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Finland Mid Summar
フィンランド 田園湖水地方 夏至のすごし方
時空を超える美意識7月号 魂祭 2019 http://collaj.jp/
バルト海沿岸の田園地帯。フィンランド( L.ngstrand、Lohjaなど)、ラトビア(Odz ienas、Kokneseなど)、エストニア(To lkuse、Kurg jaなど)をめぐりました。
ロシアと国境を接し、それぞれに複雑な歴史背景をもつ、フィンランド・ラトビア・エストニア。現在は EU加盟国として国境を自由に行き来でき、通貨もユーロに統一されています。
魅力あふれる 北欧のルーラル(田園地方)果てしなく広がる田園や湖、湿原が 3国に共通した魅力。それを日本に広く知ってもらおうと企画された CAITO主催のプレスツアーに、コラージ編集部が参加しました。今月は前編として、フィンランド田園地帯の旅をお届けまします。
日本から最も近いEU加盟国のひとつフィンランド。日本をはじめアジア圏からの観光客が増え、ヨーロッパの玄関口としてヘルシンキ・ヴァンター国際空港は大拡張工事の最中でした。森と湖の国というイメージをもつフィンランドですが、実際に観光客が訪れるのはヘルシンキ、トゥルクといった都市が中心で、その状況はラトビアやエストニアも同様です。そこで、フィンランド、ラトビア、エストニアのルーラル(田園地帯)の愉しみを日本に伝え、地元の観光事業者(宿泊や体験施設)活性化のため「CAITO(META CLUSTER FOR ATTRACTING THE JAPANESE TOURISMMARKET)」が結成され、PR活動の一環としてモニターツアーやプレスツアーを実施。運営費の一部はヨーロッパ地域開発基金によって調達されています。今回の旅は、まずヘルシンキ空港からフィンランド南西部へ向かいました。バルト海を挟んでスウェーデンの対岸にあたるこの地域には、8世紀頃からスウェーデンの農民が移り住み、今もスウェーデン語を使う人の多い地域です。道路標識もスウェーデン語とフィンランド語が併記され、スウェーデンでよく見られるベンガラの赤い建物が多いのも特徴です。フィンランドは12世紀から600年もの間スウェーデン王国の支配を受け、今も公用語としてスウェーデン語が小学校からの必須科目になっています。支配者層や知識人層が主にスウェーデン語を使っていたため、文学作品や学術論文にはスウェーデン語のものも多く、ちなみにトーベ・ヤンソン「ムーミン」の原作もスウェーデン語です。
新連載
ほんの少しの光を見つけてかがやく氷のカケラが降ってくる
降ってきて降ってきて舞い上がる
蝶
氷から生まれたんじゃないかな
原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
VIPも愛した海辺のスモークサウナ〈 Villa L.ngstrand 〉
ヘルシンキから車で1時間30分ほどの「VillaL.ngstrand(ヴィラ・ラングストラント)」は、フィンランド南部特有のアーキペラゴ(多島海)の一画にあり、湖畔のようにも見える浜辺は、バルト海に面しています。1976〜78年に建設されたプレミアムなコテージで、オーナーのアンティさんとハンナさんが、家庭的な体験型宿泊施設を通年にわたり運営しています。浜辺からすぐに深くなるバルト海の入り江。19世紀までは大型の商船も行き来していたそうです。いまもヘルシンキから船でアクセスできます。
取材日の6月18〜23日は、最も昼の長い夏至のころ。バカンスの始まりを告げる季節でもあります。 VillaL.ngstrandのまわりにも海辺のサマーコテージが点在し、夏の日ざしを家族や友人と一緒にゆったりと愉しみます。そうした北欧のバカンスを体験できるのが、このヴィラの魅力です。ウェルカムドリンクとしてハンナさんが用意してくれたのは、スプルースの若芽から作られたシャンパン風ノンアルコールドリンク「Lagrima Arctica」。伝統的な「カレリアパイ」は米の粥をパイで包んで焼いた素朴な味のお菓子です。
一枚岩の滑らかな岩盤。約1万年前まで、フィンランドの大地は2000〜4000mの氷河に覆われていました。それが溶け、岩盤が浮き上がってきたのが現在のフィンランドの地盤です。
サマーコテージに欠かせないのが「サウナ」です。 VillaL.ngstrandのサウナ付きコテージは、フィンランドを代表する建築家カイヤ&ヘイッキ・シレンによって設計されました。
オタニエミ・チャペルやヘルシンキ・イムピラタロで知られるカイヤ&ヘイッキ・シレンによる森に溶け込むようなログハウスは、岩盤の上に立つ高床式になっています。本館は2棟に分かれ、手前にはテラス、リビング、更衣室。渡り廊下の奥にサウナがあります。
インナーテラス式のデッキには煖炉が備えられています。
このヴィラは元々、会社の施設として建設され、ボールト状天井のゆったりしたリビングは、会社の接待にも使われてきました。サウナを利用した会議や接待は、フィンランドでは一般的に行われているそうです。ここは、フィンランド戦後史に大きな足跡を残した政治家ウルホ・カレヴァ・ケッコネンがよく訪れたことでも知られています。ケッコネンは1950年から首相を5年、大統領を26年にわたりつとめ、ソ連や西側諸国と外交戦術を繰り広げました。ソ連のフルシチョフ、ブレジネフとサウナで会議を行い「サウナ外交」ともいわれました。白樺の若枝を束ねた「wh isk」で体を叩き、気持ちよくサウナに入るための作法をアンティさんが教えてくれました。1340kmにもおよぶロシア国境線をもつフィンランドが、第二次世界大戦後に東欧諸国やバルト3国のようなロシア化を免れた理由は、近代史の謎とされてきました。その要因のひとつは、東西冷戦のもと「大国間の利害紛争の外に留まる」という現実路線を貫いたためと考えられています。ソ連の内政干渉を巧みにかわし、東西の中立性を確保してNATOにもワルシャワ条約機構にも加盟しませんでした。ケッコネンはサウナ外交を通してフルシチョフと個人的な関係を築く一方で、米国を頻繁に訪問して友好関係の構築につとめました。長期政権を維持するための密室外交と非難されつつも、ケッコネンはフィンランド独自の中立を維持することに努めました。
アンティさんが薪を燃やしてサウナの火を入れてくれました。フィンランドではサウナは神聖な空間とされ、出産や死者を清める場としても使われてきました。
薪に火をつけると煙突から煙が出てきます。サウナが充分に熱くなってから、アンティさんはじめ、ラーセボリ観光局のVilleVuorelmaさんやハンコ観光局のJonLundstr.mさんと一緒にサウナに入りました。体の芯から汗をかき、「whisk」で互いの身体を叩きあうと、国の違い、言葉の違いを超えた親近感が生まれます。ケッコネンが行った重要なサウナ外交のひとつに、欧州安全保障協力会議(1975)の後、自邸のサウナで行われたブレジネフ書記長、フォード大統領との会談があります。フィンランドの中立に、サウナは大きな役割を果たしたといえるかもしれません。
カイヤ&ヘイッキ・シレンによるもうひとつの重要な建物が、スモークサウナ小屋です。煙突のない古典的なサウナで、中を薪の煙で満たしてゆっくりと温めます。
スモークサウナの準備には時間がかかります。2トンものサウナストーンを載せた窯で薪を焚き、ハンナさんが朝から支度をしてくれました。30分くらい前にサウナストーンに水をかけ、蒸気を発生させます。スモークサウナは火事になりやすいので屋根に水をかけておくそうです。
一般的なサウナよりも多くの汗が吹き出し、魂の開放を感じるスモークサウナ。wh iskで体を叩きあうと、若葉の香りがサウナに充満します。
サウナで温まったら、水を沢山飲んでからバルト海でクールダウン。この日は水温20℃と例年になく暖かいそうですが、かなり冷たく感じました。べつに暖かいジャグジーも用意されています。
VillaL.ngstrandは通年営業していて、冬は氷に穴をあけ海に入ることも可能。凍てついた星空を眺めたり、真っ暗な中でのサウナも格別だそうです。左は新しく建てられたファミリー向けの広々したログハウス。キッチンを備え、ケータリングを頼むこともできます。
サウナのあと、ハンナさんが手料理でもてしてくれました。
フィンランドの野菜や穀物は、ヨーロッパの中でも一番クリーンといわれています。いまは新ジャガの季節で、普段より高く取り引きされるそうです。スモークサーモンにはホットスモークとコールドスモークがあり、これは木のチップで燻製したホットスモーク。モルトを使った黒パンはスウェーデンに多く、近くの島で焼かれているそうです。
ヨーコの旅日記第20信インドのビッグボス川津陽子メッセフランクフルトジャパン
▲ ムンバイ空港2013→2018 ▲ バラナシの鉄道駅2013→2018 ▲メーラトのハイウェイ2014→2018
会う度、すごく気になる人がいる。それは、我らがグループのインド支社の代表である。タイトルを「インドのビッグボス」としたが、実は彼のオリジンはウガンダで、しかもイギリスで生まれ育ったという背景を持つ。サッカーと Barを心から愛する完全なイギリス人である。そして彼はウィットに富んでいて、会話の中に時々みんな際には、今日のインド市場や産業の動向、そしてインドな成長を遂げているという話があった。たったの 5年程をドッと笑わせるコメントを入れてくる。ツボにはまりがち支社の現況などを、我ら日本オフィスのスタッフにプレゼ度で大きく変わった空港、鉄道、高速道路の様子をビフな私は会議中だろうが大笑いが止まらない時がある。ンしてくれる。インド市場に関心がある日本の企業に、イォア&アフターの画像を交え説明してくれた(上の写真)。
ンドの見本市を紹介し、出展・来場誘致やサポートを行これが同じ場所か? と目を疑うほどの変化である。そんな彼が先日、日本にやってきた。う役割をも担う我々にとっては非常に貴重な機会である。また、そこで働く人々の習性やマインドの変化についても彼の来日は不定期で毎年あるわけではないが、来社の今回のプレゼンは冒頭で、インドのインフラがいかに急速触れ、彼が代表に着任した 2010年当初、依頼してい
▲ MF Indiaの見本市。 Interior Lifestyle ▲ Media Expo Mumbai(広告メディア機器) ▲ Fitex India(フィットネス関連機器) ▲ IEE(エレベーター・エスカレーター関連)
た施工会社の作業員の動きがいかにスローで苦労させらンスを展開している。スタッフ数も、ムンバイ支社とデリごし方から普段食べている物に関することまで、とにかくれたか話してくれた。見本市オープン前日にも関わらず、ー支社で合計すると今では 100名強に増えた。まさに短色々。そして、当たり前のことだが、苦労と努力無しでは
作業を放ったらかしで昼寝休憩している作業員の姿がホ 期間で急成長を遂げている。頻繁にインドとの間を行き 何も成し遂げられないのだということ、何事もスピーディー
ール内のあちらこちらにあり、自らが一晩中ホール中を歩 来しつつも、遠いイギリスにいながら、他の国籍・文化 な判断と行動が重要だというようなことを、話す度に毎回
き回って彼らを叩き起こしては作業に就かせ、なんとかオ を背景に持つスタッフを率いて、ここまで大きい組織を 思い知らされるのである。
ープンの朝を迎えるというような状況。今日では状況は好 創り上げ、まとめ上げるには、並々ならぬ苦労があったと 物事は常に早いスピードで変わっていく、遅れを取らぬよ
転したそうだが。 思う。現在の担当部署がら、彼が来日すると、主催見 う常にアンテナを張って最新情報を掴みに行け、今回はそ
そんな苦労も笑いに変えて我々に共有してくれる。 本市に関連する機関や企業に一緒に出向く機会がある。 んな教えをもらったように思う。
空き時間や移動時間に、わたしはいつも彼にさまざまな さて7月も半ばに入り、いよいよ Interior Lifestyle Tokyo
インド市場の成長を象徴するかのように、同支社主催の 質問を投げかける。聞きたいことが山ほどあるのだ。 の開催である。
見本市はさまざまな産業分野を対象に瞬く間に増えてい イギリスの自宅での働き方、遠隔でのムンバイ・デリーオ 再び、各国からボスや同僚たちがやって来る。賑やかであ
き、今では年間約 20本の見本市、約 30本のカンファレ フィスのスタッフとのコミュニケーション方法、休日の過 り、また学びの時間でもある一週間になりそうだ。
ビジネスニーズにも対応した保養型ホテル〈 Hotel Scandic Siuntio 〉
ホテルのロビーには、、フィンランド初の女性大臣となったミーナ・シッランパーの肖像が掲げられていまいた。貧しい家に生まれ、児童労働も経験したシッランパーは、1907年に最初の女性議員(19人)のひとりに選出され、以後34年間議員をつとめながら、労働条件の改善や女性の地位向上、母子の保護施設の設立など先進的な活動を行い、1926年には社会政策副大臣となりました。また自然保護区の制定を推進し、ホテルのまわりも保護区となっています。
ロホヤ湖 Lohja
ヘルシンキから西へ50kmほどの湖畔の街ロホヤ。16世紀の壁画で知られる「聖ラウリ教会」のある街は、石灰岩の産地として発展してきました。
街の歴史を伝える「 LohjaMuseum」にて、ロホヤ市公認ガイドのビルベさんが、ロホヤ北部の民族衣装を着て出迎えてくれました。この衣装は1920年代、フィンランドの内戦終結を記念してデザインされたそうで、ロホヤ南部のスウェーデン語圏バージョンは、スカーフやエプロンなどがブルーになるそうです。後ろの黄色い建物は、1978年まで使われていた元牧師館。西フィンランド全域にキリスト教が布教されたのは13世紀頃で、スウェーデン王国の統治と共に広がりました。16世紀の宗教改革によってスウェーデン王家がプロテスタントに改宗すると、フィンランドの教会もプロテスタントに属するようになります。
博物館には、牧師館に付属した農家の家や納屋が保存公開されています。13世紀から政治経済をスウェーデン王国に支配されてきたフィンランドでしたが、1640年代、トゥルクにオーボ王立アカデミーが設立されると、フィンランド人の知識人階級が生まれます。フィンランド語の父と呼ばれるオーボ司教ミカエル・アグリコラは、宗教改革の時にラテン語の聖書をフィンランド語に翻訳。初めてフィンランド語の文法をまとめました。やがて1808年、ナポレオンの圧力をきっかけに始まった「フィンランド戦争」で、ロシア軍とスウェーデン軍の戦いが繰り広げられ、ロシア軍が勝利。スウェーデンはフィンランドをロシアに割譲し、600年にわたるスウェーデン支配が終わりを迎えました。
牛舎として使われていた建物の中では、ロホヤの動物写真家ヘッキ・ヴィッラモさんの作品展がひらかれていました。1809年からロシアに支配された約110年間、フィンランドは大公国として一定の自治を与えられ、国家としての体制を整えました。国民の大半は農民で、小作農民(トルッパリ)から広大な土地をもつ自作農まで経済レベルは様々でした。19世紀中頃、ロシア皇帝アレクサンドル2世の時代には商業の自由も確保され、農民文化を自らのアイデンティティとした「フェンノマン」気質が生まれます。その象徴となったのが、ユーハン・W・スメルマンです。フィンランド語新聞「農民の友」を発行し、のちに経済大臣になると、金融改革や鉄道の敷設を実行して飢饉に対する経済援助を講じるなど、ナショナリズム運動のカリスマとなります。
農家の建物の中には、19世紀の暮らしぶりが再現されています。天井に吊るされたドーナツ状のものは乾燥させた黒パンの保存食で、お米の粥も食べていました。19世紀半ばになると農業の機械化が進み、小作農民(トルッパリ)が失業する一方で、国土の7割を占める森林を生かした林業が盛んになります。輸送に便利な川の河口には製材所や製紙工場がたち、フィンランドを代表する産業となりました。1870年にはスメルマンの働きでサンクトペテルブルク〜フィンランドをつなぐ鉄道が開通し、ロシアとの経済的つながりを強固にしました。古い生地を利用したフィンランドの裂き織り。最近は裂き織りのリサイクルマットが流行っているそうです。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
アメリカ小売業の著しい変化、この 2年
ワシントン D.Cで感じた
非上場企業の着実な成長と顧客支持
いま、全米で注目を集める2つの有力スーパーマーケット
が、ワシントン D.Cに競って出店しています。ひとつは北
から。ニューヨーク州オンタリオ湖に面するロチェスターに
本部をかまえる「Wegman s(ウェグマンズ)」。もうひとつ
は南から。フロリダ州ディズニーワールドに程近いレイクラ
ンドを本拠とする「Publix(パブリックス)」で、ほぼ同時
期に進出してきました。
この 2つのチェーンは、ひとつの店舗規模が全く異なります。1916年創業の「ウェグマンズ」は、どこも日本のスーパーマーケットの概念からは想像できない、10,000㎡(3,000坪)クラスの巨大店舗です。今回訪れたバージニア州シャーロッツビル店はワシントン D.Cの州境から比較
約 13,000㎡規模の Wegmansシャーロッツビル店。
的近く、面積約 13,000㎡。小型のスーパーマーケットなら一店舗くらい入りそうな広さのイートインコーナーがあり、その横には快適なパブまでも備わっています。ウェグマンズは東海岸沿いのいくつかの州に約 80店舗展開し、従業員数は 48,000人超、年間売上額は 92億ドル(1ドル110円として、1兆 120億円)に上ります。一方の「Publix(パブリックス)」は1930年設立で、アメリカ南東部の 6州に1,210店舗以上をかまえ、従業員数は193,000人。年間 345.6億ドル(1ドル 110円として、3兆 8005億円)という巨額な売り上げを誇ります。「パブリックス」は、ナショナルチェーン(全国展開型)ではなくアメリカ最大のリージョナル(地域密着)食料品チェーンです。訪れた店の規模は、私の感覚では 4,500㎡を超える SSM(スーパー・スーパー・マーケット)でした。とてもスタンダードなスーパーマーケットですが、店舗や商品のクォリティーが抜群です。昨年、消費者目線のリテールコンサルティング会社「マーケット・フォース・インフォメーション」が約 12,000人の消費者を対象とした好感度調査では、「ウェグマンズ」と「パブリックス」が同率第 1位に輝きました。その評価のポイントは、会計の速さ、取扱商品の豊富さ、店内のクリンリネス(清潔感)等でした。
広い全米の中で、これだけの売り上げと消費者の支持を集めている2社ですが、実は両者とも非上場企業なのです。
「ウェグマンズ」は個人所有会社であり家族経営を続けています。「パブリックス」も個人所有会社で、こちらは社員持ち株会社なのです。いうまでもなく株式上場は資金調達には有利ですが、4半期、半期、年間の売り上げに対する利益確保に株主の要求が集中します。また自社の経営状況に関わらず、国際情勢の変化などによって過敏なほどに株価が上下します。株価の上昇を求められる雇われ社長が、ロングスパンの経営計画を実行し難いのは当然のことです。欧米では、MBA的な視点から短期で利益を稼ぎ出す「経営のプロ」がもてはやされました。経営のプロの中には、社会貢献に重きを置く人もいますが、多くの経営者は株主
Wegmansの外観。
Publixの外観。
の要望に応えるため、利益を稼ぎだすことに全力を注いでいます。しかしここに来て、人々の求める企業のあり方が急速に変わって来たと感じます。株主ファーストではなく、従業員ファーストという古くて新しい価値観です。それに向かって事業そのもの、経営の主軸が変わりはじめました。
「ウェグマンズ」にも「パブリックス」にも共通して強く感じられることは、従業員が、この会社を好きで好きでたまらなく、各人が強いプライドを持って嬉々として立ち働いていることです。この 2社はまず従業員を大切にして、しっかりしたインセンティブを与え、継続的に教育を実施して育てている優良企業なのです。非上場企業である利点は、日本のコンビニのように日々の天候に一喜一憂したり、ショートスパンでの売り上に気を奪われることが無いことです。変化の激しい政治情勢、社会動向、人々の価値観変化、ジェネレーション指向研究、ITやAI投資等、時代の進展に呼応した構想の見直しなど、強い信念を持つ経営者たちは上場企業よりも柔軟でロングスパンな立案をスピーディーに行っています。コンパクトな経営陣、いいかえれば理念を共有する少数精鋭だからこそ、素早い決断が可能なのでしょう。
ています。代表的なのは、美味しくてしかも『2ドル 99セントのワイン』でしょうか。クリアーなミルに入れられた『ヒ20世紀的価値観な企業の目標は、規模の拡大や徹底しマラヤの塩』は、ミネラルを豊富に含んだ淡いピンク色のた作業効率の追求であり、目標達成のため長時間労働を岩塩が食卓のアクセントになります。10年程前、ある業強いられました。しかし、そこから脱することの出来ない界関係者が視察の際に、店の棚が空いてしまうほどお土企業は、新しい働き方を求める優秀な人材からそっぽを産に買い込みました。それで知られたためか、今では日本向かれてしまいます。いま従業員の喜びは、自分の働きがのスーパーマーケットにも似たような商品が並んでいます。企業成長に反映され、正当な評価となって自分に帰ってくこのチェーンが対象とするのは「ローインカム、ハイエデュることです。それが表にも見えてくる企業が、お客様の支ケーション」な人々で、例えば学校の先生などを想定して持を獲得しているのです。多くの消費者は自分たちにとっいます。つまりちょっと高学歴な人の知性をくすぐり、味はて何が大切か、もう充分にわかっているのです。美味しく、そしてロープライスな商品を
自ら企画し、多彩なバリエーションで豊余談ですが、先の高感度調査で第 3位になったのが富に揃えています。そのため何回行って
「Trader Joe's(トレーダー・ジョーズ)」でした。ドイツも発見があり興味が尽きません。今回資本の企業ですが、上記 2社に負けじとも劣らず従業員取り上げたどのチェーンもアメリカ社会、が楽しそうに立ち働く企業なのです。店舗のデザインは手経済の底力を十二分に感じさせます。造り感にあふれる木材をポイントに配し、親しみやすい暖かい空間でお客様を迎えます。次号からは数回にわけて、話題の「キャ並べられている商品は、全て商品開発担当者が世界中をッシュレス決済」やオーガニックの今後駆け回り、価値ある商品を発見し、特徴が明快で美味しについて書きたいと思います。くかつリーズナブルプライスなプラーベートブランドに育てPublixの店内。
ウーシマー県で最大の湖ロホヤ湖は面積122k㎡。湖には複雑な地形の入り江と約250の島があり、100年以上前から多くのサマーコテージが建てられました。そこで異色を放つのが、水上レストラン「Kaljaasi -Lohjanlauttaravintola」です。湖の中央にあるため、オーナーのヴィロライネンさんにボートで迎えに来てもらいます。
ボートに乗って5分ほどでレストランに着きます。
ボートが到着すると、ヴィロライネンさん一家が出迎えてくれました。足元に気をつけて店内へ。
ヴィロライネンさん一家は、5月初旬から9月中ごろまで、このレストランで寝泊まりしながら家族で店を切り盛りしています。営業時間は昼から深夜まで、天候が悪くても店を閉めることはないそうです(ただし客が来られないことはある)。店は26年前から続いていて、創業者が高齢になったため、ヴィロライネンさんが経営を引き継ぎました。
スモークサーモンと湖でとれるノーザンホワイトフィシュのオープンサンド。地元産のアップルワイン「Ciderberg」と一緒に頂きました。Ciderbergはロホヤ湖のLohjansaari島にあるワイナリーで、名産のリンゴやベリー類のワイン、サイダー、スパークリングワインなどを生産し、レストランも併設しています。
ショーケースに飾られた「ルーネベリタルト」。国民的詩人ユーハン・ルードヴィーグ・ルーネベリの誕生日2月5日前後は、全国でルーネベリタルトが食べられます。ルーネベリが1830年に発表した処女詩集『詩』に描かれた農夫パーヴォは、フィンランド人の理想的人物像といわれ、フィンランド戦争を題材とした小説『騎手ストールの物語』冒頭の詩「我が祖国」は、フィンランド国歌となりました。オーボ王立アカデミーで学んだルーネベリの作品はスウェーデン語で書かれていました。
サーリヤルヴィの荒野にて霜降り立ちぬ荒野にて農夫パーヴォは暮らしけり沼地を起こし 鍛えた腕で精を出す神の恩恵 願いつつ妻と子と わずかな糧を口にしぬ
額に汗を浮かべては 水路を敷いて 鋤を入れて 刈り入れる春の雪消は 麦を半分持ち去って夏の霙は 穂先を半分なぎ倒し秋の霜は 残した糧を根こそぎ奪い去る
処女詩集『詩』より詩篇「田園詩と警句二十五番」
ロホヤ湖畔に佇む「J.rvi(ヤルヴィ)Caf. & Bar」は、シベリウスなど文化人が集ったサマーハウスでした。日本でもよく知られるシベリウスの交響詩「フィンランディア」は、19世紀末、ロシア皇帝ニコライ2世による圧政(新聞など言論弾圧、ロシア語の強要、フィンランド軍の廃止等)に苦しめられていたフィンランド国民の愛国心をかきたてました。1905年、ロシアを隔てた隣国日本が日本海海戦でバルチック艦隊を壊滅したニュースも、フィンランド国民に一条の光をもたらしました。
ユーゲントスティール様式のユニークな建物は20世紀はじめに建てられ、ヘルシンキから訪れた作家や作曲家が、芸術談義に花を咲かせました。
本日の前菜は「SAMONSASHIMI」(サーモンのコールドスモーク)、オックステールの煮込み、マッシュルームのピタサンド、ギリシャ風のギロピタ。メインはヘラジカのホットドックでした。フィンランドには巨大なヘラジカが沢山生息していて、バスの移動中にも若いヘラジカを見かけました。個体数を調整するため、一定の狩猟枠が設けられています。
グリテンフリーやベジタリアン食も用意されています。
湖畔のトレーラーハウス〈 Luomukoti mini house 〉
トニー・ゴルツさんがデザインから製作までセルフビルドした「Luomukoti(オーガニックハウス)」。檜皮葺のような外装はスプルースとパイン、内装はアスペンの木を張っています。ヘンプ(麻)で断熱した室内は思ったよりも広々していて、日本人から譲り受けた中古の畳が敷かれ、キッチンやバスルーム、薪ストーブも備えています。
ランドクルーザーで牽引し、湖畔を移動するエコツーリズムを開催したいとトニーさん。愛読書は谷崎潤一郎で、日本の伝統建築にインスパイアされたそうです。
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ひょんなことから英語でスピーチをすることになった。
〜5人のグループで一人3分。テーマはなんでも。出
身地、趣味、得意な料理などを織り込みながら自己紹介をする。
発表の仕方を英語でレクチャーされる。まずは注目を集めること。抑揚をつけて大きな声で話すこと。ジェスチュアーを入れて聞いている人に興味を持ってもらうことなどなど ……発表は2週間後。
とんでもないところに足を踏み入れたものだと、逃げ出す口実を考えたが、周りはみんなやる気でいる。お手上げ状態だったが、口実が見つからないまま時は刻々と迫る。当日、調子が悪くなることもあり、としながら、とりあえずテーマは、住んでいる街のこと、通っている市民大学やボランティア活動のことを話すことにした。
日本語で650字ほど。翻訳ソフトでなんとか英語には置き換えられたが、長い綴りが多く読めない単語ばかり。声に出して読もうにも、どうにも前に進まない。「歯が立たない」とはこういう時に使うのかと、妙に納得しながら書き直すこと4回。元原稿を500字まで減らし、できるだけで短いセンテンスにして、難しい単語は別の言い方に変えて、自分でもなんとか通じる英文に仕上げた。
昔買ったまま眠っていた電子辞書を引っ張り出し、読めない単語にマーカをつけて、片っ端からカタカナルビを打つ。が、イヤホーンから聞こえる発音は、何度聞いても口に乗らない。アクセントのつけ方もよくわからない。英語の原稿を読みながら、イヤホーンをして、何度も何度も同じところで舌が止まる。ルビを読んでも言葉として出てこない。悪戦苦闘しながら2日間。ようやく英文原稿を一通り声に出して読むことができるようになった。
テープにとってみると2分
秒。丁度いい。なんとか
これでいけるかと仕上がったのは発表の前日。あとは繰り返し繰り返し、つっかかった単語がスムーズに、抑揚をつけて話せるように練習した。発表は、プロジェクターを使うのもよし、写真を見せるのもよし、ポスターを
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Hello Every One!
作るのもよし。市民大学の様子や子供相手の楽しいボランティアの写真を紹介したいと思ったが、とてもそんな余裕はない。スピーチをするのが精一杯。写真を見せながらなどは到底無理と諦めた。
発表当日。体調は悪くならなかった。順番はトランプカード。トリだけにはならないように願って最後から2番目。
プロジエクターで音楽をつけて自分の作品を紹介する人、たくさんの絵を描いて故郷を紹介する人、写真で郷土の名産を自慢する人、得意な料理を絵で説明する人、小道具を使い趣味を紹介する人など、
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それぞれ工夫を凝らして、スピーチをこなしている。
あぁ、無理してでも写真を探せばよかったと後悔してももう遅い。開き直って行くしかない。みんなのスピーチを聴きながら、ひとつもったい無いなぁと思ったことは、声が小さい。写真や絵はとてもいいのだが、声が小さすぎて何を言っているのか聞き取れない。
留学経験がある人が2人ほど、とても綺麗な発音をしていたが、大半は声は小さく抑揚もない。スピーチなんだから、言いたいことをはっきりと、モジモジしないで言う。これしかない。と、覚悟を決めた。
「Hello,Everyone. My name (^-^
is KAZUKO UCHIDA.」と、ここは原稿を見ないで、笑顔で挨拶。みんな一斉にこっちを向いている。一瞬たじろいだが、おもむろに原稿を机の上に乗せて、ゆっくりと大きな声で読む。途中、行がずれて目で追えなくなったが、「sorry」と気をとりなおし、最後は、一呼吸して「 Thank you」と、顔を上げて締めくくった。喉がカラカラである。質問は、市民大学は歳からしか入れないのか、子供相手のボランティはどんなことをするのかなど、英語のスピーチはなんとか通じたようだった。最後に、みんなからの評価表が配られた。「とても分かりやすい英語でした」「ボランティアの素晴らしさが伝わりました」など、思いもよらないコメントに驚いた。中には、「人生相談をさせていただきたい」「年を重ねても学びを続けること素晴らしいです。私も頑張ります」などと、年の功で幾分得をしたかもしれないと思ったが、それも悪くない。悪戦苦闘の英語スピーチはこれにて終了。その日のビールは格別だったことはいうまでもない。若い人の真面目さと前向きな姿勢に触れる素敵な時間を過ごせたことに、乾杯!! 「今日用と今日行く」を「教養と教育」につなげていけるように、乾杯!!
J.rvi Caf. & Barの前でガーデナーのリッタ・ライネさんと待ち合わせ。リッタさんの自宅まで、湖畔をウォーキングしました。カイツブリなど、ロホヤ湖畔では貴重な野鳥も観察できます。
石灰質の土壌で比較的温暖なロホヤ湖畔は、広葉樹の種類も豊富で、ヘーゼルナッツなど、他には見られない果実もなります。夏至を過ぎると、ブルーベリーはじめベリー類のシーズンがやってきます。フィンランドには「自然享受権」があり、自然に生えている木の実やキノコなど、誰でも採っていい権利が保証されています(保護種など一部例外あり)。
ガーデナーリッタ・ライネさんの自邸を訪問しました。4軒を1棟にまとめ、岩盤の傾斜地に建てられた大きな住宅です。3年前、この家に移り住んでからご主人と一緒に改装と造園をすすめてきました。ご主人はもと日本のフィンランド大使館員で、今は会社を立ち上げ、在宅で社員と連絡をとりながらリモートワークしています。
ライネ邸のエントランスには自然の岩盤を生かした池がつくられ、鯉が泳いでいました。水辺には野鳥や蝶が寄ってきます。岩盤はエントランスから湖にかけて傾斜し、掘り起こした岩を使って階段や垣根をつくったり、元々の地形にのっとったガーデニングを行っているそうです。
アンティークなクリスタルグラスで、ブルーベリージュースを頂きました。人工光でハーブなどを育てる装置は、一般の家庭でもよく見かけるようになったそうです。
お手製のブルーベリーパイづくりを教えてもらいました。パイ皿にバターを塗ってからパイ生地を皿に密着させ、たっぷりとブリベリーを敷き詰めオーブンで30分ほど焼きます。べつに生クリームをホイップしておきます。
パイが焼けるまでのひととき、リッタさんが庭園を案内してくれました。マグノリア(もくれん)、アジサイ、ナナカマドなど、庭には様々な木々が植えられ、斜面の畑ではトマト、バジル、野いちご、じゃがいも、ラズベリー、スグリ、ブラックカラントなどを育てています。リッタさんが手にしているのはエーロ・アールニオがデザインしたジョウロ。ロホヤのプラスティックス社で作られています。「限られた人や用途のためでなく、日常で誰でも使えるもの」がフィンランドデザインとリッタさん。
リビングの階段を降りて、インナーテラスに移動しました。イチゴやビスケット、リンゴのワインを並べたリンゴ柄のテーブルクロスに、主役のブルーベリーパイが登場しました。
サプライズゲストに、ロホヤ市長が登場。ロホヤで一番のパイと市長も絶賛していました。ロホヤの人口は約 4万人。古くから石灰鉱山や交易の中心地として栄えたロホヤは、第 2次世界大戦のときにソ連の空爆をうけ古い街並みを失いました。今も石灰は主要産業のひとつで「テュテュリ鉱山博物館」では、地下 100mまで高速エレベーターで降下して採掘現場を体験できます。近年はヘルシンキへ通勤する新しい住民も増えていて、2021年には新しい住環境を提案する全国住宅見本市の開催が予定されています。
裏道を歩いていると、思いもかけないところで、小さな祠(ほこら)に祀られたお地蔵様に出会うことがある。庭で摘まれた小さな花々がワンカップのガラス瓶に供えられ、脇には、わずかなお賽銭。こうしたお地蔵様はたいてい、周囲もきれいに掃除され、お線香の煙が漂っていたりする。大切にお守りしている方がいて、お地蔵様に命が吹き込まれ、周囲が柔らかなオーラで包まれている。
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わずかでもそのお姿が目にとまるような余裕があると、そのほん
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の一瞬、お地蔵様の微笑みを感じることになる。お地蔵様に命を吹き込むのは、お花を供え、お賽銭を上げ、祠と像をきれいにしてさし上げる人々の気持ちだ。その気持に、自分の心の奥底に眠っている何かが刺激され、反応する。
日本の SF作品には、お地蔵様の祠や、お狐さまが祀られる小さなお社(やしろ)が、タイムト 30ラベルの秘密の扉となる展開が珍しくない。それは作者の側にも、また読者の側にも、お地蔵様やお狐様のオーラを感じたことがあるという、一種の「郷愁」にも通じる共通感覚があるからに違いない。
そんな人々の心の奥底を見事に捉えた画家のひとりが、かつて長きに渡って『週刊新潮』の表紙を描き続けた谷内六郎さんだと思う。その絵には多く、農村の光景が描かれていた。小さな女の子と男の子が遊ぶ農家の軒先。昭和年までなら日本の田舎でごく普通に見られた世界。都会育ちでさえ共感させられる「ふるさと感覚」を、谷内さんの絵が刺激する。青山通り表参道交差点角に山陽堂書店の小さなビルがある。その壁面が谷内さんの絵のモザイクで覆われている。1964年東京オリンピックに伴う青山通り拡幅工事で現在の姿になったと記憶する。山陽堂書店には思い出がたくさんある。子供の頃、この店のギョロ目の色黒のおじさんが、いつも自転車で雑誌や本を家に配達してくれた。中学校の帰り道、たまにお店に立ち寄ると、美人のお姉さまが店番。どうして、あのおじさんに、こんな美人の兄弟姉妹がいるのか不思議に思いつつ、チビの中学生は、お金を払ってお姉さまから本を手渡されるとき、いつも心がときめいた。なんてことが思い出されたのには、わけがある。
〜世紀にかけてフランドル(現在のベルギー・オランダ・フランスの国境周辺地帯でブルゴーニュ侯家の旧所領域が中心)で『時祷書』と呼ばれる贅沢な書籍が盛んに制作され、これが欧州全域の宮廷や貴族・上層町人たちの許へと届けられた。 5〜 6ほどの小さな判が一般で、革表紙に銀の枠でラピスラズリや水晶やアメジストなどの貴石で飾られた、極めて凝った贅沢なものも今に多く伝わる。その本の内容は何かといえば、聖書や聖人様の言葉を抜粋して集めたもので、所々に美しく彩色された挿絵が描かれている。自分の家や教会のチャペルで個人的に祈りを捧げる時、この本を手に、その時の気持ちにふさわしいページを開いて、そこに書かれた祈りの言葉を口にする。個人所有の大切な書物、ということになる。時祷書の美しい挿絵は、そのテーマがほぼ決まっていて、農作業を中心として農村の十二カ月を農事歴のごとく描いたものが多い。そんな時祷書の挿絵画家を代表するひとりが、シモン・ベニング(1483頃〜1561)だ。初めてこの人の絵を見た時、「これ、谷内六郎だ」と思った。ではなぜ、そんな風に感じたのか。
時祷書に描かれる農村の光景は、美しき思い出アルバムの如き雰囲気で、汚れや困難や悩みや悲しみとは無縁だ。日々の労働の辛さが感じられる絵は、まずない。それはあくまでも、宮廷や都会の画家が A描く「美しき農村の季節暦」だと言っていい。しかしそれでも、その絵が歴史的に大切であるのは、時 A祷書の他には、当時の農村の様子を描いた史料と呼べるものが、ほとんどないからだ。たとえ多少浮世離れして美しく描かれすぎの感があるとはいえ、それでも、これらの絵から、当時の農作業の具体的な様子を思い浮かべることができる貴重な史料となっているのだ。
当時の画家は宮廷と都市が仕事場であり、その絵の購入者は、貴族と上層町人とごく僅かな田舎の大地主たちに限られていた。特にフランドルの場合は、ブルージュ、アントワープ、ガン(ヘント)といった欧州でも指折りの交易都市の豊かな経済力を背景に、洗練された都市文化が花開いた。宮廷と豊かな都市住民たちの間に、「農民たちの暮らしぶりを絵として楽しむ」という視点が誕生し、これが時祷書の挿絵となり、やがては、ブリューゲル親子が描く「農民世界」の絵画へとつながっていくことになる。ここで大切なのは、時祷書の農事暦にせよ、ブリューゲルの農村風景にせよ、いずれも、都市住民たる画家の視点で描かれている、という点だ。父ブリューゲルの描く農民は、本当にこんな人達がいたに違いない、そう思わされるリアリティがある。それは画家が農民ではないからこそ達成できたことなのではないだろうか。
農村の暮らしとこれを支える農民の暮らしぶりに郷愁を覚える。それは都市の感覚だ。谷内六郎さんが活躍した時代は、昔の農村が急速に日本から消えゆく時代だった。五百年前のフランドルは、急速に都市が発達した時代だった。都市から農村を見て、「失われゆくものへの郷愁を覚える」。シモン・ベニングは、五百年前のフランドルで、谷内六郎さんほぼ同じ感覚をもって時祷書の挿絵を描いたに違いない。だから、ベニングの絵を見て「これ、谷内六郎だ」と感じたのだ。
ドローン撮影/株式会社レッドクリフ 佐々木孔明 DALIFILMS 菅健太
製鉄所オーナーとして200年にわたり栄えたリンデル家のマナーハウス「Svart. Manor(スヴァルトマナー)」。今は美しい公園のミュージアム、ホテル、レストラン、サウナとして活用されています。
スヴァルトマナーに到着したのは午後11時。まだ明るいので、ホテルの周辺を散策しました。広大な自然公園には、5棟の宿泊施設が点在しています。それぞれが100年以上の歴史をもつ建物。上は18世紀に建てられた「ビッグコテージ」。
2階にキッチン付きカンファレンスルームを備えた「シングルハウス」。これらの建物は、製鉄所の労働者家族のために建てられました。石造りの橋からは製鉄所の名残が見えます。
製鉄所時代から使われているグラナリー(穀物貯蔵所)は、2階建ての会議棟として利用されています。
ゴシック風の建物は、ホテルの受付とレストランになっています。
白亜の美しい宿泊棟は、旧ヘルシンキ駅を設計したスウェーデン人建築家カール・アルバート・エーデルフェルトによるデザイン。その息子アルベルト・エーデルフェルトはフィンランド写実主義絵画の始祖といわれ、パリ万博で高く評価されました。
四角い塔のような「マーリンズタワー」は川に面した2階建てスイートです。1560年、ロホヤで鉱山が発見されると、フィンランド初の製鉄所がスウェーデン王国によってここに開かれ、18世紀からリンデル家によって運営されるようになります。リンデル家が1792年に建てた館が博物館として公開されています。リンデル家はもともとロシア系スウェーデン人でした。
博物館では専門のスタッフが館内を案内してくれます。
1階の応接室には、フランス人ルシャン・ドゥ・プレによって建設当時に描かれたといわれる貴重な壁画が残されています。インテリアは、スウェーデンのグスタフ3世スタイル(ロココ調)でまとめられています。
館の調度の復元に貢献したのが、1910年に女流写真家シグネ・ブランデルによって撮影された各部屋の写真でした。ブランデルはヘルシンキの街を記録したことでも知られます。
健康的な住居とするため、館は木造で作られました。天然石のように見える壁も、フェイクペイントによって描かれています。リンデル家はフィンランドで2番目に自動車を運転手付きで買ったといわれ、往時はフィンランドで一番の富豪でした。
2階の広間のトロンプ・ルイユ(だまし絵)。右側のドアは本物ですが、左側のドアはフェイクで、オブジェや聖人像も平面の絵を立体に見せています。トロンプ・ルイユはフランスやイタリアでよく見られますが、フィンランドでは珍しいそうです。
スウェーデン国王グスタフ3世が泊まったといわれる寝室には、金で縁取られた天蓋付きベッドが残されています。奥行きが狭いベッドに座ったような状態で寝ていたと思われます。
煖炉のタイルは、200年ほど前にスウェーデンで焼かれた貴重なもの。各部屋に異なる柄のタイルが使われています。
ロシアから嫁いだコンスタンティン・リンデル・イエルダはフェミニスト的な活動家で、当時は珍しい結婚後の女性の自立を促す著作を残し、29歳で夭折しています。
ガラス扉の2重窓は、フィンランドで初めて採用されました。ガラスは貴重品だったため、スウェーデンに贅沢税を納めていました。リンデル家は1日8時間労働をいち早く実現するなど、労働者を大切にした先進的な経営を行いましたが、製鉄所は1940年に破綻し人手に渡りました。そしてリンデル家によって1985年に買い戻され、10年をかけて改修されたのです。
ドラゴンシリーズ 58
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
走ること、考えること。
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娘が
この
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年くらい前に南青山のアパートから下目黒のアパートに
引っ越しました。それからずっと同じアパートに住み続けて
います。て来ました。
それ以前は、数年毎に転居しながら南青山界隈に住み続け
年前に黒猫のモモがベルリンから東京にやっ
て来て、翌年、当時
歳の長男も東京に来ることになり、彼
の学校のバス停のある場所に引っ越すため、はじめは駒沢公園近くのアパートにしようと決めていました。当時、僕が通っていたキックボクシングジムが目黒にあっ
て、ジムでのトレーニングを息子と
人で終えて歩いている
途中、目黒通り沿いの不動産屋の張り紙を息子が見つけたの
が、これまで
年間住み続けている下目黒のアパートです。
このアパートの窓の前には森があり、窓から見える公園の
木々、カラスや小鳥のさえずり、木々をすり抜けて窓辺に届く木漏れ日、強風に騒めく木々の枝葉の揺れ動く自然の声は
生活の中に溶け込んだ日常となっています。息子が約
年間、モモが
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年間
住み続けた、多くの思い出のあるこのアパートを離れることができません。
昨年末に黒猫のモモを失って、突然、寂しくなりました。それでもモモや息子達との思い出の沢山あるこのアパートを離れると、みんなが寂しがってしまう
気がするのです。息子が
年以上前にプレゼントしてくれた
小さなガジュマルの木は、もう天井に届くような高さまで大きく生長しました。それ以外の家具や壁に掛けてある写真も、
年間ほとんど変わっていません。このアパートで僕は
しばらくの間、病気の生活を送って来ました。病気との闘いもこのアパートで過ごした貴重な日々でした。病気は決して良い事とは言えませんが、初めて知ることができた沢山のことがあります。
森の木漏れ日や樹木の枝葉の揺れ動く音、傍で添寝してくれる黒猫のモモがどれだけ気持ちを癒してくれたかわかりま
せん。いアパートの前の森を
今日は土砂降りの雨でしたが、土曜日の午前中に誰もいな
人でゆっくりと走りました。 100
年以上が経過した様々な木々の枝葉をくぐり抜けながら、自分のスピードを保ち、ゆっくりと心地よいペースと気持ちで
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年間、
走ることが毎日の楽しみです。
5キロからキロくらい、その時の体調に合わせて距離は自由に、苦しみを感じない程度のスピードで走るのが気持ちいいのです。毎日は走れません。やはり体力が続きません。でも、走れないと思っていても走
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り始めるとだんだんと気持ちよくなって身体も軽くなってきます。走れる状態に自分があることが、自分が元気だと言う確認にもなるのだろうと思います。ですから、走ることは苦痛ではなくなりました。むしろ走らない方が日常の気分や体調は苦しいのです。
僕が走る目的は気分と体調だけではありません。これはあまり話したくないのですが、走っている時が最も何かを集中して考えられる時間なのです。仕事のことは、走っている時に最も良い解決方法が生まれます。
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多分、身体と脳の動きは繋がっていて、集中して考え、身体も同時に動いていることが、眠っている脳を刺激するのだと思います。
疲れや痛みさえも、走りながら意識を集中して考えていると忘れてしまいます。多くの小説、文学、哲学が散歩を必要としていたことを考えると、身体を動かしながら何かのテーマに集中することは、人間の身体の道理に適っていると思いま 2
す。
体調や気分が良くない時は、本来は走るべきではないでしょうが、走ることでその壁を越えてみようと試みるのです。時々失敗してしばらくダウンします。でも時々成功して壁を越えることができます。
目黒の森の他に、お気に入りの公園がもう1つあります。それは、アムステルダム市内にあるホンデルパークです。僕らのお店から少し離れていますが、その公園まで運河沿いの道を沢山の自転車を横目にキロくらい一緒に走って、公園に入ると一周キロくらいの公園の中をゆっくり走ることができます。
何か壁を感じた時や、迷ったり答えが見つからない時は朝の公園を走るのです。気持ちと身体と心が一体となった時に、本当に良い考えや勇気が自然に湧いてきます。そして、身体の中から悪いものを絞り出して、邪念や迷いも汗や気持ち良い疲れと一緒に洗い流してくれます。
走ることは身体の健康だけでなく、それ以上に心や脳を健全に保ち、考えを身体と連動させることで元気になれると感じています。僕には昔から困った時に助けてくれる本があります。今でもそうですが、今は走ること、考えることで助けられています。そして、木々の優しさの中で新鮮な空気と活動するエネルギーを吸い込み、また明日へと進んでいけると思います。人間は同じ自然界の一部なのだと感じます。
ドローン撮影/株式会社レッドクリフ 佐々木孔明 DALIFILMS 菅健太
ロホヤ湖の西にある200年以上つづく農家 Korpijaakko(コルピヤーッコ)家。農家の暮らしぶりやスモークサウナを体験できる「Kettukallio Experience farm」を運営しています。
広大な畑では、食用油になる野菜を育てています。
コルピヤーッコ家の母屋から体験型施設まで、野の花を摘みながら15分ほど歩きます。夏至祭の夜(ヨハンヌスの夜)に7種類の花を枕元に置いておくと、夢で結婚相手に会えるという言い伝えがあるそうです。
Kettukallio Experiencefarmを運営するコルピヤーッコ・トーマスさんとテルヒさん夫妻。湧き水の泉を中心に、スモークサウナやバンガロー(宿泊施設)、BBQスペース、ハイキングコースなどを備えた体験型施設で、トーマスさんの父親が開業したそうです。親戚や兄弟で農業や観光事業などを分担し、トーマスさんも10ヘクタールの農地を所有しています。
このファーム最大の魅力は、森と泉。夏至祭にあわせ、かがり火(ヨハンヌス・コッコ)が準備されていました。
セルフビルドで築かれてきたコテージ。長年コレクションしてきた農具、民具が並んでいます。
ファームの「スモークサウナ」にさっそく入りました。サウナストーンに水をかけ蒸気を出すと、一気に温度があがります。体が充分に温まったあと泉に飛び込みました。湧き水のためか、バルト海よりも暖かく感じました。
男性陣がサウナに入っている間、女性陣は花輪づくりに挑戦。夏至祭の夜は男女の出会いの場でもあり、花輪をかぶって過ごす習慣があります。
トーマスさんが古いオオカミの毛皮を見せてくれました。古代からアザラシやオオカミなどの毛皮はフィンランドの重要な交易品でした。現在はオオカミの狩猟は禁止されています。
200年以上前の農家の夏の家を改装し、宿泊施設にしています。オリジナルの木材を大胆に生かしながら、断熱性の高い窓を使って保温性を確保したり、バランスよくリニューアルされていました。
ゲストルームの壁に、フィンランドの英雄マンネルヘイム将軍の肖像が飾られていました。マンネルヘイムは日露戦争から第一次世界大戦、フィンランド内戦、第二次世界大戦の冬戦争、継続戦争、ラップランド戦争を戦いぬいたフィンランドの近代史を背負った偉人です。晩年はロホヤで過ごすため、館を購入しています。
1917年、フィンランドはロシア革命に乗じてロシア支配から脱し独立を宣言します。しかし、そこからも苦難の道が続きました。革命の影響でロシアからの穀物輸入が途絶え飢饉が生じると、資産家・自作農と小作人・労働者の対立は深まり、ブルジョア党の白衛隊、社会民主党の赤衛隊に分かれ内戦が勃発。南部の都市を中心に、女性や子どもまでも銃を手にとり闘いました。はじめは赤衛隊優勢でしたが、マンネルヘイムが白衛隊に加わると情勢は一変し、白衛隊が勝利します。国民に生じた根深い溝を埋めるため、1918年「トルッパリ法」(小作農法)によって小作農に農地が分配され、10万人もの独立農民が生まれました。
トーマスさんがソーセージや野菜を薪で焼いた「サウナミール」を準備してくれました。子どもの誕生パーティや会社のリフレッシュデイ、ブライダル、キャンプ教室など、日帰りから滞在型のプランまで、様々な用途に利用されているそうです。
かがり火に火がつけられ、長いヨハンヌスの夜がはじまります。
フィンランドからプロペラ機に乗ってラトビアへ。次号はラトビア、エストニアを特集します。参考文献:『物語 フィンランドの歴史 - 北欧先進国「バルト海の乙女」の800年』石野裕子著 中公新書現地通訳:ロミ・マキコ
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