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7月号 愛逢月 2018 http://collaj.jp/
時空を超える美意識
1993年7月27日、群馬県・高崎に生まれ「文化の先覚者」といわれた井上房一郎氏が 95歳で亡くなりました。没後 25年を迎え、高崎で井上氏の足跡を忍ぶ旧井上房一郎邸の見学会がひらかれ、各地から学芸員や建築家、研究者、編集者などが集いました。都市に根付いた「文化のパトロン」として、絵画、工芸、建築、音楽を支援しながら、多くの若者たちを世に出した房一郎氏。今回は房一郎氏の関わった群馬県立近代美術館、少林山達磨寺(タウト)、旧井上房一郎邸、群馬音楽センターを通して、今の日本に失われつつある個人的なパトロンの活動を追います。
1974年秋、「群馬の森」に開館した群馬県立近代美術館は、建築家 磯崎 新氏の代表作のひとつとして知られています。2018年7月7日〜8月26日、企画展「サンダーソンアーカイブウィリアム・モリスと英国の壁紙展.美しい生活を求めて」開催中。磯崎氏は設計コンセプトについて「この群馬県立近代美術館の場合、連続した立方体の枠が、芝生のうえにころがっている状態がイメージされていた。そのフレーム以外の部分は透明で、背後がすけてみえる。この敷地はほとんど完全な平坦地で、樹立だけが視線にはいる。立方体の枠は、これらの樹木と重なりあって映ることになっていた。ということは立方体の枠だけが限定する場を美術館と呼ぼうとしていたことだ。美術品が展示されるということだけを考えれば、場がつくられさえすればいい。美術品に立体的な額縁をあたえることだ。」(『新建築』1975年1月号)と記しています。広大な「群馬の森」は、旧陸軍の火薬工場跡を利用し、明治百年記念事業として整備されました。美術館設立を最初に提唱したのは、高崎の建設会社・井上工業社長の井上房一郎氏でした。1962年に書かれた設立準備会の趣意説明に、房一郎氏は美術館にかける思いをつづっています。「日本の地方都市には、図書館があっても、ほとんど美術館はありません。図書による文化も必要ですが、美術品から調和を学ぶこともきわめて大切なことと思います。」房一郎氏は社屋の一角にファウンデーションギャラリーを設け、自らのコレクションを市民に公開するとともに、群馬県ゆかりの画家や遺族を訪ね、寄贈を依頼してまわりました。
ホワイエの天井を見上げると、12m角の巨大なグリッドが分かります。磯崎氏が「連続した立方体の枠が、芝生のうえにころがっている状態がイメージされていた。」と記しているように、建物は12m角のグリッドを並べる形で構成されています。
1998年には、群馬県立近代美術館と高崎市美術館で「パトロンと芸術家-井上房一郎の世界-」展が開催されました。そのカタログに掲載された対談で磯崎氏は、「僕が印象に残っているのは、群馬の美術館で白い大理石の基壇をホワイエにつくりました。あれは唯一妙な形をしているんですけれど、井上さんすごく気に入ってくれて、ある日、僕の葬式はここでやらせてもらいますよ、と言って、あれを祭壇と見立てて、そんなことをおっしゃったことがあります。」と語っています。
(写真は現在の展示と異なります)
「展示室3」は1998年に増築された現代美術棟にあり、中央に1本の柱を立て、基本形態のキューブや正方形を表現。自然光を採り入れながら、自動で光量を保つ調光システムを導入しています。
山口 薫の作品(写真は現在の展示と異なります)
壁を取り払った方形のなかに、もう一つ畳敷きの方形を入れ込んだスタイルは、美術館全体のコンセプトを踏襲しているように感じられます。一段下がったフロアには「にじり口」を構え、見えない壁を表現しているようです。
井上房一郎氏が美術館を構想した理由のひとつに、日本画や古美術品の海外流出がありました。「私は現代の托鉢行、美の托鉢行に出た。実は私の托鉢行は、フランスでの原体験に基づいてすでに戦前から行われていたが、埋もれたままの日本の古い美術品や郷土の作家の作品を蘇すために山間にわけ入り、古蔵の中をさがしまわった。他人には道楽に映ったかもしれないが、それは、将来の美術館のためにと思ってのコレクションであった」(『社会・藝術・建築』井上房一郎より)。蒐集品は「戸方庵井上コレクション」と名付けられました。中国、日本の書画が中心で、「戸方」は「房」の字を分解したと同時に、6歳で失った母「戸ウ」へのオマージュともいわれます。幼い頃の母の死が「外界へ目を向けさせるきっかけとなった」と房一郎氏は回想していたそうです。円山応挙「青鸚哥図」、雪村「山水図」、谷文晁「隅田川両岸図」、伝俵屋宗達「卯の花図屏風」、葛飾北斎「鯉図」をはじめ229点が美術館に寄贈され、山種記念館で定期的に入れ替えながら展示されています。
群馬県立近代美術館に隣接する「群馬県立歴史博物館」は大高正人氏による設計。外壁には群馬県藤岡産の瓦ブリックが使用されています。「近代美術館が正方形など幾何学形を主題にしたのに対し、博物館は伝統的な屋根の連なりを思わせる黒い屋根を主題とし、藤岡瓦や県内産御影石などを使った」と大高氏は回想しています。
人は、何も知らない幼児のごとく、天真爛漫・純粋無垢が一番。いらぬ知恵が不幸を招く。という考え方が底に流れているのだろうか ……。キリスト教の神様が理想郷としてお造りになったエデンの園の中央に、「生命の木」と「善悪の知恵の木」と名付けられた2本の木が立つ。「絶対これに触れてはならぬ」と神様からきつく言い渡されていたのに、男であるアダムの肉体の一部から誕生した「女」は、蛇にそそのかされて、その気になる。知恵の木の実をもいで食べ、これをアダムにも手渡した。
こうしてアダムは、蛇ではなく女に勧められるがまま「知恵の木の実」を食べ、神が人間には不要と定めた「知恵」を獲得するに至る。結果、
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ふたりはみずからが裸身であることを知り、生まれて初めてこれを恥ずかしく思い、イチジクの葉をつづり合わせて腰を覆う。神様はこれに激怒し、ふたりに恐ろしい罰を下す。子々孫々に渡って未来永劫、この重罪の償いをせよ! この宗派ではないので、なんですけれど、
「原罪誕生の瞬間」を語る旧約聖書創世記( 3: 1 − )「蛇の誘惑」の一節は、「ちょっと理不尽では」と感じられる。人は、より広く深く世界を知り、自身を知り、悩み格闘しながら生きてこそ、ではないのか。
それはそれ、西欧の絵画ではかなり昔から、この「禁断の果実」をヨーロッパでは身近な「リンゴ」として描くのが習わしとなっている。しかし、創世記には「実」(果実)とあるだけで、特に「リンゴの実」とは記されていない。一方「イチジクの葉」については、明確にそう書かれている。聖書の世界が、現在のシリア・レバノン・イスラエル・エジプト・ヨルダン・イラク一帯が舞台であることを考えると、禁断の果実をリンゴとするのは、植生として無理がある。聖書の記述を素直に読めば、これをイチジクの実と考えるのが自然ではないか。食文化史での通論だ。というのも、イチジクこそは聖書の舞台となった地域で、五千年の昔から現在に至るまで、盛んに栽培されてきた果樹に他ならないからだ。原産地はアラビア半島南部。これがシュメールやアッシリア文明を経てバグダードを誕生させる現在のイラク、シリアそしてトルコのアナトリア地方へと広まっていった、と推定されている。現在トルコの同地方は、世界屈指の乾燥イチジクの生産地で、干し柿の如きその袋詰は、日本の輸入食品店でも定番となりつつある。
古代ローマ時代に至るとイチジクは、イタリア半島南部で栽培されたのみならず、それ以外にも、ローマの宿敵カルタゴ(現チュニジア)や現リビアの沿岸地域からも運ばれていた。農産物の豊かさで知られたカルタゴからは、新鮮なイチジクが、船で3日のスピードで首都ローマに届けられていたという。西暦 年の火山大爆発で埋もれたポンペイの館の壁画には、籠に山盛りされたイチジクの壁画が幾つか残る。こうしてイチジクは、古代ローマという大帝国の広大な版図の隅々に至るまで、広くその存在を知られることになる。その大帝国
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崩壊後は、欧州諸語化された聖書の記述と共に、「イチジク=地上の楽園エデンの園
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の果樹」というイメージは拡散を続ける。その実物など見たこともない、ヨーロッパ
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の奥深き地域の人々の間にまで。
イチジクに限らず聖書には、ヨーロッパ北部とは無縁の植物が多数登場する。例えば乳香と没薬(もつやく)。共に独特の香りで知られるスパイスで、中世欧州では非常な高価で取引された。聖書での記述は人々の憧れの気持ちを掻き立て、希少であればあるほど、その価値は高まる。これを食べれば、天国パラダイスに一歩近づくことができる。 〜 世紀の十字軍遠征で、その実物を目にする野蛮な欧州人が出始めることで、豊かなる東方の聖なる果樹的イメージは一層拡散していく。ならば乾燥イチジクではなく、木そのものを移植できないのか。欧州の宮廷庭園への移植の試みが徐々に広まる中で、例えばイングランドでは1525年、後にカンタベリー大主教となるレジナルド・ポールが「マルセイユ種」の移40植に成功している。我が国でも、これに遅れること二百年ほどで、イチジクの栽培が始まったとされる。ただ日本では、「新奇なる果樹の一種」に過ぎず、欧州人が抱くような思い入れとは無縁だった。
では、思い入れがあると、どうなるか。乾燥はもちろん生であれば余計に、これを素材とした料理やデザートを食卓に出すことは、それだけで贅沢なことと考えられる時代が長く続き、凝った料理やデザートが生み出されてきた。イチジクに生ハムもしくはチーズなどいう素朴な発想とは段違いに深い食味の世界が追求されてきたと言ってもいい。また、カルタゴ文化の流れを受け継ぐチュニジアのユダヤ人たちは、イチジクを素材に「ブーカ」と呼ばれる 度の蒸留酒を生み出している。その伝統が現在ニューヨークの末裔に受け継がれて、そのマイクロ醸造所でもこれが造り続けられているから面白い。
この思い入れには実は、イチジクが象徴する、もうひとつ別の側面への強い嗜好が秘められている。創世記に記される「蛇・女・羞恥」。何やら怪しげな響きではないか。果実断面の独特の様相、その感触と舌触り。西欧では牡蠣と同様イチジクは、性的欲望を掻き立てるものとしてイメージされてきた伝統がある。文学や美術に様々な形で、これが描かれてきた例は少なくない。
そんな昔の話を持ち出さなくとも、その伝統を端的に象徴する、現代の一例がある。場所はイスタンブールのグラン・バザール。我々の舌には甘すぎと感じられる色とりどりのヌガーや菓子類、一般に英語でターキッシュ・ディライト(トルコの喜び)と呼ばれる様々な甘みの山。その中に、乾燥イチジクを蜂蜜でくるみ、中にナッツやレーズンを詰め、シナモンやナツメグで香り付けしたものが、ある。そこに目立つ形で記された品名が「トルコのヴァイアグラ」。伝統は、しぶとい。
高崎駅から信越本線に乗って群馬八幡駅へ。鳥川にかかる鉄橋から榛名方面。
群馬八幡駅に隣接するP&Gの工場。利根川や烏川、碓氷川など水量豊富な美しい川が上州平野を流れ、都心へも近い高崎には、協和発酵キリン、日本ケロッグ、第一屋製パン、タカナシ乳業(ハーゲンダッツ)、森永製菓、太陽誘電(電子部品)、FDKトワイセル(電池)、日本化薬(製薬)など、食品や機械、電子部品工場が点在しています。
「百十二級の石段を登ると、寺域内の桑畑と菜園との間に通じる小径が岐れている。ここからの眺望は実に素晴らしい」。ブルーノ・タウトの著作『日本雑記』の冒頭には、少林山の長い石段が登場します。タウトは日本に滞在した3年半(1933年5月〜1936年10月)のうち、1934年8月からの実に2年3カ月を少林山で過ごしたのです。石段をまたぐ鐘楼は、タウトお気に入りの建物でスケッチにも描いています。
『アルプス建築』から。
1933年に来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトは「桂離宮」の美の発見で知られますが、最大の作品は世界遺産となったベルリンの集合住宅群です。ドイツ工作連盟ケルン展の「ガラス・パヴィリオン」(1914年)や1919年に出版した「アルプス建築」によりドイツ表現主義の旗手として世界に知られたタウトは、1913〜 16年にベルリンの「ファルケンベルク」に田園都市を計画。住民による農作業や手仕事、相互扶助を提案し、建物を異なる色や形で彩った画期的な集合住宅でした。1920年にはマクデブルク市の建築課長となり、市庁舎をはじめゲーテの「色彩論」に学んだ色とりどりの建築を設計します。このころ発行した建築季刊誌「Fruhlicht」は世界中の建築学生に愛読され、来日の際、本にサインを求められています。第一次世界大戦後、賠償金を負ったドイツでは労働者が過酷な環境におかれていました。ベルリンに戻ったタウトは市の住宅供給公社で、労働者の集合住宅を設計します。1920年代には12,000戸を設計したといわれ、天井が高く採光や通風がよい室内や緑豊かな庭、揮発性有機塗料を使わない安全性など時代を先取りした設計で、100年近くたった今も入居者は絶えません。ブリッツ馬蹄型ジードルングやシラー公園ジードルング、カール・レギエン・ジードルングなどが世界遺産に登録されています。青いアジサイは、ドイツのものに似ているとタウトは言っています。
少林山で暮らしたタウトは毎日のように境内を散歩しました。境内を巡る「タウト思惟(しゆい)の径」は、タウトの足跡をゆっくり辿りながら、日常の思考とは異なる「思惟」の時間をもてたらと廣瀬正史住職により設けられました。
ヒトラー政権の台頭する1932年、ソ連に招かれたタウトはホテルや住宅、公共建築の設計に携わりますが、計画は進展せず失意のもとドイツへ戻ります。共産主義に傾いたとヒットラー政権に疑われ逮捕者リストに記載されていることを知ったタウトは、たまたま「日本インターナショナル建築会」から送られた招待状を命綱に、秘書のエリカ・ヴィッテッヒと共に急遽日本へ逃れ 1933年 5月 3日敦賀港に到着。翌日には同会の上野伊三郎氏(ウィーン工房に入所し所員のリチと結婚)の案内で桂離宮を見学します。京都では大丸社長・下村正太郎邸を定宿として、下村氏から様々な支援を受けました。5月18日には東京に向い、フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルに宿泊しながら、建築家石本喜久治(白木屋や東京朝日新聞社を設計)やバウハウスに留学した山脇巌・道子夫妻の案内を受けます。日本でもタウトの名はよく知られていて、ヴォーリズやレーモンドなど外国人建築家や日本の著名建築家、財界人などと頻繁に会い、大学で講演を行い、学生にはサインをねだられます。
日本の気候と全く合わないことを指摘します。コルビュジエやグロピウス、ミースを真似たモダン様式も、日本の厳しい日射や雨に耐えられず屍に化すだろうと記しています。
日の日記には迎賓館赤坂離宮(を見学し、 92月7年4391
タウトは東京や京都、葉山、仙台などを巡りながら、講演やデザインの指導を行っていました。タウトの高崎行きをすすめたのは、建築家・久米権九郎氏といわれています。1934年 5月 24日、久米氏の紹介でタウトは井上房一郎氏と初めて会います。タウトの日記によると……
「晩には久米(権九郎)氏、高崎の井上(房一郎)氏に招かれて、銀座の料亭でスキヤキを御馳走になる。(中略)久米氏が今晩もってきてくれた話は、今の私にとって非常にありがたい伝手(つて)であった。(中略)井上氏は、八年間パリに遊学し、始め画家を志したが、やがて父業を継ぐようになったので、工藝にも興味をもち、『輸出向き』の品に対抗してすぐれた質をもつ工業品を作ろうとしている。つまりこれまでフランスやイタリアの美術を研究して得るところがあったから、今度は日本人という自覚の上に立って、萬來の傳統に基づく最良の質を保持しつつ新しい優美な形を創造したい。(中略)ついてはこれから同氏の工房の顧問として工芸品の設計に当たってほしい、というのである」。タウトが初めて高崎を訪れたのは1934年 6月 9日のことで、房一郎氏は軽井沢星野温泉の井上家別荘へ招待して「今夏はここで仕事をして欲しい」と依頼します。星野温泉に泊まり軽井沢の景色と清涼にひかれたタウトは、ここならばと房一郎氏の希望を聞き入れます。
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鈴木 惠三 BC工房主人
70の流学
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「その昔、よく
BALI
オイラの昔とは、
年.
に行っていた。」
年前だ。
ここんとこ、ごぶさただった。
JAWA工房へ行くのは、もっぱらシンガポール経由が気に入っていた。街も、ホテルも、飛行場も、東京より、うんとキモチ良いからだ。一番好きなのは、人種いっぱいのダイバーシティ。インターナショナルを感じる都市だからかな。
でも最近は、 BALI経由で JAWA工房へ行くようになった。この機会に、もういちど BALIを深く知りたい。好奇心が湧いてきた。何十回と行っていながら、実はあまりフラフラ歩き回っていなかった。ホテルのプールサイドで、のんびり本を読んでるだけだった。
年前の素朴な
BALI
は、もう無いけど、
ゴチャゴチャ、ガチャガチャ、チャンプールの
30
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BALIは健在だ。
2050
7070
特に目につくのが、西欧系の老人だ。 代、 代の老人が多い。きっと、年金暮らしを BALI島で楽しんでいるのか?こんな老人たちを見ていたら、オイラの好奇心が、またまた湧いて
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きた。英会話とインドネシア語の学校へ行きたい!「 才の留学」だ。
海沿いの街「レギャン」の細い道の奥にある小さな Villaに滞在しながら、毎日、語学学校へ通う?オイラのことだから、学校はサボって老人たちとビールを飲んで、たわいない日々をおくる?
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年前頃、大学を出ても、まっとうな会社に入れないだろうから、「ヒッピーになろう、青年は荒野を目ざすで、バイカル号でヨーロッ
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パへ行こう」などと、妄想していた。あの頃のキモチで、 BALIの「いいかげんヒッピー」の仲間入りが、今の妄想?
才の頃と、 才の今と、同じような妄想だ。「自分で、自分に、アキれてしまう。」「誰に話しても、笑われるだけ。」「今どきヒッピーって、ウソだろう。」「いやいやオイラは、いいかげんに真剣だ。」「老人は、南の島を目ざす。」「 才の流学」
来年からは、「工房楽記」が「 BALI楽記」に変わる予定?
ブルーノ・タウトは、試作品を含め日本で 600点以上の家具や木工品、漆工品、竹工品、織物などをデザインしたといわれます。生活の中でタウトの作品を感じて欲しいと考えた少林山の廣瀬正史住職は、寺に伝わる緑色の椅子(写真左端)の復刻を試みました。
「緑の椅子リプロダクト研究会」が組織され、工学院大学建築学部 鈴木敏彦教授を中心に、タウトが指導した国立工藝指導所(仙台)の流れをくむ宮城県産業技術総合センターや天童木工などのコラボレーションによって、この 6月、製品化に成功しました。1933年11月から計4カ月にわたり、タウトは仙台の工藝指導所におもむき、剣持勇氏や豊口克平氏など若手所員を指導します。海外の雑誌など資料を元にした製品開発を改め、日本人の生活・体型などの調査研究から始まり、設計・デザイン、試作改良、客観的批評、完成・宣伝というマスターモデル(規範原型)づくりのプロセスを確立。これが剣持などに引き継がれ、日本の工業デザインの基礎となりました。少林山にのこされた「緑の椅子」は、工藝指導所でマスターモデルを開発した「木製仕事椅子」の延長にあるものと考えられます。今回の復刻には、最新のデジタル技術が使われました。宮城県産業技術総合センターでオリジナルの椅子を3Dスキャンした形状データを、デザインココ(仙台市)で制作用モデリングデータへ変換、山形県の天童木工で実制作されました。課題になったのは後ろ脚の強度で、タウトの目指した薄さにいかに近づけるかを天童木工の「不等厚成形」によって実現しています。モデリングデータを NCルーターに活用して制作の効率化をはかるなど、コストの掛かる椅子の復刻に、新しい可能性を示しました。
1934年 7月の末。高崎行きを決めたタウトを驚かせたのは、軽井沢の別荘が使えないという房一郎氏からの知らせでした。すでに荷造りを始めていたタウトはエリカを伴って8月1日に高崎に向い少林山に到着すると、2年3カ月におよぶ「洗心亭」の暮らしがはじまりました。その様子はタウトの日記だけでなく、当時の少林山住職・廣瀬大蟲師の五十回忌を記念した冊子「大蟲の獅子吼」にも生き生きと描かれています。大蟲師は少林山達磨寺第 16代住職で、18代現住職・廣瀬正史師の祖父にあたります。岩波書店に保管されていたタウト資料から発見された大蟲師の原稿によると、タウトに洗心亭を使わせて欲しいと言ってきたのは高崎の俳人・浦野芳雄氏で、最初は100日の約束だったそうです。タウトはアメリカへの亡命を希望していたので、認められ次第に旅立ちたいと願っていました。8月1日、タウトが大きな行李を数個、車に積んでやってくると見物客が押し寄せました。人懐こいエリカは半年ほどで片言の日本語を話すようになり、食事は朝は女中のまかない、昼は寺の庫裏でとり、夜はエリカの手料理だったようです。最初は週 1回だった入浴も毎日になり、出掛ける時はカメラを持ち歩き農村風景を撮りました。「写真は面白いもので、常人とは着眼が異なっているところが深く感じられた」と大蟲師は回想します。タウトの工芸品開発をサポートするため、建築家・蔵田周忠氏の弟子(眞井邦雄、原田一夫、磯村卓郎の 3氏)が大講堂に寝起きしながら作業を行いました。タウトを慕って遠くから来る若者に建築・デザインを教えたいと考えたタウトは、大講堂の壁をガラス張りにして採光を良くした改修図面を残していました。昭和 40年代には、第 17代住職廣瀬猛志師によってタウトの改修図面に従った改修工事が行われましたが、屋根の重みで歪みが出てきたため、平成7年に再度改修されました。一方タウトの日記によると、洗心亭に到着した 8月1日、大蟲師は床の間に大きな書の軸をかけ、香炉とアジサイを飾ってもてなしました。長女の敏子さんがとりわけ親切で、毎朝掃除を欠かさず季節に合わせた軸と花を飾ることにタウトは感謝の言葉をおくっています。ケーニヒスベルク(プロイセン)に生まれたタウトは、同郷の哲学者カントに傾倒し、カントを通して「禅」や老子など東洋思想を理解していました。禅僧の大蟲師とも通じるものがあったようで「昼食のときは2人で笑いあい、敏子さんを不思議がらせた」と廣瀬正史師。床の間にはタウトが残した言葉「ICH LIEBE DIE JAPANISCHE KULTUR(我、日本文化を愛す)」が掛けられていました。洗心亭は村の大地主・沼賀博介氏が、東京農大第三代学長・佐藤寛治博士のために建てた庵で、炉を切った 4畳半と床の間のある 6畳という茶室のようなつくりです。洗心亭を紹介した俳人・浦野芳雄氏は近所という事もあり足繁くここを訪ね、当時の思い出をまとめた「ブルーノ・タウトの回想」(昭和 15年長崎書店刊)を出版。これを原作に黒澤明監督が脚本「達磨寺のドイツ人」を執筆しました(未映画化)。タウトとエリカは 6畳間に布団を敷いて蚊帳を吊り、丸枕を使い日本人と変わらない生活を送っていました。禅寺の飾り気のない暮らしをタウトは気に入り、タウトの口述をエリカが記録した壁付けの机をはじめ、日記に登場する生活道具が当時のまま残され 2人の息吹が伝わってきます。2008年に「洗心亭」は改修工事され、正史師は建物としてだけではなく、タウトの思想と生き様を伝える場として大切にしたいといいます。
「タウト氏の愛好するところは、純粋な日本人の愛好するところのままだった。氏は復古日本の姿に執着し、新進発展の様相がとかく日本本来の文化を冒涜するものとして嫌う傾向があった。外人として氏ほど日本精神を領得したものはあるまい。」と大蟲師は書いています。その思いは正史師につながっていると感じました。身長 173センチのタウトは鴨居に頭をぶつけたり、玄関の上がり框の高さに驚いたり、敷居を踏んでたしなめられたり、最初は日本家屋の生活に戸惑いますが、大工に頼んで建具のたてつけを直し、押し入れに棚を吊り、仕事机を誂えたり、日射を防ぐすだれを掛けたりと、生活を改善していきます。デザイン画を描いていた貴重な壁付け机も残されています。少林山の一画に設けられたタウト展示室。1936年10月、タウトは少林山を離れトルコへ旅立ちますが、2年後に過労がもとで亡くなります。「少林山に骨を埋めて欲しい」というタウトの願いを叶えようと、エリカはタウトのデスマスクを抱き、1939年9月少林山に到着。展示室にはデスマスクをはじめ、家具・工芸の図面やスケッチ、直筆画など貴重な資料が保管されています。エリカのその後は不明でしたが、ベルリンのブリッツ馬蹄型ジードルング近くに埋葬されたことが田中辰明教授によって発見され、墓碑にはBRUNO TAUT、ERICA TAUTの名が刻まれていました。
タウトを励まそうと集まった小学生との記念写真。タウトとエリカ、長女敏子さん、大蟲師の姿もあります。タウトが少林山を去るさい、沿道には沢山の村人が旗を振り「タウト万歳」の声をあげました。敏子さんは横浜まで出てタウトとエリカを見送っています。「彼女にとってエリカは第二の母であり、新鮮な空気であった」とタウトは日記に書いています。
ヨーコの旅日記第8信川津陽子メッセフランクフルトジャパン
フィンランド流、夏の週末
静寂な空間のなか、目の前に広がる、鏡のように空を映す穏やかな湖。見上げれば低く浮かぶ雲。風が吹くと心地よく耳に入ってくる白樺の葉の音。ときどき湖を響き渡るKuikkaと呼ばれる野鳥の鳴き声。そして再び訪れる静寂。
白夜を過ぎたばかりのフィンランド。夏の名物とも言うべきサマーコテージにいらっしゃい、と以前から誘ってくれていたご夫婦を訪ねました。彼らのコテージはヘルシンキから車で 1.5時間ほど北上したところに位置する Sysm.という町の湖畔にあります。我々は日曜日のお昼頃に家を出ましたが、一般的には 1週
▲ 真夜中近くのサンセット
間の仕事を終えて、金曜日の夕方からコテージ入りするケースが多いそうです。金曜日だし仕事の帰りに一杯!という感覚はここには無いようです(笑)。道路も、途中食料の買い出しに立ち寄った大型スーパーマーケットも、土曜日にしては人が少ない。なるほど、皆すでにコテージで過ごしているからだそう。
大通りを抜けて山中に入り、全く誰ともすれ違うことなく車はしばらく走り、彼らのコテージに到着。
2階建のコテージの1階には、キッチン、暖炉、リビングルーム、2階にはベッドが並ぶ。外に出ると隣接して、この地の人たちに欠かせないサウナとシャワールーム。さらに10メートルほど離れたところには、別棟とガレージが……。印象的なのは、あらゆるところに並ぶチェア。この広い敷地のなか、どこにいてもホッとひと息ついて日光浴や森林浴を楽しめそうです。まさに第 2のハウスとも言うべき、何もかもが揃い、今すぐにでも住めるような環境ですが、奥さまに言わせると、非日常を味わうためにも利便性はあえて求めず、コテージの中身は極めてシンプルにとどめているのだとか。この日は、フィンランドの主食であるルイスレイパ(Ru isleip.)と呼ばれるライ麦パン、奥さま特性のサーモンスープロヒケイット(Lohikeitto)で遅めのランチ。その後、会話を楽しみつつ、ちょうど日本が夜中になり日付が変わる頃、突然フッと意識を失ったかのように一時間ほど眠りに落ちる。目を覚ますと既に 20時になろうとしているが、窓の外は明るい。それだけでなんだか気分が良い。そして昼寝の成果もありすっかりハイテンションで奥さまと
▲ 完全貸切状態の散歩道で、野いちご積み ▲ 旦那さま特製の豆スープ ▲ イッタラづくしのテーブルに心が躍りました ▲ 野いちご遊びを体験
▲ ベリーづくし。フィンランドはいちごのシーズン ▲ サンセットを心ゆくまで ▲ 自家用ボートで湖を独り占め▲ 鏡のように反射する夕焼けの湖
サウナルームに向かう。この日は 20℃に満たないやや肌寒い1日だったので、あらかじめ薪が焚かれたサウナルームの暖かさが心身に染み渡る。旦那さまはビールを冷凍庫に入れて準備万端。休憩を挟んで第 2ラウンドへ挑む。サウナ上がりのキンキンに冷えたビール。これは万国共通の楽しみなのですね。22時。まだ陽は完全に落ちない。サウナで火照った体を休めに湖へ出てみると、茂る森と金色に染まる雲が反射し、まるでウユニ湖にいるかのような錯覚を覚える。ただただ静寂なこの空間の安堵感。ずっとこんなひと時を待ち焦がれていたような気がする。そこから軽めの夕食。23時を過ぎている。普通ではありえない時間帯での夕食だが、そこは休暇だからと勝手に納得!この日はバーベキュー。私たちの感覚だと、せっかく火も起こしたのだからあれもこれも焼いてしまえとなりそうだが、ここではシンプルにソーセージととうもろこしを焼いただけ。サウナもバーベキューも決して特別なものではなく、我々がお風呂に入る、ご飯を炊くのと同じくらい日常の出来事なのだと改めて実感。24時をまわるとさすがに辺りは暗くなってきた。ベッドを整えてくれたがいつの間にかソファで爆睡。時差ボケのせいか、朝方に何度か目を覚ますが、すぐ傍に飼い犬が横たわり、スースーと気持ち良さそうに寝息を立てている。知らない場所で一匹の犬と横たわっている。非日常な空間で満ち足りた気分になり、再び眠りに落ちる。予定は作らない。アラームは不要、起きたい時に起きる。完璧な休暇である。
こうして 2日目の朝をのんびりと迎えたが、現実は月曜日である。さすがにご夫婦も、クライアントから電話がなったり、
▲ ヘルシンキの海沿いにラグマットの洗い場と干し場が!
メールチェックをしたり。ただし、とことん集中して仕事がひと段落次第、きっちり線引きをして再びホリデーモードに切り替わる。朝ごはんを終えて飼い犬の散歩をかって出た。一番近い隣人は 500メートルほど離れた奥さまの妹さんが所有するコテージ。それ以外は 3キロ先まで何もない。 誰にも出くわさない。犬のリードを外してのんびり気が向く方向へと進んでいく。途中、奥さまが幼少の頃に楽しみ、また彼女の子供たちも受け継いだという、道端に生える野いちご積みに挑戦。より形が綺麗で大ぶりの野いちごを探すことに集中して進んでいく。ひとつ口に入れてみるとカシスに似たような香りと酸味が広がる。気付くと 30分以上経っている。その間の会話は「見て、こんな大きいのが採れた」くらい。日常でもこれくらい集中力があったらよいのに …… 。散歩から戻ると旦那さんは読書をしている。噂やイメージだけではなく、フィンランド人は本当に夏のコテージで読書を楽しむのだ。妙な感動を覚える。音楽もなし、テレビもなし、ここには創られた音は不要。
そして私も、湖を前に今こうして原稿を書いている。よっし、
これが終わったら私も読書してみよう。日本から持参した
3冊終えられるかな……。コラージの連載も早や 9回目を
迎えますが、これまでで最も贅沢な環境のなか執筆してい
ます。この空気が皆さまに伝われば幸いです。「欲張らない」、これが今回の旅で学んだキーワード。あれ
もこれもと、あそこへもここへもと欲張らなかった結果、
心底、充電につながった旅になりました。
昭和 27(1952)に建てられた旧井上房一郎邸は、東京・麻布笄町(こうがいちょう)にあった建築家アントニン・レーモンド自邸兼事務所を写した建物として知られ、今は高崎市美術館内の施設として公開されています。井上家は高崎駅に近いこの場所に暮らしていました。井上房一郎氏の父・保三郎氏は、明治 17年(1884)、高崎駅の開業をきっかけに、東京の鮮魚を早朝の汽車で高崎に運び成功します。やがて建築・土木業に進出し、高崎市初代市長・矢島八郎氏の掲げた市是「水道、教育、役所・病院、道路、公園」の充実を実現するため、建築・土木の担い手として躍進し、市議会議員もつとめました。
6月 23日(土)。ギャラリーときの忘れもの(本駒込)の主催で「高崎市のレーモンド建築ツアー」がひらかれ、全国から学芸員や建築家、編集者などが集いました。案内役のひとりは熊倉浩靖さん(写真右:高崎商科大学特任教授)。井上房一郎氏の「助手」といわれ、房一郎氏の悲願であった「高崎哲学堂」設立の遺志を継いだ活動を現在も続けています。保三郎氏は電力、煉瓦、製紙、製粉、製糸、織物、鉄工、製材、銀行など 30以上の企業の設立・経営に関わり高崎を一大商都へと発展させます。そんななか明治 31年
(1898)に生まれたのが井上房一郎氏でした。父の事業拡大を見ながら育った房一郎氏は、高崎中学校(現・県立高崎高校)を卒業し早稲田大学に入りますが、大学よりも川合玉堂の私塾「長流画塾」に通い、東京美術学校や音楽学校の学生たちと交わり芸術の世界にのめり込みます。レコードを買い込んで高崎市公会堂で群馬県初のレコードコンサートを開き、群馬県人の多くは、これによって初めてクラシック音楽に接したといわれます。
熊倉浩靖著『井上房一郎・人と功績』みやま文庫刊井上房一郎の優れた伝記であるとともに、房一郎をめぐるタウトやレーモンドとの関係も網羅されています。
房一郎氏の一生を大きく変えた人物は、大正 5年にフラ
ンスから帰国した画家・山本鼎(かなえ)でした。帰国
した鼎は子ども達に自由な絵を描かせる自由画教育を提
唱する一方、ロシアの農民美術を手本とした農民美術運
動を長野県上田を中心に展開します。たまたま井上家の
星野温泉別荘(中軽井沢)に隣接して山本鼎の別荘が
あり、房一郎氏は少年時代から鼎と深く交際しました。
24歳のときにパリ留学を望みますが、父・保三郎氏に反
対されます。しかし鼎の説得により留学を許され、7年
近くにわたりパリで暮らします。「山本先生は、多分、御自身が、絵の勉強とフランスの
社会からリアリズムを学ばれたように、私も何か必ず掴ん
でくると考えて、私をパリに留学させたのだということがわ
かりました。(中略)先生が得られたリアリズムという思
想を一つ進めて、自我の認識と表現、手段(科学性、合理性)の連鎖を獲得できたことをご報告できると思います。」(『よろこばしき知識』1982年1月号)。房一郎氏は山本鼎への感謝を述べるとともに、師を超えるものを築く決意を示しています。
山本鼎氏
大正 12年(1923)に渡仏した房一郎氏。ときはエコー
ルドパリの時代で、藤田嗣治や佐伯祐三をはじめ 200万
人以上の外国人が滞在したパリは芸術の中心でした。画
塾に通いながらジャコメッティ兄弟や日本人画家とも親し
く交際。大正14年に開かれた「アール・デコ展」は、
建築・工芸。家具へと興味を広げるきっかけになりました。
やがてセザンヌに傾倒した房一郎氏は、「我思う。故に我
あり」に代表されるデカルト近代哲学の核心を、セザン
ヌの画面に見るようになります。「私はセザンヌと出会い、
セザンヌに学ぶことで自我を確立し、外界を観察し、社
会的創造をなしうることに勇気を持つようになった。(中
略)特に私は、社会と芸術・建築の関係において、認
識・表現・手段の確立を求めることを心に誓った。それが、
経営者としての私の基礎をも形作るものになっている。」(井上房一郎『社会・芸術・建築』井上工業刊)
年(1934) 9昭和)に帰国し、 0391年( 5房一郎氏は昭和
に世界的な建築家ブルーノ・タウトと出会います。当時の日本は世界恐慌のあおりをうけ、深刻な輸入超過に苦しみました。そこで商工省貿易局は昭和 3年に剣持勇や豊口克平などデザイナーを育てた仙台の国立工藝指導所をはじめ、各地に開発研究機関を設けます。昭和 4年には保三郎氏たちが出資して高崎にも群馬県工業試験場高崎分場が置かれ、昭和 5年、房一郎氏は父の建築会社・井上工業取締役に就任すると共に、試験場の嘱託となり、高崎の地場産業である家具、木工、漆工、竹工、染色、織物など製品開発を行います。昭和 6年設立の「高崎木工製作配分組合」は若手職人の育成と実用家具の供給を目指し市民有志が出資した先進的な組織で、房一郎氏は自ら設計した日本で最初期の金属パイプ椅子も作り、漆器のデザインなども行っていました。「フランス帰りの息子が活躍できる場を用意したい」という保三郎氏の思惑は成功したのです。昭和 7年には高崎絹の改良や伊勢崎絣の洋服地化を目指したタスパンを設立。昭和 8年には直営店「ミラテス」を軽井沢のメイン通りに出店します。チェコ出身のアメリカ人建築家アントニン・レーモンドとの出会いもミラテスがきっかけで、軽井沢聖パウロ教会の椅子を受注しています。当時、工業試験場「井上漆部」の所員だった水原徳言氏は、タウトが認めた唯一の弟子といわれ、2009年に98歳で亡くなるまで、高崎の都市計画、建築、デザイン、美術に多くの影響を与えました。水原氏によると、房一郎氏の工芸運動は建築家山脇巌夫妻や川喜田煉七郎、デザイナーの蜂須賀年子公爵夫人、自由学園などからも注目され、蜂須賀公爵夫人はミラテスのテキスタイルデザインも行っています。軽井沢ミラテスの店番を任された水原氏は食事もとれない忙しさで、洋服地幅に織った高崎絹や漆の工芸品、房一郎氏デザインの家具セットなど高価なものがよく売れ、前田侯爵家や黒木伯爵家の別荘に届け物をして、お茶を御馳走になったこともあるそうです。(『ブルーノ・タウトの工芸』 L IXIL出版刊より)昭和 9年(1934)8月1日高崎にやってきたタウトは房一郎氏の工芸運動に変化を与えます。当時を房一郎氏は、
「ナチ政権確立の直前、ヒトラーと意見の合わなかったブルーノ・タウトが、日本に亡命してきた。ああいう時期ですから大学などで待遇することもできないし、個人的に建築を依頼する人もいない。それで仙台の工芸所にいましたが、やはりうまくないということで、郷里の大先輩、久米(権九郎)さんから僕の所に相談がありました。(中略)それでは僕の仕事を手伝ってもらおうということで高崎に来てもらい、一緒に仕事をした。(中略)そこへはいろんな人が尋ねてきました。僕も懇意だった柳宗悦さん。同じ工芸運動といっても、タウトさんや僕は世界的な視野に立って日本の工芸を生かそうという立場にあり、柳さんのどこまでも日本の伝統技術をつくろうという立場とは少し違っていた。」(藝術新潮1973年1月号より)熊倉浩靖著『井上房一郎・人と功績』によると、房一郎氏は久米氏から「タウトは偉い人でプライドも高い。君個人ではなく県などがお招きする形がよい」といわれますが、実際は房一郎氏のポケットマネーからタウトの報酬は支払われ、様々な心労があったようです。しかし晩年の房一郎氏は「タウトさんという素晴らしい協力者なしには、私の工芸運動は成功しなかっただろう」と述懐します。昭和10年(1935)、「ミラテス」銀座店が、銀座 6丁目の交詢社向い瀧山ビルにオープンします。ミラテスの製品は丸善や.島屋にも卸され、国際文化振興会や商社を通じて輸出もされました。
「タウトさんは店の設計もしたし、マークも自分で書いた。必ずタウトさんと僕と二人で作るので、「イノウエ・タウト」という判を何にでもつけて売り出したわけです。そのころ銀座で一番ハイカラな店だと評判で、後になって、学生だった丹下健三さんが珍しいのでよくのぞきに来たという話をききました。順調にいっていたのですが、タウトさんはヒトラーと合わないで日本にきた。(中略)そんな人ですから尾行されていたし、少林山へも誰が出入りしたか、付近の駐在がいいつかって調査していたような状態でした。」(藝術新潮1973年1月号より)当時の銀座には「ミラテス」の他「たくみ」、「港屋」「工芸」などの工芸品店がありましたが、戦争の影響から昭和 17年に「たくみ」以外は閉店させられたと、ミラテスを任されていた水原さんはいいます(「たくみ」は現在も営業中)。高崎の若者たちも招集され、工芸運動は戦争の波に飲み込まれていきますが「世界に通じる藝術、工芸、建築を生み出していかなければいけない。それがタウトさんへの恩返しの方法である」と房一郎氏は語っています。高崎市美術館館長で一級建築士の塚越潤さんが、旧井上房一郎邸について解説しました、塚越館長は旧井上邸の詳細な実測を行い、そのデータ化を進めています。旧井上邸は元々は古い和館で、昭和 27年(1952)3月に房一郎氏の貴重な美術品コレクションや資料とともに焼失してしまいます。房一郎氏は麻布笄町のアントニン・レーモンド邸を訪ねた際、これをそっくり真似してもいいかと許可を求め、レーモンドの快諾を受けて実測、それを元に自邸を建て替えたといわれます。自宅と事務所から構成されたレーモンド邸とは異なり、房一郎邸は居住部だけで、居間と寝室などの位置関係が左右反転しています。レーモンドの片腕として知られる三沢 浩さんは「パトロンと芸術家 -井上房一郎の世界-」展カタログの中で、レーモンド自邸の元はリーダーズダイジェスト東京支社の現場小屋で、アメリカ大使館アパートにも応用され、終戦直後の材料不足に対応したものと書いています。大きな切妻屋根をもつ平屋建てで、居間と寝室の間には屋根のかかったテラスがあります。経営者の自邸といえば、賓客を招くための立派な玄関を設けるのが通例で、旧井上邸も正面に木製の大きな門がありますが、総理大臣などの要人以外は、めったに使わなかったそうです。房一郎氏自身は日常では小さな勝手口を使っていました。構造はレーモンド独特の木製鋏状トラス構造。杉の磨き丸太を2つに割り、鋏状トラスの形に組み立て、各部材は橋梁などと同じくボルトを使ったピン構造で接合されています。丸太は1間間隔で並べられていて、はさみ梁が登り丸太を支え、3尺ごとに母屋(もや)の丸太が乗り、部屋の奥行きは3間、横幅は 4間あります。丸太に丸太が刺さった部分もきちんとホゾ加工されていて、杉は床柱のようにきれいに磨かれ、北側のハイサイドライトからの光が年間を通じて入ります。房一郎氏は現場に通い丸太を1本 1本選ぶなど、まるで数寄屋をつくるように厳しく指示をだしたようです。井上工業の大工たちは、せっかく手間をかけるのであれば、もっといい材料を使いたいと思ったかもしれません。庭に面した木製建具は「芯外し」という構造。柱の外側に建具のレールを取り付け、柱と建具が当たらないことで開口を広くして、庭園の景観を活かしています。床の高さも低く、床と地面がつながっているように見えます。山登りを趣味とした房一郎氏設計による庭には、ナラやケヤキ、モミジ、ヤブツバキなどが自然風景のように植えられています。房一郎氏は6歳から日舞を学び名取をすすめられるほどの腕前で、リビングにヒノキの小さな舞台を置き、稽古を続けていたそうです。和室は井上夫人のスペースとして利用され、内部の建具には両面に和紙を張った坊主襖を使っていました。手本となったレーモンド自邸は、現在のレーモンド設計事務所にメモリアル空間として居間部分が保存されています(見学は予約制)。そこで旧井上房一郎邸の存在を知り、ここを訪れる人も多いそうです。リビングは主に房一郎氏の居室で、母校の後輩などお気に入りの青年たちが毎日のように呼ばれていました。熊倉浩靖氏や綿貫不二夫氏も、そうしたお気に入りの一人で、夭折した高崎の天才芸術家・山田かまちなど才能の発掘に情熱を注ぎ続けました。2019年2月2日(土)〜3月31日(日)には、高崎ゆかりの建築家やデザイナー(ブルーノ・タウト、アントニン&ノエミ・レーモンド夫妻、井上房一郎、ジョージ・ナカシマ、剣持勇、イサム・ノグチ)の活動を紹介する企画展「モダンデザインが結ぶ暮らしの夢」の開催が予定されています。
自宅、築 27年目の耐震化 その 2
備えあれば憂いなしの耐震計画と工事の実際
今回は専門的な内容ですので、少し読みにくいと思いますがご容赦ください。「築 27年目の耐震化その1」(コラージ 5月号)に続き、なぜ自宅の耐震工事に踏み切ったのか、その裏付けとなった耐震診断についてご紹介します。
木造等の建築耐震診断には大まかに 2種類あります。一般診断法と精密診断法です。
■ 一般診断法壁量計算をベースに、老朽化の影響、接合部の強度、壁配置の偏り等をある係数を乗じて評価するものです。建物の外装材や内装材の一部を切り取って、内部構造まで調べるものではありません。私としては耐震工事をやろう、やるなら徹底的にと最初から考えていましたので、一般診断
精密診断法は、壁内の部材や金物の状態を記録します。1階 LDKの点検口から、筋交いの厚さを確認。
法は採用しませんでした。
■ 精密診断法一般診断法よりも詳細な調査を行います。丸一日(場合によって二日のことも)かけて、工務店、電気工事士等のチームで内部構造まで調べるものです。筋交いの有無と断面寸法、接合部補強金物の有無とその耐力、経年による構造体の劣化等をチェックします。竣工図面をもとに内部構造をチェックするために調べる部屋と、切り取る壁面や床の場所が示されます。主要な柱がある壁面の上部と下部で、60センチ角ほど切り取られます。床面も同様です。調査は以下のような視点で行われます。
● 上部構造(基礎から上と考えれば良い)の診断
● 必要耐力の算定(竣工図から必要要素のピックアップ)
● 調査する建物が持つべき耐力の算定(必要な保有耐力)
● その他地盤、基礎、水平構面(梁、床構造等)、屋根の状況その他 を調べます。
住まい手は工事日までに、壁面沿いに置かれている家具やテレビ等をどけなければいけません。調査のために開けられた穴等はその日のうちに一応元に戻されますが、切り取った後は細い線状に壁面に残ります。部屋中にホコリが散らばらないように、充分な養生をほどこします。これらはもうこの時点から補強工事を前提として行われます。
まず我が家を建てた工務店は、仕事仲間でもあり、特に現場担当者とはいくつもの現場を共にしてきました。施工中は信頼して全く任せ切りにしたのですが、当人も私も上棟の日まで気づかなかった大きなトラブルがありました。工事中の仮住まい契約期限もありましたので、問題が残らない様しっかり直すとの約束で工事を継続しました。建築は計画も大事ですが、いま思うのは「現場監督の管理」と、設計の「寸法監理の大切さ」です。今回、耐震精密診断を依頼したのは上記の反省が大きな要因でした。
耐震精密診断をお願いしたのは、東京都木造住宅耐震診断事務所 登録耐震診断技術者であり、一級建築士事務所「アークライフ」 .本直司さんです。現場調査は 2017年5月に行われました。特に基礎まわり、床下内部を隈無く見てもらったところ、数カ所、想定外の改修必要ポイントが
2階の和室は畳をあげて床板を剥がし、床下の構造を確認。
その場で確認できました。
前回でお話しした耐震評価の数値の一つである「耐震等
級」は、データ的な細かい数値を示すのではなく、一般の
建て主の方に解りやすいよう、大まかに耐震性能を1〜 3
の数字でクラス分けしたものです。
それに対して今回は、プロが用いる「耐震評点」という基
準でお話しします。設計者同士がよく使うもので、「あの建
物強度は1を超えているから OK」とか、「1以下だから危
ない」等といっているもので、先に述べた基礎より上の部分、
上部構造(木造の架構部分)の耐震評価を示しています。震度 6強の地震に対し、瞬時に建物が倒壊しない強度を「1」と表します。大地震によって建物の損傷は起るけれど、外部に逃げだせる時間を確保できるかどうかを判断する指
標といえます。
過去に起きた大地震(建築基準法が想定する規模の地震)と「耐震評点」の関係は、
5=「阪神・淡路大震災と同クラスの地震で.耐震評点1 ●
も瞬時には倒壊しないと考えられている」
● 耐震評点 1.0=「新潟県中越沖地震と同クラスの地震で
も瞬時には倒壊しないと考えられている」とあります。上部構造評点の判定数値の目安は次の通りで、各階それぞれの X方向(東西)、Y方向(南北)が別々に数値化され、その中の一番低い値が提示されます。 ● 1.5以上=倒壊しない ● 1.0以上 1.5未満=一応倒壊しない ● 0.7以上 1.0未満=倒壊する可能性がある ● 0.7未満=倒壊する可能性が高いまたこれ以外にも建物の「重心点」と「剛心点」の乖離によって、地震時に建物が水平方向に捻曲げられる度合いも示されます。
5月の調査から約1カ月後の 6月後半に「アークライフ」から結果報告書が送られてきました。我が家は総 2階建てで、開口部も上下階そろっています。筋交い等もバランスよく配置したはずなのに、その結果は衝撃的な内容で思わず声を失いました。 ●2階 X方向(東西)= 1.22 一応倒壊しない ●2階 Y方向(南北)= 1.67 倒壊しない ●1階 X方向(東西)= 0.50 倒壊する可能性が高い ●1階 Y方向(南北)= 0.67 倒壊する可能性が高い
クローゼットやロフトの壁に穴をあけ、柱や筋交い、胴縁の取り付け状態を詳細に確認しました。
総合評価にはこのように記されています。
「本建物は大地震時に倒壊する可能性が高いです。確認できた耐力要素を積み上げて建物の耐震性を確認したところ、必要耐力を下回る結果となりました。柱頭柱脚(柱上部の梁との取り付け部、柱下部の土台等の横方向に走る材)との接合部の仕様(使っている補強金物等の性能、素材)、耐力壁量(筋交いが入っている壁)の不足等から、保有耐力が必要耐力を下回っています」。その他、スレート屋根材に苔が生えていること(水分を含む程の劣化)、バルコニーとその下部あたりに雨漏りの痕跡ありの指摘もありました。いってみれば抱えきれない程の課題が突き付けられたのです。次号で具体的な工事内容をお話しします。本当は語りきれませんが……。
この 7月初旬の西日本を襲った観測史上最大級の集中豪雨等の異常気象を見ますと、地球温暖化が急速に我々の暮らす環境を変えているような気がします。地震と気象の因果関係は科学的な連動では示されていませんが、私たち皆がこれから起こりつつあるかも知れない事象をイメージし、それに備えるシミュレーションが欠かせないと思います。
房一郎・レーモンド・高崎市民の共作
群馬音楽センター
ギャラリーときの忘れもの主催「高崎市のレーモンド建築ツアー」一行は、昭和 36年(1961)に完成したアントニン・レーモンドの名作「群馬音楽センター」へ。1900人以上を収容するホールでは高崎市民吹奏楽団の皆さんが、公演直前のリハーサルを行っていました。力強い吹奏楽のひびきがホール全体を満たし、ツアー参加者たちも、しばらく聞き惚れました。戦争の影響によって工芸運動は中断され、戦後の高崎で空虚な気持ちを抱えていた井上房一郎氏は、パリ留学中に悩み惑う自分を支えてくれた、教会などで毎日のように催されたコンサートを思い起こします。音楽こそ人々の心に火を灯すと考えた房一郎氏は町の音楽愛好家グループを集め、有島生馬の甥、山本直忠(山本直純の父)を指揮者に迎えました。音楽家たちも疎開先から高崎に集まり、戦後間もなく「群馬交響楽団」が設立されます。学校や施設を訪ねる移動音楽教室など楽団は映画「ここに泉あり」(今井正監督)となり全国に知られますが、房一郎氏はパトロンがいては映画の感動が薄まると、自分の存在が映画に登場することを許さなかったそうです。独特な外観は「折板構造(不整形折面架板構造)」によるもの。.風状に板を折り曲げることで強度をあげ、少ない資材で柱のない大空間を実現します。外観の折板が内観にそのまま表れているのも特徴です。
「全国の都道府県に少なくともひとつの音楽ホールを」と考えた房一郎氏は、音楽センターの建設を計画します。一方、戦前から「ミラテス」をきっかけに房一郎氏と親交を深めていたレーモンドは、戦争中アメリカに避難した際、B29の日本本土爆撃を指揮したカーチス・ルメイの命令で、日本家屋の効果的な爆撃方法の研究に協力させられました。それを後悔していたレーモンドは、再来日後の第一作、リーダーズ・ダイジェスト東京支社(1951)の完成時に日本の陶芸展をひらき、会場で房一郎氏と再会。陶芸家を経済的に支援するとともに、日本文化を発信したいというレーモンドに共感した房一郎氏は、その後、音楽センターの設計をレーモンドに依頼しました。
完成時の客席数は竣工年に合わせた1961席。本来の客席は1960席で、もう1席は舞台とされました。レーモンドは歌舞伎を上演するための「花道」の設置に苦心していましたが、それは客席の通路と連続して設けられ、客席と舞台がフラットにつながった珍しい構造となりました。観客も演奏者も同じ参加者であるという、日本のデモクラシーに期待するレーモンドの思いが感じられます。歌舞伎や邦楽にも対応するため、残響時間は西洋音楽向きのコンサートホールよりも短めに設定されています。左は高崎市役所の展望フロアからみた音楽センター。左右に突き出た部分は楽屋や会議室になっています。房一郎氏は母校・県立高崎高校に自らの発案で薔薇園を設け、薔薇クラブを結成し毎朝 700本の以上の薔薇の手入れに通っていました。気が向くと美術教室に上がり込み、セザンヌの講義を始めることも。上は高崎高校マンドリン・オーケストラの送別会(1964年)で、房一郎氏が寿司をとり生徒に振る舞いました。同席した綿貫不二夫さんは「このとき初めて寿司を食べた」といいます。1961年の市の予算約 9億 5千万円に対し、音楽センター建設費は約3億 5千万円。そのうち1億円近くは市民の寄付で賄われました。房一郎氏は自ら出資する一方で、目標達成の運動を通して市民も自らを高めることを目指しました。自治体と市民、地元企業のパートナーシップを早くから実践した人と熊倉浩靖さんはいいます。音楽センターの最大幅は約 60mで、舞台の幅は約20m、奥行きは約 60mあり、コンクリート厚は最小の120mmに絞り込まれした。ホールの天井には外壁の裏側がそのまま見えていて、合板の音響板によって響きを調整しています。扇形でこの規模の折板構造は前例がなく、レーモンドは最初、地方の建設会社である井上工業に担えるかを心配していたようです。しかし地元高崎の現場監督や職人が指示を正確にくみ取り、精密な施工を行ったことにレーモンドは賛辞を送っています。群馬音楽センターは聴竹居や香川県庁などと共に、日本モダン建築の代表作として「DOCOMOMO 20選」に選ばれています。
井上房一郎未完成の絵
高崎哲学堂
井上房一郎氏が「高崎哲学堂設立準備会」を興したのは1969年(71歳)のときで、95歳で亡くなる1993年7月27日まで、ほぼ毎月1回づつ261回の哲学堂講演会を主宰し、費用をポケットマネーでまかないました。没後も2006年まで通算 375回開催され、1969年の増谷文雄 「仏教思想と現代」を皮切りに、梅原猛、安部公房、湯川秀樹、ドナルド・キーン、磯崎新、山本七平、吉本隆明、今西錦司、高木仁三郎、司馬遼太郎、山口昌男と、様々なジャンルの一流の論客が高崎にやってきました。湯川秀樹の講演は高校生のリクエストで、房一郎氏が京都まで出向いて依頼。湯川秀樹は講演の際「井上さんに呼ばれて高崎に来たが、私が高校生のために講演するのはこれが初めてで最後です」といったそうです。高崎哲学堂とはなにか、房一郎氏は藝術新潮(1973年1月号)のインタビューに答えています。
「名のつけようがないので、哲学堂というふうに言ってみますが、要するに人間性について考え、話しあい、研究する場が必要だと思うのです。(中略)歴史的にみても、哲学者は、時代の変化の中で人々が戸惑い悩んでいる時にあらわれ、指示し、ある解答を与える形で、精神に影響を及ぼしている。だから私は、変化する社会の中で、その時々に、人間性についてある何かを打ち出していくことは、文明をリードする上において必要でないかと思う。(中略)哲学堂では、結婚式や葬儀などもやる。儀式は人間を掘り下げて考える機会でもありますからあいまいにしておいてはいけない。利休がお茶を飲むために茶道をつくったように、葬道を組み立てるくらいの考えを持ちたいと思うのです。」房一郎氏はレーモンドに設計を依頼し模型も制作されますが、その実現に向けた活動は熊倉浩靖さんなど有志に受け継がれています。今ほど哲学堂の存在が求められる時代はなく、ガウディの残したサグラダ・ファミリアのように、それを追い続ける人々の集う街の姿こそ、房一郎氏の求めた哲学堂なのかもしれません。
ドラゴンシリーズ 47
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
天は自ら助くる者を助く
10
もう
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の
5月頃から全国各地の生産地を巡る旅を続けています。全
国の様々な仕事の職人達や工房・工場の経営者などに会いに
行って現場で話しを聞きます。
月上旬は京都、土岐、飯田、
飛騨高山など多くの工場や工房に行くため、豪雨の中を走りました。この旅は来月まで続きます。
年間に渡り全国各地を巡りながら様々な土地で多く
の人々の話を聞き、アポをとり、写真を撮り、取材して
間ずぅーっと休まずに少人数で日本から海外まで広く生活文化や歴史、人々を紹介し続けてきているコラージの活動がどれだけ大変なものなのかを自分でも少しだけ垣間見ているような気持ちです。
貴重な仕事や功績はその時には見えません。
を迎え、バックナンバーを読み返してみるとその時の気持ちが甦ります。
そして様々な土地で起こった出来事を思い返しながら、今起こっていることを見てみると私たちの気持ちの変化や社会の変化が見えてきます。コラージは今の日本のそのままを等身大で伝える加飾の無い貴重な情報であり、時代の記録だと思います。過去を紐解きながら、現代の問題を探り、現場の声を聞きながら、日本の今を直視する。現場に行くと様々な感情が込み上げてくるはずですが、そこにはジャーナリストとしての客観性がいつも守られています。コラージのバックナンバーはこ
年という大きな節目
年間の時代の変容を伝えていると同時に、回を追う毎に、
現代の日本の全体像を浮かび上がらせています。
人の話を聞くこと、そしてそれを文章にして伝えることは
7
10
年
10
とても難しいことです。その人の言葉には人格が宿っています。その人格を伝えることには迷いや困難が付きまといます。忠実に伝えれば伝えるほどその人が浮かび上がってきます。良いこともそうでないことも含めて、文章にしたり記事にしたりすることは本当に大変だと思います。じっくりと時間を掛けてこの 10年間のコラージを読み返してみるのも、各々の時間を振り返りながら、各地に想いを馳せるには良い機会だと思います。今は変わり果ててしまった土地も沢山あります。一つのコラージと言う人格を通してみる日本の各地は優しさと厳しさの入り混じった憂いのある印象を残します。多くの職人の話を聞いていると、本当に皆が一様に仕事は教えられたことが無い、仕事や技術は師匠や先輩の姿を見て、真似て、試し、失敗して身につけるものだと言います。
昔気質の職人達は教えられたことが無い、それと同じように弟子や後輩に何も教えない。
職人の仕事は挑戦して、失敗することが技術を習得するには欠かせないことであり、自分で習得する術を見つけることが大事なことと言います。失敗して製品をダメにしたり、怪我をしたりすることで、頭と体の時間を積み上げた経験で自らの工夫や発見により職人としての技を習得してゆくと言います。そこには師匠が作ったお手本があります。そこへ近づくために、弟子は師匠の仕事を見て、真似ての繰り返しの中で自分の技を身につけてゆくのです。
私たちのどんな仕事も職人の技の習得と同じようなものでは無いかと思います。先人の仕事を見て、考えて、挑戦して、失敗する。その繰り返しのような気がします。全ての世界が機械化とコンピュータ化されようとしています。社会は変化しているように見えますが、人間としての本質は変わりませんし、人間でなければ出来ないことばかりです。機械やコンピュータを捨てて、自分の手を動かすことで失った何かを取り戻すことになると信じています。(機械やコンピュータが使えないから)
取材・撮影・文 HERMINE
Ce MAT(セマット)は2年に一度、ドイツ・ハノーバーで開催される、世界最大の物流機器/産業見本市です。今年は 4月23日から27日までの 5日間行われました。初日にはアンジェラ・メルケル首相も会場を訪れ、物流産業を重視する姿勢を示しました。インターネットに代表される情報化技術が脚光を浴びる今日でも、人がモノを欲し、必要とする限り、その作り手との間を繋ぐ物流をより速く、効率化することの重要性は増すばかりです。会場はフォークリフトやトーイングトラクターなどの伝統的な搬送機器を始め、倉庫関連の機器やソフトウェア、次世代のロボットなど、「モノを運ぶ」にまつわるあらゆるモノや技術が展示されています。自動車の分野と同様に自動化の流れは確実に進んでいて、モノの動きを上位システムで把握し、自動機同士や収納システムと連携して物流を効率化する提案が多く見られました。作業の最適な分担や、安全の確保など、人と機械との共存環境をいかに作っていくかという問題もこれからより具体的になっていくと思われます。フォークリフトなどの産業分野では、自動車などより遥かに早くバッテリー車の普及が進んでいました。今年はさらに各社示し合わせたようにバッテリーのリチウムイオン化が進みました。左はドイツ・ユングハインリッヒ社のリチウムイオン電池専用設計のフォークリフトです。コンパクトな電池のメリットを活かして、従来の同じカテゴリーのフォークリフトと比べ、操作性や快適性を格段に進歩させています。ウェッジシェイプのデザインも魅力的です。下は一般的な鉛蓄電池とリチウムイオン電池の両方で使える充電器。従来の鉛蓄電池式フォークリフトを使いながら、徐々にリチウム電池化を進められます。ユーザーを自社に誘導するための戦略商品です欧州の都市は、日本よりはるかに自動車の電動化が進んでいます。産業車両でもこの傾向は同じで、電動化は自動車より早い時期から一定のシェアを占めていましたが、ここ数年でさらに加速した印象があります。今回の CeMATではエンジン車( IC=内燃機関と呼ばれる事が多い)の存在感はほとんどなく、鉛蓄電池からリチウムイオン電池への移行をビジネスとした提案が目立ちました。さらに次の世代を見据えて、水素をエネルギーとする燃料電池も、それなりの存在感を示しています。水素関連のコーナーは展示も人も多く、活気がありました。
ヨーロッパで物流機器やサービスを提供するトヨタマテリアルハンドリングヨーロッパ(TMHE)では、学生対象のデザインコンペを隔年で開催しています。今回で 3回目を迎え、CeMAT会期 2日目に受賞発表会が開催されました。今回のテーマは『パッケージデリバリー、革命に参加せよ』。世界的なe-コマースの高まりにともなう、配送にまつわる問題意識と解決策が問われました。学生デザインコンペを開催する理由は、新しい才能の発掘や新人採用に加え、チャレンジングでイノベーティブなブランドイメージを確立するためと、TMHEデザインセンター長の Magnus Oliveira Andersson氏は言います。産業機械のような分野でも、デザインが良いのは当たり前というヨーロッパのマーケットにおいて、他のブランドに対抗するイメージを確立するには、デザインだけでなく、独自のメッセージ発信が重要なのでしょう。
学生からの提案はハードウェアとしてのデザインだけでなく、ソフトウェアや「しくみ」など、問題解決の手段としての広義の「デザイン」でした。一位の Hannah Raynerさんと Natt Putmanさん(右から 2番目と 3番目)はイギリス Loughborough大学出身で、宅配における受け渡しの不便や非
アル・パッカー)」を提案しました。 (lPacar「A効率という問題に着目したソリューションとソフトウェア
e-コマースの成長とともに、宅配の問題は地域差こそあるものの全世界的な課題となっています。
二位は、Paul P.tzelbergerさんとMohammad Moradiさんのチーム(ドイツ Berlin-Weissensee美術大学 ) 。 三 位は David Wolterさん(スウェーデン Lund大学)でした。いずれも小口配送を担うモビリティの提案です。左はバスなど公共交通とセットで運用し、サイドのハニカム状の部分が荷物のサイズに合わせてフレキシブルに開くのがユニークです。右は内部のコンテナユニットが小さな自動倉庫のようなストレージ機能を持ち、他の輸送保管システムと連携して配送を効率化します。
As parcel shipping increases, more delivery trucks are dispatched CIPS benefits from wide spread and highly frequented on the already crowded narrow city streets. bus-stations as distribution points to achive the idea of smaller, But why dispatch more and more delivery trucks, when we can localized parcel service. The recipients can set time and location use an already existing transport infrastructure? of their preference to pick up their shipment. Alternatively they CIPS - combined infrastructure parcel service - offers an can book a special home delivery service. alternative delivery solution using the public transport bus service CIPS helps to bring products closer to consumers, increasing the as the underlying eco-friendly network to provide a faster and flexibility and adaptability of distribution networks while using a more efficient local delivery service. worldwide available transportation network.
三 位 David Wolterさん。
一位には 5000ユーロ(約 65万円)、二位 3000ユーロ、三位 2000ユーロが与えられ、希望者は TMHEデザインスタジオで半年間の有給インターンシップを受けることも可能です。今回は前回 2016年の 2倍以上 1205件の参加登録があり、最終的に審査対象となったのは 86件でした。現在は EU域内の学生のみが対象ですが、将来は全世界を対象とする構想もあるそうです。