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コラージ
時空を超える美意識
Salone Internazionale del Mobile
朝7時のミラノ中央駅(チェントラーレ)。1906年から建設がスタートし、ムッソリーニによるファシスト政権をはじめ、時代を反映する様々な様式の装飾に包まれていました。早朝からイタリア・ヨーロッパ各地への長距離列車が出発します。
高速鉄道のチケットはレイル・ヨーロッパなどのサイトから簡単に購入できます。日本の新幹線に比べると料金も手頃です。
巨大なトレイン・シェッドからは、イタリア高速鉄道網(TAV)の列車が次々と出発していきます。最高時速300kmの高速新線によって、ミラノ〜ボローニャ1時間、ミラノ〜フィレンツェ1時間40分、ミラノ〜ローマ3時間と、日帰り観光も可能になりました。
フェラーリと同じ真紅に塗られたAGV「イタロ」はウサギのマークが目印。車内のデザインはイタルデザイン(ジウジアーロ)で、3列シートの1等車ではコーヒーやスナックのサービスがあります。この列車に乗って、ミラノからフィレンツェへ出かけてみました。
フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅に到着。バスに乗
り換え、高台のミケランジェロ広場に向いました。
アルノ川西岸のミケランジェロ公園からは、フィレンツェの街を一望できます。古代ローマに起源をもつフィレンツェ旧市街は、京都のような碁盤の目状の計画都市です。古代ローマが街道の要所に設けた軍営地「カストゥルム」のひとつがフィレンツェで、街区は1辺105mの正方形に区画され、東西方向にデクマヌス、南北方向にカルドと呼ばれるメインストリートが通り、街の中心にはフォールム(中心広場)が設けられ、神殿や公会堂がたち、市場がひらかれていました。
古代ローマの遺跡の上に数千年の時をかけ、ヒューマンスケールのディテールが限りなく積み重ねられています。映画「眺めのいい部屋」で知られるポンテ・ヴェッキオは、アルノ川の西岸と東岸をつないでいます。
「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」と呼ばれるドゥオーモは、1296年、デイカンピオによって建築が始められ、フィリッポ・ブルネッレスキによってクーポラ(円蓋)が設けられたのは1436年になってからです。フィレンツェを訪れた多くの人が、クーポラの展望台にあがります。
11〜12世紀のイタリアでは、都市住民の組織「コムーネ」による自治が行われていました。13世紀なかばには貴族だけではなく、商工業者も市政に関わる共和政がとられ、そうしたなかで力を付けてきたのが、金融や毛織物で成功したメディチ家です。街の中心に立つ「ヴェッキオ宮殿」は、フィレンツェ共和国の政庁舎として1299年にディ・カンピオの設計で建設されました。宮殿の2階「五百人広場」では市民議会がひらかれると共に、金銭や契約に関わる様々な紛争を調停する、裁判所のような機能も果たしていました。
ヨーコの旅日記
さすが 24時間眠らないドバイ空港。搭乗したエミレーツ航空の到着時刻は午前 3時 40分。にも関わらず現地の気温は既に(?)34℃という機内放送。ドバイと言えば常夏、としっかりイメージしていたものの、到着前から驚き。その後も数々の驚きが続くのですが、そんなドバイの地で週をまたいで自動車の部品・アフターマーケットの見本市「アウトメカニカ・ドバイ」と、美容関連の見本市「ビューティーワールド・ミドルイースト」が開催されました。現地に住む同僚達に、中東では日本の製品は安全、安心、そして効果的というイメージが定着していると聞きましたが、どちらの見本市にも、目的を絞って決められた出展者や製品
第8信灼熱のドバイへ川津陽子メッセフランクフルトジャパン
を目掛けてくる来場者はもちろん、ブースに掲げた「 Japan 」のサインを見て訪れる来場者も非常に多く「Made in Japan」の強みを改めて実感しました。後者の「ビューティーワールド」、実は日本でも東京・大阪・福岡で開催されているのですが、スキンケア、エステ、美容機器、ヘア、ネイルなど美容関連の見本市だけに、来場者の 8割以上が女性。一方、ドバイでは圧倒的に男性来場者が目立ち、日本とは全く違う雰囲気にビックリ。ちょうど今月末よりサウジアラビアで女性の自動車運転が解禁されるというニュースもあり、近年は女性の活躍がめざましい中東では、これから展示会場の雰囲気も変わっていくのかもしれません。
もともと目鼻立ちがくっきりで、スッピンでも充分お美しいイメージの中東の女性たちですが、UAE(アラブ首長国連邦)の10人に1人が 1年間に約180万円を美容に費やすと言うから驚きです。サウジアラビアを例に挙げると、政治的な理由から人がたくさん集まる映画館や劇場などの施設がないため、身に付けるものや持ち物など、おしゃれをすることがひ
▲ ビューティーワールド会場。UAEの10人に1人は、年に約 180万円を美容にかけるそうです。
▲特に目元まわりには、時間とお金を掛けます。
とつの娯楽となっていることも大きな理由なのでしょう。とは言え、ナチュラルなままでもゴージャスな睫毛を持つ女性だらけの地で、果たして睫毛育毛剤やエクステンションの需要はあるのか懐疑的でしたが、出展者によれば、さらに盛りたいという想いは万国共通だそうで、ブースを訪れる女性達は興味津々に話を聞いたり試してみたり。特にアバヤを着用する女性の唯一の露出箇所となる目元まわりには、惜しむことなく相当な時間、お金、労力がかけられるのだとか。他人の目に触れる唯一のパーツだけに美意識が一点集中するのでしょうか。確かにアバヤをまとった女性と目が合うと引き込まれるような目力を感じます。このほか、気になったのが育毛関連の出展。「薄毛はセクシーの象徴」と捉える国・地域もあるなかで、中東での反応が気になりましたが、高温のなか頭を布で覆うことによるヘアダメージは悩みの種だとか。ヘアケアについても非常に関心が高い様子が伺え、男女を問わず、美への追求が感じられました。さまざまな驚きと学びのあった見本市でしたが、少し番外編を ……見本市の合間の1日はしっかり休暇をいただきました。折角なのでここでしか出来ない体験を、と現地で急遽ネット検索をして、ひとりサンライズ・熱気球ツアーに参加しました。
▲ 華やかなファッションショーやカッティングのデモンストレーションもひらかれました。
▲ 休日の朝。広大な砂漠で気球を体験。
気球、幼少のころ一度は憧れませんでしたか? 「今だ!」というスタッフの掛け声を合図にバスケットにジャンプして乗り込み、上昇してからの15分ほどは興奮状態。そして離陸から30分ほど経過し、見渡す限り360度、ひたすら砂漠の景色で、同じ気球に乗り込んでいる他国の観光客もだんだん落ち着きを見せ静寂のなか、たまに唸るガスバーナーが燃える音。普段は全く高所恐怖症でないのですが、果てしない砂漠のなかでは、時々不意に不安な気持ちも織り混ざり、これまで味わったことのない感覚でした。そして最後の気球の着陸方法に驚愕! 悲鳴がどよめく中、90°にバスケットがひっくり返る状態で着地。これは事故でも何でもなく、正しい着地方法なのですね。這いつくばって何とか脱出。乗客皆で安堵から生まれた大笑い。とても貴重な経験でした。そして、滞在中のある日、今夜はどこで食事をしようかと会場を出ると、18時を過ぎてもなお、昼間の熱を感じる重苦しい空気を感じて、これは「ビールだ」と皆で合意!ホテルで教えてもらったお酒を提供するというレバノン料理店へ。ローカルフードと油断したのも束の間、会計の際にビックリ仰天! ビールが1杯、なんと2.200円もするじゃないですか!人びとも優しく、気温以外は居心地の良いドバイでしたが、私には住めそうにありません(破産してしまう……)。最初から最後まで驚きに溢れる初ドバイの旅でした。
世界遺産「ボーボリ庭園」。1550年、トスカーナ大公コジモ・デ・メディチ1世がピッティ家から購入し、エレオノーラ・ディ・トレド妃によって造園されました。彫像や洞窟、噴水が点在した4万5千坪のイタリア式庭園は、ヨーロッパ宮殿庭園のモデルとなります。コムーネは個人の家屋についても、壁をレンガや石で作るよう、また道路にせり出さないよう指導していました。旧市街の景観が守られているのは、共和政時代からの市民自治の意識によるものです。古い家具や装飾品を修復する工房も点在しています。
中世のころ食べ物の中心はパンで、上層市民は肉を、中下層の市民は野菜や豆を副菜にしていました。パンは小麦に大麦やキビ、アワを混ぜた茶色いパンでしたが、商工業で潤っていたフィレンツェでは白いパンを食べられました。
ボーボリ庭園に隣接した「ピッティ宮殿」は、メディチ家のライバルだった銀行家ピッティ家により、1457年から建設が始まりますが、フィレンツェ建国の父といわれるコジモ・デ・メディチの子、ピエロへの陰謀が発覚して失脚。当時はまだメディチ家のほかにも有力な商家が政権を争っていました。未完成のまま100年ほど放置されていたピッティ宮殿をコジモ1世が庭園とともに買い取り、フィリッポ・ブルネッレスキ(クーポラを設計)による本体に、バルトロメオ・アンマナーティが改修・増築を加えました。宮殿内には壮麗な装飾が施され「ヴァザーリの回廊」によって、アルノ川東岸のウフィッツィ美術館とつながっています。宮殿内のパラティーナ美術館は、メディチ家やトスカーナ公のコレクションを公開しています。中央はフィリッポ・リッピの「聖母子」。ルネッサンス中期を代表する画家で、ボッティチェリの師でもあったリッピは、修道院の僧侶でした。無類の遊び好きで知られ、修道女ルクレツィアとつうじて子どもをつくりますが、コジモの尽力で還俗を許されています。ルネサンス後期の画家・ラファエロ・サンティのコレクションが白眉です。1483年、芸術・文学の盛んな都市国家ウルビーノ公国に生まれたラファエロは、宮廷画家の子として社交界のマナーや人文主義的な思想を学びます。幼い頃に母と父を亡くしますが、父の遺した工房で絵の才能を発揮。人気画家ペルジーノに師事して、ルネッサンスの画法を吸収しました。
1504年、21歳の時にフィレンツェへ出たラファエロは、ヴェッキオ宮殿でダ・ヴィンチの壁画「アンギアーリの戦い」や制作中の「モナリザ」、ミケランジェロの「ダビデ像」などに触れることで、「聖母子」像に見られる豊かな人間性を描き出すようになります。また温厚で社交性の高い性格から社交界の人気者となり、有力者の肖像も多く描いています。左は絵画収集家夫妻の結婚を祝って描かれました。その後、ローマに招聘されたラファエロは多彩な画家を集めた大工房を経営し、大邸宅に暮らしながら華麗な女性遍歴を重ねますが、37歳の若さで世を去ります。
ドラゴンシリーズ 46
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
No Limit
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エベレストへの単独、無酸素登頂に何度も挑戦していた、
栗城史多(くりきのぶかず)を知っているだろうか。ニート生活をしていた北海道出身の青年が地元の大学で山岳部に入部して山を登ることに目覚め、初めての海外渡航は冒険家・植村直己が亡くなったマッキンリー山への単独無酸素登頂という無謀な挑戦で登頂を果たし一躍有名になった青年だ。
栗城史多が広く知られるようになったのは、単独無酸素登頂をインターネットでライブで中継し、登頂までのプロセスを多くの若者たちと共有することだった。多くの若者たちに勇気を与え、世界の山々を登頂することの大きな意味を持っ
ていた。僕も彼の挑戦を知って、その後 なんとなく見つめていた。
栗城は世界七大陸最高峰の山々を制覇してきたが、一つだけ登れていない山がエベレストだった。エベレストは他の登頂困難な山々よりもう一つ上のレベルの山であり、単独無酸素での登頂は困難を極めた。今回の登頂は
年越し
度目の登頂
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だったと記憶している。 2012年の何度目かの登頂だったと思うが、エベレスト登
頂は失敗に終わり、栗城は両手の指を
栗城が日本に戻り、病院のベッドで両手を差し出している写真は、彼が二度と登山へは戻れないことを物語っていた。ベッドの上で両手の指先は全て真っ黒になり、鼻先も凍傷で壊
死していた。そんな状況で指を失った後にもエベレスト登頂に挑戦を続けてきた。登山家のあいだでは栗城は
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て見下されていた。無謀な単独無酸素登頂をすることや、登頂の様子をインターネット配信することに対するプロ登山家からの評価だった。
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年くらいの軌跡を
本失う凍傷を負った。
流以下の登山家とし
多分、登山家としては 流以下だったのかもしれない。また世間では登山家ではなく、下山家とも呼ばれていた。エベレストの単独無酸素登頂が無理であることを本人も知りながら、何度も挑戦し、そしてその度に下山していたからだ。ごく普通の一般人がインターネットの SNSなどで本人に向かってそう伝えていた。エベレストには 度目の挑戦だったと思うが、そんな栗城に対する批判が多いことに僕は正直、驚いていた。栗城は
確実に多くの若者たちに勇気を与えてきた。多くの困難を乗り越えることを人々に伝えることで、挑戦することの意味を伝えていた。何度もクレバスに落ちて、死にそうになりながらも這い上がり、命を繋いだ。
自分でカメラをセットして登頂する自分を後ろから撮影するため、登っ
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た道を下りカメラを回収してから、もう一度登った。単独無酸素登頂では、全て自分で作業し、全ての荷物を自分で背負うことが必要だった。深いク
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レバスに落下しても、登山隊ならば繋いだロープが助けてくれる。単独登頂は遭難したことも、クレバスに落下したことも、誰にも伝えることさえできない。
栗城は失敗して下山することも含め、人間の限界への挑戦を通して生々しい心の中をさらけ出すことで、人々に勇気を与えていた。多くの苦しむ若者や障害を持った人々を救い、自分の殻から出る勇気を得た若者がどれだけいただろうか。
「登るつもりはない」「下山家」など、本当に多くの言葉が投げかけられた。もちろん沢山のありがとう。勇気をもらったという言葉も多かった。しかし先月8回目のエベレストへの挑戦で岩壁を滑落し、彼は亡くなった。 歳だった。
短い人生だったが、清々しさを感じる最後だった。残念ではあるが、悔いの無い生き方だった。彼のこれまでの挑戦の軌跡はこれからも、同世代の時間を共有してきた若者たちを支える道標となり、苦しい時に勇気を与える存在となった。これからも彼の生き方は多くの人々の心を動かすだろう。栗城を非難してきた者たちには、苦い後味を残して行くだろう。
あえて苦しい厳しい山を登る。限界まで挑戦する。心の限界を越える。踏み出す勇気。
何かが見えるだろうか。自らあえて厳しい山を登ってみようと思う。
2018年6月9日、TIME & STYLE MIDTOWN(六本木)にて、新進気鋭のピアニスト・三浦謙司さんのソロライブがひらかれました。三浦さんは13歳でロンドンのパーセル・スクールに入学。ベルリン芸術大学やハンス・アイスラー音楽大学で研鑽をつみ、現在はメニューインが設立したLive Music Nowのアーティストとしても活躍しています。昨年8月には第1回Shigeru Kawai国際ピアノコンクールに優勝し、今回のコンサートにも河合楽器のグランドピアノ「Shigeru Kawai」を使用。チャイコフスキー国際コンクールやショパン国際ピアノコンクールに出場予定とのことで、日本を代表するピアニストの一人になると思われます。。ボッティチェッリやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなど多くの芸術家を生み出したルネッサンスは、メディチ家をはじめとする大商人の富と、市民が政治に参画する共和制から生まれました。大商人がコムーネの党派争いを勝ち抜くには、芸術のパトロンとして力を示す必要があったのです。中世のキリスト教世界から放たれた市民は、自分の価値観で芸術を評価し、容赦ない批評が作家を鼓舞しました。15世紀なると貴族や公証人からも有名な芸術家が現れ、職人の一種だった画家や彫刻家は、創造性豊かな、特別な才能をもつ人物として扱われはじめました。ピッティ宮殿から歩いて10分ほどの「サンタ・マリア・デル・カルミネ教会」。ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロなどが足繁く通った教会として知られています。
画家を夢中にさせたのが「ブカンカッチ礼拝堂」に遺されたルネッサンス初期の画家マザッチョのフレスコ画(1427年頃)でした。彼は遠近法を最初にとり入れた画家といわれます。
アルノ川上流の公証人の家に生まれたマザッチョは、4歳の頃に父が他界するとフィレンツェに出て画家修行をします。壁画は絹織物業を営むブランカッチ家が画家マゾリーノに依頼したもので、マザッチョに声をかけ共作しました(後にフィリッポ・リッピも筆を加えています)。マザッチョの革新性が特に示されるのが、祭壇に向かって左手の「アダムとイヴの楽園追放」で、旧約聖書のエピソードを激しく泣き叫ぶ男女という現代的な表現で描いています。
近頃スーパーのビール売り場で国産の「エール」をよく目にするようになった。初めてエールを飲んだのは今から四十年近く前、英国南西部の古都バースのパブだった。バースとは英語で風呂を意味するバスだ。古代ローマが英国に侵攻してきたとき、この地の温泉を開発して、ローマ風の大浴場を作ったことが始まりで、二千年以上昔から温
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泉を中心とする保養地として栄枯盛衰を繰り返してきた小都市だ。現
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在バースは英国でも有数の観光都市となっている。だが、私が初めて訪れた当時は、観光客もまばらで、間違いなく衰退期だった。分厚い壁の 世紀石造りの建物が続く中を、石畳の舗道を抜けて向かったパブ。ほの暗い照明、店内の匂い、カウンターの手触り、カウンター前には静かに話をしながら立ったままチビリチビリと舐めるようにビー
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ルを口にする老いたお客の姿。ビールは勢いよくゴクゴクと飲むもの、という固定観念はこのとき消え去った。そしてそこで初めて「エール」と呼ばれる、ビールの親戚のような飲みのものがあることを知り、迷わずダークな色のエールを頼んだ。そのトロリとした風味と独特の香り。エールは本来、大麦を主体とした穀物モルトを素材として、ホップを使わない上面発酵の発泡飲料を指す。欧州では特に英国で、古くから造られてきた。底面発酵でホップを加えるビールと比べるならば、エールは風味において、よりまろやかかつ重めだ。いわばスーパードライとは正反対の味わいで、そのおいしさは室温より僅かに低い温度で最もよく味わうことができる。その意味で、冷蔵庫でキンキンに冷やしたエールなどというのは、熱し過ぎの燗酒同様、いただけない。
ところで「パブ」という呼称は「パブリックハウス」の短縮形として、
世紀に入って初めて使われ始めた言葉で、その歴史は古くない。では、居酒屋兼簡易旅館としてのパブリックハウスはいつ頃からあったのかと言えば、これも 世紀に入ってからのことで、江戸中期以降ということになる。それ以前、イングランドで庶民の居酒屋といえば「エールハウス」だった。そう、エールを飲ませる酒場だ。都会はもちろん田舎の村々にも必ずあって、地域の貧しき庶民の猥雑なたまり場的な存在だった。もともとエールは日本のどぶろく同様、農家であれば仕込むのが当然というようなものであって、「造り酒屋」的専業を必要としない。なので、街道沿いなどにある家がその一部を開放して自家製のエールを出す、というような所が多く、いわば居酒屋の民宿版とでもいうべきものが大半だったらしい。唯一例外的に大規模な醸造を行っていたのが修道院系の寺院(教会)だったが、こちらは、ヘン
リー 8世によって徹底弾圧され、 世紀末までにはほぼ消え去ってしまう。いずれに
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しても、当時イングランドで最も日常的に飲まれていたアルコール飲料は、間違いなくエールだった。ホップを使わないエールの歴史は古い。この島国の先住民族たるケ
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ルト系のブリトン人の日常飲料だったからだ。紀元前 年に島に侵攻してきたシーザー以来、古代ローマ側に残る記録でこのことが判明している。英国と言えばアングロ
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サクソン人種の本拠地と思われるかもしれない。だが、この人種は紀元後 5〜6世紀
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にかけて、大陸から侵攻してきたゲルマン系の人種であって、島の先住民族ではない。古代ローマ人たちが 世紀末にブリテン島を去って後、この島に侵攻してきた好戦的な民族だ。16
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先住民たるブリトン人は、このアングロサクソンの武力に蹴散らされたわけで、そのブリトン人の子孫が多いと言われるのが、現在のウェールズ、スコットランド、コーンウォールといった地域だ。言語をはじめ古い文化の痕跡が色濃く残る一帯で、伝
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統飲料エールは、今もこの地域で大切にされる。そんなエール主体だったイングランドに、55大陸からビールが本格的に持ち込まれ始めるのは、 世紀末だ。島の良質な羊毛を求めて来訪したフランドル(現オランダ・ベルギー地域)の商人が持ち込んだもので、この対フ21ランドル羊毛交易の爆発的な進展は、イングランド社会に様々な変化をもたらす。その変化のひとつがビールの台頭だった。この新たな変化をめぐって 世紀半ば、ヘンリー 世時代のロンドンで、ちょっとした事件が起きている。エール醸造者の同業者組合が、ビール排除の動きに出たのだ。その声明の中で「外国の怪しげなホップなる素材を使うビール」というニュアンスの言葉を使って非難している。この時点でいまだビールは、
「異国の飲料」と見られていたのだ。だが、伝統のエールは急速に人気を失い始め、
世紀末には、ほぼビールの天下となってしまう。以降エールは、度数を高めて保存
性を良くしたインド植民地向けの特殊なものを除いては、少数派のローカルな飲み物
として、細々と命運を保っていくことになる。
ところが 1970年代から一種の民族主義的な郷愁と相まって、エール復活の動
きが出てくる。 世紀末以降一般化した濾す作業と低温殺菌をせず、樽内で熟成進行
中のものを楽しもうという志向だ。そして 世紀に至るとハイテク利用のマイクロ・
ブリュワリー(小規模醸造所)の設立が容易となり、スコットランドやウェールズを
中心に各地で小規模醸造所の設立が相次ぎ、ここ数年はブームと言っていい状況を迎
えている。これら新しい醸造元が目指すのは、自然農法によるオーガニック素材重視。
できるだけ自然な醸造過程の維持。鮮度重視。一方で、素材さらには酵母でさえ、上
記目的に合うならば、海外からの取得も厭わない。もはやホップ使用の有無という視
点ではなく、よりナチュラルな新たなビール的飲料を創り出そうと各社が競い合って
いる観がある。島のケルトたるブリトン人の伝統飲料は今、新たな時代を迎えつつあ
る。それは「グローバリズムとローカルな伝統のせめぎあい」という、 世紀の食文
化史、最先端の問題でもある。
フィレンツェ最古の橋ポンテ・ヴェッキオ。上はピッティ宮殿とウフィツィ美術館を結ぶ「ヴァザーリの回廊」。下はメディチ家に誘致されたといわれる宝飾店が並んでいます。フィレンツェは毛織物や革細工、宝飾、製薬など、多くの職人を抱える街でした。ヨーロッパは13世紀以降、天候不順などで食料が不足し、飢饉や疫病が頻発しました。都市では富裕層が穀物を専有し人々を苦しめましたが、フィレンツェでは公定価格の設定やパンの配給によって労働者が飢えに苦しむことは少なく、周辺の農村からも多くの人が流入しました。
グローバルなハイファッションと、ルネッサンス時代の街の融合が、フィレンツェの魅力をひき立てます。
現在は香水や石鹸で知られ、
サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局は、修道僧による薬草の栽培をルーツとした、現存する世界最古の薬局といわれます。カテリーナ・ディ・メディチのために考案された「王妃の水」はコロンの原点とされ、ヨーロッパ諸侯から愛されてきました。メディチ家も「メディスン(medicine)」から来た名前と考えられ、先祖は医師か薬剤師だったという説もあります。
都市生活者の街フィレンツェでは、すでに15世紀頃から核家族化がすすみ、一世帯平均は 4人以下で、約 6割は核家族だったといわれます。井戸の共有などで地縁的な共同体が発達し、自警団が組織されました。職業団体のつながりも重要で、貿易商人や毛織物、大工、パン屋など組合(アルテ)が結成され、メンバーの利害を調整し、葬儀や未亡人の生活保証など相互扶助をはじめます。組合は政治的な力を持ち、権力者にとって無視できない存在になりました。
インテリア ライフスタイル
恒例のアトリウム特別展示は「For Here or To Go?」。ディレクター山田遊さんのオフィス「メソッド」は、事務所を会場に移して公開(左写真)。様々な交流が生まれました。
2018 年5 月30 日〜6 月1 日まで、東京ビッグサイトで開催された Interior Lifestyle Tokyo 。第 28 回を迎えた今年は、29 カ国・地域から 810 社(国内:615 社 海外:195社)が出展し、25,302 名が来場しました。
アトリウムの構成はシンプルで、各ブースの奥行きを浅く、間口を広くしたのが特徴。沢山の人が一度に見やすい展示となりました。下は大阪府和泉市・堀田カーペットのブランド「COURT」。巨大なウィルトン織機で緻密に織られた本物の国産ウールカーペットです。知り合いのデザイナー松岡智之さんがブースを訪れ、代表の堀田将矢さんと話が弾みます。
HOMESTEADは、イギリスのジャカード織工場に眠っていた1950年代のパターンを復刻。ジャカード織は表と裏の両方に柄がでるので、ジャケットに使うと面白い表現ができます。生地のウェイトを変えれば、カーテンや椅子張り地などにも使えるとのこと。インテリアの見本市は活気があって楽しいそうです。イタリアからはイタリア貿易促進機構(ITA)とイタリア大使館貿易促進部によってイタリアンパビリオン15社が出展。下はカーボンファイバーを使ったムルティ・デザイン社のエアロバイク「チクロッテ」。リビングや寝室に置いてもお洒落なデザインです。
広島・鞆町の金属加工メーカー「三暁」は、船の錨をつくる自由鍛造技術を応用した家具を提案。鞆の浦は古くから風待の港として知られ、船具づくりの盛んな場所。今も古くからの技術を守り続ける工場があります。
東京・六本木のリビング・モティーフは、スウェーデンの家具ブランド「massproductions」を紹介。シンプルで高品質。価格も手頃なのが特徴。
YO no BIは、肥前吉田焼の急須・湯呑「B& H」を発表。吉田焼のある佐賀県嬉野は、日本最古ともいわれる茶園があり、茶器を生産する窯元が多いそうです。デザインは橋本夕紀夫さん。同じ橋本さんがデザインした「KABUTO」の陶器バージョンも。創業 130周年を迎えた倉敷の老舗機屋
「TAKEYARI」。ベルギー製シャットルによって織られた極厚の綿帆布を使い、ソファとクッションの中間的な座具「ABCD」を開発。デザインはフェイ・トゥーグッドさん。
TIME & STYLEは、隈研吾さんデザインの家具コレクションのほか、関ヶ原石材(岐阜)とコラボレーションした大理石、御影石のテーブルを発表。6月20日から始まるASAHIKAWA DESIGN WEEK 2018では、TIME & STYLE FACTORY(東川市)にてオープンファクトリーがひらかれます。アパレル向け店舗什器・ディスプレイメーカー・日本コパックは、ホームユースの家具ブランド「clokee」を発表。「服と暮らす」をテーマとして、お気に入りの服をクローゼットにしまいこまず、生活空間で一緒に暮らし、大切にケアする。そんなライフスタイルを提案したいとのこと。ファッションのリアル店舗が減少するなか、これからはホームユースにも挑戦したいといいます。
和歌山・海南市の漆器メーカー「角田清兵衛商店」。紀州漆器は、中世から根来衆によって作られていた根来塗をルーツにもつ産地です。曲げわっぱをモチーフにした「くりぬき弁当箱」は、木の塊をルーターでくりぬき丁寧に仕上げたもので、ガラス系コーティング剤(ナノコート)によって陶器などを同様に洗え、シミもつきにくくなっています。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に隣接した「サン・ジョヴァンニ洗礼堂」は、フィレンツェで最も古く、洗礼式を行う重要な教会です。沢山の人が眺める黄金の扉「天国への門」は、彫刻家ロレンツォ・ギベルティによるもの。少し地味な北側の扉「キリストの生涯」は、1401年に開かれた世界初といわれるデザインコンペで選ばれました。最終候補は若きブルネッレスキとギベルティに絞られ、ギベルティが勝利。本物の扉は「ドゥオーモ付属美術館」に展示されています。ドゥオーモ付属美術館に展示されている天国への扉とキリストの生涯。コンペに勝ったギベルティは、代々続く金細工師の家に生まれ、職人の修行を積みました。一方ブルネッレスキは、エリート階級であった公証人の子としてラテン語や算術を学び、その上で芸術家への道を選びます。コンペに破れたブルネッレスキは、傷心をかかえローマに旅立ちます。そこで古代ローマの建築に触れたことが、ルネッサンス美術に革新をもたらすのです。
サン・ジョヴァンニ洗礼堂は、若者が洗礼を受け成人として認められる場所で、古代ローマからの神殿と考えられていました。正八角形の珍しいプランで、外壁は白い大理石に緑色の蛇紋岩を組み合わせています。天井はドーム状になっています。
ヴィザンチン風の華麗な金地のモザイクの上に、アダムとイヴの楽園追放や最後の審判、ヨハネ伝、キリスト伝などがぴっしりと描かれ、発注者である大商人組合の栄華を伝えています。
ドゥオーモ付属美術館で展示されている「フィレンツェのピエタ」。ミケランジェロ晩年の未完の作品で、自らハンマーを振るって破壊したともいわれます。荒く彫られたままのマリアが、フォルムを越えた存在感を放ち、魂により近づいた印象を与えます。
14世紀後半から建設の始まったサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。地上約 45mまで建設が進んだ1417年に、巨大なドーム(クーポラ)の建設という壁に阻まれます。ドームを建築に欠かせない木枠(追枠)を建てることが難しく、アイデアを公募しました。そこに天才的な提案を行ったのがブルネッレスキで、ローマで学んだ古代の建築様式や技術を復活させました。例えばクーポラの建造にレンガの矢筈積みを使い、レンガを斜めにしっかり噛み合わせることで、木枠無しで構築できました。頂点に置かれたランタンには、古代建築のオーダー(柱)が再現され、これがヨーロッパに広がり古典様式の復興につながったといわれます。また、ブルネッレスキは遠視図法(パースペクティブ)を確立した人物ともいわれます。自分の視点を固定し見えるもの全てを科学的に描くという考え方は、原罪をもつ人間には神の真実が隠されているというキリスト教世界とは異質の、ルネッサンスを象徴する考え方が誕生します。遠方の柱を小さくして空間をより広く感じさせたり、オーダーを並べた半円アーチの並ぶ回廊を設計したり、ブルネッレスキは史上初のアーキテクトともいわれます。
クリスチャン・ラクロワによる、MAISON LACROIXコレクション。博物誌のような野鳥たちが印象的。
Nouveaux Classiques (ヌーボー クラシック)は、Roche Bobois のネオ・クラシックライン。ロココや新古典主義など18世紀フランスの古典からモチーフをとりながら、いまの暮らしのなかで、気軽につかえる雰囲気をもっています。
ルイ15世風のコンソールは、色や装飾金具が選べます。リモコンで上下するバーキャビネットや、映画に出てきそうなガーリーなデスクとアームチェアなど、ラグジュアリーのなかに、遊びを感じさせるコレクション。
かつては陳情に訪れる市民でごった返したヴェッキオ宮殿。映画「ハンニバル」では、レクター博士を追っていたパッツィ刑事がテラスから吊るされました。これは、メディチ家暗殺を企てたパッツィ家の処刑にちなんでいると思われます。マザッチョやブルネッレスキなど、初期のルネッサンス芸術をリードしたのは、公証人の子息たちでした。公証人は輸出入の証明書や金融証書、契約書などを作成するため、ラテン語の知識が求められました。ラテン語で書かれたローマの古典文学などに親しむうち、人間の高貴な志を肯定する古代思想に共鳴した人文主義者が登場します。人間の尊厳は自由であることによって実現し、自由を保証する社会を維持するためには、市民の政治への積極的な参加が必要。高貴な人間は出自ではなく、人間としてのあり方によるもので、貴族による独裁政治は許さない。こうしたフィレンツェの共和制を象徴する建物が、「ベッキオ宮殿」でした。15世紀、金融で成功したコジモ・デ・メディチによって、メディチ家のフィレンツェ支配は確立されましたが、ベッキオ宮殿の議会は続けられ、表面上は共和制が保たれました。一時はフィレンツェの税金のおよそ 65%を負担しますが、独裁を嫌うフィレンツェ人文主義に配慮し、コジモはあくまで一市民としての立場を貫きました。ヴェッキオ宮殿に隣接する「ウフィツィ美術館」。トスカーナ大公コジモ1世が、ヴァザーリに設計を依頼し1560年に着工。当初は街中に点在した行政機関のオフィス(ウフィツィ)を一カ所に集約することが目的でした。アルノ川沿いの砂地をコンクリートで固めた基礎の上に建設され、1591年から一部公開が始まった、ヨーロッパ最古の近代式美術館です。ボッティチェッリをはじめ、ルネッサンスを代表する画家たちの作品 2,500点以上を収蔵するウフィツィ美術館。館内では、社会見学の子どもたちをよく見かけます。ボッティチェリの代表作「プリマヴェーラ」は、メディチ家の別荘に飾られていた絵で、コジモが支援した「プラトンサークル」の活動を体現しているといわれます。サークルにはメディチ家周辺の人文主義者が集い、古代ギリシャの哲学者プラトンにならい、愛や美を巡る知的な討論を行いました。プラトンの著書のラテン語訳も進められ、その活動はコジモの孫ロレンツォに受け継がれました。プリマヴェーラの解釈のひとつ。右から左にかけて、春を告げる西風の神ゼピュロスが 3月の冷気を吹き飛ばし、ニンフのクローリスを拉致しようとしている。ゼピュロスと結婚したクローリスは花の女神フローラとなってバラの花を大地へと撒き散らす。中央のヴィーナスは背後のオレンジ園(メディチ家を象徴)を運営し、左端のマーキュリーが園を守っている。
プリマヴェーラと対をなす「ヴィーナスの誕生」。プラントンアカデミーでは、ヴィーナスを愛の絶対者と見なし、古代における聖母マリアと考えていました。モデルとなったのは、ロレンツォの弟、ジュリアーノが恋したシモネッタ・ヴェスプッチといわれています。
ボッティチェッリによる「マギの礼拝」は、メディチ家の歴史を物語っています。中央でマリアにかしずいているのが、
「フィレンツェの父」と呼ばれたコジモ。メディチの栄華は、コジモの父・ジョヴァンニが銀行業で大成功したことから始まり、コジモの代に事実上の支配者シニョリーナとなります。中央にいる赤マントの男性はコジモの子・ピエロで、病弱でありながら、芸術のパトロンとして評価されています。左端に立つロレンツォはピエロの子で、豪華王と呼ばれ政治や外交に手腕を発揮しますが、メディチ家の銀行は破綻寸前で、公金を流用するなど独裁を強め、共和制を形骸化させます。その反発からパッツィ家の陰謀が起こり、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で起こった暗殺事件により、弟ジュリアーノを失います。15世紀になると、フィレンツェのルネッサンスはヨーロッパ各地に伝播し、北方ルネッサンスを呼び起こします。ドイツ・ヴィッテンベルクの画家ルーカス・クラナッハは、生々しい人間としての「アダムとイヴ」を描き、マルティン・ルターの宗教改革にも関わりました。ヴェネティアのルネッサンスを代表する画家ティツィアーノ・ヴェチェッリオによる「ウルビーノのヴィーナス」。ウルビーノ公爵の発注により描かれ、背後にはチェストの原型となったカッソーネ(長持ち)が描かれています。侍女はヴィーナスの服を探しているように見えますが、貞節をあらわす子犬は眠っていて、挑発的な目で観るものを誘惑します。この絵が描かれてから約 300年後、マネは問題作となった「オランピア 」で、ヴィーナスを人間の女性に置き換えて描いています。レオナルド・ダ・ヴィンチの初期作品と考えられている「受胎告知」。マザッチョの作品などから学んだ遠近法や
ぼかし技法を駆使し、地面にはボッティチェリ「プリマヴェーラ」のようなリアルな花が咲いています。教会の壁に飾られる予定で、右下側から見られることを想定して描いているといわれます。ロレンツォ・デ・メディチは財政難の時期に、フィレンツェの芸術家を各都市に派遣し外交に活かしました。その死後、メディチ家はフィレンツェを追われますが、次男のジョヴァンニはレオ10世としてローマ教皇に即位。カトリーヌ・ド・メディシスはフランス王家に嫁ぎブルボン朝の祖となり、傍系のコジモ1世がトスカーナ公国王になるなど、ヨーロッパ史に影響を与え続けました。
つれづれなるままに第48回ストラディヴァリウスの感動内田 和子
チェロ 2台、コントラバス、チェンバロ、総勢
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サントリーホールで開かれた、ストラディヴァリウスの
コンサートを聴く機会を得た。
前から 列目の真ん中というなんとも贅沢な席で、ベル
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リンフィルメンバーによる 台のストラディヴァリウスと
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に聴き入った。 1週間以上たった今でも感動があふれ出て言葉が出てこない。バイオリンマスターの一呼吸で始まった演奏に魂を揺さぶられた。指揮者はいない。チェロとチェンバロ以外は全員立ったままである。互いの息づかいと奏でる旋律が美しい渦になって舞っている。シューベルトやヴィヴァルディなど聴いたことがある曲もあったが、スペインの伝統音楽やルーマニア民族舞曲は初めて
っかりと目に焼き付いている。
アンコールに何度も応えてくれ、追加演奏もしてくれた。ストラディヴァリウスがよく見えるように高く掲げたり、前の席の方には近づいて披露してくれた。前列にいた小さな女の子が思わずさわろうと近づいたが、さすがにそれはできなかった。でもそんなハプニングも生演奏会ならではの素晴らしい一コマになった。
聴く曲だった。
名がソ
ロで演奏した。音色を聴き分けられるということは到底できることではないが、 300年の歴史的銘器といわれるストラディヴァリウスを奏でる一人一人の姿、顔、形はし
思いがけない招待で出かけた演奏会だったが、久々に大
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きな感動を得た 日だった。
帰ってからとっておきのワインを開けて、ひとり乾杯を
した。ブラボー !!!
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名の演奏
ストラディヴァリウス サミット・コンサート2018 HPより
ストラディヴァリウスの感動
もう一つは、静かな感動。東京ステーションギャラリーの「夢二
繚乱」。1200点を超える竹久夢二の作品が千代田区に寄贈されたことを記念しての展覧会である。
市民講座の枠内で開場時間前に館長から特別に展示説明を受けることができた。美人画で有名な竹久夢二だが、子供の姿を描いた作品はどれも優しくほのぼのと表情も豊かで見飽きることがない。一通り見てまた戻って見たが、何度見てもいい。
雑誌や新聞の挿絵を多く描いているが、関東大震災の時には、ジャーナリストとして被災地をまわり記事を書き、状況を絵に残している。明治の終わりから大正時代、西洋文化が怒涛のように入ってきた時代、虚ろげな姿と変わりゆくエネルギーから生み出される新
しいデザインが不思議な感覚で交差する。会場には、自伝を元に広いスペースで夢二の生涯を紹介しているが、そこには女性の名も数多く登場する。描かれている多くの美人画から大正時代に生きた女性たちの姿を、少し巻き戻して見てみたいと思った。
母は生きていれば 100歳を
超えているが、大正生まれである。まさに大正デモクラシーの中で生きた人である。夢二の中に描かれている幼子の姿だったかもしれない。関東大震災を経て、戦争への道がひたひたと迫る中で女性としてどんなおもいで生きていたのだろう ……ふと、思う。「美人画の竹久夢二」と思っていたが、展覧会で観た「子供の遊ぶ姿」は静かな感動だった。
鬱陶しい梅雨ではあるが、水を含んだ木々は美しい。紫陽花は雨がよく似合う。
雨が降ればこれ幸いと掃除も洗濯も棚上げにして、サッカー観戦もできる。買ったままの CDも聴こう。読書はなかなか進まないが、分厚い本を手にするだけでもいい。
長靴を履いて梅雨の散歩を楽しむのもよし。小さな感動を得られる日々を願いたい。
別冊太陽「竹久夢二の世界」から。
5月の下旬。福島駅前から「東北アクセス」の路線バスにのって、浪江町まで行ってみました。福島駅から川俣町、飯舘村を通り、南相馬市・原ノ町駅で常磐線に乗り換えて「浪江駅」へ。途中、バスの車窓からは、川久保町、飯舘村が見えます。
川俣町の街並み。福島第1原発から北西へ約46kmにあり、浪江町の方々が一時避難した町のひとつです。2011年3月12日早朝、福島第一原発から10㎞以内の地域に避難指示が出た際、多くの浪江町民は自家用車で国道114号線を通り、北西の浪江町津島地区へ向いますが、避難先の小中学校は満杯となり、その先の川俣町などへ避難したといわれています。
浪江町では 2017年 3月31日に、町の中心部で避難指示が解除されました。一方、北西の山間部はいまだ帰還困難区域となっています。駅北側の「浪江町地域スポーツセンター」がオープンし、昨年秋には名物の「十日市」も復活しました。
津波の被害が特に大きかった請戸地区では、高さ7.2mの堤防の建設が進んでいました。
震災前は、高級なヒラメなどで知られた請戸漁港。津波で傷ついた防波堤や岸壁の修復が終わり、今年の1月には7年ぶりの出初め式が行われました。現在は、魚種や漁場を限定した試験操業が行われています。
請戸漁港から福島第一原発までは約6.5km。津波のあと浪江町は停電し、不安な夜を過ごした町民に、10km圏外への避難指示がでたのは3月12日の早朝5時すぎでした。着の身着のまま自家用車での避難が始まりますが、沿岸の道路や国道6号線などは津波のため使えず、国道114号線で北西方向に向いました。3月12日15時36分、1号機の原子炉建屋が水素爆発を起こし大破。結果的に放射線量の高い地域に多くの住民が避難することとなりました。
放射能汚染地図(六訂版)2012年3月2日早川由紀夫教授
請戸小学校の生徒は高台などに避難して無事でした。時計の針は、津波到達の時刻で止まっていました。津波で家を流された請戸地区の住民は浪江小学校などに避難し、警察や自衛隊によって避難所の準備が進められていましたが、10km圏外への避難指示により車に同乗するなどして津島地区や川俣町を目指しました。津島の小中学校は1万人以上の人や車でごったがえしたそうです。震災当日、請戸小学校の生徒たちが走って避難した大平山。いまは請戸地区の墓地を集めた霊園がつくられ、慰霊の山となりました。東電と浪江町の間では、原発事故時の「通報連絡協定」が結ばれていましたが、町に連絡はなく、ネットやテレビで情報収集するしかなかったようです。国や県からの指示もないまま、町はテレビ報道をもとに避難を実施しますが、当時は緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の放射性物質拡散予測が公表されなかったため「結果的に多くの町民が避難先の津島で放射線を浴びてしまうこととなった」と町は記録しています。大平山に設けられた慰霊碑。原発事故のため沿岸部は立入禁止となり、救助活動を継続出来ませんでした。「助かった人がいたのでは」という思いは、今もあります。震災当時は、21,000人を超える町民が全て避難対象となり、着の身着のままで避難して以来、警戒区域への一時立入り(1 回目)が実施されたのは、5 月下旬になってからでした。長引く避難生活による震災関連死は、418名に及んでいます(2018年 5月現在)。
スーパーマーケットの未来を担う?「グローサラント」の波が日本へ…
ストアデザインの中でも、多店舗展開を目的としたチェーンストアをブランディング構築の視点でデザインすることが私の仕事の中心です。コンビニ、ホームセンター、ワーキングツール・ウエア専門店など、幅広い業態開発に関わって来ていますが、その中でいま、食品を扱うスーパーマーケットが時代の大波に激しく洗われています。世界でも類を見ない少子高齢化の急速な進行による消費の変化、慢性的な人手不足、またドラッグストア等の食品販売率の大幅な伸びは、従来の業態を超えた競合を誘い、なかでも一番手強い大波は「eコマース」と呼ばれるネット販売です。
■ リアル店舗ならではの体験「グローサラント」アメリカではその波が、すでに大きな変化をもたらしていま
アメリカで人気のイタリア系スーパー「マリアノス」。店内に本格的なハードリカーも提供するバーを備えています。
す。マウスをクリックすれば望むものが手に入るオンライン
ストアが広がるなか、食材だけの「リアル店舗」では、来
店客数の減少は目に見えています。たしかに 7〜 8年ほど
前から店内や店外のミニパーク等に、数十人規模が座れ
る簡単な椅子やテーブルのイートインをもうける店舗も見ら
れるようになりました。しかしその程度ではオンラインスト
アの利便性を上回ることは出来ません。「リアル店舗」は
お客様に来てもらわなければ成り立たないのですから。
そこに登場したのが「グローサラント」という新しい概念
と空間です。アメリカでは食品ストアを「グローサリースト
ア」と呼びます。そのグローサリー(Grocery)とレストラ
ン(Restaurant)を組み合わせた造語がグローサラント(Grocerant)です。
購入した総菜やデリカテッセンを楽しむイートインだけでな
く、もう一歩踏み込み、レストランに負けないレベルの食
事とシーンを店内や敷地内で提供し、オンラインストアより
も先にお客様の「食べたい!」欲望を満たしてしまおうとい
う作戦です。いくつか例を挙げてみましょう。まずオーガニック、グルメ、健康志向、ベジタリアンなどをコンセプトとして、北米、カナダ、イギリスに 460店舗以上を展開するテキサス州オースチンのスーパーマーケット「ホールフーズマーケット
(Whole Foods Market)」では、地元で人気のレストランを店内に誘致しています。フォーチュン誌で毎年、働きたい企業トップテン入りの常連で、ニューヨーク州北部ロチェスターの「ウェグマンズ(Wegmans)」では、人気デリカテッセンを活かして、その延長線上にレストランを設けています。このチェーンは食品だけの店舗面積が概ね 9,900㎡と圧倒的な広さで、東海岸に 92店舗以上を展開。日本では類型が存在しません。アラモ砦で有名なテキサス州サン・アントニオの「H.E.バット(H.E.Butt)」は、州内とメキシコに 370店以上を展開。大半の店舗がスーパーマーケットとドラッグストアを併設することで知られていますが、有名レストランのシェフをヘッドハンティングして、新たなメニューを作り上げ、店内レストランで提供しています。アメリカのリアル店舗が創意工夫を盛り込んだ店づくりを進めるなか、最大のライバルであるはずの amazoneが 2017
今年4月、JR大阪駅 LUCUAにオープンした「キチマ」。本格的なナポリピッツアや生パスタも楽しめます。
店内のものを持ち込めるイートイン。アルコールも OK。
年8月にホール フーズ マーケットを137億ドル(日本円で1兆4385億円/1ドル105円換算)で買収したのです。オンラインストアがリアル店舗を傘下にしたのですから、小売業界は大騒ぎになり、日本中の小売業が今後の成り行きに注目しています。
■日本では「イートイン」の進化形が主流に?日本ではアメリカほどドラスティックな動きは始まっていませんが、イートインの進化形が「グローサラント」と理解されているようです。ヤオコー「南古谷店」ではベーカリーコーナー横のイートインに、コーヒーマシンやディスペンサーを置いてセルフ方式でドリンクを提供。量り売りの総菜や、弁当、寿司パックなどを持ち込み昼食をとるなど当たり前の風景となりました。注文を受けてから作る丼ものを始めた成城石井「トリエ京王調布店」では、店頭で販売する食材を使い、ステーキやパスタ、ハンバーガーなどを提供。気に入った料理があれば、指定された食材を買って、家で簡単に調理できます。日本型グローサラントの自然な流れはこの方式と思われます。アメリカのような本格的料理の提供まではありませんが、値段も手頃な「庶民派グローサラント」によって積極的なチ
ャレンジをはじめています。昨年夏、東京駅丸の内の地下「グランスタ」内に、イタリア・トリノ発の「イータリー(EAT+ITALYの造語でEATALY)」が再出店しました。小さなバーカウンターでハイスツールに腰掛けながら、店内で販売されているワインやチーズ、プロシュート(生ハム)を摘めますし、好きなパスタを注文し、店内に点在するテーブル席で食べることも出来ます。もし気に入ればその食材を買って持ち帰ることも出来ます。ニューヨークやミラノの「イータリー」とは比較にはなりませんが、「食べる、知る、買う」というコンセプトの一部を体験できます。
大手食品メーカーでは、徐々にグローサラント型スーパーマーケットが増えるものの、本格展開にはいたらないとの観測です。それは同じ生鮮食品を扱うとはいえ、スーパーマーケットとレストランの運営は180度異なるからです。オペレーションや提供サービスに共通点が見いだせません。ですからスーパーマーケット経営者は、「グローサラント」の取り組みに慎重になっていると思われます。そんななか今年4月1日、大阪梅田の複合ビル「LUCUA大阪」地下 2階に関西スーパーマーケットの勇、阪急オア
石窯ハンバーグや鉄板ステーキの他、店内で買った食材を自分で焼けるバーベキューコーナーもあります。
チョコタワーが目印のチョコ売り場。世界 400種が揃います。
シスによる「キッチン &マーケット」(通称「キチマ」)がオープンしました。1,900㎡近いスペースの中央に約100席のイートインを配置し、それをぐるりと囲むように売り場と小さなイートインを組み合わせています。ワイン売り場とワインバー、パスタ売り場と手打ちパスタコーナー、マグロ解体ショーコーナーと寿司カウンター、肉売り場内には家族で楽しめるセルフバーベキューコーナーなど……今まで日本には無かった「食べられるマルシェ」をイメージした、売り場と食事コーナーが渾然一体となった空間が登場しました。これはグローサラントよりも、マルシェ風イータリーともいえるでしょう。
日本では「いきなり!ステーキ」など特徴ある外食チェーンが勢いを持っていますが、飲食店全体には大きな革新は見られません。むしろ 55,000店を超えるコンビニがイートインの機能を担っていて、一人世帯の増加による個食化で、そちらに客が流れていると想像できます。はたして日本で「グローサラント」という機能が普及し、豊かな味と時間の提供を行う時代は来るのでしょうか? 自らの力で時代を捉え、新しい価値を提供するための試行錯誤が、スーパーマーケット全体で続くと思われます。双葉町との町境にはゲートがあり、震災から7年がすぎた今も「帰還困難区域のため通行止め」の看板が立ちます。そのすぐ近くには、帰還のためでしょうか。修繕を行っている家もありました。
宿泊・研修施設「福島いこいの村なみえ」。かつては町の宴会などにも利用されていました。一時的に戻った町民のための宿泊施設が整備され、帰還への準備が一歩づつ進められています。
町の中心部では、建物の解体作業が進んでいます。3月12日に全町民が避難してから数年にわたり、一時立入り以外はほぼ無人状態が続いたため、養豚場の豚やイノシシなどが建物の中に入り込み、使用できない状態になりました。繁華街には飲食店も多く、かつては原発関連の方々で賑わっていました。
震災当日は、着の身着のままに避難した浪江町の住民でしたが、3月15日には二本松市の体育館や施設に集団で避難することが決まり、親戚などを頼って県外に出る方もいました。町役場も数度の移転を繰り返しましたが、今は本庁舎が再開されています。現在は約 14000人が福島県内、約 6000人が県外にいて、県内では、いわき市、福島市、南相馬市、郡山市に多くの方がいらっしゃいます。浪江市への帰還者は 520人(2018年 5月31日現在)です。帰還を促進するため、旧・雇用促進住宅(計 80戸)を改修した公的賃貸住宅や、災害公営住宅(全 111戸)災害公営住宅(全 111戸)が整備されました。町のアンケートによると「帰還しないと決めている」住民は約 50%。「帰還したいと考えている」は約 14%でした。
今年春に開校した、なみえ創成小・中学校には、元気に遊ぶ子どもたちやゲートボールを楽しみ方々の姿がありました。帰還者の多くは公的機関や除染・土木関連の方といわれています。避難解除から1年がたち、雇用の確保や住宅の再建、生活インフラ整備などほぼゼロからの出発が始まります。原発事故には、ひとつの町の歴史を絶つ力があると実感しました。