルツブルク大学(▲)で医学を学び、オランダ人医師と偽って1823年長崎出島に上陸。日本人医師に西洋医学の最新情報を伝えました。誕生日を記念してか胸像にリースが捧げられていました。ヴュルツブルクは、フォン・シーボルトの故郷です。名門医学一家に育っ街の守護聖人キリアンの墓所に建てられたノイミュンスター教会。ドイツ・ロココ調の完成者として知られるツィンマーマン兄弟によって内装の設計された華麗な教会です。天井はいくつものフレスコ画で彩られていました。
ある教会でガラスケースに入ったマリア像を見たヘッセは『実にほっそりとした指と悲しさに満ちた美しい瞼をした、見事に表現された聖母マリアは、そこに座って沈黙し、私たちの世紀にこのガラスケースの中で仮の生を送り、それでもなお私たちを慰め、私たちの内のあのか弱い病弱な心を元気付けてくれていた。その心の象徴が聖母マリアであって、それは今日の世界では死刑判決を下されているように見えるのである。しかし魂は死滅しない。それは高貴だが移り行く色鮮やかな夢のなかへと消え去り、ガラスケースの奥の何百年も前の遠い敬虔な彫像の中に逃れ、苦悩する被造物とおずおずと姉のように語らうが、それでも生き続け、そして結局戦争や国家やもろもろの機械や幾多の世界帝国よりも長生きするのだ。』と、その時の印象を書き残しています(「ある時ヴュルツブルクで」より)。
18世紀に入ると、ヨーロッパ各地でヴェルサイユ宮殿にならった豪勢な宮殿が建設されるようになります。ウィーンのシェーンブルン宮殿などとならび、ドイツ・バロック建築の最高傑作といわれるのが、世界遺産のヴュルツブルク宮殿(レジデンツ)です。若き建築家バルタザール・ノイマンの設計により、1720年から 24年の歳月をかけて完成しました。領主をつとめた司教たちは代々の居城を離れ街中の宮殿に移り、ドイツは近代化の時代を迎えます。しかし国の統一は遠く、数多くの領主国に分裂した時代が続きました。
『レジデンツの内部にはティエボロのほぼ百メートルほどの長さのフレスコ画があり、他にもあれこれの注目すべきものがあった。しかしそれは私にとって急いで見なければならないものではなく、重要でもなかった。巨大なレジデンツの後ろでは、枝に若々しい青葉をつけた茂みでたくさんの鳥が歌っている広い壮麗な庭園が私を待っていた。目を閉じ、内なる映像に身を任せ、耳には沢山の鳥の微かだがきらきら輝くような鳴き声が交錯し、膝や手には暖かい日差しを感じながら、私はそこで休み、ベンチに座っていた。いったい自分は今どこの町に、どの時代にいるのか忘れて憩っていた。』ヘッセ 「ある時ヴュルツブルクで」より
[ 悪夢の前夜に至るまでの話8 ]
[ 悪夢の前夜に至るまでの話 11 ]
「ロックマンの父親はホノルルを中心に活動する麻薬シンジ
国道134号線。江ノ島から辻堂方面へ向かう、赤いトヨタ
ケートのボスだ。似たような団体は本島に限っても10を越
のピックアップトラック。ロックマンの運転する車の後をシ
えるという。その中で日々血のシノギを削っているという。
ルバーのプリウスがくっついて来る。バックミラーを見て舌
母親は知らない。彼が物心つく頃にはすでに居なかったそう
打ちをした。ヤクザ丸出しの白髪オールバック。相楽真一だ。
だ。生きているか死んでいるかも分からないと言っていた。
[ 悪夢の前夜に至るまでの話9 ]
「ハロー、クロ。上々だ。すべてうまくいった。どっさり手に
入ったぞ」「遅いんじゃないのか?ロック」「Yeah gassed!」
「そこらの素人に食わせんなよ? すぐパクられんぞ?」「わか
ふ」「たみてし試で生学中の所近、ああ」「?はちっそ。よんてっ
ん。鬼だな。で?結果は?」「上々だ」「ハッ !!」
「さー知らんね。地元のガキのことなんてよ」
それでも地球は
#16相楽真一
パッシング。「Vexed!!」ロックマンはもう一度舌打ちをした。車を左に寄せて停車した。ウィンドウを下げる。ダッシュボ
ードの中の「T」。見つかる訳にはいかない。カマキリのよう
な痩せこけた顔が車内に顔を突っ込んで来る。「ワーーッツ
アップ?」「どんしたんすか?設楽さん。お供もなしで」「い
や偶然だよ、ロック。見た車が前を走ってたからよ」「張ってたんすか?」「ちげーって言ってんだろーが !!」頭をゴツゴ
ツ叩かれた。「天才坊主は?」「さー。俺あいつの彼女じゃな
いんで」ふん。相楽真一は鼻で笑って言った。「T持ってこ
[ 悪夢の前夜に至るまでの話 10 ]いって言っとけ」ロックマンは相楽真一の方を見ずに前を見
Teenにだけ効き目のあるドラッグ。それが「 T 」だ。いわ
回ってるて言った。「もーないんすよ。あれは偶然できたもんだって
ゆるケミカル系の脱法ドラッグで、効果はほとんど MDMA
何度言ったら ……」右目の辺りを拳で殴られた。頭の中に
と同じ。きまればほんの10分で多幸感と幻覚が訪れる。ミ
白い閃光が走る。遅れて痛みが顔半分で弾けた。「違うよな
スると悪寒と動悸が激しくなる。暗黒サイトのレシピをマネ
ーロック。俺は分かるんだよ。お前らみたいな悪党が何考え
して作ったら偶然出来た代物だとクロは言う。「エク」や「鳩」
てるかなんてよ」空を見上げた。空が高い。秋だな。「クロ
と違う点は、圧倒的に保ち時間が短いことだ。体内残留時野田 豪(AREA)
に言っとけよ」言い捨てて相楽は顔を引っ込めた。しかし深
間も短い。つまり足がつきにくい。
追いはしない。
[ 悪夢の前夜に至るまでの話 12 ]
五年前のあの日以来、相楽は知っている。ロックマンが暴れるととんでもないことになることを。組み内にいたロリコンの下っ端構成員組がガキにやられた。その件で引っ張ってきた中学生 2人が大人10人を逆に暴力でねじ伏せてしまった。刃物を呑んでいた若い男もいた。空手の有段者もいた。しかし、ロックマンの動きは尋常ではなかった。あっという間に沢山の人間を破壊した。だが、本当に驚いたのはその後だ。事務所の間取り、その時間に居合わせた人間の特徴、性格、能力をクロという少年が下調べしていたというのだ。確かに彼らは機械的に淡々と、しかし速やかに動いていた。映画で見るスワットのようだった。相楽は驚嘆した。中学生じゃない。彼らは犯罪者の卵だ。千人に一人の才能が目の前に2人もいる。しかも 「つがい」でだ。相楽はすぐには動かなかった。時間をかけた。人を割いて徹底的に2人の弱みを探した。そして見つけた。大麻だ。地元のサーファーに流していた葉っぱを2人が食っていた。心の中で舌なめずりをした。報復の腹なんてない。ガキ相手にハシャイでもしょうがない。相楽が欲しかったのはクロの頭脳とロックマンの戦闘能力だ。彼らに詰め寄った。優しく。とても優しく。彼らは簡単に降参した。当たり前だ。そうは言ってもまだ中学生なのだから。ロックマンは別にしても、クロには親がいる。家がある。抵抗なんてできっこない。その日以来彼らは相楽にやんわりと握られた。20歳。彼らがその歳を迎えたら仕事をさせようと考えていた。フロントでいい。いやむしろフロントでこそ彼らはその能力を発揮させるだろう。
[ 悪夢の前夜に至るまでの話 13 ]
そんなある日、ひょんなことで耳にした情報。「奴らドラッグ作ってるって噂ですよ」「葉っぱか?」「いえ、ケミカルだそうです」あり得ると思った。クロがネットを駆使したらそのくらい雑作もないだろう。あいつだったら核爆弾作ったって驚きはしない。馬鹿野郎。そう思った。この世界にはこの世界のルールってもんがある。かたぎの世界より強固なルールってもんが。数年前から地元警察が彼らをマークしているのも知っている。なんも分かっちゃいない。このままではあいつらは潰されてしまう。あいつらは金を産むニワトリだ。産む前に潰されてたまるか。呼び出した。そして問いつめた。2人はシラを切った。ばか。そうじゃないんだ。取り上げようとしているわけじゃない。お前らがやばいんだよ。その時、相楽は自分の本心に気づく。自分が彼らに対して道具以上の感情を持ってしまっている事に。見守り過ぎたか。情が移っちまった。しかし、そんなことを口に出来る訳もない。脅した。何もかもを使って脅して脅して脅し抜いた。彼らはとうとう白状した。たまたま出来たんです。クロがそう言った。そんな訳ないだろう。こっちを見つめるクロの目。虚ろでガラス玉のような黒い瞳。吸い込まれそうになる。二度と作るな。二度目は絶対に許さない。そう言った。周りの組員が訝しい顔をする。No2の木村が横で目を剥いた。
船、鉄道、自動車、飛行機と、旅の変遷と共に、その姿を進化させたルイ・ヴィトン。ヴィトン製トランクをコレクションする「ガレット デザインギャラリー」におじゃましました。ギャラリーを主宰する前田勝介さんがヴィトンのトランクと出会ったのは、アルフレックスジャパンの家具デザイナーとしてイタリアに渡った後の1970年代中頃でした。「ショーウィンドウに飾られたヴィトンの古いトランクに、モダン家具との共通点を見つけました。洋服を入れる大きなトランクは、まるで小さなワードローブのようです。モダンデザインを代表する巨匠達のキー・コアが、ここにあると感じました」と語ります。
黒革をタイガ調に型押したコスメトランク。カバン全体を一枚の革で作っているそうです。内張にモアレの絹地を使い、ガラス瓶はバカラ製。金属部分は銀製です。1920年当時数百万円したとのこと。
19世紀末のシルクハットトランク。ニスを塗って防水性を高めています。
19世紀末に誕生したヴィトンの「モノグラム」。初期の製品はマークをジャガードで織っていました。その後麻布にプリントされ、現在の合成皮革プリントへと変化します。前田さんはこの過程を工業デザイナーの立場から興味深くとらえています。差別化(コピー防止)のため職人のイニシャル(LV)を全面にプリントしたことや、時代の変化に合わせいち早く製品の用途やデザイン、素材を変えたこと、歌手や有名人を使い、雑誌・グラフィック広告によるブランド戦略を進めたこと等々、現在の製品開発のルーツが見えてくるといいます。1821年、スイス国境に近い寒村に生まれたルイ・ヴィトンは、14歳の頃故郷をでて、数年ののちパリで梱包用木箱の制作を学びました。1854年、ヴィトンは世界初の旅行鞄専門店をサン・ラザール駅近くに出店。頑丈なトランクは当時の旅行ブームによって富裕層に大ヒットします。ヴィトンはそれまでの製法を一新し、ポプラの板で箱を作り、麻布を貼ってからカシュー塗料で仕上げ、頑丈で防水性の高いトランクを開発しました。これは輪島塗の技法にも近く、東洋の漆器の影響もありそうです。その後、船・鉄道・自動車・飛行機といった交通手段の変化に合わせ、様々な種類の製品を開発していきます。
左は参考出展されたエルメスのコスメケース。馬具メーカーから発展したエルメスは、貴族や富裕層が自ら持つ道具としてデザインされています。それに対しヴィトンのトランクは、主にポーターによって運ばれ、船や鉄道、僻地での移動に耐えることを目的に作られていました。やがて旅の大衆化と共に、ヴィトンの製品は小型のバッグに主軸を移していきます。
キャンバス地の保護カバー。
エピ調の革のシリーズ。
最初期にヴィトンを購入した日本人のひとりが、後藤象二郎でした。後藤は一時期、長崎・高島鉱山(軍艦島のルーツ)を経営したこともある政治家・実業家で、1883年にパリでヴィトンのトランクを購入しました。その旅に同行した盟友・板垣退助は、帰国後もヴィトンのトランクを愛用したようです。こうした歴史的な逸話にも支えられ、ヴィトンは様々な時代の変化を乗り切りました。「質の高いものづくりを世界的なブランドとして継続していくノウハウが、ヴィトンの歴史から学べるのではないでしょうか」と前田さんはいいます。
BC工房 主人 鈴木惠三椅子の師匠 5おめでとう 小泉 誠さん
小泉 誠さんとのコラボ1 「おむすびスツール」
小泉 誠さんとのコラボ 2 「つるつる椅子」
セミナー参加者も農園を見学。
「コンパニオンプランツ」は無農薬農法の有力な手段として、近年注目を集めています。植物には害虫や病気から身を守るため「共存共栄」してきた種類があり、昔の農家はこの関係を上手く利用していました。例えば中米のインディオは、トウモロコシとインゲンマメなどを混植し、微生物による土中の改善や益虫の育成を行っているといわれます。現在コンパニオンプランツと
ネギ」、「ナス:ニラ」、「カボチャ:ネギ」、「ジャガイモ:マリーゴールド」等々たくさんあります(農学上の効果が立証されているのは一部です)。また植え方によっても作用は異なるようです。まずは作業着に着替えて、安心農園で実践してみましょう。
:リウュキ、「」ルジバ:トマト、「はのるいてれわいとるあが果効てし
NHK FM「クラシックカフェ」パーソナリティをつとめる、奥様の美智子さんと、愛犬チャッピーがお手伝い。
今回唐沢さんは、ジャガイモの植え方を色々と試してみました。2つにカットして断面に石灰をまぶしたり、まるごと植えたり。また、断面を上にした「逆さ植え」にもトライしました。通常は断面を下にしますが、逆さにすることで芽が強くなるという説があるそうです。ジャガイモのコンパニオンプランツにはマリーゴールドを植える予定。隣に植えたネギは、キュウリのコンパニオンにするつもりとのこと。どのような効果を得られるか、これから楽しみです。安心農園マネジャーの高橋さん一家。今日は親子で参加しています。パワフルな子どもたちはシャベルを上手に使いながら、あっという間にうねを完成。ジャガイモやネギを植えていきました。コラージ畑でも、もっちゃん指導のもと、ジャガイモを植え付けました。冬の間、もっちゃんが堆肥を入れて耕した土は、フカフカした絨毯のようです。ヒモのついた2本の杭を定規代わりにすると、うねが真っ直ぐになるとのこと。種芋の間隔も、きちんと計りながら植えていきます。安心農園の堆肥は、コーヒーカスや枯れ葉などを長時間発酵させた植物性のもので、堆肥の上に直接種芋を載せても、焼ける心配はありません。隣にはネギを植えコンパニオンプランツ効果も狙ってみましたが、さあどうなることか……。最後に畑の足跡をクワで消しておくようにもっちゃんからの指示。さすが畑のアーティストです。 (次回に続く?)
ギャラリー収納の銀座店がリニューアルオープンしました。今回のポイントは、次世代へと記憶をつなぐ「おもいで収納」にあるようです。AVボード裏の収納棚には、思い出の品々をたっぷり収納できます。
AVボードの裏側には、奥行き1m程のスペースにたっぷりした収納棚が設置され、ウォークインクローゼット 4畳半並の収納量を確保できます。普段は使わないけれど捨てられない、本や雑誌、レコード、CD、ホビー、記念品などをしまうのにぴったりです。その他、子どものおもちゃや掃除道具、リネン置き場にもなります。
扉色としてアースカラーを中心とした 7色が追加されました。今回から、扉色と本体色を自由に組み合わせたツートンカラーが可能となり、デザインバリエーションが増えました。
寝室まわりを提案したコーナー。左の CDラックの裏には、1坪書斎が隠れています。人生の記録装置ともいえる書斎。ものを整理して捨てるばかりでは無く、適度に蓄積しながら心にとめることで、人生をより豊かなものにしようという工夫が込められています。
▲セーターなどをしまうのに便利な深型引き出し。
1坪書斎の裏側は、ベッドに面したクローゼットです。追加▼ クローゼットの引き出しに合わせたベッド脇のチェスト。
された深型の引き出しは、ツートンカラーのアクセントになっていす。着物やバッグ、コート、セーターなどを、それぞれの収納スペースにきっちりと納められ、箪笥のような機能性を持っていました。下はピュアホワイトのリビング収納。
世界的評価の高まる1950年代アート
具体 GUTAI
1950年代、関西で結成された現代美術集団「具体」。近年国際的な注目をあび、ニューヨーク・グッゲンハイム美術館で大規模な「具体展」が開催されています。東京・南青山のギャラリーときの忘れものでは、3月15〜30日まで「具体 Gコレクションより」を開催しました。
具体現代美術の価値が定まるまで
石山修武 & 河.晃一 ギャラリートーク
ときの忘れものでは、今回の具体展を企画した建築家・石山修武さんとキュレーター・河.晃一さんによるトークショーが開かれました。具体の拠点であった芦屋に生まれた河.さんは、芦屋市立美術博物館で日本初の本格的な具体展を開催し、資料集づくりに尽力されるなど、具体メンバーと共に歩んできた研究者で、造形作家でもあります。河.さんによると「具体」はカリスマ的リーダーである吉原治良氏(1905〜 1972)を頂点とし、彼を信奉するメンバーの集団だったようです。「具体の作家たちは後世に作品を残すというよりも、『今までにないものを作れ』という吉原先生の言葉を信じ、彼に作品を認めてもらうことを
目的としていました」と河.さん。吉原氏は食用油で知られる製油会社の御曹司で、1954年に具体を結成し、社長業とともに創作活動を行いました。海外情報に詳しくモダンな暮らしをした方で、関西では美術評論家としても活躍しています。一方、具体の作家達は「芸術家というよりも民衆を見ている感じ。リーダーとメンバーのギャップが大きい。具体の作品には上手い下手を超えた所があります。アニミズムというか、理論ではなく、自然にでてきたものを表現し続けた並々ならぬ人たち」と石山さん。昭和の時代はまったく売れなかった具体の作品は、海外での展覧会を重ねるごとに評価が高まり、ポンピドゥー・センターの「前衛芸術の日本 1910-1970」展(1986)で注目をあび、1993年ヴェネチアビエンナーレの回顧展には作家達(当時
「ヴェネチアにはご夫婦で招待されました。それまで絵が売れることはほとんど無くて、奥様も共働きで苦労されて、70代を過ぎて世界的に評価されるという、日本の作家達が叶えられなかったことを、この方々は実現しました。しかし、評価されたあともメンバーは意外と変わらない。未だに自分の作品がなぜ売れるか分からないという感じで …… 」。ニューヨーク・グッゲンハイム美術館で開催中の展
代)も招待されました。 07〜06
堀尾貞治「作品」1967 ▲上前智祐「作品」2001 製鋼工場で溶鉱炉のクレーンオペレーターをしていた上前氏は「赤色の使い方に特徴がある」と河.さん。90歳を超える今も創作活動を続け、米国のアートショーではオープニングパーティで作品が飛ぶように売れたそうです。
覧会も、毎日数千人の来場者で賑わっているそうです。その会場を見たあと、河.さんはダラスのコレクター宅を訪問しました。「沢山の部屋に具体の作品を展示した、日本の美術館よりも規模の大きなコレクションでした。こうした具体のコレクターが世界には何人もいて、ここ数年で価格は高騰し、億を超えた作品もあります。ここまでブレークするというのは、日本人から見るとよく分からない」。石山さんは「この会場はグッゲンハイムに比べ規模は小さいですが、まずは作品の値段から見て欲しい。画廊主とも相談して、関西価格では無く、国際価格に近い値段を付けました。値段によって作品の見え方は変わってきます。その意味でもこの展覧会は面白い。現代美術は制作されてから評価されるまでに時間のギャップがある。その理由はなんでしょう」。それに対して河.さんは「50年が評価の節目になると思います。50年たつと作品は自然淘汰され、コレクターも安心して買えるようになる。具体の歴史をたどっていくと、日本の現代美術が海外に発信され、評価され、コレクションとなる過程を実感できます」。画廊主の綿貫不二夫さんによると、ホームページを見た海外のコレクターから、問い合わせや購入希望が届いているそうです。
を描いて有名な『夜鷹』にしても、中華チョプスイ屋でテーブルを囲む女二人を描いた絵でも、料理は、描かれていない。テーブルは、いつも、ガランとしている。さてこれは、いかなる画家の思いの反映なのか。描かれなかったものには、ときに、描かれたものよりも、深い意味が隠されている。女が座る店は、カフェ?そうでは、ない。なぜ断言できるのか。それは、この絵のタイトルが『オートマット』(Automat)であるからだ。「オートマット」とは一体何か。知ったら皆さん、驚くはずで、次頁の写真をご覧頂きたい。要するに、自販機簡易食堂、ということになる。マンハッタン初登場は、1912年ブロードウエイ、タイムズ・スクエア付近。それにしても、これが百年前!アメリカの先進国ぶりが圧倒的であったことが、わかる。もっとも、このアイデアそのものは、当時ドイツからやってきたもので、「あっ、バウハウス的」と私は感じる。いず
星ら上卓きたの
食文化ヒストリアン
NYオートマットの女
大原千晴
英国骨董おおはら
描かれているようにも、見える。それが気になり始めると、よけい、女の気持ちを探りたくなってくる。ホッパーは、食べる場所をよく描いた。それなのに、画面に料理が描かれることは、まず、ない。ダイナー(食堂)
Automat - Edward Hopper. Oil on canvas. 1927
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口か。摩天楼の谷底は、冬、暮れるのが早い。超高層ビルの谷底を、人々は早足に、どこかへと消えていく。この窓を通して向こう側には、人の流れの合間に、車の流れも見えるはずで、おそらくは、ブロードウエイ 丁目。だが、画家は、これを意図的に、シャットアウトして、天井の灯の反射を見事に装飾化して「絵にしている」。よく見ると、女の右手の薬指に、指輪が若い女がただ一人、じっとカップの中を見つめている。彼女、果たして、何を思うのか?襟と袖口には、贅沢な毛皮のトリム。右の手でコーヒーカップを持ち、その前に、一枚の空いた小皿。置かれていたのは、チーズケーキか、アップルパイか。左手は、スウェードらしき革の手袋を着けたままだ。入り口脇のスティームは、触れ得ぬほどに熱いはず。ドアが開けば、街路の冷たい風が吹き入るけれど、暖房装置の熱塊が、その冷たさを和らげて、女をやさしく包み込む。待ち人、それとも、ひと休み。いや、相手が去った、あとではないのか。その目は、じっと、カップの中を見つめている。その伏せた目に、切なさを感じる。一抹の、寂しさも。見え隠れするのは、諦めきれない女の思いか。伏し目で瞳は読み取れない。その見えないはずの視線が、訴えてくる。まさに絵描きの底力で、時代の瞬間を、見事に定着させている。絵描きの名?ダイナーを描いた『夜鷹』で知られる、といえば「あっ、あの人か」となりそうな。ニューヨークに生まれ育って、1910年頃からパリで修行し、祖国に戻って、ひたすらマンハッタンとその周辺を描いて有名な、エドワード・ホッパー(1882〜 1967)です。再び、絵に戻ろう。女の背後に、大きなガラス窓。厳冬のマンハッタン、時刻は、まだ宵のれにしても、この絵をただ眺めているだけでは、まず、この背景は、見えてこない。画家が描いたのは、その店の一隅、入り口脇の客席部分を切り取っての構図で、店の奥に立ち並ぶ自販機も、その前に広がる、巨大なビアホールのような客席空間も、描かれていない。しかし、絵が発表された当時、ニューヨーカーがこの絵のタイトルを見るならば、それだけで、女の脇奥に立ち並ぶ自販機の壁が、目に浮かんだはずだ。その一方で、 2013年の日本人。この女の脇奥に、自販機の壁を思い描ける人など、まず、いない。この切り取られた店の一隅「だけ」を見るのと、自販機の立ち並ぶ空間と知った上で見るのとでは、別の世界が見えるはずだ。印象もまた、まるで別のものになりそうだが、私は、そうは思わない。当時、自販機立ち並ぶこの店
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は、時代の先端をゆく、オシャレでかっこいいモダンと受け止められていた。しかし、「進歩」の無意味さを痛いほど知る街パリで学んだ画家は、マンハッタンのモダンに、寂しさを見出した。自販機から取り出したコーヒー、料理、そして、パイ。モダンは、寂しく、虚しく、冷え冷えとしていて、せつない。金は、ある。しかし、優しさ、ぬくもり、きずな、そうしたもののあれこれが、決定的に、切断されていく。非情なほどに強さを徹底してこそ、あのマンハッタンの街並みが生まれる。だからこそ、
マンハッタンは、美しい。力ある者が、勝つ。それは、資本の論理の徹底、といってもいい。画家が描いた 1920〜 年代、ニューヨークの街並みは、ものすごい勢いで超高層化が進展していく。アメリカが世界の中心となり、その金融の中心マ
ンハッタン。バブル期の東京でさえ「目じゃない」ほどの熱狂が渦巻いて、誰もが
未来を夢見ていた。この秀逸な画家の目には当時、夢に踊らされる人々には見えて
いなかった、影の深さが見えていた。モダンのもたらす、冷え冷えとした世界の、底
なしの影。画家はそれを描いた。
このモダンは、 1991年、東京でも完成した。だから、この自販機立ち並ぶ背景
を知らずとも、私たちは、この切り取られた女に、いとおしいほどの
切なさを読み取ることが、できる。知らなくてもよかった、モダンと
いう世界の虚しさ。そうなってすでに四半世紀が経過して、震災もあ
った。だから、マンハッタンの谷底でひとりコーヒーを見つめ続ける
女に、心惹かれるのだ。この女は、私であり、あなた、なのだ。昨年
の晩秋、パリでは、ホッパーの大回顧展が、無数に開かれている展覧
会の中でも、断トツの一番人気だった。今、パリが、マンハッタンを追う時代になった。転換期だ。
上は、基地司令部の隣に建つ「在日米海軍司令部」です。明治期に建設さ
▲基地司令部には「横須賀鎮守府会議所」の表札が当時のまま掲げられています。基地では横須賀市と共催して年4回「日米親善歴史ツアー」を開催しています(申し込み制。詳しくは横須賀市商業観光課まで)。
▲ 基地司令部、玄関脇の階段には小さなエンタシス。
▼ 左は小栗上野介忠順。右はレオンス・ヴェルニー。
▼ 基地のジオラマや貴重な写真・史料が掲げられていました。
基地司令部内では、戦前からの貴重な史料を見られます。横須賀基地のルーツは、慶応元年(1865)に開所した横須賀製鉄所までさかのぼります。江戸幕府の小栗上野介忠順は、万延元年(1860)日米修好通商条約批准書の交換のため米軍艦ポウハタン号で渡米。ワシントン海軍造船所などを見学し造船所の必要性を痛感します。帰国後、小栗はフランス公使レオン・ロッシュと協働し、フランス海軍技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーを招聘。条件の揃った横須賀の地を選び、造船所の建設をすすめました。基地司令部を下ったところに、サクラの木に囲まれた「関東大震災の碑」(昭和 2年)が立っています。震源に近い横須賀基地では、レンガ造建築の多くが倒壊し火災も甚大だったようで、再建された建物は鉄骨や鉄筋コンクリート建築へと変わりました。この近くには、造船技術監督ティボディエの官舎がありました。米海軍により保存を前提に解体され、今は市内の学校に部材が保管されています。
現在は「CPO CLUB( 兵曹長クラブ)」として利用されている旧横須賀海軍工廠庁舎。昭和初期に建てられたセゼッションを思わせる左右対称の美しい建物です。均等に連続した上げ下げ窓は、耐震性を考慮した結果ともいわれています。
Dry Dock No.1 1871
ドライドックとは、船の修繕に欠かせない施設です。修理の際はドックを海水で満たしてから扉を開けて船を入れ、扉を閉めて海水を排水し、盤木と呼ばれる支えによって船を固定します。上の写真からも、ドックの扉を隔てて海水面の高い様子が分かります。特に高い性能が要求される軍艦には、定期的な修繕は欠かせません。それは幕末に多くの軍艦を所有した江戸幕府も同じでした。小栗上野介忠順が新政府の策略によって斬首される混乱のなか、ヴェルニー達は避難をすすめられながらも横須賀にとどまり、建設を進めます。やがて事業は明治政府に引き継がれ、明治 4年(1871)に1号ドックは完成しました。ドック建設場所の地盤や風向きを熟慮したヴェルニーは、硬質な粘土地盤を掘り下げ、真鶴周辺で採れる良質の小松石を使いドックを築きました。関東大震災による液状化の被害も受けず、140年以上たつ今も現役で利用されています。
1号ドックは昭和 11年(1936)に延伸工事が行われ、先の部分がコンクリート造になっています。
Dry Dock No.3 1874
1号ドック完成に続き3号ドックが着工され、明治7年(1874)に完成しました。建設当時の姿を最もよく残したドックといわれています。
3号ドックは全長約 96メートルと小型です。ドックの先頭はきれいなアーチ状で、荷物を下ろしたと思われる傾斜が特徴的です。また1号ドックと異なり床面に傾斜が設けられ、排水されやすくなっています。
Dry Dock No.2 1884
全長約 151メートルと大型の 2号ドックは、1号と3号の間に建設されました。
2号ドックは、ヴェルニーに学んだ恒川柳作などの日本人によって初めて施工管理されました。恒川たちは呉や佐世保、舞鶴、神戸、横浜、長崎と、全国の軍港・商業港にドライドックの建造技術を伝搬します。
6号ドックは全長約 339メートルの巨大ドックです。太平洋戦争の始まる前年、昭和 15年に完成し、大和型戦艦「信濃」の建造が進められました。戦局の変化により信濃は航空母艦に設計変更され、昭和 19年、未完成ともいえる状態のまま呉の海軍基地に回航中、米海軍の潜水艦に魚雷攻撃されます。命中から約 7時間後、紀伊半島の沖合で 790名以上の乗組員と共に深海へ沈みました。今も6号ドックは、横須賀基地に配備されている艦船の整備などに欠かせない重要な施設として使用されています。基地内の将校クラブ「アーレイ・A・バーク大将士官食堂」。バーク大将は太平洋戦争の時、帝国海軍の戦艦や航空機を多数撃破した勇者として高く評価された人物です。バーク氏に転機が訪れたのは、朝鮮戦争で日本に派遣された時でした。帝国ホテルに滞在中、客室に毎日のように花を生けてくれたのは、戦争で夫を亡くした客室係で、彼女はお礼の金を受け取ろうとしませんでした。朝鮮の戦地から日本に戻り、疲れ果てた彼を我が家のように温かく迎え、歓迎の茶でもてなしてくれたのも、帝国ホテルの客室係たちでした。こうしたふれあいからバーク氏は日本人特有の気質に興味を持ち始めます。それはやがて、海上自衛隊発足への強力な力添えという形で、日米の歴史に刻まれることとなります。94歳で永眠したバーク氏の胸には、数ある勲章のなかから勲一等旭日大綬章だけが遺言によって付けられていたそうです(参照:海の友情阿川尚之著 中公文庫刊)。