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松山-坂の上に雲-道後
時空を超える美意識
9月号 台風 2018 http://collaj.jp/
「坊つちやん」の舞台となった愛媛県松山。夏目漱石は明治28年、旧制松山中学(現・松山東高校)に英語教師として赴任。故郷で病気療養中の盟友・正岡子規と50日にわたり同居します。
漱石と子規は道後温泉によくでかけました。当時は道後湯之町の初代町長伊佐庭如矢によって、現在の木造3館建が完成したばかり。多額の費用に反対する住民に対し「 100年後までも他所が真似できないものを作ってこそ、はじめて物をいう」と説得した伊佐庭の思いは、130年をへた今も、人々をひきつけています。
道後温泉は2014年に、アートイベント「道後オンセナート」をスタート。2018年は、宇野亜喜良、蜷川実花、明和電機、田中泯、祖父江慎など約30組が参加。2019年2月28日まで開催中です。
オールドイングランド道後山の手ホテルでは、客室の1室を宇野亜喜良「恋愛辞典」として公開(11時.18時)。夜間は宿泊も可能です。植物をモチーフとした恋愛物語が原画とともに壁いっぱいに広がります。
渓谷の底に白い水の湧きでる泉もあるのです 宇野亜喜良
彼女たちが私たちを愛しているとき、彼女たちが愛しているのは本当は私たちではない。しかし、ある朝、彼女たちがもはや愛さなくなるのは、確かに私たちである。
ポール・ジェラルディ(1885.1983)
道後温泉「椿の湯」に展示された大巻伸嗣「Echoes月光」。椿は聖徳太子の行幸に由来した道後温泉のシンボルです。道後温泉の外湯には「道後温泉本館」、「別館飛鳥乃湯泉」、巡礼の杓に汲みたる椿かな子規「椿の湯」があり、椿の湯は地元の方に人気が
あります。
道後の朝は温泉ラジオ体操から。別館飛鳥乃湯は、昨年末にオープンした新施設で、飛鳥時代の建築様式をモチーフにしています。
神の温泉を囲んで、椿が互いに枝を交えてしげりあい、椿の実は花びらを覆って温泉に垂れている
聖徳太子
西暦596年に道後を訪れた聖徳太子は、我が国最古の金石文といわれる「湯岡の碑文」を遺しました。伊予風土記にその姿が記述されていますが、実物は未だ発見されていません。約60畳の大広間天井には、平安時代から伝わる大洲和紙(内子町)に金属箔を貼った「ギルディング和紙」が吊られ、畳には座布団が並びます。温泉につかり坐って休むのが道後温泉スタイルです。5部屋ある休憩個室は、愛媛の伝統工芸で彩られています。道後温泉を発見した白鷺を「伊予水引」で表現したのは、えひめ伝統工芸士、安藤加代子さん、村上三枝子さん、塘地陽子さん。
西条だんじり彫刻(屋台の装飾彫刻)の石水信至さんは、源氏物語に描かれる「伊予の湯桁」を表現。昔の浴衣(湯帳)を着て、鳥や動物、神々とともに沐浴を楽しむ女性たちを彫りあげました。
露天風呂。河野興産の「媛ひのきデコラパネル」が壁面を飾ります。愛媛県は全国2位のヒノキ産地です。
今治タオルを椿の花に見立てた「椿の間」のオブジェ。先染めジャカード織タオルで世界初のフルカラー表現を実現した株式会社藤高による「五彩織り」で、聖徳太子による「湯岡の碑文」を表現しています。大広間で頂くお茶や和菓子も椿のモチーフ。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
「縄文展」から興味の広がり -その 1
ー始まりは茅野駅横の巨大な土偶写真からー
昨年秋から、下諏訪に毎週通いつめています。来春、下諏訪駅前に出来る複合ビル1階に、この施設のキーテナントとしてクライアント企業が出店するためです。目的地まで 200km程度ですが、一番早い中央本線の特急「スーパーあずさ」で 2時間 10分、普通の「あずさ」は2時間 30分かかります。新宿から進行方向左側の車窓が美しく、何せ毎週通うのですから左側に席を取ります。甲府盆地をよく見下ろせて、春は桃の花が車窓いっぱいに咲き乱れます。しかしある時、左側席が取れなくて仕方なく右側席で向かったところ、目的地の上諏訪まであと5分という、一つ前の駅「茅野」で異様!!なものに出会いました。それは駅の横にある現代的な総ガラス張り建物の正面側ファサードに掲げられた、巨大な土偶写真でした。今まで見たことのない不思議な顔と体つきがそこにありました。
国宝「仮面の女神」全長 34cm、重量 2.7lg。茅野市尖石縄文考古館
いままで寺社・仏像はかなり見てきましたが、考古学に夢中になるわけではなく、土偶にもあまり興味は持ちませんでした。初めは茅野と土偶の関係が分かりませんでしたが、数回右側の車窓で過ごすうちに、この地で発見されたようだとやっと気付いたのです。
そんな中、今年の 7月 3日から 9月 2日まで東京国立博物館平成館で行われた「縄文-1万年の鼓動」展が行われました。夏は比較的に好きですが、今年の暑さは流石に外出をためらう日が多く、終盤に行こうと思っていました。ところが NHK「日曜美術館」で縄文展が放送されてしまい、混雑はさけられないと覚悟していましたが、チケット売り場で10分、会場入り口で 30分、館内で 20分待ち、しかも台風 20号がもたらす湿舌の雨の中でしたので、閉展 2日前とは云へ、この人出はやや驚きでした。以下ガイドブックの前文抜粋から……
「いまから約1万3000年前、氷河期が終わりに近づいて温暖化が進み、現在の日本列島の景観が整いました。そして、その自然環境に適応した人々の営みが始まります。縄文時代の幕開けです。彼らが暮らしの中で作り出した土器や石器、土偶や装身具は、力強さと神秘的な魅力があります。とくに、縄文時代中期の土器の躍動感あふれるダイナミックな造形は、世界の歴史の中でも極めて独創的なものです。」
展覧会は入り口の『暮らしの美』コーナーから、いきなり重要文化財クラスが登場。北から南まで幅広く出土したプリミティブな土器、女性の櫛や耳飾りが並び、人の群がりが続くため、見たいものだけにポイントをしぼり動き回りました。その一つ、青森の三内丸山遺跡から出土した「縄文ポシェット」(木製網籠)は見物でした。縄文遺物は石器、土器、土偶のイメージですが、これは木製なのによく形が残っていたと感激しました。
テーマ『縄文美の最たるもの』の照明を落とした暗い部屋の展示は、大きいケースに入れられた 6点のみ。全て国宝です。目指すのは、茅野駅の写真で見たあの土偶です。平らな逆三角形のなかに、吊り上がる長方形の細い目、幅の狭い小
「縄文の女神」の発掘現場を整備した中ッ原縄文公園。「御柱」のルーツといわれる8本の柱列が再現されています。
中ッ原遺跡からは竪穴住居約 200軒が発見され、中心的なムラだったと推測されています。
振りの鼻、丸い小さい口、と造形が抽象化されたやや上向きの不思議な顔付き、どっしりとした太い両足と可愛いい女性器、頭の後ろに二股に分けて結われた髪、まとう衣服はダイナミックで流れるようなパターン。全身はもちろん、どこをとっても印象深い造形で心を揺さぶられます。「仮面の女神」は高さ34cmと、出会う前もイメージよりも大きいものでした。中空成型でかなり緻密に作られています。発見は比較的新しく、長野県茅野市湖東中ッ原(こひがしなかっぱら)遺跡で、平成 12年 8月 23日、午後 2時過ぎの発掘作業中のことでした。ほぼ全身が、脚部を除いて壊されておらず、これだけ揃って出土することは非常に珍しく、出土状態を克明に調査出来ることは素晴らしい機会だったそうです。発掘作業員皆に固く口止めし、昼夜寝ずの番で、8月30日の公開まで、その場所を護ったそうです。
ここで新しい興味がわき始めました。建築に携わるものの本
能としては現場が全てでもあり、「出土した現地をみて観たい!
行かなければ本当のことは解らない!」と云う衝動です。「仮面の女神」は、通常は「茅野市尖石(とがりいし)縄文
考古館」で展示されています。出土地を見られるかどうか問
い合わせたところ、考古館から車で10数分のところだそうで、来てもらえれば地図も用意しているとのことでした。
茅野市尖石縄文考古館でも出土時の状況を、部分的ですが原寸のジオラマで再現してあります。また諏訪湖を中心にこの近辺で発見された遺跡の分布を示す立体地図があり、ものすごい数のピンがうたれています。狩猟には最適な緩やかで深い森が続き、諏訪湖近くには、広くはありませんが畑に適した平野があった様です。私の興味の中心は「出土地」の周りの風景であり環境です。湖東中ッ原遺跡は周囲よりほんの少し小高い丘の上にありました。八ヶ岳山麓のなだらかな南西向き傾斜地の中です。いまでは道路もあり、すぐ横に住宅も建っていますが、遺跡全体は面積が広く、集落として共同生活がなされていたと解ります。この土偶を作った縄文人が暮らした生活環境の一端でも、現地に立って感じてみたかったのです。残念なのはこの日は低い雲がたれ込めていましたので、背景の八ヶ岳など、周囲環境の全貌が感じられずじまいでした。
現地の航空写真を見ると分かりますが、大きい 8カ所の穴が 2列に規則的に穿たれていて、そのすぐ横が「仮面の女神」の出土地です。確かなことは分かりませんが、この場所は集
発掘時の「仮面の女神」。足は故意に壊されたようです。中空成型されていることが分かります。
諏訪湖を中心とした縄文遺跡の分布。湖の周囲や川沿に、ものすごい数の遺跡があります。
落の中心付近で、何か宗教的な儀式が行われた場所ではな
いかと想像されました。
「仮面の女神」の出土地点から1m程離れたところに、浅形で小型の土器が伏せられていて、それも発掘時の位置に置かれています。後から読んだ資料によると、この土器は死者の顔にかぶせられていたようです。しかしここの土壌が特殊なため骨を溶かしてしまったようで、浅形土器しか残っていませんでした。
「縄文のヴィーナス」と呼ばれる国宝土偶第1号も、この湖東中ッ原遺跡からそれほど遠くない「棚畑遺跡」から出土しています(「縄文のヴィーナス」も茅野市尖石縄文考古館で展示されています)。今回は時間の関係で立ち寄ることが出来ませんでしたが、6点の国宝土偶のうち、2点がこの茅野の地から発見されています。人口的にも、集落の広がりや分布としてもこの地域は縄文時代の一翼を担っていたのでしょう。暮らしやすい地形で、森も水も豊かだったと想像されます。縄文時代を代表する「火焔型土器」や、その美術的価値を強く主張した芸術家「岡本太郎」が果たした役割についてもお話ししたいのですが、一回では語りきれません。あらためて次回に取り上げます。
平成22年、道後温泉の「山の手ガーデンプレイス」にオープンした「ぎやまんガラス美術館」。江戸から大正にかけての和ガラス約300点を展示しています。紫色盃(宙吹き)江戸時代
春の日の雨しき降ればガラス戸の曇りて見えぬ山吹の花 子規
日本での西洋的なカラス器づくりは、江戸初期の長崎で始まり、大阪、京都、江戸、薩摩へひろまったと考えられています。当時は鉛ガラス(クリスタル)原料しかなく、透明なガラスを作れませんでした。割れないようにガラスを冷やす「徐冷」も未熟だったため、色つきの薄い宙吹きガラスが中心でした。
黄色鶴首徳利(宙吹き)江戸時代(長崎)
藍色鶴首徳利(宙吹き)江戸時代
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薄青色平盃(型吹き)江戸時代割れやすくもろい江戸の和ガラスは、西洋のガラス製品とは異なる、はかなさの美をたたえているようです。
山の手ガーデンプレイスのカフェで紅茶や食事を楽しめます。
梅花型皿(型吹き)江戸時代ガラスの収縮によって生じた、自然の槌目が現れています。乳白ぼかし椀 明治時代幕末に硬質ガラス原料の開発をすすめたのは、佐久間象山といわれています。
ねじり筋文茶碗 江戸時代
紫色ひょうたん型徳利 江戸時代初期の和ガラスは実用性が低く、縁日で職人が吹きガラスを披露したり、エンタテインメント性の高い「きわもの」として扱われていました。セルリアンブルーの吹きガラス 明治時代明治になると西洋の技術が導入され、明治6年(1873)には、本格的な西洋式ガラス工場「興業社」が品川で操業を開始。生活用品としてのガラス器を生みだしました。
世界中から観光客の訪れる道後温泉駅。市電(伊予鉄)の終点であり、今治や宇和島、名古屋、大阪、新宿とも高速バスでつながり、温泉地でありながら、日本各地との交通ハブにもなっています。
毎朝6時、刻太鼓の合図と共に道後温泉本館が開場。待ちわびた浴衣姿の人たちがどっと押し寄せます。3000年の歴史をもつといわれ、大国主命や聖徳太子、斉明天皇はじめ歴代の天皇もこの湯を楽しみました。本館には霊(たま)の湯と神の湯があり、利用は4つのコース「霊の湯 三階個室」「霊の湯 二階席」「神の湯 二階席」「神の湯 階下」から選びます。
神の湯。霊の湯よりも広く、地元の方も入ります。「坊っちゃん泳べからず」の看板は、小説「坊っちゃん」の中で、浴槽で泳ぐ坊っちゃんにちなんで掲げられたもの。人気小説の舞台となり、道後の名は全国へ広まりました(作中は「住田温泉」)。
風通しがよく広々とした2階広間。3階とは狭い階段でつながり、増改築を繰り返した館内は迷路のようです。2019年1月15日より、2階、3階は改修工事のため閉鎖される予定です(浴場は営業を続けます)。
昨年出版された『マイヤーズ・ベーカリー』(英語版)という本があ
る。著者はデンマーク人、クラウス・マイヤー(1963年生)。家庭向けのパン作りの本だ。半端なくパン大好き人間である私は、つい最近、本書を入手。興味津々で読書中だ。この著者の言葉が、熱く、強く、説得力に富む。パンに対するあまりに熱い著者の想いに引き込まれて、歳を忘れて、明日からパン職人を目指したくなるほどだ。この著者には、多数の著書がある。しかし、その生い立ちを知れば、この一冊が彼にとって「特別な意味を持つ一冊」であることは明らかだ。著者クラウス・マイヤーは、世界のグルメ業界では知らぬ者なし、というほどの有名人だ。コペンハーゲン(デンマーク)のレストラン「ノーマ」の共同創業者、と言えば、納得する人も多いだろう。7〜8年前から世界のグルメ大注目のレストランで、今や予約を受け付ける日は、ウェイティングリストの待ちが一千名に達するとか。「高級レストラン」=「フランス料理三ツ星レストラン」的なる概念を根底から打ち崩す、画期的な哲学によって誕生運営されている店で、『ノーマ、世界を変える料理』(2015年)というドキュメンタリー映画作品があるほどだ。
そのクラウスにとってパン作りは、彼が社会に出るにあたっての原点だ。パン作りの世界と出会って、人生に目が開き、料理人の世界に足を踏み入れて、そこからさらに飛躍して、世界的なセレブリティの一人となったからだ。その彼が今改めて執筆したのが、この「家庭向けのパン作りの本」なのだ。それは、自身の人生の出発点を改めて見直す、という思いが込められている。だから言葉に熱がこもっていて、引き込まれることになる。わたしは料理とその歴史に関する本の山に埋もれて毎日を送っている男だ。「内容の素晴らしさに拍手したくなる
本」は少なくないが、文学とは違って、「文章の熱さに引き込まれる本」などというのは、めったにない。それが、この人の言葉には、人を動かす熱い力が、ある。本書は、日本であれば「めしを炊く」というに等しい、食の基本を語る一書だ。果たして家庭向けの『ご飯の炊き方』という本で、クラウスと並ぶほどの力強いメッセージを発信するような一冊が存在するかどうか。米の文化の深みを探る良書が読みたい。
では、なぜ、それほど強いメッセージ性が「家庭向けのパン作りの本」から溢れ出てくるのか。それは著者の生い立ちと深く関係している。クラウスはデンマーク南部の地方都市で、中クラスの共働き家庭に育っている。父親は仕事と、おそらくは母親以外の女性に忙しく、めったに家に帰らなかったという。母親は懸命に働いてクラウスを育てたが、家には寝に帰るに等しい状況。当然、食生活は餌を食べるが如きもので、家の地下に置かれた冷蔵庫の冷凍食品と、大手メーカー製の白い食パンが、食事の中心だった。その食パンは、室温で10日間置いてもカビが生えないほど、ケミカルな添加物と腐敗防止剤てんこ盛りの恐ろしいものだった、と彼は何度も語っている。放任されて育ち、好き勝手にジャンクフードの食べ放題。結果、小学校を終える頃には、 キロを越える超肥満児に。その頃には、父の姿は完全に消え、母親はアルコール依存症という、みじめ極まりない少年期を送っている。
そんなクラウスが、大学に進学の前後、フランス西部のガスコーニュ地方の小都市に、オペアとして1年間暮らすことになる。オペアというのは、中流以上の家庭に、住み込みで家事労働を手伝いながら学校に通うという制度で、「子守兼家事手伝い」の女子が多い。クラウスが住み込んだ先は、子供を望みながらもその願いを実現することができない、パン屋の夫婦だった。夫妻はクラウスを実子のように可愛がった。「生まれては
90
じめて、親の愛情・家庭の愛情を知った」と、クラウスは何度もインタビューで語って
いる。青年はここで、世界に冠たるフランスパンの伝統製法を身に着ける。そればかり
か、何時間も手間暇を掛けておいしい料理を作り、「家族」揃っておしゃべりをしなが
ら、長い食事の時間を楽しむ、という生活の素晴らしさを知る。人生の転換点だった。
彼の人生にとって、ガスコーニュのパン屋での暮らしがどれほど重要なものであったか。
TEDの講演で印象的な場面があった。父代わりと慕うことになるパン職人たる親父
が説いて聞かせた「人はいかに生きる
べきか」に関する言葉の数々を、受け
止めたフランス語のまま暗唱する場面10
が何度か見られた。人生訓が骨髄に達
する深さで、彼自身の生き方を決定し
たことが、痛いほど伝わってくる瞬間2
だった。
意外にも大学卒業後に2年間ビジネ
ススクール(大学院)に通って後、食
関連の世界に足を踏み入れる。いつし
か、自身の TV料理番組を持つまでに
なり、デンマークの人気 TVシェフと
なる。しかし、彼が世界的に注目を集
めるのは、人気 TVシェフとして、ではない。2004年、1年間の準備を経て、広
くアイスランドを含む北欧諸国のシェフ12名の共同宣言という形で、 項目から成る「新しき北欧の食宣言」が発表される。その頭脳たる中心人物がクラウスだったのだ。
宣言の要点は、徹底した地産地消の地域文化重視志向。これを農業と漁業従事者、一般
/44641/
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市民、メディアと学会そして政府に対して、現状の改革を強く訴える内容となっている。iこの宣言は非常に大きなインパクトを社会に引き起こす。以後北欧、特に発信源たるデンマークでは、食の大革命が起き、宣言からわずか15年たらずで、その食世界は一変した。宣言前の北欧は、ミシュランから見れば不毛の地。それが今では、世界の注目の的。
jp/course/deta
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「ノーマ」ばかりか、火山島アイスランドにまで一つ星レストランが誕生している。 年前クラウスはニューヨークに移住した。その鉄道の中央駅グランドセントラル・ステwaseda
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ーション内に、北欧の食世界をテーマとするフードホールを開設するためだ。併設のレストランは、開店1年を経ずして、一つ星を獲得。また、同市のブルックリン奥の「荒wuext
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れた地域」に料理のプロ養成学校(無料&有給)を開設し、荒れた家庭の若者たちが世
:
に出る基盤となりつつある。一方、ボリビアの首都ラパスにも、同地の地産地消を徹底//wwwした店を数年前に開設し、未来の同志を育てつつある。大した男だ。 https
松山城を抱く城山中腹に、ウロコ状の天然スレート屋根を載せたフランス風の洋館が佇みます。
松山市の中心部、城山の南麓にあるネオルネサンス様式の洋館は、大正11年、木子七郎設計の「萬翠荘」。伊予松山藩の当主だった、久松定謨(さだこと)伯爵によって建てられました。
萬翠荘は、松山で最初の鉄筋コンクリート建築です。玄関ホールにそびえるエンタシスは、岡山産の万成石。中央の階段にはチーク材が使われ、高さ4.5mのステンドグラスが客を出迎えます。ホール右側のサロンは「謁見の間」とも呼ばれ、天井は漆喰仕上げ。金の縁取りがフランス風です。萬翠荘は初め、伯爵の別邸として計画されますが、裕仁親王(昭和天皇)の行幸にあわせ、贅を尽くした迎賓館に変えられました。大正11年の完成直後、御召艦「伊勢」で松山に到着した親王は、11月22、23日の2夜を過ごしました。
サロンに比べ、茶色を基調としたシックな食堂。厨房は地下にあり、地下通路で食堂に料理を運びました。シャンデリアは天然クリスタル製。戦後はGHQに接収され、その後、昭和56年までレストランとして営業しました。
萬翠荘には、階段の踊り場やドアの上などに、建築当時からのステンドグラスが30枚近く残されています。これらは大阪を拠点として活躍した、木内真太郎の作品であることが最近の調査で判明しました。木内真太郎は、東京の宇野澤辰雄のもとで修行したのち大阪に戻り、宇野澤組ステインド硝子製作所大阪出張所(玲光社として現存)を設立。大阪市中央公会堂や岐阜県庁、旧古河虎之助邸(東京駒込)などのステンドグラスを手がけ、ジョサイア・コンドルやジェームズ・ガーディナー、辰野金吾などにも協力。完成度の高さから輸入品と間違えられることも多く、実直な作風が再評価されています。
久松定謨伯爵は、司馬遼太郎の代表作「坂の上の雲」の主人公、正岡子規や秋山好古と、深いつながりをもった人物でした。定謨は、明治16年、16歳のときフランスに留学します。当時、大名の子弟が欧米に私費留学することが流行っていました。それに同行したのが、フランス語を定謨に教えた正岡子規の叔父・加藤拓川でした。その後、後任として秋山好古が選ばれ、定謨は明治20年、サンシール陸軍士官学校に入学。好古も聴講生としてフランス式騎兵戦術の習得につとめます。実は好古は、日本の陸軍大学校でドイツ人教官メッケルからドイツ式騎馬術を学び感銘を受けていましたが、フランス式騎馬術の有用性を認め、フランスを訪れた陸軍中将・山県有朋にフランス式の採用を進言します。定謨は明治24年までフランス陸軍で過ごし、その後もフランスの駐在武官をつとめ、陸軍一のフランス通として知られます。久松家と正岡家には深いつながりがあり、正岡子規の上京時には、学生を支援する「常磐会」が創設され、子規は初代給費生10人の一人として、東京日本橋浜町の久松家に寄宿しました。明治21年には「常磐会宿舎」(文京区本郷)が建設され、友人の漱石も子規をたびたび訪ねていたようです。萬翠荘を設計した木子(きご)七郎は、明治17年、宮内省内匠寮技師・木子清敬の4男に生まれます。木子家は代々、京都で宮中の棟梁をつとめた家柄で、清敬は東宮御所や皇居、御用邸の造営をにない、古寺修復も手がける和風建築の権威でした。兄・幸三郎も宮内省に入り、親子で日光の田母沢御用邸を手がけています。一方、七郎は東大建築学科卒業後に大林組に入社し、大阪でルネサンス様式の北浜銀行堂島支店(1912)を手がけたあと、新田帯革(ベルト)製造所の建築を担当したことで、新田長次郎に見込まれ、長女カツと結婚。大正2年(1913)に大阪市東区十二軒町に自邸兼事務所をかまえ、黎明期の在阪建築家のひとりとなります。萬翠荘の7年後に、木子七郎によって設計されました。中央にドームを載せた左右対称の建物は、新古典主義を思わせます。ちなみに久松定謨伯爵の次男・久松定武は、昭和26年に愛媛県知事に当選し、昭和46年までつとめます。国体や植樹祭で愛媛県を訪れた昭和天皇を応接し、萬翠荘にも招きました。香淳皇后は、定武の従妹にあたります。
木子七郎は、新田帯革の工場や和歌山県海南市の新田長次郎の別荘「琴乃浦温山荘」などを、生涯に300件以上の建築を手がけました。松山出身の新田長次郎は、久松定謨伯爵を敬愛し、温山荘も伯爵の来阪に備えたものでした。萬翠荘の設計は、その縁で七郎に託されたと考えられます。大正10年に七郎は、中国、インド、欧州、北米の建築視察旅行に出かけ、その成果を萬翠荘に活かします。東大時代から耐震構造の権威・内藤多仲と親交のあった七郎は、RC造の合理的な設計を目指し、学校や日赤病院を設計し、日赤の建築主任もつとめした。その貢献を評価されフランスからレジオン・ドヌール勲章を与えられました。
明治からつづく繁華街「大街道」。「坂の上の雲」には、久々に帰郷した秋山真之と父・久敬が大街道ですれ違いながら、互いに気づかいないふりをしたエピソードが書かれています。
大街道に面した、松山三越のエントランス。
内田 和子
納涼祭り
つれづれなるままに
8月下旬、地域ボランティで納涼まつりに参加した。
初参加の私の仕事は「もぎり」とのこと。もぎりって何するの?から始まる素人に担当者は手際よく準備を指示しながら、入場券からゲームの切符を切り離し、列に誘導するという。
ゲームは2種類、ボーリングと魚釣り。ボーリングは、ペットボトルにビー玉を入れてピンとし、風船玉で倒す。魚釣りは釣り堀に見立てた池に、景品が付いた魚の絵。それを針金で釣り上げる。どちらも楽しそうと準備を進めながらふと振り返ると、開場30分前にもかかわらず、ずらっとお年寄りが並んでいるのに驚いた。
夏休みだから子供相手のお祭りとばかり思っていたので係りの人に聞くと「ここは高齢者の方の集う場所です。お年寄りというのは禁句です」と、叱られた。まぁ、私も十分なお年寄りと気を取り直し、キッブをもぎった。ボーリングはボールが軽すぎるのかピンがなかなか倒れない。それでも何がしかの景品はもらえる。魚釣りは釣具に工夫がされていて、上手に釣れるようになってる。缶詰のついた魚が人気のようだ。もぎりも結構忙しくひっきりなしにお客さんは入る。そのうち子供たちもやってくる。
おじいちゃん、おばあちゃんの切符をもらって、2回づつゲームに挑戦。「あんまり強くボールを投げないように」と耳元で囁くと、「うん、わかった」というものの、ピンの前では力んでボールが飛んでしまう。それでも2回目では少しコツを掴んだのかうまく倒れるようになる。倒れた本数で景品が異なるが、景品が並ぶダンボールに頭を入れてその中から1つだけ、時間をかけて一生懸命選んでいるその真剣な姿がなんとも可愛いい。
「いいのあった?」と聞くと、嬉しそうな顔で返事をする。
ご高齢の方は、お孫さん向けの景品を選び、お互いに見せ合いながら、和気あいあいおしゃべりしている。その時神妙な顔をして一人のご婦人がやってきた。「みんな2つしかもらっていないのに、私は3つある」と。混んでいた時に間違えて渡したものだと思いながら、つい「い
納涼祭り
いじゃないですか、そのまま貰っておいては」というと、そうはいかないとおしゃる。はたと気がつき、1つ引き取り、景品担当に戻す。どこで誰が見ているかわからない。きちんと戻して安心していただいた。ボランティア経験がないので、こういう時の対応は難しい。お年寄りの気持ちを察するのはまだまだ経験不足だが、自分も行く道、人生の大先輩から学ぶことは多い。
ゲームが一山超えた頃、隣の会場で盆踊りが行われる。係りの人は全員自前の浴衣を着て会場を盛り上げている。盆踊りはやはり浴衣姿がよく似合う。
昔子供の頃に踊った、定番「東京音頭」。フリはすっかり忘れてしまったが、曲が流れると踊りだしたくなるのは不思議である。もぎりのお客さんはまだチラホラくるので、その場を離れるわけにはいかないが、横目で踊りを見ながら、自然に腕は動いている。
そのうち、ビートの効いた最近の曲にフリをつけ、掛け声を入れながら踊り始める。こうなるともう、じっとしていられない。もぎりを横目に、踊りの輪に入る。手と足、うまくリズムが取れないが、みなさん、とにかく飲み込みが早く、軽やかに掛け声も大きい。すごいエネルギーである。
最近、シナプソロジーという認知症予防効果があるという運動講座を受けたことがある。手足、左右別々の運動をすることで脳に刺激を与え、認知症予防になるというものである。認知症はともかく、運動不足解消にやってみたが、左右違う動きをするのは容易ではない。できないことでフラストレーションが溜まる。講師にそう言うと、できなくてもいい。やることで脳が刺激を受ける。とのことだったが続かなかった。しかし、盆踊りは、手も足も同じ動きではないのに、揃えば楽しく達成感もある。だから1時間も踊っていられたかもしれない。それもすこぶるつきの笑顔で。最初からずっと踊っていらした男性は、疲れも見せずもう1曲と係りの方にお願いをしている。最後はハイタッチで終了。お年を聞くと82歳。ワォー、10歳は若い。100歳時代は確実にやってくる。が、生き方は難しくなるなぁとつくづく思いながら、自宅に戻ってバタンキュ。効果抜群のシナプソロジーと大先輩たちから元気をいただいた1日だった。
大街道から南へ3kmほどの所に、中村好文さん(レミングハウス)設計の「伊丹十三記念館」があります。松山は伊丹十三さんの父・映画監督伊丹万作の出身地で、十三さんは高校時代の数年間を松山で過ごしました。記念館の敷地は十三さんがCMを作っていた「一六本舗」が提供し、宮本信子さんが館長をつとめています。
カフェ・タンポポでは、愛媛名物みかんジュースの飲み比べ(温州みかん、デコタンゴール、清見タンゴール)や、カフェインレスのたんぽぽコーヒーを楽しめます。伊丹家に招かれたような居心地のよさは、さすが中村好文さん。
十三の名にちなみ、13ジャンルに分けられた展示。一:池内岳彦(本名)、二:音楽愛好家、三:商業デザイナー、四:俳優、五:エッセイスト、六:イラストレーター、七:料理通、八:乗り物マニア、九:テレビマン、十:猫好き、十一:精神分析啓蒙家、十二:CM作家、十三:映画監督。展示品の多くは、伊丹さんの膨大な遺品から中村好文さんが選んだそうです。様々なデザインの引き出しを開けていくと、意外なものが現れます。
小学生の頃に描いた野菜の絵は、あまりの上手さに父・伊丹万作が自慢し、俳人・中村草田男が譲り受けていたもの。記念館設立時の調査で発見されました。中庭のカツラの下には、伊丹十三さんの魂がしずかに眠り、庇の下のベンチに腰掛けながら、ゆったりと語りあえます。松山市民にとって伊丹十三さんは「一六タルトのCMの人」として知られ、松山弁たっぷりのCMが市民に親しまれました。やがてクライアントである一六本舗代表玉置泰さんのサポートが、宿願であった映画制作「お葬式」への道をひらくことになります。
松山市が推進する「フィールドミュージアム構想」の中核施設として2007年に開館した「坂の上の雲ミュージアム」。司馬遼太郎の代表作「坂の上の雲」にちなんだ場所をむすび、街全体を屋根のない博物館にしようという計画です。設計は安藤忠雄さん。構造は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階地上4階。地下と1階は収蔵庫や事務室で、2階をエントランスにしています。上部には支柱のない空中大階段が見えます。
「坂の上の雲」の主人公たち、秋山好古、秋山真之、正岡子規をはじめ、明治を生きた人々の気概を感じる骨太な設計。全体の平面は三角形になっていて、各階を緩やかなスロープで結んでいます。
建物の平面を三角形にした理由のひとつは、城山の景観を見せるためです。緑豊かな城山に立つ、松山城や萬翠荘を一望できます。小説「坂の上の雲」は、産経新聞(夕刊)に昭和43年4月から4年半にわたり計1296回連載されました。構想期間もふくめ、司馬遼太郎は40代のほぼすべてを、この作品に費やしたといわれます。
維新後、日露戦争までという三十余年は、文化史的にも精神史のうえからでも、ながい日本歴史のなかでじつに特異である。これほど楽天的な時代はない。むろん、見方によってはそうではない。庶民は重税にあえぎ、国権はあくまで重く民権はあくまで軽く、足尾の鉱毒事件があり女工哀史があり小作争議がありで、そのような被害意識のなかからみればこれほど暗い時代はないであろう。しかし。被害意識でのみみることが庶民の歴史ではない。明治はよかったという。その時代に世を送った職人や農夫や教師などの多くが、そういっていたのを、私どもは少年のころにきいている。「降る雪や明治は遠くなりにけり」という中村草田男の澄みきった色彩世界がもつ明治が、一方にある。ヨーロッパ的な意味における「国家」が、明治維新で誕生した。日本史上、大化改新という官制上の強力な中央集権国家が成立した一時期はあったが、その後、すぐ日本的自然形態にもどった。日本的自然形態とは、大小無数の地方政権の寄りあいというかたちである。封建とか、地方分権主義とかよんでもいい。あの維新前における最強の政権であった徳川政権ですら、徳川将軍家は、実質的には諸侯のなかでの最大の諸侯というだけにすぎず、その諸侯たちの盟主というにすぎなかった。元禄期の赤穂浪士には浅野候への忠義はあっても、国家意識などはなかったのである。
「坂の上の雲」第一章 あとがきより
ヨーコの旅日記第11信川津陽子メッセフランクフルトジャパン
フランクフルトの東横イン
2018年も折り返し地点をとうに過ぎて、年末に向けてフル回転の時期がやってきた。2年に一度開催される国際自動産業見本市 「アウトメカニカ」への出張で、今年 3度目となるドイツ・フランクフルトに昨晩到着した。新年早々、1月、2月の出張がルーティン化していて、フランクフルトと言えば、曇り空、雪、展示会場に入館する前も後もとにかく暗い!というイメージが染み付いている。ところが、18時をまわり、空港に着陸する機内から見た空は青く、すこぶる快晴。明るい!そうだ、9月なのだ。記憶を辿ってみたところ、夏のフランクフルトは実に 10年ぶりである。
▲ 10年ぶりの夏のフランクフルト。青空は久しぶり!
▲ メッセ会場の建物も、冬とは違って見えます。
さて、海外の大型見本市に行かれた方は経験されているかと思うが、見本市の開催期間中、宿泊施設の料金は信じられないくらい高騰する。開催前日までは通常料金を保ち、開催とともに一気に 3倍、4倍くらい跳ね上がる。そんなわけで、少しでもリーズナブルなホテルをブッキングサイトで探し当てる作業が発生する。今回はおひとりさま出張ということもあり、なんとかメッセ会場に近い、市内に泊まれないかとせっせと検索するも、時すでに遅し……、検索を始めた 6月には目ぼしいところはどこも満室。5,000社を超える出展者に加えて、約 15万人の来場者が一度にフランクフルトに集結するのだから納得である。特に、長年参加されている出展者は、前回のチェックアウト時に、すでに次回用の部屋を押さえるという話も聞くので選択肢は更に絞られる。見本市が生み出す経済効果を改めて感じながら途方に暮れつつも、私の頭には常に、「万が一の場合は BadSodenがある」という隠し球があった。以前本誌にて
紹介したフランクフルト近郊のBad Sodenにある、我々スタッフがお世話になっている常宿である。どうにもこうにも、ここぞというホテルが見つからないので、仕方ない、独りだけど郊外に泊まるか、といつものように連絡してみると、アウトメカニカ会期中はとっくに満室になっているとの返事……。大変恐れ入りました!そんなこんなで絶望的な気持ちになりながらブッキングサイトで検索を続けると、奇跡的に「東横 INN」の名前がポップアップしてきた。2017年にフランクフルト中央駅からすぐのところにオープンした、その名も「東横INNフランクフルト中央駅前」である。逃すものかと、はやる思いでブッキング登録を完了。奇跡的に一部屋おさえることができた。見本市開催期間中の宿泊費が跳ね上がるようなこともなく、非常に良心的な料金設定に感動すら覚えた。というわけで、無事にフランクフルトに到着しホテルにチェックイン。フロントや食堂の雰囲気、そして客室内の
東横 INNフランクフルト中央駅前は、宿泊料もリーズナブル。
内装、特にユニットバスの様子が「ここは日本か?」と錯覚する。朝食には白いご飯とお味噌汁もあるそうな。無類のドイツパン好きの私にとってはそれほど重要なポイントではないが、長期出張者にとっては堪らないのではないだろうか。そして、時差の関係で案の定、早朝に目が覚めてこの原稿を書いている。窓からはドイツを中心に運行されているヨーロッパの高速列車 ICEの発着ホームが見える。空も明るくなってきた。ここからメッセ会場まではわずか2駅。久々のフランクフルト市内の中心地でのステイだし、滅多に味わえない心地よいシーズンだし、今朝はメッセ会場まで歩いてみようかと思う。再び見本市の話に戻るが、間もなく始まる「アウトメカニカ」には、日本から 20社を超える出展者が参加。現地法人やローカルパートナーを通じての参加を含めると、50社近い日系企業が参加する。次回はその見本市の模様をレポートしたい。
松山城春や昔十五万石の城下かな 子規
子規について、ふるくから関心があった。ある年の夏、かれがうまれた伊予松山のかつての士族町をあるいていたとき、子規と秋山真之が小学校から大学予備門までおなじコースを歩いた仲間であったことに気づき、ただ子規好きのあまりしらべてみる気になった。小説にかくつもりはなかった。調べるにつれて妙な気持になった。この古い城下町にうまれた秋山真之が、日露戦争のおこるにあたって勝利は不可能にちかいといわれたバルチック艦隊をほろぼすにいたる作戦をたて、それを実施した男であり、その兄の好古は、ただ生活費と授業料が一文もいらないというだけの理由で軍人の学校に入り、フランスから騎兵戦術を導入し、日本の騎兵をつくりあげ、とうてい勝ち目はないといわれたコサック騎兵集団とたたかい、かろうじて潰滅をまぬがれ、勝利の線上で戦いをもちこたえた。かれらは、天才というほどの者ではなく、前述したようにこの時代のごく平均的な一員としてこの時代人らしくふるまったにすぎない。この兄弟がいなければあるいは日本列島は朝鮮半島もふくめてロシア領になっていたかもしれないという大げさな想像はできぬことはないが、かれらがいなければいないで、この時代の他の平均的時代人がその席をうずめていたにちがいない。「坂の上の雲」第一章 あとがきより
松山や秋より高き天守閣子規
松山城の天守閣は、久松伯爵によって国から3万円で買いとられ、5万円の維持費を添えて松山市に寄贈され、今日まで大切にされてきました。
維新によって日本人ははじめて近代的な「国家」というものをもった。天皇はその日本的本質から変形されて、あたかもドイツの皇帝であるかのような法制上の性格をもたされた。たれもが、「国民」になった。不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。このいたいたしいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。中略明治は、極端な官僚国家時代である。われわれとすれば二度と経たくない制度だが、その当時の新国民は、それをそれほど厭うていたかどうか、心象のなかに立ち入ればきわめてうたがわしい。社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。そういう資格の取得者は常時少数であるにしても、他の大多数は自分もしくは自分の子がその気にさえなればいつでもなりうるという点で、権利を保留している豊かさがあった。こういう「国家」というひらけた機関のありがたさを、よほどの思想家、知識人もうたがいはしなかった。「坂の上の雲」第一章 あとがきより
一定の資格を取得すれば、国家生長の初段階にあっては重要な部分をまかされる。大げさにいえば神話の神々のような力をもたされて国家のある部分をつくりひろげてゆくことができる。素姓さだかでない庶民のあがりが、である。しかも国家は小さい。政府も小世帯であり、ここに登場する陸海軍もうそのように小さい。その町工場のように小さい国家のなかで、部分々々の義務と機能をもたされたスタッフたちは世帯が小さいがために思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。この時代のあかるさは、こういう楽天主義(オプティミズム)からきているのだろう。このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。最終的には、ふるい大国の一つと対決し、どのようにふるまったかということを書こうとおもっている。楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。「坂の上の雲」第一章 あとがきより
秋山好古(よしふる)正岡子規秋山真之(さねゆき)
秋山真之は、明治38年の日本海海戦において、ロシア・バルチック艦隊を破った海軍の天才戦略家として今も信奉され、海上自衛隊幹部学校のホールには、秋山中将像(リナルディ作)が安置されています。秋山好古は明治37年、日露戦争において騎兵第1旅団長として出征。世界最強のコサック騎馬団を相手に善戦し、その勇猛ぶりは小説にもなり「日本騎兵の父」と呼ばれます。晩年は本来の夢であった教育者の道を歩み、東京から松山に戻り、北予中学校(県立松山北高校)の校長になります。陸軍の最高位にまで登り詰めた軍人が、地方の校長になるのは異例でしたが、好古は思い描いていた先駆的な実践教育を行いました。軍事教練は極力行わず、戦争のエピソードは一切話さず、71歳で亡くなるまで6年にわたり、無欠勤でつとめたといわれています。
No War, No Nuclear.