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8月号 橘春 2018 http://collaj.jp/
時空を超える美意識
2018年7月29日、東海地方に上陸した台風 12号は、観測史上初めて、西向きの進路をとって四国・愛媛へと向かっていました。羽田から飛び立った旅客機は台風を追い越すようにして、瀬戸内の島々を俯瞰しながら、松山空港に降りました。
古くから海上交通の要衝として栄えた愛媛県の今治。いまは芸予諸島を結ぶ「しまなみ海道」が、今治と広島県の尾道を結んでいます。今治市街から3連吊り橋「来島(くるしま)海峡大橋」をわたり、平成30年7月豪雨(西日本豪雨)の被害をうけた島々を訪ねました。(レポートの写真・情報は7月31日現在です)
瀬戸内の銀座通りといわれるほど、沢山の船が行き交う「来島海峡」。潮の流れは最大18kmと、日本の海峡の中で最速クラスです。7月7日を中心に発生した「平成30年7月豪雨(西日本豪雨)」は甚大な被害をもたらしました。来島海峡の島々にも、土砂崩れの痕跡があちこちに見られ、豪雨の激しさを実感します。全壊した家は岡山県の4,107棟をはじめ、合計5,443棟。半壊6,597棟、床上浸水11,544棟、床下浸水20,646棟、死者・行方不明者220人、行方不明者10人(内閣府2018年8月7日現在)と、平成最大の豪雨災害となりました。
来島海峡大橋に近い「しまなみ海道」の高架下では、規模の大きな土砂崩れが発生していました。
土砂は「今治造船」の駐車場に向かって流れ、ガードレールを捻じ曲げていました。
来島海峡大橋を渡り、古くから神の島といわれた、大三島(おおみしま)へ向いました。しまなみ海道には、自動車道に並んで歩行者・自転車道が設けられ、サイクリストの聖地としても人気があります。
3まわり違いの友人に女の子が生まれ、実家に帰っているという彼女と赤ちゃんに会いにいった。スヤスヤと眠る赤ちゃんを抱かせてもらったが、すぐに腕が重くなり、5分ともたなかった。その子供が1歳半になった頃、彼女の新居に遊びに行った。ヨチヨチ歩きだが、母親の手に引かれながら、駅まで向かいにきてくれた。頭をちょこんと下げて挨拶もする。家までの道を手をつないで歩く。家に着く頃はもうすっかりお友達気分になっていたのかもしれない。久しぶりに会う友人との話に割り込み、ママに叱られることばかりをする。自分の存在をオイタという方法で示してくる。子供をあやすという経験はほとんどないが、本もおもちゃもみな楽しそうなものばかりで目を奪われる。
本は絵が飛びだしてくるし、おもちゃはコインを入れると英語で枚数を数える。面白がっていると、次から次へとおもちゃを持ってきて、一緒に遊ぼうという。まだ口はきけないが、その主張ぶりに大人同士の話はしばし中断。まぁいいか、元気な様子を見にきたのだから、子供と遊んでいくのも悪くないと、小さなビアノを引いたり、お歌を歌ったり ……お昼寝の時間になっても寝るもんじゃないが、一緒に横になった。
そうこうしていると、彼女が私の鼻に指をつけ「バァバ」と言う。一瞬、え?とおもったが、どうも私のことをそう呼んだようだ。聞けば、友人の母親が週1回きてくれているとのこと。彼女が言えるのは「ママ」と「バァバ」のみ、「パパ」もまだ言えないそうだが、生まれて初めて呼ばれた言葉に正直戸惑いながら、彼女にしてみれば、確かに私は「バァバ」なんだと、妙に納得。「許す」と言って、
キンギョの折り紙
すっかりバァバになって遊んだ。母親は「ダメ」を連発するが、バァバはあそばされているので、彼女の方が主導権を持つ。帰る頃にはすっかりお友達になって、駅まで送ってくれた時には一緒に行くと言ってベソをかく。にわかバァバもすっかり板についている。悪くない気分である。
その昔、同級生の友人宅に遊びに行った時、彼女の2歳の子供に「おばちゃん」と肩を叩かれた。え?誰のこと、と友人に目を向けると、「あなたしかいないでしょ」と言う。その時のショックは大きかった。姪や甥からもおばちゃんとは呼ばれない。近所の子供からも「お姉ちゃん」だったので、おばちゃんの響きは受け入れ難かった。バァバ呼びはそれ以来のショックではあったが、3まわりも違う友人の母親は私よりずっと若い。当然と言えば当然、私の年代はもう立派なバァバなんだと自覚し、ならば、優しいバァバになりたいものと思った。
不思議なことに以来、小さな子供と接することが多くなり、子供の興味の示すもの、好奇心の違いや、こだわりなど、今まで全く経験したことのない世界で教わることも多い。地域ボランティアで教わった金魚やペンギンの折り紙を数点バックに入れて持っている。綺麗な千代紙も入れてある。
最近電車の中でバギーに乗せた子供連れを見かけることが多いが、グズって座っていない子もいる。手出しは難しいが、優しいバァバになって声をかけるとちょっと落ち着いてくれる。先日はイクメンのお父さんがてんてこ舞いしていたが、泣いている子供に金魚の折り紙を差し出すと、ピタリと泣き止み満面の笑みを返してくれた。可愛い男の子だった。かわいそうに相当眠たそうな目をしていたが、折り紙効果は抜群だった。折り紙を渡すタイミングはなかなかないが、バァバ役は案外役にたつ。
折り方を忘れないうちに、金魚をもう1匹折っておこうと思う。
大三島の道の駅「多々羅しまなみ公園」から、大三島と生口島(いくちじま/広島県尾道市)を結ぶ多々羅大橋をながめます。多々羅(たたら)とは、かつて製鉄が行われていたことから名付けられたという説もあります。
対岸の生口島はレモンの島として知られ「瀬戸田レモン」は日本一の生産量をほこります。
道の駅「多々羅しまなみ公園」の売店。大三島はミカンやレモンなど柑橘類の栽培が盛んで、瀬戸内で初のワイン醸造をめざす「大三島みんなのワイナリー」もあります。
愛媛県で最も早くミカン栽培をはじめた大三島。大山祇神社にのこる室町時代の古文書にミカンの記述があり、樹齢300年の古木も残ります。近代的な栽培は明治17年(1884)松岡梅吉が広島から温州みかんの苗木を購入したのが最初といわれ、以来、カラマンダリン、ポンカン、清見、不知火、はるみ、など様々な品種が生まれ、いまは10月から翌6月まで、瀬戸内の柑橘類を楽しめるようになりました。道の駅には、農家ごとに作られた各種柑橘類ジュースが並びます。
多々羅大橋に近い「多々羅温泉」周辺(上浦町井口地区)では、大規模な土石流が発生。温泉には土砂が流れ込み、ミカン、八朔、ネーブルなど柑橘類の畑が流されました。
土砂によって広大な砂漠のようになった柑橘類の畑。有機無農薬の柑橘類を使ったリモンチェッロをつくる「大三島リモーネ」の園地もここにありました。大三島の土壌は花崗岩が風化した「真砂土(まさど)」。「特殊土壌地帯災害防除及び振興臨時措置法」において災害の発生しやすい特殊土壌とされています。島を案内してくれた、エクステリアデザイナーの高橋剛大さん。上方にあった溜池が埋まり、新たな水溜りが出来ていました。
海に近い宅地は土砂で埋まり、町民は避難所に避難していました。8月10日に応急対策工事が終了し、56世帯103人にだされていた避難指示が解除されました。搬出した土砂は1万㎥以上といわれます。
多々羅大橋をのぞむ港には、ガレキの集積所が設けられていました。かつては井口地区から広島方面へのフェリーが就航し、大山祇神社の中国地方側の玄関口として賑わいました。しまなみ海道の開通は、人の流れと島の暮らしを大きく変えました。
ヨーコの旅日記第10信川津陽子メッセフランクフルトジャパン
お盆の過ごし方
分ほどのご先祖様が眠るお墓に出向き、庭で摘んできた切り花を献花して、提灯に火を灯して帰宅する。いわゆる、ご先祖様をお迎えに上がって家までお連れするというもの
千葉県・野田
だが、過去に一度、この迎え盆に同行したことがある。風の吹く夏の日で、お墓を出て数十メートル進んだところで提灯の火が風に消された。それではご先祖様が道に迷ってしまうではないかとやり直しを命じられ、お墓に戻り再び火
早くも 8月に突入。
を灯し、とにかく提灯の火を消さぬようにと必死に家路を今年もお盆の時期がやってきた。
目指したことを思い出す。
物心ついた頃から毎夏、当たり前のように過ごしてきたが、
そして数日後の送り盆の日は、昼過ぎから徐々に親戚が集これまで友人や同僚たちから、「へ.」と驚かれることが多
まりだす。かなり長い間、お盆は父母が中心となって仕切かった我が家のお盆。
ってきた。特にこの家に嫁いだ母は、家中の掃除やら皆を長男に生まれた父親が引き継いだ実家には、本家というこ
もてなすための料理の準備やら、毎年朝から晩まで奮闘ともあり、なんだかんだと一年中、人が集まる。なかでも
していた。今、改めて考えると本当に頭が下がる思いであお盆は親戚が一堂に集う、群を抜いての一大行事なので
る。親兄弟も歳を重ね、数年前から我ら従姉妹(従兄弟ある。
に嫁いだお嫁さん含む)がこの集いを取り仕切るようになった。6月辺りになると誰からともなく、今年はどうする?とまずは迎え盆。これは両親が担当する。自宅から徒歩 10
いうLINEが始まる。それじゃあ、とりあえず一度集まろう
▲ 畑の野菜でつくった精霊馬と精霊牛。
▲ 父母が丹精込めてきた我が家の畑。
かと従姉妹会が召集される。今年は各家庭から何人参加するのか、誰が買い出しを担当するか、一応それなりの話し合いが始まるが、いつしか話は脱線し、急にまた思い出したかのように準備の話に戻りの繰り返し。話し合いのために集まるというのは、ただの飲み会の口実であるのが見え見えである(そしてこの集まりは、お盆後にも、今度は反省会と称して再び行われる)。
我が家には田舎ならではの、わりと大きめの畑がある。父母は共働きのサラリーマンであったが、30代早々から毎週末、時間が許す限り畑仕事に精を出していた。農家ではないが、趣味の範囲を超えた感がある畑では実にさまざまな野菜が育てられ、我が家では当たり前のように採れたて野菜が食卓に並んできた。これもまた今となると頭が下がる。
さて、肝心の迎え盆の集いの内容だが、長老の厳かな挨拶と献杯の音頭に始まり、メインは庭での BBQ。他と違うのは、父母が育てる野菜を畑から採ってきて、その場で焼いて食すこと。夏野菜と呼ばれるものはほぼ畑に準備されている。各々が食べたい野菜を、まるでビュッフェのように摘んでくる。贅沢な BBQではないだろうか(もちろん、
▲ 夏野菜を自分で採って BBQへ。
▲ 父親自慢の自家製スイカ。
肉の用意もあります …… )。そして極めつけは、父自慢の自家製スイカである。これまた手前味噌であるが、出荷してもいいんじゃないの?というくらいの出来で、それをほおばる皆の笑顔に父も誇らしげである。
そんな BBQで過ごしたお盆も近年は酷暑のせいで休止。ここ最近は場所を屋内に移し、たこ焼き器で焼く大量のたこ焼きで盛り上がっている。食べて飲んで笑って、ご先祖様もさぞかし帰省を満喫されたであろう、外も薄暗くなる頃、皆でお墓へ向かう。もちろん提灯にしっかりと火を灯して。
年を追うごとに家族の仲間入りが増え、さらに賑やかさを増すこの集い。遠方に住んでいて参加できない者がいれば、どこにいようとも電話をかけて声を聞く。実際、わたしがアメリカに住んでいた頃も、受話器に親戚のみんなが順番に登場し一言ずつ会話したことを覚えている。旅日記も夏休みとさせていただき、今回は猛暑に負けないくらい暑苦しいくらいの愛すべき家族のつながりについて。さまざまな出来事に見舞われる今、お盆の時期に家族の存在について改めて考え、感謝を忘れずにいたいと思う。
お供えをのせる三方を上から見て、三の字を供えた「折敷三文字紋」。大三島は神の島「御島」と呼ばれ、古くは殺生を行う漁を禁じられていました。大山祇神社の参道に立つ元・法務局をリノベーションした大三島「みんなの家」。宮浦港と神社をつなぐ参道には、かつて多くの露店が並び賑わっていましたが、バス観光の普及などによって人通りは絶えるように。そこで、伊東建築塾と地元の高校生・住民が協力して、参道を活性化する交流拠点「みんなの家」を作りました。
横浜在住の実業家で、現代美術コレクターでもあった所敦夫さんが私財を投じて建設し、 20 0 4年に開館。現在は作品とともに今治市の所有となっています。まるで登り窯をおもわせる斜面にたった階段状の建物で、設計は山本英明・ DE N住宅研究所。 LEVEL6 LEVEL5 LEVEL4 LEVEL3 LEVEL2 LEVEL1 エントランス
0 2 5 10m S1-S1’ 断面図
エントランスの両開き戸は、ノエ・カッツ作「キッシング・ドア」。
トンネル状の屋根はテント生地で張られ、半屋外の雰囲気です。
トンネルの先には瀬戸内の海。ジャコモ・マンズー「枢機卿」が、壁面に佇んでいます。
伊東豊雄さんが初めて大三島を訪ねたのは2007年のこと。「ところミュージアム」の所敦夫さんに、その別館となる新しいミュージアム計画を相談されたのがきっかけでした。伊東さんは所さんに、若い建築家を育てたいという夢を語ったところ「それならこの新しいミュージアムを使ってやったらどうか」という
つながりました。
」の開館に )MAIT(提案があり「今治市伊東豊雄建築ミュージアム
「シルバーハット」は1984年、東京中野に伊東さんの自邸と建てられた名作で、若い人のワークショップの場としてここに移築されました。
旧宗方小学校をリノベーションした宿泊施設「大三島ふるさと憩の家」が伊東建築塾の監修でリニューアルされました。
親子で安心して遊べる、プライベートビーチを併設。
今治市岩田健母と子のミュージアム(設計:伊東豊雄)
ドラゴンシリーズ 48
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
West Berlin 1989 - East Berlin 2018
私たちは 1990年、ドイツのベルリンに小さなオフィス
を設け、家具やデザインについての仕事を始めました。ちょうどベルリンの壁が崩壊した 1989年の翌年。テンペルホフ空港に隣接する古い住居用アパートメントのグランドフロアでしたが、そこは戦後から全く手が付けられておらず、電気の配線やバスルームもありませんでした。 100㎡くらいのアパートで、そこから自分たちで全ての部屋の壁に溝を掘って、電気配線を行いました。床は所々に古いフローリング材が朽ち果て抜け落ちていましたが、そこには当て木をしました。また日本人の私たちはバスタブに入る習慣があるので、近所の DIYショップで販売している一番安いバスタブを買って来て、キッチンにあった納戸を壊してバスルームにすることを決めました。納戸の壁をハンマーで壊してバスタブを無理やり配置し、さすがに配管だけ業者にお願いしましたが、壁面のタイル貼りやトイレとの仕切り壁など、ほとんどの仕事は自分たちで行いました。床は古くて埃だらけでしたので、各部屋の床を油性ペイントで塗
めたアパートの改装は、床の色にブリティシュグリーンやホワイトなど好きな色を塗って、家具は近所のゴミ捨て場に行って廃棄前の家具を譲り受け、フリーマーケットで安く値切ったパーソナルチェアなどでインテリアを作りました。私たちのものづくりの出発点は、 1990年のベルリンがまだ混乱にある中でのアパートだったのかもしれません。
装しました。
3
人ではじ
今日は
German Design Award
の審査員をフランク
フルトで終えて、それからベルリンに子供達を訪ねやって来ましたが、僕の居場所はベルリンのミッテ地区にある Gorki
Apartment
す。ベルリンだけでなく、この
というホテルです。そこでこの手紙も書いていま
年で世界は大きく変わりまし
た。もちろん、ベルリンの壁が無くなり、今のベルリン子達は当時の本物のベルリンを知りません。
当時のベルリンには東西を隔てる壁が西ベルリンの周囲をグルリと取り囲んでいました。当然、周りは共産主義国家の東ドイツであり、東から西へも、西から東へも簡単に入ることはで
30
きませんでした。本格的に 年代に作られたベルリンの壁は多くのベルリ
30
ン市民や家族を突然のように引き裂きました。当時の市民はそこまで強固な壁になるとは想像していなかったのでしょう。
そして、多くの人々が家族や友人たちに会うために壁を超えることを試み、命を落とした歴史を持っています。そんな壁に囲まれた西ベルリンの市民達は独自の自由を獲得していきました。居場所が見つけられない多く
30
の外国人が独特の空間に身を置き、自由を得ていました。そこは西ドイツ
60
ではなく、ベルリンと言う小さな国だったような気がします。僕らも日本にも西ドイツの立派さにも上手く馴染めずにいたこともあって、西ベルリンの持つ自由に魅力を感じた者です。今はもう当時の壁の隔たりや壁の痕跡を見つけることも難しくなりました。東ベルリン地区の方が西ベルリン地区よりも新しい文化が発展し、アーティスト達が集まって来ました。ベルリンは今や文化都市となっています。
でも僕には何かが物足りないのです。
年以上前に僕は仕事で共産主義時代の東ベルリンを訪れる機会がありまし45
た。僕らの車は裏側まで全てチェックされて、通過する道路も指定されていました。滞在したのは日本の鹿島建設が担当した東ベルリンで当時最も高級だったグランドホテルでした。夜、僕はホテルを抜け出して(本当は禁止されていたのですが)、近所を徘徊しました。綺麗に塗装されたメインストリートの建物から一歩路地に入り込むと、そこには別世界が存在していました。経験したことの無い感覚が僕の体の中を走り抜けました。そこには銃弾の跡が数千発、それ以上も壁に残されて放置されたままの真っ黒に煤けた建物の暗闇が続いていました。 1945年頃の戦時中のベルリンに立っているような感覚でした。僕がそこに立っていたのは 1989年でしたので、終戦から 年がすぎ、戦争は遠い昔のことのような感覚でした。
そして、いま僕は東ベルリンのアパートメントホテルの一室にいます。 1989年から既に 年が経ったこの場所で、 1989年は昨日のことのようです。街は変わったように見えます。
人々も変わったように見えます。しかし、変わっていないのはここに存在する何か。それと自分でした。時間は確実に経過して失われて行きますが、人々や街が持つ何か目に見えないものはそこに存在し続けるのでしょう。亡霊のように、ニヒルに笑いながら、そこに存在しています。
伯方島の有津地区では、7月7日朝7時頃に裏山から大規模な土石流が発生。住宅の1階で女性(49)が死亡し、2階にいた子ども2人が救出されました。
大木が根こそぎ流されています。
自宅、築 27年目の耐震化 その 3
備えあれば憂いなしの耐震計画と工事の実際
前回お話しした、衝撃的な耐震評点結果には理由があります。我が家は建ぺい率 50%の狭小敷地で、唯一東南角側が開けています。視界の広がりと日照を確保するために壁の一部を45度振って計画したことで、柱間距離909mm以下の部分があり、筋交いをダブルで入れているにも関わらず耐力壁として計算されない壁がありました。そのため特に1階の耐力が、安全な数値を下回ったのです。精密診断の結果を受け、耐震設計者の高本さんから以下のような耐震強化方針が提案されました。1階は既存壁を耐力要素の高いものに入れ替える、2階は、構造体接合部の補強を緻密に行うというものです。
1) 保有体力の向上
●既存の筋交いを取り外し、日本建築防災協会評価の耐震壁を採用(厚さ12mmの構造用合板を、指定位置、指定ピッチ、指定寸法釘で固定)。 ●床部分の解体、復旧工事を極力少なくするため、小さな上下開口部を持つ耐震補強壁(柱間上下に横桟を設置)を採用。耐力壁設置場所の左右柱に柱頭柱脚接合金物
耐力壁の工事例。壁を剥がしてから上下に横桟の補強を取り付け、構造用合板に規定のピッチで釘を打って張る。石膏ボードを張ってから壁紙で仕上げる。
▲
を設置。
2)軸組の一体性向上
● 柱の引き抜き力および地震時の水平荷重を基礎に伝達するため、ケミカルアンカーボルトを採用(新築物件にはケミカルアンカーボルトは認められない)。 ● 建物 4隅の通し柱脚部に外付けの既製品ホールダウン金物を設置し、基礎と上部構造(土台を含む上部木構造体)を緊結する。
工事を行った結果、上部構造評点は以下のように改善され、全てにわたり基準値(1.50)以上となりました。
3) 屋根荷重を軽減
2階 X方向(東西)=1.50 倒壊しない屋根に苔が生えるているという指摘があったため、自主的に、
2階 Y方向(南北)=1.85 倒壊しないより軽量な素材に葺き替えることを依頼。
1階 X方向(東西)=1.70 倒壊しない● 既存の化粧スレート屋根(約 68kg/坪)に比べ、約 4
1階 Y方向(南北)=1.85 倒壊しない
5kg/坪)を .分の1の重量のフッ素樹脂鋼板屋根(約17
採用。屋根を軽くすることで、耐震性向上を期待。鋼板の
これで長年にわたって気になっていた住まいの耐震力が、よため雨音を心配したが、裏打ちした断熱材の効果か雨音は
うやく手に入りました。以前とほぼ変わらない。
時々起こる震度 3クラスの地震では、以前よりも揺れが少
なくなったように感じます。壁の耐震性向上と共に、断熱
4) 基礎の剛性確保
材を現在のものに入れ替え、隙間を発泡剤でふさぎボード
を張ったため熱貫流率が改善され、少し寒かった部屋の居貼って補強する。
● 基礎の一部を構造用モルタルで補修し、アラミド繊維を
心地も向上しました。以上を実現するための工事箇所は、 ●壁面材による補強 15カ所
この際と思い、大半の窓ガラスを「網入り準耐火」から、●軸組要素による補強 1カ所
最近発売された「網なし準耐火クリアータイプ」に交換しま●柱頭柱脚接合金物による補強 34カ所
した。ある専門家の方からは、糸魚川市の大火災(2016●ケミカルアンカーボルト打ち込み 27カ所
年 12月)で燃え残った建物は、やはり網入りガラスだった●外付けホールダウン金物 4カ所
といわれ、延焼は炎がガラスを破り室内から燃えはじめるか
●火打梁固定補強 5カ所最も苦労したホールダウン金物カバー。金物と躯体に合わせら網入りがいいとアドバイスされましたが、美しいクリアガラて設計し、金属加工メーカーに特注しました。
ス越しに空を眺めて悦に入っています。網入りガラスは新築の時から嫌でしょうがなかったのです。
外壁については、劣化が進んだ構造材を交換するため、一部をはがす必要があり、築 27年も経つため同じ外壁材の入手に手間取りました。外壁はコンクリート押出成型版で、骨材に御影石を使った当時最新の吹き付け材料を塗装していました。これは期待通りの高性能で、色落ちや汚れがほとんど見受けられません。周囲の家はすでに 2回ほど塗り替えていますが、我が家は1度も塗り替えずに済んでいます。しかし、この塗料が廃番となってしまったため代替品を使うしかありませんでした。色をなんとか合わせても、テクスチュア感はどうしても再現出来ず諦めました。光の反射が違うので残念です。
今回の改修で一番時間と知恵を使ったのは、外部に取り付けたホールダウン金物カバーでした。本来のホールダウン金物は建物の躯体内部に隠れますが、既存の建物の場合は、外壁に取り付けるしかありません。今回採用したホールダウン金物は、上部と下部金物をステンレスケーブルで繋いだものです。躯体の仕上げや基礎の仕上げ、取付
▲
ホールダウン金物の取り付け工事例。外壁の一部を切り取り、柱と基礎にホールダウン金物を取り付ける。カバーの取り付け部を固定してから、ステンレス製カバーを設置。
け位置などは、建物ごとに大きく違うので、それをクリアーするために、中間部をフレキシブルなステンレスワイヤーにした優れものです。機能はそれで充分なのですが、取付けられた時の見栄えが問題です。上部金物は外壁を切り取り、柱に直接取り付けます。そのため壁に大きな穴をあけるのです。そのままでは雨風が入り放題で建物を傷めますから、ホールダウン金物、取付けられた柱、基礎部の金物、それら全てを防水できるカバーが必要となります。そして建物外観と違和感の少ない納まりにしなければなりません。設計者と議論を重ね、ようやく納得できる仕上がりとなりました。
3回にわたり耐震改修プロセスを報告しましたが、全貌はとても語り尽くせません。外観はほとんど変わらないので、ご近所から「何処を直したの?」とよく聞かれます。精密診断から工事終了までちょうど1年かかりました。時間もエネルギーも膨大に費やしました。この種のプロジェクトで大切なのは、まず信頼できる専門建築家と出会うこと、そして任せっぱなしではなく、こちらも納得いくまで取り組むことです。双方が知見を出し合いながら進めることで、初めて実現できるものだと改めて実感しました。
7月7日、大規模な洪水により冠水した大洲市街の国道56号線(大洲街道)。国道沿いの大型店舗やコンビニ、住宅などが、軒並み浸水しました。7月30日現在、ガレキはほぼ撤去され、大半の店舗は再開していました。
国道56号
伊予大洲駅
大洲城肱川橋
大洲盆地から瀬戸内海に注ぐ肱川。昭和45年8月の台風10号、昭和57年8月の台風13号、平成7年の梅雨前線豪雨、平成16年の台風18号と、たびたびの洪水を引き起こしてきました。勾配が少なく大きく蛇行していること、下流の川幅が狭いこと、満潮時に海から水が逆流することなどが洪水の要因といわれます。肱川は洪水をおこす一方で、大洲に富をもたらしてきました。川を行き来する水運により材木や繭の一大集散地となり、養蚕も盛んでした。古くからの船着き場には、うかいの観光船が並んでいます。夏の風物詩「大洲うかい」は洪水の影響で休止されていましたが、8月7日から再開されました。
肱川をのぞむ大洲城。大洲は城下町として発展してきました。
名産のひとつ里芋畑。大洲では夏芋と呼ばれ、秋には「初煮会」が開かれます。稲作の難しかった大洲では里芋や桑の栽培が盛んで、上質な大洲和紙も藩の財政を支えていました。
肱川橋のたもとから旧市街「本町」に入ります。江戸時代からの古い家並みは、洪水の被害を受けませんでした。、松山で高校教諭をつとめていた山内さんが、街の歴史を案内してくださいました。
肱川の堤防に設けられた閘門(こうもん)。7月7日は閘門が閉じられ、洪水に備えていたそうです。
閘門の対岸には、川に突き出た水制(ナゲ)が見えます。17世紀に築かれたナゲは、川の水流を中央に導き堤防の破損を防ぐと共に、湊(みなと)の役割も果たしました。
明治20年代に最盛期を迎えた大洲の養蚕業。「おおず赤煉瓦館」は、元大洲商業銀行(伊予銀行のルーツ)の事務所と繭の保管庫を利用した観光拠点です。当時は繭を抵当として融資を行ったので、預かった繭を大切に保管する倉庫として建設されました。
おおず赤煉瓦館向かいの「油屋」。以前は老舗旅館として営業し、司馬遼太郎『街道をゆく第14巻南伊予・西土佐の道』にも登場します。いまは料理店となっています。
昭和30年代の町並みを再現した「ポコペン横丁」や、古い商家を利用した骨董品店など、タイムスリップした感覚に……。
1991年の大ヒットドラマ『東京ラブストーリー』のロケで使われた赤いポスト。大洲は織田裕二演じる完治(かんじ)の生まれ故郷という設定で、リカ(鈴木保奈美)と肱川べりを歩くシーンで「台風が来るとよく洪水になった」ことを完治が語っています。
「土用の丑の日にはうなぎ」とはいうものの、この夏は鰻がバカ高。さすがにあの値段でも、という人は少数であったようで、真空パックの冷凍ものは、かなりダブついている、という噂がある。実際7月の終わり頃からスーパーやデパ地下の冷凍ケース脇で「鰻の蒲焼特売!」と叫ぶ売り子さんをあちこちで見かけた。鰻は、アジやサバやサンマといった一般の魚とは隔絶した、かなり特殊な流通ルートが確立していて、今年の異常な高値は、この特殊要因が複合的に作用しての結果であるらしい。気候変動と海流変化さらに乱獲による稚魚の超不漁という「もっともらしい説明」よりは、むしろ、その流通に関わる業者諸氏の思惑が膨らみすぎた結果の超高値だった、とみて間違いなさそうだ。下品かもしれないが、人の世は、金と色。この つプリズムを通して眺めると、より鮮明な画像が見えてくる。
「鰻」といえば、子供の頃見た日本映画の一場面を思い出す。夏の宵、縁側越しに手入れの行き届いた庭を眺める見事な座敷。暗がりとなっている奥の隣室には贅沢な夏布団が敷かれているのが、わずかに見える。座敷では立派2な床の間を背に、赤ら顔で小太りの精力的な感じの初老男。今は亡き進藤英太郎的な男が甚平姿で、浴衣姿の若尾文子的な年若き愛人の酌を受けながら、うな重をうまそうに食べている。
「四万八千日、暑い盛りでございます …」そんな語りが遠くから聞こえてきそうなしつらえで、息苦しいような夏の宵。子供心にも、色香をたっぷりと含んだ空気の重さが伝わってくる場面だった。この歳に至って私は、あのシーンの意味が分かったような気がする。監督が描きたかったのは「金の力で薄幸な若い娘をという成金親父の因業ぶり」ではなく、むしろ「鰻に頼ってでも何とか若い女を悦ばせたい」という初老男の哀しい性ではなかったか。もしこれが、二十歳の男であってみれば、氷水に浮かべた白玉団子と素麺であっても、ほとばしる熱情を冷やすことなどできないほどであって、鰻なんて要らない。真夏に鰻というのは言うまでもなく、精力をつけて、というイメージがあるからで、この「精力」という言葉、「性的な力を含む」と広辞苑に明確に定義されている。要するに「精力=性力」なのであって、とりわけ「男の性的な力」を意味すると考えていいだろう。「精力増強に」という謳い文句はいまだに一部のビタミン剤や栄養ドリンクのコピーで見かける。昨今は「機能食品」なる怪しげな名称で、それとなく性的効能を訴える加工食薬品も徐々に増えつ
つある。「盃一杯でしじみのエキス 個分のパワー」であってみれば、夜眠れぬ程の効能がありそうだなどと思うのは、売り手の思う壺か。それにしても、おそらくは松竹映画、遠くに見る幻の如き私小説文芸作品的世界を、今頃思い出すなんて。イメージの記憶は長く深く潜伏しているものらしい。
性的な効能については、我が国では伝統的に、食品よりも強壮剤すなわち漢方的な世界を思い浮かべる人が多いはず。クジラやオットセイ、虎や熊のなんとか、朝鮮人参にスッポンの生き血あたりも仲間に入れて良さそうだ。大昔からこうした漢方的「精力増強剤」の世界が確立しているので、「この食べ物がアレに効く」的な発想は、欧米に比べると希薄だったと感じる。というのも、欧米の食文化史をたどっていると、
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ずいぶんと多様な食材が、性的な欲求を高める効能ありと語られることに驚かされるからだ。わかり易い例で言えば、ショウガと唐辛子。どちらも食べれば体が火照ってくるわけで、チョコレートや蜂蜜それにメープルシロップなども、同様の効果からリストに上る。体の火照りと、あちらの火照りは、ちょっと違うような気もするけれど、どうですか。また我々の文化から見ると西欧のそれは、「強精剤」というよりは「媚薬」、と捉えたほうがより近いのではないかと感じられるものが多い。また、食材のモノの形状からの連想もある。前回触れたイチジク、カキ、さらには、アワビや二枚貝などは、その代表例だ。我が国でアワビやカキに媚薬的効果や強壮剤的効果を期待する人は、あまりいないのではないのではないか。しかし、欧米におけるその道での「カキ信仰」は、歴史も長く、広く深く浸透していると断言できる。信ずる者は救われるのだ。また、香りからのイメージで媚薬的効果アリと考えられているものもある。例えば、ナツメグやトリュフ。「晩秋の森の奥、トリュフ探しに使う豚はメスが決まり」などと言われると、価格を忘れて「アワビのトリュフソース添え」などという料理をオーダーする男がいても不思議ではない。
こうした力を持つ食材・ハーブ・スパイス・薬剤をひっくるめて、英語で「アフロディジアック」と呼ぶ。古代ギリシアの愛の神アフロディテから発した言葉で、英仏独西伊すべて同様の言葉で呼ばれる。同様に「この食材がアレに効く」的な個別イメージも、本来多様な要素を抱える欧米の文化圏で、概ね共通した認識が確立している、と見ていい。要するに、媚薬もしくは強壮剤の世界は、一定の共通基盤を持つ民族の歴史と文化の集積から生み出される、めくるめく幻想的なイメージの世界なのであって、だからこそ、深く面白いのだ。何事も実証主義で処断しがちな欧米文化と思われがちだが、事この点に関しては、下手な薬事的解説よりも、「カサノヴァの回想録によれば」というひと言のほうが「真の金言」として重んじられる、という雰囲気が濃厚だ。それだけに、この手の話のキーワードとして登場する食べ物やスパイスの秘められた意味を知ることは、物語や回想録のめくるめく世界をより深く味わい、その真の意味を知るに必須の、大切な基礎知識であるはず。などと夢想するうちに、きょうもまた長く暑い夏の宵が暮れていく。
肱川が大きく湾曲したこの地を「臥龍」(龍がふせる場所)と名付け庭園を設けたのは、大洲藩第3代藩主・加藤泰恒といわれています。明治となり荒れ果てた庭園を河内寅次郎が買い取り、明治30年頃から10年以上をかけて「臥龍山荘」を築きました。
臥龍山荘には京都「千家十職」(せんけじっそく)の手わざが遺されています。千家に仕えた職人たち(職家)は、明治になると千家十職と名付けられました。花筏など透かし彫りを彫った指物師の駒沢利斎、雪輪窓や床框を塗った塗師の中村宗哲、襖の引き手には金物師の中川浄益、襖など建具には表具師の奥村吉兵衛が参加し、桂離宮や修学院離宮など、京都の名建築から引用した「見立て」を随所に採り入れています。
霞月の間(かげつのま)は、京都大徳寺玉林院の霞床をモチーフとして、霞にみたてた違い棚の後ろに掛け軸を吊るという変わった構成です。掛け軸には富士山、丸窓を月、襖の利休鼠は薄暮、引き手には中川浄益によるコウモリの細工が施され、ストーリー性の高い書院となっています。
格調の高い書院造りの「壱是の間」(いっしのま)は、丸窓、濡縁、障子戸、天井板などに桂離宮様式を採り入れています。畳をあげれば能舞台となるように設計され、床下には能舞台で使われる備前焼の大壺が置かれています。臥龍山荘を手がけた棟梁は、地元の大工・中野虎雄。当時はまだ30歳の若さでしたが、中野家は大洲藩に使えた作事方の武家で、大洲城天守閣の雛形を保管するなど、古くから続く大工の家系でした。
かつてここを訪れた建築家・黒川紀章氏は「臥龍山荘」を数寄屋建築の名作と評し、建築雑誌に「数寄屋考ー花数寄のこと」を寄稿します。これをきっかけに市民のあいだで保存の機運が高まり、市は土地を買収し、建物は河内陽一氏から市へ寄贈されました。
おはなはん通りの水路には、錦鯉が泳いでいます。旧家を活用した郷土料理「旬」では、大洲の郷土料理や創作料理を頂けます。
大洲はもともと「大津」と書かれ、肱川の湊町として栄えました。城下町が整ったのは17世紀頃からで、当時の領主・藤堂高虎が養子の高吉を大津城にすえ、商人たちに街をつくらせました。後に城主となった脇坂安治は、給人所法度や庄屋体制を整え、洲本城の天守閣を大洲に移築し、地名を大洲と改めたといわれます。元和3年(1671)に脇坂安治が大津を去ると、加藤貞泰が新城主となり、加藤氏の治世は明治維新まで続きました。明治6年の廃城後は個人の所有となり、明治22年まで残っていた天守閣が取り壊されます。大洲城天守は4層になっていて、千鳥破風や唐破風の数が多く、中心には心柱を立てていました。天守閣の復興事業は1996年からスタートし、2002年に起工。2004年に竣工しました。設計は明治期の写真や棟梁による模型をもとに行われ、梁や床材には樹齢350年の木曾ヒノキ、柱には県産材、床下の基礎には秋田のクリが使用されています。柱や梁は一本一本を市民の寄付によってまかない、住民参加型の事業として復興がすすめられました。天守閣から見た肘川。予讃線の橋がみえるあたりから、西側(左側)に向けて川が決壊しました。氾濫を繰り返す肱川に大洲城主たちも悩まされ、堤防の建造や掘削を行い、水番を置いて、水位を毎日観測していました。
地元のタクシー運転手さんにお願いして、7月7日、浸水した住宅地を案内してもらいました。中心部の東側にあたり、山裾と田畑に挟まれ、肱川の小さな支流が流れる一画です。新興住宅地や新しい病院が並び、床上浸水した家屋が沢山ありました。
肱川の流域では9名が逃げ遅れや土砂崩れにより犠牲となり、3400棟を超える住宅が浸水。特に上流の野村地区、肱川地区の被害が大きく、その要因として、野村ダム、鹿野川ダムの緊急放流があげられ、ニュースでも話題になりました。野村ダムでは7月7日6時20分、鹿野川ダムでは7時35分に、流れ込んだ水量をそのまま放流する緊急措置を行いました。ダム放流後に急激な川の増水が起こり、ダムに近い野村地区、肱川地区では、大量の土砂を含んだ鉄砲水のような氾濫が町を襲いました。住民の多くはダム放流を知らず、逃げ遅れた人も大勢いました。ダム放流の際はサイレンを鳴らしますが、大雨のなか早朝ということもあり、多くの住民が気づかなかったのです。鹿野川ダムの管理事務所は早朝5時30分に1回目のアナウンスを行い、6時18分に2回めのアナウンスとサイレンを鳴らし、警報車を流域に2台走らせています。ただしダム管理事務所は、氾濫の可能性を伝えたり、避難をすすめることは行いません。大洲市役所には、ダム管理事務所長から大洲市長宛に緊急措置の2時間前から放流情報が伝えられましたが、市民には通知されませんでした。鹿野川ダムから過去最大の毎秒6000トン(実際には3700トン)の放流が開始されることが市役所に通知されたのは6時50分。安全とされる600トンを遥かにこえる水量で、道路や住宅の冠水が予想されました。大洲市は朝7時に避難指示を出しますが、6000トンの緊急放流については混乱を避けるため知らされませんでした。7月11日にひらかれた国土交通省四国地方整備局の記者会見で長尾純二河川調査官は、放流操作は適切で規定通りだったと説明しましたが、住宅の浸水を予見した上での緊急措置は、住民から多くの非難を受けました。洪水が確実に起こることが告知されていれば、1階で寝ていた高齢者を助けられたかもしないという思いが住民たちにはあります。国土交通省も専門家を加えた検証会議を立ち上げ、住民への通知方法について検証が行われています。鹿野川ダムは昭和34年に完成した洪水調整・水力発電のためのダムで、洪水調整の能力向上のため、国内初となる水路トンネルの増設工事をすすめている最中でした。トンネルはダム湖と下流側をバイパスするもので、現在よりも平常のダムの水位を下げることにより、1650万㎡だった洪水調整料を2390万㎡にあげるとされ427億円が投じられました。しかし今回の豪雨には間に合いませんでした。今回の豪雨で得た課題は、緊急時の情報伝達方法や避難方法にあったと思われます。愛媛県の自治体の中には、メールやケーブルテレビで緊急放流をリアルタイムに住民に通知している所もあります。異常な豪雨に対しては、ダムで調整できる水量に限界があることも事実です。