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コラージ 4月号 植月 2018
ときには囲炉裏をかこんで
川崎市立日本民家園
昭和42年4月1日に開園した川崎市立日本民家園は、首都圏最大級の民家園として51年目を迎えました。小田急線向ヶ丘遊園駅から徒歩10分ほどの生田緑地にあり、東北、信越、関東を中心に25軒の民家を観察できます(月曜休園)。
高度経済成長期まで、日本の家は職住一体で、農業や漁業、工房、商店、宿屋など、様々な職業を担いました。現在も残る古民家は居住に適した間取りにリフォームされていますが、川崎市立日本民家園の民家は、移築時に建築当初の姿に戻されているため「はたらく民家」の姿をより明快に感じられます。日本の民家研究は大正時代に民俗学とともに始まり、今和次郎などによって、どの地域にどのような民家があるかが調査されました。同時に、家の暗さや囲炉裏の煙、ムシロの床、万年床、家畜との共棲が問題視され、昭和初期に「農村経済更生運動」による生活改善が提言されたものの、戦争によって中断。軍部は徴兵と食料増産に邁進します。戦後「農村生活改善運動」として復活すると、昭和30年代から民家研究も再始動し、大学の研究グループによって民家がくまなく調査され、歴史的な変遷が解明されます。一方、昭和41年〜52年には文化庁の緊急調査も行われました。高度経済成長により古民家が急速に失われるなか、文化庁は各県を代表する民家を数件ずつ選び「重要文化財」に指定。神奈川県では川崎市「伊東家」が民家で最初の指定をうけ、横浜三渓園に移築されることになりました。しかし川崎市内に保存すべきという声が高まり、日本民家園設立のきっかけとなります。当初は100棟近い民家を移築する計画もありました。開園から50年たち、各家で改修工事がすすめられています。三澤家(屋号:槌屋)の耐震補強工事は、構造をオリジナルのまま残すため、土台に免震装置を設置する方法が採用されました。かつて伊那街道の伊那部宿にあった三澤家は、代々組頭をつとめる家柄で、幕末には製薬業で成功。伊那部宿の家は半農半商の間取りが特徴で、町家的な土間「とおり」を設ける一方、「うまや」や囲炉裏のある「おおえ」など農家的な間取りと合わせています。主屋は柱を貫や差し鴨居で固めた構造で、小屋組みを梁と束と貫による和小屋にしています。側面にはその構造が見えます。
三澤家住宅では、江戸時代に多かった石置き板葺き(薄い板を葺き、石で押さえたもの)の切妻屋根が見られます。門構えや式台玄関は瓦屋根として、家格の高さを表現しています。
▲幅の広い大戸口から奥に土間が続きます。
▼ 「かって」(居間)の隣に「ちゃのま」があります。
大戸口を入ると、土間は奥に長いつくり。全体の構成は、寄棟造りの前部に入母屋造りの後部をT字型にあわせた姿です。赤浦屋は、馬と人を一緒に泊めました。福島で開かれる馬市を目指し、南部(岩手)で買い付けた若駒を運ぶ馬喰や馬方を泊めるための宿だったのです。囲炉裏は、土間から基礎を立ち上げ火床を設けた昔ながらの作り方です。
▼馬喰の部屋「じょうだん」には「みせ」から直接入れます。床の間と書院を備え、馬喰の地位の高さがうかがえます。
メッセフランクフルトジャパン
第5信川津陽子
ヨーコの旅日記広州でかんぺい
中国・広州に初めて行ってきました。3月初旬、広州国際オートメーションテクノロジー専門見本市 -SIAF-SPS Industrial Automation Fair Guangzhou
(以下、SIAF展)が開催されました。広州白雲国際空港に降り立った途端、日本の梅雨を思わせるような暑さと湿度感……。
「え……」。地図を見て納得です。広州は中国南部に位置しており香港へも列車で 2時間程度。南亜熱帯海洋性気候なのですね。完全に勉強不足で、肌寒い日本から持ち込んだ誤った服の選択に凹みましたが、3月初旬にして30度近い気温を記録したこの週はそもそも異常気象だっ
▲世話好きの広州支社の役員が、箱買いしてくれたパッションフルーツ。 ▲来場受付登録所は、初日の午前中から長蛇の列。
▲SIAF展の会場風景。
▲滞在したホテル。ユニークな形の建物が目立ちました。
▲中国国内から続々と来場するグループツアー。
たようで、地元のみんなも暑さに戸惑っている様子でした。
さて、見本市について少しだけ。
これまで携わってきた見本市がインテリアや消費財中心であった自身にとって、オートメーションテクノロジーの見本市というのは「技術系」というだけで最初はハードルが高く感じられました。そんなわたしに、とある関連メディアの方は、SIAF展の出展ゾーンや製品を人のカラダに例えて「作業内容をプログラミングして司令を出す側の脳」と「その司令に従って実際に動く手や足」みたいなものですと説
!明くださいました。なるほど
この見本市のテーマは、工場の自動化。クオリティを落とすことなく、いかに効率よく正確かつ安全に生産性を上げられるのか。総人口の減少と高齢化に進む日本にとっては非常に重要なテーマではないでしょうか。中国も状況は同じで、一人っ子政策の影響により 2050年には人口の 3割以上を高齢者が占める超高齢化社会を迎えると言われています。同時に生活水準が上がり、単純労働を好まない人たちも増えているそうです。こうした人手不足や人件費の高騰に対する打開策として、製造強国を目指す中国では工場の自動化が国策として注力されています。SIAF展は日曜日からの開催にも関わらず、初日朝から大変な賑わいでした。家電メーカーの工場が多く集まる広州
▲2人以上でも重労働であろう繊細なガラス板を、素早く安全に運ぶロボットに釘付け。
での開催もあってか、工場で働く従業員を率いるツアーグループが次から次へと会場に入ってくる様子には勢いを感じました。SIAF展を体験して、今後工場の生産性を維持拡大するためには、技能の伝承はもちろん、ロボットとの連携が重要なのだと改めて感じました。とはいえ、この先自動化が進んでも、やはり人間の脳や手でしか作ることのできないモノづくりが存在します。人の手で造り続け後世に残していくべきもの、ロボットの手を借りるもの、そうした棲み分けが良いバランスで出来たらよいと感じました。そして今回は 3泊 4日の出張でしたが、毎夜何らかの夕食会がありました。会食の席でのお酒は、必ず誰かを誘って飲むことが中国のマナーにあるそうですが、特に SIAF展の主催者であるホスト側のみんなの気遣いはものすごく、数秒に一回といっても大袈裟ではないほど、エンドレスに乾杯は続きました。その度に、「日本から来てくれてありがとう」、「サポートしてくれてありがとう」といった言葉をかけられ、とても温かいおもてなしを受けた感じがしました。そして「干杯(かんぺい)」のルール。中国独特の、乾杯のあとにグラスの中のお酒を一気に飲み干し、相手にグラスの底を見せるか、グラスを逆さにして飲み干したことを証明する「かんぺい」。本来、「半杯」=グラスの半分だけ飲み干す、「随意」=自分が飲みたい量だけ飲むというルールもあるようですが、中国の同僚たちとの間では「干杯」しか聞いたことがありません。そして、「かんぺい」には、「白酒(ぱいちゅう)」というお酒が飲まれることが多いそうですが、ここでは到着から毎晩、赤ワインでの「かんぺい」が続きました(30℃近い気候の中で仕事を終えたらまずはビールじゃないの ?と突っ込みたいところでしたが …… )。特にファミリーディナーと呼ばれるグループ内での夕食会では、今回の主催者である支社の「干杯」が凄まじく、ディナー会場のあちらこちらで数秒に一度は「かんぺい !」の歓声が湧きました。特に若手チームのみんなが、代表をはじめ上司のテーブルに集まっては、(推測ですが)「無事に展示会が開催できました。ありがとうございました」「良くやった、お疲れさま !」というような言葉をかけ合いながらお酒を酌み交わし、そのチームの誰かが上司からの「かんぺい」の標的となるシーンが繰り返され笑いを誘いました。同僚達よ …… 展示会は明日もまだ続くが大丈夫か?と思いつつ、溢れんばかりのみんなの笑顔になんだかとてもほっこりしました。最新技術が駆使され黙々と作業をこなしていくロボットと、エネルギッシュに働き、飲み、笑う同僚たちに囲まれた 4日間でした。 ▲ファミリーディナーも赤ワインで、かんぺい!。
▲到着したその夜から赤ワインで、かんぺい!。
▲ロボットが UFOキャッチャーに挑戦。微動しながら機会を伺う姿は人間さながら。
▲VIPディナーも赤ワインで、かんぺい!
▲ファミリーディナーで、ひっきりなしの、かんぺい!。
江戸末期に建てられた長野の水車です。約4.5m四方の大型のもので、水車の直径は約3.6m。搗き臼を2基、挽き臼を1基、わらはたきの杵を1基設け、米つき、粉挽き、そば挽き、わら打ちに利用されました。長野市郊外の旧芋井地区は、飯縄山の豊富な水に恵まれた山間の村で、水車小屋は「クルマヤ」と呼ばれ、集落全体で、1日交代で共用したそうです。水車の方式は「上掛け式」で、樋で水を導き、水車の上から掛けています。
JR小海線(八ヶ岳高原線)の旧八千穂村にあった名主の家です。千曲川にそった寒さの厳しい地域で、江戸時代には幕府の直轄領でした。家数は159軒、うち117軒が本百姓、42軒が水呑(貧しい百姓)、水田は19ヘクタール、畑は50ヘクタールしかなく、特に副業もないため生活の厳しい村だったと思われます。佐々木家は桁行24.1m、梁行7.3mと格段に大きく、床の間や2間続きの座敷、来客用の風呂や便所も備え、見回りの役人を宿泊させていました。民家としては珍しく家歴が残っています。享保16年(1731)、代官所宛の「新築願」には、屋敷の規模・構造、柱に古材を使うこと、春から着工することなどが記されていますが、実際には届け出よりも規模は大きく、大半は新材で建てられました。その後、寛保2年(1742)に起きた千曲川の氾濫によって移築され、延享4年(1747)には「まえでのざしき」と「おくざしき」(客間)を増築しました。寛保2年8月、千曲川は「戌の満水」と呼ばれる大洪水を起こし、流失家屋140軒、死者248人(流域全体では2800人以上とも)という甚大な被害をもたらしました。村全体が現在の山裾に移転し、それにあわせ佐々木家も移築されます。当時の「普請帳」には、屋根に葺く茅や麻がら、葦などを調達し、解体、運搬、組み立て、壁塗りを、185人以上の村人が手伝ったと記録されています。普請帳は、その後のお返しをするために大切なもので、経費だけでなく協力した村人の名や提供された材料なども記されました。移築の5年後には約10両かけて2間続きの座敷が増築されました。広い土間には「うまや」と「みそべや」があり、その上はロフト風の中2階。兜造りの屋根によって空間を広く、採光をとった仕組みで、寺小屋としても使われました。佐々木家は土地を小作に出して年貢を得たり、養蚕や食料・衣類を扱う問屋、染物屋、昭和初期には乳牛を飼うなど、様々な仕事を担いました。戦後は土木会社を起こして村人を雇用し、今にいたります。昭和の始めまで、佐々木家には10人以上が暮らし、染物職人や作番もいました。豪農の生活は質素で、夜は米を節約するためウドンが定番だったようです。
した「おかって」はダイニングキッチンにあたり、調理や食事をしました。右側に食器などを置いた「ものおき」が見えます。その奥はもうひとつの囲炉裏を備えた「ちゃのま」で、仏壇を置いた居間となっています。従来の民家は「おかって」と「ちゃのま」を一体にしたケースが多く、佐々木家はより現代に近い間取りといえます。その奥には増築部分の「ざしき」があります。
日本民家園に隣接した川崎市岡本太郎美術館。岡本太郎は明治44年(1911)、岡本一平、かの子の長男として、多摩川沿いの旧高津村二子で生まれました。
太郎の父・岡本一平は、書家山本可亭の長男として明治19年(1886)に函館で生れ、東京・京橋で育ちます。父の可亭は「山本山」の看板などで知られる版下(木版や扁額の下絵)の名手で、明治38年には北大路魯山人が内弟子となり生活を共にしました。一方、魯山人よりも3歳年下の一平は、同年に東京美術学校西洋画科に入学。学生生活を謳歌する一平を魯山人は羨ましく見たようです。一平が世にでるきっかけを作ったのは夏目漱石で、大正元年、漱石の推薦で朝日新聞社に入社。「漫画漫文」という独自のスタイルを確立し、昭和4年の『一平全集』(全15巻)は、5万セットも売れるベストセラーとなりました。東京都港区南青山6丁目(旧赤坂区青山高樹町3番地)の「岡本太郎記念館」は、岡本一家が大正15年から暮らした場所で、空襲で焼けた後に、岡本太郎によって坂倉準三設計のアトリエ兼住居が建てられました。かの子は仏教研究家として人気を博す一方、自らの愛人を住まわせ、一平や太郎と奇妙な共同生活を送ります。昭和4年、一家はロンドン軍縮会議取材のため渡欧。壮行会は魯山人の星岡茶寮で開かれ、東京駅には見送りのファンが押し寄せました。岡本家は芸術一家のアイコンだったのです。太郎はパリに10年とどまり、アルプやブランクーシ、カンディンスキー、ミロ、アンドレ・ブルトン、バタイユと交流。マルセル・モースから民俗学を学びます。岡本太郎の代表作大阪万博記念公園「太陽の塔」。岡本可亭、一平、かの子、魯山人と、様々な芸術の血脈が流れているようです。再生事業によって48年ぶりの内部公開(予約制)が始まり、沢山の人が訪れています。昭和30年に南青山のアトリエで開かれた「実験茶会」(茶道誌『淡交』の企画)には、太郎と交遊をつづけた魯山人や、後に万博で協働する丹下健三、芥川也寸志が招かれ、辻輝子の窯を使い太郎によって焼かれた茶碗が使われました。
民家園の「信越ゾーン」には、富山・五箇山(ごかやま)、岐阜・白川郷の合掌造り民家が4軒あり、違いを比べられます。合掌造りは、梁に差し込んだ扠首(さす)を斜めに立ち上げ、合掌する手のひらのように交差させ、頂点に棟木を載せた構造です。和小屋組にくらべ構造材が少なく、束を立てないため屋根裏を作業空間にできます。五箇山や白川では、背の高い屋根裏を2〜4層にわけ、養蚕に利用しました。上階はアマ、ソラアマ、サンガイアマと呼ばれ、床は板張りではなく、舞台のスノコのような仮設的な空間。大規模な合掌造りは建設費用も掛かかり、養蚕のための工業ともいえます。1階はプロの大工が造り、上階や屋根を葺くのは村人の「結(ゆい)」によって行われました。江向(えむかい)家住宅は、屋根の妻側から入る「妻入り」で、正面に茅葺きの庇を設けているため入母屋造り風に見えます。これは五箇山でも庄川沿いの村の特徴で「庄川本流系」と呼ばれています。▲入り口の右側には「うまや」と「みそべや」があります。うまやには藁などを敷いて馬に踏ませ、肥料にしていました。
五箇山は平家の落人伝説が残るほど山深い村落ですが、北陸と美濃を結ぶ重要な街道沿いにあり、紙すきや養蚕が盛んでした。江向家は「田の字型」の四間取りになっていて、土間から見て右側に「おえ」(居間)、左に「でい」(客間)を配置し、それぞれに囲炉裏と火棚を備えます。「おえ」の奥には板壁で囲まれた夫婦の寝室「へや」があり、入り口は敷居を一段高くした納戸構え(なんどがまえ)です。寝室である「へや」や「なんど」は唯一の閉鎖空間で、貴重品なども保管しました。
客間である「でい」には、すのこ状の2階(アマ)にあがるハシゴがあります。その奥に畳敷きの正式な座敷「おまえ」があり、ここだけは板張りの天井が設けられています。さらにその奥には小さな仏間が設けられ、大きな仏壇が襖で隠れるようになっています。やがて「おまえ」と仏間が合わさり、大きな仏間となっていきました。五箇山は浄土真宗の盛んな地で、冬場には親鸞上人の命日に前後してホンコサマ(報恩講)が開かれ、それぞれの家が自慢の料理でもてなし合いました。入り口左側の「にわ」には水屋(みーじゃ)があり、ここでは紙すきも行われました。石製の桶に常に水を流し、カマドで和紙の原料ミツマタや味噌をつくるための大豆を煮ていました。江向家は稲作と畑作を行いましたが、それだけでは成り立たず、男手は冬場の出稼ぎに出かけました。冬場に家を守る女性たちは、繭の糸をつむぎ、紙すきも行っていました。集落の中には、地面に穴をあけて火薬の原料となる塩硝を作る家もあり、加賀藩に秘密裏に納品されていました。右は白川郷の「山下家」。なかは蕎麦屋になっています。左は五箇山・利賀谷の「野原家」。屋根の上にはミズハリを貫通させて、棟がずれないよう押さえ込んでいます。
江向家の「田の字型」4間取りに対して、野原家は「広間型」の3間取りで「おえ」に2つの囲炉裏が並んでいます。「チョンナバリ」と呼ぶ曲がった梁を、左右から掛けているのも特徴です。
奥の「ざしき」は、畳を敷いて天井を張った客間です。背の高い立派な「差し鴨居」が、家の格を高めています。天井が斜めに低くなっているのは、外側の柱に合わせたものです。外側の柱の高さは2.95m、内側は3.85mあり、高い部分は主な構造体である「上屋(じょうや)」、低い部分は上屋に付属する「下屋(げや)」になります。これは限られた長さの梁材に対し、外側に空間を加えることで広くする工夫です。障子の下部には板を張り、雪囲いの圧力に対応しています。
1492年8月3日、コロンブスは3隻の船団を率いて、セビリア
(スペイン)の港町を出帆する。最終目的地はインドだ。航海ひと月
弱でアフリカ沿岸のカナリア諸島に到達。ここは当時既にカスティー
リャの支配下にあって港の設備が整い始めていた。水と食料を補給し、
船舶の修理をした後、 9月6日に島を出港。未知の航路(大西洋)を
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ひたすら西へと船を進める。行けばその先に「インド」がある。そう信じて、途中で真西から西南に進路変更して航行すること5週間。 月 日、ついに小さな島にたどり着き、これをサン・サルバドルと勝手に命名する。後にカリブ海バハマ諸島と呼ばれることになる島々の一部だ。この時コロンブスは、これが「インドのはずれの小島」だと信じていた。「コロンブスのアメリカ発見」ではなく、「インド発見!」だったのだ。
それにしてもなぜ、インド? 「スパイスと宝石が溢れる夢の国インド」だったからだ。胡椒・ナツメグ・シナモン・サフラン・ショウガそしてグレインズ・オブ・パラダイス( GOP)等々の香辛料があふれる理想郷、と誰もがそう信じ込んでいたのだ。マルコポーロの冒険談くらいしか情報がなく、イマジネーションは膨らむばかり。そのインドの端のどこかにキリス10ト教徒の国がある、という伝説も多くの人が信じていた。プレスター・ジョンという王が支配する、このキリスト教国を実際に確認してみたい、これも、コロンブスの冒険航海の理由のひとつだった。そんなこんなで要するに、現代の我々から見れば突拍子もない発想とイマジネーションを原動力として、大航海時代の幕は切って落とされたことになる。
当時ヴェネツィア商人が圧倒的な支配力で市場を制していた欧州のスパイス交易。この現状を打破したい。大儲けしているヴェネツィア商人、さらには、インドからエジプトやイスタンブールにこれを持ち込むイスラム商人。彼ら「中間業者」を抜きに「スパイスの産地直送をめざす」それがこの冒険航海の最大の目的だった。コロンブスはヴェネツィアの宿敵ジェノヴァの生まれで、その地の大商人の下で修行し、欧州中を広く旅し、勉学を怠らない男だった。
では、なぜ、スパイスがそれほどまでに重要だったのか。高価だったからだ。なぜそんなに高価だったのか。14世紀中頃フィレンツェで出された商人向けの書には、一部鉱石や樹液エッセンスを含めて 300種近いスパイスの名が挙げられ、その品質の見分け方が書かれている。その大部分が遠路欧州の外から僅かに届く貴重な輸入品。当然、高価になる。にもかかわらず、ルネサンスが本格化する以前、すでにこれだけの種類のスパイス類がイタリアで流通していたわけで、中世の欧州人は、ことスパイスに関しては、現代の我々よりも遥かに強い興味と関心を抱いていたと断言できる。しかし、なぜ? スパイスが霊験あらたかなる「医薬品」として認識されていたからだ。その一部は不老長寿の源と信じられていた。さらに当時欧州には「医食同源」の思想があった。だから中世欧州の宮廷料理には、驚くほど多種類のスパイスが大量に使われている。薬膳料理と言ってもいいくらいだ。こうして「スパイス=お薬」というイメージに加えて「スパイス=宮廷料理の香辛料」と認識されるようになっていく。一方でこの医食同源思想は、錬金術的発想とも密接な関係があり、当時はこれが「科学的な考え方」と捉えられていたことを忘れてはいけない。もうひとつ。仏教の寺院同様、特に聖教系とカトリックのキリスト教会では、お香を焚くことが重要な儀式の一部だった。「聖人様=高貴な香り=遠来のスパイス」というイメージが浸透していたのだ。欧州の北の果て、中世アイルランドの修道院でさえ、かなりの量のスパイスを購入していたくらいで、料理にもお香にも、23宗教の場で高価なスパイスが多用されていた。宮廷でのスパイス多用は、不老長寿を求める思いと共に「聖人様の高貴な香りにあやかりたい」という心情も背景にあったのだ。先の GOPという名称も、その流れの中で生まれている。
で、コロンブス。航海に旅立つにあたって、代表的なスパイス類を「見本」として船に持ち込んでいる。彼がインドと思い込んだ、現在のカリブ海に浮かぶ島々を訪ねながら、行く先々でこの「スパイスの見本」を現地の人々に指し示して、その存在の有無を確認している。言葉が通じないのだから、身振り手振りで、胡椒の粒やシナモン、ナツメグ等々を示して、「これ、どこにあるか?」。その場面を想像するだけで笑いがこみ上げてくる。胡椒にせよシナモンやナツメグにせよ、採取してから様々な加工を施して後、あのような姿になる。あのままの姿で木に実っているわけではない。原産地ならばともかく、そんなもの見たこともない現地の人々に、胡椒の粒やシナモンスティックを見せて「これ、見たことない?」というのも凄い話ではないか。海からやってきた、へんてこな格好をした異人たちからそう尋ねられた現地人はどう思っただろうか。コロンブスの航海は、ことスパイスに関しては、大した成果なく終わっている。
この話、西欧の食の歴史上、重要なポイントのひとつだ。食を知ることは、世界を知ることに通じる。だから異国のことでも面白い。この5月 日(水)から毎週水曜日5週連続で、「西欧ルネサンス食卓絵画から探る食文化」と題して、早稲田大学エクステンションセンター中野校で、こんなお話をあれこれ致します。毎回たくさんの画像と共に、面白くてディープな話が一杯。興味のある方には、絶対損はさせません。どうぞご参加下さい。
4km.千葉県九十九里で網元をつとめた旧家で、海岸から2
離れた内陸にありました。九十九里は紀州海民の伝えた地引網漁(いわし漁)によって栄え、藍や綿の肥料となる干鰯(ほしか)を生産しました。九十九里の漁民は浜辺に漁具を置いた小屋を立て、普段は内陸で暮らしながら農業にいそしみ、網にイワシが入ると一斉に駆けつけ網を上げました。
作田家は1690年代にはすでに網元をつとめていて、この家も300年以上はたつといわれます。主人はダンナサマ、夫人はジョウサマと呼ばれ、作田家の女性は外出の際、必ず駕籠を使ったといわれます。移築時の屋根は一体でしたが、調査によって土間と主屋を分けた分棟式だったことが分かり、再現されました。
24畳ほどある広大な「かみ」は、曲がりくねった松の梁材をみせた迫力ある空間。網元として大勢の使用人がいたと思われます。家族の食事は右奥の「チャノマ」でとり、その隣には壁と板戸で囲われた寝室「なんど」があります。九十九里浜は、特異な漁村として研究されてきました。内陸から海に向かい岡集落、新田集落、納屋集落が形成され、作田家は親村といわれる岡集落にあります。イワシ漁には周期的な豊漁期と不漁期があり、不漁期に新田を開発したのが新田集落。海岸の納屋(倉庫)が住居に変化したのが、納屋集落と考えられています。「かみ」の奥には、畳敷の「げんかん」、「なかのま」、「おくのま」の3間がつづき、床の間のある座敷や客用の便所など、当時の民家としては最高の接客空間をもちます。地曳網漁という組織的な漁業により、網元は大きな資本を蓄積するとともに、名主として漁業と農業のバランスをとりながら、代官の接待など政治的な役割も果たしました。
台風の強い風を受け流すUFOのような姿をした沖永良部島の高倉。主に食品庫として使われ、高倉の下は倉下(くらんた)と呼ばれ、子どもの遊び場や作業場にもなりました。毒性のあるイジュの柱4本で支えられ、金属板を巻くことでネズミなどの侵入を防いでいます。湿気を防ぐため入り口は板戸1枚だけで、丸太に段を刻んだハシゴ(キザハシ)を使い出入りしました。山梨県・塩山の広瀬家。山の斜面に吹く「芝まくり」と呼ばれる強風を避けるため、軒先が特に低く作られています。
山梨県・塩山は、切妻屋根の中央部を高く突き上げた「突き上げ2階」と呼ばれる民家で知られます。平屋に養蚕のスペースを追加したもので、広瀬家にもかつて突き上げ2階がありましたが、民家園への移築時に、新築の姿に戻されました。甲州の民家の特徴として「四つ建(よつだて)」があります。これは4本の太い柱を組んだ構造を中心に、切妻屋根の家を構成する手法で、18世紀中頃まで行われていました。
▼移築前の広瀬家。1969年。土間の梁は水平で、丸竹を敷いたスノコ天井をロフト空間として利用しています。一方、居住部の梁は曲がりくねり、ダイナミックな屋根裏を見せます。養蚕が盛んになると梁にネダ天井を設け、屋根裏を作業場として利用するようになりました。さらに「突き上げ2階」を設けスペースを増やします。塩山の人々は、農閑期の仕事として、背負子や馬を使った荷物の運搬も行っていました。なかでも竹カゴは大切な道具で、専門の職人によって作られていました。
土間に面した広間は、土の上にムシロを敷いた土座(どざ)になっています。土間にワラやカヤの束を厚く敷いてからムシロで覆ったもので、冬は板張りよりも暖かかったといわれます(虫がわくのが欠点)。かつては関東、東北、北陸の民家によくみられ、大正時代の今和次郎の調査でも、農家の多くは土座であったことが報告されています。
妻側の壁には、柱や梁が露出しています。中心には棟木を支える「棟持ち柱」が立っていて、神社の本殿に使われる「神明造」にも通じる古い構造を見られます。合掌造りとは異なり、棟持柱が棟木を直接支え、屋根の小屋組みと建物の柱が一体化しています。
石垣島や沖縄、八丈島などには、主屋と釜屋(炊事場)を分けた「分棟型」の民家が多く見られます。一方本州では、作田家のあった九十九里浜や、この太田家があった茨城県北西部、などの他、東北では仙台周辺にも見られ、岩手県に多い「南部曲り家」の原型とも考えられています。主屋と土間で梁の掛け方が異なり、土間の方が張りが太く整然と組まれています。太田家は茨城県笠間市の宇都宮街道近くに、17世紀後半に建てられた名主の家です。土間・主屋は屋根を接していて竹を使ってジョイントし、隙間には丸太をくり抜いた大きな樋を置いて雨水を外に導いています。
▼奥の「ざしき」は来客用で、土間からではなく、とびさし(土庇)を玄関としました。
土間・主屋ともに寄棟造りで、棟の方向が異なります。L字型の構成は南部曲り家に似ていて、太田家は過渡期的な例と思われます。大戸口を入って右側に「うまや」、奥にはカマドや水場があります。土間は主屋の百年ほど後に建て替えられていて、創建時よりもだいぶ広くなったようです。土間は「うちにわ」とも呼ばれ、穀物の脱穀や籾摺り、選別や精米、漬物や味噌の仕込みを行う神聖な場所で、土間の表面が痛むと石灰をまいて固めていました。太田家は稲作を中心に麦やソバ、落花生、サツマイモなどを栽培していました。今はクリの産地として知られる笠間ですが、農業だけでは暮らせず、カシやクヌギの炭焼や薪も扱い、笠間市内へ出荷しました。昭和になると農閑期に近隣の人を集め、映画上映会も開いたそうです。
内田 和子
つれづれなるままに
(承前)
翌日、どんより曇り空。2月の京都は写真を撮るには
もの足りない。北野天満宮に行けば梅が撮れるかもしれないと、教えられた番号の市バスに乗るが、いつまでたっても着かない。四条河原町まで来て方向が違うことに気がついたが、今更引き返す気にもならず、祇園で下車。八坂神社から清水寺まで、外国人観光客らしき後をついて歩く。下手なナビを使うより確実である。途中の食事処には外国人向けメニューをだす店も多いが、日本人の観光客にはいささか胃に重い。と思っていたら、店先に店主が顔を出し目があった。懐石弁当がいただけるという。小さな店だがしつらえも落ち着いている。客は私一人。首にかけたカメラを置いて、ビールを飲む。カウンター越しの店主と話しながら、綺麗な三段弁当の蓋をあける。ふわっと春の野菜が炊いてある。
いいねぇ〜。京都の食事はこれでなきゃと、一品一品愛でながら口に入れて楽しんでいると、若いカップルが入ってきた。すぐに日本人でないことはわかったが、メニューを見ながらの会話はとても静かで、どこの国の人か分からない。ビールの勢いもあり、思いっきって英語で、「どこから来たのですか?」と聞いたら、中国からだという。中国人は早口で声も大きいという先入観があったので、ちょっと驚いた。聞けば、新婚旅行で8日間の旅だという。そのことを店主に伝えると、お弁当のご飯をお赤飯に変えて「コングラッシュレーション」と言って出した。ワォー、すごいおもてなし。と、彼らに伝えたら、とても嬉しそうな顔をしている。しばし片言英語で話していたが、私の英語力も底をつき、会話は途切れた ……が、彼らはすごい武器を持っていた。
の音声翻訳で中国語を入れて、日本語を私に見せ
る。これでまた会話が繋がった。
私も
を持っているが、使ったことはない。外国
人が日本に来ても不自由でないのは、この げかもしれない。
i-phone
i-phone
i-phone
のおか
京都の旅
「私は日本の変なおばさんです」と吹き込んだら、「ヘンナ?」と復唱して、翻訳をみて大笑いをしていた。最後に写真を一緒に撮り「オシアワセニ」と言って店をでた。胃によし、口によし、心によしの楽しいひと時だった。
テレビのロケでよく出てくる八坂の塔は、坂から見上げるといいアングルになるが、薄手のにわか着物を着た女性が遮って写真にならない。諦めて坂を下ると行列のお店があって道を塞いでいる。何もここまで来て、並んでコーヒーを飲むこともないだろうと思いながら覗くと、横文字で書かれたコーヒカップを手にみな写真を撮っている。これが流行りのインスタ映えかと思いながら、急ぎ坂を下りた。清水寺からゆっくりと下る三年坂も様相は随分と変わってしまった。今、京都には東京資本の店が、次々と進出しているという。観光客を満足させるためには京都の街も変わらざるを得ないのかもしれない。が、日本人観光客にとっては、静かな京都の街並みがなくなってしまうのは耐え難い。京都の風情は日本人としても大切にしたい。しかし、バスから見る街の中心地は階高の高いマンションが統一感もなく建ち並び、間を古い昔ながらのお店がデコボコと残っている。
長い塀は朽ちて手入れもされていない。主要駅以外はエスカレーターもなく案内も不親切。端から端まで歩いて、階段で3階上まで行かないとバスが走る道路に出ない。道路はいつも混んでいる。大きなキャリングケースを持った外国人がバスに乗り込んでくる。シルバーシートはほとんど空きがない。譲りたくても混んでて声がかけられない。地元の人にとっては、随分と住みにくい街なのかもしれない。中学の京都修学旅行のテーマは、「温故知新」。あれから50年以上の時が流れている。変わらないでと願うのは日本人観光客だからかもしれない ……と、ふと思う。
それでも ……
桜の季節に友人と都おどりを観ることになっている。華やぐ季節を十分に楽しみたいと心弾ませている。
御室の桜、新緑の三千院、紅葉の東福寺、雪を冠った金閣寺、どこをとっても京都は彩りが美しい。いつまでもその美しさは大事にしていたいと願う。日本人として ……
霊山・出羽三山周辺の民家は、修験者の宿にも利用されました。「かぶと造り」の部分は、高窓で採光したロフト空間になっていて、宿泊場所としても使われます。また積雪時には、高窓から出入りしていたともいわれます。明治になると鉄道によって人の流れがかわり、宿泊のための空間は養蚕に転用されるようになりました。入り口に「あまや」と呼ばれる風除室があり、ここで雪や雨粒を落としました。土間に入ると「うまや」や「ものおき」と、板張りの「ながし」があります。外の池からトイを渡し「ながし」に水を導いていました。菅原家は肝煎(きもいり=名主)をつとめた旧家で、屋号を「名衛門さん」といいました。土間から向かって左側に、囲炉裏と仏壇をおいた「おめえ」、その奥の「うーへや」の階段から中2階をへて、養蚕を行った2階にあがります。囲炉裏を囲んで「むかし話の会」が開かれていました。
土間から見て右側、囲炉裏のある「でい」には、珍しい地機(じばや)や蚕を育てた棚が置かれています。その奥の畳敷きの座敷「かみでい」には、近隣の人が集まり、百万遍(大きな数珠を輪になってまわし念仏をとなえる)が行われていました。菅原家は稲作の他に、山の斜面を使った焼き畑や、羊、山羊、豚も飼っていました。明治になると養蚕が始まり、早朝から桑の葉を採りに行き、山や川からも恵みを受けていました。山菜採りや熊撃ち、川のマスやカジカをとり、炭焼も行いました。
ドラゴンシリーズ 44
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
アムステルダムの一年
今年の
ど
ツ人
1
う
1
月
日、アムステルダムに店舗を設立してからちょう
年経過した。この
年でどれだけ進化できたか?自問自答す
るが日々が続くが、どこまで来たかは、今はまだ分からない。ようやく本当のスタート地点に立つことができたというのが実感だ。
ヨーロッパで初めて、日本の家具メーカーが自社で小売店舗を
オープンする。そのため現地法人を設立し、始めは日本から
スタッフが駐在して、現地採用のオランダ人
現地採用の日本人
名を加え総勢
名のスタッフでアムステルダ
ム店をスタートした。今では、日本人
名、オランダ人
名、ブラジル人 1
名の
営している。それだけ、この
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名というスタート時の半分以下で運年で色々な出来事が起こったという
事である。現在、少ないスタッフだが確実に業績は伸びている。
日本と同様のサービスを実践するため、現地スタッフとの言葉や文化の壁を越えてゆく試みに始まり、ヨーロッパの人々にとってこれまでに無い特別な存在でありながら、同時に日常生活に違和感なく溶け込める店舗や製品、サービスの在り方を目指している。
確実に日本の存在を感じ取れる製品や店舗の新鮮な空気を生み出せるように、一歩一歩進化して行かねばと想
考えたのは、この仕事の背景には日本人としての責任があり、それは日本の存在を示してゆく仕事である事実だ。
店舗の準備も含め、オープンしてからの日々は、私達が何かを提供することよりも、ヨーロッパ、オランダ、そしてアムステルダムから学ぶことの方が多かった。心ある優しい人々に助けられ、多くのサポートを沢山のオランダ人やオランダ国から授かる経験をした。日本では考えられないような外国人や海外企業に対する好意的な本物の優しさを感じる一方で、改めて日本という国の外国人や他国に対する閉塞性や冷酷さ、そして日本人の表面的、形式的な儀礼と外国人に対する本質的な冷たさを感じた。多様性を受け入れ本質を見つめて来た歴史を持つ国と、閉鎖的で他国との交流や友好関係を築いてこなかった文化の歴然とした差を感じた。
当然のように様々な障壁が待ち構え、一つ一つを丁寧に克服してゆくことの連続だった。会社を設立すると同時に、店舗の内装や雇用、ビザの取得から福利厚生、現地の会計事務所との関係構築、現地採用スタッフの雇用契約や年金制度など、オランダの法律に準じて整えることが必要だった。そこから日本での梱包や輸出手続、
年間だった。常に
3入から現地配送会社との関係構築、施工会社や店舗としての使用許可の取得など、日本では味わえない課題をクリアする必要があった。
銀行口座の開設にしても申請から数カ月かかり、同時に日本人スタッフの労働許可証の法制度が大きく変わり、ビザ取得が困難となるなど、多くの課題が山積していた。入社して半年も経たない若いスタッフが多くの課題に正面から
向き合い、確実にクリアして進んで行った。 度と経験しないだろう海外法人の立ち上げという一大行事を、日本人スタッフを中心に様々な国の人達が協力
1
し、自らが進んで克服することは、素晴らしい人生の経験になると信じている。
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初めての経験を克服するには、明確なビジョンと目的に対する執念に近い信念が必要であることは当然のこと、幾多と続く様々な困難を克服することで、
そこから何かを学び、負った傷を身体の一部に刻み込むような、自らの思いで前進する経験をしない限り、壁を乗り越え、新しい境地に行くことはできない。
2
数々の失敗も、また希望も失望も ……そんな経験が経営や人生の岐路での判断に生きてくる直感力にも繋がって、生き
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る上で大切な経験になってくる。
何事もそうだが、初めての挑戦にリスク
は当然のこととして伴ってくる。創業以来何度も海外での活動に挑戦してきたが、その経験から導き出した明瞭な答えが、海外での自社店舗の設立であり、自分達で運営することでしか目的を実現することは出来ないと判断し、自社での海外出店を決めた。
初めての挑戦は困難と共に、それ以上の楽しみや新しい経験と学びを与えてくれる。
本当の意味で、外国の人々は日本の生活文化を日本に来て初めて経験する。我々がやろうとしていることは、我々が日常的に行っている活動そのものを、ヨーロ
ッパでそのまま実践することで、ヨーロッパにおいて本質的な日本に触れることができる場を作ることであり、日本での日常的なサービス、同じ製品を私達自身が海外の店舗でお客様に提案してゆくことだ。それが、日本人としての海外におけるミッションだと思っている。日本大使館や政府にはできない民間レベルで人間同士の節点を持ち、現地の生活文化との交流を行うことが、私達の出店のミッションであり、その目的意識が私達の活動のエネルギーにもなって
いる。
1990年、ベルリンで創業した時のように、退路を絶って挑戦する気持ちでアムステルダムでの店舗を 年契約で始めた。特に現地に常駐する日本人スタッフにはその忍耐に加えて、新しい価値を創造してゆくような気概が求められてきたと思う。それは 人の日本人としての進化でもあり、日本としての進化でもある。そんな気持ちでアムステルダムではこの 年間が経過した。しかし、
私達の挑戦、いや真剣勝負はまだ始まったばかりだ。切るか切られるか、生きるか破れるか、それが真剣勝負と言うことだ。真剣勝負が出来ることを心から幸せな時間であり、人生だと思っている。
今年は次のジャンルに分けて、おもちゃが展示されました。
A)自立の手助けをするおもちゃB)苦手な感覚に慣れるおもちゃC)力の入れ具合を学ぶおもちゃD)感情表現力をつけるおもちゃE)重症の子ども向けのおもちゃ
子どもや施設のニーズに合わせ、おもちゃの開発を進めています。
2018年 3月 22日(木). 3月 31日(土)タチカワブラインド銀座ショールーム(中央区銀座 8-8-15)
障害をもつ子どものために、1983年から布おもちゃを作り続ける「TOY工房どんぐり」。毎年恒例の展示会がタチカワブラインド銀座ショールームで開かれました。30周年をむかえた2013年には、シチズン・オブ・ザ・イヤーを受賞し、国内の保育園、小学校、養護学校、おもちゃ図書館、老人ホーム、病院のほか、海外にも布おもちゃは広がっています。「TOY工房どんぐり」の布おもちゃは、ボランティアスタッフによって1点、1点丁寧に制作されています。「布おもちゃは機械化が難しく、手で作るしかありませんが、ボランティアの技術継承が今後の課題」と代表の河村豊子さん。裁縫の経験者が少なくなる一方で、布おもちゃの需要は年々増えています。そんななか、着替えの動作を練習できる「身支度エプロン」が、学研の保育用品として製品化され、将来の可能性を示す試みとなりました。
▲寝たきりの子どもでも遊べる、吊るすおもちゃ「くらげ」。▼布製の地図「わたしたちの世田谷」は、1.8m角の大作。
東京都世田谷区の岡本は、砧公園に隣接する住宅地です。元々は神奈川県砧村の一部でしたが、昭和 11年、東京市に編入され世田谷区の一画となりました。岡本の「岡本公園民家園」で、岡本と砧公園の変遷を伝える企画展「岡本と東京緑地計画」が開かれました。19世紀イギリスでは、産業革命による都市部の生活環境の悪化が問題となっていました。1898年エベネザー・ハワード『明日の田園都市』が刊行されます。ハワードは「都市と農村の結婚」による都市の経済的な利便性と、農村の生活環境を結合した第三の生活圏「田園都市」を提唱し、ロンドン郊外のレッチワースやドイツのジードルングなどが実現していきます。明治となり人口が急増した東京でも、田園都市構想は注目されました。明治 40年(1907)には内務省地方局有志による 「田園都市」が刊行され、欧米の事例が紹介されます。東京で最初の田園都市といわれるのが、大正 2年(1913)から分譲がはじまった「新町住宅地」といわれます(世田谷区桜新町・深沢の一部)。玉川線(田園都市線)の渋谷〜玉川間が明治 40年に開通し、その出資会社・東京信託によって乗客増を狙った宅地開発が行われました。一区画の平均坪数は 274.5坪と広く、当初は富裕層の別荘地とされ「東京の軽井沢」とも呼ばれます。道路に千本以上の桜を植え、上下水道を整備。駅までの自動車送迎、コミュニティセンター(新町倶楽部)など先進的なサービスを行っていました。
▲ 長谷川町子美術館は姉妹社の倉庫跡地で、長谷川姉妹が蒐集した日本画や洋画などを季節ごとに紹介しています。
「新町住宅地」開発当初の1区画は100〜 500坪、ループ状の環状道路にそって宅地が設けられました。田園都市線の桜新町駅から「長谷川町子美術館」に続くサザエさん通りは、新町住宅地のために大山道から引き込まれた幅8mの道路です。サザエさん一家は福岡に暮らしていましたが、昭和 23年、長谷川家の上京にともない新町の平屋(敷地約 100坪)に転居しました。魯山人のパトロン長尾欽弥邸(わかもと製薬)が、現在の深沢高校にありました。新町住宅地に続き、大正 12年 8月、田園調布の分譲が始まった直後に、都心を関東大震災が襲います。それを契機として大正 13年には烏山寺町、奥沢の海軍村、成城学園など、世田谷に次々と造成された住宅地に人々が移り住みました。ハワードの提唱した田園都市は、自然環境と住居、仕事場を近接させた職住近接型でしたが、東京では郊外から鉄道で都心へ通勤するスタイルが定着し、今日まで続いています。一方で、無計画な宅地の拡大を防ぎ緑地を確保するため、昭和 14年に「東京緑地計画」が策定され、23区を囲う環状緑地帯(グリーンベルト)を形成するための、砧、神代、小金井、舎人、水元、篠崎の六大公園が計画されました。世情が戦時体制に移行するなか、東京緑地計画は防空緑地計画(軍事訓練場や防空施設)に変更され、昭和 15年の紀元 2600年記念事業として進められました。岡本では昭和11年から農地の整理事業が行われ、砧大緑地(砧公園)にかかる土地が買収されて、曳家によって家全体を移動させるケースもありました。戦中は軍事訓練や農地に使われ、戦後は GHQの農地解放政策により 50%ほどが農家に返還されました。その後、野球場やキャンプ場、ゴルフ場などが作られ、現在の砧公園が整備されていきます。その一方、昭和 11年にはじまった岡本の耕地整理事業は、昭和 27年に完了。耕地と宅地が分けられ、昭和 16年にわずか 97戸だった世帯数は、昭和 46年に1200戸を越えました。民家園の裏手から岡本八幡神社への石段をあがります。この崖は立川〜世田谷区に連なる「国分寺崖線(がいせん)」の一部で、江戸時代から富士山を望む風光明媚な場所として人気でした。明治後期には岡本、瀬田の崖上に、高橋是清(首相)、岩崎久彌(三菱)、鮎川義介(日産)、小坂順造(信越化学)、久原房之助(鉱山王)、清水揚之助(清水建設)、川徳川圀順(水戸徳川家)などの別荘が立ち並び、今も世田谷の高級住宅街として知られます。神社から細い道をたどり、静嘉堂文庫へ。三菱の2代目・岩崎彌之助と4代目・岩崎小彌太父子によって設立された静嘉堂文庫は、国宝・曜変天目をはじめ、中国陶磁や錦絵、古典籍などをを収蔵・公開しています。設計は桜井小太郎によるもので、岩崎久彌による文京区本駒込の「東洋文庫」旧館(現存せず)と似ています(どちらも大正 13年の竣工)。
美術館の勇気(ヌード展には、勇気が必要なのです)
ちょうど今、横浜美術館で、英国テート・コレクションによる
「NUDE」展が開かれています(6月 24日まで)。テート(Tate)は英国政府が所有する国内作家の美術品や、海外の近現代の美術作品を膨大に所蔵し、それを管理する組織です。ロンドンのテームズ川沿いに本部機構をもつ「テート・ブリテン」と世界経済を担う「シティ」の対岸に「テート・モダン」の2館があります。テームズ川を活用し、Tate to Tate serviceと呼ばれるシャトル形式の舟便が双方を頻繁に運行。またテートという名前の由来であるサー・ヘンリー・テートゆかりの地であり、ビートルズが誕生したリバプールにある「テート・リバプール」、南部の港町セント・アイビスにある「テート・アイビス」とあわせて計4館です。今回の美術展の目玉作品は、彫刻家として世界一有名なオーギュスト・ロダン作の「接吻」です。ポスターなどで徹底してアピールしているのですが、私にとってはなぜこの展覧会のタイトルが「NUDE」なのか不思議というか、ある種の違和感がありました。一般的には「NUDE」といえば写真か絵画ですが、今展のメインビジュアルアピールは彫刻作品なのです。
そんな疑問が湧くなか、どうしてもこのもやもやを解きたいため
展覧会初日に出掛けました。土曜日でもあり、テートの学芸
員で今展の監修者エマ・チェンバーズ(Emma Chambers)さ
んの記念講演会が開催されたためです。220名ほど収容でき
る、小規模ですが使いやすそうな雛壇状のレクチャーホール
で行われました。
講演会のタイトルは『裸とヌード 美術作品におけるヌード、
その新たな位置づけ』(ヌード展)です。英語表記タイトルは『The Naked and the Nude: Repositioning the Artist’ s Model』で、この方が今展の意図が汲み取りやすいように思えました。印象派画家の大規模な回顧展であれば、余分なことは考えないのですが、「NUDE」展のようなテーマは、企画の背景を知るまで、また実際に見るまでは、その全貌が見えてきません。
以下、図録から本展のコンセプトを引用します。
「ヌードは常に論争を呼び、様々な芸術家、批評家、鑑賞者によって問い直され、作り直される。この展覧会は、1790年代から2000年代にかけて、裸の身体が芸術家の実践において、どれほど中心的な位置占めてきたのかを検証する。とりわけ本展が注目するのは、身体の位置付けの変化である。モデルを素描する技術の習得が歴史画制作の基礎とされた時代、身体は画学生が崇高な芸術の訓練を行うための重大な課題だった。それがモダニズムの時代になると、身体は形体に対する実験を行う中心的なジャンルとなり、最終的には政治活動やアイデンティティーに関わる駆け引きを行う場へと転換する。こうした位置づけの変化と平行して、ヌードは社会史に組み込まれた主題として、美学はもちろん、社会の発展に伴って形成されるヌードへのアプローチの変化、ジェンダーの政治学、芸術作品が鑑賞される文脈などとともに理解しなければならない。常に変化する芸術とポルノの境界、或いは象徴的表現と
ジョルジョーネ《眠るビーナス》(1508〜 10)※本展には展示されていません。
エドワール・マネ《オランピア》(1863)※本展には展示されていません。
個性の描出との境界を考慮する必要がある。」(引用以上)
19世紀半ごろまで、絵画としてのヌードは全て「神話の場面」でなければなりませんでした。それらは美の理想的なイメージとして、古代の神々や物語の登場人物で描き出していました。セミナーではイタリア・ルネサンスの画家ジョルジョーネ《眠るビーナス》(1508〜 10)をヌードの起源としています。しかし1863年に、近代絵画の父といわれるエドワール・マネ《オランピア》が登場し大論争を呼びました。それまでは「芸術におけるヌードは匿名でなければならず、特定化してはならない」ものだったのですが、この絵は見るからに裸の表現だったのです。それまでは理想表現というという概念に基づいた、言い換えれば、神話の世界を描くのですから、モデルがどこの誰という特定の人の表現であってはならなかったからです。
《オランピア》の女性のポーズはジョルジョーネの《眠るビーナス》とほとんど同じなのですが、ネックレス、ブレスレット、そして靴と、描きこまれた要素で「衣服を脱いだと行為」が露骨であり、顔もどこの誰という特定の人だったからです。マネの《オランピア》は大論争巻き起こしましたが、長く続いた従来のヌード表現規範を一気に打ち破りました。その影響は大きく広がり、一例としては1883年ごろのエドガー・ドガのパステル画《浴槽の女性》、1925年ピエール・ボナールの浴槽に浸かる妻を描いた《浴室》など、画家の身近な特定の女性を描いた愛情深い作品が生れ、19世紀の観念では 「裸」の絵、20世紀以降では「ヌード」の絵と解釈されます。
次はメイン展示、ロダンの「接吻」(1901〜 4)についてです。この彫刻は、13世紀の詩人ダンテによる叙事詩『神曲』の地獄篇に登場する、フランチェスカ・ダ・リミニと不貞の相手である国王の弟パオロを表しています。もし見に行かれたら、是非彫刻の後ろ側へ回ってみてください。その時二人が一緒に読んでいた「アーサー王物語」の本を、パオロが左手に寄せている様子が彫られています。この本には、アーサー王の妻グィネビア王妃が不義により殺される物語が書かれています。それを読んで自分たちの行く末を理解しながらも、二人の気持ちは高まり、見つかれば同じように殺されるにも関わらず、この彫刻のように求め合う姿として彫られています。フランチェスカの腰に添えられたパオロの右手親指の僅かな浮き上がりが、パオロの一瞬のためらう気持ちをも、はっきり感じさる素晴らしい描写です。私も「フランチェスカ・ダ・リミニ」の名前だけはチャイコフスキー作曲の幻想的交響詩(悲劇的な曲想で、暗いです)の題名で知っていましたが、今展の解
オーギュスト・ロダン《接吻》(1901〜4)
説を読んでやっと意味が結びつきました。「接吻」は作られた当時は話題を呼んだそうですが、発注した
コレクターが亡くなった後は、作品が放つ高い完成度とエロテ
ィシズムが先進的すぎたからでしょうか、長い間買い手がつき
ませんでした。しかし1953年にテートがコレクションに加え、
評価も価値も一気に高まりました。
この彫刻に使われている大理石はペンテリコンといい、大理石の中でも最も美しく透き通った素材で、アテネのパルテノン神殿もこの大理石で造られています。二人の姿にふさわしい質感で、美しく、作品テーマの背景を知れば知るほど、心に迫ってきます。
後半の展示は緊張が続きます。さすがイギリスを代表する美の館、テートの女性キュレーターの鋭い目線が異彩を放ちます。男性目線で生まれ続けてきたヌード作品の世界に、新しく激しい心理的抵抗や反発心、問題提起が次々と続くストーリーが組まれています。従来の美術展では見られないヌードのあり方への、批判的な視点が全面に押し出されています。LGBTからのメッセージあり、女性画家からの挑戦状ありで、「新しい時代へ移行するための観点を広げよ」と、チャレンジマインドに激しく突き上げられる美術展でした。
世田谷の高級住宅地「成城」は国分寺崖線の東側に位置し、成城学園の学園町として開発されます。関東大震災を機に新宿牛込から学園を移転することとなり、大正 13年に校地として2万 4千坪と付近の雑木林2万坪を購入。校舎の建設資金調達のため宅地開発をすすめました。大正 14年には学園が移転し、同時に第 1期分譲の 40戸ほどが竣工。昭和 2年に小田急線も開通し「成城学園前駅」が誕生します。大谷石を基礎にした生け垣を推奨するなどのルールがあり、現在の豊かな景観につながっています。成城みつ池緑地の「旧山田家住宅」は、昭和12年頃、実業家・楢崎定吉によって国分寺崖線の上に建てられたアメリカ風の邸宅です。成城を有名にしたのは、昭和4年の「朝日住宅展覧会」でした。朝日新聞社主催で「新様式の文化住宅」のデザインが公募され、入選作16棟を竹中工務店が施工。5万人以上が訪れる人気となり、16棟は完売しました。「朝日住宅」は成城スタイルとして定着し、明るい東南に洋室の居間を配置し、子ども部屋や和室をもうけた建坪25坪ほどの住宅が増えていきます。一方で旧山田邸のような豪邸も建てられました。楢崎定吉はアメリカで成功し、帰国後、この家を建てました。設計者は不明ですが、玄関ポーチの屋根は片持ちになっていて、2方向をあけた開放的なつくりです。玄関柱はスクラッチタイル、外壁はベージュのリシン仕上げに石張りの腰壁、窓は上げ下げ式、玄関にステンドグラスを入れ、昭和初期の中流家庭(現在の富裕層)のセンスを表しています。玄関を入った広間は、食堂と客間につながっています。食堂には2階にあがる客用の階段とステンドグラス。奥にはリビングとポーチ、ほかに台所や女中部屋がありました。壁面はクリーム色の卵漆喰で仕上げています。
▲ 東南向きで日当たりのいい客用の寝室。▼ 2階廊下。リビングから2階にあがる家族用階段があります。2階には、書院造の本格的な和室をしつらえています。障子の外には狭い廊下があり、和室と外壁の二重構造になっています。外から見ると和室の部分が出っ張っているのが分かります。和室の下は女中部屋で、勝手口があります。
▲ 2階洗面所。接収時にシャワーやバスタブが設けられました。▼地下にボイラー室があり、セントラルヒーティングでした。
1階のポーチ。建設当初は腰壁しかないオープン空間でしたが、窓をつけてサンルームのように改装されました。天井は2階のベランダを兼ねています。昭和36年、楢崎家からこの家を引き継いだ南画家の山田盛隆氏は、水回り以外はほどんど手を入れずに、成城の暮らしを伝える貴重な建物を残しました。
▲赤いフランス瓦が使われています。
▼ 親と子の寝室。クローゼット内でもつながっています。
家族の寝室からは、国分寺崖線からの景色を望め、富士山も見えたそうです。崖下の「成城みつ池緑地」は、湧水が湿地帯をつくる奥深い森で、ゲンジボタルが生息する世田谷区のサンクチュアリとして守られています(通常は非公開)。