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時空にえがく美意識
京の美今昔その弐
冒険者たち
時空にえがく美意識
7月号 星祭 2013
http://collaj.jp/
星まつりの七月
美を追はない仕事仕事の後から追って來る美 -河井寛次郎
清水寺からも近い、京都五条通を少し入った静かな住宅街に、河井寛次郎記念館があります。寛次郎の旧邸であり登り窯を備えた窯場であるとともに、寛次郎自身が設計し、生活の全てをつくり上げた作品のひとつでもあります。玄関には 7月の祇園祭で配られる「長刀鉾」の護符を掲げていました。巨大な生き物のような登り窯に驚かされます。この地に寛次郎が来る前からあった窯で、彼の亡くなる昭和 40年代までこの界隈にはいくつもの登り窯があり、窯の煙が上がっていたそうです。京都という都市のなかで、寛次郎の作品や清水焼は焼かれていたのです。
江戸時代に開発された連房式登窯は、下の焚口(大口)で薪(主に松)を焚き、各房を繋ぐ穴を通った燃焼ガスによって大量の陶磁器を焼きます。各房に設けた小口からも薪を投入し、全体の温度を1300度C程度まで上げていきます。寛次郎の作品を主に焼いたのは二番目の燃焼室で、約 2000束の薪を使い 2昼夜をかけ焼かれたそうです。寛次郎の作陶室。晩年、雑誌「民藝」に連載された自伝的エッセイ「六十年前の今」には、寛次郎の故郷である島根県・安来(やすぎ)の情景が活き活きと描かれています。ある日、小川の流れる谷にやってきた子連れの夫婦は、粗末な藁小屋を建て、そこに住み着きます。内と外の境界もなく、必要最小限の生活道具を揃えたあけっぴろげの生活は、少年たちの興味をそそりました。数年すると家族は自力で小さな家を建て、寛次郎を驚かせます。徐々に増築され 2階建となった家には、鯉の泳ぐ池や台所などが付け加えられ、南宋画のような風情のある生活風景を形づくっていきます。その垣(かき)のない暮らしは、どこまでも広がっていくのだと寛次郎は書いています。
「釉の河井」とも称された寛次郎は、青年の頃から晩年まで、熱心に釉薬の研究を続け、辰砂、呉須、鉄釉、緑釉、.彩、海鼠、鉛釉など、様々な釉薬を駆使しました。電気釜の方が釉薬は安定した発色を得られますが、彼は薪窯の自然な火から生まれた色を守り続けたそうです。素焼き窯。乾燥した作品を600〜700度 Cで 8時間程度焼き、素焼きにします。明治23年(1890年)、和鉄の産地として知られる安来の棟梁の家に生まれた寛次郎は、幼少時代から近くの窯場へよく遊びにいっていたようで、20歳のとき陶芸家を目指して東京高等工業学校(現東京工業大学)の窯業科に入学します。日本近代窯業の父といわれるゴットフリード・ワグネルの進言により創設された工業学校では、窯業を科学的に分析した教育を行なっていました。寛次郎は窯場の徒弟制度ではなく、近代日本の職能教育を受けた陶芸家といえます。ちなみにワグネルは一時期、京都清水焼の指導も行ない、七宝焼きなどの色鮮やかな釉薬を開発しています。学校を卒業した寛次郎は、大正 6年(1917)京都市立陶磁器試験場に入所し(後輩の濱田庄司も 2年後に入所)、釉薬の研究や清水六兵衛など窯元の指導を行いながら、大正 9年(1920)ここに住居と窯場を設け独立します。
記念館は昭和 12年(1937)、室戸台風で傷んだ自邸を解体し、棟梁の兄によって建てられました。建物はもちろん、椅子や机、箪笥なども寛次郎によるデザインです。郷里を大切にした寛次郎は、京都で知り合い「鳥取民藝」を興した医師・吉田璋也とも交友をつづけました。鳥取に向けたデザイン画も残されています。居間の大きな吹き抜けから、寛次郎の設計の巧みさと、兄の技量の確かさをうかがえます。柳宗悦や濱田庄司と共に、民芸運動の旗手となった寛次郎。この家で黙々と仕事を続け、民芸を突き抜けた独自の境地を築いていくのです。
素敵な人たち 6 吉田龍太郎(TIME&STYLE)
中村 謙哉 (なかむらけんやバルセロナ在住割烹料理 WAGOKORO経営)
ベルリンの壁が崩壊しドイツが統一された 90年代前半、弟の安志と、彼の宮崎の小中高の級友・中村謙哉、そして僕の 3人は、混沌とした統一ベルリンで、現地法人プレステージジャパンの立ち上げに取り組んでいた。ベルリン・テンペルホフ空港の脇に立つ廃墟アパートの1階に電気配線を敷設し、住居兼オフィスとして使えるようにするため、アパート全体の躯体壁の全てに配線を埋め込む溝を手作業で掘る作業と、その溝に電気配線を埋め込み、漆喰で固定する作業に没頭した。溝に配線を埋め込み、固定した漆喰が乾くと、その埋め込んだ漆喰と壁面をフラットにするためにサンドペーパーを上から掛け、フラットになった壁面の上にウォールペーパー(壁紙)を水に浸して丁寧に一枚ずつ張ってゆき、その壁紙が乾くと壁紙が緊張するように完全にフラットに張り、その上から白の水性塗料を 2度塗りして壁紙の張り合わせ面を消してゆくのだ。統一前のベルリンには、戦前の水道管や電気配線の老朽化した廃墟が多く、世界から見捨てられたように所有者を失った建物が荒廃して残り、またそこには世界から見捨てられた屑のような人間達が吹き溜まるようにして集まり、廃墟を当然の権利のように占拠していた。当時、ドイツではベルリンの廃墟の不法占拠が社会問題ともなっており、『ベジッツアー』と呼ばれ、世界中の見捨てられた活動家や芸術家、行き場を失った人間達が不法に廃墟を占拠して、ベルリンの治安や風紀の問題となっていた。僕らの借りたアパートは、テンペルホフ空港と言うヒットラーが街の中心部に作った空港に隣接するエリアだったが、空港の反対側は、トルコ人が 20万人くらい密集して住んでいるクロイツベルグと言う地域で、頻繁にトルコ人などの外国人達が警察に対して暴動を起こしていて、僕らも何度か巻き込まれそうになった。そんなエリアの古いアパートの1階に住居兼オフィスを借りたのは良いけれど、電気配線も無ければ、電話回線も来ていない、かろうじて水道とトイレはあるけどお風呂やシャワー設備は無く、部屋のいくつかの場所は床が腐敗して抜け落ちていた。会社の登記手続きをすることや滞在許可を取得することも大変なことだったが、もちろん謙哉と安志は学生ビザなのに不法労働 24時間態勢で仕事の準備に明け暮れることになった。仕事を始める前の準備だけで心が折れそうになるくらい、当時のベルリンは混沌としていた。当時、20歳になったばかりの謙哉と安志にとってのベルリンでの出来事はまさに晴天の霹靂のごとく、現実のこととしてとらえることができないくらい、それまでの彼らの人生から考えられないようなことばかりの毎日だったと思う。そんな毎日の中、仕事の見通しの無い中、お金の無い状況下でも、僕らは自分たちの楽しみを沢山見いだしていた。ある日、僕ら 3人がベルリンから東京で事業を始めることを決めて、安志が一人ベルリンに残り、謙哉と僕が日本での事業を立ち上げるために一時帰国する前夜に、僕らは最後の晩餐のごとく、ベルリンの街に多くあるトルコ料理をベルリン最後の別れの祝いと出陣祝いとして食べに行くことにした。3人の所持金は合計で 50マルク、当時のレートで 4000円くらいしかなくて、注文する料理の金額を計算し、ドキドキしながら一杯 100円くらいのビールを何倍かおかわりしながらベルリン最後の晩餐を楽しんでいると、お腹を出したトルコ人の美女が宴の中心で腰をくねくねと回しながらベリーダンスを踊り始めたことと、僕らの滑稽な姿が何だか可笑しくなって、3人でお腹を抱え大笑いしながらベリーダンスを見て、最後の夜を祝ったことを思い出す。謙哉は弟の小学校時代からの級友で、謙哉が中学生の頃、
ドイツに住んでいた僕に 1通の手紙をよこしたのが交流の始ま の嫁さんと一緒にバルセロナに和食の店を開き、今ではスペイ
年生の時、一時帰国した僕と初めて会い、 2りだった。彼が高校 ンでも有名な本格割烹料理店として認められている。
高校卒業後は宮崎からドイツに渡り旅行添乗員の仕事をした 店名となった『 WAG OKORO』の夢を、遠いバルセロナの地で
いという夢を語った。高校卒業後 18歳で僕の住むドイツに渡 実現した弟のような謙哉を誇らしく思っている。皆さん、バル
り、会社で一緒に仕事をはじめて 3 0代前半まで、途中 1年間 セロナに行ったら『 WAG OKORO』の中村謙哉を訪ねてくださ
日本法人の立ち上げのため僕と一緒に東京に 1年戻る以外は、 い。吉田龍太郎の紹介と言っていただければ、『あー、よしや
ドイツで 10数年間を過ごし、ドイツ語も仕事も誰よりも上達し ん ……』と言ってサービスしてくれると思います。そして、遠い
て僕らのドイツの会社を守り続けてくれた。 将来になるかもしれないけれど、弟のような謙哉とはまた一緒
謙哉の夢は添乗員から日本食レストランをやりたいという夢に に夢を追いかけてみたいと思っています。
変わり、日本での料理人修行を経て、 5〜 6年前にスペイン人
南禅寺から銀閣寺周辺まで、琵琶湖疏水の分線にそった「哲学の道」は、京都有数の観光スポットとなりました。分線は南禅寺の水路閣(前号参照)からトンネルを抜け、南から北へ京都盆地の傾斜に逆らって流れていきます(鴨川などの流れとは逆)。これは京都盆地よりも取水地の琵琶湖の標高が高いためといわれています。春は桜の名所ともなるこの道に、疎水開発者たちの意地を感じました。
苔むしていた茅葺きの山門は、四半世紀ぶりに葺き替えられました。白砂壇 (びゃくさだん)は、心身を清めて浄域に入ることを意味するそうです。
東京浅草で漢学者の父と、その側妻との間に生まれた川田順(1882〜 1966年)は、東京大学から住友本社に入社し財界で活躍する一方、新古今和歌集の研究など歌人としても才能を発揮し、戦中は「愛国百人一首」の選者として知られました。東大在学中はラフカディオ・ハーンの教えをうけ、武林無想庵や小山内薫たちと共に雑誌「七人」を刊行し、戦後は穂積重遠博士(渋沢栄一の孫)の推薦で、皇太子の作歌指導役もつとめました。60歳を過ぎてから、法然院近くに暮らした川田は歌の弟子となった若き大学教授婦人と恋におち、スキャンダルのすえに結婚します。その顛末を小説化した辻井喬(堤清二)「虹の岬」は谷崎潤一郎賞を受賞し、三國連太郎・原田美枝子主演で映画にもなりました。
ケノス代表
サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン 2013キッチンとチェロのイーサン・キム(韓国人)によって結成されて【3回目のベートーベン SQサークル】いる。第二ヴァイオリンがクリストファー・タン(国籍が分からないがアメリカ生まれの東洋系)ヴィオラが元渕 舞(日本人)とい
今年も6月は忙しい月となった。1日(土)から16日(日)までう国際的で多彩なメンバーだ。の 2週間、サントリーホール(赤坂)の小ホール「ブルーローズ」この SQは全員が譜面を、それもスコア(総譜)を Mac Bookので開催されたチェンバーミュージック・ガーデンで、室内楽という画面上に写しながら演奏することで知られている。従来の譜面台
種類の美しい花々が咲き乱れたからである。その花の中でもガーの上に水平な板が取り付けられていて、そこにMac Bookを置き、
デンの中央にキリッと咲き誇ったのは、ベートーベン作曲のストリングクヮルテット(以下SQ)全16曲の連続演奏会だった。間隔を3〜 4日空けながらの 5日間である。その全曲演奏会をサークルという(私には昔からのチクルスという呼び方が馴染みがあるが ……)。一昨年から始まって今年は 3回目で、今回はアメリカの「ボロメーオ SQ」が招かれた。この SQは東海岸のボストンを本拠地とする。ボロメーオとは北イタリアの地域名だそうで、そこで最初の演奏を行ったことに因んで命名されたとのこと。1989年、カーティス音楽院在学中に第一ヴァイオリンのニコラス・
Mac Bookで譜面を見て演奏する「ボロメーオ SQ」。
ベートーベンによる弦楽四重奏曲の譜面例。
演奏リーダー(大半は第一ヴァイオリン演奏者である)が床に置いたフットマウスを踏み、画面上の楽譜のページを捲りながら演奏を続ける。フットマウスは自分たちで開発したそうだ。協奏曲のように音色の派手なものは 3楽章構成が多いが、弦楽四重奏曲は交響曲等と同じように 4楽章構成の長い曲が多い。スコアを見て演奏するのが本来は理想だが、それでは譜面を捲る回数が大幅に増えてしまうため、実際にはできなかった。オーケストラ曲もそうだが、SQ用譜面も四本の楽器ごとのパート譜面を作成して各自それを見て演奏し、聴衆には結果としてひとつの音楽として聴かせている。余談だが指揮者は当然スコアを見ながら、自分で捲って指揮棒を振っている。ボロメーオ SQが開発したこの方法だと、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの四声部、Mac Bookの画面に出てくる楽譜の四つの高さやメロディーの異なる他のパートを、つまり自分が弾くパート以外の各パート楽譜も全員が同時に見ながら演奏を行うことが出来るのだ。例えば「ここのパッセージではヴァイオリンはヴィオラの音を聴きながらやや控えめに」であるとか「ここからの 4小節は曲の流れから全員がヴィブラートを合わせて」など、作曲家の作曲意図を各パートがそれぞれを際立たせながら追求し、ひとつの音楽としての完成度を深めることが可能となる。どのような画面なのか大いに興味があり、途中の休憩時間に舞台の脇から遠目ではあるが 4人の画面を見て驚いた。第一ヴァイオリンだけベートーベンの自筆楽譜が映されていてそれで演奏していたのだ(他の 3人は印刷されたスコアの PDF画面)。第 3日目は通称ラズモフスキーの1番〜 3番が演奏された。サークル中間の山場であったが、演奏終了後に演奏者 4人によるアフターコンサートトークがおこなわれ、なぜベートーベンの手稿譜を見ながら演奏するのか、手稿譜と印刷された
演奏を聴くあいま、パンフレットにスケッチ。
ベートーベン自筆の譜面例。かなり独創的です。
スコアとの比較や手稿譜から受け取れるメッセージの質の大きな相違など、普段では素人の我々には絶対想像できない演奏者ならではの曲に対する深い想いが聴けて大満足であった。今回のボロメーオ SQの演奏は一昨年、昨年の SQに比べて、飛び抜けて感動的で説得力に溢れ、力強くまた現代的な解釈であった。もう世界でも指折りのSQといっても良い。
使用楽器も名器(財団からの貸与)ぞろいで美しい音色である。その中でも特にヴィオラの音色が素晴しく、その存在感とSQ演奏の要という役割の重要性を再認識させてもらういい機会となった。年一回ベートーベン SQサークルを味わえる経験は、室内楽の本場中の本場ウイーンでもあり得ないはずである。チェンバーミュージック(室内楽)というと貴族の食事中に演奏されるBGMであるとか、ダンス曲であるとかがイメージされるが、ベートーベンの SQ曲は全く違う。チェンバーミュージック(室内楽)の概念を大きく超えた音楽史上最高レベルの自己思索曲だ。この価値に近づくのはバルトークの SQ6曲だけといわれる。要するに聴くには覚悟がいる凄い曲の連続なのだ。ああ 6月は忙しく、そしてしんどい。
銀閣寺に近い喫茶店「GOSPEL」。約 30年前、一粒社ヴォーリズ建築事務所(ウィリアム・ヴォーリズの設立)により設計された店舗併用住宅です。
ヴォーリズ流の心配りを感じる店内。 「哲学の道」散策の途中で、ぜひ立ち寄りたいスポットです。
京都洛北、国際会館から車で 15分ほどの山里に、川島織物セルコンの本社工場があります。その一画に建つ「織物文化館」は、明治 22年(1889)に創設された日本最古の企業博物館「織物参考館」の流れを継承しています。
玄関にたつイサム・ノグチの彫刻作品「クメール」。上のレンガは明治 17年(1884)東堀川の晴明神社近くに建てられた「川島織場」に敷かれていたもの。2代 川島甚兵衞氏が米国視察の際に水力発電所の資料を持ち帰り、琵琶湖疏水を発電に利用したらどうかと京都府知事・北垣国道に進言したことがきっかけで、疏水のレンガを譲り受けたそうです。水盤の彫刻もイサム・ノグチの作品です。大阪万博に出展した縁で 4代社長とノグチとの交流が生まれました。館長の松村隆史さんに、川島織物(現川島織物セルコン)の歴史を解説して頂きました。創業は江戸時代天保 14年(1843)にさかのぼります。着物の商いからスタートし、明治に入ると 2代 川島甚兵衞氏により織物工場へと転身しました。明治 19年(1886)に渡欧した 2代は、客船や建物を彩る織物を見て室内装飾の道を志したそうです。明治 21年には早くも明治宮殿の室内装飾を手がけ、その翌年には京都三条高倉に「織物参考館」を建設します。1、2階は世界の織物や資料をおさめた博物館で、3階は綴織(つづれおり)の壁張りや日本の緞通、ジャガード織の椅子張り地、カーテンなどでコーディネートされたショールームでした。日本独自の室内装飾を海外に広めたいと考えた 2代は、綴織のタペストリーなどで彩った室内装飾をパリやセントルイスなどの万博で発表し、高い評価を得ます。それは京都の織物産業のためであり、日本の力量を欧米にアピールするためでもありました。また政治的経済的な基盤を失った京都画壇にとっても、原画を描く仕事は大きな助けとなりました。「織物参考館」は哲学者・九鬼周造の父で帝国博物館総長だった九鬼隆一により「川島織物博物假館(かりかん)」と命名されました。当時からの染織品や古書、下絵など約 16万点が収蔵されています。▲ ハーグ平和宮殿大会議室(日本の間)の模型。1899年の万国平和会議を契機に、各国の伝統技術を結集して建設されました。
今から100年前、オランダのハーグ平和宮殿のために制作された綴織の工程が展示されていました。竹内栖鳳とならぶ京都画壇の大家菊池芳文が参加し、絹本(書画に使う絹地)に原画を描いたそうです。上は原画を左右反転して描かれた織り下絵で(原画は国立博物館所蔵)、これを縦糸の下に置いて織ってゆきます。糸から織りまで各工程の職人が原画の美しさを共有することで、優れた織物は生まれます。明治も中頃を過ぎると、列車や客船、ホテル、洋風住宅など室内装飾の仕事は急速に増えていきます。織物の量産化、大判化が進むと共に、大正元年には室内装飾部が設立され、東京銀座に辰野金吾設計の東京店も設けられました。写真は昭和 19年、満洲国宮殿(実現せず)の内装設計図で、照明器具や内装材も含め室内全般のデザインを行なっています。この図を描いた澤部清五郎氏は、日本画、洋画、インテリアパースなど全てを描けるマルチな人物だったそうです。洋と和を折衷した日本独自の建築様式は建築家の力だけではなく、伝統を継承しながら新たな世界に挑戦した、内装設計家や画家、無数の職人たちによって成熟を深めていったことが分かりました。
設計の大半を終えながら満洲国宮殿は実現しませんでしたが、その意匠の蓄積は戦後復興した公共建築などに生かされました。ジャガード織り機の導入以前、人力で綜絖(そうこう)を上下させる空引き機(そらびきばた)で織られた紋織物。このような緻密な柄は小さな面積しか織れなかったため、大面積の織物を織るための機械化や図案の工夫が必要でした。
7月の京都を彩る祇園祭。町を練り歩く山鉾は、綴織や数々の工芸品で飾られます。なかでも「鯉山」は江戸時代に伝わったベルギー製の大判タペストリー「トロイア戦争物語」で知られています。京都の工芸は、こうした国際的な産物を吸収しながら発展してきたのです。
川島織物セルコンは長年培った織物の技術や「織物文化館」の貴重な史料を広く伝えるため「川島テキスタイルスクール」を設け、織物・染織作家やデザイナーの育成やスキルアップに力を注いでいます。織物文化館の見学は事前予約が必要です(詳しくは左下のリンク参照)。
BC工房 主人 鈴木惠三椅子の師匠 8上田 麻朝
くつろぎ工芸和椅子
新作椅子を開発中の麻朝とオイラ
「哲学の道」は南禅寺まで続きます。疎水の豊かな水によって、南禅寺周辺は実業家のお屋敷町として発展しました。疎水をひいた池や滝をもつ小川治兵衞(植治)による見事な日本庭園がいくつも残されています。
「ねじりまんぽ」と呼ばれる珍しいトンネルは、蹴上インクラインの下を貫通しています。入り口には 3代目京都府知事・北垣国道による「雄観奇想」(素晴らしい眺めと優れた考え)の文字が掲げられていました。
「ねじりまんぽ」の由来となったネジれたレンガ積み。疎水の技術主任・田辺朔郎により、新工法の強度テストも兼ねて設計されたようです。
琵琶湖疏水をとり入れた弁天池など美しい庭園を散策できます。
南禅寺の塔頭 金地院。天海と共に江戸幕府に参与し「黒衣の宰相」と呼ばれた以心崇伝(いしん すうでん)の寺です。崇伝は、キリスト教の禁止や寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度の制定に関わったといわれています。上は明智光秀が寄進したと伝わる「明智門」。
小堀遠州作と伝わる「鶴亀庭園」。左に亀、右に鶴を配し、遠景は蓬莱山(ほうらいざん) 、手前は海原を表しているそうです。書院の襖絵には長谷川等伯の「猿猴捉月図」が描かれています。
食文化ヒストリアン
第25回チャーチルライオンの食卓Ⅱ大原千晴英国骨董おおはら
さまざまな酒瓶にグラス、その脇に積み上げられた葉巻の箱。特に説明がなければ、なんてことない静物画、にしか見えない。しかし、元英国首相ウィンストン・チャーチル( 1874〜1965)の作と聞けば、少しは見え方が違ってくるのではないか。右から四本目にジョニ黒のハーフ瓶が見えることから、 1940年代に描かれた作と思われる。この呑兵衛の画家は、その水割りをチビチビやりながら、描いていたに違いない。それを知れば、一升瓶サイズのマグナムに至るまで、瓶の多くが飲みかけであることも納得がいく。「趣味の絵」は、 歳という年齢に至って、はじめて本格的に取り組み始めている。別荘のあった南仏などの風景を印象派風に描いた作品が多い中に、なかなかの力作もあり、その実力は、決してあなどれない。チャーチルは、陸軍士官学校卒業直後の 1895年(明治 年)、表向きはある新聞社の特派記者という肩書きで、対スペイン独立ゲリラ戦の続くキューバへと赴いている。これが、文章を書くことでお金を稼ぐ最初の仕事らしい仕事、ということになる。その裏で、このキューバ行き
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にあたっては、具体的な調査項目を指示された上で、軍の上官から諜報活動の密命を受けて出発している。トレードマークとなる葉巻は、このとき本場で覚えたものだ。葉巻、執筆活動(ジャーナリスト)、諜報機関との密接な関係。以後チャーチルの人生を彩ることになる中心的な要素は、後の政治活動を除けばすべて、
このキューバでの体験に始まることになる。葉巻については、生涯を
ら上卓のき
星たち通してキューバ産の長い太巻きが好みで、一日十本近い本数を吸っていた。一本の半本以上を吸うことはしなかったらしいが、それでも、一日に葉巻十本というのは、いささか度外れている。第二次大戦中は首相として飛行機での移動が頻繁で、好んで副操縦士席に座った。あまりの煙に操縦士が困るほどで、専用機では、その席の上方に、葉巻の煙排出窓が設けられるに至っている。非常時に権力の中枢にあったチャーチルのもとには、国内外の様々な筋から、良質の酒と葉巻の「贈り物」が届けられていた。当の本人は、贈り主の気持ち(贈賄的な意味)など、一切考慮することなく、喜んでこれを飲みかつ吸っている。しかし、ドイツ側スパイによる首相暗殺の企てを恐れる警備当局は、贈られた葉巻に毒が仕込まれていないかどうか、贈り主の調査を徹底していた。こうして首相の手許に積み上がった葉巻の在庫は、約三千本 !物資欠乏の非常時、上質のハヴァナをこれだけ在庫できた店は、ロンドンの専門店でも
限られていたのではないか。
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時代をさかのぼって、 1931年 月禁酒法時代のニューヨーク。夜の五番街を横断中にチャーチルは、車にはねられ顔に裂傷を負う重症で入院する。この時の行動が凄い。入院後病床で、事故の詳細な経過を秘書に口述筆記させることで、ひとつのストーリーに仕上げているのだ。衝突の衝撃を「戦時の爆弾被弾の際の衝撃」に例えるなど、スリル満点のサスペンス仕立てで、話の面白さは、プロの作家そのもの。年が明けて 1月、これが英国の新聞デーリー・メールに「独占手記」として二回にわたって掲載される。その原稿料が二千五百ドル。驚くべき高額だ。加えて、この時もうひとつ「入院の成果」があった。当時アメリカでは、禁酒法下でも、医師の処方があればアルコ
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ールを入手できた。それを知って「この患者は、特に食事の際に、最低でも 250㏄
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のアルコール飲料を要す」という、とんでもない処方箋を医師に出させている。カリブ海バハマでの療養を経て三週間後 NYに戻ったチャーチルは、ブルックリンの大学で講演。その席に、事故で自分をはねた当の相手を招き、自著に署名をして贈っている。この時のアメリカ行きは、大恐慌による株価暴落で蒙った損失補填のための、講演旅行だったのだ。その気力と根性、転んでもタダでは起きない機転、それに加えて、ユーモアと心配り。人間としての魅力は尽きない。欧州戦線の状況熾烈な 1942年8月、チャーチルはモスクワに飛ぶ。ドイツの制空圏を避けながら、ロンドンからジブラルタル、次いでカイロを経てテヘラン経由。ほ
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ぼ 時間に及ぶプロペラ機での飛行で、 日夕刻モスクワに到着、空港での歓迎式典後モスクワ郊外のスターリンの別荘へと向かっている。驚くべきことに、チャーチル自身の強い希望で、その夜から会談開始。会談は夕食抜きで午後 7時から 時までの長丁場となった。共産主義嫌いで知られたチャーチルに対してスターリンは、心のこもった握手で初日の会談を終えるに至っている。獅子の心意気に感じるところがあったためと推察される。会談後、午前零時を越えてようやくとることのできた遅い夕食の席。チャーチルは、ワイングラスに葉巻を掛けおいたまま、眠り始める。獅子 歳の夏である。翌 日朝、チャーチル一行は次のような朝食で迎えられる。キャビア、各種果実のプリザーブ、新鮮なブドウ、オムレツ、それにケーキ、チョコレート、コーヒー。代表団の一員が「ベーコン・エッグ」を所望したところ、卵 4個とベーコンの厚切り 9枚という、皿山盛りの一品が出されて仰天している。ソヴィエト国民の多くが飢餓に苦しむという厳しい時局の下で、最大限のもてなしだった。その日行われた二回目の会談では、しかし、両者の思惑がスレ違いに終わり、大した成果は得られなかった。妥協の余地は、なかった。トップ会談は終了した。あとは翌日の公式晩餐会を残すのみ。それで、すべてが終わる。「万難を排し、苦労の末にモスクワまでやってきたのに…… .」チャーチルは落胆していた。しかし、運命とは不思議なものだ。そこには、思いもかけない展開が待ち受けているのだった。 次号につづく
藤野名物「ぐるっと陶芸市」は、毎年 5月の週末に、藤野の約 20カ所で開催されます。陶芸だけでなく、ガラスや染色、木工、アクセサリー、自然食品など様々なジャンルの作家が参加し、沢山の人でにぎわいました。上は FOREST MARKETに出展した手編みもの作家・東川舞利さんの作品。天然の植物で染めたやわらかな発色が印象的でした。
電子レンジや食器洗い機も使える白い半磁器は、藤野の陶芸作家・内山亜矢子さんの作品。普段使いにぴったりの器でした。デッキで遊ぶ子どもたちは、ジョージ・ナカシマのロッキングチェアがお気に入り。
▲ 藤野のガラス作家 アキノヨーコさんのガラス作品。
凛とした白磁は、副島泰嗣・微美子夫妻の「静風舎」の作品。日本画家・柿崎さえみさんとコラボレーションした陶板画も発表されました
平日「野山の食堂」は、穀物と地元野菜たっぷりの美味しいランチが食べられます。週末は陶芸家・中村 藤平さんのピザハウスに。
沢山の人で賑わう「野山の食堂」&「アートヴィレッジ」。日本画家・柿崎さえみさんの参加するお店もあります。さて、藤野倶楽部 安心農園のコラージ畑にいってみましょう。4月は種まきの季節です。今回まいたのはインターネットで入手した、島いんげん(沖縄)、つがる紅かぶ(青森)、ぼたんこしょう(長野)といった地域の伝統野菜でした。もっちゃん先生いわく「これは育たないかもねしれないね」。やはり地元で入手した種の方が育てやすいとのことでした。もちろん安心農園では、おすすめの種や苗も分けてくれます。農家の畑では、ハウスで育てた苗、種の直まき、購入した苗などを組み合わせ、同じ作物がいちどきに採れすぎないよう、収穫の時期をずらしていくそうです。野菜の種は大きく分けて、F1種と固有種があります。F1種は種苗会社でつくられた1代限りの種です。スーパーなどで売られている野菜の大半は F1種で味や形もよく人気ですが、種をとっても同じには育ちません(農家は毎年種を買っています)。一方、固定種、在来種と呼ばれる昔からの野菜は、作物から種をとることができます(自家採種)。他の地域の作物も、毎年種とりを続けることで、その畑に順応するといわれています。3月に植えたジャガイモが育ち、5月下旬に花をつけ始めました。「今年は気温が上がらず生育が遅い」ともっちゃん先生。5月中旬にはナスなどの苗も植えてみました。テープをゆるく巻いて棒に固定します。化学肥料を使うとグングン伸びるそうですが、土の酸性度をあげるため畑の力は下がっていきます。そこでまた肥料をまくと……。負のスパイラルですね。安心農園は無農薬にもかかわらず、虫はほとんどつきません。ジャガイモの苗をよく見ると、テントウ虫が夢中で虫を食べています。無農薬によって自然の循環が戻っているのかもしれません。
今年は 5月中旬になっても霜がふり、一番茶が大きな被害を受けてしまった安心茶園。さいわい下旬になって好天が続き、新芽を摘むことができました。藤野倶楽部・桑原敏勝さんの呼びかけで、近隣の家族が集まりました。「特に子どもたちには、自然な茶葉の香りを体験してほしい」と桑原さん。無農薬なので、ちいさな子どもたちも安心して茶畑に入れます。
▼ 大活躍の茶刈機。これは1人用のハンディタイプですが、2人用や大型の乗用タイプなど、様々な種類があります。
刈った茶葉に混じった枝やゴミ、枯葉を取り除いていきます。部屋いっぱいに甘い茶葉の香りが漂っていました。茶葉が山になって発酵しないよう、床いっぱいに広げていきます。時間を置くと発酵がすすんでしまうため、大勢で作業をすすめ、その日のうちに製茶工場へ運びます。収穫は去年よりも少なかったものの、5月中にお茶摘みできてほっとしました(6月に入ると、多くの製茶工場は閉まってしまいます)。藤野倶楽部ではバーベキュー場を制作中。測量をしながら、大谷石のブロックを水平に積んでいきます。塀や倉のリサイクル材を使ったユンボさん考案の BBQコンロは、遺跡のような味わい深さです。BBQ場の様子はまた次回に ……。
[ 悪夢の前夜に至るまでの話 19 ]
者……。ごめんね。心配してくれているんだよね。でもどうし
親戚のおじさんが、汚い息をまき散らしながら、何か話している。
ようもないの。今はこうするしか。でもね、いつか私はこいつ
学費とか、一人では生きていけないとか、父親代わりが必要だ
を・・。ああ、しかし。本当に自分自身が復讐の人になりきれ
…… とかそんなことを話している。いい人の顔をしている。
るのか?その実感がまったく像を結ばないのだ。ギュッと体を強
中学教師。……つまり善良な表情を作るのがうまいのだ。私は
ばらせた。自分を襲う無念に押しつぶされそうになったその時、
すでにすべてを覚悟していた。だから、そういった御託は必要
スカートのポケットの携帯が鳴った。おじさんが聞こえよがし
なかった。好きにしたらいい。でも、どうか覚えていて欲しい。
私は絶対許さない。私が大人になったら、力を持ったら、必ず、
お前を八つ裂きにしてやる。ひとしきり喋った後、おじさんは、
ふうとため息をついた。聞こえよがしに。口の端に汚らしい舌
が覗いた。ぽってりと太く分厚い舌だ。私を見る目が一気に濡
れそぼる。そしてついに、丸く太い指が私の腰の裏に触れる。
歯を食いしばった。何か違う事を考えようとした。目を閉じた。
毛むくじゃらの鬼。天井に頭がつかえるバレリーナ。古時計を
「クロという正解を私は選んだ」
それでも地球は
♯19凪4
に舌打ちをした。ポケットから出した携帯を耳に当てた。
呼吸音。
呼吸音。
そして、ふいに。
「力が欲しいか ? 」
強い言葉が響き渡った。
体に埋め込んだ男。足のない兄を肩車した手のない弟。透明なその言葉は耳から脳に、そして体の隅々に
腹部を露にした妊婦の少女。ずっとキスをしているシャム双生児
回ってる
強い残響を残した。
……。マリオネットシアターで出会った異形の者たち。不思議な
両の目が開く。そうか。こうなるのか。
事に、瞼の裏で、彼らは私を心配そうに見つめている。そうか。
なんとなく分かっていた気もする。
分かったよ。あなたたちは私自身だったのね。その気づきに呼
「力が欲しいか ? 」
応するように、鬼が辛そうに首を振った。それに引きずられる
ようにして、彼らの感情がほとばしる。いやいやをする者。獣野田 豪(AREA)
再び聞く男の声は、どこまでも どこまでも。
のように威嚇する者。口を大きく開けて無言の絶叫を繰り返す
はてしなく強い。
その声に異形の者たちが顔を見合わせる。
驚喜する。
無言の歓声が沸き上がる。
凪の額の目が開く。
第三の目が赤く血走っている。
そこから、一筋。
涙が流れた。
「殺して !! 」「こいつを殺して !! 」叫んだのは、鬼か凪か。
その瞬間、戸口が蹴り開けられた。
クロと見知らぬ浅黒い肌の外人が立っていた。
すべてが終わった後。私はクロの前に進み出ると、彼の足下に静かに俯伏した。クロは笑わず私を見下した。心に恐ろしいほどの平穏を感じた。それは理屈ではなかった。私は心の底から沸き上がる確かな幸せを感じていた。私が存在する限り、私はこの感情を乱すものと闘うだろう。そう確信していた。
[ ナツ 15歳の岐路 ]
長い時間が流れた。呆然と聞いていたが、ついに、ナツは呟く。「信じられない・・っていうか俺には手に負えないだろ、そんな話」凪ネエは顔を上げて薄く微笑んだ。隅に転がったトーネットのチェアに夕陽が射している。ギラギラと。「話を聞きたいって言ったのはあなたでしょ?ナツ?後戻りはできないよ、とも言ったと思うけど?」黙るしかなかった。
「まじかよ」小さな声でそう言うのがやっとだった。
「クロ、ロックマン、静君店長、設楽、設楽の所の木村。神奈川県警の荒川大知。そして私。三、四つ巴の戦いなの。しかも……」一旦区切って、凪ネエは真っすぐにナツの目を見つめて言った。「今まさにその真っ最中。」凪ネエは髪を直しながら、甘い吐息とともに話し続ける。「そこに巻き込まれたのが……」「夏姫……か」「そう。カレンもカイトもあなたもウサギもグリも。もうすでに巻き込まれてる」「ウサギとグリ・・あの男か」マリオネットシアターの周りをウロウロしていた男。ウサギさんとグリさんに声をかけていた。「県警の荒川?」「いや、荒川って名前は知らない。けど、明らかにその筋の男が彼女らと話をしてた」背の高い男、猫背で蛇みたいな表情のない顔をしていた。「グリから聞いた。ごまかしておいたって言ってたわ」「ごまかすって……そんな……」「あのね、ナツ?」廃墟の割れたガラス窓。外はだいぶ暗くなっていた。ネットリとした大気。汗が止まらない。「もう私たち、逃げ場がないのよ。来るとこまで来ちゃったの」「来るとこって……」「未だに死人が出てないのがおかしいくらい」ふふふ。と凪が笑う。何かを確信しているような目の光。体に悪寒が走る。