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時空を超える美意識
10月号 神無月 2018 htt p://collaj.jp/
日本から「フィンエアー」に乗り、フィンランドの首都ヘルシンキまでは直行便でわずか9時間30分余り。森と湖の国フィンランドの景色が、バルト海への旅の期待感を高めてくれます。
取材協力:エストニア政府観光局、機材協力:フィンエアー挟んでロシアと接し、EU圏の東端を担う一国となりました。
ヘルシンキ空港からバスや路面電車に乗って、ヘルシンキ西港ターミナル2へ。ヘルシンキとエストニアの首都タリン間は約85km。複数の船会社が運行する高速船やフェリーで結ばれています。今回はタリンク・シリヤラインの新造船メガスター号を利用しました。
再開発の進むヘルシンキ西港。新築されたターミナル2は有機的なデザインです。高速フェリーメガスター号は、全長約 212mの巨体をスラス
ターによって旋回させ、スピーディーに入港していました。燃料には環境に優しい液化天然ガスMEGAタリン
(LNG)が使用されています。 まるでホテルのロビーのようなメガスター号のビジネス・ラウンジ。タリン到着までの約2時間、フライトの疲れをゆっくり癒せます。ビジネスラウンジのご自慢は充実したビュッフェ。サーモンの燻製、小魚の酢漬け、シュリンプ、ミートボール、じゃがいも、新鮮なサラダのほか、アルコール飲料も自由に楽しめる本格的な「スモーガスボード」に歓迎されました。
ミートボールに甘いベリーとじゃがいもを添えるのは、北欧の定番料理。
多島海(アーキペラゴ)として知られるバルト海。小さな島の可愛らしい家々は、トーベ・ヤンソンのサマーハウスを彷彿とさせます。バルト海は塩分濃度が低いため、冬期は結氷することも多く、タリンク・シリヤラインの大型客船は砕氷船としての機能も持っています。ヘルシンキ〜タリンをはじめ、ヘルシンキ〜ストックホルム、ストックホルム〜リガ(ラトビア)など、バルト海沿岸6都市を結ぶ航路を通年にわたり運行し、真冬には氷上クルーズを楽しめることも。
仲間たちとビールを楽しむグループ。生バンドも入り、船上のビアホール感覚です。ヘルシンキから日帰りあるいは1泊で、エストニア旅行を楽しむ市民も多く、フィンランドよりも安い物価を目当てにした買い出しツアーも盛んだったようです。
船内にはバルト海最大の船上ショップがあり、高級ブランド品、アクセサリー、化粧品から、手頃な衣料品、食品、酒類などが豊富。旅行者は免税が可能で、マリメッコやムーミンの限定グッズも人気です。見物しているうちに到着時間が近づきました。
メガスター号は、夕暮れを迎えたタリン港に到着します。バルト海に浮かんだようなタリンの旧市街には、中世一の高さを誇ったといわれる聖オレフ教会をはじめ、教会の塔がそびえています。
鈴木 惠三 BC工房主人
久しぶりの工房楽記です。
年間の区切りで「タケオ」にバトンリレーの
予定が狂っている。仕方ないので不定期で書いていくことにした。たわいない楽記を、また読
んでください。
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ジャワ島の工芸の街に、工房を作って
い。小さな試作開発の工房だった。オイラは、椅子を作って売るより、新しいデザインの試作開発がやりたかった。ベテラン技術者だけの数人のアトリエ工房が夢だった。当時よく通っていたデンマークのチーク材の椅子が好きだったので、チーク材が豊富なインドネシアのジャワ島を選んだ。
チーク材の植林が活発で、
の伐採が定着している。日本の植林システムも、マネした方がいいくらいだ。
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今、このインドネシアが巨大地震で困っている。日本と同じように火山国で、災害が多い国だ。
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Tallinnタリン
おとぎの国ともいわれるタリン旧市街。城門のひとつ「ヴィル門」は、ムーミン一家の家のようにも見えます。
エストニアの首都タリン。右手には旅客船の行き来するタリン港、左手には中世の街並みが残る旧市街、その間に高層ビルのたつ新市街が見えます。バルト海の要衝であるタリンには、古くからエストニア人の砦が築かれていましたが、1219年にデンマーク王ヴァルデマー2世によって征服され、その際の呼称「デンマーク人の城=Taani Linn」がタリンの名の元になったと言われています。
ホテルにチェックインすると、あたりは暗くなってきました。ヴィル門から城壁に囲まれた旧市街に入ります。昼頃成田を出発し夕方には散策できる、日本から一番近いヨーロッパ中世の旧市街かもしれません。
旧市街で一番美しいといわれるカタリーナの通り。ドミニコ修道院に面し、かつての墓石を壁面に飾っています。
旧市街には、個性的なレストランが沢山あり、食事に困ることはなさそうです。
オープンキッチンを中心にした広い店内。前菜は「魚味のアイス」という一風変わった料理。魚のすり身風アイスをフライにしたもので、付け合せのバーブが美味。ライ麦にヘンプシード(麻の実)を練り込んだ自家製黒パンは、酵母を使わずに自然発酵させたもの。黒パンはエストニアの主食で、日本のご飯のように毎日食べられています。
メインは鹿肉の肉団子ペリーソースがけ。ココット鍋はキノコとマッシュルームのシチュー。秋はキノコの季節で、狩猟や魚釣りも盛んなようです。
11月14日(水)から16日(金)まで2018年11月14日(水)〜16日(金)10:00〜18:00 (最終日は17:00 まで)
IFFT/インテリア ライフスタイル リビング東京ビッグサイト 西1・2ホール+アトリウム
記者発表にはナカムラケンタさんも出席し、清澄白河のリトルトーキョーで開催。墨田区の町工場をテーマに、ダヴィッド・グレットリさんとのトークショーも。
国内最大級の家具見本市 IFFT/インテリア ライフスタイルリビング。今年は11月14日(水)からの3日間、東京ビッグサイト西ホール1・2+アトリウムで開催されます。恒例のアトリウム特別企画は「はじまりの仕事展」。今回はアトリウムにブースを設けず、各ホールのブースへと導くインデックス的な機能をもたせた展示になります。製品のエッセンスを書いた大小様々なボックスに製品をのせて展示し、気に入った製品のカードをピックして各ブースをまわる仕組み。ディレクターは全国津々浦々の仕事を紹介する求人サイト「日本仕事百科」代表のナカムラケンタさん。その他、インターオフィスが初出展して北欧家具を発表。建築家と家具、素材メーカーがコラボした「architectsmeet makers」(ディレクター芦沢啓治さん)や、墨田区の町工場とデザインディレクター・ダヴィッド・グレットリさんの協働から生まれた「SUMIDA CONTEMPORARY」、デザイナー・ハッリ・コスキネンさんと良品計画・矢野直子さんのトークショー(16日14〜15時)など、楽しみな企画が盛りだくさんです。
翌朝、ホテルを出て早朝の街を散策しました。1219年、タリンを占拠したデンマーク国王軍は、トームペア(聖堂の立つ丘)を中心に城塞都市を築いていきます。その後、キリスト教の布教をかかげる北方十字軍の勢力が強くなり、1227年、ドイツ騎士団に支配されると、1285年、タリンはハンザ同盟都市となり、ドイツ人からレヴァルと呼ばれる交易都市として発展します。ハンザ(商人の仲間)同盟は北ドイツを中心にバルト海沿岸の貿易を支配した都市同盟で、航海の安全を確保し、ニシンの塩漬けや毛皮、琥珀、小麦などを西ヨーロッパへと運びました。
青・黒・白のエストニア国旗を掲げたトームペア城の「のっぽのヘルマン」。エストニア人の城跡に、13世紀前半ドイツ騎士団の城がたち、その後、支配者が変わるたびに増改築を繰り返しました。トームペア城は今も、エストニア議会や政府の主要機関が入る国の中心です。
「のっぼのヘルマン」を見ながら坂道をのぼると、旧市街の山の手地区に入ります。石灰岩で出来た丘の上は、古くから征服者たちが支配する地域でした。トームペアの南端にたつ塔「キーク・インデ・キョク」は、低地ドイツ語で「台所をのぞけ」という意味。塔の上から下町の暮らしを監視したともいわれます。隣接する四角い塔「ネイツィトルン(乙女の塔)」は、中世には夜の女性たちの牢獄だった時代もありました。トームペア城周辺で、様々な国に支配されてきたエストニアの歴史が感じられます。
美しく整備された「ネイツィトルン」の庭。現在はカフェになっていて、城壁の上を歩くことも出来ます。
ピンク色の壁が特徴のトームペア城入り口。18世紀後半、ロシア皇帝エカチェリーナ2世によって宮殿風の建物に改築されました。向かいには城を見守るように、ロシア正教教会「アレクサンドル・ネフスキー聖堂」(1901年)がたちます。
トームペアの展望台から、城壁や下町の家々を望みます。
下町はハンザ商人の街として発展しました。何層にも重なった屋根裏の窓がユニークです。
首相官邸、領事館、EUの施設が点在するトームペア。建物の密集した街並みには、デンマーク、スウェーデン、ドイツ、ロシアなど各時代を支配した国々の建築様式が混在しています。石畳は真ん中が盛り上がり、水はけをよくしています。
第12信川津陽子メッセフランクフルトジャパン
ヨーコの旅日記日本総領事公邸の一夜
先月に続き、ドイツ・フランクフルトでのこと。
9月半ば、2年に一度開催される国際自動車産業見本市
「アウトメカニカ」に出張しました。よく知られているフランクフルト・モーターショーと勘違いされがちですが、こちらはモーターショーと交互に隔年開催される「自動車部品、修理・メンテナンス、サービス・ステーション、カーウォッシュ、チューニング」など、アフターマーケット向け商材を対象とする見本市です。トヨタが 2025年までに全車種を電動化すると発表したり、経済産業省が 2020年代の「空飛ぶクルマ」を実用化するための検討を始めたりと、自動車業界は100年に一度の変革期と言われますが「アウトメカニ
▲『トゥモローズモビリティ&サービス」ホールより Messe Frankfurt Exhibition GmbH Petra Weisel
▲『クラシックカー」ホールより Messe Frankfurt Exhibition GmbH Jochen Gunther
カ 」も時代の流れを受け”Tomorrow’ s Service & Mobility”をテーマとするホールでは、コネクティビティ、ロボット、A I、デジタル化、自動運転、代替運転システム、未来の整備工場など、未来を先取る技術や製品をお披露目しました。こうした最先端技術が発表される一方で、クラシックカー、ビンテージカーの修理やメンテナンス、復元技術を対象とした展示エリア「Classic Cars」も注目を集めました。クラシックカーと言うと、縁のない私にとっては、一部の愛好家のための趣味の一環というイメージですが、特に欧米では絵画のような実物資産として捉えられていて、金融商品としてのクラシックカー投資も一般的。ということで、それに対するアフターマーケット向けの市場も存在するわけで、このエリアでは修理技術継承のためのワークショップやレクチャーも多く目にしました。実に 10年ぶりのアウトメカニカ出張でしたが、 未来の最新テクノロジーと、歴史の生き証人ともいえるクラシックカーの部品や修理技術が、ひとつ屋根のもとに集まることが非常に印象的でした。 さて、メッセフランクフルト会場のすぐ隣にメッセタワー(Messe Turm)という鉛筆型に高くそびえるビルがあり、その中に在フランクフルト日本国総領事館があります。総領事館の皆様は、大規模な見本市が開催される度に会場に足を運んでくださるのですが、今回のアウトメカニカ会期中には、総領事公邸に日本からの出展者をお招きいただき、懇親会を開催してくださいました。今年のアウトメカニカには、計26の日系企業が参加しましたが、現状ではジャパンパビリオンといったグループ出展がないため、各企業の展示ブースは計 25ホールもの広大な会場に点在しています。この懇親会に参加された方から、こうした場がなければ他にどんな日本企業が出展したか分からなかったし、日本でも交流することはなかったと好評でした。海外進出を目指す、いわば同志のような感じでしょうか。出展の目的や出展して見えてきた課題など、積極的に情報共有される様子が目立ちました。また、この懇親会では、日本貿易振興機構(ジェトロ)
▲ 在フランクフルト日本総領事公邸での懇親会。メッセ会場ではなかなか交流の機会がない日本企業の方々が集まりました。
▲『パーツ&コンポーネンツ」ホールに現地法人から出展したアイシン精機
Messe Frankfurt Exhibition GmbH Petra Weizel
▲ 夏ならではのダイナミックな屋外展示。左側奥にそびえるのがメッセタワー。
Messe Frankfurt Exhibition GmbH Jochen Gunther
▲ アウトメカニカ 2018から使用開始となった新設の「ホール 12」
から「日本・EU経済連携協定(EPA)」が欧州でのビジネスに与える影響についてのプレゼンがあり、参加者は真剣に耳を傾けていました。そして、参加者一同で感動したのは、公邸専任シェフによる和食を中心としたディッシュの数々。一週間ものドイツ滞在となる身には、より一層、身体中に染み渡る美味しさでした。タッパーに入れてホテルに持ち帰りたいという声もちらほら(笑)。我々グループの主催する見本市に出展いただく皆様には、ブースでの商談だけでなく何か付加価値を提供できないかと常々考えているなか、領事館の皆様にこうした懇親会の場を設けて頂けたのは、大変貴重でありがたいことです。せめてもの恩返しとはなりませんが、今後もフランクフルト滞在中にパスポートを紛失して領事館のお世話とならないように気を付けようと、心に誓うのでした。現在世界 17都市で開催されているアウトメカニカ。自動車産業の市場が世界各地に存在することを認識させられます。次は 11月「アウトメカニカ 上海」が待っています。
ハーブティーにはハチミツを添えるのが定番。お父さんと一緒の子どもたちもよく見かけます。少子化対策としてエストニアでは「親の収入」と呼ばれる制度があり、出産後の休業に対し、一定期間にかぎり出産前の給料を国が補助しています。これは父親にもある期間適応され、公園に集まる「パパ友」の会もあるようです。
カフェやブティック、ポップアップストア、イベントホール、オフィスなどの入るビル。エストニアはIT先進国として知られ、2002年から国が発行している「e IDカード」によって、身分証明書(国民ID番号)、健康保険証、運転免許証、銀行口座のログイン、オンライン投票、オンライン納税、医療記録へのアクセスなどのほか、会社の登記までオンラインで出来るようになっています。
Telliskiviにベーカーリーを構える黒パン工房「Muhu(ムフ)Pagarid」。焼き立ての黒パンは美味しいとタリン市民にも評判です。2週間程度日持ちするため、おみやげとしてタリン空港などでも販売されていました。
エストニアはスカイプ発祥の地としても有名で、スカイプマフィアと呼ばれるOBたちが、配車サービスTaxify、投資プラットフォームFunderbeamなど様々な企業を成功させています。起業家のスタートアップコミュニティ「LIFT99」には、スカイプに続く若者たちが集います。エストニアはヨーロッパで最も起業の多い国といわれ、国際的にひらかれてます。外国人の会社設立は190ユーロ、法人所得税率は20%と低く、エストニアを訪れたことがなくてもオンラインで電子居住者として登録でき、会社設立や銀行口座開設、納税申告などを行えます。
エストニアがIT先進国となった背景には、1940年から50年に渡って続いたソ連による支配がありました。1991年、ソ連からの独立回復を宣言したエストニア政府はゼロからの出発をはかるため、当時普及し始めていたインターネットを活用した国づくりを目指します。資源・資産のない状態からの発展には、IT産業への参入が最も適していたのです。
つれづれなるままに第51回揚巻と助六内田 和子
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その前に ……
年前、東銀座にある歌舞伎座が新しくなったとき、
銀座の某ジュエリー店から歌舞伎座のご招待状が来た。タダより高いものはないということを充分承知した上で、なかなか手に入らない新歌舞伎座である。参加に ○をして返信した。歌舞伎座にはお店からタクシーでお送りするので、まずはお立ち寄りくださいとある。有名店なので変なことはなかろうと指定の時間に行くと、すでに何人かがウインドーを覗いている。覚悟していたので戸惑いはなかったが、目も眩む新作のジュエリーを見せられ、結局ブローチを1つ買うことになった。が、ここまでは想定内として歌舞伎座へ向いお弁当をいただいてから3階席に案内された。舞台は遠く役者の顔はよく見えない。さらに舞台の一部が隠れてしまい、何をしているのかわからない場面もある。むろん花道は見えない。これは全くの想定外だった。休憩の合間に廊下に出たが、土産売り場は狭く混雑でままならぬ。歌舞伎はゆっくり時間をかけて楽しむものだから、お金はかからなくても時間を無駄にしたことになる。二度と、タダの切符で歌舞伎は行くまいと思った。
以来、歌舞伎を観るのは香川のこんぴら歌舞伎と京都南座だけとしていたが、ここ数年はこんぴら歌舞伎ツアーを欠席、加えて京都南座は建て替えのため、歌舞伎を観る機会もなくなっていた。数年前のこんぴら歌舞伎が勘三郎の見納めとなり、好きな役者も年を重ねてきたので、観たいときに観ておかないとという気持ちで、歌舞伎座の演目を確認した。「歌舞伎は贅沢な遊び」と教わったので、高くても席は桟敷か1等席。桟敷はすぐに埋まってしまい、1等席の花道近くもいい席は少なく。予約画面で日にちと席を行ったり来たりしながら空いている日を予約する。が、花道の左側は役者の顔が見えなかったり、2階席は表情がわからなかったり、演目によって「いい席」が違うのを最近ようやく知るようになった。
そんな失敗を重ね、今回手にした席は、前から三列目の左端。席としては悪くないが花道での見せ場が多かったので、相当時間、首を左後ろに向けなければならなかった ……まぁ、それはさておき ……
揚巻と助六
揚巻と助六
「助六曲輪初花桜」(すけろくくるわのはつざくら)ご存知の出し物である。 月大歌舞伎は、中村勘三郎の7回忌追善ということで、勘九郎、七之助が昼、夜の部とも通しの出ずっぱりになっている。
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私のお目当は、仁左衛門と玉三郎だが、勘三郎の跡を頑張ってい
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る二人の歌舞伎はまだ観たことがなく、七之助の女形も楽しみに夜の部を予約した。銀座三越で幕間のお弁当を買い、歌舞伎座前の大
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きなポスターをしばし眺め、開演 分前にようやく開場。入り口ですぐにカタログを買うが、隣に仁左衛門と玉三郎の名前を書いた受付がある。何かと聞くと後援会の受付とのこと。恐れ多く後ずさりする。好きとはいえご贔屓の域にはまだまだ入れない。
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筋書きを読む間も無く始まったのは、「宮島のだんまり」台詞は一切なし。ため息が出るほどの豪華絢爛衣装で度肝を抜かれ、入れ替わり立ち替わり 人の役者がスローモーションで宝物を奪い合う。そのゆったりとした動きにこちらの体もなんだか揺れてくる。
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最後の大見得、勢揃いで、ようやく出し物を理解した。
2つ目は、義経千本桜「吉野山」。玉三郎の静御前と勘九郎の佐藤忠信。已之助も出てきたが、長身で声がいい。静御前の鼓を打つ姿は実に美しく、一瞬勘三郎が乗り移ったかと思うほど、勘九郎の演技も素晴らしかった。
3つ目はいよいよ仁左衛門登場である。七之助の花魁、揚巻と助六である。歌舞伎の定番と言われその名は知っていたが、観るのは初めてである。助六の衣装や桃屋の江戸むらさき、いなり寿司と海苔巻きの助六弁当もここから出ていることを初めて知った。江戸時代、揚巻が大人気の役者だったこと、歌舞伎絵が飛ぶように売れたこともよくわかる。花魁がずらりと並ぶ様、その衣装の艶やかな刺繍の施しをまなまなと見ることができた。助六の長台詞も勘九郎演ずる兄の曽我十郎役もなんとも滑稽である。大変な修行や鍛錬をしているのがよくわかる。
勘三郎の追悼公演ということもあり、勘九郎、七之助を応援する台詞仕立てがあり、勘三郎を偲ぶ演目となっている。前列の席からは長唄や三味線を弾く人の顔や表情もよくわかり、鳴物の迫力も充分に味わうことができた。
久しぶりに居眠りをしないで最後まで観入った 月大歌舞伎はこれにておしまい。 月は、新京都南座の顔見世興行でまた仁左衛門です。( チョンチョン)
ハンザ同盟都市
タリンの下町は、ハンザ商人が築いた街です。街の中心ラエコヤ広場には、14世紀後半ゴシック様式の旧市庁舎がたち、ハンザ都市の面影を伝えています。タリンは1285年にハンザ同盟都市となり、トームペア地区とは異なる都市法(リューベック法)によって治められました。広場では定期的な市場がひらかれ、沢山の商人や大道芸人で賑わいました。
旧市役所や広場のレストランでは、ハンザ都市時代そのままの雰囲気を味わえます。ハンザ同盟は北ドイツを中心としたため、広場周辺の建物はドイツ風が多いようです。
広場に面した「市議会薬局」は、ヨーロッパ現役最古の薬局のひとつ。ヘビが巻き付いた「ヒュギエイアの盃」はギリシャ神話にまつわる薬学のシンボルです。現在も一般の薬局として営業を続けています。
店舗の奥には、市議会薬局の歴史を伝える展示室があります。天井の梁のペイントは中世からのもの。当時の薬剤師は薬の神秘性を高めるため、客の前で調合を行いました。頭痛には頭蓋骨の散薬、腹痛には狼の腸、アル中患者には紫水晶など。ハーブやハーブティーも当時から数十種類ありました。
薬だけでなく、紙、ペンなどの文具や塗料、タバコ、香辛料など様々な商品を扱い、併設されたカフェは、市議会員の溜まり場にもなっていました。「ラクレット」とば呼ばれるワインに香辛料を入れた飲み物が人気で(今も売られています)、17世紀末には、いち早くコーヒーも提供されました。1580年、ハンガリーからやってきた薬剤師バーハート家は、1911年まで10代にわたり薬局を運営し、植物や化学、鉱物学の研究も行っていました。
タリンの城壁は、木造のものが13世紀頃から築かれ、14〜16世紀にかけて増改築を繰り返してきました。ハンザ都市にとって城壁は重要なもので、外敵から身を守ると同時に、丘の上(トームペア)の支配者から独立を守る意味もありました。今も1.85kmの城壁が残されています。
エストニア建国100年
城壁から、教会の尖塔が見えます。尖塔の下には、教会を建てた国の勢力が集まった街があります。
ドラゴンシリーズ 50
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
生について考える
誰しも日々の生活を送る中、様々な思いを巡らせながら生きている。時々、自宅の祭壇に置かれている父の写真を眺めながら、父の声を思い浮かべ、彼の言葉に耳を傾ける。父だったら今の自分にどんな声をかけるのだろうかと……。父はいつも黙っているが(当然)時々、何かを言いたげな表情を見せることがあるし、僕自身が彼の言葉を想像して父の声に置き換えて会話する。父は自分にとってやはり父であり、遠いけれど、とても近い存在なのである。父は温厚な人で怒った記憶がほとんどない。
いつも何かに怒ってばかりの自分と比較すると、プレッシャーの多い仕事の中で我慢強く生きた人だ。父の姿や言葉を思い出すと、心がそこに在り、そして今自分が生きていることをしっかり実感することができる。そして時折、父の記憶と僕の年齢と父が同じ年齢だった時を重ねて、その年齢の時に彼はどんな風貌で、どんな男で、どんな仕事をしていただろうかと想像してみるのだが、なかなか実感を持って父を感じることはできない。
今の自分と父との距離をはかっている自分に気づくことがある。自分が存在することは当然、父と母が存在してのことだが、幼少の頃から学生時代、そして自分で生き始めてからも多くの導きがあって存在していることを論理的に考えることができる。それは人間や親子として神秘的なことであるし、今も自分の中に父が生き続けていると言うことなのではないだろうか。
今から20年以上前に病気になり生死の狭間にいたことがあった。その時に集中治療室から少し回復に向かいナース室の隣の病室に移ることができたのだが、その時にとても不思議な体験をした。それは、昼間の意識がはっきりとしている時に、自分の目に前に人の姿が現れたのだった。
ばかばかしく聞こえるかもしれないが、意識が明確な状態の昼間、僕のベッドの足元に見知らぬ男が立っていたのだった。その時は全く恐怖心は湧かず、その目の前に立っている男の存在になぜか安心感や、やすらぐような感情さえも感じていた。その男は何も言わずに絵画の中の人物のようにずっと同じ姿をしてそこに立っていた。そして、僕はスケッチブックにその男の絵を描いたのだが、その時感じたことは、昔の絵描きはこんな精神状態で絵を描いていたのではないだろうかと言う呑気なことだ。目の前の男はキリストのような姿をしていた。
それから容態が少しづつ回復してゆく中で、ベッドの前から男の姿が消えた、しかし、今度は日本とは思えない赤茶けた土地の大きな道で多くの人々が働く姿が目の前に現れた。それが何を意味していたのかは自分でも理解することができなかった。赤茶けた土地で働く人々は日本人であるのか外国人であるのかもはっきりとはわからなかった。
それは後になって感じたことなのだが、若い時にブラジルで仕事をしていた時に父が見た風景なのではないかと。それから、しばらくして夜中になると、大きな白い玉のようなものが何千個もの集団で病院の空間を列を成して流れ込んでくる。そして、そのまま流れるように病室から出てゆく光景が数日間も続いていた。その白い玉の正体が何であったかはわからないが、なぜか恐怖感など全く無く、安心感に近いものがあった。
その記憶は今でも自分の中に明確にあり、現実に自分が体験したことであることに対して不可思議な感情が残っている。それは現実にあった。
その時、、頭の中に常にあったことは、それは父が見た風景が僕の体の中に刻み込まれていることだった。今でもなぜ、自分自身がこの場所に立っているのか、現在が存在することの根拠や説明が全くできないのだ。自分のことや自分の性格自体もどう理解して良いのかもわからない。ただ、何かに導かれるように今の場所に立っているようにしか感じられない。それが僕の実感であり、今を生きている真実なのだろう。
自分が如何に存在しているのか。そしてこれからどのように生きてゆき、また死んでゆくのだろうか。何かに導かれていると感じる。
House Art View 11月4日まで開催 TIME & STYLE MIDTOWN
10月17日〜11月4日まで、TIME & STYLE MIDTOWN(東京ミッドタウンガレリア3F)にて、スウェーデンのデザインユニットCKR(クラーソン・コイヴィスト・ルーネ)とTIME & STYLEのコラボレーションから生まれたアクリル製の椅子、食器、文具、オブジェなどが展示されています。これらはCKRが7年前に設計した住宅作品「ヴィラ・ヴィードルンド」(スェーデンエーランド島)から発想されたもので、今後の製品化を目指しているそうです。
10月17日のオープニングには「CKR」が来日し、作品の解説を行いました。TIME & STYLEとの出会のきっかけは、CKRが日本ではじめて設計した京都のスフェラビル(2008年)だったそうです。建築とプロダクトのコンポジションが呼応しあい、つながりあう、新しい空間の胎動を感じました。
城壁の上から、カソリック系の修道院「ドミニコ修道院」が見えます。13世紀初頭からドミニコ修道院はタリンでキリスト教布教をはじめますが、16世紀はじめ、ドイツからいち早くもたらされたルター派による宗教改革により1524年に破壊され、大部分は廃墟になりました。その修道僧居住区が公開されています。
1881年、ロシア皇帝に即位したアレクサンドル3世は本格的なロシア化政策を推進し、民族運動は一時衰退しますが、それと同時にバルト・ドイツ人勢力もおさえられ、エストニア人にも土地を購入して地主化する農家も生まれ、貧富の差が拡大します。一方、工業化によって都市に暮らす労働者が増え、徐々に団結していきます。そんな中、ヤーン・トニッソンとコンスタンティン・パッツという世紀末エストニアで活躍する2人の民族指導者が現れ、1918年の独立宣言へとつながっていきます。
聖ニコラス(ニグリステ)教会は、ハンザ商人により建てられたプロテスタント教会です。ハンザ商人はドイツ、スェーデン、デンマーク、ロシアなど母国人同士で街区を形成し、その中心に自分たちの教会を建てました。非常時には避難所や城の役目をはたすよう、砦のような頑強なつくりになっています。
この教会を世界的に有名にしたのが、ベルント・ノトケ作「死のダンス」です。15世紀後半の作品で、法王、皇帝、皇女、枢機卿、国王がならび、いやいやながらも骸骨(死)と踊っています。
人の背の高さほどもある、台所の巨大な暖炉。その燃え盛る直火の前に掛けられた長さ2メートル強の焼串。これで肉の塊(かたまり)を刺し貫いて、串の端に付けられたハンドルを回しながら気長に焼く。焼き肉回しは、はたから見るほど楽じゃない。赤い炎の前で肉が少しずつ色づき始め、やがて焼き汁が滴り落ちる頃ともなれば、「一滴も無駄にするなよ!」と親方の声が飛ぶ。巨
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大な暖炉の正面に立ち、肉の真下に置かれた大きな容器にたまっ
た焼き汁をすくって肉に掛ける。炎の高熱で体が包まれる。こっちがローストされちまう。はぜた火の粉や焼き汁が手や顔に飛び散る。熱い!油断すれば火傷だ。すぐにでも暖炉脇のハンドル回しに戻りたい。鼻腔一杯に香ばしい焼き肉の香りが広がる。よーし、いいローストに仕上げるぞ。
こうして長い時間を掛けて焼き上げる塊肉のローストは、中世から 世紀の初頭まで、欧州貴族の宴席における最も重要な料理だった。素材となる肉は、仔豚・仔羊・鶏・イノシシ・ハト・牛など、地域と時代により様々だが、秋の狩猟シーズンともなれば、鹿や野ウサギ、カモやサギなどのジビエが喜ばれた。いずれにしても「塊肉のロースト」=「貴族の宴席料理の象徴」だったのだ。
では、人口の圧倒的な大多数を占める、農民を中心とする欧州の庶民は、どうだったのか。ローストの塊肉なんて、結婚式や特別な祝祭日の宴席で、鶏やハトのローストの切れ端を年に一度でも口にする機会があれば幸運、という感じだった。全人口の8〜9割の人々にとって日常の食事は長らく、ヴェジタリアンと呼んでいいほどに、野菜と穀物と乳製品が中心だった。「キャベツと豆や芋やカブの煮物」それにチーズとパンと麦粥、これがヨーロッパの庶民の味覚の原点だ。
欧州庶民の間で「食肉」が日常化し始めるのは、経済の先進地域でも 世紀後半、経済発展が遅れた地域、例えば南イタリアの山岳地帯などでは第二次世界大戦後のことだ。ステーキとハンバーガーの国アメリカでさえ、庶民の肉食の日常化は、南北戦争の終結以降のことで、明治維新の後だ。「日本とは違って欧米は、昔から肉食中心ですから」などというのは、嘘八百もよく言うよ、なのであって、ヨーロッパもアメリカも、ほんの百五十年ほど前までは、「一般庶民の日常食」=「野菜と穀物と乳製品」だった。かつて英国ミドルクラス家庭の主婦が私にこう言った「今みたいに誰もが肉を日常的に食べるようになったのは、第二次世界大戦後しばらく経ってからのことなのよ」。
この百五十年間の歴史、庶民にとって肉食が日常化する現在までの道筋には、興味深い事実が山ほど秘められている。が、この間の流れをひと言で表せば「肉
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のローストが庶民化していく過程」だったと言っていい。近年、このローストの
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庶民化過程で、注目すべき変化が起きつつある。一般家庭における「低温調理法」
の普及だ。これが欧米ではかなりの勢いで、日本でも徐々に、広がり始めている。「低温調理」とは何か。百度に満たない低温のお湯を、好みの設定温度で好みの時
間キープできる、水温センサー付の電熱器( 千円前後〜2万円)を使う。湯を
満たした大きめの鍋にこれを取り付け、 〜 度程度の温度の湯で、肉の大きさ
と種類性質に応じて、数時間〜 72時間という長時間、火を通す。コツは肉の下準
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備。塩コショウのみ、もしくは、様々なハーブやスパイスでマリネー液を工夫し、
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ジップロックのような袋に入れて数時間〜ふた晩ほど肉を漬け込む。その後、で
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きるだけ袋内の空気を抜いて密着状態にして封を閉じ、鍋へ。家庭用の食品真空包装器(1万円前後)を使うと楽だ。この「真空パック包み調理」ゆえに、欧米では低温調理法を一般に「ス・ヴィデ」(仏語源で「真空状態で」の意)と呼ぶ。
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低温調理の利点は何か。まず、表面が完全に包まれているため、調理の間に肉の旨味が流れ出ない。時間を掛ければ確実に中心部まで均一に火が通る。調理中ニオイが発生せず、鍋も汚れない。火を使わず湯が低温だから、放置して外出しても心配ない。しかも、ロースSトよりも確実に、ジューシーかつ柔らかに仕上がる。もちろん欠点もある。表面を高温で焼く過程を経ていないので、ロースト特有の香ばしい香りがしない。出来上がりの肉の塊は、その表面の見かけが何ともよろしくない。そのため食卓に出す前に、高温のフライパンで焼き色を付け、バターや酒をからめて風味を引き出す工夫が必要だ。この「後処理」さえ上手にできれば、香ばしく「本物のロースト」と見分けが付かないものになる。素材の肉選びでお金をケチらず、肉の下準備を丁寧に行い、水温と通熱時間と後処理のコツを覚える。これをこなせば誰でも簡単に、レストランやデパ地下の市販品に負けないものが確実にできる。「ロースト肉庶民化」の最終段階だ。
「チャーシュー」ならまだしも、2キロのローストなんて家で作らない。ふだ
んの家庭料理だと、スーパーの食肉売り場定番の、三〜五百グラムの豚ロース塊
肉や、鶏モモの半身くらいまでか。その程度なら、ヨーグルト・メーカーを低温
調理器として利用できる。我が家は、タニカ電器(岐阜)のヨーグルティア (1万
円少々)。容量1㍑、1度刻みで 〜 度の温度を 時間まで設定できる。本来は、
ヨーグルト・甘酒・納豆や味噌などの発酵食品を家庭で作るための器具だ。原理
は同じだから、肉に限らず魚や野菜もこれで存分に低温調理できる。これまでは「お
店で買うのが当然」と思っていた食品を、家で手づくり。家庭用調理器具の進歩で、
これが格段に容易となり、その世界が広がりつつある。
月 日(水)から毎水曜日5週連続で、早稲田大学エクステンションセンタ
ー中野校で『西欧食文化ヒストリー』講座を担当します。西欧食文化史は、現代
日本の食をめぐる状況に直結する。このことを知って頂く、いい機会となるはず。
P.hjaka manor
タリンから東南へ80km。 P.hjaka manorは、タリン〜タルトゥ間の街道沿いにたつ、マナーハウスを改装したオーガニックなレストランです。
マルト、オット、ジョエルの3人のシェフが新しいレストランの出店地を捜すなか、2007年、領主の館 P.hjaka Manorを発見。1820年頃に建てられた館の窓はベニアでふさがれ、床ははがれ廃屋同然でしたが、自分たちの構想したオーガニックレストランにぴったりの場と考えた3人は、自らの手で3年かけて改装。2010年にオープンしました。
オーナーシェフのひとりマルト・メツサリクさん。「野菜や魚、肉など全てエストニアの食材を使いながら、世界各国の料理を作っている」そうです。多彩なハーブや野菜は自家菜園から。春から夏はフレッシュな野菜、冬は瓶詰めの保存食やイノシシなど季節感を大切にした料理にひかれ、エストニア国外からやってくるファンも多いようです。昔ながらの薪ストーブや薪窯。薪のキッチンストーブは、フライパンや鍋をどこに置いても加熱でき、とても便利そうでした。
館の裏にある本格的な野菜畑。たくさんのハーブも植えられていました。全てはまかなえないので、南エストニアのオーガニックな野菜を取り寄せているそうです。
バルト・ドイツ人による農場支配が続いたエストニアでは、ナポレオン戦争以降、1816年頃に農奴制が廃止されます。しかし土地の配分はなく、大半の土地はバルト・ドイツ人所有のまま残されました。それは1918年のエストニア独立宣言まで続きました。
羊もも肉をトマトソースで煮込んだ料理。庭で飼っている羊は食べないそうです。
フレッシュなミントのハーブティー。香りが強くしっかりしています。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
「縄文展」から興味の広がり -その 2
ー 岡本太郎、モース、フェノロサ ー
○縄文の美発見者、岡本太郎
「実際、不可思議な美観です。荒々しい不協和音がうなりを立てるような形態、文様。その凄まじさに圧倒される。激しく追いかぶさり、重なり合って、突き上げ、下降し、旋回する隆線紋(粘土をひものようにして土器の外側に張り付け、文様を描いたもの)。これでもかこれでもかと、執拗にせまる緊張感。しかも純粋に透った神経の鋭さ。とくに爛熟したこの文化の中期の美観の凄まじさは、息が詰まる様です。つねずね芸術の本質は超自然的な激しさだと言って、いやったらしさを主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みです。」
(ここまで引用)これは大阪万博のシンボルである「太陽の塔」を発想し実現させた、日本には珍しいタイプの芸術家、岡本太郎が東京国立博物館で、今でこそ縄文土器の代表ですが「火焔型
「火焔型土器」で国宝指定番号 1号となった「縄文雪炎」。新潟県 十日町市博物館。
土器」に出会い、その時の驚きと感動を、1952年 2月に美術雑誌「みずゑ」誌上で「四次元との対話 -縄文土器論」で発表した一文で、光文社刊、岡本太郎著『日本の伝統』電子版から引用したものです。この文がなければ縄文という時代とその美はここまで広がらなかったと言え、岡本太郎の大きな功績です。
■火焔型土器
岡本太郎がうなった「火焔型土器」は紀元前約 4000年から 3000年前、縄文時代中期の縄文土器の一種です。新潟県長岡市にある「馬高遺跡」から、昭和11年(1936年)に初めて出土しました。その多くは信濃川の中流域に集中しています。その中でも一番有名なものが「火焔型土器」国宝指定番号1号の「縄文雪炎(じょうもんゆきほむら)」です。教科書等に数多く掲載されていますが、国宝指定は比較的遅く、平成11年(1999年)です。考古学的に縄文時代が日本の古代史に正式に認知されたのは割と最近だと分かります。この土器は十日町市の信濃川右岸段丘に位置する「笹山遺跡」から出土しました。数多く出土している他の同型土器に較べ、文様の様子がとくに厳しく奇麗で、上下のボリュームバランス対比が適切で、全体のシルエットが飛び抜けて美しいのです。国宝指定品の中でもこれは特別な存在とされます。先月号で述べた「縄文展」会場でもこの土器だけは、ガラスケースで厳重に囲われ、柔らかい照明が当てられていました。この「縄文雪炎」は、JR飯山線と JRほくほく線が交差する十日町駅から北西方向に徒歩7〜8分と程近い「十日町市博物館」が所蔵しています(多分いまは、パリで開催中の縄文展へ貸し出されていると思われます)。
「縄文雪炎』が出土した「笹山遺跡」へは十日町駅から車で12分足らずで着きます。日当りが良いなだらかな坂を上り、住宅地が途切れ、野球場や陸上競技場等の市民向けスポーツ施設が並ぶ一角にそれはありました。野球場バックネット側入り口の正面が出土場所の様です。「仮面の女神」出土地ほど立派な屋根は掛けられていませんが、出土状態を模したレプリカ風モニュメントが作られていました。そしてその先の一段高い草原に覆われた丘の上には、竪穴住居大小2棟が建てられています。それらを背景に丘陵奥への
十日町市博物館。国宝となった笹山遺跡出土深鉢形土器(928点)を収蔵しています。
縄文時代は土器を使い、このようなスタイルで貝や木の実、穀物を煮炊きしていたと推測されています。
緩やかに続く針葉樹の林を眺めますと、仄かに当時の縄文
人が暮らした環境の一部を偲ぶことが出来ます。
■ エドワード・S・モース
古代史的には縄文時代は約14000年前から紀元前 4世紀ぐらいを指します。その「縄文」を語るときにこの人の存在は外せません。アメリカの動物学者 エドワード・S・モース(Edward Sylvester Morse)です。彼は1877(明治10年)39歳の頃、専門の腕足動物(二枚貝の一種)が数多く棲む日本にやって来ました。その採集許可を得るため、汽車で横浜から東京へ向かう車窓で貝塚を発見。普通なら見逃すのでしょうが、モースの研究分野は貝類の一つ腕足動物だったからでしょう。余談ですがモースが乗った鉄道は、1872年
(明治 5年)6月に新橋〜横浜間で日本初の鉄道として開業されています。私の考古的な興味への入り口は「貝塚」という言葉です。小学校の社会科授業だったでしょうか、何故か強く印象に残っています。その後モースによって発掘調査が日本で初めて行われたのが今の「大森貝塚」です。この発掘調査の詳細報告”Shell Mounds of Omori "の中に、捨てられた土器の破片の模様を示す”Cord Marked Pottery”の表現があり、それが日本語表記で「縄文土器」とされました。今では誰でも使う「縄文」は結果としてモースの命名となりました。
■アーネスト・フランシスコ・フェノロサ
今回調べて思いがけないつながりが見つかりました。
「国宝」(national treasures)という概念を考え、日本の美術行政、文化財保護にも深く関わりを持ったアメリカ人で東洋美術史家、哲学者のアーネスト・フランシスコ・フェノロサ
(Ernest Francisco Fenorosa )を日本に紹介したのは、なんとモースだったのです。フェノロサは1879年(明治11年)には早くも来日し、東大で哲学や政治学の講義をしたそうですが、講義を受けた者の中に、東京藝大の前身東京美術学校を開いた岡倉天心がいました。フェノロサは1884年に文部省図画調査会委員にも任命され、近畿地方の古社寺宝調査を天心らと共に行っています。あの法隆寺夢殿の、当時は絶対秘仏であった救世観音像を包んでいた白い布を解いたのもこの時です。法隆寺の僧侶達が、祟りを恐れて逃げ出したというエピソードを、高校時代に薬師寺の元管主であった高田好胤と親しかった日本史の先生から聴いたのを覚えています。ここからは私の勝手な解釈です。2回の「縄文」を書いて感じたことですが、縄文中期は気候が温暖で、海面も今より数メートル高く、動物の狩猟、海や川の魚漁、未だ一部で
竪穴住居が建てられた「笹山遺跡」。丘の上の自然豊かな環境で、縄文人の生活がしのばれます。
笹山遺跡にて「縄文雪炎」の出土シーンを再現。
すが農作など、一万数千年にわたる縄文時代の中で春夏秋冬とも特別に食料調達に恵まれた時期だったと思われます。ギリギリの食料しかとれないとすれば、文化を生み出す余裕はないはずですが、食料が豊富に手に入りますと、暮らしに余裕が生まれます。食料調達以外に時間が使えると、人間は人間らしさを発揮し始めます。何の装飾もない機能しか持たなくていいはずの煮炊きの鍋に、装飾を与え始めるのは調達と食べること以外に頭を使える余裕があるからでしょう。また縄文時代の土器作りは、主に女性の仕事だったとされています。縄をなうことや機織り等も女性の仕事でしょうから、彼女達は手近にある材料で土器に楽しんで模様を施し、模様の出来を自慢し合う姿まで想像されます。流石に「火焔型土器」クラスになると、宗教的なシンボル性を感じます。北陸を中心に広く200点以上出土していますので、地域間の交流が既に盛んだったと思えます。
「火焔型土器」は縄文中期に突然登場し、約1000年間作られ突然無くなります。一般には物の形は様式として前時代の影響を受け登場し、全盛期を経て、次の時代に繋がるのですが、この土器は様式の移り変わりが繋がらないのが不思議です。縄文後期には小さいとはいえ氷河期がありましたので、生きるのに精一杯で、クリエイティブなことが出来なかったのではと理解できます。
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石垣島の白保地区は、赤瓦の民家や石垣が残りガジュマルやフクギの並木に守られたのどかな町です。最近は新石垣空港の白保竿根田原洞穴で発見された日本最古の旧石器人「白保人」(2万7千年前)が話題となりました。
白保で民宿や商店を営む前里さん。朝早くに訪ねてきたのは、シュノーケリングサービス「SEA TOP」の新里さんです。海浜利用者への「ビーチエントリー禁止」を呼びかける相談でした。
サンゴ礁の自然は、白保集落の人々によって守られてきました。今から約30年前、1979年には白保サンゴ礁を埋め立てて新空港を建設する白保海上案が発表され、住民や自然保護団体、研究者などが「八重山・白保の海を守る会」を結成。国際自然保護連合総会での研究発表など世界的な運動に発展。計画は二転三転し、現在のカラ岳陸上案が採用されました。現在も、砂浜の清掃活動やサンゴ礁調査など様々な活動が続けられています。
海辺に近い新里家は昭和初期から3代つづく、ウミンチュ(漁師)の家。新里さんのお父さんは有名なウミンチュで、今も漁に出ています。前里さんが船の補修材をもらいに新里家へ。人々は海の恵みを享受しながら助け合ってきました。
「白保サンゴ礁」を見学するシュノーケリングツアーが開催されています。前里さん、新里さんはじめ6件ほどが協定を結び、サンゴ礁を傷つけずに案内するルールづくりを行っています。海浜から入るビーチエントリーについては、危険性が高いことやサンゴを傷つけることから、原則禁止を呼びかけています。
人が何人も乗れる巨大ハマサンゴ。上は平らになっていて、休憩のポイントになります。潮の満ち引きで成長がストップしている部分なので、乗ってもサンゴが傷つくことはありません。こうした細かな気配りが保全には不可欠です。
民宿、売店、食堂、シュノーケリング、牧場と、マルチな働き方が白保流。
川平石崎のマンタスクランブルにて。
上はホテル事業者からの連絡があった白保公民館。地域活動の中心になっています。シュノーケリングのボートの船着き場では、白保魚湧く海保全協議会などが中心となり、ゴミ回収をはじめ海を守る活動が続けられています。
今、白保地区で問題となっているのが、リゾートホテルの建設問題です。新里さんたちは白保リゾートホテル問題連絡協議会を立ち上げ、建築許可の取り消しなどを求めています。ホテルの建設予定地はシュノーケリングボートの船着き場の目の前で、アオサンゴの群生地にもごく近い場所。建設計画が明らかになったのは、2016年の6月のことでした。
船着き場から見えるポールは、約30年まえ、新空港建設計画の白保海上案にともない測量のために打ち込まれたもの。「第一ポール」と呼ばれ、計画の痕跡を今も伝えています。この日は台風が近づき、サンゴ礁帯と外海を分けるリーフエッジに白波が立っていました。
はじめのうちは、正直あまりピンと来なかったと新里さん。しかし事業者(※)の説明を聞くと、信じられないような計画が明らかになりました。協議会が問題としているのは主に5点です。
)公的下水道がなく排水を地下浸透させる計画。汚水が海に流出する可能性がある。)アオウミガメ、アカウミガメ、タイマイの産卵地である砂浜が踏み固められる。)年間10万人の宿泊客による過剰な海の利用により、浜やサンゴ礁が破壊される。)地元と業者が協定を結んでも、他業者に転売される可能性が高い。)アオサンゴや白保海岸など「公民館指定文化財」に指定された共有財産が失われる。
※事業主体は(株)石垣島白保ホテル&リゾーツで、(株)日建ハウジング(那覇市)の子会社です。
緑の保安林のすぐ向こうに、165室、4階建てのホテル棟が建ち、利用者は年間10万人を予測しています。新里さんが最も懸念するのは排水を地下浸透させる問題です。300t/日の汚水を浄化設備で処理し、琉球石灰岩の地層に浸透させる計画ですが、リンやチッソを含んだ水が海へ流れ出します。リーフ内はサンゴ礁に囲まれているため海水の出入りが少なく、サンゴは水質の変化に敏感なので、すぐに影響が出てしまいます。また年間10万人の宿泊客によって浜辺はプライベートビーチ化し、ウミガメの産卵場所やアオサンゴが破壊される可能性も
が、石垣市の景観形成基準7mを超えることも指摘されています。
4m .あります。さらに建物の高さ17
事業主から提出された計画図。右側が4階建のホテル棟。上が戸建て形式のヴィラ棟。海側の敷地境界から海岸線まではわずか100m。この海域は西表島石垣国立公園に指定され、敷地はその保安林に隣接しています。その先の海にはアオサンゴ群生があります。ホテル棟の最多室は35㎡、ヴィラは1室42.3㎡と、リゾートホテルとしてはとても狭い設計です。
ホテル計画地のとなりは、日本ナショナル・トラスト協会が所有する「アオサンゴ保護地」です。同協会はアオサンゴを守るには、浜辺の土地を守ることが大切と主張しています。
No War, No Nuclear.