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時空にえがく美意識
6月号 葵月 2013
http://collaj.jp/
二葉葵の六月
古来から二葉葵は縁をつなぐ不思議な植物として、さまざまな歌に詠まれてきました。京都・賀茂御祖神社(下鴨神社)には、斎王の庭として伝わる「葵の庭」が再興されています。
忘れめや あふいを草にひき結び かりねののべの つゆの曙 第 31代 斎王式子内親王 (新古今和歌集 )
京都で最も古い歴史をもつといわれる「賀茂神社」。平安遷都(794年)以前からこの地を治めた賀茂氏の氏神をルーツにもつといわれます。下鴨神社の境内にひろがる深い原生林・糺の森(ただすのもり)は、賀茂川と高野川の合流点にあり、治水の要となる場所にあります。右は境内を流れる、みたらし川。葵祭のシンボルでもある「二葉葵の紋」は、賀茂神社の社紋ともなっています。
下鴨神社境内の「比良木(ひらぎ)社」。周辺の木々の葉は柊木状になるといわれています(京の七不思議のひとつ)。
歴代の斎王(天皇家から選ばれた神に仕える姫)の派遣された賀茂斎院御所が一部再興されています。葵の自生する庭では、カリンやユキノシタ、オミナエシ、シャクヤクなど様々な薬草も育てられていました。
伊賀古夜日売命、建角身命、玉依媛命の三神を祀った「三井神社」。鬱蒼とした森と苔むした庭に囲まれ、古代からの社殿の姿を今に伝えています。
様々な神事の行われる特別な井戸「御井」は、玉依媛命の聖水ともいわれる命の源です。皇族のための牛車「唐車」にも葵の紋が入っていました。
神様へのお供えを調理する「大炊殿(おおいどの)」。手前には大きな竈(おくどさん)があり、板の間には調理場があります。奥は畳敷きの配膳室になっていました。神々のために用意された食器類や、皇室から奉納された五色の絹も展示されていました。
六角通に文政 6年(1823)からこの地に店をかまえる宮脇賣扇庵。店先に床几台をおき、畳敷きの「ミセ」を構えるなど、江戸風情の店構えを再現されていました。富岡鉄斎や竹内栖鳳など、近代京都画壇を代表する 48画伯の扇子をあしらった天井画が見事でした。左は雅なお座敷遊び「投扇興」のセット。京都の発祥で、江戸にも伝わり大流行しました。
六角通の由来となった六角堂(頂法寺)は、聖徳太子創建の寺といわれ、本堂は六角形になっています。生け花発祥の地としても知られています。
武田五一設計の1928ビル(昭和 3年竣工)。解体があやぶまれたとき建築家・若林広幸氏の尽力によって再生され、劇場や飲食店に利用されています。三条通が寺町通の商店街に突き当たる場所にあり、300回を越えるロングランを記録した『ギア - GEAR -』を公演中です。
京都を代表する伝統工芸のひとつ着物。様々な技法のあるなかで、「手捺染(てなせん)」によって染められる「型友禅」は、ときには百枚以上の型を利用して、色鮮やかな四季の風景を絹地に映しだします。
六角通に本社をかまえる着物メーカー「京朋(きょうほう)」の後藤秀平さんにご案内いただき、右京区 桂川近くの染工場・藤田染苑を訪ねました。工場に一歩足を踏み入れると、どこまでも続く作業台に目を奪われます。この台は着物 2反分を張る長さがあり、上下に 2反、計 4反を一度に染められるそうです。模様を彫った型(スクリーン)を置き、スキージ(上)で染料を押しつけ、生地を染め上げていきます。京朋ではいま、着物の型紙として使われてきた伊勢型紙を利用し「yuug i」というブランド開発を進めています。三重県・
(ユウギ)鈴鹿の白子地区に 500年以上前から伝わる伊勢型紙は、京都や江戸など全国に流通した伝統文様のアーカイブともいえる存在です。縞彫、引彫、突彫、道具彫、錐彫などの技法により、和紙に柿渋を塗って貼り合わせた「渋紙」に、専用の彫刻刀で彫られています。京朋は 6月 5日〜 7日に開催された見本市インテリアライフスタイル 2013(東京ビッグサイド)のJAPAN STYLEに「yuug i」を出展し、その特別展示では、伊勢型紙から yuug iを開発するプロセスも紹介されました。京朋では、鈴鹿・白子地区の「オコシ型紙商店」で彫られた約 3万枚の型紙から文様を選び、インテリア用品や小物などに合わせリ・デザインすることで、新しい生地の開発を行なっています。絹地だけでなく、人工皮革(左写真)や綿布にもプリント可能なので、自動車のシートから家具やバッグまで、様々な生活用品に応用できると感じました(特注生地の開発もできます)。
「手捺染(てなせん)」の工程は、染料を調色する「絵の具場」からはじまります。数十種類の染料を見本色どおりに正確に調合し、オリジナルの糊と混ぜあわせ、捺染につかう染料を手早く作っていきます。
各着物メーカーから預かった型を保管しています。現在の型は、金属枠に張ったスクリーンに柄を感光させて作ります。網の密度を利用したボカシの技法などもあります。使用した型は綺麗に洗って保管します。
作業台には型の位置を決めるガイドレールがついているものの、寸分も柄をずらさらないのは、熟練した職人の手わざがあってこそです。作業台にまっすぐ生地を貼る「地張り」という作業も大切だそうです。
京朋のショールームにて。百枚以上の型を使って染めた鮮やかな振袖が展示されています。モチーフは、桜や牡丹、菊、梅、モミジなど、京都の四季を彩る草花や幾何学文様です。四季の花を混在させるのは、どの季節にも着られるための工夫だそうです。最近はインクジェットプリンタを利用した着物も増えていますが、手捺染は染料を生地の奥まで浸透させるため、発色に深みが出るとのこと。
代々の仕事を受けつぐ伝統工芸士が、翌日の作業のため型を揃えていきます。必要な型はどこにあるのか、ベテラン職人は全て記憶しているそうです。型の状態をチェックして、傷んでいるものは補修して使います。
写真左は、手捺染の設計図ともいえる、型の種類や工程、色見本などを表にした色指定表。同じ型を使いながら配色を変えることで、雰囲気の異なった着物になります。右はボカシの技法に使われる刷毛。
京都市街の北部、宝ヶ池に建つ「京都宝ヶ池プリンスホテル(現・グランドプリンス京都)」。建築家・村野藤吾の没後 1986年 に完成した最晩年の作です。
珍しい円形のプランで、客室の廊下をぐるっと一周できます。
中庭は二葉葵の形をしていました。国際会議場に隣接することもあり、庭園や数寄屋造りの茶寮もあります。アーチ状のファサードから、京都の水を支えてきた「琵琶湖疎水」へのリスペクトを感じます。
明治 18年(1885)に着工した「琵琶湖疏水(そすい)」は、琵琶湖(大津)から山を超え、京都市街へ水をひこうと計画された一大事業でした。南禅寺境内にはローマ水道を思わせる「水路閣」が残されています。
新しい時代をむかえ、京都は「帝の都」から近代産業都市への転身を図ります。疎水の豊富な水を利用して、日本初の水力発電所(蹴上発電所 明治 24年)を開設。その電力を利用した日本初の電気鉄道(路面電車)を開業し、織物産業などの機械化も進められます。
琵琶湖疏水の計画には、大学を出たばかりの若き技術者・田辺朔郎が抜擢され、水路閣の設計も同氏によるものです。疎水は飲用水にも利用され(現在も)、
京都でも重要な地位をもつ南禅寺に「水路閣」が建てられたのは、新時代の到来を市民にアピールする役割りもあったようです。長大なトンネル工事などを伴う大規模土木工事としては初めて、日本人だけで成し遂げた事業ともいわれています。
垂直な柱のない独特の構造で、合掌造りをいくつも組み合わせたような印象です。「京都議定書」で知られる地球温暖化防止京都会議もここで開かれました。斜めの線をつらぬいた会議場を、円形のホテルがいやしているようにも見えます。周辺はいま、高級住宅地とて宅地化が進められています。
大正 6年(1917)創業の西川貞三郎商店(上は大正頃の写真)。西川貞三郎氏は大正 10年頃から、単身でシベリアや中国の各都市、南洋諸国に渡り、清水焼や生活用品の販路拡大に努めたそうです。その功績から、全国中小貿易業京都連盟の初代会長ともなりました。その後、欧米各国の見本市にも出展し、色鮮やかな南部鉄器などを開発。京都伝統工芸品輸出の草分けのひとりともいえる人物です。創業当時から続く町家造りの店舗は、清水寺の参道に続く五条通を少し入った所にあります。3代目社長の西川加余子さんに、欧米輸出向けのカタログを見せて頂きました。戦前は韓国・満州・中国との大陸貿易が盛んで、終戦直後はアメリカの日本人街へ清水焼を出荷、昭和 30年代〜 60年代は、ヨーロッパ向けの花瓶やティーセットの輸出を行なっていたようです。西洋の暮らしに合わせ、様々な製品開発を行なっていたことがカタログからうかがえます。清水焼の製造工程も解説されていました。
アメリカ向けの花入れには「 Made in Occupied Japan 」(1947〜1952年占領下の日本製品を示す)の刻印がありました。清水焼の絵付け師歴 30年・マスモトさんの仕事を拝見しました。お皿一面の桜にモミジをあしらった雲錦詰の絵柄です。「桜の姿を重ねずに、まんべんなく描くのが難しい」とマスモトさん。皿の表裏、高台の中やフチにまで絵柄を描き詰めるのが特徴で、京都の「底至り」(表に出ないところまで念入りにできていること)を象徴する作品といえます。桜にモミジを入れるのは、四季を通じて使えるようにする工夫とのこと。
大勢の観光客で賑わう新緑の清水寺。清水焼は清水寺の参道である五条坂界隈で発祥したといわれ、境内をいろどる桜やモミジ、梅などをはじめ、仏教にまつわる柄や伝統的な文様を写しとってきました。
マスモトさんの描いた見事な雲錦詰。湯のみ茶碗には、梅、桜、牡丹、菊、モミジと四季おりおりの花が揃います。分業制の進んだ清水焼で、これだけ様々な絵柄を描ける方は少ないそうです。顔料の「呉須(ごす)」は窯元によって配合が異なり、器の雰囲気を大きく左右します。面相筆にはイタチの毛を使います。全国から様々なものが集散した京都には、各地の窯業産地から多種多様な職人や技法、陶土などが集まり、清水焼の多様性は、こうした歴史のなかで培われました。その特徴を一言でいうと「御所の貴族趣味を反映した薄く軽いつくりと、細部にまで徹底した仕事ぶりではないか」と西川貞三郎商店の土屋さんはいいます。上は清水焼と同じ技法でガラスに絵付けした製品。左は古くから西川家で使っていた器の絵柄を復刻し、海外向けに開発した製品。
西川加余子さんは祖父や父の遺志をつぎ、フランス、ドイツ、ベルギー、アメリカ、ドバイ、スイスなど世界各国への輸出を続けています。フランクフルトで開催される Amb ienteはじめ海外見本市にも出展し、清水焼の魅力を世界に発信することで産地に貢献したいといいます。五条坂の若宮神社は、陶祖神「椎根津彦命(しいねつひこのみこと)」を祀っていることから、陶器神社とも呼ばれます。五条通から一歩路地に入ると、昔ながらの長屋が並んでいました。
海外からの旅行者に人気の 「Gojo Guest House」。築約 100年の料理屋を改装し、1階はカフェ、2階は和室の大部屋や個室になっています。日本の日常生活を体験できるのも人気の秘訣のようです。
▲ 大谷本廟(西大谷)の第一無量寿堂。1968年竣工。
五条通と鴨川の交差するあたりから四条通にかけて、京都五花街のひとつ宮川町があります。通りにはこじんまりとしたお茶屋や京菓子の店が軒を連ね、京都市の歴史的景観保全修景地区として整備がすすんでいました。お茶屋は芸妓や舞妓を呼んで飲食する場所で、江戸では待合いに相当します。
道に面した庇の上で、2階の座敷を少し張り出したように見せるのが、茶屋様式と呼ばれる建物の特徴のようです。鴨川を渡り「高瀬川」へ。豪商・角倉了以によって安土桃山時代に開削された運河で、京都と大阪を結ぶ動脈のひとつでした。森鴎外の小説でも知られる「高瀬舟」は、水深の浅い川のために開発された底の平らな舟で、江戸時代には全国に普及しました。周辺に並んだ沢山の飲食店は、初夏の訪れをつげる「鴨川納涼床」で賑わいはじめました。
[ 悪夢の前夜に至るまでの話 17 ]
ホノルルに巣くう蛇 2匹。
ホノルル。
Invisible Weapon(見えざる武器)と Laughing Hoku(笑う
ポリネシアン特有のパンパンに膨れた褐色の腹をダークスーツ
星)の終わりなき抗争が始まった。
に押し込んだ男。それが癖なのか、時代遅れのサスペンダーを
[ 悪夢の前夜に至るまでの話 18 ]
パチンパチンと言わせて歩く。窓の外は雨が降っていた。暗鬱
に濡れるリゾートアイランド。天井の蛍光灯がジジッと音を立て
日が落ちてしばらくすると、ロックマンが満員でざわつくマリオ
た。と、廊下の向こうから倒けつ転びつ走り来る男。知った顔
の部下。マノとかいう名前の若造で、ごく最近[見えざる武器]
に入った男。ニケが言っていた。若いのに見所のある男だと
……。渋面で迎える。「なんだ騒々しい」「ミスタ !!」顔面蒼白
のマノ。「お嬢さんが !! 」アラウラか ?今朝まで一緒だった。毎
朝コーヒーを入れてくれる可愛い娘。今頃は学校に行っているは
ずだ。「Hokuの連中に銃撃されました」何 ? …… ? …… ? 咥
えていたマールボロが唇の端にぶら下がる。「そのままお亡くな
「笑う星の奴らは一匹も逃がさねぇよ」
それでも地球は
♯ 18ロックマン3
ネットシアターに戻ってきた。キャップを脱いで静君に手渡し、
キャビネットからジムビームを取り出す。どことなく気が抜けた
感じがする。クロがウォトカを呷りつつ聞いた。「隠したか ?」
かぶりを振るロックマン。丸テーブルの脚を蹴り、そこに座る
4人組の男女を他にどかした。「妹に会った」「妹 ?お前の妹は
……確か」「会ったんだ」ボトルに口をつける。一気に飲んだ。
しばらくして、再び店の扉が開いた。戸口に凪が立っていた。
何かを決意した目だ。無言でクロに近づいていった。静君はク
りに……」続きを待たずにノキアを取り出した。コール音。ラロに目配せをした。不自然に長いシャツの袖。中で握っている
イン(回線)はすぐにつながった。「リカルドか ?俺だ。どうい
回ってる
のはおそらく …… 。クロはいつものようにテーブルに足を乗せ
う事だ ?」次第に男の顔が青から白に変色していく。マノは廊下
ている。近づく凪。クロは彼女を見もしない。「会ったんだアラ
の隅でそれを怯えて見ている。携帯を持つ右手。そして左手に
ウラに」横の席では、すでにロックマンが酔っぱらってグズグ
は拳銃が握られていた。おそらく無意識に出したのだろう。そ
ズ言っている。凪があと1、2歩の所まで近づいた時、クロは
れを掴む手が震えている。「息子は無事なのか ? …… 分かった。
凪に言った。「お前に使用したのは Tだ。麻薬の一種だが依存
すぐ国外に出すように手配しろ。今すぐだっ。」吠えるように怒野田 豪(AREA)
性はほとんどない」凪の体が止まった。「お前は俺を知らないだ
鳴るとボスは持っていたノキアを壁に叩き付けた。
ろうが、俺は昔からお前を知っている」「あたしの体に何をした ?」
「指一本ふれていない」「それは知ってる。」少女の声ではない。声帯だけが年老いてしまったようだ。「ナイフを出して、そこに座れ」クロは凪の袖をまくった。ゾロリと刃渡りの長いナイフが顔を覗かせた。
「それは俺に使うものじゃないだろう ?」凪がピクリと体と心を振るわせる。ほんの微かに。「お前は母親が殺されたと思っている。で、それを海岸線沿いの金物屋で買った。だがな、お前の母親は別に誰かに殺されたわけではないだろう ?」クロが続ける。「そこまで追い込まれただけだ。生きる死ぬを選んだのは …… 」「お
大きな声で言った。前の母親だ !! 」「13歳だってよ。年まで同じだ。アラウラに」ロックマンが声を被せて来る。チッ。クロの舌打ち。クロが視線をロックマンに向けた刹那、「うるさいっっ」凪が絶叫をあげた。泣いた目が血走っていた。真正面から一尺刃を真っすぐに突いてきた。最短距離の軌道だ。避けられない。クロッ。静君が悲鳴を上げた。顔を戻すクロ。見開く瞳。ガキンッ。音がした。褐色の長い腕。ロックマンがジムビームのビンでナイフを受け止めていた。「でな、俺よー彼女を守る事に決めたんだよ」「 …… どこの誰だよ名前は ?」クロが凪からナイフをむしり取りながら言った。ロックマンが崩れる凪を優しく抱きとめた。凪はイヤイヤをするように体をひねって泣きわめいた。「夏姫って言ってた」
【 間奏 】「カイトー……」カレンが走りざまに飛びついてきた。自己新でた
よー。「いつ ?」「さっき」「へー。スパイク変えたのが良かったんかな。夏姫に感謝しろよな。選んでもらったんだろ?」「夏姫とナツは?」
「うん !」「用具入れにメジャー取りにいった」「ん ?2人で ?」「そー。仲いいんだ
よ、あの 2人」「ふうん」言ってふと遠くに目を向けた。トラックを走
る外国人ランナーに目を留めた。最近あいつよく見るな ……。んー ?
カレンがカイトの視線の追う先に目を向ける。「あーあの人ね」「知って
んの?」「友達?」「へー
「うん。夏姫の友達」「何とか大学の強化選手だって」…… キレイなフォームだな」400Mトラックを 100で区切って 「スロウ」と 「ダッシュ」を交互に繰り返している。「夏姫はモテるからねー」
「モテる ?だってあいつ大学生だろ ?そんで君らはまだガキンチョだ」「自分だってガキじゃん」夏雲が西の空に大きく盛り上がっている。日が沈む。夕焼けが辺りに降りて来る。世界がオレンジ色に包まれる。「ロックマンって言うんだって」「この人 ?」目の前を走り抜けるロックマンを小さく指差す。彼らの視線に気づいたロックマンに「ハロー」と声をかけられた。屈託のない笑顔。子供みたいな。「キャー !!ハローだってー」丸顔のカレンがハシャイで飛び上がった。駆け抜けていく後ろ姿を真似するカレン。振り向いて「ハロー諸君」とか言っている。「諸君とか言ってない …… 」言いかけたカイトの体がブルッと震えた。急に薄ら寒い風を感じた。そこへ夏姫とナツが戻ってきた。「カイト、幅飛び付き合ってくれよ」「え ?あ、ああ」そこへ夏姫が割り込んできた「どうしたの ?カイト君。顔が真っ青だよ ?」振り向いたカイトは息を飲む。夏姫の美しい顔が髪の先まで赤く赤く染まっていた。まるで …… 。
BC工房 主人 鈴木惠三椅子の師匠 7小松の本小松 誠 さん
小松の本 .1943小松 誠 著 ADP刊
チャーチルライオンの食卓食文化ヒストリアン
第24回
大原千晴
英国骨董おおはら
65
ほど繊細な舌の持ち主で、大変なグルメだ。しかも、重要な政治会談をするに当たっては、「相手と共に食卓を囲む」ということを極めて重視していたという人物だけに、飲食にまつわる興味深い逸話が多い。
戦時の首相を務めていた時期(1940〜1945)、官邸から約 キロの郊外に位置する、英国首相専用の迎賓館チェッカーズで行われたディナー・パーティーの様子から。時は、1940年5月。参加者は、軍
星ら上卓きたの60
の参謀、閣僚、友好国の外交官といった人々で、原則として夫人同伴。まず、午後八時半頃から三十分ほど、チャーチル夫人や令嬢たちがサーブする形で、軽く食前酒を楽しむ。午後九時からディナー開始。午後十時を回った頃、女性陣は揃って別室(この晩はライブラリ)に移り、ティーやコーヒーでおしゃべりを楽しむ。食堂に残った男性陣は、チャーチル( 歳)を中心に、主題である政治の話を始める。ちなみに、こというから驚く。著作活動に関しては、まさに叩き上げの作家といっていいわけで、ノ
7873
ーベル「文学賞」は必ずしも、世界史を動かした偉大な政治家への「お飾りのご褒美」というわけではなさそうだ。そんな怪物も、 歳頃から何度か脳梗塞にみまわれ、二度目の首相在任中 歳での発作で、会話が不自由となり、以後は車椅子が必要となっていく。
チャーチルといえば、酒を好み、口から葉巻を離したことがないことで知られる。驚く先月号でご紹介した会田雄次氏は、終戦により英軍の捕虜となり、ラングーン(ビルマ)のアーロン捕虜収容所で辛酸を嘗めている。その憎き敵側の総大将というべきが、終戦直前までの五年間、英国首相を務めた、ウィンストン・チャーチル(1874〜1965)だ。歴代の英国首相の中でも別格の偉人であり、歴史家にして、絵心があり、膨大な著作活動によってノーベル文学賞を受賞。その最後は、女王陛下の命により、二十世紀英国で最も立派な国葬で送られている。まさに華々しさに彩られた一生といっていい。しかし、人間は、わからないもの。若い頃から生涯を通じてチャーチルは、彼自身が「黒い犬」と呼ぶ、うつ病に悩まされ続けている。絵を描くことも元々は、うつ病治療の一環として始めたことだったという。また、子供の頃から吃音(どもり)気味で、政治家として長い間これで苦労している。もうひとつ意外なこと、それは、収入についてだ。英国貴族の中でも名門中の名門といっていい家系の長男として生まれながらも、その社会的地位と生活の水準に見合う収入には恵まれず、一生の稼ぎの大きな部分を「執筆」によって得ていたの場ではスティルトン・チーズをつまみに、それぞれがポート酒を手酌で自由に、というのが英国の上のクラスの習慣。十一時少し前頃に、男性陣は揃って女性達の集う部屋に移って合流し、この夜はここで映画が上映されている。この男女合流の場では、男性陣もティーかコーヒーというのがしきたりだ。やがて映画が終わり、深夜零時半頃から、女性陣とともに別室でナイトキャップを楽しむ。この束の間の歓談が済み、女性陣は午前一時少し前に退出。男性陣はメインルームに移動。「じゃ、仕事を始めようか」というチャーチルのひと言と共に、本格的な議論が開始され、これが午前三〜四時頃まで続く。まさに政治は夜、動いていたのだ。それにしても、アペリティフから終了まで、八時間! タフでなければ、務まらない。この形式の宴席を当時のチャーチルは頻繁に行なっていた。これが戦時であることを思うと、彼我の文化の差の大きさに驚かざるを得ない。
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さて、トレードマークの葉巻と並んで、手からグラスを離さなかったといわれる「お酒」について。まず日常の飲み物としては、ウィスキー(ジョニ黒)の水もしくはソーダ割り。最低でも五〜六倍程度に薄めて、時には午前中から、水代わりに飲んでいた。ご本人はおそらく、これを「酒」だとは考えていなかったのではないだろうか。戦後の一時期盛んだった日本人の「ジョニ黒信仰」は、チャーチルに預かるところが大きい。これを別にして「酒」として好んだのは、なんといっても、シャンパンだ。三十
代半ば以来、銘柄はポル・ロジェール。1944年パリの英国大使館で開かれたパリ
解放記念のパーティー。チャーチルはこの席で、このシャンパンの醸造元オーナー夫
人で、優美な美女として名高いオデット(当時 歳)を紹介される。戦時下ではレジ
スタンス活動を経済的に援助するだけでなく、自身も自転車で連絡役を務め、ゲシュ
タポに捕まって身柄を拘束されたこともあるという、激しさと強さを秘めた女性だ。
チャーチルとオデットは出会ってすっかり意気投合。以後チャーチルがパリを訪れる
際には、必ずオデットがゲストして招かれるという親密な交際へと発展していく。チ
ャーチル夫人は二人の関係を公認し、以後オデットは、在庫の尽きるまで、彼が好ん
だ1928年のヴィンテージをチャーチルに送り続けたという。国葬に際しては、故
人の親友という特別待遇で、数少ない私的なゲストの一人として参列している。
そんなチャーチルも、時には女性を相手に、酔うことがあった。美貌で知られる英国初
の女性下院議員アスター夫人と同席した時の話。若くして離婚の後、アメリカから英国
に飛び、縁あって貴族夫人となった女性だ。酔ったチャーチルの話にうんざりした夫人
「ウィンストン、あなたが私の夫だったら、コーヒーに毒を盛ってやることになるわ」。
酔いながらも皮肉いっぱいの鋭い反撃する頭だけは冴え渡っているチャーチル。応えて曰く「ああ、そうですか。私があなたの夫だったら、喜んでそれを飲み干します」(お前みたいな女の夫でいるくらいなら死んだほうがマシ、という意味)。……次号へ続く
素敵な人たち 5 吉田龍太郎(TIME&STYLE)
安田玲美 (やすだなるみ 中国北京 CRC世研総経理)
2012 年の 1 月、南青山の本社に今では珍しい赤いタータンチェックのダンガリーシャツを着た小柄な女性がやって来た。可愛らしいクリクリとした瞳に、少し赤みがかった頬、素朴な雰囲気の彼女は今時の若い日本人女性から消え去ってしまった人間的で素朴な可愛らしさを放っていた。その 2 カ月前、今から2 年半前に生まれて初めて、2011 年の 11月に僕は中国を訪れた。この 10数年間の中国の経済的な成長や発展をメディアで見聞していたものの、1989 年のベルリ ンの壁の崩壊以降に軽薄に変貌していった当時の東ヨーロッパの共産主義諸国やロシアから分離していった国々の抱える問題を知る者として、冷戦の終焉から、この10 数年の中国の経済的な急成長や威圧的な雰囲気に対して僕個人が介入する意味は無いと感じていた。この間に日本企業を含めて、世界中の企業が中国を生産拠点として安価なものを大量生産し、日本の産業を空洞化してきたことに対し、僕個人としては足を踏み入れてはならない場所として自分の中で封印してきた。そして同じアジア人として、ヨーロッパやアメリカなどで出くわす中国人達のガツガツとした印象や甲高な大声での会話やマナーの低さには少々癖癖としていたのもあり、個人的にもビジネスとしても極力接点を持たないように意識してきた。そんなこともあってそれまで欧米やアジアの多くの外国を訪れてきたが、中国だけはブラックボックスとして封印してきたのだった。そんな時に見本市主催者のメサゴ・メッセフランクフルト梶原社長から「上海支店の見本市担当者を紹介したい。その際に中国の建築家やデザイナー、メディアの人々も招待したいので上海まで一緒に来ないか ?」との誘いをいただいた。井上陽水の歌にあるようなメランコリックな気分で『 海の向こうは シャンハ〜イ .』と 鼻歌を歌いながら、半分は旅行気分でその視察に行くことを決めた。中国、上海空港は到着した途端、僕の予測を裏切ること無く、全てが大味で騒々しく荒々しく厚かましくて、空港に到着してから直ぐに速攻で日本へ帰りたくなった。それから何とか現地のホテルに辿り着き、梶原氏と合流して現地の人々との会食へと向かった。そこには、上海で活躍する著名な建築家やドイツの大学でデザインを学び中国で活躍するプロダクトデザイナー、そしてメサゴ・メッセフランクフルト上海支店の聡明な女性担当者、中国のインテリア雑誌の出版社社長などの蒼々たる顔ぶれの人々が 10人程集まっていてくれたのには『海の向こうは〜』の鼻歌の余裕は消滅し、とても緊張した会食となった。大きな円形のレイジースーザンのテーブルには食べきれない量 の中華料理が次々と運ばれてきて、50 度を超える中国のお酒をグイッと飲み干しながら、抱いていた嫌悪感とは相対するもてなしの好意に対し、それまでの短絡的な先入観を猛省した。その短い2 日間の中国訪問から 2 カ月後のある日、北京に住む日本人女性から上海で会ったインテリア雑誌の出版社社長の代理で話をしたいとの電話が入り、南青山の本社で会う約束をしたのが、赤いタータンチェクのシャツを着た日本人女性・安田玲美さんだったのだ。
『初めまして、やすだなるみ、です。』どっかで聞いたことある名前だなと思いながら、中国人並に大きくて、耳に突き刺さるような甲高い声で話は始まった。僕は上海での会食のこともあり、電話で断るのは失礼だと思ってはいたものの、仕事の話であれば中国での生産であれ、販売であれ、断ることを前提としてお話するつもりでいた。ところが、タータンチェックのシャツを着た安田さんは、18年間中国に住み、仕事を通してこれまで、どれだけ中国人の世話になり、 助けてもらってきたか、中国人 13 億人全ては素晴らしい人々であり、これから発展してゆく国であることを切々と愛情と感謝の気持ちを込めて 3時間ぶっ続けで話し倒したのだった。そして、彼女は中国のためにできることは何でもする。日本人として世話になって来た恩返しをするのだとはっきりと明確に語った。中国が無ければ今の自分も存在しない。日本の持つ先進性や産業を中国の発展の為に役立てたい。それは自分のためでも日本のためでもなく、お世話になってきた素晴らしい中
国人と中国という国のため、自分の仕事も人生も全てを投じたいと、きっぱ り言い切ったのだった。龍太郎、万事休すである。こんなにも明確に中国人は素晴らしく人間的な本物の優しい人々であり、中国は懐の深い国で信頼できると言い切られては、もう、その言葉を信じるしかない。誰かが明確な目的を持って生きていて、その目的のため自分たちの力を必要としてくれること以上に明確な目的意識は存在しない。そして、その目的が自己や私的企業の利益ではなく、社会、世の中、ましてや中国人の生活の向上に繋がり、同時に日本の産業の発展にも繋がる。そして究極には、その活動を通して世の中に存在する政治的、歴史的な壁や問題を克服することができる双方の国の真の協力や前向きな関係に繋がっていくことを、安田玲美は暗に明示しているのだった。人間は誰かを信じることが最も大切なことであり『信じる者(愛する者)が最も強く、そして幸せもの』だと、ヘルマン・ヘッセも言っている。僕の中にあった中国に対する先入観は、安田玲美さんの3 時間の話でゼロに戻された。それからたった 9カ月後、2012 年 9 月の尖閣諸島問題で揺れる上海にタイム アンド スタイル 上海ショールーム(オリエンタルデザイン)はオープンすることとなる。人間、その気になれば先入観や固定概念なんて、さらりと払拭できるものだと思います。しばらく時間が経過したある時、知人から、安田玲美さんて日経のWomen of the Year2013に選ばれた女性でしょう? 2010年のニューズウィーク紙『世界が尊敬する日本人100人』に北野武やIPS細胞の山中教授と一緒に選ばれている北京の日本人女性でしょう?と言われ、まさかあの赤いチェックのダンガリーシャツの安田さんが … 青くなったのは後の祭りでした。
ケノス代表
【 三浦雄一郎・屋久島・水素アイランド -1 】
この脈絡もない 3つのつながりは、私の頭の中で連想ゲーム的に広がった事柄である。順を追ってみる。スキーを始めたのは20才の頃で、初滑りは会津若松の奥座敷である東山温泉のそのまた奥にある小さな小さなローカルスキー場だった。当然貸し靴、貸しスキーでただ転ぶだけで、全く手も脚も出なかった。また当日ゲレンデは大混雑で、下りロープウエイを 2時間以上雪の中を凍えながら待つことになって、初体験としていい思い出はほとんどない。それでも 3食付いてなんと600円(当時の値段、昼飯はご飯だけのお握り2個とタクアン 2切れ)と安く泊まれる民宿がある JR飯山線の「戸狩スキー場」へ友人たちと、上手く滑りたいと思いアルバイトで稼いで懲りずに良く出掛けた。頭でっかちタイプの私は月刊誌「スキージャーナル]も欠かさず読んでいた。全日本スキー連盟の基礎スキーメソッド解説が中心で技術内容は深いのだが堅苦しく、興味はあるもののなにか馴
『すばらしきスキー野郎』(冬樹社刊)と『エベレスト大滑降』(文藝春秋刊)。エベレスト大滑降はドキュメンターリー映画化もされた。
染めなかった。「スキーはもっと自由で良いのでは」等と思っているときにそこに飛び込んできたのがこの三浦雄一郎の本である。写真の「すばらしきスキー野郎」は昭和 41年11月初版、私の蔵書は同年12月の三版である。エピソード、文章も簡潔で面白く、行動も自由で破天荒で楽しくて、一読して大ファンになった。パラシュートブレーキを応用した富士山直滑降やエベレスト直滑降に胸をときめかせていたことを母親が知っていて、デパートかどこかで行われたサイン会で色紙を貰ってくれた。その時「息子はあなたのことを神様のように思っています」と言ったらしい。後で聞いて恥ずかしかったことを良く覚えている。今回の 80歳エベレスト登頂で日本中が沸いた。昔からの筋金入りファンである私は、必ず成功すると確信していたが、それでも抱いた目標に対するあの尽きることのない旺盛なチャレンジ精神に大いに敬服し、改めて強く元気を貰った。そして目標を持つことの大切さを改めて実感している。屋久島へはいつかは僕も行こうとぼんやり思っていた。なぜなら大学時代に高校同期、同じ野球部でもまたクラシックの音楽会へもよく一緒に行った友人が登山靴を借りにきたのだ。夏休みに屋久島へ行くという。私はまあまあ山が好きで、神奈川の丹沢山系や長野の後立山連峰の鹿島槍ヶ岳、白馬岳などへも登っていた。だから日本アルプスに比べれば楽であろう屋久島へいつかは軽く行けるだろうとイメージしていたから、本気にならなかったのだろう。実行しないまま年齢を重ねてしまった。そこに今回の『80、三浦、エベレスト』である。私はメタボもいいところで「減量しなければ」と頭では思っていたが、実行できていない一番よくあるパターンである。何か具体的な目標を持たなければいけないと思ったときに最初に浮かんだのが、「縄文杉をみたい! 」であった。そこで先に述べた頭でっかちタイプが最初に行動したのは本屋だった。調べ始めると
「旅行レベルでの屋久島」、「トレッキングあるいは登山としての屋久島」、「エコツアーとしての屋久島」、「ダイビングポイントとしての屋久島」等目的別アプローチによって「色々な屋久島」の表情があることが分かった。目当てとした縄文杉へは一般的なルートを日帰りで、標高差 700m、往復 21.4km、休憩や食事時間をカウントしないで全行程 9時間10分というものである。最近では長く歩いたのは 3.11の時ビッグサイトから 6時間半かけて約 24km(殆ど平地)を徒歩で事務所迄戻ったがヘトヘトだった。学生の頃は丹沢山系最高峰の蛭ヵ岳経由で北へ降りるルート25km(山道)程を平気で歩いていたのだが。屋久島は今では年間で 40万人以上訪れるとのこと。その大半が「縄文杉」目当てなのでトップシーズンでは展望台で立
(イメージ)
ち止まって「縄文杉」を眺めることが出来ない程の混雑になるそうだ。その騒ぎに巻き込まれたく無ければ、別ルートで1泊か 2泊の無人小屋(避難小屋を兼ねたもの)泊まりをしないとゆっくり心行く迄「縄文杉」を楽しむことは出来そうに無い。そうなると登山靴をはじめ寝袋、保温マット、食料、燃料、非常食、ツエルト(非常用簡易テント)などが必要で、本格的な登山装備に近い用具揃えが必須となる。その為にはそれ迄にそれなりの相当な体力を養わないと実現出来そうに無いことが見えてきた。三浦雄一郎のように両足首に 5kgの重りに登山靴、バックパックには 20kgの重りで代々木公園を闊歩することはとても出来ないから、その10分の一からでも始めようとなるべく距離を歩くことからスタートしインターバル歩行も始めた。目標である「来春には縄文杉の前に立つ自分」をイメージしながら。屋久島は1993年に世界自然遺産に指定された。この島では月に 35日雨が降ると言われていて、島はほぼ円形。直径 30数 kmで中央部の山が 2000m近くあり急傾斜で川も多い。そのため島の電力の殆どが水力発電で賄われている。発電会社も「屋久島電工」という親会社がセメント系という珍しい民間会社だそうで、国内で唯一大手電力会社が関係しない地域である。その屋久島を自給自足の水素アイランドにしようという構想が 2001年頃から始まったようだが今は頓挫しているか、しかかっているようだ。しかし世界自然遺産をまもるためにも、CO2フリーが理想的という理解を自治体を始め、多くの人が理解していることも事実だ。いち早い水素社会の到来を心待ちにする立場として、この島のエネルギー移行プロセスをもう少し調べてまたお話したい。