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時空を超える美意識
竈 猫 2019 https://collaj.jp/
もりだくさん、
盛岡ニズム
松本竣介の歩いた盛岡
昭和の初期から太平洋戦争、そして終戦直後の街を描き、その評価をますます高める松本竣介。父の郷里である盛岡で、10歳から17歳(大正11年〜昭和4年)という多感な時期を過ごしました。
岩手山
そら青く開うんばしのせともののらむぷゆかしき冬をもたらす
宮沢賢治
盛岡市のシンボル「開運橋」。鉄橋になった 2代目開運橋のランプをみて、盛岡で青春時代(明治 42年 13歳〜大正 9年 24歳頃まで)をすごした宮沢賢治が歌を残しています。
東京駅の兄弟建築岩手銀行赤レンガ館
市の中心部、中の橋にたつ辰野金吾設計の「岩手銀行赤レンガ館」は、平成24年まで現役の銀行として使われていました。竣工は明治44年。明治41年から建築が始まった辰野設計の東京駅とほぼ同時期に工事が行われ、赤レンガ壁やアーチ型窓のデザイン、ドーム屋根などが兄弟建築といえるほど似ています。交差点角のエントランスを入ると、蛇紋岩のカウンターの上に鉄格子をはめたクラシカルな窓口に出迎えられます。見上げるとドームの高い吹き抜けにはキャットウォークが設けられていました。共同設計者で盛岡出身の葛西萬司は、辰野の片腕として事務所を経営していました(辰野葛西設計事務所)。銀行建築を多く手がけ、盛岡では他に盛岡貯蓄銀行(現 盛岡信用金庫本店)があります。
銀行員の執務室は、蛇紋岩のカウンターと鉄格子の上げ下げ窓(スクリーン)で客の待合室と隔たれていました。このスクリーンは、一般公開前の改修工事で再現されたものです。螺旋状の模様を切った木製の装飾柱には、油を浮き上がらせたような塗装が施されています。
天井は漆喰で仕上げられ、アカンサス、バラなどヨーロッパの草花だけでなく、笹や梅など日本の文様もあしらわれています。東京駅にも見られる辰野流の遊び心です。蛇紋岩と白大理石の暖炉は、部屋ごとにデザインが異なり、凝ったつくりになっています。
支配人室の奥には厳重な金庫室があります。盛岡銀行は明治29年、盛岡の財界人の尽力で設立され、明治32年には、県民の悲願だった岩手県の公金取扱を開始しました。明治44年に赤レンガ本社を建設。大正10年には南昌荘をたてた金田一国士が頭取になりますが、昭和初期の金融恐慌や東北の大凶作をきっかけとした取り付け騒ぎによって盛岡銀行は破産。同時期に破産した第九十銀行とともに、岩手県が出資した岩手殖産銀行(現在の岩手銀行)として再生しました。赤レンガの建物は本店として利用され、平成6年に現役の銀行としてはじめて国の重要文化財指定を受けます。平成28年から一般公開がはじまり、県産品の紹介など様々なイベントに活用されています。
盛岡地方裁判所前の「石割桜」。エドヒガンザクラが花崗岩を割っています。
英国の古い銀器には必ず小さな刻印が幾つか打刻されている。
それはたいてい、次の
つの刻印の組み合わせから成る。その銀
器を造った工房名、その工房が登録している同業組合の所在地(都
市名)、その銀器に刻印が打刻された年号、そして、その銀器の銀の品位(銀の純度)。この
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つの刻印を読み解くことで、英国の古
い銀器については、その銀器の銀の品位を知り、いつ・どこで・誰が造った銀器であるのかについて、ほぼ正確に鑑定することが可能だ。刻印という記号の分析である以上、曖昧さは入り込む余地が少なく、刻印の読み方に精通している骨董銀器商であれば、世界中どこの専門家であっても、同じ鑑定結果を出して当然という世界だ。
大多数の骨董銀器商にとって意味があるのは、
世紀初頭までの約 300年間。だが、より古い銀器を扱う特別な
銀器商であれば、
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世紀初頭. 16世紀、更にはより古い銀器につ
いて、その刻印の読み方を真剣に学ぶ必要が出てくる。なぜそう
ホールマーク
なるかと言えば、こちらは先の 300年間と比較すると、刻印の制度がきちんと出来上がっていないため、記号分析に加えて、銀器自体の様々な要素を判定する必要性が加味されてくるからだ。もっとも、こちらは、その希少性の故に、極めて高価。当然マニアックな世界で、これを扱う店(人)は非常に限られる。もちろん、これを購入するお客様もまた限定される。私の知る限り、売る側も
買う側も、たいへん興味深い人物が多い。
この刻印を英語圏では一般に「ホールマーク」と呼ぶ。この単語は英和辞典で「折り紙付き」と邦訳されたりする。一連の刻印が、打刻された銀器の素性を正確に反映し、極めて高い信頼性がある故に「ホールマーク」=「折り紙付き」というイメージが歴史的に形成されてきたからだ。では、この刻印制度を支えてきた主体は、いったい誰なのか。どのような機関が、この刻印制度を過去 800年近くに渡って、その信頼性を担保してきたのか。皆様は、おそらく、政府が定めた公的な制度に基づく刻印制度だと思われるはず。我が国初の骨董銀器専門商である私自身、はじめはそう思っていた。だがこれは「英国のお上」が定めた制度ではない。
「ホールマーク」の「ホール」とは、金匠の同業組合の組合会館ゴールドスミス・ホールに由来する。このゴールドスミスという英単語、我が国では通常「金細工師」もしくは「金細工職人」と邦訳される。だが、この邦訳は多くの場合、正確ではない。なぜ
4
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世紀中頃.
なら金匠の同業組合に所属する匠、すなわち職人の圧倒的な大多数は、銀職人によって構成されてきたからだ。より正確に言えば、銀職人が時に、高価な金を素材に、仕事をする。もしくは、ごくごく限られた金の装身具を仕事の主体とする専門職人が組合員の中にいる。それが実態だ。英国では、この金匠の同業者組合の正式名称を「ザ・ウォーシップフル・カンパニー・オヴ・ザ・ゴールドスミス」(名誉ある金匠仲間)という。 1327年創立のロンドンの「仲間」に所属する職人の主体は、間違いなく銀職人たちだった。ではなぜ、組合の名称をシルバースミスとしなかったのか。組合の世間的なイメージを高めたかったからだと言われている。職人たちの同業者組合の間には、社会的な意味での序列があり、互いに威を張り合ってきたという長い歴史がある。職人自身、銀よりも高価な金を主体に扱う職人と思われたい気持ちがあったらしいのだ。
産業革命以前、欧州各地とも、人口の圧倒的な大多数は農民だ。日本的な意味での「士農工商」の「工と商」すなわち「もの造り職人」と「商人」は、農民に比べれば圧倒的に数が少なく、その多くは都市に居住していた。布地商、衣服製造、染色屋、鉄を素材とする鍛冶屋、ワイン商、八百屋、肉屋、魚屋、料理人、金融業者、
ロンドンのゴールドスミス・ホール
薬局等々、都市で必要とされるこれら基本的な「工と商」については、すべて同業組合が結成され、その正規組合員でなければ、その都市内で商売することが一切禁止だった。これは、ロンドン・パリ・ミュンヘン等々、西欧の諸都市ならば、どこでもほぼ共通する大原則だ。
この同業者組合を一般に「ギルド」と呼ぶ。各ギルドは、王権から発令される特別許可(特許状)により設立される。これは、日本人の多くが勘違いしがちな点だが、ギルドは決して「同業者の親睦団体」などではない。もち
ろん、その要素も重要な要素のひとつでは、ある。だが、王権からの特許状で設立されたギルドは、一定の強力な自治権を持つ。まず、誰が正規の組合員となるべきか、これを決定する基準を自分たちで定めることができる。組合の合議で定めた基準に反する行為のあった者は、組合員としての資格を剥奪する。そうなれば、その都市の中では、二度とその仕事に就くことはできない。「大昔、純度をごまかした銀器を造った銀職人など、組合で耳をそがれたこともあったと聞いています」ロンドンのセントポール大聖堂のすぐそばにある、金匠組合の事務局の方が微笑みながら、私にそう語ってくれた。また、非組合員が密かにその仕事をしているのを見つければ、組合員が行って徹底的にこれを取り締まった。硬い言葉で言えばギルドは、行政の資格認可、裁判、警察業務に相当する事柄を、組合内部で処理する自治権が認められる団体であった、ということになる。現代の日本では、日本医師会と弁護士会が、これに類似する自治権を有する数少ない団体に該当する。
そして、もうひとつ、極めて重要なことがある。それは、ロンドンの場合、各ギルドの正規組合員のみが、公的な意味でロンドン市民としての資格を有していた、という歴史的な事実だ。話は飛ぶようだが、このことを知って初めて、ルネサンス期イタリア自由都市のアートへの理解が深まった。
.次号へと続く
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6月の末、ギャラリー「ときの忘れもの」(東京駒込)の主催で、松本竣介の歩いた街盛岡を見学するツアーが企画されました。地元の建築家で、磯崎新など建築家のアート作品のコレクターでもある中村孝幸さんが、詳細な資料をつくり街を案内してくださいました。右は大通商店街にある「御田屋清水」。南部藩主別邸御田屋(おたや)に湧いた清水で、盛岡城内や大奥の飲料水、茶道などに使われていたようです。
盛岡城近く、櫻山神社参道脇の喫茶店「リーベ」。
松本竣介は明治45年、渋谷区渋谷一丁目(旧こどもの城近く)に、盛岡出身の父・佐藤勝身の次男として生まれます。大正3年、2歳のとき、父・勝身は林檎酒の事業に参画し、岩手県・花巻に転居。自宅には20代の宮沢賢治がたびたび訪ねてきて、竣介にとって賢治は特別な存在となります。10歳のとき盛岡の中津川にそった紺屋町に転居し、古い商家の街並みや明治・大正に建った銀行、モダンな洋館を見ながら育ちます。大正14年には盛岡中学校(現・県立盛岡第一高校)にトップで入学しますが、直後に脳脊髄膜炎にかかり聴覚を失いました。同級生には彫刻家舟越保武がいます。
盛岡市内を流れる中津川。
竣介の暮らした紺屋町界隈
ござ九(森九商店)は、紺屋町から中津川にいたる広い敷地をもち、7つの土蔵と店舗付き町屋を一体にした商家です。江戸時代に灯芯を扱う店として創業し、ゴザを作るようになりました。
全国の産地で作られたザルなど、生活用品を扱っています。
江戸後期から明治中期、末期と建て増しされていった建物が今も残り、盛岡の豪商の面影を伝えています。
江戸時代に、よ組番屋として設けられた「紺屋町番屋」、大正2年に建て替えられた建物が今も残っています。かつて六角形の望楼からは、盛岡全域を見渡すことができたそうです。。
貯蓄銀行は個人の貯蓄を預かるため設立された銀行でした。松本竣介の父・佐藤勝身が、花巻から盛岡紺屋町に転居したのは、この銀行の設立に関わるためでした。松本竣介も「建物(青)」(1948年大川美術館蔵)という作品に、正面に円柱をたてた建物の姿を描いています。
昭和2年、盛岡銀行と同じ葛西萬司が設計した盛岡貯蓄銀行本店(現盛岡信用金庫)。正面に6本のオーダーを立てたギリシャ風建築で、内装はアール・デコ風。RC造で外装には花崗岩を貼っています。新古典主義風のスタイルですが、昭和初期のモダニズムも感じられます。
櫻山神社の烏帽子岩。江戸前期、盛岡城築城の際に姿をあらわした周囲約20mの巨石です。
鳥さんが鳴く
むかえにきたよむかえにきたよ
Vol.05
あの星空をこえて
原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
日比谷公会堂や大隈講堂を設計した佐藤功一による「岩手県公会堂」(昭和2年)。塔や壁の意匠など、昭和4年に竣工した日比谷公会堂との共通点が多く見られます。大正12年の天皇御成婚を記念して計画され、建築費は県や県民の寄付で43万円が集められました。2階の陸屋根の高さを抑え、塔の高さを強調。約1000坪の施設のボリュームを小さく見せています。昭和3年、昭和天皇を迎えての岩手陸軍大演習の際は、正面入口2階部分に、天皇の大本営御座所が設けられました。昭和のはじめ盛岡市山王町に転居した14歳の松本竣介は、兄・彬が贈った油絵道具を使い、丘の上から眺める公会堂や街の景色を描きます。建設当時は、県会議事堂、大劇場ホール、西洋料理店、県民サロン、皇族の宿泊所といった機能があり、ドイツの市役所によく見られる複合施設の役割を果たしていました。「公会堂多賀」はパリのリッツで修行したシェフがしきる本格的なレストランで、新渡戸稲造もよく来たそうです。2017年まで約90年にわたり営業していました。
築80年をすぎ取り壊しも議論された公会堂ですが、大正12年、関東大震災の直後に設計されたこともあり、佐藤功一の弟子・内藤多仲が考案したRC造の耐震壁構造をいち早く採用して、画期的に耐震性を高めています。外壁のスクラッチタイルは、関東大震災に耐えた帝国ホテルに採用されていたことで注目され、公会堂にも使われました。
中津川に沿った県民会館。佐藤武夫の遺作となりました。
佐藤功一の弟子であり、建築音響工学の先駆者でもある佐藤武夫設計の「岩手県民会館」(昭和48年)。クリーム色のレンガタイル外壁と黒い陸屋根のスカイラインが街に溶け込み、岩手県公会堂とのバランスも考慮されているように感じます。大階段はホワイエの役割も果たし、談笑したり、記念撮影する人の姿も見られました。
街の豊かさを示すユニークなスタイルの写真館建築が残されています。2歳で岩手に転居した松本竣介は、記憶にはないものの東京生まれであることを意識していました。17歳のとき兄・彬の上京(東京外国語学校入学)をきっかけに盛岡中学を3年で中退。西池袋の自由学園に勤めていた小学校の恩師宅の隣を借り、東京で暮らし始めます。2階座敷では名物「わんこそば」も楽しめます(予約制)。
「直利(ちょくり)庵」は明治17年創業の、盛岡を代表する老舗蕎麦店。岩手産のそば粉を地下水で打った蕎麦は絶品で、地下水をかけ流した中庭の池には巨大なイワナが泳いでいました。ちなみに直利とは、鉱山の鉱脈を示しています。
4代目女将松井裕子さんは学芸員資格をもつコレクターで、「MORIOKA第一画廊」の運営も行っています。店内にはウォーホル、瑛九、柳原義達、難波田龍起など本物のアート作品がさりげなく飾られています。
「もりおか啄木・賢治青春館」は、明治43年に竣工した第九十銀行を活用した記念館で、明治から大正にかけて盛岡中学に学んだ石川啄木と宮沢賢治の足跡を紹介しています。
開口部のアーチやコーナーストーンは市内で採れた花崗岩。タイルの下には、レンガが見えます。
第九十銀行は、明治11年に旧盛岡藩士94人の金禄公債をもとに設立された、いわゆる士族銀行でした。士族の商売のせいか経営が安定せず、それを打開するため民間の資金で設立されたのが盛岡銀行です。レンガ造の建物にクリーム色のタイルを貼った第九十銀行本店は、辰野金吾の弟子で盛岡出身の横濱勉の作品。東京帝国大学では岡田信一郎の同期で、司法省技師となると後藤慶二と共に豊多摩監獄を設計しました。三橋四郎の「商店住宅建築図説」(明治41年)には、この建物とほぼ同じ図面が載っていて、ユーゲント・シュティール建築の最初期のものといわれています。
Parisへ AREA Tokyo
2019年11月18日 パリ サン=ジェルマン=デ=プレ地区に、インテリアブランドAREA初の海外店舗がオープンしました。
蝉丸 AREATokyo(北青山)でひらかれたプレス発表にて。
『陰影礼賛』の言葉通りに、あえて暗がりを設けた店内。デザインは橋本夕紀夫さんが監修。
ルーヴル美術館にも近いパリ中心部、サン=ジェルマン=デ=プレ地区。アートギャラリーや洒落たカフェが並び、セルジュ・ゲンズブールも暮らした人気の街に出店しました。 4 Rue de l'universit. 75007 Paris FRANCE
《雪見》日本伝統の雪見障子をモチーフにしたコレ《楼閣》金閣、銀閣をイメージしたヒノキ製のリビングボード。クションキャビネット。障子が上下します。高床式の通し柱構造を、伝統の組手でジョイントしています。
《老梅図》パーティションとして使える屏風仕《風神》《雷神》キャビネットボードの扉には、日本伝統の立ての老梅図はFujiyoshi Brother 'sの作品。絵柄風神雷神が、金銀の立体的な線画で描かれています。
『須賀敦子の旅路 ミラノ・ヴェネツィア・ローマ、そして東京 』 (文春文庫) 大竹昭子著
今もファンを魅了し続ける須賀敦子さんの生誕90年を記念して、『須賀敦子の旅路』の著者 大竹昭子さん(右)と「3.11絵本プロジェクトいわて」代表 末盛千枝子さん(左)によるトークイベントが開催されました(6月29日 テレビ岩手にて)。
会場は満席となり、亡くなって20年以上経つ今も、須賀敦子さんの人気は高まっているようでした。須賀さんは1929年、老舗の設備工事会社「須賀工業」に生まれ、カトリックに入信後、聖心女子大学(第一期生)、慶應義塾大学に学びます。神学をおさめるためパリに留学しますが、次第にイタリアにひかれ、ミラノコルシア書店の人々との交流を深めました。1960年、ジュゼッペ・リッカ(ペッピーノ)と結婚し、日本文学・イタリア文学の翻訳に取り組みました。作家としての本格デビューは60歳を過ぎてから『ミラノ霧の風景』、『コルシア書店の仲間たち』など独特の魅力を放つ名著として読みつがれています。大竹さん、末盛さんが語学に堪能だった須賀さんの才能や、貴重なエピソードなどを語り、参加者の質問に答えました。須賀さんは、末盛さんが勤めていた至光社の絵本ブルーノ・ムナーリ「木をかこう」「太陽をかこう」を翻訳しています。至光社の季刊誌「ひろば」表紙となった彫刻家舟越保武の素描。末盛さんを絵本の世界に導くきっかけとなりました。テレビ岩手1階の「MORIOKA第一画廊・舷」では、大竹昭子さんが須賀敦子さんの足跡を追い、ミラノ、ヴェネツィア、ローマで撮影した写真の展覧会「一日だけの須賀敦子展」が開催されました。MORIOKA第一画廊は、昭和39年、上田浩司さんによって開廊し「絵をブローカーのように扱ってはいけない」という上田さんの信念は、ときの忘れものをはじめ多くの画廊に影響を与えました。岩手を代表する松本竣介、萬鉄五郎、舟越保武をはじめ現代版画センターの作品など国内外様々な作家を取り上げ、50年にわたる企画展のレパートリーは、盛岡だけでなく現代美術史の軌跡と重なります。上田浩司さんの没後は、娘の宇田り土さん、直利庵女将松井裕子さんによって運営されています。画廊に隣接する喫茶「舷」にて、大竹さんと末盛さんを囲んだ懇親会が開かれました。末盛千恵子さんは彫刻家舟越保武の長女として、1941年東京で生まれました。慶應義塾大学卒業後、父を訪ねて来た至光社の武市八十雄社長に誘われ絵本の編集者となります。時にはフランクフルトブックフェアに武市社長と出張して、海外の出版社に至光社の絵本を売り込みました。至光社を退社し、1986年には『あさ Onemorning』(舟越カンナ文・井沢洋二絵)がボローニャ国際児童図書展でグランプリを受賞。その後、すえもりブックスを立ち上げると、上皇后美智子さまの国際児童図書評議会(IBBY)での講演をもとにした『橋をかける子供時代の読書の思い出』など話題作を次々と出版しました。
▼「MORIOKA 第一画廊」を切り盛りする 宇田り土さん。
末盛さんは2010年から岩手県八幡平市に家族で移住し、建築家松本莞さん(松本竣介の次男)が設計した舟越家の別荘で暮らしています。その生活を襲ったのが、2011年の東日本大震災でした。震災直後から被災地に絵本を届ける「3.11絵本プロジェクトいわて」をスタートし、寄贈された絵本をボランティアの手で「えほんカー」に積みこみ避難所や保育園に向かいました。いまも各地で出張絵本サロンを開催しています。
ヨーコの旅日記第24信やる気の神様降臨川津陽子メッセフランクフルトジャパン
千代田区
つい先日、ドイツ語のレッスンを受けてみた。ドイツから来日する大事なゲスト御一行様をお迎えし、レセプションディナーを開催することになったのである。ここはせめて、気の利いたおもてなしのご挨拶や自己紹介だけでもドイツ語で流暢に極めたいところである。というわけで、ドイツ語をちょっとやっておこうよ、ということになった。そこでドイツ語が出来る同僚男子によるランチレッスンが突如開講された(しかし会場は会社の近所のイタリアンレストラン)。常日頃からよく気の利く彼は、すでに、基本的挨拶やパーティーシーンでのキャッチフレーズを
▲ 10月に訪ねた「立山」 室堂高原、山崎圏谷(立山カール)。
まとめたものを用意してくれていた。それを一からさらい、発音や応用編などを教えてもらい、ロールプレイをやってみたりした。中にはどうやっても発音できないような単語が存在し、皆んな呪文のようにその一語を繰り返す。見兼ねた彼は、このフレーズは英語で説明すれば良いと思いますと、やや困り顔で微笑んだ。なかなか前途多難である。
実は、私自身は数年前にドイツ語を学習したことがあった。折角、常日頃からドイツ本社の同僚達と直接コミュニケーションができる環境下にいるにも関わらず、習得しないのは勿体無いのではないか、というのが動機で、突如やる気の神様が降臨したのだ。そんな時の私の勢いは、目を見張る行動力と集中力があると周りに言われる。この時は、ゴールデンウィークの集中コースに始まり、週末のレッスンをこなし、通勤時間には単語集を開き、自宅では声に出してみる、などを数カ月続け、その年のドイツ語技能検定試験に挑み5級を取得した。5級から始まる検定試験なので、基本中の基本でお恥ずかしいレベルだが、自分の中では物凄い達成感があった。そして、理由はよく覚えていないが、その後パッタリと勉強は終わってしまう。この日のランチレッスンの前日に、当時使っていたノートを久々に開いてみたところ、自分の年齢を伝えるフレーズの例文が書かれている。それを見て愕然とした。まさか 6年以上も前のことだったとは! 久々のレッスンとなるこのランチで、その空白の長さを痛感する。この数年の間も、本社に渡独していたし、ドイツ語をたくさん耳にする環境下にいたのに、やはり学ぶという意識がない限り、自然に覚えるなんて都合の良い話はないものである。
余談だが、父の囲碁への熱中度がこれまた凄いことになっている。現役時代は全く関わりのなかった囲碁に、退職後数年経って突如のめり込み、週に数回、市の公民館で仲間たちと一手を楽しみ、自宅では囲碁のゲームソフトを使って時間さえあれば PCに向かって見えない相手との戦いに挑む日々がもう何年も続いている。つい先日、実家に帰ると、父が明後日から温泉の旅に出掛けると言う。話を聞いたところ、公民館で指導してくれている先生が、別のスクールの生徒達を率いて囲碁集中合宿を開催すると聞き、急遽仲間に入れてもらったそうだ。プログラムを見ると、温泉宿に到着したら囲碁、夕飯後に囲碁、翌朝食後に囲碁 …… とまさに合宿の旅。
▲ 黒部ダム。
▲ 黒部平 ケーブルカー。
知り合いもいないのによくぞ入っていくよな〜と思いつつ、そう言えば …… と自身の過去を思い出した。
30代になって突如始めたチェロである。個人レッスンを経て、自分のレベルを垣間見ずなかば強引に地元オーケストラに入団し、週末は練習に明け暮れていた。夏合宿の思い出も蘇る。血は争えないものだ。笑ってしまう。ただし、父との決定的な違いは、彼は途中で投げ出すことなく、何年も囲碁を続けてレベルアップを図っていることである。一方で私のチェロはここ数年ケースにしまわれたままである。今やインテリアの一部のように部屋に佇むその楽器を見ると罪悪感に苛まれる。
話しは戻るが、レセプションディナーを数週間後に控え、実は明日からフランクフルト出張が控えている。早速実践の機会がやってきてしまった。今更もがいても何も変わらないが、同僚からもらったフレーズ集を鞄に入れていこう。機内で少しだけでもおさらいをしておこうか。熱くなって一気に加速し息切れして終わらないよう、ずっと続けられる程よいペースを保つこと。私の場合、何よりもまず、その技術の習得が先のようである。
奇数年秋、名古屋で開催される「日本木工機械展」。日本最大の木工機械の見本市に約25,000人が来場しました。全国の木工機械メーカー、刃物メーカーなどが出展します。
簡単操作。図面は自動生成。間接業務を9割削減。
ひときわ注目されていたのが、次世代の住宅設備(収納、造り付け家具、キッチン等)の設計システム「
」と、そのデータと連携し自動製造を可能にする「JCPcode」でした。「
」はクラウド型の設備設計・販売支援システムで、ドゥーマンズによって運営されています。設計ルールをデジタル化し、様々なユニットを登録しておくことで、ドラッグ&ドロップの簡単操作によって、誰でも収納設備やキッチン等をプランニングできます。お客様と打ち合わせながらリアルタイムでユニットの組み合わせやサイズ変更ができ、設計
ルールに従った図面の生成を自動で行ってくれます。「DAROS」を説明するセミナーには、多くの専門家が参加しました。従来のCADを使った設計作業が不用になり、間接業務を9割以上も削減できるそうです。
「
」のプランニング画面。左のユニットをドラッグ&ドロップして組み合わせ、幅・奥行きのサイズ変更、棚、引き出し、扉の追加、扉色の選択などが簡単にできます。「
」のプラン図。床置きユニットと上吊り棚の例。
特注・既製品の壁を取り払い、サイズや素材を自由にプランニング。
「
」の最大の特徴が、既製品と特注品の壁を取り払ったことです。デジタル化された設計ルールにより、既製品、特注品のくくりにとらわれずにプランニングを進め、デザインや価格もリアルタイムに確認できます。プランニングと共に、製造に必要な図面が自動で生成されます。例えば、生産管理に使われる「コンバイン図」には、ユニットを構成する側板、天板、背板、金物など、各種パーツのサイズ、品番が記載されます。ちなみにプランニングでサイズを変えたり、棚板を追加したりすると自動的に図面に反映され、扉が大きくなるに従って蝶番の数も自動的に増えるなど、安全な設計ルールが登録されています。「加工図」には、パネル1枚の加工サイズが記載されるほか、棚板のダボ穴などの間隔や位置、溝加工や切り欠き加工のサイズや位置などが、設計ルールにのっとり自動で決定されます。その他「見積り書」やフォトリアルな「CG」も自動生成されるので、CAD操作や見積もり、プレゼン資料の作成など長時間の作業から解放され、人材不足の解消にも役立ちます。見積り書。
パーツごとの詳細見積り。
コンバイン図。加工図。
フォトリアルCG。
導入費用を大幅にコストダウン。販売プラットホームも提供。
工場で製造を指示するための図面類も自動で生成されます。熟練した責任者が行っていた製造指示を自動化することで、スピーディーにミス無く製造・出荷することが可能になります。「ネスティング指示書」はパネルから材料をどのように効率的にとるかを自動的に計算して示し、カット機用データも自動生成します。そのほか「加工指示リスト」、「パーツ認識ラベル」、「組み立て指示書」、「検査シート」、「出荷ラベル」なども自動的に生成され、製造から出荷までトータルにサポートされます。こうした設計システムを導入するには莫大なコストがかかりましたが、「
」はクラウドに用意された様々な機能から、必要な機能だけを選択でき、月々数万円から導入が可能です。さらにプロユーザー向けのプランニング販売システム「mm/style」もスタートし、来春にはエンドユーザー向けの販売システム「カグル」もリリース予定で、プランニングから販売までを網羅したクラウドシステムへと進化を続けています。
ネスティング指示書。加工指示リスト。組み立て指示書。検査シート。販売プラットホーム「mm/sty le」と「カグル」。
木工機械メーカーが協働した「 JCP code」
「
」によって自動生成された製造指示データに従って、実際の製品を造るために開発されたのが「JCPcode」です。アミテック、ヤスダコーポレーション、丸仲商事、オカベといった木工加工機械メーカーが、メーカーの枠を超え共通コード制定のために協働しました。会場では「JCPcode」に対応したランニングソー、テノーナー、縁貼り機、ボーリングマシン、ダボ打ち機が工場のラインのように配置され、実際のパネルを加工するデモが開催されました。まず最初に活躍するのがアミテックの「全自動原板投入倉庫付きランニングソー」です。パネルの原板からネスティングの指示に従って必要なサイズにパネルを切り出し、次の工程へ自動的に搬送します。またロボットを使えば、パネルを移動させて自動的に無人でカットし、カットした材料が崩れないように積重ねることも可能です。
▲「JCPcode」のラベルを貼る機械。
切り出されたパネルの1枚1枚に「JCPcode」のQRコードがラベル貼り機によって自動で貼られます。JCPcodeには各工程の加工情報が入っていて、それを各加工機械が読み込んで、自動で加工を行っていきます。上はヤスダコーポレーションの「テノーナー」。パネル両端のほぞ加工、平板材の幅決め、面取り、欠き取り、溝突きなど、複雑な加工を行います。
新製品の全自動ランニングソー。従来は手作業でパネルをカットしていた小規模工場向けに、省スペース、手頃な価格、分かりやすい操作パネル、汎用性の高さなど、省力化と使いやすさを重視した設計です。
「JCPcode」の制定に尽力したアミテック代表松井忠彦さんに話を聞きました。「このコードの画期的な点は、複数のメーカーのマシンが、統一されたコードによって自動で動くことです。世界トップの専業メーカーのマシンが使え、メンテナンスも安心。システムが中央制御ではないため、ひとつの機械に不具合が出ても、ライン全体は止まりません。また工場の規模によって、どの工程を自動化するか判断しながらフレキシブルな導入も可能です。近年は金属やプラスチックが木材に置き換えられる時代となり、木材加工は成長産業になりました。その一方、木工場は高齢化や職人不足か「ら事業継承を諦めるところも多い。力仕事を減らしたり、誰でも作業できるよう自動化を進めたり、加工機械メーカーが協力しあって進めたい」といいます。
▲丸仲商事の「縁貼り機」は様々な機能を搭載。▼木口面に木口材を貼ったパネル。
次の工程はパネルの木口面に木口材を貼る「縁貼り機」の工程です。丸仲商事の縁貼り機は、パネルの角や端部の形状もきれいに仕上がります。次に丸仲商事の「ボーリングマシン」で、パネルのジョイント部分や棚板などに使うダボ穴をあけていきます。
▲オカベの「ダボ打ち機」。パネル側面にダボ穴を開け、接着剤を付けてからダボ打ちします。
オカベの「ダボ打ち機」によってパネルの側面にダボ穴を開け、接着剤を入れて木ダボを自動で打ち込みます。加工されたパネルを組み立て指示書に従って組み立てれば、キャビネットが完成します。会場のデモンストレーションではシンプルなオープン棚を製作しましたが、実際は引き出しや扉などを設けた複雑なキャビネットを製造できます。「
」を開発したドゥーマンズ代表二宮健一さんに話を聞きました。「従来、キャビネットの製造指示を行うためには、オペレーターによる膨大な間接業務が必要でした。しかし
とJCPcodeの連携によって間接業務が自動化され、各機械の加工指示がJCPcodeによってすべて自動で行われます。つまり、1台だけの特注も1000台の量産品も、製造の手間は変わらないのです」。生産者、エンドユーザー共に、ダイナミックに変化する時代。サイズや仕様を自在にできる
とJCPcodeは、
ユーザーの本当の希望をかなえる生産システムでした。
随筆誌『雑記帳』松本竣介の父・佐藤勝身は昭和6年頃から、谷口雅春により創設された「生長の家」に傾倒し、息子たちにも影響を与えます。生長の家の芸術雑誌『生命の芸術』の制作を兄・彬が手伝うようになると、竣介もそれに編集者としての松本竣介ならい、昭和8年10月の創刊から昭和11年10月の最終号まで、文章や挿絵を提供し編集も行いました。その後、家族は生長の家から離れますが、その経験は松本竣介の雑誌『雑記帳』の制作に生かされます。
10月8日〜23日、ギャラリー「ときの忘れもの」にて、松本竣介と『雑記帳』展がひらかれました。昭和11年、24歳の松本竣介は、妻・松本禎子の協力をうけて月刊随筆(エッセエ)雑誌『雑記帳』を創刊。創刊号〜14号まで、約1年3カ月にわたって刊行を続けました。定期刊行物のあかしともいえる「第三種郵便物認可」をとり、誌面で定期購読会員をつのり、表紙まわりには新聞社などの広告を掲載している事からも、画家仲間の同人誌や機関誌ではなく、独立した雑誌経営を目指していたことが伺えます。
▲ 猪熊弦一郎のエッセイと挿絵。(昭和11年 創刊号「自転車」)▼ 藤田嗣治のエッセイと挿絵。(昭和12年2月号「あした」)
創刊号の巻頭には、松本竣介が敬愛する宮沢賢治の遺稿「朝に就いての童話的構圖」を掲載しています(初出『天才人』第六輯昭和8年)。昭和11年、賢治は死後3年ほど経ったばかりで、一般にはまだあまり知られない作家でした。そのほか猪熊弦一郎、難波田龍起のほか、林芙美子といった作家も参加し、以降も佐藤春夫、萩原朔太郎、室生犀星、三好達治といった文人が寄稿。無名に近かった24歳の松本竣介は臆すること無く、自分が寄稿して欲しいと思う人物に、執筆を依頼しています。
右はフランスに渡りシュールレアリズムを日本に紹介した福沢一郎の作品「夜の鳥」(1956年)。下は松本竣介の作品。『雑記帳』第3号に掲載された挿絵の原画です。編集者の植田実さんは『生きているTATEMONO 松本竣介を読む』の中で、竣介の描く建築について「ここに描かれている建物は竣介の「設計」によることが歴然としている点である。線や面の抽象化・簡略化でそれを説明できる一面もあるが、多くは実際の建物のグラフィックなアレンジやコラージュでさえなく、あえて言うならば恣意的な設計であり、しかも大小個々の建物としてきちんと完結させているのである。」と考察しています。
『雑記帳』の創刊された昭和11年は、二・二六事件が勃発し、戦時ムードが急速に濃くなった時代。昭和8年には『蟹工船』の小林多喜二が獄死するなど、プロレタリアアートが弾圧されるなか、芸術家としての生き方、ヒューマニティーのあり方を真剣に模索する様子が伺えます。展覧会に合わせ制作された冊子『松本竣介と雑記帳』のなかで、美術評論家小松崎拓男氏は、『雑記帳』昭和12年2月号「日本的なものゝ明日」特集で藤田嗣治と福沢一郎が並んで掲載されていることに着目し「この特集が組まれた時点では、まだ二人の文章を並べて掲載することがかろうじてできたのだ。」と書いています。その後、藤田は軍部に協力して戦争画を描き、福沢は昭和16年治安維持法違反の嫌疑により瀧口修造と共に収監されています。ちなみに同特集には今和次郎が「建築に於いては」という文章を寄せていて、絵画、工学、音楽、文学をクロスオーバーした総合誌を作りたいという強い意思が、出版社名である「綜合工房」にも込められているようです。
2020年6月3日(水)〜5日(金) 10:00〜18:00(最終日は16:30 )
出展者募集は 1 月31 日(金)まで 会場は、東京ビッグサイト 青海展示棟
前回のInterior Lifestyle Tokyoから。毎年恒例の Interior LifestyleTokyo。次回 2020年 6月は、東京ビッグサイト青海展示棟で開催されることが発表されました。青海展示棟は東京オリンピックに備えて建設された総展示面積 23,200平米の仮設展示棟で、場所はゆりかもめ お台場海浜公園駅、青海駅、りんかい線 東京テレポート駅の近くです。2019年11月20日〜22日に開催されるIFFT/Interior LifestyleLivingにつづき、ディレクターに谷尻誠氏、吉田愛氏(SUPPOSE DESIGN OFFICE Co., Ltd.)を迎え、新しく生まれ変わった商談の場を提供するとのこと。オリンピック直前で盛り上がる臨海地区。国際的なショーが期待できそうです。
どこが変わったの? Reported by Colla:J in Collaboration with
東京モーターショー2019
Kenostein's Relativity
東京モーターショー 2019 100年に一度の変革に立ち向かうメーカーたち
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
東京オリンピックを来年夏に控え、東京モーターショーのメイン会場だったビッグサイト東館は「オリンピック・プレスセンター」として改装中です。そのため今年はビッグサイト西館と隣接する南館、そして1.5km離れた青海に分散されての開催でした。今回は特に、社会変革の動きが、車の持つ価値観を大きくー揺らしてゆくのを感じました。そこでまず、いま自動車業界が取り組まなければならない社会背景の一部を紹介します。
ここ数年、サプライヤーを含む自動車業界は、自動車が発明されてから初めて迎える100年に一度の技術変革に立ち向かっています。その大きな理由のひとつは、自動車の存在がICT(Information & Communication Technology)端末の一つになろうとしていることです。車の状態から道路状況まで、周辺環境を各種センサーで読み取り、それをネットワークを通じてデータ分析し、カーライフに役立てています。また通信機能を使い、様々なサービスを受けることも出来ます。
ホンダの八郷隆弘社長は「Honda e: TECHNOLOGY」を発表。2030年までに四輪車の世界販売の3分の2を電動化すると宣言しました。自宅のリビングをイメージした「Hona e」のインパネは木目調パネルと左右に広がるタッチパネルが特徴。モニターがスマホ画面のように機能し、サイドミラーは後方視界モニターに置き換えられています。
■「CASE」機能がメーカーの社運を左右する時代へ
「CASE」という概念が自動車業界にのしかかっています。
2016年パリモーターショーでメルセデス・ベンツの会長が経
営戦略語のなかで語った造語です。
C = Conected(コネクテッド、外部とネットを介して繋がること)
A = Autonomous(自動運転、語源はギリシャ語で「自律」の意)
S = Shared & Services(シェアリングとサービス)
E = Electric(電気自動車)
の 4つのテーマが今後、車の役割と価値を決めることになる
というものです。
C(コネクテッド)は、車が搭載する多種のセンサーによって
周囲の状況を把握し、安全運転に寄与したり通信機能を介
してエンターテインメントを享受したり、ICT端末として、あら
ゆるサービスに繋がり社会システムの一部になることです。
A(自動運転技術)は海外、国内を問わず、大手メーカーは
レベル 2(公道でハンドル操作と加速減速が連携して運転を
サポート)か、それにせまる技術を塔載しています。海外メー
カーの上級車のいくつかはレベル3(高速道路など特定の場
所で全ての操作を自動化。緊急時だけ運転者が操作)の技
術をすでに塔載していますが、法律の整備が技術進展に追い
つかず、あえてその性能を活かしていません。何かあったとき
いま住宅産業では、EVと住宅をつなぐV2H機器への注目が集まっています。「Hona e 」とセットになる充電装置パワーマネージャーは家庭の電力系統とEVをつなぎ、太陽光発電を充電に利用できます。車がガレージに居る時間が平均9割といわれるなか、EVを蓄電池として活用し、自然エネルギーの安定化や停電対策に役立てる動きが高まっています。。
メーカー責任なのか、ドライバー責任か、今はまだ法律的に不明解だからです。参考として、レベル 4は「特定の場所で全ての操作が完全自動化」、レベル 5は「あらゆる状況において操作が自動化、ハンドルもアクセルも不要」を目指しています。乗用車だけでなく、長距離輸送を行うトラック業界も自動運転技術に強い関心を持っています。運転手不足や、長時間運転の問題を解決する可能性が大きいと見込まれているからです。
S(シェアリングとサービス)については、日本ではタクシー業界が強く政治と結びついていて、法規制がなかなか緩みません。カーシェアは利用が加速していますが、ライドシェアが認
められていません。またライドシェアではありませんが、欧米で実用化しているウーバーは非常に便利です。空車を探したり、目的地を伝える必要もないし、車を降りる際に支払いをしなくていいのですから。我が国では利権が優先され、利便性を主体とした制度改革が行われません。お役所的、日本的な判断がこの分野では続いています。
E(電気自動車)は、世界的にシェアを拡大し続けています。ノルウェーでは 2025年までに電気自動車(EV)以外の販売を禁止。フランスでも2040年までにガソリン車、ディーゼル車の販売を禁止する方針を打ち出しているそうです。ヨ
日産リーフと、三菱電機EV用パワーコンディショナの展示。コンディショナによってEVの電力、太陽光発電、電力会社の電力の3種類をコントロールでき、太陽光発電を直接EVに蓄電し、それを家庭の電力として利用するなど、自宅でのオフグリッド発電が可能に。もちろん停電時にはEVに蓄電した電力が利用でき、太陽光発電も停電時に直接活用できます。
ーロッパの一部では、国を挙げて EV活用を打ち出してCO 2削減(地球温暖化対策)に貢献しています。国産メーカーでも、ホンダが初の EV専用車「HONDA e」を今年中にヨーロッパで、来年中盤に日本でも販売します。自動車業界は、この「CASE」を新たな指針として、4つのテーマをどう捉え、どう個性化、商品化してゆくかで将来が決まるでしょう。
■ Vehicle to Home 「車が電源」という新しい役割
いま住宅業界、特にハウスメーカーでは「ZEH住宅」が商品の中心です。ZEHは断熱性や省エネ性能を上げると同時に、太陽光発電などでエネルギーを創り、年間の一次消費エネルギー量(空調・給湯・照明・換気)の収支をプラスマイナス「ゼロ」にする住宅で、最近は発電した電力を貯める「蓄エネ」も推奨されています。今年は台風 15号、19号とまれにみる大災害が日本を襲い、千葉県などで送電鉄塔や電柱の倒壊による長期停電が発生し、人々の暮らしに大きなダメージを与えています。原発事故はもちろんですが、電気・ガス・水道といったインフラに、疑いもなく頼っている今の暮らし方に、多くの人々が改めて危機感を持ったのではないでしょうか。この事態を予測したかのように、モーターショーでは災害時
ホンダの燃料電池自動車(FCV)クラリティFUELCELL。水素を使う燃料電池は発電能力が高く、災害時の電力源として期待されています。クラリティにつながれた「Power Exporter9000」は、住宅3軒分にあたる最大9kVAを出力でき、100V6口、200V1口を備えています。住宅だけでなく避難所やコンビニの電力を賄うことも可能で、従来のガソリン式発電機より静かでクリーンです。V2L DC版に準拠しているので、トヨタのFCV MIRAIや日産リーフにも対応します。
の EV、PHV(プラグインハイブリッド)のメリットが紹介されていました。大容量のリチウムイオンバッテリーを搭載したEV、PHVは、系統連携電力(買電)との切り替えによって、車載バッテリーから住まいへ電気を供給することが可能です。バッテリー容量にもよりますが、EVの満充電であれば数日は普通に生活できます。さらに FCV(燃料電池電気自動車)には、強力な発電能力があり、水素を満充填しておけば一週間程は電力を供給できます。また EV、PHVは、自宅の太陽光発電で創った電気を充電して使うことも可能です。CO 2を大量に排出する発電方法に頼ること無く、自宅で創エネした再生可能エネルギーで、暮らしや車をまかなえる時代が来たのです。
■ショーの展示内容や企画のコンセプトが変わった
東京モーターショーの目玉は、新型車のお披露目が中心でした。それはもちろんありますが、企業としての社会的な取り組みの一端をストーリー展開するなど「展示の趣」が変化しつつあります。その一例が HONDAの展示です。バイク製造からスタートしたメーカーですが、1959年、世界の有力バイクメーカーがしのぎを削っていた過酷なイギリスのマン島TTレースに初参加。6位入賞したときの「RC142」が当時のそのままの姿で
HONDAの世界選手権参戦60周年を記念した展示。RA272(1965年)、McLaren HondaMP4/4(1988年)、レッドブルRB14(2019年カラー)など歴代のF1マシンが並びました。2019年、レッドブルRB15がオーストリアグランプリで優勝し、ホンダF1としては13年ぶりの優勝を果たしました。
ありました。今見てもバランスの美しいレーサーです。また参戦 2年目の1965年に F1レースで初優勝し、世界を驚かせたマシン「RA272」も、ドライブしたリッチー・ギンサーの名前をそのまま残した姿で展示されていました。その後、連戦連勝したセナのマシン「MP4」はもちろん、今年すでに2回優勝したレッドブルのマシンも。このようにHONDAブースの展示はカーメーカーとしての誇りをストーリー展開しています。これからのブランディング構築戦略は、見る人の記憶に残るストーリーでの「語り」が欠かせません。他メーカーは一部を除いて、ストーリーテリングが出来得ないのです。
■所有すること、体験することの喜びを喚起する
ミレニアル世代を中心とした所有に意味を見いださない今の時代価値に対し、各メーカーは体験の喜びを喚起出来るよう、特徴的で個性的なスタイリングを持つ車体を展示。セダンのように幅広い層を狙う車も大切ですが、より使い方を絞り込んだものが大手メーカー以外にも見られました。中でも注目を集めていたのが、非常にキュービックで派手なスタイリングのレクサスEVコンセプトカーでした。4輪インホイールモーター装備のこの車は EVの理想型です。しかし車の走行性能で非常に重要なのがバネ下重量(サスペンション下重量)で、それが軽量なほど走行性能があがります。一方、
注目を集めたレクサスのLF-30 Electrified。前後席を一度に開ける大きなガルウィングが特徴で、4輪独立のインホイールモーターによって、今までにない4輪それぞれを制御した操作性を実現。室内レイアウトの自由度もあがるそうです。
インホイールモーターはバネ下重量が重くなるので、慣性重量が増えて、走行時に車輪の路面追従性が悪くなります。この相反する要素をどう解決し、現実化するか注目したいと思いました。
■ 将来のユーザー育成イベント
今年のモーターショーは、テレビ CMが頻繁に流されました。一般向け企画のなかでも、特に子ども向けのイベントが数多く企画され、2つに分かれた会場をつなぐ1.5kmのシンボルロードの活かし方を練りに練ったようです。車と触れる「体験」を通じて「車の面白さ」を肌で感じてもらい、将来の顧客育成にしっかり取り組もうという意気込みを感じます。
■ 次回モーターショー内容予感
この次に来ると思われる自動車業界のテーマをあげました。
●MaaS(Mobirity as a Service)=都市計画などとも関連した次世代交通サービス。 ●LCA規制(Life Cycle Assessment)2030年までに車のライフサイクル(生産〜利用〜廃棄)視点で CO 2排出量の評価が行われる、などで、従来の「車単体の展示」を脱し、「社会全体の中での車のあり方」提案へ向かうと思われます。
有明と青海をつなぐ1.5kmのシンボルロードトヨタの燃料電池自動車MIRAIには、2代目となるMIRAIConceptが登場。では、パーソナルモビリティ試乗体験やキッ航続距離が約30%伸び、販売価格も現行の700万円台からかなり下がる予定ズカート体験、特別車の展示がされ、青海ので、20インチの大径タイヤを履いたスポーティな仕上がりです。「スタイリングや MEGAWEBでは、FUTUREEXPOが開走行性能を気に入って購入したら、たまたまFCVだった」というのが目標とのこ催されました。と。そんなユーザーは居ないと思いますが……
「有明エリア」と「青海エリア」をつなぐシャトルバスには、都営バスの量産型燃料電池バス(トヨタ)が使われました。普段は東京駅〜東京ビッグサイト路線で使われ、2020年オリンピックにあわせ本格導入される予定です。都営バスは「燃料電池バスによる災害時の電源供給に関する協定」を江東区と結び、災害時は避難所の電力に利用されます。なお、シャトルバスには会期中1時間半待ちの行列ができ、分散会場の課題となりました。▲壊れたおもちゃを直してくれる「おもちゃの病院」(トヨタ)。在庫のないパーツは3Dプリンターで作るそうです。
青海会場では、キッザニアとコラボした子ども向け職業体験プログラム「Out of KidZania in TMS2019」がひらかれ、来場者増に貢献。今回のモーターショーは前回の約2倍、130万人の来場者がありました。
ヤマハは農業用ドローンやヘリコプター、地上型ドローンを出展。空中と地上が連携した、農作業や土木作業の省力化を提案していました。他にもNECの大型ドローンや人命救助用ドローンなど、空と陸の連携は今後ますます広がりそうです。
ドラゴンシリーズ 63
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ゴッホのセルフィー
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は、
しかし
時々、出張の新幹線の中など静かな場所で、携帯のカメラ
で自分の写真を撮ることがあります。自分が今どんな表情をしていて、どんな状態なのか、何を感じているのか、顔の状態から精神的な内面や体調などを確認します。
その人の歴史が顔を作ると言われますが、その時々の年齢によって自分の状態や仕事の状況までもが、自分の顔に見事
に反映されていることに驚きます。
代から
を経験した時の変化には、本当に驚くことがありました。
代前半でドイツに渡り、写真を撮ることはあっても自分
が撮られることは数年間ありませんでした。それだけ孤独な時間だったとも言えますが、その時に撮られた一枚の写真に
代の若い自分とは思えないような、左右が曲がり引き
つった顔が写っていていました。ボサボサの天然パーマが伸び放題の髪に左右不対称の顔、そして薄いオレンジ色が消え
かかった
T
シャツ姿の写真を見ることは恐ろしいことで、
ポートレイトを見ることがとても恐ろしく、見てはならないもののように感じました。
自分に対する憎悪、嫌悪感、自虐的な不安感など様々な意識が顔に表れたのでしょう。その写真をすぐに見つけられないので、お見せできないのはとても残念なことです。しかし、誰にでも人生の経過した歴史があるはずです。同じ顔のままずっと存在してきた人など居るはずがありません。時々、過ぎ去った顔を見ることで、自分の心や生活を鮮明に思い返すことができます。それは恐ろしくもありますが、同時に愛情を感じる瞬間でもあるのです。
オランダの画家のヴィンセント・ヴァン・ゴッホは多くの自画像、セルフポートレイトを描いています。ゴッホは自画像を描くことで沢山の技法を試しています。麦わら帽子を被った自画像が多いのですが、それは自分が決して裕福な家庭ではなく、庶民として生まれた画家であることを表しています。
絵具の色も決して実際の色ではなく、感情の表現として、細部に絵具の色で気持ちを表したと言われています。目の色長い間その存在を封印してきました。ようやくこの年齢になって、その頃に経験した様々なことを微笑んで受け入れることができるようになりました。
20
年以上はその
10
代の海外生活
20
が絵によって違うのも、その時々の感情を表しています。色によって感情を表現することは、ゴッホ自身の絵画に対する試みであり、また、私たちの日常の感情表現に繋がるものではないかと思います。
ゴッホは本当に沢山のセルフポートレイトを残していますが、それは鏡に映る自分自身を描いたと言われています。毎日毎日、自分と向き合うことを繰り返す中で、どれだけ新しい心象としての表情の発見があったのでしょうか。ゴッホの絵画の素晴らしさは晩年になってますます磨かれていきますが、それは彼が続けてきた自己を見つめる行為によって独自の手法が生み出され、そこから風景や花、人物など多くの対象を描く際の、独自の表現へと広がっていったのではないかと思います。
画家は特に、セルフポートレイトによって象徴的な感情や考えを表現しているように感じます。現代の私たちは毎朝のように鏡で自分の顔を見ていますが、実際には自分がどのような顔を持った人間であり、そこに刻まれた本当の人生の軌跡を見ることを避けているようです。画家は自分から逃避することなく自分自身を見つめ続けることで、その作品の中に自分自身を投影しながら、作品と同化してゆくことが生き様だった
のではないでしょうか。
ゴッホや同時代のゴーギャン、その後のサルバドール・ダリからも尊敬され、沢山の画家に模倣されてきた、ジャン=フランソワ・ミレーの自画像には、ゴッホのような泥臭さは無く、若きミレーは端正な顔立ちの自分を描き、整えられた髪型や、流行りの洋服をまとった美しい姿を残しています。彼自身は農家の出身であり、農民に対する敬愛と尊厳を一生を掛けて描き続けたことは、自分の生い立ちや貧しさの中で生き抜いてゆく人々に対する愛情の表現であり、また、彼の代表作である作品のテーマとなっているのです。
私たちの人生を彼らの一生と重ねることはおこがましいことかもしれませんが、もっと自分自身に尊厳を持って、しっかりと見ることが大切だと感じます。そして画家のセルフポートレイトの果たした役割と同じように、自分の生き方を見つめることが必要なのかもしれません。僕自身は、その代のころの写真が、今では一番大切なセルフポートレイトになりました。
東京モーターショー2019からは、海外の自動車メーカーがほとんど姿を消しました。車が飽和状態となり人口も減る一方で
海外勢撤退のなか、
出展を続ける ALPINA「成長」の期待できない日本市場を見限り、伸び代の大きな市場を重視した結果と言われます。そんな中、1987年から一度も途絶えることなく、今回で17回目の出展となるニコルオートモビルズ(ALPINA日本総代理店)のブースを訪ねました。
ALPINAのブースでは1台のワールドプレミア(世界初公開)と1台のジャパンプレミア(日本初公開)のほか、計4台を展示。 Photo&Text by HERMINE
ALPINA日本総代理店のニコルオートモビルズは、元プロレーシングドライバーニコ・ローレケさんによって1982年に創業。東京青山と世田谷にショールームがあります。ドイツ本国の生産台数は年間1700台あまりで、自らとユーザーが求める品質を維持するため拡大はしないそうです。そのうち日本市場向けは300台。本国と英国に続く3位で、市場規模からすると多いといえるでしょう。同社によると出展を継続する理由は、過去5500台におよぶオーナーへの感謝だそうです。拡大が見込めない市場には注力しないという資本主義の理論からいえば、出展の継続はありえません。しかし、自動車を単なる移動手段では無い存在とするならば、大事な姿勢と思えました。ブースにはオーナーをもてなすラウンジが設けら
▲1979年からはじまった、日本におけるALPINAの歴史を紹介。れ、ALPINAのファクトリーで製作されたブランドカラーのソファが置かれていました。
▲ステアリングはブランドカラーであるブルー、グリーンのハンドステッチで縫製され、高いクラフトマンシップを物語ります。
ALPINAの白眉は豪華な内装です。最高レベルのレザーがシート、ドアトリム、インパネにまでふんだんに使用されています。これら内装の製作もALPINAのファクトリーで行っています。
BMWに手の込んだ改造を施しているにも関わらず、外観はBMWと大きな違いはありません。上の矢羽根(やばね)を模したグラフィックのストライプ(無い仕様も選択可)や、右下の20本スポークの大径ホイールなどが識別点です。
少し車に詳しい方なら、ALPINAのベース車はドイツ・ミュンヘンを本拠地とするBMWだという事に気づくでしょう。しかしALPINAは、エンジンや足回り、内外装などに手を加えた独自の仕様となっています。BMWのエンジンは高性能なことで知られていますが、ALPINAはそのエンジンを一人の職人が一度分解して独自のパーツを組み込み再び組み上げ、さらに高質で高性能な車両へと磨き上げています。一般的な言葉で表現するなら「改造車」なのですが、その製品はBMWのネットワークを通じて販売され、純正保証が付与されます。このような高付加価値モデルは、他のメーカーでは社内の別ブランドや専門部署を仕立てるなどで差別化する場合が殆どですが、ALPINAはBMWと資本提携などの関係は持っておらず、独立した自動車メーカーとして存在しています。一見分かりにくいこの特異な関係は、オーナー家同士の強い信頼関係がベースになっていると言われています。
盛岡の盛衰を伝える南昌荘
明治18年、実業家 瀬川安五郎によって建設された「南昌荘(なんしょうそう)」。約130年の間に所有者を何回もかえながら、現在は、いわて生活協同組合によって運営されています。
南昌荘の特徴のひとつが、庭園を眺めるためにつくられた中2階です。玄関を入ってすぐのところに階段があり、30畳の板の間から庭園を望みます。南昌荘を建てた実業家瀬川安五郎は、幕末の生糸売買で莫大な利益を得て、明治9年には秋田の荒川鉱山(銅山)を取得し「みちのくの鉱山王」と称されました。しかし戦争や凶作により行き詰まり、明治40年、当時の盛岡市長 大矢馬太に売却されました。
平福穂庵「アイヌ鮭漁図」
瀬川安五郎は、「夷酋列像」で知られる蠣崎波響や「蝦夷風俗十二ケ月屏風」の平沢屏山につづき、いわゆるアイヌ絵を描いた平福穂庵・平福百穂親子を後見して、函館の支店に滞在させました。穂庵は波響や屏山に学び、優れたアイヌ絵を残しています。2代目所有者の大矢馬太郎は、盛岡市長時代に中津川の洪水によって自邸を流され、数年間をここで過ごしました。洪水の要因となったのが市有林の大量伐採といわれ、その責任ととり市長を辞任した大矢馬太郎は国政に転じて国会議員になり、南昌荘を売却します。
南昌荘は結婚式の撮影や市民ギャラリー、コンサートなど様々な用途に活用されています。明治43年に南昌荘を引き継いた金田一国士は、若くして盛岡銀行頭取となり大正から昭和にかけて岩手の経済界を牽引し金田一財閥を築きました。岩手軽便鉄道や盛岡電気工業会社など35社の社長となり花巻温泉のリゾート化にも尽力しますが、金融恐慌や乱脈融資がたたり盛岡銀行が倒産。預金者に告訴され実刑判決を受けます。ちなみに宮沢賢治が設計した花巻温泉「南斜花壇」は国士のリゾート開発の一環として作られ、賢治作品にも国士と思われる人物がたびたび登場します。
金田一国士時代の庭園では、財界人を招いたパーティが頻繁に開かれていたようです。昭和7年、その跡をついだ赤澤多兵衛は、繊維・呉服の小売・卸業者でした。昭和62年まで赤澤家の自邸として使われてきましたが、時代の変化とともに手放されることになりました。一時はフジタ観光によって「盛岡椿山荘」として再生する案もありましたが、マンション開発業者による大規模開発が計画されました。それを防ごうと立ち上がったのが、昭和44設立の盛岡市民生協でした。当時、盛岡市民生協には市の半数以上の世帯が加盟し、出資金は7.4億円、100億円の事業規模がありました。購入額は出資金の約半分3.4億円にものぼりましたが、生協が購入を決めた理由は、明治、大正、昭和の財界人の歴史が染み込んだ歴史遺産であること、その元で働いた労働者による、労働の集積から作られたこと。経営者の失敗に学び、次世代を考える場ともなることでした。今は他の生協と合併し、県民の約半数が加盟するいわて生協となりました。南昌荘は組合員共有の財産となっています。
故郷の村外れに建てた西洋風の木造の家そこには広い階段とバルコニー、そして座り心地の良い椅子がある妻が泣いている子供に乳をあげるための一間ももうけようその幸せを思うと自然と笑みが浮かんでくる広い庭の片隅には大きな木を植え白塗りの腰掛を置こうそこで妻から食事の知らせがあるまでうつらうつらと過ごすのだ 石川啄木『家』
石川啄木が結婚後、わずか3週間ほどを家族と過ごした武家屋敷が「啄木新婚の家」として公開されています。啄木は明治38年、盛岡中学時代に出会った堀合節子と婚約し、結婚式の日取りを決めますが、上京した啄木は盛岡に戻る途中で行方をくらまし、結婚式は節子ひとりで挙げることになりました。結婚後も啄木は北海道、東京と流転を繰り返し、節子と暮らした時間はわずかでした。26歳、結核で亡くなくる少し前、啄木は妻との幸せな暮らしを夢みて、詩『家』を残しています。みどりの蔦に覆われた煉瓦造の洋館は、明治18年頃に建てられた「旧石井県令邸」です。岩手の2代目県令(知事)となった石井省一郎の私邸で、半地下階,1階,2階の煉瓦造3階建。石井は明治政府の初代土木局長として土木界に大きな業績を遺した人物で、盛岡駅(東北本線)の開業にともない駅前と市街地を結ぶ橋として架けられた「開運橋」は、市議会の反対を押し切り、石井県令が私費を投じて、わずか45日で完成させたともいわれます。石井省一郎は、仙台湾の野蒜築港や旧北上川の石井閘門の開発でも知られています。
初代「開運橋」は木の橋で、完成から1年ほどは、通行料1銭を徴収していました。のちに県に編入されます。
下ノ橋町の日本酒専門店「盛岡十一屋(じゅういちや)」。十一屋は1606年から続く商家で、もともとは武士の家系。城下町の形成に合わせて商人として盛岡に移住し、質屋や綿の販売、造り酒屋、食品販売など、時代にあわせた事業を展開してきました。盛岡十一屋では全国の日本酒を利き酒でき、気に入ったものを購入できます。
盛岡城跡公園(岩手公園)は、明治39年に近代公園の先駆者・長岡安平の設計で整備されました。良馬を多く産出する岩手は、武家にとって魅力的な土地でした。鎌倉時代から南北朝にかけての動乱によって各地に自然の丘や川を生かした城が作られ、戦国時代には石垣を築き防御が強化されていきます。豊臣秀吉の治世になると、岩手の北は南部氏、南は伊達氏の所領となり、100カ所以上あった城郭は一国一城令により、数カ所にまとめられました。居城を移すことを計画した南部氏は、雫石川、吉野川、北上川が合流する盛岡を藩主の城と決め、16世紀の終わりから南部信直によって築城が始まります。これが城下町盛岡の始まりとなりました。
北上川、中津川に突き出した高台に本丸が設けられ、城下には道や用水路が整備されました。盛岡は中核都市として発展し、岩手でいち早く電気の通った街を宮沢賢治が詩に残しています。
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