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沢山の観光客で賑わう京都四条通。祇園八坂神社の朱塗り門をのぞむ、お茶屋「一力亭」の向かいに、孤高のサンクチュアリともいえる「何必館・京都現代美術館」が立ちます。
1981年開館の「何必館」は、村上華岳、北大路魯山人、山口薫を中心に、坂本繁二郎、パウル・クレー、富本憲吉、カルティエ=ブレッソンなど幅広い作品を収蔵する、私設美術館です。
1階ロビーに佇むジャコモ・マンズー作『枢機卿』(1963年)。繁華街の喧騒から静寂の世界へと来館者を誘います。彫刻の背景は、巨大な塊から削り出されたイタリア製トラバーチン。
何必館館長梶川芳友氏が美術の世界に足を踏み入れたのは20代初め。そのきっかけを作ったのは、村上華岳(明治21年〜昭和14年)の描いた一枚の絵でした。昭和38年、開館間もない国立近代美術館京都分館前。人と待ち合わせをしていた梶川青年は、時間つぶしに入った「村上華岳の芸術」展で、その後の人生を一変させた一枚の絵『太子樹下禅那(たいしじゅかぜんな)』と出会います。「身震いして、閉館まで動けなかった。なぜかは未だに分からない。一瞬の出会いで変えられてしまった。その力が何かを知りたくて、美術の道に入ったのです」。全国のコレクターを訪ね歩き、変わった若者として知られるようになった梶川館長。一枚の絵の力によって人生を変えられた体験者として『太子樹下禅那』を展示した美術館を構想し、自ら建築設計をはじめます。たとえ小さくても自分の考える最上の鑑賞空間をつくる。その思いが形となったのは18年後のことでした。「製作は密室の祈りなり」といった村上華岳による『太子樹下禅那』(昭和13年)。菩提樹の下で坐禅修行する若き悉多太子(のちの釈迦)を描いています。和室は数寄屋大工中村外二氏の手によるもの。
開館から38年。100回以上の展覧会をとおし、来場者と作品の様々な出会いが生まれました。「京都のなかでも祇園は一番手強く、質を問われる場所」と梶川館長。美術館を建てはじめたときには、まだ『太子樹下禅那』を入手していなかったものの、開館までには手元に来るという確信があった。この地に美術館を建てられたのは、華岳に対する願いの硬さ、思いの大きさがあったからといいます。華岳が自室に掲げていた書「不動降魔剣観音慈悲涙」(昭和13年)からは、創作への厳しい姿勢がうかがえます。村上華岳は明治21年、大阪で甲斐武田氏につながる家系に生れ、13歳で神戸・村上家の養子になりますが、その出生は謎に包まれています。明治42年、京都市立絵画専門学校へ入学。竹内栖鳳などに学び、大正5年には来日したインドの思想家タゴールとも出会っています。「宇宙の意志と一つに融合すること。私が仏像を描いてゐるのは、そこへ到達する修行に過ぎません」と宣言した華岳は、画室での絵画探求をつづけ、昭和14年、持病の喘息のため52歳で亡くなりました。梶川館長は20代のはじめ洋画家・山口薫氏のアトリエをたびたび訪れ、何を話すこともなく、絵を描く姿を1日中そばで眺めていたそうです。「美しいものにふれると僕は悲しくなる。それはなぜだろう。人間の美への祈りがあるからだろうか」。詩魂の画家をいわれた山口氏。没後10年、偶然の巡り合わせで手元にやってきた絶筆『おぼろ月に輪舞する子供達』のために作品室をつくり迎えました。
漢「婦人坐像加彩 俑」。廣田 不狐斎(初代「壺中居」主人)から開館時に譲り受けた作品。
確かな審美眼により選ばれ魯山人作品は、同館の柱のひとつです。「魯山人は華岳の対極にある」と梶川館長。その出会いは20代のはじめ、築地の料亭で手にした飯茶碗でした。「その飯茶碗のしっくりとした手触りは、四十数年を経た今でも鮮明に思い出すことが出来る。以来、私は魯山人の器を日常の生活で使いこなすことに心を砕いてきた」(『何必館拾遺』淡交社刊)。魯山人作品は使うことでしか理解できないだろうとも。俗の中にありながら白くあり続けた魯山人の真価を見たいと展覧会を20回以上企画したそうです。刻字屏風『赤壁之賦』は、大正3年に若き魯山人が大観學人の号で制作。山代温泉のとある旅館で雨ざらしだったものを、梶川館長が発見したとのこと。下書なしで彫られていて、筆のように刀を使いこなす「刀意」が感じられます。『高きをいく人においては、衆は必ずそれをそしる』の扁額には、魯山人の気持ちが素直に表現されています。
脱字を加えている所から、下書き無しで一気に彫られたと考えられます。
「傲慢、不遜、非常識と、生前の魯山人を知る人々は激しく罵る。彼の美における断罪の激しさは、そこに徹底した純粋さを求めるがゆえの、無邪気とさえいえる優しさの表現であった」(『何必館拾遺』)。「焼き物知らずの魯山人」と非難されることもあった魯山人ですが、使ってみて初めて、なぜこの器が作られたのか、この形になったか、その深い心遣いを思い知らされる。人間が最初に食べ物を載せたのは、葉っぱだったのでは…そう考えると蒐集の最初の作品は、この織部木の葉皿になったんです、と梶川館長は語ります。
『織部向付』(昭和14年)。
『備前旅枕花入』(昭和33年)。志野、織部、黄瀬戸、信楽、備前、古九谷、乾山など魯山人はあらゆる焼き物の名品などから、造形を学びとっていたようです。古窯の調査や失われた技術の復興にも尽力しました。
『双魚絵平鉢』(昭和10年)。
30年間で20〜30万点の作品を作り上げた魯山人。その中から何を選ぶか宿題を与えられ、毎日魯山人に会っている気がすると梶川館長。作品に織り込まれた思想や美意識、価値観は分かる人にしか分からない。魯山人の口癖は「100年先、100年先」。100年先を見てものを作っていたといいます。
『玄遠』(昭和30年)『備前土花入』(昭和32年)
ドラゴンシリーズ 43
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
大空と大地の中で
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湯船に浸かりながら、昔のことを考えていた。
歳の時に、ドイツの田舎町の農家で働いていた時のことを
思い出していた。何で俺はあの時、あの場所で朝の
きて草原までトラクターに乗って牧草を刈り取って、牛に餌を与えていたのだろう。何故に牛乳を朝晩絞り、牛のうんこにまみれながら農家の屋根裏に住んでいたのだろうか。
家長のベネディクトさんは僕が去った数年後に他界したそうだが、あの時にベネディクトさんから受けたはじめての優しさは何だったのだろう。そして、毎朝、顔を見合わせながら牧草を待つ一頭一頭の牛たちの表情を忘れることができない。
あの時間は僕にとってどんな意味や理由があったのだろうか。若い時に何も先が見えない漠然とした不安感の中で、何かを掴むように日本を離れてもがいた時間だったが、そのもがいた時間そのものこそが貴重だと感じ、それが何を意味しているとか、そんなことよりもあの時に感じた草の匂い、風の優しさ、森の声、牛たちとの会話、牛の悲しい眼差しが今も自分の心の中に強く刻まれいる。その時、その時を懸命に生きる動物たち。
そして、日々を暮らす地元の人々の日常の営みの中にある信じる神、毎日の仕事の日課、そして同じ場所に生きながら、抱いているそれぞれの夢や希望、そして今になって振り返ってみると、全てが一瞬であり、同時に永遠だ。風呂に入りながら、そんなことを思い浮かべていたら、時代の変化なんていつだって同じことの繰り返しでしかなく、自分自身は今でも同じ農家の屋根裏部屋に立っていることを思い出した。
誰を批判しても世の中はどこかに向かって動いて行くし、自分が何かをしなければ何も変わらないけれど、大きな目で見る
時から起
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と、今も僕はドイツの田舎町の農家にいる 歳の自分から何も変わってはいない。そんな想いもあったのか、僕は昨年の夏に一人でその農家に行って見ることにした。そこは、そのままの風景が同じようにあり、そして、そこで営まれている生活も人々も変わってはいなかった。久々に肩を抱いて泣いた。
頭の中でドイツの風景を思い出していたら、こんなメロディーが流れてきて、風呂場の反響音の中で歌っていた。それが『大空と大地の中で』という曲だ。タイトルは『大空と大地の中で』なぜだか自分の風景と重なった。
20
空間デザイン:橋本夕紀夫(橋本夕紀夫デザインスタジオ)照明デザイン:武石正宣(ICE都市環境照明研究所)プロジェクションマッピング:松尾高弘(ルーセントデザイン)運営:INSOU 西日本京都市東山区八坂新地富永町106 -4 TEL.075-532-3155
築100年を超える町家を活用したニュークラブ「MUSERVA祇園」(ミュゼルバ)。デザイナーの橋本夕紀夫さんと、照明デザイナー武石正宣さんが、町家のしつらえを出来るだけ残したまま、先端的な光による空間の創造を試みました。
2年前の改装では、中庭を挟んだ部屋同士の関係性が見直されました。中庭に面したガラス窓にドット状のフィルムを貼り、松尾高弘さんのプロジェクションマッピングによって自然風景をテーマにした映像を投影しています。これにより互いの存在を意識せず、中庭と映像を楽しめるようになりました。
「クラブのデザインは映画に似ている」と橋本夕紀夫さん。よく出来た映画は、ストーリーよりも俳優の魅力にどんどん引き込まれていく。映画のセットや物語は、それを伝えるための背景となる。クラブの場合も、キャストをいかに魅力的に見せるかが大切。最初の2、30分は空間がゲストに影響を与えるけれど、そこから先はキャストに集中して物質感が失われ、特異な空間であってもゲストの意識から遠のいていく。そこに本当の意味の非日常があると感じるそうです。
2階の部屋は天井一面に900個もの花形の照明器具を取り付け、ミラーを使って見渡す限りの花畑を表現しています。
土蔵の中は静かなVIPルーム。全体を黒で統一し、天井から雲海をイメージした光ファイバーを吊り下げています。
空間デザイン:橋本夕紀夫(橋本夕紀夫デザインスタジオ)照明デザイン:武石正宣(ICE都市環境照明研究所)西陣織・刺繍:斉藤上太郎(三才)京都市東山区富永町139番1 TEL.075-533-6688
「MUSERVA祇園」の向かいにある「ゆめうつつ」。壁は水の流れを表現した西陣織。天井に1万個のクリスタルビーズを吊るし、天地逆転した枯山水を表現しています。西陣織や鯉の刺繍は斉藤上太郎さん。エントランスには三角形のアルミチップを4300枚も吊り下げ、フルカラーのLED光を制御して、様々な色に変化させています。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
味噌づくり、麦踏み体験と F1種
先月後半、埼玉県小川町で有機農業を営む「横田農場」の
「手前味噌づくり会」に初めて参加しました。友人でもあるT社長が経営する IT企業の社員厚生メニューの一環で、年に数回、田植え、稲刈り、収穫祭など農業体験を行っています。7〜8年前から「来てください! 楽しいですから是非!!」とお声掛けいただいていました。味噌づくりの主役はもちろん大豆で、今回は「青山在来種」という地元の素材です。
以下「横田農場 ー 小川町」2014.8月Facebook引用この赤花の大豆は、青山在来大豆です。先日掲載した青山在来大豆の写真は白い花でした。実は、青山在来大豆には花の特徴が 2種類あって、赤花と白花両方有るのです。白花は粒が大きめで、胚芽が薄い茶褐色をしていますが、赤花は粒が小柄で、胚芽が白色をしています。
大豆を大鍋で煮てから、臼と杵ですりつぶします。
元々、先代から受け継いだ当初は赤花と白花が混ざっていたのですが、選別を厳しくした事で小柄の赤花の豆が少なくなってしまい、多くが白花になってしまいました。そこで今年は、本来の多様性を取り戻すべく、埼玉県の農業振興センターの協力で赤花の青山在来大豆を選抜してもらい、畑の一部で赤花の青山在来大豆を栽培しています。来年は、赤花の種を混ぜて、本来の多様性を取り戻せればと思います。(引用以上)
■味噌作りのプロセス味噌づくりは意外にシンプルなものでした。材料は大豆、米麹、塩のわずか3種類ですが、造るための道具立てが大変です。この日は大人数の参加だったため、大きな欅の臼と杵が登場しました。先ず一晩水につけた大豆を大きなお釜でゆっくり煮ます。臼を熱湯で消毒して、そこに柔らかく煮た大豆を入れて杵で暖かいうちに豆の形が無くなるくらいまで丁寧にすりつぶします。臼の周りを回りながら、腰を入れてリズミカルに豆をすりつぶす力技は男の仕事です。そしてアルミの大きいボールなど、混ぜ合わせる容器を熱湯か焼酎で消毒して、そこに臼から取り出した大豆をいれて、同量の米麹(麹をこんなに入れるとは想像外でした)とたっぷりの塩を加えて手でよく混ぜます。材料が一塊になるぐらいにまとまるよう、大豆の煮汁で硬さを調整します。密閉できるプラスチック製など仕込み容器(お味噌を熟成させるため保存するもの)に味噌ネタを平らに詰めてなるべく空気を抜き、ネタが見えなくなるぐらいたっぷりの振り塩を掛けて、密閉蓋をして持ち帰りました。7ヶ月から1年で食べられるそうですが、待てるなら一夏越したほうがより美味しくなるということでした。ほんの1kgほどの少量ですが果たして「手前味噌」といえるようなものが出来るでしょうか、新しい楽しみが加わりました。
■ 麦踏み体験大豆が煮えるのを待つ間に、近くの麦畑に移動し初めての麦踏みをしました。ご存知のように地面に半分埋まった麦の芽を踏圧することで、根のはりが良くなり耐寒性が上がること、また霜柱等による害を防ぐためです。低い畝に沿って横移動しながら、あしゆびの拇指球当たりに
つぶした大豆に塩と米麹を混ぜ、硬さを調整します。来年に向けた、在来種たね採り用の株。
体重をかけて、まだ低い麦の若芽を丁寧に踏んでいきます。移動距離は短いのですが何本も畝を踏みしめると結構疲れます。一見単純な作業なのですが、慣れないつま先側への荷重のままで、踏み残しの無いようにカニ歩きするのは思いのほか大変でした。いかに日頃体に負荷を掛けていないか痛感です。
■ 在来種のたねと F1種のたねこの麦畑の入口付近に「ここは踏んではいけません」と言われた場所があります。そこは来年植える麦以外の在来種のたねを採るための場所でした。寒さの中、元気そうな株と枯れかけている株が見えます。ここは地域環境に合う良いたねを採るための、サバイバルゾーンとも言えるところです。何年もの時間を掛けてこの農園で行う有機農業に最適の、また生物多様性を尊重した、いわゆる「在来種」を育てています。
「在来種」とは、外来種や帰化生物、人工的に作り出されるF1種(First filial generation、雑種第一代 )などの対義語として使われます。環境省のアセスメント用語では「ある地域に従来生息・生育している固有の動植物をいう。外来種、外来生物、帰化生物に対して用いられる。一般的に、自然の回復には気候風土に合っているこれらの種類を用いるのが良いとされる」とあります。農水省は「生態系等に係る被害の防止に関する法律」の中で「元々その地域に自然分布していた生物」「元々日本に生息していた生物たち。それぞれの地域生態系の一員である」としています。またもう一つ「在来種」を含む「固定種」という概念があります。これは先に述べた F1種の対義語で、以下の様なものを指します。 ●代々、長く受け継がれているたねのこと。形や味が「固定」されている。 ●このたねを植えると、前と同じものが取れる。この中から良いたねを選んでまた植えて収穫できる。 ●収穫物の形や大きさが不揃いで、大量に出荷できない。 ●野菜本来の味がする。などです。これに対して「F1種」は ●固定種のたねに、国外のたねをかけ合わせてつくられる。 ●一度植えた F1種から採れたたねを植えても同じものは出来ない。そのため毎年、たねや苗のメーカーから購入しなければならない。 ●一代に限り形や大きさが揃うので大量に生産できる。 ●育つ速度が早く細胞が粗いため大味になりやすい。などの特性があります。
もうお分かりのように、F1種は大量生産用の特殊な「たね」
カニ歩きしながら麦を丁寧に踏んでいきます。沢山の人がもくもくと麦踏みに参加。
なのです。F1種は 40年ほど前から世界各地で導入が始まり、多くの人々を飢餓から救いました。ところが大きな問題も同時に起こったのです。この種を使えば短期的には大きな収穫を得られますが、長期的には土壌の劣化が起こります。
「F1種」と「化学肥料」と「農薬」が近代農業を成り立たせた要素です。F1種は早く育つために多くの肥料が必要です。多くの肥料を撒きますと雑草もよく育ちますので、これを防ぐために多くの農薬が土壌に投入されることになります。
アメリカの農業を変えたと言われるレイチェル・カーソン著「沈黙の春」は1962年に書かれ、1964年に日本語訳されています。10年ほど前に読みました。農薬が世界の土壌を危機に陥れる恐れが克明につづられています。食料大量生産がこのまま進むと、思想や政治力だけではなく、たね製造会社が方法によっては世界を牛耳ることができるのではと、このところ感じていました。
今回の小川町「横田農場」訪問で自分の実感を確認できました。真摯に有機農法に取り組む若い農家さんを今後はもっと応援します。日本列島は生物多様性のホットスポットとして世界に知られているのですから。
昭和34年には村野藤吾の設計による「佳水園」、翌年に新館(本館)がオープンしました。近代数寄屋の傑作として知られる佳水園は本館の上にあり、ロビーからエレベーターに乗って7階からアプローチします。
佳水庵は元々、大正期の政治家で総理大臣もつとめた清浦奎吾の別荘「喜寿庵」でした。庭園は大正15年(1926)、七代目小川治兵衛の長男・白楊(はくよう)によって作庭されました。白楊は石の使い方に優れていましたが、喜寿庵の完成とともに、44歳と若くして亡くなっています。斜面に露出した岩盤を生かし、2本の筋をつけた滝から池に向かい水が流れます。自然の松を生かしながら、イロハモミジやアセビ、サツキを配置するなど、小川治兵衛とはまた違った造形感覚があります。清浦は山縣有朋の側近として取り立てられた人物で、山縣と同様に自然をできるだけ活かした庭を要望したようです。
清浦の没後、別荘は都ホテルに寄贈され、村野藤吾により佳水園が設計されました。
白砂の庭は。豊臣秀吉によって作庭された醍醐三宝院の庭をモチーフとしています。瓢箪は秀吉の馬印である徳利、円は盃、せせらぎはお酒を表現しているそうです。
薄くシャープな屋根のラインを描くため、村野藤吾は数寄屋に鉄骨を取り入れたそうです。
客室数は20室。畳敷きの和室で、寝具にはフトンが用意されています。
こぶ
よろCOB HOUSE
鈴木 惠三 BC工房主人
「土の家」 COB(コブ) HOUSEを作り始めた。たぶん紀元前からあった家づくりの原点じゃないかな?
「ふじのリビングアートギャラリー」の庭にたてた
グランピングの大型テントが雪の重みで壊れてし
まったのだ。
月
日から
日の大雪で ……。
どうしようか? と考えていた時に出逢ったのが、マークさん。オーストラリアからやってきた変な外国人。ふじのにいるアメリカ人ナギさんの友人だ。ふじので COB HOUSE=土の家を作りたいと、土地を探していた。壊れたテントの跡地に、土の家をマークさんと一緒につくろうと思いつく。思いついたら攻めの行動力がオイラの命。マークさんの論理的思考とオイラのいいかげんカンタン化思考を MIXしながら、現場に突入してしまった。またまた迷惑を受けているのが、スタッフの皆かな?
毎週
回、
時間は「ドロ遊び」だ。
ドロだらけになって土を混ぜ、コネ、壁に積み上げる単純作業だ。オイラは何でも皆でいっしょに作るのが好きだ。
1
23
25
1
3
ひとりで単独でやるんじゃなく、皆でいっしょにやる。小さな 10C工房のモットウでしょうか。
B
3月、 4月の 2カ月でなんとかカタチを作り上げたい。小さな「土のギャラリー」の第 1号である。そして、ふじのにギャラリーを カ所作るのが夢だ。今は カ所くらいあるけど、もっともっと増やすのだ。アーティストの皆が、それぞれ自分のギャラリーを作り始めたら、
「ふじの」がホントウに芸術の街になれるんじゃないかな?
などと思っている。50
ひとりひとりが自分のアトリエ兼ギャラリーを作り、
移り住んでもらいたい。
作るモノ、表現するモノは何でも多種多様。
あれこれ、いろいろ、とんでもないが、いいんじゃないかな。
プロだけじゃなく、アマチュアもがいい。日本の芸術、アートとい
うワクを超えるのが「ふじのミニギャラリー運動」だと思っている。
デラックスな建築の公共美術館じゃダメなんだ。
芸術、アートを文化権威の象徴にしてちゃ、なんにも生まれない。
表現したい人間が、ふつうに表現する場が、ミニ・ギャラリー。
ミニ・ギャラリーは、お茶コミュニケーションの場。
うれしいコミュニケーションが生まれ、コレクターが生まれ、
アートの根本が生まれる。
大きな喜びが生れそうな「よろ COB HOUSE」だ。
むり
んあん
京都・東山山麓に広がる南禅寺周辺は明治新政府によって接収され、明治23年(1890)の琵琶湖疏水開通にあわせ工業団地として開発される予定でした。今も稼働中の水力発電所や蹴上インクラインは、当時の名残です。実際には京都市の風致地区となり、政財界人による「南禅寺別荘群」(對龍山荘、碧雲荘、何有荘、有芳園、流響院、清流亭、無燐庵、真々庵、洛翠など)が形成され、琵琶湖疏水の豊かな水を利用した日本庭園が作られました。
無心庵の主は、日本陸軍の基礎を築き「国軍の父」といわれた元老・山縣有朋でした。東京の「椿山荘」(明治11年)や小田原の古稀庵(明治40年)など、山縣は庭に情熱を注ぎました。
園内には簡素な木造2階建の母屋と茶室、煉瓦造2階建て洋館の3棟が建っています。山縣有朋が目指したのは、伝統的な庭園にしばられない自然風の庭園。苔の代わりに芝生を張り、岩石にはシダ、高木にはモミを植え、常に水の流れる小川を作るなど、東山の借景を中心に導き出された地割とともに、細かな点まで山縣自身が指示を与えていたと推察されています。造園当時の古写真には、うっそうと繁った木々や、野原のように芝や草花が育った景観が残されていて、奇兵隊から陸軍のみならず政官界の大御所へと登りつめた人物らしい野趣あふれる美意識が感じられます。山縣有朋は庭の美しさについて……名も知らない草の花が咲くのが素晴らしい。カワセミが魚をうかがう様など見どころが多い。春は夜がすっかり明けた山の端の景色。夏は川と野に曇りなく澄む月のすがすがしさ。秋は夕日が華やかに射した紅葉のかをり。冬は比叡山の雪が窓に落ちてくるような感じ。特に雨の日の美しさは奥行きが深い。と書いています。
山縣有朋((1838〜1922年)は長州藩に生れ、高杉晋作の奇兵隊で活躍。明治政府の軍政家として手腕をふるい、内務大臣、内閣総理大臣、元老、枢密院議長、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長を歴任。幅広い人脈は「山縣閥」と称され元老中の元老として影響を与えました。
無鄰菴は京都市の所有ですが、指定管理者である植彌(うえや)加藤造園によって運営・管理されています。同社は160年の歴史をもち、南禅寺の庭園や別荘の庭も手がけています。庭を手入れする植木職人のレクチャーや季節のお茶会など、四季折々のイベントが好評です。通常の公的な庭園管理は、年度ごとに競争入札が行われ、単純な枝切などに終始してしまうことが大半でした、そこで京都市は平成19年からプロポーザル入札制度を導入し、管理に対する考え方や方針をまとめた報告書を提出させて、管理を委託する方式に移行しました。加藤造園は、この庭に対する山縣有朋の心境を汲み取った維持管理を目指しているそうです。生長しすぎた外縁部の樹木を選定し、東山を見えやすくしたり、芝生空間の野花を大切にするため、種類や開花時期を把握して手作業による芝刈りを行ったり、山縣有朋が愛した情景を思い浮かべながら、失われていた庭のコンセプトを再構築する仕事が続けられています。
蔵のような作りの洋館2階は、江戸時代初期の狩野派絵師による「金碧花鳥図障壁画」で飾られ、格天井には花が描かれています。日露戦争開戦前の明治36年(1903)4月21日には「無鄰菴会議」と呼ばれる会議が行われました。元老・山縣有朋をはじめ総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎が集まり、南下政策をすすめるロシアへの対抗策が話し合われました。家具も当時のものが残されています。
第5信川津陽子メッセフランクフルトジャパン
ヨーコの旅日記2月を猛ダッシュ
1月に引き続き、2月もドイツ・フランクフルトへ行ってきました。世界最大規模を誇る消費財見本市「アンビエンテ」への出張です。
「アンビエンテ」は、89カ国・地域から 4,400を超える出展者、153カ国・地域から13万人を超える来場者が一堂に集う大型の B to B見本市で、日本からも 86の企業・団体が出展しています。私たちがホール11.0 Loftにて展開している『Japan Style』は、本開催でちょうど 10周年を迎えました。
『Japan Style』は、海外市場への販路拡大を目標に掲げ、伝統とデザインが融合した付加価値の高い日本のモノづく
▲ブースを設営中のドイツの職人さん。
▲ メッセフランクフルト ジャパンのブース。
▲キャビネット内の分電板の向こうに……。職人さんの遊び心になごみました。
▲Japan Style10周年記念として、出展者のマルアイに製作いただいたメモノート。
▲アンビエンテの会場から。消費財の最新トレンドを紹介した「Trends2018」。
りを世界に発信しようと、2009年よりスタートした出展プロジェクト。現在は国内でも展開しています。今年は 14社の皆さまにご参加いただき、我々メッセフランクフルト ジャパンも初めてブース出展しました。
『Japan Style』に毎年足を運んでくださるバイヤーやデザイナーの方々、今後日本との取引きに関心のある方々、アンビエンテの出展検討のために日本から視察にお越しいただいた方々、そして他ホールの日本の出展者など、さまざまな方々にお立ち寄りいただきました。とは言え、ブースへの集客は容易ではないですね。さまざまな工夫が必要なのだと改めて身に沁み、開催初日から反省点ばかり。周りの出展者さんの来訪者へのアプローチの仕方や、来場者の動線や動向など、実際にブースに立ってみたからこそ見える景色が非常に新鮮で、大変貴重な経験となりました。初出展の方々から、10回目の出展となる方々まで顔ぶれはさまざまですが、搬入日を含めると、ほぼ 1週間、毎日顔を合わせ、朝から晩まで同じ時間、同じ空間を共有するからなのか、出展者さん同士の繋がりや連帯感の強さを毎年感じます。「Japan Style」や「アンビエンテ」に限らず、
「海外にモノ・アイデア・技術を売る」という強い共通の志を持った人たちが日本から遥々遠い外国でひとつ屋根の下
▲フランクフルト中央駅構内のカフェでの朝ごはん。
▲アムステルダムの風にたなびく、TIME & STYLEのショップフラッグ。
▲国の歴史保護建造物に日本の杉玉や行灯が調和した心地よい空間。
▲見慣れた家具がアムステルダムの歴史建築に並ぶ不思議な光景。
▲1800年代の建物が、不動産物件として当たり前に利用されています。 ▲B1Fは目の前に運河が広がり、ゆったりとした空間。
に集結し、真剣に商売に向き合われる姿に、毎回感動を覚えます。アンビエンテに携わる多くの方々のご協力のもと、今年も無事に会期を終え、翌日から1泊 2日のオランダ・アムステルダムへ。朝のフランクフルト中央駅構内のカフェで、今出張最後のソーセージ、パンとカフェラテを悠長に堪能していましたが、事前にオンラインで購入したチケットの見方がいまいち解らず、最後はスーツケースを引きずりながらホームを猛ダッシュし取りあえず一番近い車両に飛び乗るハメに……。バタバタ・ヒヤヒヤしながらも列車は出発。ドイツ鉄道(DB)の高速列車 ICEでフランクフルト中央駅からアムステルダム中央駅までは、直行便で約3時間半。久々の ICEの旅に心躍るも束の間、一週間の疲れが祟ったのか、ほぼ終止爆睡状態。あっという間にケルン、デュッセルドルフを通過し、アムステルダムに到着。駆け足状態で、TIME & STYLEのアムステルダム店にお邪魔しました。もともとはアムステルダム市の警察署でオランダ国の歴史保護建造物に指定されているという煉瓦造りの店舗は、写真では拝見していたものの想像を遥かに超えるスケールで、店内に入る前から目の前に広がる外観と、風に力強くなびくショツプフラッグに圧倒されました。地下 1Fから 3Fまで、4層から成る 900㎡もの壮大な空
▲「ロイド・ホテル」。戦時中にユダヤ人収容所として使われた建物を、オランダの建築家集団MVRDVがホテルに改装。文化・芸術の拠点としてさまざまなイベントが開催されています。
▲カーテンやブラインドを使わない大きな窓の建物が印象的でした。
間が広がります。東京のショップや見本市でのブースで幾度となく見たことのある家具やテーブルウェアが、この歴史ある建物の中に並ぶ光景にとても不思議な感覚を覚えました。と、同時に土地は違えど、東京の TIME & STYLEショップと同様の馴染感もあり、居心地の良さを感じました。遠いこの地に住む人々がこのショップで商品を手に取り、家に持ち帰り、日々愛用したり大事な人へプレゼントしたり……アムステルダムのさまざまな生活空間の中に根ざして行くのだなと、勝手に想像してテンションが上がりました。
翌日は、年に一度アムステルダムで開催される日本のクラフトやデザインプロダクトに特化した展示会「MONO JAPAN」へ。ファウンダーの中條さんにお取り計らいいただき、オープン前に少しだけお邪魔させていただきました。会場である Lloyd Hotel(ロイドホテル)の特性を活かして、テイストが丸っきり異なる各部屋が各出展者のブースとなっており、ドアを開ける前のドキドキや、ドアを開けた瞬間に目の前に広がる美しい出展商材との出会いはもちろん、空間とのシンクロも非常に魅力的な展示会でした。もっとゆっくり拝見したかったのですが早くもタイムアウト……。ただでさえ短い 2月を猛ダッシュした感じですが、とても貴重な体験をした 1カ月となりました。
京都の花街(かがい)には、祇園甲部,宮川町,先斗町,上七軒,祇園東があり,五花街とよばれています。かつて京都一格式の高い花街といわれた「島原」は、京都駅からも近く西本願寺の西側にあたり、正式には「西新屋敷」といいました。遊興だけでなく、和歌や俳諧など文芸も盛んで、江戸中期には島原俳壇が形成され、幕末には新撰組や勤王の志士達の舞台となりました。明治以降は次第に寂れ、現在は「角屋」や「輪違屋」、島原大門(おおもん)が往時の名残をとどめています。
1830年代、歌川広重の島原大門。今も残る見返りの柳が描かれています。現在の大門は慶応3年(1867)に、高麗門として立て替えられたもの。
島原周辺は住宅街となっていますが、どことなく花街を感じる建物が残ります。奥は西本願寺。天正17年(1589)、豊臣秀吉は二条柳馬場に遊女をあつめた花街を許可します。それが六条新地(東本願寺北)に移され、さらに江戸時代、寛永18年(1641)に移転を命じられ、その騒動が島原の乱(1637)を思わせる所から「島原」と呼ばれたといわれます。
置屋として元禄元年(1688)に創業の「輪違屋(わちがいや)」。今は置屋兼お茶屋として島原で唯一営業しています。浅田次郎『輪違屋糸里』の舞台であり、太夫の養成も行っています。
島原には劇場もあり老若男女の出入りが自由で、花街の女性達も手形があれば自由に門の外へ出られたり、他に比べ開放的だったといわれます。島原の太夫の最高位は「こったいさん」と呼ばれ、高い位をもち、公家や大名を相手にしていました。茶道や琴、唄、書道、香道、華道、詩歌、古典遊び(貝合わせ、囲碁、盤双六、投扇興など)に通じ、お茶会や歌会も頻繁に開いていたようです。明治になって公家や武家が江戸へと移転すると、花街の中心は祇園などへ移りました。
最近の島原は、町家や旅館を活用したカフェやクリエイターのショップなど、情報発信の場として注目されています。「糸でつながる33mのマーケット『 itonowa』(イトノワ)」は2軒の町家を改装した文化交流スポット。代表の村田敬太郎さんを中心に企画が進められ、京都市の「空き家活用×まちづくり」モデル・プロジェクトに採用されました。
入り口のカフェ「GOOD TIME COFFEE」の他、ブティックやアンティークショップ、ギャラリーなどが集合しています。町家の再生を得意とする「日暮手傳舎」によって設計されました。
2棟をつなぐ中庭空間。
フリースペースの和室。
角屋(すみや)は寛永18年(1641年)、島原移転当初からつづく「揚屋」でした。揚屋とは現在の料亭にあたり、宴会場と大きな厨房をそなえ、太夫や芸妓は置屋から派遣されました。
揚屋は、歌会や茶会が開かれる一種の文芸サロンでした。幕末には新撰組や西郷隆盛なども角屋で遊びました。現在は「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開されています。
とにかく、凄いことになっている。世界水準の現代美術の市場が
……。今から6〜7年前、ロンドンの繁華街オクスフォード・ストリートで、ひときわ目立つデパート「セルフリッジズ」のディスプレイに目が釘付けになった。交差点に面した角、一番目立つウィンドウの内部が、赤と白の水玉模様で溢れ、そこに同じ模様の長いドレスを着た、朱色のボブヘアの女性の等身大の像が立っている。このど派手なディスプレイは一体 …アッこれ、草間彌生だ! 店内にも水玉模様の傘や風船が吊り下げられているのが見えたので、これに引かれて中に入って驚いた。そこは、ルイ・ヴィトンの売り場だったのだ。どう
して、ヴィトンが草間彌生? その前年、ニューヨーク西
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りのビルの前で、村上隆の作品であるオブジェに遭遇した。重量感のあるマンハッタンの摩天楼群に拮抗する力感溢れる作品で、作家の力量を見る思いがした。氏もまたルイ・ヴィトンのバッグをデザインしていることを後に知った。高級ブランドと前衛美術の融合。これは当時起きつつあった現代美術をめぐる市場環境の劇的な変化を象徴するひとコマだったのだ。
品が現代作家としては記録破りの
8千万ドル(
85
億円)で落札され
回)。この頃、欧米
の現代美術市場において一部の現代作家たちの作品は、その十年前には考えられない異様な高みへと高騰しつつあった。その、ほんの一握りの作家群の中に、上記 2人の日本人作家が含まれていたのだ。こうした現代美術作品の異様な価格高騰は、2008年のリーマンショックの後、本格化する。僅かここ十年の間に起こった驚くべき変化だ。一体何が背景にあるのか。
今、世界の高額美術品市場は、圧倒的に現代美術、それも現存作家
人前後の超高額作家群に、収集家
資家)の目が集中する。その作品の買い手は誰か。投資銀行幹部、ヘッジファンド運営者、 IT長者、世界規模の不動産開発業者、お金のうなる中国の大金持ち、ロシアの怪物実業家、アラブの王族、さらには、インド・メキシコ・インドネシア等々の新興財閥たち。いずれも一代で巨額の財を築き上げた人々が中心だ。グローバル化した経済のおかげで、彼らは短期間に旧財閥を越えるほどの富を築き上げ、その余力を以て、時に有名美術館の年間購入予算を軽く凌駕するほどのマネーを現代美術作品に注ぎ込む。このマネーの奔流が、今の現代美術市場の「活況」を支えている。彼ら収集家(投資家)は英語圏の現代美術市場で「メガ・ディーラー」と呼ばれる幾つかの巨大画商と、サザビーズとクリスティーズに代表される巨大オークションハウスを
丁目あた
(投通じて作品を購入する。例えば、こんな風にして。
パリ郊外ル・ブルジェ空港。プライヴェート・ジェットが多く寄港するこの空港の一隅に、現代のメガ・ディラーを代表する存在であるガゴシアン・ギャラリーの展示
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施設がある。広さ約 500坪。なぜそんな場所に? 自家用機で世界を飛び回る顧
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客が、飛行機を降りたその足で、お目当ての作品が見られるようにとの配慮からだ。2012年 月 日、この会場のオープニングを祝して、現代の超高額作家を代表する一人である、ドイツのアンゼルム・キーファーの個展が開催された。作品の重々しい世界とは裏腹に、時に自身の個展会場にヘリコプターで舞い降りることがあるという、ロックスター顔負けの超人気作家だ。この夜シャンパン降り注ぐ祝宴個展に招かれたのは、財力の大きさと美術パトロンとしての大物ぶりを競い合う、世界のセレブ
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250人。この後、新しい美術市場を動かしていくことになる立役者が勢揃いしている。
アルメニア系移民の に親しむ環境があったわけではない。 UCLAで英国文学を学び、卒業後は人生の目標定まらず、スーパーや本屋など様々な職種を転々とする。やがて、アート系のポスターを売る仕事を始め、 1976年に至って店舗を借り、有名写真家のオリジナル・プリントを手始めに、徐々に現代美術作品も扱い始める。以後の大飛躍は伝説的で、今では、
この画廊の創立者ラリー・ガゴシアン(1945年生)は、ロサンゼルス育ちで
代目。決して裕福な家庭出身ではなく、子供の頃から美術品
西欧ルネサンス食卓絵画から探る食文化
早稲田大学エクステンションセンター中野校5/23、5/30、6/06、6/13、6/20第1回中世の「食」。スパイスの重要性。水曜日 10:30〜12:00計5回
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NYC5店、ロサンゼルス、ロンドン
店、パリ2店、ローマ、スイス2店、アテネ、そして香港にギャラリーを構える世界屈指の現代美術画商だ。未婚で子供なし。恋人の話題には事欠かないが、仕事の鬼だ。
ガゴシアンと競うほどの現代美術のメガ画商は十指に満たない。その多くが、伝統的な画商とは無縁の環境から誕生していることは注目に値する。これら画商同士の闘いは熾烈を極める。特に、専属アーティストの引き抜き合戦が凄い。多くの場合作家は、有名になるまで支えてくれた画廊に数年恩返しの後、メガ・ギャラリーの専属となる。無論、移籍時にしこりは残る。が、超高額作家ともなれば、古巣では世界規模で買い手を見つける力に限りがあるのだ。一方、2大オークションハウスが、最低落札価格保証を付けて、画廊の顧客や作家本人から作品をかき集めてオークションを行う、という新たな動きも日常化しつつあって、メガ画商も油断できない。
作家は作家で、こうした動きをにらんで戦略的に作品の方向性を定め、自身のカリスマ性を保つことに腐心するアンディ・ウォーホールと化す。同時に、高級ブランドと組むことで、メガな世界への拡散が行われ、ブランドはこれを「我が社の製品はアートそのもの」というイメージ醸成に役立てる。一作品数億〜数十億という世界であるだけに、他にアート金融、批評家・研究者、メディアを巻き込んで、ドラマのような世界が今、現代美術世界の頂点で繰り広げられている。絵よりもむしろ人間が、面白い。
第2回仏・伊・英の宮廷料理対決。第3回職人の食、教会の食、イスラムの影。第4回時祷書に描かれた農村の四季と食。第5回シェークスピアに見る食。詳しくは左下のリンクへ
『平家物語』のなかでも秘伝といわれる「潅頂の巻」。後白河法皇が大原に隠棲する建礼門院を密かに訪ねる物語です。かつて法皇が辿った京都鞍馬街道から静原〜江文峠を越えて大原草生の里へ。
大原バスステーションからの道は、三千院方面と寂光院方面に分かれます。今回は田園風景の美しい寂光院の小道を歩きます。文治 2年(1186)後白河法皇は、まだ暗い夜道を少ない供を連れ寂光院に向かいました。
寂光院へ向かう道は「大原女の小径」と名付けられています。京都の町で炭や薪、柴を頭に乗せて売り歩いた大原女は、古くから京都の風物詩として知られました。他にも高雄女(たかおめ)、中郷女(なかがわめ)などもいて、木材や食材、花など品物も違ったようです。応仁の乱(1467年)以降、女性の社会進出がすすみ「洛中洛外図」にも働く女性達の姿が描かれています。
忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや ゆきふみわけて 君を見むとは
在原業平(平安初期)
炭竈の たなびくけぶり 一すぢに 心ぼそきは 大原の里
西行(平安後期)
大原は木地師の祖といわれる惟喬親王(これたかしんのう)隠棲の地であり、比叡山を逃れた僧侶も多く暮らしました。
け
こりつめて 真木の炭やく 気をぬるみ 大原山の 雪のむら消え
和泉式部(平安時代中期)
『平家物語』で知られる壇ノ浦の合戦。我が子・安徳帝と共に身を投げた建礼門院・平徳子(清盛の娘)はひとり助けられ、文治元年(1185)から寂照院で平家一門の菩提を弔います。
早朝、後白河法皇が寂光院を訪ねたとき、建礼門院は花摘みにでかけ留守でした。女院の庵は本堂左手にあり、阿弥陀三尊像の御座する仏間と、竹竿に衣や紙の寝衣をかけた寝所。かつては栄華をほこった暮らしのかわりように法皇は涙したそうです。花摘みから戻った建礼門院は、法皇の突然の御幸をみて戸惑います。法皇が詠った汀の池が残されています。
豊臣秀頼から贈られた手水。
庭園には建礼門院の庵跡などが残されています。一門を破滅へと追いやった法皇を前に、女院はその一生を「六道輪廻」(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)にたとえて語りました。
平成12年におきた放火事件により、桃山時代に建立された本堂が焼失。本尊の地蔵菩薩は黒焦げになりながらも形をとどめ、像内に納められた3千体以上の小地蔵尊や経文などが守られました。地蔵菩薩は樹脂硬化処理され、収蔵庫で永久保存されています。
内田 和子
つれづれなるままに
年明け、恒例の舞妓さん撮影会の日程が知らされた。2月中旬、祇園の歌舞練場の庭とある。寒さが続きクシャミもおさまらないので、申し込みをためらっていたが、去年の撮影後の講評会で「構図がいい」と、褒められたのを真に受け、その後の写真展にも欲を出し参加することにした。2回目となると要領も得て先生と雑談もできる。舞妓さん撮影会だけは外さないという方や、顔馴染みの方もいた。去年は男性が多かったが、今年は女性が多い。私を含め年配が目立つが、皆さんいいカメラをお持ちなのには驚いた。旅行が好きで風景を撮っている方、育てたバラを撮りたくてレンズを二本も買った方。それぞれ始めたきっかけは異なるが、撮影時の身の乗り出し方は半端ない。歩く時はおばさまそのものだが、カメラを構える時、背筋はピンとして一歩二歩と前に出る。モデルの舞妓さんより、そちらの姿に圧倒される。
去年700枚だったが今回は260枚しか撮れなかった。時間はあっという間だったが、どうもイマイチ乗れていない。その理由はなんとなく自分でもわかっていたが、それは口に出してはいけない気がしていた。講評会までは ……
聞けば、昨年の舞妓さんは、超がつく売れっ子舞妓さんだったそうだ。
傘を広げる所作、裾をあげる手つき、肩を落とした後ろ姿、襟足のほつれた髪を直す指先、どこを取っても美しい絵になる。自然とシャッターを押していた。初めての撮影会だったが、これが舞妓さんの姿だと思っていた。今回もその美しい所作に期待した。置屋のおかあはんと一緒に会場に着いたのは、10代の若い舞妓さん。可愛らしいがまだあどけなさの残る現代っ子である。お辞儀の仕方から違う。セッティングしたプロマメラマンの先生が何度もポーズを指示するが、どれもぎこちない。表情も硬く、色香が漂うということは残念ながらない。写真の枚数が少なかったのは、気後れしたばかりではない。前に出ても撮りたいという気が起こらなかったのである。講評会に3枚選ぶのは前回と同じだが、何度見ても出したいのがない。真ん中にドッカと配置した構図はダ
京都の旅
メと。と言われていたが、ズームで撮ったものは、みんな真ん中、ピンボケで面白くないものばかり。朝からピーカンでお白粉を塗った顔には光があたりすぎて、ちょっとした顔の向きも影が入ってしまう。それも気の毒ではある。先生が陽射しが柔らかい木陰や、障子の明るさを背景に場所を移すが表情は硬い。「肩を落とす」という仕草も踊りが身体に染み付いていないとわからないらしい。これには先生も相当参ったようだ。
講評会、全員揃ったところで、「今日の舞妓さんは色気がなくて困った」と、開口一番。私が言ったのではない。プロカメラマンとして舞妓さん、芸妓さん、女性もたくさん撮っている。カメラを向けて品を作る所作を実演する。男性でも色気がでてくる。昔、長谷川一夫が多くの女優に所作や目の流し方を教えたという話を思い出した。そうか。色気がないと感じた私の評価は間違っていなかった。と思いながら、それぞれが選んだ写真がテレビに映し出され、講評会が始まった。
同じところで同じ舞妓さんを撮ったのに、こんな表情あった?この場所は?と思うことしばしば。一人ひとり選んだ理由を発表しながら、先生から講評を受ける。
舞妓さんと同じ歳の娘を持つ方は、優しい母親の眼差しで恥じらいのある姿を撮っている。
花でも咲きはじめが大事と、初々しさを応援する気持ちで撮った方の写真は、可愛らしい笑みがこぼれている。私は最初に、色気がないなぁ〜と感じたまま「その仕草何とかならないの?もっと勉強しなさいね」という目線で見ているので、背伸びをして無理に作った顔が多い。撮影最後に「お疲れでしょうが少し笑ってください」と言って撮った写真は、どれも顔が引きつっていた。それを先生に言うと、写真は自分の気持ちを相手にどれだけ近づけるか。どれだけ会話ができるか。ということと諭される。
若い頃は小さな虫を撮り、今は人や京都の四季の彩りを写真に収めている先生は「花でも虫でも景色も人も、生命あるものを撮っているのだから、撮る相手と楽しく会話ができないと、いい表情を引き出すことはできない」と言う。参加者それぞれが選んだ写真は、色気がない舞妓さんにも愛嬌のある豊かな表情がたくさんあった。反省すること仕切りである。歳をとったらまずは優しくならないと、と自分を恥じた。 (つづく ……)
フジヨシブラザーズによる壁画「老梅図」。
AREA Original FurnitureAREA 15 周年を記念して、南青山3丁目交差点角(元スターバックス)に、厳選したオリジナル家具を集めた新店「 AREA Original Furniture 」がオープンしました。
今年のテーマは「GLAM」。チェアやキャビネット、テーブル、ソファなどオープンと同時に新作家具も発表されました。
AREAらしさを感じさせる密度の高い空間。飛騨産業とコラボレートした曲げ木を使った椅子「A-15」も登場。
AREA Tokyoで開かれた 15周年パーティ。乱破(らっぱ)の半次郎に扮した西村華景さん(一世風靡セピア)が、新作のヴェールを剥がすパフォーマンスを披露しました。