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時空にえがく美意識
9月号 初秋 2013
http://collaj.jp/
イーハトーブの銀河へ十力の花巻編
前号に続く岩手特集は、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』銀河ステーションのモデルとなった土沢駅から、賢治のふるさと花巻に向かいます。鉄鋼王CARNEGIE(カーネギー)の名を刻印したレールは1898年(明治31年)、賢治2歳の頃のものです。ちなみに釜石線のルーツ岩手軽便鉄道の花巻〜土沢間開通は17歳のとき1913年(大正 2年)でした。
沿線住民の悲願によって着工した岩手軽便鉄道は、市民の出資をもとに建設され、土沢の萬家(洋画家・萬 鉄五郎の実家)や花巻の宮沢家(宮沢賢治母方の祖父など)も株主に名を連ねました。賢治にとっても身内の鉄道というイメージがあったのでしょうか。
……「シグナレスさん、なぜあなたは死ななけぁならないんですか。ね。僕へお話しください。ね。僕へお話しください。きっと、僕はそのいけないやつを追っぱらってしまいますから、いったいどうしたんですね」…… 宮沢賢治『シグナルとシグナレス』より……五匹の象が一ぺんに、塀からどっと落ちて来た。オツベルはケースを握ったまま、もうくしゃくしゃに潰れていた。早くも門があいていて、グララアガア、グララアガア、象がどしどしなだれ込む。
「牢はどこだ。」みんなは小屋に押し寄せる。丸太なんぞは、マッチのようにへし折られ、あの白象は大へん瘠せて小屋を出た。「まあ、よかったねやせたねえ。」みんなはしずかにそばにより、鎖と銅をはずしてやった。
「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。」白象はさびしくわらってそう云った。…… 宮沢賢治『オツベルと象』より
月夜のでんしんばしら
園内に入ると、行軍する電信柱が出迎えてくれます。『月夜のでんしんばしら』は、賢治が生前に出版した「注文の多い料理店」に掲載された 9編のひとつです。中心施設となる「賢治の学校」には地上の星座が描かれていました。
…… 「今晩は、おまえはさっきから行軍を見ていたのかい。」「ええ、見てました。」「そうか、じゃ仕方ない。ともだちになろう、さあ、握手しよう。」じいさんはぼろぼろの外套の袖をはらって、大きな黄いろな手をだしました。恭一もしかたなく手を出しました。じいさんが「やっ、」と云ってその手をつかみました。するとじいさんの眼だまから、虎(とら)のように青い火花がぱちぱちっとでたとおもうと、恭一はからだがびりりっとしてあぶなくうしろへ倒れそうになりました。……宮沢賢治『月夜のでんしんばしら』より
十力の金剛石
賢治の学校「ファンタジックホール」には、『十力の金剛石』や『ポラーノの広場』『やまなし』など各作品をテーマとした椅子が円陣をくんでいます。
……ああ、そしてそして十力の金剛石は露(つゆ)ばかりではありませんでした。碧いそら、かがやく太陽、丘をかけて行く風、花のそのかんばしいはなびらや、しべ、草のしなやかなからだ、すべてこれをのせになう丘や野原、王子たちのびろうどの上着や涙にかがやく瞳、すべてすべて十力の金剛石でした。…… 宮沢賢治『十力の金剛石』より
※ 十力とは、仏のもつ10の智力、菩薩のもつ10の力のこと。
土神と狐
……「見せてあげませう。僕実は望遠鏡を独乙(ドイツ)のツァイスに注文してあるんです。来年の春までには来ますから来たらすぐ見せてあげませう。」狐は思はず斯う云ってしまひました。そしてすぐ考へたのです。あゝ僕はたった一人のお友達にまたつい偽(うそ)を云ってしまった。あゝ僕はほんたうにだめなやつだ。けれども決して悪い気で云ったんぢゃない。よろこばせやうと思って云ったんだ。あとですっかり本当のことを云ってしまはう、狐はしばらくしんとしながら斯う考へてゐたのでした。樺(かば)の木はそんなことも知らないでよろこんで言ひました。「まあうれしい。あなた本当にいつでも親切だわ。」…… 宮沢賢治『土神と狐』より
なめとこ山の熊
……いくら物価の安いときだって熊の毛皮二枚で二円はあんまり安いと誰(たれ)でも思う。実に安いしあんまり安いことは小十郎でも知っている。けれどもどうして小十郎はそんな町の荒物屋なんかへでなしにほかの人へどしどし売れないか。それはなぜか大ていの人にはわからない。けれども日本では狐(きつね)けんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている。ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられ
ることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。…… 宮沢賢治『なめとこ山の熊』より
星めぐりのうた
あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の つばさ
あをいめだまの 小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。
オリオンは高く うたひ賢治の学校「宇宙の部屋」星座のきらめく巨大万華鏡の空間です。つゆとしもとを おとす、アンドロメダの くもはさかなのくちの かたち。
大ぐまのあしを きたに
五つのばした ところ。
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて。
田園迷信
宮沢賢治
十の蜂舎の成りしときよき園成さば必らずや鬼ぞうかがふといましめしかしらかむろのひとありき
山はかすみてめくるめき桐むらさきに燃ゆるころその農園の扉を過ぎて苺需めしをとめあり
そのひとひるはひねもすを風にガラスの点を播き夜はよもすがらなやましきうらみの歌をうたひけり
若きあるじはひとひらの白銅をもて帰れるにをとめしづかにつぶやきてこの園われが園といふ
かくてくわりんの実は黄ばみ池にぬなはの枯るゝころをみなとなりしそのをとめ園をば町に売りてけり
宮沢賢治童話村のすぐそばに、花巻傘をつくる滝田工芸の工房ショップがあります。かつて岩手は和傘の大産地で、花巻では50以上の和傘屋があったとのこと。今はここ1軒になったそうです。
20年ほど前、この地に工房ショップを移した滝田工芸 3代目の滝田信夫さん。目の前は 「宮沢賢治記念館口」のバス停なので、記念館や童話村の見学客が多く立ち寄ります(記念館等の入場者は年平均約 20万人)。骨組みとなる竹には宮城産を使い、均等に割ったのち1本 1本削って形を整えていきます。竹材の加工や和紙張り、漆塗り、絵付けなど 70工程以上をかける和傘づくりは、最も多様な技法を駆使する工芸のひとつです。和傘は古く中国から伝わり(唐傘)、江戸時代に入ると全国に普及して、花巻にも亨和年間(1800年頃)に伝わりました(現在は美濃和紙で知られる岐阜が国内最大の産地です)。
時代劇などでよく描かれる武士の傘張り。花巻に和傘の技法を伝えたのも、熊本から流れ着いた武士・千葉左近といわれます。滝田工芸初代の滝田五郎八氏は、明治38年に士族の傘屋・重茂光郎氏の元で修行の後、大正元年に独立。しかし時代は洋傘へと移り和傘の衰退するなかで、五郎八氏は問屋にたよらず単身で東北各地をまわり注文をとったそうです。やがて2代目滝田信吉氏は岩手県の物産展で全国をまわるなど、独自の流通ルートを築いていきました。「滝田工芸が岩手で唯一残ったのは、先代たちの苦心のおかげ」と信夫さんはいいます。傘を広げると、鮮やかな色彩が目に飛び込みます。
二重の羽根をもつ風車は、前後で逆方向に回ります。
士族の系譜を今に伝えるナタ(竹を割る道具)。花巻では昔から日本刀を短くしたようなナタを使います。切れすぎを防ぐため、刃を鈍くしています。
お土産用のミニ和傘も、本物と変わらない工程を掛けて制作します。
1本ごとの受注生産なので、好みに応じて名入りのものや色柄を注文できます。傷んだときは補修も可能で、末長く付き合っていけます。
和傘には大きく分けて「蛇の目傘」(左)と番傘(右)があります。蛇の目は材料が細く、制作も難しいそうです。番傘は丈夫で実用的です。
滝田工芸では今、細身の蛇の目傘や実用的な番傘、舞台用の踊り傘などを作っています。美濃和紙を使い、雪に備えて端の部分を 2重に張った頑丈な作りが特徴です。「日常使いの、長持ちする花巻傘を作り続けたい」と滝田さん。手頃な価格から注文できるので、着物にあわせ和傘を使ってみたいという初心者にもおすすめです。
よだかの星
……よだかはのぼってのぼって行きました。
寒さにいきはむねに白く凍りました。空気がう
すくなった為に、はねをそれはそれはせわしく
うごかさなければなりませんでした。それだ
のに、ほしの大きさは、さっきと少しも変りま
せん。つくいきはふいごのようです。寒さや霜
がまるで剣のようによだかを刺しました。よだ
かははねがすっかりしびれてしまいました。そ
してなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを
見ました。そうです。これがよだかの最後で
した。もうよだかは落ちているのか、のぼっ
ているのか、さかさになっているのか、上を
向いているのかも、わかりませんでした。た
だこころもちはやすらかに、その血のついた
大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、
たしかに少しわらって居りました。……
宮沢賢治『よだかの星』より
賢治の愛した胡四王山に建つ宮沢賢治記念館。花巻の観光客が必ず立ち寄る場所のひとつです。
滝田工芸の隣に工房をかまえる「さき織工房はたや」。小田島修子さんはこの場所で、東北の女性たちの心を織り込んだ、さき織の伝統をつないでいます。江戸時代、東北地方では麻織物が盛んで、北前船によって運ばれた綿織物は大変貴重なものでした。アテやツギを繰り返しながら大切に使われた綿織物は最後にさき織りの材料となり、各家庭で織物に生まれ変わりました。明治に入り安価な綿布が出まわるようになると、絹織物やホームスパンにおされ廃れていきます。そんななか小田島修子さんは、東和町の実家で祖母や母が機を織る姿を見ながら育ったそうです。
さき織りの緯(ヨコ)糸となる布を、1cmほどの幅に手でさいていき、木製の杼(ひ)に巻きつけておきます。布のほつれがふっくらとした風合いを生みだし、古布によって偶然あらわれる無作為な色柄も、さき織りならではの魅力のひとつです。「手元にある布を選び、試し織りをしながら構想を練っていきます。祖母や母の織ってきた、さき織本来のよさを伝えたい」と小田島さん。
ヨモギやバラの花のついた枝を使った草木染めの試作(▼)。バラは宮沢賢治にゆかりの深い花巻温泉バラ園で剪定されたもの。30年以上にわたる試し織や古布が地層のように積み重なっています。今も愛おしく発想の源泉となってくれると小田島さん。
花巻の自然を絵画的に表現したタペストリー(
▲
)は、小田島さんの力作です。ただしさき織りの本質を損ねてしまうため、あまり技工に凝
らないよう心がけているそうです。宮沢賢治のといた「農民芸術概論綱要」の精神が、記念館の膝もとで息づいていることを感じました。特に生誕百年祭(1996年)のときは川の流れのような人出があり、賢治を慕う方々に永く支えられてきたそうです。
焼け焦げた機織り機は、東和町の裕福な家で燃やされている最中に、小田島さんの母・小田島秀子さんによって救われたそうです。通常の織り機よりも大型で、とても使いやすいとのこと。小田島秀子さんは失われたさき織りの技法を 50年程前に復活した功労者として知られ、東和町の「さき織り伝承館」では、機織りを体験することもできます(予約制)。
農民芸術概論綱要
農民芸術の興隆…… 何故われらの芸術がいま起らねばならないか ……
曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』より
『銀河鉄道の夜』カムパネルラの実家のモデルとなったともいわれる花巻市御田屋町の「旧菊池捍邸」は、県農業試験場長などをつとめた菊池 捍(まもる)氏が大正14年(1925)に建てた花巻では珍しい洋館です。一時は解体も危ぶまれましたが、宮沢賢治研究家の米地文夫岩手県立大名誉教授や、地元の歴史建築保護をすすめる木村清且氏(木村設計 A・T)により保存グループが結成され、保存・活用にむけた大改修が今年行われました。武家屋敷の外観を洋館化したようなプランが特徴です。
黒ぶだう
……仔牛はコツコツコツコツと葡萄(ぶだう)のたねをか
み砕いてゐました。「うまいだらう。」狐はもう半ぶんばかり
食ってゐました。「うん、大へん、おいしいよ。」仔牛がコツ
コツ鳴らしながら答へました。
そのとき下の方で「ではあれはやっぱりあのまんまにして置
きませう。」といふ声とステッキのカチッと鳴る音がして誰か
二三人はしご段をのぼって来るやうでした。狐はちょっと眼
を円くしてつっ立って音を聞いてゐましたがいきなり残りの葡
萄の房を一ぺんにべろりとなめてそれから一つくるっとまはっ
てバルコンへ飛び出しひらっと外へ下りてしまひました。仔
牛はあわてて室の出口の方へ来ました。「おや、牛の子が来
てるよ。迷って来たんだね。」せいの高い鼻眼鏡の公爵が
段をあがって来て云ひました。「おや、誰か葡萄なぞ食って床へ種子(たね)をちらしたぞ。」
泊りに来て居た友だちのヘルバ伯爵が上着のかくしに手をつ
っこんで云ひました。「この牛の仔にリボン結んでやるわ。」伯爵の二番目の女
の子がかくしから黄いろのリボンを出しながら云ひました。
……
宮沢賢治『黒ぶだう』より
菊池邸は童話「黒ぶだう」の舞台になったことでも知られています。これから発想をえた「花巻黒ぶだう牛」はぶどうの搾りかすを飼料にしたブランド牛で、菊池邸で試食会も開かれました。昭和7年に完成した北上川にかかる朝日橋は、『銀河鉄道の夜』の終盤にジョバンニが通りかかりカムパネルラの受難を察知した場所とも推察されています。
銀河鉄道の夜
……「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸
(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない。」「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。…… 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より
桜町にたつ「雨ニモマケズ」詩碑の近くに、佐藤隆房博士によって創設された「桜地人館」があります。明治 23年、栃木県那須に生まれた佐藤博士は花巻共立病院(現・総合花巻病院)の創立者で町民からもながく慕われ、賢治の治療にもつとめました。昭和 17年には、賢治のはじめての評伝『宮沢賢治 -素顔のわが友 -』を冨山房から発刊します。桜地人館には賢治をはじめ、高村光太郎や萬鉄五郎、舟越保武など、花巻に縁の深い人々の作品や貴重な資料がおさめられています。
大正12年、創立時の花巻共立病院。
▼宮沢賢治の没後すぐに発行された全集は、高村光太郎や宮澤清六、草野心平たちが編者となり装丁は高村が行います(写真は十字屋書店版)桜地人館の一画には、ユニークな「花巻人形」も展示されています。18世紀前半に花巻鍛治町の太田善四郎が京都の伏見人形、仙台の堤人形の技術を身につけて作ったのがはじまりといわれます。表裏 2枚の型に粘土を詰めて抜き出し、乾燥させてから窯で素焼きにします。中には小石や砂を入れ、カラカラと音のなるよう工夫しています。胡粉で下地を塗った後、鮮やかに彩色します(裏面は彩色しません)。宮沢賢治は佐藤隆房博士の依頼で、病院の花壇を設計しています。主治医として、友として、その交流は続きました。桜地人館から歩いてすぐの、少し切り立った崖のうえは「雨ニモマケズ」詩碑の建つ羅須(らす)地人協会跡です。大正15年「本統の百姓」となるため 31歳で花巻農業学校を退職した宮沢賢治は祖父の隠居宅に移り住み、畑を開墾しながら自給自足の暮らしをはじめました。このことは顔写真入りで岩手日報にも報じられました。
誌碑は佐藤隆房博士をはじめとする有志によって没後3年に除幕されました。1500貫(約 6トン)の石巻産稲井石のもとに賢治の骨が分骨され、正面には高村光太郎の揮毫による「雨ニモマケズ」(中盤以降)が刻まれました。9月 21日の命日には宮沢賢治記念会による「賢治祭」(講演・合唱・演劇)がひらかれます。▼ 賢治が使っていた井戸。ここで水浴びもしたようです。
目の前に北上川や「下ノ畑」、左は胡四王山(記念館のある山)、遠くに早池峰山(北上山地最高峰)をのぞみます。羅須地人協会の建物は花巻農業高校(旧花巻農学校)の敷地に保存されています。建物が買い取られ移築された場所へ、30年後、まったく偶然に農業高校が移転することになったそうです。「賢治さんは母校の移転する先に、冥々のうちにその霊魂を移しておいたのでしょうか」と佐藤博士は述懐しています。
下ノ畑では有志の方々が耕地を借りて、今も野菜を育てています。「全国から沢山の方が来るので、荒地にしておくのは忍びなくて」とおっしゃいます。北上川の洪水にたびたび遭いますが、翌年は土も肥え豊作になるようです。賢治は 1日に数坪づつここを開墾しながら、若い農民を集めて「農民芸術概論」にもとづいた勉強会をひらいたり、田畑の施肥を設計・指導したり、音楽会を開催したり、農学校では果たせなかった実践的な教育と農業の近代化を試みます。それは地主と小作の関係や肥料・資材の買い入れ、工芸品の生産・流通にまで踏み込んだ先端的なものだったようです。宮沢賢治は 38歳という生涯の間に、明治・大正・昭和の 3つの時代を生きた人でした。生年(明治 29年)には明治三陸地震が発生し、幼少の賢治は叔父の撮影した写真から津波の惨状を見たようです(奇しくも没年の昭和 8年は昭和三陸地震の年です)。冷害や日照りによる飢饉も頻繁な時代で、東北各地では豊かな地主の息子などが理想の田園社会を目指した活動をはじめ、農村学校構想も盛んとなりました。そのひとり、山形県新庄市鳥越の地主の息子・松田甚次郎は、「小作人たれ、農村劇を興せ」という賢治の薫陶をうけ地元の小作となり、鳥越神社に土舞台を設けて総合芸術である農村劇を上演します。著書『土に叫ぶ』は大ベストセラーとなり、のちに編者として松田の名を冠した『宮沢賢治名作選』(昭和14年)は、賢治童話を全国区としました。詩碑には 35歳で夭逝した松田甚次郎の遺骨も分骨されています。
朝早く、旧奥州街道ぞいに並んだ同心屋敷の前を、羅須地人協会から市街へと向かう賢治が、野菜を積んだリアカーをひいて通り過ぎました。
旧奥州街道の両側には昭和 30年頃まで茅葺きの「同心屋敷」が十数軒並び、宮沢賢治も野菜を積んだリアカーをひいて通ったそうです。ここに暮らした同心たちは、16世紀の終わり九戸政実を討伐するため豊臣秀吉に派遣された軍の子孫で「花巻同心組」(城や街道の警護役)として活躍しました。移築保存された 2棟は幕末の頃に建てられたもので、外観は下級武士らしくコンパクトですが、内部は広々しています。
天井は高く、天井板を張った部屋と吹き抜けに分かれています。同心屋敷の基本形は全て同一ですが、実情にあわせ「コの字型」や「L字型」の曲がり屋に増改築し、武士としての威厳を保ちながら、北国の生活に根ざした工夫を重ね土着化していったようです。
家の管理をするボランティアの方々がお茶をふるまってくれました。夏は風がよくとおり抜けて、自宅に居るより気持ちよく過ごせるそうです。
稲作挿話
宮沢賢治
(前略) ……汗だけでない 泪も拭いてゐるんだな ……君が自分でかんがへたあの田もすつかり見て来たよ陸羽一三二號のはうねあれはずゐぶん上手に行つた肥えも少しもむらがないしいかにも強く育つてゐる硫安だつてきみが自分で播いたらうみんながいろいろ云ふだらうがあつちは少しも心配ない反當三石二斗ならもうきまつたと云つていゝしつかりやるんだよこれからの本當の勉強はねえテニスをしながら商賣の先生から義理で教はることでないんだきみのやうにさ吹雪やわづかの仕事のひまで泣きながらからだに刻んで行く勉強がまもなくぐんぐん強い芽を噴いてどこまでのびるかわからないそれがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだではさようなら ……雲からも風からも 透明な力が そのこどもに うつれ ……
華やかな「花巻人形」の伝統を伝えるのが、桜地人館の近くにある平賀工芸社です。昭和 34年、花巻人形唯一の後継者・照井トシさんが亡くなると人形づくりは一時途絶えます。そこで昭和 47年、金べこの置物など工芸品を作っていた平賀工芸社は花巻人形の復刻を目指しました。照井さんの遺した土型を継承し、先代の平賀孫左衛門さん、章一さん親子の尽力によって十数年ぶりに復活します。復活した平賀製花巻人形は全国のファンからも高い評価を受けますが、平成8年に孫左衛門さんが 90歳で、数年後には息子の章一さんも他界されます。ふたたび存亡の危機にあった花巻人形を救ったのは、人形づくりを手伝ってきた章一さんの妻・平賀恵美子さんでした。孤軍奮闘で人形を作るうち、伝統のなかにも恵美子さん独自の世界観が生まれているようです。
花巻の西方、太田村山口地区大日(現・花巻市太田)に、彫刻家・詩人の高村光太郎がやってきたのは、終戦直後昭和 20年の秋でした。以来 7年間、高村は町から離れた山居に暮らします。『智恵子抄』の作者として、また戦中は若者たちを鼓舞する詩を発表した芸術・文芸界のスターとして、先端的な都会人であり続けた高村。彼を厳しい自然と向き合わせたきっかけは、宮沢賢治からつながる縁でした。
営林署の飯場だった建物を村人の協力で移築した、わずか 8坪足らずの山居。高村自身が方々を歩き、この場所を気に入って小屋の図面も描いていました。外とは障子 1枚で、囲炉裏で薪を燃やし続け、厳しい寒さを乗り越えました。高村が去って 60年以上すぎた今も主人の帰りを待っているようです。花巻の西部は戦前まで土壌に恵まれない荒地が多く、戦後は復員軍人も参加した開拓団による開墾がはじまりました。高村だけでなく開拓団の人々も、地元農民と助け合いながら、不慣れな畑仕事に挑戦したのです。高村はそうした土地の気質を愛おしいと感じたようです。
屋根の杉皮や荒々しい土壁、風雪に洗われた板壁が、山口での暮らしを刻んできました。地面に直接掘った井戸には、水汲みの大変さを見かねた村人から贈られた木の滑車を吊るしています。
外から見える建物はオリジナルの山居を保護する套屋(とうおく)で、第一の套屋は昭和 33年村人たちの手で作られました。その後昭和 52年に第二の套屋(鉄骨造)が高村記念会によって建てられます。最初の套屋をかける際、現地を訪れた建築家 谷口吉郎氏のアドバイスもあったようです。厠(かわや)として付け加えた「月光殿」。頻繁な来客のため建てられました。高村はこの場所をとても気に入り「光」の文字を自ら彫りました。高村はこの小さな炊事場で自ら育てた野菜を調理し、ときにはキャビアなど珍しい食材で皆を驚かせました。掃除・洗濯も全て自らが行い、東京時代とかわらず、衣類は全て煮沸してから洗っていたそうです。今年 5月にリニューアルオープンしたばかりの高村光太郎記念館。展示室に入るとブロンズの大きな「手(施無畏の手)」が来館者を迎えます。山居周辺のハンノキ林を気に入り、ここに彫刻を点在させたいと願った高村。記念館はその思いを今につなげています。高村と花巻を結びつけたきっかけは、大正 15年(1926)、上京した宮沢賢治がアトリエを訪ねたことでした。そのときは玄関先の挨拶だけで終わり、二人が会うことは二度とありませんでした。賢治の没後、高村が全集の編集・装丁や詩碑の揮毫をしたことから、賢治の父・宮沢政次郎氏は、空襲で駒込のアトリエをなくした高村へ、花巻に疎開していただきたいと願いでました。政次郎氏の願いにこたえ、高村が東京をたったのは昭和20年5月15日。政次郎氏が賢治の療養のために計画し、生前に間に合わなかった離れで暮らすこととなりました。花巻に到着した高村は過労の蓄積から肺炎にかかりますが、宮沢家を訪れた佐藤隆房博士の診察で一命をとりとめます。空襲は来ないと噂されていた花巻ですが、宮沢家では高村を守る意味もあり、庭に頑丈な防空壕を掘って宮沢賢治の遺稿などを納めていました。そして終戦間近の 8月10日、艦載機の爆撃で市街は大火災に見舞われます。宮沢一家や高村は火の中を逃げのび、賢治の弟・宮沢清六氏は猛火にまかれ防空壕に飛び込み、最重要の研究資料となる賢治の生原稿を守りぬきました。上は空襲の間も病院を離れず市民を救った職員たちに、高村から贈られた詩「非常の時」です。 …… 非常の時 人危きを冒して人を護るは貴いかな …… と、その勇気をたたえています。雪深い山口の冬。高村は、村の老人が編んでくれた「ツマゴ(ワラ製のくつ)」の美しさに感激しています。
終戦後、高村は一時期を佐藤隆房博士宅で過ごしてから、昭和 20年秋に山口の山居へ移ります。上は高村の没後、囲炉裏の灰から発見された「野兎の首」。素焼(テラコッタ)の状態で見つかり、石膏型をとりブロンズが制作されました。山居では彫刻がほとんど制作されず、村からアトリエ建設の申し出があったものの、高村はこれを断っています。その一方、高村は数百点の素晴らしい「書」をのこしました。記念館に収蔵された書のなかには、好物のリンゴや作業の手伝いのお礼にと、村人に贈られたものもあります。高村は随筆 『書について』のなかで 「 …… 書はあたり前と見えるのがよいと思う。無理と無駄との無いのがいいと思う。力が内にこもっていて騒がないのがいいと思う。……」といっています。上の「正直親切」は山口小学校の生徒へ贈られたもので、手紙を届けたり水を汲んでくれる子どもたちのため行事のたびに寄付を行っていました。右の「美ならざるなし」は、この世に美しくないものはないという、高村の考えを示したものといわれます。「……大自然の中に育まれた岩手人のなかにこそ、偉大な力がひそんでいる。賢治や啄木など東京におってみると鬼才とさえ感ずるけれど、岩手に来てみれば珍しくない。すべての人が賢治や啄木と同じようなことを考えている。……」と佐藤博士に語ったそうです。
▼「乙女の像」完成後、ブリヂストン美術館が制作した記録映画。再現フィルム風のつくりがユーモラスです(記念館で上映)。
高村の愛用した道具や日用品も展示されています。畑仕事にいそしんだ高村を悩ませたのは、クワを振るう手に出来たマメでした。佐藤博士が治療し、療養のため花巻に滞在しています。終戦から数年たち世の中が安定してくると、東京から編集者や新聞記者が頻繁に訪れ、取材や原稿執筆、そして畑仕事と高村の生活は忙しいものになっていきます。やがて昭和 27年、青森県十和田湖の「乙女の像」制作を決意した 69歳の高村は、7年目にして山居をはなれ東京・中野のアトリエへと旅立っていきました。岩手を日本の美の中心と評価した高村は、乙女の像が完成したのち花巻に戻り土着すると語っていましたが、病のためそれはかなわず、73歳の生涯を東京で閉じました。高村光太郎記念館から豊沢川の山道を登って行くと、車で 15
分ほどで「大沢温泉」につきます。宮沢賢治は父親に連れられ、
ここで仏教講習会に参加しました。高村光太郎も泉質を気に入
りたびたび訪れています。当時の雰囲気をのこす木造の湯治場(自炊部)や清流を眺める露天風呂を楽しめます。
農学者、教育者、国際人、そして内村鑑三と並ぶ札幌農学校出身の敬虔なクリスチャンであり、米国人妻メリーと共に生きた新渡戸稲造。その一方、日本の魂を西洋につたえた『武士道』の著者として今も注目され、民俗学の始祖のひとりでもある。こうしたマルチな活躍をした人物の全体像は掴みくく、名前は顔は知っているけれど……という方も多いのではないでしょうか? 花巻をルーツとして新田開発に挑んできた新渡戸家の生き様を通し、稲造を育てた精神的土壌を紹介するのが「花巻新渡戸記念館」です。記念館は平氏や千葉氏の血をつぐ、新渡戸家屋敷跡に建てられています。花巻に新渡戸家が定住したのは 1600年頃、第 33代春治のときでした。春治やその息子は盛岡藩に仕官し各地の戦場で活躍します。新渡戸家の研究者で記念館ガイドの佐藤孝さんが、新渡戸稲造の功績や新渡戸家の足跡を解説してくださいました。展示室の一画には、稲造の「稲」の由来となった盛岡藩の新田開発を詳しく紹介したコーナーがあります。江戸時代、稲造の曽祖父にあたる兵法学者の維民(これたみ)は、藩の誤解から遠く下北半島へ流されます。その息子の傅(つとう)は家を支えるため材木商となり、下北や十和田湖のヒバ材を江戸に運び財をなします。その道中、荒涼とした三本木原(青森県十和田市周辺・当時は盛岡藩領)を見た傳は、貧しい領民を救いたいとその開拓を志します。商用のかたわら京都や大阪、四国などをめぐり、特に新田開発事業の見識を深めました。
▼新田開発の様子。荒地を開墾し溜池や用水路を開削、整地を行い年貢の石高を計測します。水路の整備は特に困難な作業でした。
▼戦国時代を闘った武家としての新渡戸家を紹介したコーナー。
新渡戸稲造はメリー夫人と共に、父祖の地である花巻をたびたび訪れました。市内にはその足跡をたどる「新渡戸ロード」が整備されています。国際的な視点から地方の歴史文化を掘り起こす「地方(じかた)学」の必要を感じた稲造は、1910年頃から東京小石川の自邸で民俗学の創始となる「郷土会」を開きます。柳田国男はじめ石黒忠篤や会津八一、折口信夫、今和次郎など様々な分野の人々が参加し、その人脈が民俗学を根付かせることとなります。書物や固定概念にとらわれず、現地を見ることを重視した日本の民俗学は、新渡戸家代々に伝わる、武士道の精神を受け継いでいるのかもしれません。
奥州市・水沢は後藤新平の出身地です。関東大震災後の帝都復興計画を立案し、ポストを赤くしたともいわれます。台湾の民政長官をつとめた際は、片腕として米国帰りの新渡戸稲造を招聘しました。ボーイスカウト日本連盟初代総長をつとめた縁からか、駅前の像は半ズボン姿でした。
水沢は、古くは朝廷と主に北方で暮らすエミシの貿易拠点として、また豊かな鉱物資源を産出する地として栄えました。アテルイたちエミシと朝廷の闘いの舞台ともなり、平安時代には朝廷の鎮守府「胆沢城」が設けられます。この地に鋳物を伝えたのは、奥州藤原氏の祖となる藤原清衡といわれています。近江(滋賀県)から鋳物師をよび、平泉の都や中尊寺造営に必要な鋳物を 9百年以上前から生産してきました。その流れをくむメーカーのひとつ、嘉永5年(1852)及川源十郎により創業された「及源鋳造」を訪ねました。幼い頃から工場を見て育ったという、五代目・及川久仁子さんは、南部鉄器の世界に新風を吹き込む存在として国際的に注目されています。岩手の伝統工芸を代表する南部鉄器の生産は大きく盛岡と水沢に分かれ、盛岡は盛岡藩、水沢は仙台藩のもとで発展しました。及源鋳造の工場は、昔ながらのキューポラ(コークスで銑鉄を熔かす)と近代的な電気炉を備えています。熔けた鉄を柄杓でうけとり、コンベアで運ばれる砂型に次々と注ぎます。東日本大震災の際は数日間停電が続いたため、冷えた電気炉の中で鉄が固まり壊れてしまったそうです。
「南部鉄器は伝統工芸のなかで唯一、工業化された製造工程で量産できる製品。だからこそ世界へ羽ばたける可能性がある」と及川さん。及源鋳造は1960年代から京都の西川貞三郎商店(小誌 2013年6月号で紹介)と協力し海外輸出を行ってきました。世界的な和食ブームもあり、現在も 20%前後を欧米、オーストラリアなどに輸出し、ドイツ・アンビエンテをはじめ世界各地の見本市に出展しています。
鋳物を鋳造したのちに砂型から取り出す工程。回転するドラムの中で砂型を崩し、手作業で湯口や砂を取り除きます。こうした設備は砂の粉塵をふせぎ工場の環境改善にも貢献しています。近代化を進める一方、及川さんは江戸時代からつづく鋳物づくりの継承にも貢献しています。「いまを逃したら永遠に失われてしまう」という思いから、工場の若者数名が地元の鋳物職人の手ほどきをうけ技法継承に取り組んでいます。
砂型から取り出した製品はショットブラストなど工程を経て、手作業で丁寧に仕上げます。「もちろん仕上げも大切ですが、ここに来るまでの工程で品質は決まります」と及川さん。各工程を分業する鋳物産地とは違い、水沢では原型の制作から、砂型、鋳造、仕上げまで一貫して行うメーカーが多いそうです。だからこそ多品種の量産にも柔軟に対応でき、海外からの大量注文にも応えられる体制が整っているのです。
工場に併設されたショールームで、及源鋳造の製品を見せてもらいました。1999年に開発され大ヒット商品となった「タミさんのパン焼器」は、今年 99歳となる石巻のタミさん宅で使われていたパン焼器を復刻。各メディアにとり上げられて南部鉄器のエポックメーキングとなりました。元々は戦後ジュラルミンで量産されたもので、煙突パンと呼ばれていました。
同社の転機となった「上等フライパン」。岩手大学・矢代教授の指導のもと、特許製法の上等焼
(窯焼き)による酸化皮膜の形成に成功し、無塗装で熱伝導率の高い画期的な鍋・フライパンの使い込むうちに黒くなり、愛着が湧いてきます。製造に成功しました。この開発途中で、素肌のままでも美しいクオリティを追求した結果、製品全体の質が格段に向上したそうです。こうした功績により、製造部門を統括する及川秀春専務は、平成 25年度 文部科学大臣表彰 科学技術賞(技術部門)を受賞しました。鉄瓶で沸かしたお湯で、コーヒーを淹れて頂きました。「ショールームを訪れた若いフランス人女性から聞いた、鉄瓶が部屋にあるだけで『禅』を感じるという言葉が印象にのこっています」と及川さん。数千年にわたり人の生活を支えてきた鉄器には、心をほっとさせる力が宿っているようです。「正しく使えば鋳物は錆びません。これからも実用品としての鋳物製造を続け、そのよさを世界の人々に伝えていきたい」と語ります。今年の特別講演は、超売れっ子若手建築家としてメディアにもひっぱりだこの、谷尻誠さん(サポーズデザインオフィス)。広島と東京を拠点とし、独立して10年余りで、百数十件の建築を手がける谷尻さんのテーマは、意外にも 「実現しなかった建築」でした。
ネットサーフィンの写真がものの見方を多様にする。
2次審査の計画変更で落選したと思われる小学校の案。
ちょっと揺れるをテーマにした広島の歩行橋のコンペ案。
「成功した実作ばかり紹介しても、建築家や学生の参考にはならないのでは?」という谷尻さんは、ネットサーフィンで収集した画像や、実現しなかったコンペ案などの写真を中心に見せ「失敗からこそ多くを学べ、次のステップになる。遠回りも大切」と語りました。「コンペ案のなかには、要求された条件に疑問を投げかけたものある」という谷尻さん。ユーモラスでリズミカルなお話のなかに、実践を積み重ねてきた方ならではの説得力を感じました。
展望台はいらないという印象が生んだ展望台コンペ案。
ポーランドに郵送したら届かなかった博物館のコンペ案。
昨年の教育シンポジウムで「OASIS研究調査支援奨学金」をうけた学生たちが、研究成果の発表を行いました。トップバッターは工学院大学大学院・小切山孝治さん。災害時の一時避難所をテーマとして、屋内外で利用できるダンボール構造のシェルターを提案・実作しました。オープンカーの屋根のように展開し、ビニールシートを被せます。連結も可能で様々な場で活用できそうでした。日本工学院八王子専門学校・吉田達也さんは「トリイ・マンジ プロジェクト」を発表しました。これは東日本大震災の津波で、多くの人命を救った高台の神社仏閣を調査し、今後の防災に活かすもので、宮城県の十三浜や白浜地区などを訪ね、神社をめぐり地元の方々の体験を聞きました。高台の神社は津波浸水域の境に位置することが多く、特に木々に囲まれた所は無事だったそうです。日本大学大学院・菅原雅之さんは「福島第一原発の封印施設」を提案しました。未だ収束目処のつかない事故原発を封印する施設のプランや、安全性を考慮した建設手順などを解説し、原発事故の記憶を後世に伝えるためには「監視・公開」を続けられる施設が重要なことを力説しました。水槽のような厚い水の壁をつくり事故原発を見られるようにするなど、内容の濃い発表でした。米子工業高等専門学校・中嶋健太さんは、東日本大震災の「ガレキ処理の実態と対策」について調査を行いました。岩手県の陸前高田市をはじめ、宮城県の石巻市、塩釜市、気仙沼市、南三陸町などを対象に、アンケートやヒアリングによって実態を調べました。各市町によって進捗には大きなバラツキがあり、特に津波によって堆積したヘドロの処理が困難という実態が分かりました。後半は分科会形式で4講演行われました(うち2つに参加)。日本工学院八王子専門学校・山野大星 副校長は、文部科学省委託事業として行われている BIM教育について解説しました。海外でも活躍できる建設技術者育成のため、経験者も視野にいれた教育プログラム構築や授業テキストづくりなどを行っているそうです。
A&Aの大河内勝司さんから、2013年度 OASIS奨学金授与者の発表がありました。今回のテーマは「3.11以降を見据える ゆとりの目」です。「震
災以降の社会を、ゆとり教育をうけた学生はどう考えているか知りたい」
東京都市大学・河村容治教授は、文系学生のための建築教育というユニークなテーマを発表しました。同大と大河内さん。豊橋技術科学大学・土嶋雄介さん(公共図書館のあり方)、学都市生活学科の学生たちは、将来企業の企画部などで働く人が多いため、彼らを「建築のよいクライアント」八戸工業大学・天坂幸紀さん(旅行のきっかけをつくる鞄の研究)、米に育てるべく、BIMの仮想コンペ「Bu ild Live」に参加するなど BIMを活用した教育を行っているそうです。子工業高等専門学校・遠藤貴子さん(空家を活用したシェアハウス)の他に、日本文理大学・近藤正一准教授からは、ITC(情報通信技術)を活用した地方大学での教育革新の3名が登壇し奨学金を受け取りました。A&Aの川瀬英一さんは、教育現現状が報告され、都城工業高等専門学校・中村裕文准教授からは、Renderworksを活用した都市景観シミ場で 3Dプリンターや BIM教育が徐々に普及していることを報告しました。ュレーションや、3Dプリンターの教育現場での活用について発表がありました。
内田 和子(A&A)
つれづれなるままに
第1回おひとりさまの救急車
今年春先のこと。こじらせた風邪がなかなか抜けず、体
調がイマイチはっきりしない。咳がとれず、声を出すの
がしんどい。人と話すのも仕事のうちである。
早く直したいと、野菜たっぷりショウガ入り熱い味噌ラ
ーメンをすすったところ、ショウガのかたまりがお味噌
といっしょに喉を通過した。あわてて冷たいお水を2杯
ほど流し込み、残りのラーメンを食べ終えた。
ところが翌日、夕食(魚の塩焼き、煮物、豆腐のみそ汁)
を終えて、リビングにお茶を持って座りなおしテレビを
つけた瞬間、喉の内側が大きくふくれあがるのを感じ、
あわてて洗面室にかけこみうがいをした。
喉の中がフーセンのようにふくれ、ついには息を吸うこ
とができない。食べものが悪かったか。魚の骨がささっ
たか。慌てた。息の出来ないことがこんなにも苦しいも
のとは知らなかった。声もでず、電話もできない。
バッグをもって、急ぎエレベーターへ。ただならぬ様子に、
いつもは笑顔の管理人さんの顔も引きつっている。かろ
うじて「救急車を呼んでください。」とお願いし、その場
に座り込んだ。事情を聞かれても、しゃべることができ
ない。その場にあったメモに、「喉が腫れて、息ができな
いのです。」と書き、救急車を待つ。
ふと、むかしある方に言われた事を思い出した。「死ぬ事
を怖がってもしかたがない。死んだ後のことは、おまか
せするしかないのよ。」と。おひとりさまの私は、死んだ
後の始末が気になってしかたないが、その方は、なおも
続け、「死んだあとのことまで心配しても仕方ないじゃな
い。自分では出来ないんだから。」と、あっさり言う。
そんな訳にはいかないでしょう。とおもいながらも、実
際に喉がふくれあがった状況で、このまま息ができなく
て、死ぬかもしれないと思ったら、死ぬことはそんなに
簡単ではないと気がついた。必死で息を吸おうと、もが
いている。救急隊員がタンカを準備しながら、座り込ん
でいる私にいろいろ聞いてきた。管理人さんが替わりに
応えてくれている。「喉が腫れて、息が出来ないようです。」「どうしてそうなったの?」「わかりません。」と、私は首を横に振る。
昨日のショウガ入り味噌ラーメンが原因とは、その時は
思わなかったのである。タンカに乗せられ、名前、家族、
つれづれなるままに おひとりさまの救急車
連絡先を矢継ぎ早に聞かれた。救急車は、サイレンを鳴らし病院に
電話をかけている。都会の真ん中にいても、すぐに受入れの病院は
みつからないようだ。救急隊員は全部で 名。年配の隊員の方は私
に申し訳なさそうに、どうしてこんなことになったのか、聞いてく
る。今の私の状況を誰かが知ってくれていると思ったせいか、落ち
着きを取り戻し、昨日のショウガ入りラーメンのことや、今日食べ
た夕食のことを、途切れ途切れに話した。まだ、行き先の病院は見
つからない。耳鼻咽喉科に通院している近くの大学病院の診察券を
見せて、ここにお願いと伝えた。電話を掛けて、そこの患者である
ことを知らせても受入れてもらえないようだ。2.3日前のニュー
スでみた、受入れ病院が無かったために亡くなった70代の方のこ
とが脳裏をよぎる。『本当なんだ。』おひとりさまの救急車くらい心細いものはない。は
5
じめて乗った救急車、行き先がみつからない中での隊員のやりとり、今にも呼吸が止まりそうな状態の中で、気を失いかけた。そのとき年配の隊員の方から受け入れ先の病院名が知らされ「ごめんね。もうすぐだからね。」という声にホットしながら、やさしく語りかけてくれた救急隊員に涙がでそうになった。
救急患者用のベッドが置かれる廊下のような部屋に運ばれ、タンカ
から移された。隊員の方が医師に状況を説明して、脱いだ靴とバッ
グをカゴに入れてくれた。「荷物はここにありますから」と念をお
して、隊員の方々は役目終了ということで帰られた。心細かった。
若い医師が2.3人周りに立ち、喉をあけて、二言三言、医師同
士で話しをしている。年長の医師が、「注射針で水を抜く」と告げ、
応急措置が施された。のどの火傷だった。息をふさいだ大きな水ぶ
くれが急速にしぼんでいくのがわかる。喉の奥に少し違和感がある
ものの、息は普通にできる。ありがたかった。
会計の前で、別の救急車で運ばれた方のお身内が、医師からいろい
ろ訊ねられ、ため息をついている。救急車の中でのやりとりがフラ
ッシュバックする。ほんの2.3時間前のあの大騒ぎはなんだった
ろう。多くの人の助けを得て、今ここに座る自分を不思議に見てい
るもう一人の自分がいる。が、いま目の前いる憔悴しきったその方
には、なんの言葉もかけられない。
まだ肌寒さの残る春の夜。新宿の病院というだけでこの場所がどこか見当がつかない。入り口から少し離れた場所に、タクシー乗り場のサインがあった。暗い病院を背に、歩く私を月明かりが照らしてくれた。タクシーの運転手さんに行き先を告げ、はじめて乗った『おひとりさまの救急車』。心細さをそっと胸にしまい、お月様に見守られながら、自宅へと向かった。
[悪夢の前夜に至るまでの話 25]
「ああ、それなら、負けだよ」「分かりゃいい」木村のホッとした声。「違
携帯が振動した。見たことのない発信番号。スピーカーにした。
うぜ木村さん」「なんだって ?」「逆だ」そう言うとクロは一方的に通
独特のだみ声がマリオネットシアターに響いた。「クロか ?」深夜
話を切った。振り返る。黒い炎と化した男が、座ったクロを上から見
12時だ。「 …… 木村 ? 」「木村さんだろ」含み笑いの声に剣呑な
下ろしている。噛んだ唇が紫色に変色している。パチッ。音がしてそ
何かが隠れている。クロの頭に警戒音が鳴り響く。ヤバい予兆だ。
の唇が裂けた。その時、店内に「峠の我が家」のメロディーが流れた。
本能的に分かる。「なんすか ?」「女を引き取りにきてくんねーか
「あれは人じゃねえ、悪魔だ」
それでも地球は
♯21木村正彦
ロックマンの携帯の着信音だった。
[悪夢の前夜に至るまでの話 26]
設楽はその話を愛人宅で聞いた。「おやっさん。事後報告で申し訳
ねえが、そんな訳だ。こっから会社は俺に任せて、ゆっくりしてく
ださいよ」木村の画策。まさか俺を裏切るまで煮詰まっていたと
は。しかし …… 。「木村 …… そりゃ無理だ」「はあ ?」「親会絡ん
でくるのを承知でクロがロックマンの鎖をほどくわけがない」「そ
それ」「お前んとこの黒ん ?」「夏姫って言ったか」「誰だ ?な」「女」「……」「仲良く遊んでたんだが、もうそろそろ ?ぼの女だろう
帰りたいって言うんでな」クロの脳が素早く回転する。金属が焼
け焦げる幻臭をかぐ。アインシュタインなど、異常なまでに IQの
発達した人間が口を揃えて言う現象だ。「俺から何が欲しいんだ ?
木村さん。薬か ?」ラインの向こう。そっと息を飲む気配。「ロッ
クマンにちょっかいを出して殴り込ませる。そっちに怪我人でも出
りゃ、設楽の親父が反対しても親元会が無視できなくなる。承認
のへんは手ぇまわしてますよ。クロには黙っとけってキッチリ言っと
を貰って堂々とTの製法をおまえが取り上げる。うまくいけば独立っ
回ってる
きました。鼻薬付きで」「いくらだ ?」「一本」得意げな声。「バカか。
て筋だ」しばらく沈黙が続いた。やがて。「 …… クソ恐ろしいガ
クロが 100万ぽっちで相棒を裏切るわけねえだろ」「あいつはまだ
キだよ、お前は確かに」密かな声で木村が言った。「あんたは俺に
ガキですよ。その証拠にマリオネットシアターからロックマンが血
こう言うんだ。何もするな …… と」どう転んでもTは取り上げられる。
」「がっちりク ?相変えて飛び出したって情報が入ってる」「なんだと
それなら怪我をするだけ損だ。ロックマンは見捨てろ。そして黙って
野田 豪(AREA)
ロを押さえたあと、ロックマンにも電話したってことですわ。女取
ろと。「 …… 俺もそろそろ一旗上げようと思ってな」「 手をだしたの
り返したけりゃ早よ来いって。ま、とにかく明日っからおやっさん
か? 」「 … 」「その女、「 …… そういう仕事なんでな」
犯ったのかい? 」は引退ってことですから」通話が切れた。設楽は子機の持つ手を
だらっと下げた。木村の謀反に受けた衝撃ではない。木村の浅はかさに
絶望したのだ。20歳になりたての子供の容姿にまどわされてはいけない。
あいつは悪魔の頭脳を持っているんだ。ロックマンにしても、単なる戦闘
バカじゃない。あいつはクロを 100%信頼している。何があってもクロの
指示無しに動くわけがない。しかし、ロックマンは罠に向かってすっ飛ん
で行ったという。なぜだ。なぜクロはロックを止めなかった ?ものすごい
違和感を感じた。 …… まてよ?マリオネットから飛び出しただと? それ
なら 2人は一緒にいたってことか ?別々にいてクロがロックマンを電話で
止めきれなかったという可能性すらないということじゃないか。設楽の親
指がピクッと痙攣した。その瞬間閃光のようにある仮説が脳裏を横切った。
そうだ。間違いない。クロがロックマンに Goを出したのだ。それはつまり ……ロックマンは罠に向かったのではないことを意味する。そもそもこの事態自体が奴らにとって罠ではなかったということだ …… 。まさか ……。携帯が鳴った。あわててナイトテーブルから拾い上げた。モニターのナンバー。親会の若頭小林善吉からだった。その瞬間設楽はすべてを確信した。止むことなく鳴り続ける携帯をじっと見つめた。そういうことか。「はい設楽です」クロが以前から万一の事態に備えて設楽不動産から身を守る根回しをしていたなら「 設楽、あの男には手をだすなよ 」親会を盾にするのが常套だろう。「 はい 」「 頭越しで悪かったが、以前からあの男とは直接やらせてもらっている 」「 はい 」思った通りだ。「なんだ知ってたのか」氷のような若頭の声。微かに嘲笑が含まれている。「いえ。たっ
た今知りました」「そうか」「若頭」「なんだ ?」「木村、守れませんかね ?あれでも長年連れ添ったんで」「無理だ」にべもなかった。
[悪夢の前夜に至るまでの話 27]
木村はスローモーションを見ていた。10人を越える兵隊がたった一人になぎ倒されていく。手練の武道経験者があっという間に ……だ。全員が動かなくなるまで 30分もかからなかった。これほどまでとは …… 。最後の一人が崩れ落ちた時、木村は懐の拳銃を引き抜いた。これでいい。こいつは充分暴れてくれた。あとは何とかここをずらかって、ケツは親会にまかせりゃいいんだ。そうすりゃ晴れて俺は ……。褐色痩身の男の額に狙いを定める。ジリッと後退った。それを見たロックマンが口の端でニヤリと笑った。同時に木村の携帯が鳴った。「大事な電話かもしれねぇぜ ?」ロックマンが言った。舌打ちして左手で携帯に出る。目も狙いもロックマンからは外れなかった。「若頭 ?はい。いや、でも …… 」手が震え始める。やがて木村の手から携帯が滑り落ちる。木村の顔が蒼白に染まって行く。「な ?大事な電話だったろ?」ロックマンの口が獰猛にねじ曲がって行く。犬歯がむき出しになった。
S i ii i i ii~
肉食獣の奏でる擦過音がその口から漏れた。ダァン。発砲音。しかしその銃弾はロックマンの残像すら打ち抜くことができなかった。
素敵な人たち 8 吉田龍太郎(TIME&STYLE)
ケイ 赤城 (けい あかぎ ジャズピアニスト、カリフォルニア在住)
怒濤のような東京の日々の流れの中で、ひとところに心落ち着けて思いにふけることは難しいけれど、そんな喧噪の中にも四季を感じる静かな時間もある。暑さは続いているが夜になると時折、生温い空気を裂くように、静かな風に乗って新鮮な秋の香りが運ばれてくるようになった。太陽の光は眩しさの中にも優しさが混じり始め、『あー、まだ秋も生きてたんだ。』と失われた季節が戻って来たことに心の中で歓喜する。
『春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり』、道元が日本の四季を読んだものだ。毎日がめまぐるしく、何かに追われているような日々を重ねてゆく日常の中で、ふと立ち止まってみると豊かな自然と四季の移り変わりのある日本に生まれたことを感じ、様々なことに思いを巡らせることができる。
年齢を重ねてくると、目の前に広がっている時間と過ぎ去って
行った時間の真ん中に立ち、暫し立ち止まり、その境界点を
通過すると、終わりに向かって刻み始める残り時間を意識す
る。年を重ねて味わう日々の時間、一刻一刻そのものこそが
喜びなのではないか。この便りを書いている自分、そして今、
この便りを読んでいる誰か、この瞬間が生きているということ
なのだ。そうだ、こんな秋の夜長には情緒的な魂を刺激する
ジャズピアノを聴いてみよう。夏が終わり、きっとこれから迎
える素敵な秋への序章となるはずだ。『 Liquid Blue /Kei Akagi Trio 』ケイ赤城トリオのリク
ィッド・ブルーと言うアルバムは初秋の夜には最高の音源だ。
あれっ! Time & Style Jazzというレーベルから出ているらし
い!?そんな秋の夜長に聴くジャズは普段よりちょっとだけボリュームを上げてみてください(近所迷惑にならないくらいの音量で)。
音楽の世界、美の世界、職人の世界、それぞれの世界は多様で奥深く、そして心が震えて、叫びたくなるような感動を私達に与える。感動との出会い、その感動が生きていることの喜びであり、尊い何か、なのだ。どの世界もその道を深く掘り下げた人々は共通する柔らかな優しさと静かで深い強さを持ち合わせている。険しい道を長い時間と小さな積み重ねを刻々と刻み続けた人達が一様に漂わせる深く落ち着いた佇まいは、現実から逃避できない真実の世界と日々向き合い研鑽を重ねてきた人間だけが纏うことができる風格と言う名の鎧だ。ケイ赤城さんはに進化し、人々を感動させられる音楽を生み出すことはできない。美しく感動を誘う音楽には、やはりその音楽をつかさどる源である人間が存在する。本当に崇高な音楽家は聴くものに感動を与え、さらには、求める者への道標を示してくれる。
世界で活躍するジャズピアニスト、優れた音楽家であり、そん 起こり、生まれるのかは本人達にも、誰にも分からない。
な鎧を纏った今も進化し続ける音楽の求道者だ。10数年来、 そんな音楽の世界も、他の世界と同様に、その人間の経験の
ショップ空間でのジャズライブをやってきたけれど、ケイ赤城ト 積み重ねと自己への挑戦を投影したものだ。何よりも音楽を愛
リオのライブはその中でも特に素晴らしく、独自の空間と時間 していること、そして、常に好きな音楽と真剣に向き合い、新
を創造し、この世に別次元の音楽空間を創造する。現代のモ しいことに挑み続け、それまでの自己を乗り越えてゆこうとする
ダンジャズの世界は常に進化と挑戦が求められる。個々の音 精神力。そして、さらに素晴らしいことは、個性の固まりのよ
楽家が呼応しあいながら必然性と偶然性から生み出されるイン うな共演者達がお互いを敬い、信じて演奏してゆこうとすること
プロビゼーション(即興)という技術と美意識の結晶がジャズ のできる純粋で広い心の存在。高い技術を持った人間同士で
ライブの醍醐味だ。楽曲のメロディーラインは存在しても、そ あっても、なおさら相手を信じて、時にはメンバーを導き、時
の時になってみないと、それぞれのコンディションによって何が にメンバーの挑戦を見守れるだけの度量がなければ、継続的
ケイ赤城さんは、牧師の父のもとに生まれ、少年時代をアメリカで過ごし、中学から日本に戻り、大学卒業後はアメリカに戻り、ジャズピアニストとして数多くの世界的ジャズバンドで活躍した世界的に最も評価されている日本人ピアニストの一人だ。天才達の犇めくトップレベルでの環境の中から生まれた強さがケイ赤城の音楽を支えるものだ。日本人ピアニストとしては唯一、マイルス・デイビスバンドのピアニストとして活躍した。現在はカリフォルニアの UCLA大学のアーバイン音楽学部のトップとして教鞭を取る傍ら、年に2度、夏と冬に帰国して全国のジャズライブハウスで演奏するジャズピアニストとしての活動も続けている。日本人離れした力強いピアノタッチで美しい旋律を繊細とダイナミックの両方で操るケイ赤城のピアノは私達日本人の中に潜む音の魂の琴線に触れて、深い感動へ誘ってくれる。ジャズも人生もインプロビゼーション、次ぎに何が起こるか分からないから面白いのだ。
食文化ヒストリアン
ムラノ島、ビザンツの幻影大原千晴英国骨董おおはら
アで最も古い教会のひとつとされる。まず、広場に立って、その風情を味わう。いつしか千年の昔へと引きこまれていく気がしてくるはずだ。建物を左へと巡って、薄暗い聖堂内部へと入る。その瞬間、時空を、越える。正面祭壇の上に広がる半球状のドーム。金色のモザイクで覆われ、中空に、両の手のひらをこちらに見せて立つ、九頭身はありそうな、すらりとしたビザンツのマリア様が浮かんでいる。しかし、ここでぽかんと口を開けて、その見事な姿に見とれていては、いけない。見るべきは、足下、床のモザイク。これが、素晴らしいのだ。様々な幾何学模様が次々と展開していく様は、見て、歩いて、飽きることがない。 1140年頃のものというから、今から九百年の昔に造られたモザイク。その上を、自分の足で歩くという、驚くべき贅沢を、ここで味わうことが出来る。それぞれの意匠は、畳一〜二畳分ほどを単位に構成されている。幾何学模様が連なる中に、一部、この教会の聖人伝説
ら星卓上のきた
もしヴェネツィアに行く機会があり、サンマルコ広場以外にも足を延ばち 第27回す時間があるならば、思い切って本島から3番の水上バスで 分ほどのところにある、ムラノ島を訪ねてみるといい。ムラノといえば、世界に冠たるヴェネツィアン・グラスの本拠地であり、ガラス工芸のファンにとっては欠かせない場所だ。装身具やグラス類メインの店、シャンデリアや置物に力を入れる店、さらには作家のアート作品を並べるギャラリーまで、軽く百を超えると思われるガラス専門店が並び、小さなガラス博物館もある。だが私がムラノ島への訪問を勧めたいのは、この有名なガラス工芸のためでは、ない。潮風を切って緑の海を進む水上バスを Museoの船着場で降りる。船を背に右に運河沿いの歩道をガラス美術館の入口を通りすぎて、三百メートルほど歩く。本島の喧騒がウソのように静かなたたずまい。歩道沿いにロープで係留された小舟が続き、両岸に連なる建物の風情は、間違いなく、アドリア海の小さな港町そのもの。絵になっている。人にぶつからずに歩くことが困難なほど観光客が密集する、あのサンマルコ広場を経験した後であれば、なおさら、その落ち着いた雰囲気に別世界にやってきたという思いを強くする。時は八月。陽光のきらめきに、目が眩む。やがて運河の両岸をつなぐ、小さな太鼓橋状の橋が右手に、左手には、三十メートルほどの高さのある鐘楼が見えてくる。その下に、小さいながらもどっしりとした風情の、ビザンチン色濃厚なアルコーブ連なる、サンタ・マリア・エ・サン・ドナート教会。創建は七世紀頃で、本島を含めてヴェネツィ
に関連する狐を掴んで飛ぶ雄鶏やグリフィンのごとき怪獣の意匠が見られる。これがまた、素朴で、楽しい。こうして様々な意匠と色彩の連なりを追い続けていけば、誰しも、気づくはずだ。このモザイクは、職人の頭領たちが、その時々の思いによって、次々
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と仕事を重ねていった結果、出来上がったものに違いないと。巧まずして生まれた多様な意匠の組み合わせ。その、生き生きとした調和とリズム感。多民族の共生の下に長く続いたビザンチン文化の影を感じる。研究者であれば、こうした抽象幾何学模様の「隠された意味」を歴史的に読み解くことは可能だろうし、面白そうだ。しかし、我々は、ただ自分の感性で、このモザイクを楽しめば、いい。そして、九百年の長きに渡って、この同じモザイクの上に立って、祈りを捧げてきた移りゆく人々の心に、思いを致してみる。ありがたいことに、この寺を訪れる人は、数少ない。その静けさの中で、異教徒であっても、気がつけば、あっという間に時が過ぎ去っているはずだ。本堂を出て、外に出る。八月の強烈な陽光の下、塔が影を作り、その影の下にたたずむ。ただひたすら、セミの声。現代の旅の、真の醍醐味。それは、こうした異文化の空気感を全身で味わうことに、尽きる。広場をあとにして、再びもと来た運河沿いの道を船着場方向へと戻る。やがて正面に運河をまたぐ大きな橋が見え、徐々に観光客の姿が増えてくる。その大きな橋の上に
立って運河と海を見渡してみる。ここがムラノ島の、観光の中心ポイントだ。そこにもうひとつ、オススメの教会がある。それはそれ、こうして、ビザンツの歴史空間から現在に立ち戻ってみれば、突然お腹が空いてくる。狭い運河を橋で渡れば、かつて教会であった大きな鐘楼の塔の脇にある建物が、今はレストランになっている。そこに立てば、広場に設けられた大きなパラソルの下の涼しげな座席に案内される。ヴェネツィアならば、海鮮。イカ墨のスパゲッティ、相棒は名産のアサリのような小さな貝を具としたパスタ、それに、イカ・タコ・エビ中心の前菜。冷えた白に加えて、この日は気温 度だったので、敢えて、ビール。他にオススメは、海の幸のリゾット。リゾットにしろ、パスタにしろ、東京のイタリアンでは、この濃厚な味わいに出会うことは、まず、ない。パスタ料理の本質は、アルデンテに茹でた後「さっとソースで和えて熱々を供すること」ではなく、「十二分にソースの旨味を吸わせながらもアルデンテを保つこと」にある。この言うは易しく作るに難しい料理の本質を、この地で食べると、泣きたいほどに知らされることになる。スパゲッティが、濃密な味わいのある一品の見事な料理となっているのだ。ムラノ島にはガラス以外にも訪れる意味が、ある。
ケノス代表
【 オリベッティーとブラウン 】計、また腕時計もつい最近まで全てブラウン社製であっ
た。喫煙しなくなってから数十年経つが、やめるまでは可今年の6月3日から8月18日まで武蔵野美術大学の美術愛い黄色でキュービックなデザインのブラウン社製卓上ラ館・図書館で「ムサビのデザインⅢ デザインが語る企業イターを大切に使っていた。あるとき着火ボタンの調子が理念:オリベッティとブラウン」が開かれた。悪くなって、直そうと分解し始めたところ基幹部品である開催を知って「必ず見に行く!」と決めていたが、武蔵美ガスの吹き出し口シャフトが弾丸の様に強烈な勢いで飛びの美術館・図書館は、JR国分寺駅から西武国分寺線に出し、天井にどんっと当って落ちてきた。本来ならガスを乗り換え、鷹の台駅から徒歩15分以上も掛かるため、や全部抜ききってから分解すべきであって、そのとき飛んだっと時間が取れたのはお盆休みも終盤の8月16日であっ細いシャフトが顔に当らないで本当に運が良かったと今でた。記憶にあるキャンパス(数十年前)は、広大な畑のも思っている。そういう訳で、私のデザインコレクション真ん中にあり、周囲に建物はほとんどなく、野性的で自に卓上ライターは残念ながら残っていない。由な広がりをイメージ出来る環境で、美術を学ぶのに相今回の展示で私が一番出会いたかったのは、オリベッテ応しくうらやましい風景だった。今は大学や高校がところィー社の卓上計算機である。それもマリオ・ベリーニによ狭しと建ち並び、緑は多いものの昔の面影は全く感じらる有名な、トップカバーとテンキーが一体で柔らかい樹れない。時の移ろいを改めて強く感じるひと時であった。脂製の黄色い「ディビスンマ18」ではなく、本体が黒、大学で工業デザインを専攻した私にとって、オリベッティ印字テープやプリント用紙を交換するための取り外しカバ
ォルムの合理性や緻密さはその当時のあらゆる製品群の中で飛び抜けた完成度を持っており、いつかはあの様なデザインをしてみたいと漠然と憧れていた。三つ子の魂百までの喩えどうり、身の回りの家電製品は、電動歯ブラシから電気シェーバー、トラベル用シェーバー、トラベル用目覚まし時ー部分とテンキー部が鮮烈なペイルグリーンカラーのエットレ・ソットサス「スンマ19」である。デザイン雑誌で単体写真を見た時は、その機能に比べ本体やカバーなどのフォルムが無駄にオーバーで「何だこれは、カッコ悪!」と正直思った。しかしその次のページにデスクを中心とした書斎の様な柔らかいオフィス空間の写真が掲載されていた。それを見たとき慄然とした感慨が体の中を走ったのだ。そのオフィス空間がとても美しいのだ。何故だろうと思ってデスクを見るとそこには「スンマ19」が置かれていた。「スンマ19」を単体で見た時と空間に置かれた中で見たとき時のあまりの存在感の変化や印象の変化に慄然とした。そのオフィス空間が美しく引き締まって感じられるのは「スンマ19」の存在が空間を支配しているためと気付いたのだ。
「今まで自分は何を見てきたのだろう?『もの』しか見えていなかった。空間や環境と『もの』の関係性が全く見えていなかった」。その瞬間心のなかに、至らない、情けない、という想いが広がった。いま思えばその時の気づきが大きな糧に育って、自分のものの見方や価値判断を支えていると云える。単体だけでものを判断しないこと。「色」も「もの」も全て空間や環境との相関関係の中でその価値を見極める力がついたといえる。だから私の原点のひとつとも云える「スンマ19」に改めて会いたかったのだ。その時は写真しか見ていなかったのだから。
やっと実物に出会えた「スンマ19 」
わが家のオリベッティー「バレンタインS 」
私の数少ないデザインコレクションのなかには、オリベッティー社のタイプライター「バレンタイン S」がある。これは復刻版で当時のオリジナルではない。MATSUYA GINZA8階のデザインコーナーで全く偶然に出会った。当時の製品ポスターや著名な伊坂芳太郎によるポスターもあり、安くはなかったがどうしても欲しくて衝動買いしてしまった。そのとき一緒に買い求めたポスターが今は見当たらない。もしかすると後でカミさんに何を言われるか分からないと自粛したかとも思えてきた。今回の展示品は全て武蔵野美術大学のコレクションだそうだ。一大学がオリベッティー社とブラウン社の製品及び周辺販促物やカタログ、社屋の写真などをこれほど集めているとは想像していなかった。また今回の展示は 3回目で、2011年から毎年テーマを変えて行われている様である。それだけの企画が行なえるデザイン資産を保有しているのは、とても素晴しいことではないか。来年の「ムサビのデザインⅣ 」が待ちどうしくなっている。
P.S.1960.70年代の工業製品デザイン界をあれほどリードした両社だが、残念なことに M& Aなどで他資本に吸収されてしまっている。ブランドとしては残るものの、往時の勢いは全くない。規模や効率という名のもとグローバリズムに席巻され、理念や理想による特色ある企業が生き残ることができない、悔しい時代になってしまった。