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鐵のまち 釜石
朝 8時、釜石駅まえの製鐵所は休みなく白い煙を上げています。鉄溶鉱炉のあった時代、何本もの高い煙突が空に伸びていました。
白い煙は製鐵所が運営する石炭火力発電所の水蒸気です。震災後約 4カ月で再稼働しました。間伐材などを利用したバイオマス混焼発電の実証運転を行なっています。震災後に全国からの支援で建てられた「復興の鐘」。
「産業の米」とも呼ばれ、日本の産業を支え続けた鐵。釜石は江戸後期から明治期にかけて、日本ではじめて近代製鐵を軌道にのせた地です。駅前広場には、釜石に最初の高炉の火を灯し、やがて去ることとなった大島高任の像と、近代製鐵発祥 150周年(2007年)の記念碑が立っていました。碑の頂部には、釜石の高炉から移された火が燃え続けています。釜石線、南リアス線、山田線の3線が乗り入れる釜石駅。以前は駅の目の前に工場の壁があったそうです。工場は新日鐵住金釜石製鐵所となり、橋梁のワイヤーや自動車長く運休していた南リアス線。今年 4月に盛駅.吉浜駅が再開し吉浜駅.釜石駅も 2014年 4月の再開を目指しています。三陸鉄道の駅舎では「さんてつジオラマカフェ@釜石駅」を営業中。沿線の風景や駅舎をテーマにした巨大鉄道ジオラマを眺めつつ、リアスバーガーやめかぶのパスタ、イカカレーをほおばる親子連れでにぎわいます。スタッフの女性は、震災後の復興に役立ちたいと東京から地元釜石に戻ってきたそうです。
夏休みの期間中、花巻.釜石間で「ポケモントレイン釜石号」が運行されました。今年冬「SL銀河鉄道(仮称)」の運行を目指し、盛岡に保存されていた C58形 239号の復元作業が大宮で進められています。
鐵のまち釜石では、日本各地に先駆けて幕末から近代的な製鐵が行われていました。大島高任による高炉(左)の姿は、現代の高炉(釜石製鐵所第 1高炉)と驚くほど似ています。従来の砂鉄を原料とした、たたら製鐵に比べ、鉄鉱石を使った高炉は銑鉄を連続出銑できる、近代国家には不可欠の設備でした。▼たたらの時代は人力(番子)で風を送っていましたが、高任は水車で動く箱型のフイゴを開発しました。水車が回るとフイゴの棒が上下し、高炉の底に連続して風を送ります。
17歳から江戸や長崎で蘭学を学んだ高任は、水戸藩に招聘され藩主・徳川斉昭のもと那珂湊(現ひたちなか市)に反射炉を築造しました。当時、日本沿岸を脅かした外国船を威嚇するには長距離砲が必要で、良質な鋼鐵が求められていました。しかし砂鉄を原料とした、たたら製鐵では破裂などの事故を防げません。そこで高任は盛岡藩に戻り、オランダ人ヒュゲーニンの「ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」を元に近代高炉を設計します。「今に例えれば、科学雑誌を読んでロケットを打ち上げるような快挙」と同館館長・佐々木諭さんはいいます。高任の高炉の原理は現在とほぼ変わりません。高炉の上から鉄鉱石と木炭・石灰を交互に投入し、フイゴで風を下から吹き込みます。木炭の一酸化炭素ガスで鉄鉱石が還元され、炉の下から溶けた銑鉄を出銑します。高任の銑鉄は大砲に耐える良材として高く評価されました。高任が高炉建設の地に選んだ甲子村大橋では、すでに鉄鉱石が発見されていました。さらに木炭のための木々も豊富で、水車に必要な急流や原料となる石灰や材料となる花崗岩もとれるなど、様々な条件が揃っていました。高炉の周りに形成された村では、800人ほどが製鐵に従事し暮らしたといわれます。その後次々に築造された高炉の中でも橋野の第 3高炉は特に優秀で、江戸末期から明治 20年頃までの約 30年間で 1万トンもの鐵を出銑したといわれています。
官営製鐵所の鳥瞰図。
時代は明治となり、明治政府はドイツ人技師ルイス・ビヤンヒーを招聘し、釜石で官営製鐵所の計画を進めます。一方高任は46歳のとき岩倉具視の使節団に同行しドイツ・フライベルク鉱山大学に留学。ヨーロッパの鉱山や製鐵所を視察していました。明治政府は高任にもアドバイスを求めますが、建設地や設備を巡ってビヤンヒーと高任は対立します。高任は東側の大只越の山裾に小型の日本式高炉を並べる案を、ビヤンヒーは現在の工場がある鈴子に大型高炉を輸入して建設する案を提唱します。結局はビヤンヒー案が採用され、高任は釜石を去りました。官営高炉は現在の数千億円を投じたものの失敗を繰り返し、鉄材の政商であった田中長兵衛に払い下げられます。田中達も 48回の失敗を繰り返しますが、ついに49回目で出銑に成功しました。▼昭和 8年から釜石.大橋間の製鐵所専用鉄道を走った C20型機関車 209号。
歴史館の一画では、砂型の制作から鋳造までを体験で
釜石鉱山の鉄鉱石だけでなく、一般の乗客も運んでいました。
きるワークショップも開かれています。
鉄の歴史館から見た釜石湾。繰り返し釜石を襲ってきた津波から街を守るため、釜石港には、北堤(990m)と南堤(670m)の2本の防波堤をハの字型に配置した、全長1960m、水深63m(世界最大水深)のケーソン式湾口防波堤が平成21年に完成していました。北堤はほぼ全壊、南堤は半壊したものの、一説には津波高を4割(13.7m→8.1m)、津波遡上高を5割(20.2m→10.0m)に軽減したといわれます。
BC工房 主人
旅のなかの出逢い クラシック 鈴木惠三
街の中心を流れる甲子(かっし)川にかかる大渡橋。この橋を境に、西側と東側で津波の被害は大きく分かれたといわれています。特に甚大だったのは、街の繁華街だった大渡町や大町でした。
釜石港は江戸時代から、北海道と東京を結ぶ海路(北前船東廻り航路)の中継地として栄えていました。日本人だけの手で初めて作られた海図は明治 5年の釜石港「陸中国釜石港之図」といわれています。
戦没者を慰霊する聖観音
太平洋戦争末期、東北屈指の軍需都市であった釜石は、大空襲に備えた訓練を繰り返していました。昭和 20年 7月、街を襲ったのは意外にも本州初の艦砲射撃による都市攻撃でした。街は焼け野原となり製鐵所も破壊されましたが、昭和 23年には早くも第 10号高炉の操業を再開し、戦後の産業復興を支えました。
商店街として賑わう大町の青葉通り。戦後の都市復興計画で整備された通りです。奥には「青葉公園商店街」の仮店舗があり、石応禅寺山門には、明治と平成の津波到達を伝える 2柱の碑が立っています。
美容室、飲食、家具、本、骨董、表具、日本茶、花、サーフボードなど、様々な店舗が集まっています。
大町に建つ「釜石ベイシティホテル」。通りはアーケードのある中心商店街でした。津波で 1階部分を浸水しましたが、改修を行いライフラインの復旧した 7月には営業再開しました。以来、復興関連の宿泊者で満室の日々が続いています。周辺は「被災市街地復興推進地域」のため、新築・改築が制限されています。
甲子川をさかのぼり製鐵所の端に位置する上中島。立ち並ぶ製鐵所の社宅は、震災で家を失った方々にも利用されています。
グラウンド隣の元テニスコートには、新日鉄住金の開発した薄板軽量形鋼造 3階建(NSスーパーフレーム工法)の「釜石市上中島復興公営住宅Ⅰ期」(54戸)が今年 3月に竣工しました。官民が連系した復興住宅プロジェクトで、岩手県沿岸では初めての復興新築集合住宅(木造以外)となります。
外国人向け体験ツアーを企画する Another Japanの山崎
さんと藤野倶楽部のコラボレーションで、アメリカ、ドイ
ツ、トリニダード・トバゴ、日本、フランス、ベトナムなど、
様々な国籍の方々が集まったお茶つみワークショップが開
かれました。自分たちで製茶まで行うという、本格的なイベントです。まずは藤野倶楽部・野々村さんから一芯三葉(先端の芯と葉っぱ 3枚をつむ)の基本を教わりました。
ドイツから参加した女性は、無農薬の茶畑で自分なりのお茶を作ってみたかったそうで、若葉を選びながら慎重につんでいました。茶畑にいると禅のように心が落ち着くとのこと。お茶つみを終え、藤野倶楽部の移動してホッと一息。しかし …… 製茶はこれからが本番です。
▼ 藤野倶楽部 野々村さん(左)と、Another Japan山崎さん(右)。生の茶葉は、まず 3分ほどセイロで蒸し、やわらかくなった所で、洗濯板のような木の板を使い、アツアツのうちによく揉み込みます。こうした手揉みを行う緑茶の製法は、江戸時代、京都・宇治の永谷宗円により開発され、全国に広まったといわれています。藤野でも 5月の新茶の時期に、農家が自家製のお茶を作っていたそうです。
製茶はこれからが本番です。ホカイと呼ばれる和紙を貼った木の箱をとろ火で熱し(昔は炭火で温めました)、汗をかきながら(手も熱い!)数時間にわたって揉んでいきます。こんなに国際色豊かなお茶づくりは、はじめてかも……。緑茶のありがたみを思い知るワークショップでした。それにしても、皆さんマイペースな愉しみ方がとても上手と感じました。
星たち
ら上卓の
き
食文化ヒストリアン
第26回チャーチルライオンの食卓Ⅲ大原千晴英国骨董おおはら
1942年8月 日ウィンストン・チャーチル( 1874〜1965)は、スターリン( 1879〜1953)と会談するためモスクワに到着した。この頃ソヴィエト西部はウクライナを中心に、ドイツ軍の猛攻にさらされている。ヒトラーは条約を無視して 6月、ロシアに精鋭部隊を攻め入らせ、 8月8日にはその前衛が、キエフとレニングラードまで
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あと数キロという位置にまで侵攻していた。モスクワ陥落もありうるかもしれない非常事態だ。西部ロシア一帯は大混乱に陥り、食料不足による飢餓状態が広がりつつあった。この混乱と緊張が頂点に達しつつある 8月 日からの 212日間、チャーチル・スターリン会談は行われた。しかし、英国側が当初目論んでいた合意には達することが出来ず、チャーチルは落胆していた。こうした状況の中で 日、英国側とソヴィエト側合わせて約百人の関係者を慰労する意味で、スターリン主催の公式晩餐会が開かれる。
【前菜 A】キャビア2種、燻製を含めて、鮭、チョウザメ、ニシン 2種。
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ハムの冷製、野鳥のロースト・マヨネーズ和え、鴨のロースト、トマトサラダ、キュウリ、チーズ。【前菜 B】白マッシュルームのサワークリーム和え、野鳥のパテ、ナ
スのムニエル。【スープ】ボルシチ風コンソメ。【主菜】チョウザメのシャンパン煮、鶏肉のクリーム煮、ロースト三種(七面鳥、鶏、ウズラ)、マッシュト・ポテト、仔羊のロースト・ポテト
添え、キュウリとカリフラワーのサラダ、アスパラガス。【デザート】果実入り果汁のアイスクリーム。【食後酒】コーヒー・リキュール、果物のプチフール・アーモンドのロ
ースト添え。公式宴席を深く知ることは、政治や経済の分析とはまったく別の視点から、宴席主催者の本質を知ることに通じる。では、このメニューは何を物語るのか。ひと言で言えば、「ロシアは懐が深い。非常時なれども、いまだ戦う余力あり」ということに尽きる。
極めて珍しいことにチャーチルは、この公式宴席に、通常のブラック・タイではなく、ツナギ服状の「防空服」(サイレンスーツ)着用で臨んでいる。緊迫した戦況とスターリンの「国民服」に合わせた配慮と思われる。 1940年9月7日ドイツ軍の大空襲によりロンドン中心部に大きな被害が出た。翌朝チャーチルは、瓦礫と化した地区を歩いて視察している。その時でさえ服装は、右手にステッキ、左手に葉巻、蝶ネクタイ着用でスーツにコートという、パーフェクトな英国紳士ぶりである。非常時だろうがなんだろうが、自身の
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スタイルを崩さず、1種の美学を貫く。これがまた英国民には受けた。それを思うと、チャーチルの防空服姿は、モスクワでの異様な緊張感の反映と見ていい。いずれにし
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ても、この 8月 日の公式晩餐会をもって、モスクワ訪問日程は終了する、はずだった。明けて 日、事務レベルの最終協議が終了した後の、夜七時頃。翌朝早い時間にモスクワを離れる予定となっていたチャーチルは、最後の別れの挨拶をするために、スターリンの許を訪れる。このとき予想外にもスターリンは、クレムリンの一隅にある自宅に、チャーチルを招き入れる。英側はチャーチルと通訳官一人のみ。迎えるソ連側は、スターリンとモロトフ外相それに通訳官の三人。加えて、スターリンの娘スヴェトラーナが挨拶に出るという、くつろいだ雰囲気。公式日程にはない、突然の招きだった。
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ここでスターリン自らサーブする形で、ワインやウォツカやあれこれの瓶が、卓上に林立し始める。酒豪チャーチルでさえ驚くほどの数だった。さらには、自ら瓶の口を切り、コルクを開栓し、グラスに酒を注いでいく。あの恐ろしきスターリンが、である。
酒に続いて、出された料理も凄かった。つまみ
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代わりのラディッシュに始まり、仔豚、鶏、牛、マトン、それに、魚料理あれこれ。「優に三十人分はあった」と後にチャーチルが回想している。こうして四時間ほどが経過した頃、スター
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リンは突如席を立ち、この日の特別料理として準備された豚の頭を卓上に置き、自らナイフを使ってほほ肉をカーヴし始める。途中面倒になったのか、指先で肉をちぎり始めるに至ったという。豚の頭と格闘するスターリン、グラス片手にこれを見つめるチャーチル。まさに「事実は小説よりも奇なり」というほかはない。チャーチルは心の底から喜んでいた。首脳同士の「サシの会談」、これこそチャーチルが政治
家として終生、大切にした政治手法だ。テーブルを挟んで、共に飲み、共に食べながら、相手の腹の底を見据え、落とし所を探っていく。それこそが政治の醍醐味。チャーチルは、こうした場でこそ、真の力を発揮する政治家だった。スターリンとの酒宴を終えてチャーチルが宿舎に戻ったとき、時刻は翌 日の午前 3時 分を回っていた。 6時間 に及ぶ首脳同士の酒宴だった。思い出して頂きたい、これがチャーチル 歳(現在の日本なら 歳強のイメージ)の夏であったことを。この酒宴によって、公式会談でのスレ違いが解消されたかどうかは、はっきりしない。しかし、少なくとも二人の首脳は、互いを一人の人間として、しっかりと理解する基礎が築かれたことだけは、間違いない。チャーチル自身の言葉で、「心のこもった誠意と友情を感じつつ別れを告げた」「互いに互いの立場を理解できる会話を交わした」さらには「このモスクワ訪問によって私は決定的に勇気づけられた」とまで記している。世界秩序の流動化により今世界は再び、首脳外交の時代に突入し始めている。日本の伝統と文化を背負いつつ、年齢を越えて、心も体も胃腸も肝臓も並外れてタフ。そして何より戦略に長け、恐れを知らず、深い交渉力を備えた、チャーチルのような真の政治家が、この日本のどこかに隠れていると信じたい。
釜石駅から釜石線に乗り、釜石鉱山のある「陸中大橋駅」に向かいます。釜石線の釜石.大橋間は、官営製鐵所の建設にともない、明治 13年、日本で 3番目の鉄道路線として開業した釜石鉱山専用鉄道をルーツとします。その後、官営製鐵所の閉鎖にともない 3年で廃線となり、製鐵所を譲渡された田中長兵衛により馬車鉄道として再開。その後国有化され、花巻からやってきた岩手軽便鉄道とつながるなど、複雑な変遷をもつ歴史ある路線です。
鉱山の駅として栄えた「陸中大橋駅」は、釜石線のなかで、盲腸のように突き出た場所にあります。花巻行き列車は、仙人が暮らしたという仙人峠を一気に駆け上がる有名な「Ωループ」に入っていきます。
駅にそびえるホッパー。ベルトコンベアで運んだ鉱石を上の箱にためておき、貨車へ落下させる仕組みです。釜石線の各駅につくエスペラント語の愛称は「ミナージョ:鉱石」。釜石鉱山の歴史は古く享保 12年(1727)までさかのぼります。盛岡藩出身の本草学者・阿部将翁は幕府の採薬使となり、関東から蝦夷地まで、薬草の採取とともに、鉱山の実地研究を行います。その際に発見されたのが、甲子村大橋の磁鉄鉱でした。盛岡藩はこれを隠し、留山(入山禁止)とします。
山にへばり付くように、鉱石の選鉱場などが建てられていました。
釜石鉱山(株)山口高志さんの案内で、鉱山に向かいます。途中には旧鉱山事務所や社宅、選鉱場の痕跡などが残っていました。鉱石の発見から130年後の安政4年(1857)、この周辺は大島高任の築いた大橋高炉のあった場所です。旧鉱山事務所には高炉の遺構が眠っているのではないかといわれ、釜石市の鉱山資料館として公開されていましたが、東日本大震災以降は休止されています。
甲子川にそって鉱山の街がひらかれ、昭和 30〜 40年代の全盛期には 6,000人以上がこの山中に暮らしました。赤い屋根のモダンな社宅が立ち並び、病院や子どもたちの学校なども整備されていました。
釜石鉱山の 550ML坑口からバッテリー・ロコと呼ばれるバッテリー駆動のトロッコに乗ります。勤続 46年の小原京蔵さんが坑道へといざなってくれました。
坑口から約 15分、仙人秘水の採水地に着きました。ここは大峰山山頂の地下約 600m。原生林に覆われた山の清水が北上古生層の地層に染みこみ、数十年をかけて濾過されます。鉱山は法律で管理が義務付けられているため、小原さんは日々鉱山に入り坑道の保守や点検を続けています。
温湿度計は気温 10℃、湿度 90%という特殊な環境を示しています。赤い帯状の層はガーネット(柘榴石)です。
岩肌の清水は古くから鉱員たちの喉を潤してきました。「仙人秘水」は 100カ所以上の湧水から選ばれた採水地から、専用のパイプで地上の工場に運ばれ、一度も空気に触れることなくボトリングされています。
「仙人秘水」の pH値は 8.8と生体水に近く、加熱・殺菌処理をしないため地下で採取されたままの水を家庭で楽しめます。2013年には iTQi
(国際味覚審査機構)の☆☆☆(3つ星)を獲得し、世界的に最高レベルのナチュラルミネラルウォーターとして認められ、化粧水や地酒、地ビールにも利用されています。坑道から約 2km。昭和 54年まで使われていた採掘場で、小原さんが鉱山の採掘方法を教えてくれました。
東日本大震災のとき、一人で坑内にいた小原さんは電車が走るようなゴーという音を聞いたそうです。小石がパラパラと落ちてきて、46年勤めて初めて坑内で潰されると覚悟したといいます。
上はサブレベルの坑道を掘る削岩機です。分解して立坑を運搬するようになっています。先端のドリルが打撃と回転を加え、測量した線にそって扇型の坑道を1日30. 50mほど掘っていくそうです。小原さんの曽祖父、祖父は削岩機に使われるタガネ(ビット)専門の鍛冶職人だったそうです。昔のビットはすぐに減ってしまい、鉱員は何本ものビットを準備して削岩作業を行いました。すり減ったビットは炉で熱し、再び刃をつけて再利用していました。小原さんの父も選鉱場で働き、小原家は 4代にわたり鉱山に従事してきました。
子方
火薬を使い発破をかける際は、手持ちの削岩機で穴を開け火薬を仕掛けます。導火線の長さは 2.7m。2人で左右から順に火をつけ安全な場所に避難するまでの時間はわずか 5分とのこと。トロッコのレールに電気が走っていたため、電気式の起爆装置は誤作動の危険があり使えなかったそうです。左は 550ML坑道から350ML坑道まで鉱石を落とした立坑。350ML坑道から選鉱場に運ばれました。約 200mの落差があり、岩石を落とすと15秒ほどあとにゴーンという音がひびきます。立坑を掘る技術は特に難しく危険も多いため、熟練した親方と子方が協力しながら進めました。鉱山の電力は、地下空洞の貯水池を利用した水力発電でまかなわれています。斜坑で 320m下の発電機に水を落とし、450kWの発電能力があります。下は「グラニット・ホール」の溜池。
花崗岩に囲まれた「グラニットホール」。元は作業員の休憩所だった大空間で、吸音率が低く残響が長く続く特徴から、コンサートやレコーディングにも利用されました。サキソフォン奏者・清水靖晃さんのバッハ「無伴奏チェロ組曲」を聴かせてもらいました。
釜石線土沢駅から、車で 5分ほどの所に工場はあります。縦糸を上下させる「綜絖(そうこう」に糸を通す綜絖通しは、数千本の糸を順番通りに穴に通していく根気のいる仕事で英国スコットランドで生まれた織物「ホームスパン」は、元々、農家などの home(家)で、spun(紡ぐ)されたもので、綿羊の毛から紡いだ太めの糸を使い、ざっくりと編まれた保温性の高い生地ができます。東和町には日露戦争の頃、シベリアに出兵する兵隊のコートを作るため英国から綿羊が導入され、ホームスパンの生産が始まりました。太平洋戦争で一時統制されますが、戦後になって農家の副業として徐々に復活するなか、創業者・菊池 久氏は、昭和 30年に菊池ホームスパン民芸社を立ち上げ、手織りのよさを守りつつ、時代のニーズに合わせた技術開発とシャトル織り機を導入した機械化をはかります。右は緯糸をボビン(小管)に巻いているところです。あえてスピートの遅い古いシャトル織機を使うことで、手織りの風合いを出し、小ロットの特注生地を求めるトップブランドのニーズに応えています。複数のシャトルによって緯糸の種類を変え、ここでしか織れない特徴のある織物を生み出していきます。
40年以上、手紡ぎの糸を作ってきた方もいます。染色しカーディング(毛の繊維方向を揃える)した羊毛をさばき、回転する糸車に糸を巻き取っていきます。異なる色のワタをつないでいき、下の写真の量を紡ぐだけで 1日かかるそうです。工場では羊毛の染色も行ないます。2代目の菊池完之氏は、既製服の台頭する 80年代、デザイナーズブランドに活路を見出します。パリコレなどで活躍する著名デザイナーにホームスパンを提案し、世界への販路を拡大していきました。東和町育ちのホームスパンは、いまやグローバルな織物として、世界各地で活躍しています。