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10月号 万聖節 2013
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組曲軽井沢
多くの人で賑わう旧軽井沢銀座をしばらく歩き、その喧騒も静まりはじめる頃。深々とした緑に包まれた「ショー記念礼拝堂」が見えてきます。軽井沢を有数の別荘地へと発展させた功労者のひとりが、アレキサンダー・クロフト・ショー司祭です。軽井沢(現在の旧軽井沢)は碓氷峠を背負った中山道の宿場町として栄えてきました。しかし明治 19年になって国道(碓氷新道)が開通すると、宿場としての機能を失いさびれはじめました。そこを訪れたショー司祭は、故郷カナダ・トロントに似た気候や景色に惚れ込み「屋根のない病院」と称して毎夏訪れるようになります。『軽井沢ショー記念礼拝堂 115年のあゆみ』より、ショー司祭のサマーコテージ。同書の電子版は、左下のリンクから閲覧できます。
1846年カナダのヨーク(現トロント)に生まれたショーは英国国教会(聖公会)の司祭
として弱冠 27歳で日本に派遣されます。外国人宣教師の活動が自由化された明治 6年
(1873)のことでした。有能なショーは後に英国公使館司祭という大任につき、日本の政界・教育界の重鎮とも交流を深めていきます。特に福沢諭吉とは家族ぐるみの付き合いで、諭吉は自邸の隣にショーの洋館を建て、子ども達の教育を任せました。また慶応義塾大学の教授となり「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄をはじめ、学生たちの洗礼も行っています。明治 19年当時、旅籠を改装して夏の 2カ月を家族とともに過ごしたサマーコテージは、現在のショー記念礼拝堂の隣にあり、初めての外国人別荘ともいえます。明治 28年(1895)に建てられた軽井沢最古の教会堂「ショー記念礼拝堂」(旧軽井沢基督教会)。明治期の明るさを再現していただきました。屋根をトラス構造でささえ、木肌をむき出しにしたロッジ風の内装です。夏場だけの使用だったため壁も薄く、自然の精気に包み込まれる気配に満ちていました。明治末から大正にかけ幾度かの増改築をうけ、2008年には保存維持のため土台を含め大修復されました。ショー記念礼拝堂の土井宏純司祭(日本聖公会)が、大正 9年に米国から輸入され今も現役のリードオルガンを見せてくれました。「明治 27年日清戦争の際、日本が国際的な非難を浴びるなか、たまたま渡英していたショーはロンドンタイムスに日本を擁護する記事を書きます。これにより国際世論に大きな変化があり、伊藤博文たちは帰国するショーを港に出迎えたそうです。また軽井沢が開発される前、ショーたちの避暑地は群馬県・霧積温泉(森村誠一『人間の証明』の舞台)でした。そこは伊藤たちが明治憲法の草案を練った場所でもあり、ショーは憲法発布式典にも出席しています」と土井司祭。教会堂の建設は、軽井沢の鹿鳴館といわれる「三笠ホテル」や「万平ホテル」を手がけた棟梁・小林代造がつとめました。ショーは代造棟梁に対して、解体の進んでいた旅籠や民家の古材を再利用するよう求めたそうです。ショー記念礼拝堂は、宿場町時代の記憶をとじこめた建築でもあるのです。祭壇の彫刻は軽井沢彫の職人が彫ったといわれ、簡素なデザインによって一枚板の杢目を上手にいかしています。
祭壇の前には、自然光を採り入れる天窓が設けられています。
大正時代の絵葉書には、教会に集う沢山の外国人の姿が写っています。教会堂の発足当時は各宗派のへだてなく、外国人たちはこの教会堂に集まっていたといわれています。聖公会は長野県小布施町の新生病院(コラージ 2008年 2月号)や東京の聖路加病院などホスピス型病院のさきがけを生み、立教学院を設立するなど、福祉・教育分野でも大きな功績を残しています。
秘密の家 ジャワBC工房 主人 鈴木惠三
夏の家として旅籠を改装したサマーコテージを利用したショー一家でしたが、宿場町の入り口にあったため、宿屋と勘違いする旅人はあとをたちませんでした。そこで 3年目の夏、向かいの大塚山に新しい別荘を建てました。それが軽井沢の別荘第一号「軽井沢スタイル」建築のルーツといわれるショーハウスで、1986年軽井沢 100年記念事業の一環として礼拝堂の奥に復元されています。中廊下を中心に部屋を配置したシンプルな木造2階建で、各室はガラス入りの引き戸で仕切られています。和風住宅を靴履き用にしたような構成から宣教師の簡素な暮らしぶりをうかがえます。東京・横浜の大学教師や宣教師などが宿泊し、週末には礼拝堂として利用され、ショー司祭は宣教師のまとめ役も果たしていたようです。
金盥をおいた沐浴場。風呂場をもつ別荘は少なかったようです。
苔むすまま軽井沢の変遷を見つめた「芭蕉句碑」(1843年)。『馬をさへ なかむる雪の あした哉』 松尾芭蕉
軽井沢の評判は全国に広がり、遠く九州からも宣教師がくるようになりました。さびれていた軽井沢の通り(旧軽井沢銀座)には外国人相手の商店が次々と開店し、肉や牛乳を提供するため牧畜もはじまります。はからずもショー司祭は町おこしの火付け役となり、軽井沢の人々は夏の間、外国人たちと生きる道を選びました。上は明治 24年「芭蕉句碑」前で撮影されたもので(提供:土屋写真店)、自転車に乗った外国人婦人や少女のほか荷車に薪を乗せた日本人男性が写っています。外国人男性は短期で都会に戻ってしまい、女性の比率が多かったようです。
ダイニングとハッチで繋がったキッチン。当時は水道も下水もなく、水汲みの世話は日本人にとって大切な仕事となっていました。
来日して約 30年、56歳の生涯を終えたショー司祭は、自ら創設した聖アンデレ教会の共同墓地(青山墓地内)に眠っています。マリー夫人はショーの没後英国へ渡りますが、希望によりこの地に埋葬されました。ショー司祭は夏の間も軽井沢周辺の街をまわり、伝道に励んでたといわれます。その補佐をしていたのが、やがて「万平ホテル」を建設することとなる佐藤国三郎神学生でした。
観光客でにぎわう旧軽井沢銀座に面した「軽井沢教会」。明治 45年(1912)に日本人のための教会として建てられ、大正 5年(1916)には、今も続く軽井沢幼稚園も併設されました。教会の設立に尽力したダニエル・ノルマン宣教師は軽井沢の村長とも呼ばれ、「娯楽を人に求めず、自然に求めよ」とモットーに、村人と生活を共にしながら、衛生環境の整備や医療機関の設置、自然保護、道路整備、風俗営業の阻止、幼児教育などに貢献し、軽井沢を欧米風のリゾート地へと育てました。明治 38年(1905)日本にやってきたウィリアム・メレル・
ヴォーリズも来日当初からたびたび軽井沢を訪れ、明治 45年には教会の脇に事務所を開き、夏の間は近江からスタッフを移動してノルマン宣教師と共に軽井沢教会をはじめとする教会や別荘、公共建築などを手がけながら軽井沢独特の建築スタイルを発展させました。軽井沢会テニスコートの向かいにある「ユニオンチャーチ」。ニエル・ノルマン宣教師によって宗派をとわないひらかれた合同礼拝堂として設立されました。設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズと伝えられます。音楽会やイベントが開催され、宣教師たちが日本語を学ぶ場所ともなっています。
軽井沢リトリートセンター(KRC)は宣教師や信徒たちの古くからの宿泊施設で、矢ヶ崎川沿いの美しい森のなかにキャビンが並んでいます。夏場には宣教師やその家族がここに宿泊し、ユニオンチャーチでひらかれる語学研修などに通います。
内田 和子(A&A)
つれづれなるままに
第 2回 金沢の旅第一章
はじめての回転ずし
かねてから計画していた、金沢 2日間の旅に出掛けた。旅の目的は 2つ。 1つは富田玲子さんの九谷焼美術館を訪ねる事。もう 1つは、妹島和世さんと西沢立衛さんの二十一世紀美術館を見る事。そして、できれば地元のおいしい海鮮料理を食べる事も盛り込んだ。東京から小松迄飛行機、空港からバスで金沢駅まで行く。
00
駅の観光案内所で、九谷美術館までの行き方を教えてもらい、 1時 分発の電車に乗るのを確認し、駅近くに予約しておいたホテルに荷物を降ろした。 820円の切符を買って、改札で 1時 発の乗り場表示を確認してホームに入り、電車を待った。電車はすいていた。空いている座席に座り、しばらく車窓を楽しんだ。00しかし、行けども行けども電車は止まらない。随分と安い運賃だなぁと思いながら、地図を見る。地図の読めない女が自分だということにまだ気がついていない。そこへ車掌さんがきて、どこまでいくんですか ?と聞く。
「大聖寺まで」「……」言葉がない。
「えっ !これ特急です。大聖寺は止まりません。次に止まる駅で下りて、金沢まで引き返して、普通電車に乗ってください。でも引き返しの電車は 1時間こないです。」と、美術館が開いている時間には、どう計算しても間にあわない。時間の無駄ばかりではない。乗った特急料金、次の駅迄の往復料金、一人旅の代償は、とんでもなく高い。初日から、それも目的の第 1だった美術館に行けないとは、何たることか。計画バッチリ 実行ゼロ。よくある話しだが、なんとも情けない。 そんな情けなさが伝わっただろうか ?それとも私の間違えた経緯をよく理解してくれたのか、若い駅員さんは車掌室に戻り、あちこち連絡をしてくれたようだ。次の駅で止まる少し前に、再び席にきて、切符に書き込みをして、引き返しの電車時間を教えてくれた。折り返し駅について、ホームの駅員さんに声をかけると、すでに私の事は知っていた。美術館行きをあきらめて、金沢駅へと引き返したが、ここでも事情を知った駅員さんが出ていて、間違い乗車の運賃を支払う事なく改札を出してくれた。私がこれ以上
つれづれなるままにはじめての回転ずし
立ち往生しないように、駅駅に連絡をしていてくれたようだ。
それにしても腑に落ちない。何を間違えたのか、最初に聞いた駅
の観光案所を再度訪ねる。私に説明をしてくれた人が案内を終え
るのをまって、「教えてもらった 1時 分発に乗ったが、」と、憤
慨を隠し確認した。
『まさか !!』同じ時刻発の電車があるとは、全く考えもしなかった。
そう、 1つは特急、 1つは普通電車、乗り場も行き先も違う。よ
うやく合点がいった。地元の地理はお上りさんにはよくわからな
い。目的地しか頭にない。記憶できるのは、点と線だけである。
遅い昼食もとうに過ぎ、もう夕方に近い。せめて美味しいのもで
も食べて、仕切り直しをしようと、美味ガイドを片手に海鮮市場
へ向った。地元の人も利用するという市場だが、レストランや食
事処は見当つかない。店先にイスの並ぶ、鮨やが目に入る。イス
00
が並ぶということは、夜にはお客も入るのだろう。お鮨なら、好きなだけつまめばいいからと、暖簾をくぐった。確かにお鮨やさんだが、なんとなく様子が違う。店内は、まばらだがテーブルにはお客が何組かいる。すすめられた席に座る。そこでここが、回転ずしであることにようやく気づいた。はじめての回転ずしである。勝手がわからない。ビールを頼んだまではよかったが、何を頼んでも、空のお皿が運ばれる。お酒のときに一緒にきたお皿に、おもわず、「お皿じゃなくてお酒です。」と言ってしまった。はじめての回転ずし、もっと楽しいものかと思ったら、目の前を通る寿司がうらめしそうにこちらを見ているような感じがして、居心地がよくない。地元の美味しい海鮮料理を食べたいとした計画さえ、あっけなく裏切られた。極め付きは、最後に頼んだお茶。何も入っていない湯呑みがきた。どうするのかと聞くと、粉茶を入れて、目の前の蛇口をひねろという。これには本当に参った。そして、レジへ行くとすでに金額がはじかれていた。聞けばお皿の色と数で計算されると言う。いやはや、今日の締めは、おひとりさまの回転ずし。東京のお上りさんは、ここでもしどろもどろだった。金沢ひとり旅、聞こえはいいが、金沢で回転ずしを経験したのは、まったくの計画外である。
江戸っ子を自慢する気は毛頭ないが、寿司はカウンターで好きな
ものを好きなだけ握ってもらい、冷酒でも熱燗でも、ひとり気楽
にやるのがいい。そして上がりはやっぱり熱くて渋めの緑茶にかぎる。東京に帰ってから、すぐにリベンジしたのはいうまでもない。金沢ひとり旅は、明日(次号)もつづく ……
軽井沢駅の南、プリンス通りから緑の小道をしばらく歩くと、青少年音楽協会の運営する「軽井沢ハーモニーハウス」があります。明治 34年(1901)に 2歳で来日し、以来 101歳で亡くなるまで、青少年の音楽教育に尽力し、美智子妃からも哀悼の言葉を贈られたたエイローズ・カニングハム女史の思いをこめた施設です。
「若手音楽家や演奏愛好家に、恵まれた環境で思いっきり演奏を楽しんで欲しい」という願いから生まれたハーモニーハウスには、演奏会にも利用できるラウンジや宿泊施設、食堂などが揃っています。この一風変わった施設を設計したのは、軽井沢で数々の別荘を手がけ、音楽愛好家としても知られた吉村順三氏でした。
明治 20〜 30年代、軽井沢に集まるのは宣教師や外交官、商館員の家族が中心で、夏の時期には各別荘でダンスパーティが開かれ、旧軽井沢銀座にはパン屋や輸入雑貨、洋家具、洋菓子、写真館、精肉店などが並び、外国のような景色がありました。「商店は外国人向けの店ばかりで、婦人たちはここで一年分のドレスやアクセサリーを買いました。軽井沢が最新流行ファッションの中心地になっていたのです」とカニングハム女史は当時を回想しています。都心ではなかなか会えない外国人の子弟同士も、軽井沢で一夏の交友を深めていたようです。施設の一画には、カニングハム女史の別荘もあります。こちらの設計も吉村順三氏です。17歳で渡米しコロンビア大学で音楽を学んだ後、大正 15年(1926)関東大震災の翌年に東京に戻った女史は、学習院や立教、東洋英和でビアノや英語を教えながら、生のクラシック演奏によって震災で傷ついた青少年に光を与えたいと考えました、再び米国で音楽教育を学んだ後、1939年(昭和 14年)に青少年音楽鑑賞会(現青少年音楽協会)を設立。政財界人や大使館の援助をうけ、新交響楽団
(NHK交響楽団の前身)による第一回コンサート「若き人々のための交響楽演奏会」を日比谷公会堂で開催しました。指揮に斎藤秀雄氏、解説に馬場二郎氏(音楽評論家 ビクター)を迎え、プログラムはワーグナー歌劇「ローエングリン」にはじまり、バッハのアリアやコラール、ヤーネフェルトのプレリュード、シュトラウスの美しき青きドナウ、シューベルトの交響曲第八番と盛りだくさんで、若者に一流の音楽を届けたいという強い意志が感じられます。演奏会は大評判となり半年に1回ほどのペースで続きますが、日米関係の悪化、そして開戦により途絶えてします。開戦前に渡米していたカニングハム女史は、その意に反して暗号解読に携わっていたこともあるようです。終戦後、一刻も早く日本に戻りたいと考えたカニングハム女史は、進駐軍とともに渡航を許されマッカーサー夫人ジーンの協力を得て、1年足らずでコンサートを再開します。第一回の演目はベートーベンの「運命」。NHKによるラジオ放送も好評で、毎月1回の公開放送がスタートしました。この公演や放送をきっかけに音楽を志した少年少女は数知れないといわれています。その後、秩父宮妃をはじめ、マッカーサー夫人、藤山愛一郎氏などの後援をえて、たくさんの学校が参加するコンサート活動へと事業を拡大していきます。昭和 28年からは新人発掘コンサートを開催し、中村紘子や海野義雄、フジコ・ヘミングなどを紹介しました。「一流の音楽を安価(出来れば無料で)に提供する」という目的のためたびたびの財政難に見舞われたものの、カニングハム女史は父から受け継いだ事業継続のセンスを駆使し、100歳になるまで音楽教育に対する独自のスタンスを貫きます。青少年音楽協会(MFY)を継承する雑賀淑子さん(サイガ・バレエ代表)にお話を伺いました。昭和 29年カニングハム女史は根津美術館の隣にアントニン・レーモンドの設計で麻布の自邸を建てます。1階のホールは練習場としても使われ、ホールをのぞむロフトのような 2階を自室としていました。女史の没後は吉村順三設計事務所の手直しをへて協会の施設として活用され、定期的なミニコンサートも開催しています。「麻布の坂を上がると 2階には深夜まで明かりがついてました。ここでコンサートのプログラムを組み、子どもたちに配るミュージック・ノートを制作するのが女史の日課でした。レーモンドの弟子であった吉村順三氏設計のこの別荘も、麻布の自邸とよく似たプランと思います」と雑賀さん。
コンサートの準備がすすむハーモニーハウスに戻ります。
ハーモニーハウス建設のきっかけとなったのは、昭和 30年ころから軽井沢で始まったミュージックキャンプでした。カニングハム女史は高校生を招待し三泊四日の音楽合宿を行っていました。そして 80歳を過ぎた頃、女史は父から継いだ別荘地の大半を売却しハウスの建設を決意します。設計は、軽井沢で家族ぐるみの付き合いをしていた吉村順三氏に依頼し(夫人はヴァイオリニストの大村多喜子さん)、1983年に竣工しました。ハーモニーハウスの敷地は約 1000坪で、ゆるやかな傾斜地に小川が流れています。練習やミニコンサートに使う天井の高いラウンジと、バレエの練習もできるデッキに面した 2階のホール。その下はキッチンを備えた食堂で、各階はゆるやかなスロープで結ばれています。晩年、障害者を対象とした活動に力を入れた女史は、バリアフリー設計を希望しました。この大きなスロープは吉村順三氏の遺作「天一美術館」(水上町・コラージ 2013年 5月号)にも共通したものです。
伝説的な吉村順三氏「軽井沢の山荘」。前庭では親しい人を招いた演奏会が開かれ、後にハーモニーハウスでも開催されました。カニングハム女史もよくここを訪れ、吉村一家との親交を深めていたようです。
L字型に配置された宿泊棟には、4室の宿泊室(各室 10名程度)と教員用の和室、トイレ、サニタリー空間を備えています。車椅子でも移動しやすいよう、床は玄関からフラットにつながっています。屋根は音響を考慮してか、浅間山の軽石をのせた草屋根です。宿泊棟の廊下に面し、必要充分な設備を備えたサニタリー。ラワン材やニードルパンチカーペットなど簡素な材料を使いながら、細かな心配りによって上質な空間を創りあげています。アップライトピアノを備えた部屋もある宿泊室。窓からの景観と植栽が見事に計算されています。「最近は利用者の嗜好がかわり、合宿をする人が減っている」と雑賀さん。ホテルを利用する若者が増えるとともに、竣工から30年をへて屋根や配管の補修には1000万円以上の経費がかかるそうです。「このまま資金不足が続けば協会のコンサート活動にも影響するため、今年を区切りに運営継続か手放すかを決定する予定です。カニングハム女史や吉村順三氏の遺志を後世へつなげるためにも、建築・デザイン界の方々の協力がほしい」と語ります。
木造建築ならではの柔らかな音色。背後のホールがチャンバー的な空間となり、天井の形状や草屋根の重みなどと相まって、独特の音場を生み出しているようです。
参考文献『エイローズ・カニングハムの家』下重暁子著 白水社刊
この日は自由学園 OB管の会のメンバー「MFYサンサンブル」が集合し、ミニコンサートを開きました。毎夏数日間、自炊しながら練習をして、オープンハウスをかねた演奏会を開催しているそうです。40年来、協会のコンサートとコラボレーションしてきたサイガ・バレエも登場。年代をとわず音楽の様々な楽しみ方を伝えるため、ハーモニーハウスの役割りはこれからますます大切になると感じました。
食文化ヒストリアン
スタバのない都市ボローニャ ① 大原千晴英国骨董おおはら
対しての強固な護りの姿勢が感じられる造り。時に見惚れるほど見事なものを見かける。こうして昼でも薄暗い歩道を行くうち、突然パッと視界が広がる所に出くわす。広場でなければ、古い教会の前だ。バロックのオルガンが聞こえてくる、鐘楼から鐘の音が響く。人影は少ない。続く列柱、天井に絵、中世のような玄関扉。現実感が徐々に失われていき、いつしか、ルネサンス期に描かれた絵の中を歩いているかのような錯覚に陥っていく。二十年前もそうだった。何も変わっていない。しかし、時は2013年だ。建物の中に「入居する」商店や飲食店、これが大きく変わっていた。特に旧市街中心部の一帯で。ザーラ、 H&M、ナイキショップにディズニーショップ、そして、広場前の最高の一角には、絶対ないはずの、マクドナルド! 1920年代の雰囲気そのままだったカフェは、今や明るいモダンな表参道にあるような店に変身していて、観光客で大繁盛。この激変ぶりを目にし
きら星卓上たの
北イタリアの古都ボローニャ。人口三十八万の小都市ながら「イタリ
ち
第28回ア随一の美食の都」として知られます。この夏二十三年ぶりに再訪問。
前回は、国際空港があり、鉄道と道路の要衝で、周辺のルネサンス都
市を訪ねる拠点として便利そうだという、ただそれだけの理由で、訪
れました。あくまでも滞在拠点。ところが到着第一夜から、どこで何
を食べても「異様に」美味しく、街並みの素晴らしさをはじめ、美術館・
教会など訪ねるべき歴史遺産は数多く、その深い魅力にぐいぐい引き
込まれていく。で、当初の予定はすべて変更。二週間この街から一歩
も出ることなく過ごすとことになったのです。一目惚れです。その同
じ街に、二十三年ぶりの再訪。イタリア有数の歴史文化都市は、どの
ように変わっていたか。それが今回のお話のテーマです。
旧市街中心部の裏道は狭く迷路のように入り組んでいて、面白いのは、
その歩道。車道の延長ではなく、建物の一部という構造で、その大半
は、建物から庇状に車道側にせり出した「ポルティコ(屋根)」で覆
われている。これが小さなドームの連続である場所も多く、その内部
に様々な絵が描かれていたりする。車道との境には、ポルティコを支
える柱が列柱状に続く。建物が商店でない場合には、その玄関扉に家ごとに個性がある。分厚い木材を意匠化された鋳鉄で補強し、外部にて呆然。「昔日の恋人は遠きにありて想うもの」であったのだ。グローバル展開立ち並ぶインディペンデント通りを歩く私は、再会初日から残念がっかり宿へ帰ろう気分。この日は最高気温 度。レストランに行く気もすっかり失せて、宿泊先のそばのスーパーに立ち寄ることにした。ビールにワインにチーズで、旅の計画立て直しだ。
入り口外観は少々よれた庶民派スーパー。中に入るとそこは野菜&果物売り場。アッ
39
パッパーにサンダル履きの太ったおばさん達とヤンママがお客の中心です。「あーっ涼しい」とひと息つきながら、そこに並ぶ野菜果物を見始める。唖然です。種類が豊富で、鮮度が素晴らしく、とりわけ緑の葉野菜類の瑞々しいこと。しかも、そのすべてが基本的に「量り売り」。偉い! 野菜果物の次は、オイル・酢・塩などの売り場。これまた種類の多さに、ふたたび唖然。その先には、氷敷きつめの鮮魚コーナー。種類は限られるものの、生臭さなど微塵も感じさせない新鮮な魚介類が並んでいて、その多くは切り身ではなく、丸のママだ。その先にはチーズ売り場。パルメザンと水牛
を中心に多種類が山積み。見かけは豆腐のような水牛のチーズ。これほどの多種類を見たのは生まれて初めてだ。そこを過ぎると、生パスタ。この街はスパゲッティ・ボロネーゼ(ボローニャ風)発祥の地。トルテリーニの充実を筆頭に、文句なし。そして極めつけが、写真にある「ハム・サラミ売り場」だ。優に八十種を越す様々なハムとサラミ。その塊がズラリと並ぶ棚。そして順番を待つお客の列。この脇に、薄切りパック詰めの大きな売り場が続くが、人影はまばら。見ていると、ハム類を購入するお客の半分以上が、棚の塊を指さして、スライサーで切ってもらって購入している。
「パック詰めのハムやサラミなんて」なの
だ。スーパーの棚の話、もう十分ですね。
ちなみに、価格は、野菜果物で概ね東京の
半額〜三分の一。チーズや食肉加工品は、
その品質の高さを考慮に入れると、五分の
一、いや、十分の一という感じ。要するに、比べるだけ虚しくなる、別世界。一瞬、わが故郷、輝けるガラパゴス列島首都のスーパーの、お粗末な情景が頭をよぎる。まあ、誉めてばかりじゃなんだから、ダメな点をひとつ。率直に言って、ボローニャでは、パンがよろしくない。そりゃ見かけ上は多種類揃っていますよ。でもね、タネとテクスチュア(質感)は、ほとんど皆同じ。表皮が一定の硬さでパリっとしていながら内部はネットリもちもちで香り高い、なんていうのは、まずない。パスタ文化圏である上、朝しっかりパンを食べるという習慣もないため、仕方ない。これがヴェネト州に上がっていくと、少し事情が違ってくる。そのあたりについては、またいつか。最後に、もう一度お断りしておきたい。これ、間違っても高級食品スーパーの話ではない。庶民派スーパーの最たる店、ごく普通の庶民の店の話だ。なのに「薄切りパック詰めのハムなんて」と大半の客が思っている。舌の水準が、恐ろしく高い。まさに「イタリア随一の美食の都」なのです。 次回に続く。
あまりにも有名な軽井沢会テニスコート。特定の日は大勢のギャラリーや報道陣に取り囲まれます。赤い屋根瓦を載せたハーフティンバーのクラブハウスは、昭和 5年ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計です。ヴォーリズは軽井沢会の前身となった「軽井沢避暑団」の副会長もつとめ、外国人たちの中心的な人物となっていきました。テニスクラブは避暑団の活動の一環として、大正 12年頃から始まっています。
旧軽井沢でヴォーリズの足跡をたどる
軽井沢避暑団の「集会堂」。大正 15年にヴォーリズによって改装されたようです。平成 7年に改修され、地元の集会場として現役で利用されています。軽井沢で多くの知己をえたヴォーリズは、近江を拠点に、全国の教会やミッションスクールの設計を手がけることとなります。
こちらはアントニン・レーモンド設計の「聖パウロカトリック教会」(1935年)。きつく傾斜した屋根に東欧教会風の塔をいだく姿は、レ
大企業の本社ビルという感じの建物ですが、この中に各種加工機械や最新の電子機器、測定装置などが設置されているとのこと。外観からはちょっと信じられません。1階ロビーには入館カードを発行する受付や、要望に応じた部署を紹介してくれる「総合支援窓口」もあります。
ロビーの一画には、最新の研究成果が展示されています。表面技術グループ長の木下稔夫さんが研究を進めているのは、漆と木粉を原料とした新素材「サスティーモ」。日本で使われる漆の大半は中国産ですが、中国でも経済成長にともない漆を育てる農家は減り、需要も少ないそうです。そこで木粉を漆の樹脂で固めた新素材をブランド化することで使用量を拡大し、漆栽培を継続させることを目指しています。木粉には杉の間伐材などを使い、100%サスティナブルな材料で製造でき、今後は漆の木の再利用も試みたいとのことでした。最初に訪れた「木質材料・VOC試験室」では、椅子の座面に 950N(約 95kgの人が座るのに相当)の力を約 5万回加え、耐久性を確かめていました。他に静的強度や耐衝撃性もテストできます。こうした数値は JISによって定められていて、家具メーカーが試作品を持ち込み、データを元に新製品の開発をすすめることも多いそうです。店舗用のオリジナル椅子も、こうした試験をパスすれば安心して利用できると思いました。隣の「VOC試験室」には建築基準法で建材や接着剤からの放出量を制限されている VOC(揮発性有機化合物、シックハウスの要因物質)の試験装置があります。建材のサンプルを金属製の密閉容器(チャンバー)に設置し、清浄空気を流しながらサンプラーに VOCを捕集して放散量を分析します。建築基準法で定められた「大臣認定」を取得するための予備試験に利用するメーカーも多いとのことでした。さて今回、西崎克治さんが持ち込んだのは、新開発した「ナチュラルマット」という自然な木肌を感じさせる木質家具・内装材向けウレタン塗装のサンプルです。塗膜物性試験室で研究員の村井まどかさんが「テーバー式摩耗試験機」をつかって耐摩耗性試験を行いました。最初に約 10cm角の試験体の重量を、精密な計りで計測しておきます。次に規定の力をかけながら回転する摩耗輪にかけ、表面をこすります。10回、20回、30回と回転させるうちに表面に白い跡ができてきます。目視で表情を確認してから再び重量を計ると、塗膜の削れた分だけわずかに軽くなっていました。従来の塗膜とも比較して、どれくらいの回転数まで耐えられるか確認するそうです。「発注者への説明の裏付けとなる、大切なデータを得られました」と西崎さん。
「えんぴつ硬度」で知られるスクラッチ試験機(右)や、耐衝撃性試験機(左)も見せてもらいました。スクラッチ試験機は、本物のえんぴつを使っていることに驚きました(ただし日本塗料検査協会の認定品)。えんぴつに重りで力を掛けながら塗膜を引っ掻いていきます。傷のつかないえんぴつの硬さが、塗膜の硬度(2Hや 3Bなど)になります。デュポン式と呼ばれる耐衝撃性試験機は、重りを規定の高さから落として塗膜に衝撃を与え、割れや剥離のしにくさなどをテストします。塗装には様々な性能が求められるため、複数の試験を繰返して性能を確認する必要があるようです。「下塗から中塗、上塗の塗料の種類、塗装方法などで塗膜の性能は大きく変化します。企業の要望に沿った試験を行い、新製品の開発などにつながるとうれしい」と村井さん。
紫外線や水分を当て、塗膜やプラスチック、タイルなどの屋外での長期耐久性を調べる装置「促進耐候性試験機」や、新しい塗装方法の研究・実験を行うための、塗装ロボットも活躍していました。
今もっとも忙しい装置のひとつが高速造形機「3Dプリンター」です。最大約 460立方 mmまでのパーツを造形できる大型造形機と、肉厚 0.3mm のスリットなど手作業では難しい繊細な造形にも対応できる精細造形機がありました。この 3Dプリンターはナイロン樹脂の粉末を 0.1mmずつ積層し、1層ごとにレーザー光の熱で溶解させる本格的な装置です。中小企業からの試作品の依頼が多く、開発コストの削減やスピードアップに貢献しています。この部屋には「3Dデジタイザ」も用意されていました。これはモノの形をレーザー光で読み取り 3Dデータに変換するものです。デザイン関連の設備が集中する 3階には、創作実験ギャラリーや工作室、パソコン室、各種大型プリンター、撮影スタジオなどが揃っています。ギャラリーには、講習会に参加した企業の製品が並んでいました。デザイナーを講師にむかえた「ブランド確立実践ワークショップ」を開催し、中小企業のデザイン力を養成しているそうです。施設の利用方法や料金などについては、1階ロビーにある「総合支援窓口」(TEL.03-5530-2140)で気軽に相談して欲しいとのことです。これだけの設備を利用しないのはもったいない気がしました。東京ビッグサイトの行き帰りなどに、一度立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
デザインモデル室は、3Dデータを元にルーターで木材や樹脂を加工できる切削タイプのモデリングマシンを備えています。一方工作室には、手作業で使う糸鋸やボール盤からデザイン用具まで、デザイン開発に必須な道具と場所が揃い、ここに通って製品開発を行うデザイナーもいるそうです。撮影スタジオは大型ストロボ装置やハッセルブラッドのデジタルカメラを備え、本格的な製品撮影をできます。また大判ポスタ
たち 9 吉田龍太郎(TIME&STYLE)
素敵な
MomoYoshida(もも よしだ ベルリン生まれ12歳)
ほかの大人たちはどのように感じているのか分からないのですが、今日までの 50年の人生、長い時間と色んな経験を経ても自分という人間の根っこは何も変わらなかったように感じています。そこには小さな頃からの弱いままの自分の姿があります。僕自身のことなので自分にしか分からないのですが、強くなりたいと願いながらも、自分の弱さを未だに克服することができていないのです。多分、これまでがそうであったように、これから死ぬまでも同様に自分の弱さを克服することはできないのだろうと思います。昨年の夏、上海で体調を壊してから今日までずっと不安な日々が続いていました。今も不安と安堵が交錯する日々なのですが、1年ほど時間が経過したことで、これまでの体調不良の意味が少し分かりつつあると感じています。体の変調は平穏だった日々に突然の不安をもたらしました。しかし、もたらしたものは不安だけではありません。不調は同時にこれまでの時間、そして、これからの時間、生きる意味を自分に問いただします。お前の時間は何だったのか。お前の存在は何だったのか。お前の大切なものは何だったのか。お前は何をしてきたのか。お前は何を残したのか。自分はこのまま死ぬのか。誰とも会えなくなると思うのが一番の悲しみです。しかし、人生の中に真理があるとすれば、私たちは必ず死にます。今、この便りを読んでいる人で 100年後に生きている人は一人も存在しない、また、同じ人生も人間も二度と存在しないことも真実です。死へ向かう恐怖は不安と自分の存在の意味を問いただします。たぶん、体調の不良が無ければ、そんなことを感じたり考えたりすることも無かったかもしれません。自分のこれまでを振り返り、感じることも無かったかもしれません。そして人のことを考える時間も無かったかも知れません。これまでの時間を振り返ると、厳しいことや苦しいことがあってこその今だと感じます。弱い人間は、動かなければ何も変わりません。弱いものは動いて苦しむことによってのみ、状況を変えることができる。弱いものこそ冒険しなければならないと感じます。新しいことや無謀なことにも挑んでゆかなければ、不安な毎日をやり過ごすことはできません。私のような弱い人間は強制的に自分を動かしてゆく状況に身を委ねて、自分を動かしてゆく場所を探し続けてゆかなければ停止してしまうのだと思います。私たちは自分の力で生きているのでは無いということを感じています。自分たちの両親や先人が永い時間をかけて受け継いで来たものが命であり、自分だけのものではないと感じます。日本、世界の歴史は闘いの歴史であり、どの時代にも、世界の様々な場所や時間の中で大きな天災や闘いが繰り返され、人類が滅びるような多くの命が長い時間の中で失われてきました。そのような激動の時代を経て、奇跡的な幸運の連続と遠大な時間の上に受け継がれて来たのが私達の命です。そう考えると私達自身にも何かしらの与えられた使命があるような気がします。自分たち人間だけでなく、動物や植物も同じように長い時間をかけて、今に生きているのも同様です。12年前、2001年のクリスマスに当時 6歳だった息子から動物をプレゼントして欲しいと言われ、ベルリン・モルゲンポストという新聞に出ていた『子猫譲ります』と言う広告を見て息子と 2人で広告主の自宅があるベルリンのウィルマースドルフのアパートに子猫を見に行った。数匹の猫の中に生後 2カ月の小さな真っ黒な猫が無意味にぴょんぴょんと飛び跳ねていて、その元気のいい黒猫を息子も僕も気に入って、息子へのクリスマスプレゼントにした。黒猫のモモは、その 4年後の 2006年 10月にベルリンから飛行機に乗って東京にやってくることになった。ベルリンでのモモは花瓶に活けてある花を食べたり、植木におしっこをしたり、家具の後ろにウンコを隠したり、悪事を繰り返して、ついには 5歳の時にお父さんに続き、ベルリンを追放されてしまった。その果てが、購入者責任ということもあり、東京の僕のところに飛行機に乗ってフラフラになりながら命からがらやって来たのだった。今ではモモの東京生活も 8年目となり12歳になるのだが、モモも小さな頃から全くといって良いほど、人間的に(猫的に)成長していない。僕の住んでいるマンションはペット禁止の賃貸マンションなのだが、管理人が来ている時を狙ったように『ぎゃーぎゃー、俺はここにいるぞー、見つけてくれー、ぎゃー。』とだみ声で泣き叫ぶ。そして僕の機嫌が悪い時なんかは、ソファーの上に置いてある僕の財布の上に見事なウンコをバランス良く乗せてみたり、枕の上に見事なウンコを並べてみたり、さらにはベッドで眠っている僕の布団の胸元に、生あったかいウンコをして、目の前のウンコにびっくりした僕が布団を跳ねのけた勢いで、ウンコがベッドルームの天井に飛んで貼り着くような、そんなくだらない悪事ばかりをする。そんなモモも今年の春に糖尿病になってしまい、緊急入院したのだった。すっかり元気の無くなったモモと僕はそれからというもの、何だか病人同士の連帯感みたいな感情が生まれ『お前も大変だミャー』『お前も頑張れミャー』みたいな感じで最近はお互いに慰め合っているのでした。
軽井沢を代表する老舗リゾートホテル「万平ホテル」。その起源は明和元年(1764)、軽井沢宿に佐藤万右衛門がひらいた旅籠「亀屋」にさかのぼります。当時の亀屋は旧軽井沢銀座の郵便局付近にあったといわれ、明治 19年(1886)9代目佐藤万平の代となったとき、軽井沢を訪れたショー司祭に同行した工部大学校(東大工学部の前身)の英語教師ジェームス・メイン・ディクソン氏が亀屋でひと夏を過ごします。万平は一度も食べたことのない西洋料理に挑戦し、懸命にディクソン氏をもてなします。これをきっかけに亀屋には外国人が宿泊するようになり、万平は外国人向けホテルを志すようになります。
「皇紀弐千五百九拾六年」(1936)と記された大きなステンドグラスは、昭和11年アルプス館(本館)が新築された際に宇野沢秀夫により制作されました。江戸時代・中山道を往来した参勤交代から、乗馬やゴルフ、テニスの盛んになった昭和へ至る変遷を描いています。
今の万平ホテルを育て、のちに 2代目万平となる佐藤国三郎は、明治元年に小諸で生まれました。17歳で教師の代理をつとめるなど優れた才能を見初められ、明治 20年(1989)初代万平のひとり娘「よし」の婿養子として亀屋に迎えられます。その頃、ショー司祭の創設した聖教社神学校の学生たちが避暑をかねて軽井沢にきていました。国三郎は学生たちの伝道活動を手伝いながら神学校に入学し、東京芝の聖アンデレ教会に寄宿した経験や人脈は後にホテル運営にも役立つこととなります。24歳で卒業後、国三郎は福島で聖公会の伝道師として活動し静岡県・沼津をへて軽井沢に戻ります。明治 27年に亀屋を改装し「亀屋ホテル」へ改称しますが、客室は8畳間〜12畳間の和室でした。2年後には外国人に発音しやすいよう200年以上続いた亀屋の名を「Mampei Hotel」に改名します。▲ 明治 35年の旧本館。▼中庭の泉は今も美しい水をたたえています。
明治 35年には現在の桜の沢に移転し、小林代造棟梁による洋室 22室を備えた本格的な洋式ホテルを開業します。外国人の好む綺麗な泉が湧いていることや浅間山をのぞむ景観が移転の理由といわれます。現在のアルプス館(本館)は、旧本館を取り壊したあとに建てられたもので、設計は久米権九郎(久米設計の創立者)が担当しました。久米は周辺の村々を見て回り、佐
久地方の養蚕農家に着目します。古民家を2つ並べたような外観は、そこからきています。ちなみに久米は昭和 10年に、日光金谷ホテルの別館も設計しています。
▲ 新築当時のメインダイニング。▼ 太平洋戦争終結後には GHQに接収され、サンルームが増築されました。
亀屋ホテル時代から佐藤国三郎の料理に対する思いは並々ならぬもので、宣教師や外国人婦人からパンや西欧料理の作り方を習い、冬期を利用して横浜の外国人居留地で働いたり、アメリカ、オーストラリア行き豪華客船のコックとして乗り込み修行しています。大正4年にイギリスへ渡った長男・太郎は、英国からヨーロッパ、北米を旅して 6年後に帰国します。旅先から各国のレシピを手紙で送り、兄弟たちがすぐにメニューに加えたそうです。本館メインダイニングは欧州ホテル風の重厚感をかもし出しながら、天井を「格天井」にするなど格式の高い和の雰囲気も加えています。
▲ 大正時代から昭和10年にかけて使われた名古屋製陶製の食器。スズランをモチーフにしています。▼ 「Mampei Hotel」に改称した頃。まだ旅館のような外観で部屋は和室でした。
開業前から立っているケヤキの木(お守りの木)。年始にはスタッフ一同が 1年の無事を祈願して、お神酒を捧げるそうです。総支配人の山田敏彦さんが、万平ホテルの歴史を案内してくださいました。階段上部にはめられた亀の泳ぐステンドグラスは「亀屋」時代の面影を伝えています。
「天地水 宇宙之神」と書かれた中庭の鳥井。
史料室には、120年近い万平ホテルの歴史が詰まっています。昭和 45年にはジョン・レノンが初めて万平ホテルに宿泊。以降、亡くなる前年までの数年間、アルプス館に毎年滞在しました。ジョン・レノンが気に入っていたと伝えられるヤマハのアップライトピアノも展示されていました。
大正 7年(1918)に佐藤万平が他界すると、国三郎が 2代目万平を襲名します。当時の建物では冬期営業は難しく10月から 4月まではホテルを閉鎖していました。そこで昭和初期、熱海の桃山に「熱海万平ホテル」を開業し、冬場には軽井沢のスタッフを熱海に派遣し経営を安定させました。熱海につづき東京万平ホテル、ヤシマホテル(日本橋)、名古屋万平ホテルなどを次々と開業し、万平の息子たちが経営にあたります。発展するホテルチェーンを襲ったのが太平洋戦争でした。東京万平ホテルや熱海万平ホテルは国情により売却され、名古屋万平ホテルは戦災で全焼しています。一方軽井沢万平ホテルには、ソ連やトルコ、ドイツの大使館員などが疎開してきました。終戦後は米陸軍第八軍に接収されたことから、GHQの要請で水道配管や暖房設備を改修し冬期営業が可能なように改修されました。著名な文人や政治家、芸能人にも愛されたアルプス館の客室は、ベッドルームを組子障子で仕切り、窓際には掛け軸のかかった床の間をしつらえています。障子や床の間の仕様を各室で変えた凝ったつくりです。「日本趣味を取り入れた床の間、掛図、違い棚の構造が直立平面の洋壁に較べて、柔らかい感触を与えるという特色があった」と、2代目万平の長男・太郎は久米権九郎の設計を評しています。
宿泊名簿には、三島由紀夫の名も見られます。大ベストセラーとなった『美徳のよるめき』には万平ホテルが登場し、ドラマ化の際は、ホテルで撮影もされたそうです。
やがて落着いた土屋が、例の真裸の朝食をとろうと提案する。節子は寝床に隠れていればよかった。電話で注文した朝食が、朝日にまばゆい窓辺に運ばれるのを、仮りにガウンをまとった土屋が迎えて、伝票に署名をすればよかったのだ。
-朝日は寝室の裾のほうを犯している。窓ぎわの卓の白い卓布の上には、今しがた用意された朝食の、銀の珈琲ポットが輝やいている。ナプキンに包まれたトーストの香りがしている。給仕はもう出て行ったあとである。鍵は、と節子がきいた。それは勿論すでに掛けてある。ではお給仕をいたしましょう、と窓ぎわに立っていた土屋が言って忽ちガウンを脱ぎ捨てた。彼の体中の夥しい毛が朝日のなかで金いろに光った。節子はシーツで身を包んでいた。トーストのようだね、と土屋が言いながらそれを剥いだ。節子は拒まなかった。節子の毛も寝室の裾の朝日のなかで金いろになった。 三島由紀夫「美徳のよろめき」より
大正期に移築された日本館は、東京の鳥居坂にあった三井
財閥・鳥居坂家の屋敷の一部を移築した総ヒノキの和館で、
この頃から増えてきた日本人客に対応するためのものでした(現在は熊魚菴たん熊北店)。その脇に立つ2代目佐藤万平
の銅像は、今日もホテルをて出入りする人々を見つめています。
参考文献:万平ホテル創世記の記憶 創業 115周年記念誌
ケノス代表
未来予測の楽しさ、むずかしさー多岐にわたる裏付け探しー
日本スーパーマーケット協会(以下JSA)が会員を対象に毎年秋に行なうアニュアルセミナーにてこの 10月 3日に短時間の講演を行った。私は JSA外郭「エコストア研究会」の会員として、月一回行なわれる研究会に極力参加している。会の構成メンバーは主に冷蔵ショーケース、空調機器、照明機器、計量機器、レジ回り機器などの各メーカー及び卸売り、プラスチックトレーなど容器の協会など、スーパーマーケット業界を支える会社が中心だ。そんな中で「エコ技術」とは直接関係性のない店舗建築デザインを生業としている私に「あいつなら技術を含め全般的な話が出来るのでは」
ZERO ENERGY STORE ZES(研究会造語)
太陽光発電
エネルギー活用イメージ太陽熱利用
創エネ
省エネ
蓄エネ
「2020のゼロエネルギーストア」を予測した店舗の、エネルギー活用イメージ。創エネ、省エネ、蓄エネの 3点にわけ、将来、実用化されそうな技術を組み合わせた。
と、アニュアルセミナーでの説明役が会議の成り行きで決まってしまった。JSAが希望するテーマは「2020のスマートストアはこうなる」である。エコストア研究会での日頃の議論は、2020に絞った照準に話がなかなかとどかない。未来へ向けた技術の話は企業秘密に属する部分もあるため、靴の上から足をかく様な歯がゆさを感じる。それでも会期の1カ月前までには、各メンバーから担当分野の近未来予測シートなどがでて来て、それをまとめればいいと考えていた。しかし私の期待はまったく甘く、出てきた結果は現在の新製品アピール以上ではなかった。全ての機器類は、建築設備というかたちで建築に取り込まれ「店舗という名の器」で小売業は事業を遂行する。店舗建築は構成要素の全てをバランスよく組み込んだ事業ツールともいえる。各機器メーカーの立場としては技術的な裏付けが確定していないもの、つまりメーカーとして責任をとることの出来ないもの、また完成されていない技術や機器は、仮定であっても公開することはタブーなのである。それは責められることではない。その事実を受け止め、これは自分自身でストーリーを組み立てて各分野の未来情報を集約しないと動かないと決意したのが約 1カ月前であった。大まかな構成は 3カ月程前から準備を始めていたこと、元々自身のテーマでもあることなので、大づかみのデータなどは日・米のネット記事や新聞、業界紙から得て、店舗視察などで同行する業界誌編集長などとの話の中でヒントを蓄積していたし、社会状況の変化や地球規模でのエネルギーの活用変化の兆し、人口の減少化など、前提とする視点には事欠かなかった。しかし「2020のスマートストアはこうなる」を語るための「店舗という環境」を作り出す建築構造の未来、建築設備の未来、来店されるお客様の移動を支えるトランスポーテーションの未来など、予測し組み込まなければならない守備範囲は膨大だ。そこで政府機関等で作られた様々な技術分野の2050頃までの技術発達を予測したロードマップを参考に、2020頃の未来店舗で行なわれるであろう「人とお店」「決済の IT化」「お店と周辺環境の共生のありかた」「お店とコミュニティーの関係性」等に視点を絞り、か
2020スマートストアのイメージスケッチ。手書きのスケッチによって、視覚的にイメージ出来るよう心がけた。
アニュアルセミナーの講演風景。スーパーマーケット業界をリードする方々で満員となった。
なり私見を交えながら講演資料づくりを行なった。ありたい姿の提示ということで手書きスケッチも多い。講演までのほぼ1カ月間、特に最後の2週間は実務時間が殆ど取れず、もちろん休日返上で、巻き込まれる社員の大ひんしゅくを買いながらも講演資料作りに一途に邁進した。JSAアニュアルセミナーの出席者は、スーパーマーケットの経営者、経営企画室メンバーまたはそれに準ずる方と食品メーカーや食品卸の部長クラスが大半である。そのため講演内容は経営陣にとって事業判断や決断の糧となる、スーパーマーケットの希望ある未来像や、これから必ず目前に現れる重要な課題について、的確な方向性を提示しなければならない。資料作りの日々は緊張の連続であった。当日与えられた時間は自己紹介を含めて 30分である。未来の店舗のあり方や将来人口の推移やエネルギー背景を含め 34ページにわたる全てを説明するのには時間が全く足りなかった。最初からそれは分かっていたのだが、ありたい姿を語りたい気持ちは揺るがしがたく意気込んではみたものの、やはり途中の解説を飛ばして終了せざるを得なかった。もっとコンパクトにポイントだけを話すべきだったと反省しきりである。11月後半に今度はスーパーマーケットの実務者に焦点を絞ったセミナーも予定されているので、資料を再構成して改めて望みたい。
宿場町軽井沢の境界となっていた二手(にて)橋。碓氷峠へと向かう旅人をここで見送り、旅の無事を祈りながら別れを惜しんだそうです。次号はこの二手橋を起点に宿場町時代の軽井沢をご案内します。