コラージは下記オフィシャルサポーターの提供でお送りいたします
|
Colla:J について
|
定期配信のお申込み(無料)
|
オフィシャルサポーター
|
プライバシーポリシー
敦賀駅に近い市の中心部。4車線+駐車帯+アーケード付き商店街が続き、そのスケールに圧倒される一方、他の地方都市同様、シャッターを閉じた店も目立ちます。1960年代から原発産業と共にあった敦賀ですが、日本海の国際物流拠点として、また2022年末の北陸新幹線開業にあわせた観光開発など、新しいフェーズを模索しています。
敦賀港イルミネーション「ミライエ」2018
毎年11月〜12月にかけて(2018年は12月25日まで)、敦賀港に面する金ヶ崎緑地で開催される「ミライエ」。「鉄道と港のまち」をめざし、新幹線開業に合わせた観光開発をすすめる敦賀が、地元企業の協賛や市民ボランティアの協力で2014年からスタートしたイベントです。LED約50万球のイルミネーションはボランティアにより設置され、電源はすべて廃食用油から精製されたバイオディーゼル燃料でまかなわれています。福井県は敦賀周辺を境に嶺北・嶺南の2地方に分かれます。嶺北は江戸時代の「越前国」、陵南は「若狭国」とほぼ同じ地域で、福井市のある陵北を中心に県は発展しました。明治には数年だけ陵南が滋賀県に編入されたこともありましたが、陵南はインフラ、産業ともに遅れ、北と南の格差は広がっていきました。
陵南地方に原発設置の提案があったのは、嶺南出身の知事、中川平太夫の在職期間(1967〜1987)でした。県は建設と引き換えに、雇用の創出、工場の誘致、原発の資材、燃料を運ぶ道路の建設など、インフラの整備を求めます。特に「敦賀原発」や「美浜原発」の建てられた敦賀半島には自動車の通れる道路がなく、敦賀市内へは船で通うような暮らしでした。そこに立派な道路がひかれ、数千人の作業員が寝泊まりし、海水浴場が整備され、村や町は活気づきます。
敦賀港は古くは笥飯浦(けいのうら)と呼ばれ、古代日本においては3大要港のひとつとして「渤海(ぼっかい)国」や「宋国」など、大陸諸国との交易拠点として栄えました。9世紀初頭に書かれた『日本霊異記』には、聖武天皇の頃、奈良から敦賀まで、品々を買い出しに行くエピソードが書かれ、輸入品を扱う商人ではないかと推測されています。また迎賓館、検疫所、交易取引拠点を兼ねた「松原客館」が置かれ、渤海からの使者を都へと送迎する役割を果たし、渡来人も暮らしていたと推測されています。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
契約社会に入り込んだ日本式「おまかせ」文化
3年ぶりのニューヨーク。9.11事件以降、アメリカの入国審査が非常に厳しくなり、今回も滞在の理由をうるさく聞かれると覚悟していましたが、審査システムが新しくなり、パスポート写真を読み込み、明るい照明ボックスを見つめる顔認証、左右手指認証が自動化され、入国審査の待ち時間は大幅に短縮され楽になっていました。今回の主目的はレストラン視察です。いくら仕事とはいえ、行くのはニューヨークでトップクラスの店ですから、一人では心もとなく、お店の予約なども含め、現地にお住まいの方に同行をお願いしました。それ以外は一人行動です。
アメリカの日本食ブームはかなり前から始まっていて、この20数年、視察で訪れたややアッパーグレードの食品スーパーマーケットは、どの店も必ずテイクアウト用の寿司コーナ
ニューヨークの寿司屋カウンター。
「食べられるラー油」をトッピングしたトロ。
ーを備えています。今回は折角ですからセルフ前夜祭として、日本食ブームの実情視察を兼ねてニューヨーク寿司屋体験を、それも一番楽しいカウンターでしようと電話予約時に予算を尋ねますと「おまかせ」で15,000円位からとのこと。おなかの具合でストップ出来るコースがおすすめといわれました。19時の予約でしたが、15席程のカウンターは 8割方埋まっていて日本人は私ひとり。観光客と思われる中国人のカップル以外は地元の方のようです。注目したのは若いビジネスマンと思しきラフだがきちっとした身なりの男性の一人客で、カウンターに座り、私と同じ「おまかせ」とビールを注文しました。責任者と思われる日本人職人が一貫一貫、ネタとトッピングを説明すると嬉しそうに出されるまま食しています。魚の名前の半分は日本語の説明でしたので、彼が本当にどこまで理解したかは解りません。
この店の特徴は、あるいは注文したコースの特徴かもしれませんが、各ネタに必ずいろいろトッピングします。見た目の演出効果も狙っているのでしょうが、一番面食らったのはトロの上に、オリジナルの「食べられるラー油」が乗っていたことです。決して、美味しくなくはなかったです。「食べログ」ではないのでそれ以外は省略します。
さて本命のレストランはというと、予約が難しいのです。何と電話のみの対応で、希望日の 2カ月前から受付。OKならカードナンバーを登録し、料理の料金が示され、サービス料 20%を含んだその金額が、予約日の 2日前にカード決済されます。5日前以後のキャンセルは受け付けられません。クライアントからのレストラン視察の要請は急な話でしたので、予約が出来た段階でフライトやホテルの予約などスケジュールを組みました。全てレストラン側に合わせる形です。
この店の立地が理解に苦しむところです。いわゆるマンハッタン島の中央、ミッドタウンの範囲には入りますが、ハドソン川に近くダウンタウンのすぐ上部に位置します。対岸のニュージャージーに向かうトンネルの入り口のカーブした道路に囲まれ、周囲は倉庫街のような風景です。実はこのレストランは、アメリカにしては小型の食料品店の一番奥にあります。昼間でも薄暗く感じるグレーのファサードで、表に店名サインも出ていません。人がすれ違うのがやっとの狭い通路、商品はこれでもかと天井近くまでうずたかく積まれ、主通路といえる解りやすい動線も無く、クランクの連続でまるで迷路の様です。一番奥まで入って行ったとき、天井に決して豪華とはいえない木製シャンデリア風の照明と木製の小さいレセプションカウンターと黒ずくめの地味目の受付女性の存在が見え、ここが目的地と解ります。受付をすませコートを預け店内に入ると、ホール天井に受付上部と同じ照明が出迎え、タキシードの男性が丁寧に席まで案内してくれます。店内は意外とシンプルです。唯一のポイントは奥行きをたっぷり持たせた、長い寄せ木ウォールナットのカウンターの存在です。当然カウンター席を予約しましたが、各席の場所にダウンスポットで柔らかく暖かい色調の光が当てられ、料理を楽しむに充分な空間です。料理の提供は日本の会席スタイルとほぼ似ています。全部で12品程。小さめの深い皿に日本ではおなじみの高級魚の切り身が、様々な味付けで一定のペースで出てきます。ウエイターが北海道、北海道と数回連呼しています。肉料理は1品でした。ステーキ風のスモールポーションでサシたっぷりの宮崎牛 A5ランクだそうです。グラスワインでもかなり高く設定されていて、白で一番安くて一杯数十ドル、高い赤ですと百ドル近いです。話に夢中で食べる速度が落ちますと「次の料理が出ますので食べてください」と一度催促されました。一度に10人分程をセットしていき、前菜からデザート3品とコーヒーまでで、丁度 2時間半。コーヒーのみ好みを聞かれました。
厨房は広く大きく取られ、フルオープンでカウンター内のシェフ、調理スタッフ、タキシードのウエイター等の動きを全部見ることが出来ます。事前に仕込んだ魚をコールドテーブルから取り出し、魚に焦げ目を付けるのにバーナーではなく、真っ赤に焼いた備長炭を軽く押し付けるなど、見た目の演出にきめ細かい配慮がなされています。デザートの冷たいスフレに抹茶を振りかける等、最後の盛り付けは全てシェフが行います。今やレストランの主役はシェフであり、その味や空気感のファンが店に来て食べさせてもらい、お客様が喜び楽しんでいる。それを理解する自分のテイストが、自分自身のアイデンティティー表現にもなっている、という構図でしょうか。会席スタイルですから日本人なら身に付いた当たり前の感覚ですが、全ての料理が「おまかせ」です。お酒こそ選べるものの、20%サービス料込みで、今回は 2人で 800数十ドルでした。コートを着る帰り際に、今日のコースリストを封筒入りで渡されました。
元々この店は、マンハッタンから東へイーストリバーを渡ったブルックリン地区にありました。バブルで物価が高騰した際に、暮らし難くなったマンハッタンを嫌い、移り住んで来た若いアーティストやミュージシャンなどリベラルな思想を持つ文化人が中心の街です。従来の白人エリート主義、大量生産、大量消費、拝金主義という画一的なアメリカ式価値観に疑問を持ち、自分の生き方をインディペンデントな立場で貫くような人々です。画一的な食生活から脱し、地元産の食料を愛し、
マンハッタンのレストラン。魚は数皿出ましたが、味が同じように感じました。
3品でたデザートのひとつ抹茶スフレ。
地元で作られるファッショナブルではないけれど社会的責任を意識した衣料を積極的に着る等、地元のコミュニティーを大切に育ててきました。このレストランはそんなところで生まれたのです。
お店のイメージ戦略として、マンハッタン店はブルックリンから来ていることをしっかりアピールしています。ですからお店の周辺環境も摩天楼に囲まれた立地ではなく、どこかブルックリンの裏通りを思わせるひなびた場所に、イメージギャップをしたたかに計算して出店していると思われます。店のグレードと立地環境の齟齬はここにある様です。でもブルックリン時代は、料理は今の半値位で提供されていたと聞きました。マンハッタンで評判になると、投資家等に利益を上げろと押しまくられるのか、本人の意思かは解りませんが、やはり拝金主義的な方向に進んでしまうのでしょうか。
厳しい契約社会のアメリカで、「おまかせ」料理が受け入れられているのは、たかが食事ごときかもしれませんがアメリカらしくなく、先の寿司屋体験と同様に、少し違和感がありました。このような日本的な食文化が、この地に定着するのでしょうか。
戦国時代から天然の良港として北前船貿易などで栄えた敦賀。明治になると敦賀港の重要性に目をつけた明治政府は、明治15年にいちはやく敦賀駅を開業し、明治32年には「開港場(外国貿易港)」に
きっぷ一枚で、新橋からパリヘ指定します。明治35年、敦賀〜ウラジオストック(ロシア)間に日本海航路が開設されると、明治45年には新橋〜敦賀港間に一等寝台車を連結した「欧亜連絡国際列車」を走らせ、シベリア鉄道と接続する定期便をだしました。
ウラジオストク〜モスクワ間を10日ほどで結ぶシベリア鉄道は、ロシア極東の軍事的、経済的な孤立を解消するため、日露戦争中の明治37年に全線開通します。モスクワから西ヨーロッパ各国鉄道網とも接続し、日本から40日以上かかった船旅を、約2週間に短縮させました。シベリア鉄道を利用して、敦賀から野菜、ミカン、リンゴ、缶詰、和洋酒、ビール、医薬品、陶磁器、漁具、洋紙、鉱物油、電気機器、産業機械などが輸出されました。
越前と若狭に挟まれた敦賀には、越前ガニ、若狭ぐじなど、多用な魚介類が1年を通じて水揚げされ、敦賀水産卸売市場の2階見学室からは、朝8時頃から競りの様子を見学できます。11月には越前ガニが解禁され、越前がれい、若狭かれい、甘えび、若狭ふぐ、かき、タチウオ、ウニ、イカ、ブリ、サバなど……。仲買人が魚を囲み、次々と競り落とされていきます。市場の前には、相木魚問屋、つりや魚問屋があり、競り落とされたばかりの新鮮な魚が店頭に並びます。
敦賀港は今、中国、韓国との対岸貿易はもちろん、関西・中京地域と北海道を結ぶ国内物流の大動脈としても重要な役割を担っています。年間取扱貨物量は約1500万トン。石炭やコンテナ貨物、フェリー貨物、RORO船貨物が中心で、国際物流ターミナルや防波堤の整備に取り組んでいます。RORO船は、Roll On Roll Off Ship(ロールオンロールオフ船)の略で、船の中にトレーラーが自走して乗り込むことが可能で、クレーンを使わずに直接貨物の積み降ろしが出来ます。北海道苫小牧から大阪へ配船されていたRORO船が敦賀にシフトされるなど、時間短縮のため日本海航路の利用が促進されています。
敦賀倉庫
旧敦賀倉庫の新港第1〜3号倉庫は、昭和8年の施工。昭和7年の港湾修築工事による埋め立て地に建造されました。シンプルなコンクリート打ち放しに、スペイン瓦やタイル貼の装飾がなされ「モダン倉庫」と呼ばれました。建設当初から2階や西側に増築可能な構造をとっていることも特徴で、現役の倉庫として使用されています。
木造の倉庫郡(旧敦賀倉庫新港第4〜7号倉庫)は、終戦直後の建造。大戦末期の敦賀空襲により被災した倉庫を復旧したもので、土蔵風や洋風など異なる構造をしています。こちらも現役で使用中。
金ヶ崎の鉄道桟橋にあった敦賀港驛舎を復元した「敦賀鉄道資料館」。平成11年、敦賀港開港100年を記念した「つる敦賀鉄道資料館(敦賀港驛舎)
が・きらめき・みなと博21」にあわせ建てられました。手前の木は、杉浦千畝夫人、幸子さんが敦賀を訪れた際、記念として植樹された桜と樫の木です。
ランプ小屋は明治15年の竣工で、現存する最古の鉄道建築物のひとつです。鉄道の照明ランプや燃料を収納するため、耐火性の高いレンガ造になっていました。
内田 和子
鈴なりの干し柿
つれづれなるままに第53回
庭の片隅に長いことほっておいた小さな植木鉢があ
る。庭の手入れは母まかせだったので、いつ誰が持ってきたものか記憶にない。
母が亡くなってもう
年たつから、相当長い間そのま
まになっていたことになる。その植木鉢から緑の茎が出て、ピンクの花が付いているのに最近気づいた。
今年はひどく暑い夏だった。ハナミズキの花もあっという間に散ってしまい、葉の色づきを楽しむ間もなくすぐに葉は枯れ落ちた。朝起きがけに掃いても、出かけるときには、またハラハラと落ちてくる。雨の降った後や風の強い日は何度も箒を持つことになる。
ようやく落ち葉もなくなったと思った時に、そのピンクの可愛らしい花が目に入った。手入れもせずほっておいたのに、よくぞ蘇ってくれたものだと感心し、嬉しく思った。もしかしたら、よく掃除をしたご褒美かもしれない。それとも母から「まだ若いんだから頑張りなさい」と言われているのかもしれない、とも思う。
落ち葉の季節になると、福島に住む友人宅の落ち葉と柿の木が気になる。以前、友人数人とこの季節に行ったことがあるが、広大な敷地の落ち葉はそれこそ半端ない。ご近所の方もお手伝いしてくださるそうだが、目を瞑ることもある。
柿は枝いっぱいに実ったものの、渋いし干し柿を作るのは大変なのでそのままだという。
それはもったいないと、みんなで柿を落とし、リュックサックに詰め込んで持ち帰った。干し柿など作ったことはないが、言われたまま焼酎につけて軒下に吊るした。どのくらいで食べられるのかトンと見当もつかなかったが、メールで写真を送り、初めての干し柿作りに挑戦した。なんとか形はそれなりに仕上がったが、味はイマイチ。もっとも東京のホコリの中で毎日吊るされた柿を食べるには、いささか勇気も必要だった。
17
鈴なりの干し柿
やはり干し柿は、寒く空気のきれいなところで吊るされたのを食べるのがいい。今年は、落ち葉掃きと干し柿作りで、友人が何人か泊まり込みで行くとのこと。
ほとんど周りに家がない静かなところに、何人ものそれも口数の多い友人たちが集まっているかと思うと、さぞかし ……と思っていたら電話が鳴った。
「新宿バスタからバスが出ているから、明日おいでよと ……」家主ではなく、居候の友人からである。すっかり福島のおばちゃ
12
んになっていた。干し柿ができる頃に採り込みに行くとして電話を切ったが、その後、一緒にいた別の友人から、もいだ柿と、一
30
足早く福島の友人が作った干し柿と赤大根が送られてきた。その干し柿の美味しいこと。夕食前、我慢できず口に入れたら、まさにほっぺが落ちるほど甘かった。
そのことを福島の友人にメールすると、みんなが一生懸命働いた様子と、柿を吊るした写真が届いた。「鈴なり」とはこのことかと、軒下に吊るし柿の多さに驚いた。
干し柿は手間がかかるので、今では農家の人もなかなか自分で作ることができない。野菜を作っては持ってきてくれるが、干し柿までは手が回らないらしい。以前、作った干し柿を差し上げたら大そう喜ばれたそうだ。ここ数年は自分もできなかったので、今年はみんなのおかげで差し上げられると声が弾んでいた。
吊るした柿は 2〜3週間ほど(気温の様子で異なるそうだ)で、出来上がるから「その時に行く」と言うと、それは簡単なので大丈夫とのこと。が、何か作業をしないと頂くことはできそうもない。
今年もあとわずか。友人たちと楽しい時間をたくさん作り、互いの健康を気遣いながらも元気で過ごせたことに感謝したい。
そして、平成最後の 月。小渕さんが「平成」と書いた額縁を持って、新しい年号を伝えたテレビニュースは今でもよく覚えている。仕事では西暦で表記することも多いが、私ごとでは、和暦をもっぱら使っている。
大掃除には、我が家の平成 年を振り返り、手がつけられなかった断捨離をするいい機会としたいものである。
10月27日 栃木県 真岡(もおか)市にて、久保 貞次郎(さだじろう)の23回忌にあわせたイベントが開催されました。コレクター、美術評論家、教育者といった様々な顔をもち、現代美術をリードした久保貞次郎は、昭和34年から跡見学園短大生活芸術科にて、児童美術、美術鑑賞の講座をうけもち、沢山の学生たちをアートの世界にいざないました(昭和52年、学長に就任)。その教え子有志、榎本エミ子、川口真寿美、秀坂令子、藤沼秀子、綿貫令子(五十音順敬称略)によって「久保貞次郎の会」が発足し、その催しの第1回として、真岡ツアーが企画されました。
参加者が最初に訪れた「久保講堂」は、久保貞次郎の依頼により、建築家 遠藤 新(あらた)によって設計されました。明治22年福島県に生まれた遠藤は、大正6年、帝国ホテル支配人 林 愛作の紹介で帝国ホテル設計スタッフとしてフランク・ロイド・ライトに師事。ライトの帰国後も、その影響を強く受け続けたといわれる建築家のひとりです。F・L・ライトの研究家で建築家の井上祐一さんが久保講堂を解説してくださいました。竣工は昭和13年、当時49歳の遠藤は満州に事務所をもうけ、大陸と日本を行き来しながら自由学園や満州中央銀行倶楽部などを手がけていました。
久保講堂久保貞次郎は祖父・久保六平の傘寿を記念して、真岡市尋常高等小学校へ2万円の寄付を申し出ます。その際、生徒を一堂に集められる大講堂が欲しいという校長の希望を聞き、4万3千円(今の1億円ほど)の建設費全額を寄付。もともとは真岡城址の高台にある小学校敷地の西端にたてられ、東側に芝庭を設け校舎と2本の渡り廊下でつながっていました。一時は取り壊しが計画されましたが、市民の強い要望で現地に移築されました。
久保貞次郎と活動を共にした、靉嘔(Ay-O)さんも参加。全ての物体、イメージを虹色で分解し再構築した虹の作品で知られる靉嘔さんは1931年生まれ。1953年に瑛九たちが設立したデモクラート美術家協会に入会し、1955年、池田満寿夫、真鍋博たちと「実在者」を結成。1958年アメリカに渡り前衛芸術集団「フルクサス」に参加。1966年のヴェネツィア・ビエンナーレに久保貞次郎の推薦で出品し、以降、国際的な美術賞を次々と受賞します。靉嘔さんの一人娘・飯島花子さん、夫のクレイシ・ハールーンさんが同行しました。
靉嘔「久保氏像B」1974年(提供:ときの忘れもの)
久保講堂の完成後、久保貞次郎は「児童画公開審査会」をひらき、新進気鋭の画家たちを審査員に招きました。講堂は学校の行事だけでなく、市民の集会や講演、舞台、作品発表の場として毎日利用され、この日も絵画、写真、短歌、工芸などを展示した市民文化祭が開かれていました。市民に長く愛された理由はキャパシティだけでなく、自然光のよく入る明るい雰囲気や、優れた音響にあります。舞台奥の反響板をアール状に形成し、演者の声を理想的に響かせ、針一本落ちた音が最後列にまで届いたといわれます。また舞台前面に広い階段を設け、観客とのつながりを表現しているのも特徴です。井上祐一さんによると、遠藤は吹き抜けの中央部を「平土間」、両脇にある天井の低い部分を「脇桟敷」と呼び、脇桟敷の床を一段高く設計することで、ステージを見やすくしています。2階ギャラリー(通路)の壁の中はトラス構造(木造)になっており、大きな梁として屋根を支え、柱の少ない、大きな吹き抜け空間を実現させました。白い壁面にほどこした、細い木材のモールが空間を引きしめます。「地所が建築を教へて呉れる」といった遠藤。設計の下見のため真岡小学校を訪れると、校長や町長をおいて勝手に歩きまわり、敷地の外れの傾斜地を選び皆を驚かせたと久保貞次郎は述懐しています。講堂が堂々と見え、校舎と一体になる最適の地を遠藤は選んだのです。屋根に突き出た2本の塔は、高台から街を見下ろす展望台であり、通気を確保する換気塔の役割も果たしました。役所に図面を提出した際、この塔は子どもには危ないからいらないのでは?と問われた遠藤は「この塔はいります」と言い切ったそうです。
兵庫県芦屋市の旧山邑邸(ヨドコウ迎賓館)は、F・L・ライトの基本設計をもとに遠藤新と南信が実施設計。南信が現場の常駐監理にあたり、大正13年竣工しました。壁面のモールに、久保講堂との共通点がみられます。
芝庭に面したテラスには大谷石が敷かれ、2本の木の柱が並んでいます。旧山邑邸に使われた大谷石の柱にくらべ軽快な雰囲気。遠藤は講堂と庭、校舎を一体のものと考えていました。
東京豊島区の自由学園明日館(みょうにちかん)。遠藤新が自由学園創立者の羽仁吉一、もと子夫妻に来日中のF・L・ライトを紹介し、ライトの基本設計、遠藤の実施設計により大正10年に建設されました。井上祐一さんによると、久保講堂のプランは「明日館講堂」、「自由学園女子部講堂」とよく似ている一方、明日館講堂は垂木構造、自由学園女子部講堂は和小屋、久保講堂はキングポストトラス+和小屋と、規模に合わせて構造を変えているそうです。
大正8年に始まった帝国ホテルの建築は、大正11年8月にライトが帰国してしまったため、遠藤を中心とした日本人スタッフによって、大正12年に7月に竣工します。完成披露会当日の9月1日には関東大震災に見舞われますが、館内にいた遠藤は絶対に倒れない自信を持ち、逃げなかったと言われます。震災直後から遠藤はバラック建築の建設に奔走し、賛育会産院・乳児院をはじめ病院やホテル、飲食店、マーケットなど次々と設計を手がけました。また大正11年には、犬養毅邸(東京信濃町)を設計しています。終戦後、満州からひきあげた遠藤は、心臓病で体調を崩しながらも、新しい学校建設に邁進します。文部省の協議会員として数々の提言を行い、秋田の十文字中学校、岩谷東光中学校、宮城の若柳中学校、新潟の長岡中学校などを竣工させます。61歳の遠藤は体調を悪化させ入院。急逝を知りかけつけた久保貞次郎は、上野駅の郵便局からF・L・ライトにあて「Arata Endopassed June 29th」の電報を打ちました。
鈴木 惠三 BC工房主人
34
第 123回
+34℃〜 -13℃
4
12
「あっちこっち、ウロチョロ。」の一年が終わる。
支えてくださったお客さん&工房のスタッフに、パートさんに感謝です。
℃のジャワ工房から帰って、
マイナス 13 ℃の富良野へ。来年のチラシに登場していただく、倉本聰先生の取材と撮影。先生には、絵を描く時の椅子を使っていただいている。神宮前にあった「ル・ゴロワ」で、オーナーシェフの大塚夫妻に紹介していただいて以来、
「あったかきびしく」指導してもらっている。
「ひとりの人のキモチを、受けとめる」モノを作る、表現することの原点を、見つめる大切さを。
「やすらぎの郷」も、久しぶりにおもしろさを感じるTVドラマだった。続編があってほしかった。
「北の国から」のように、
今度は老人たちの青春が続いてほしかった。
月に原稿が完成した「やすらぎの刻.道」は、
今、撮影中かな?
月からのオンエアーが楽しみだ。
「
82
オイラが倉本先生にいちばん聞きたかったのが、
「先生の "やすらぎ ”とは?」だった。「いちばんやすらぐ時は、台本を書いている時だよ」
才の生涯現役選手」のコトバに驚き、感動。うれしくなった。
「椅子づくりの生涯現役」で、
もっともっとやり続ける覚悟をプレゼントされた。万歳!!を雪の中でしてしまった。
北海道・富良野プリンスの「ル・ゴロワ フラノ」。倉本聰先生が長年思い描いた理想のレストランを
大塚健一シェフとマダムの敬子さんが実現。BC工房の家具でゆったりしてほしい。
-13℃ フラノ
久保家の菩提寺「長蓮寺」
永仁5年(1297)の開山とつたわる歴史ある寺院「長蓮寺」。久保家に隣接した、久保貞次郎の墓所でもあります。
参加者が揃い、23回忌を迎えた久保貞次郎の墓所を参りました。明治42年(1909)、足利市の小此木(おこのぎ)家に生まれた貞次郎は、英語、ドイツ語など語学力にたけた少年で、昭和3年(1928)日本エスペラント学会に入会。昭和8年、東京帝国大学文学部教育学科卒業後、真岡の大地主で銀行業を営む久保家の佳代子さんと結婚。昭和10年には第2回日米学生会議のため渡米し、帰国後、知人に紹介された遠藤新の設計で、東京牛込に自邸を建てます。久保家の建物は現在、真岡市の「久保記念観光文化交流館」として公開されています。母屋はかつて日銀の支店として使われた建物で、2階には久保貞次郎の書斎があり、芸術家や教え子たちが集まりました。その他にも大正12年に建てられた大谷石の米蔵や、明治12年造のなまこ壁の土蔵などが並びます。
久保貞次郎と芸術家との交友は昭和10年、エスペラント学会の九州特派員として九州各地をまわり、宮崎で瑛九(杉田秀夫)に出会ったことから始まります。昭和13年には羽仁五郎の提案で、竣工した久保講堂の記念事業として「児童画公開審査会」がひらかれ、瑛九、北川民次、オノサト・トシノブたちを巻き込んだ恒例行事となりました。
母屋(久保記念館)の2階は、久保貞次郎の遺品や著作を展示した資料館になっています。
久保講堂完成の数カ月後、久保貞次郎は実弟の小此木眞三郎、義弟の久保汎をつれて、児童画と美術研究のため北米・欧州へ出発。旅の途上、遠藤が「おやじ」と呼び敬愛する師・F・L・ライトのタリエッセンを訪問します。渡米前、久保貞次郎は遠藤に対して「費用を負担するので同行して欲しい」と頼みましたが、体調不良で遠藤のタリエッセン再訪はかないませんでした。タリエッセンで数日過ごすうち、遠藤がライトから息子のように愛されていることを感じ胸をつかれます。
彼は東洋に於いて、自分の最高の後継者だ。彼は自然の姿勢の建築家だ。自分は彼に多くの事を教えた。しかしその後私も進歩した。二十年間に学びとったものを、是非遠藤さんに傳えて死にたいと。私は胸がつまるような気がした。アメリカ、いや世界の建築の巨人と呼ばれるこのライトからこれ程の、愛情と信頼と期待とを受けている、わが遠藤新を、日本にもつことを考えてみて。(久保貞次郎著 輝く眉 タリエッセンの巨匠 フランク・ロイド・ライト「みづゑ」1940年3月号より)久保邸の階段、廊下、屋根裏には本や絵画が積み上げられ、軽井沢の別荘も本で埋め尽くされていたそうです。神田
で一度に300冊の本を買うこともありました。
2013年、真岡市は久保貞次郎の遺族から版画などの美術品1500点(作家数89名)、書簡、写真、原稿、書籍など膨大な資料の寄贈を受け、「久保アトリエ」と呼ばれていた大谷石の石蔵で作品を展示しています。久保貞次郎は昭和30年頃から、作品を買うことで作家を支える「小コレクター運動」を起こし、美術品の頒布会やオークションを開催。異なる作家の作品3点を買うことを目標としました。また版画の版元となり制作資金や設備を提供して、瑛九、北川民次、靉嘔、池田満寿夫、オノサト・トシノブなど多くの作家を世に知らしめます。靉嘔さんは当時を振り返り「コレクターにとってどの作品を購入するかは自己表現のひとつです。まだ評価されていない絵を買ってくれる人を僕は尊敬する。身銭を切って欲しい絵を買うのは凄いこと。その人にとって心の革命を起こすことです」と語ります。久保貞次郎は昭和14年、米欧旅行や審査会をつうじて集めた児童画を公開する「世界児童画名作展」を全国で開催。昭和27年には新しい美術教育の普及を目指し「創造美育協会(創美)」を設立します。久保貞次郎は創造的な児童画の特徴として「概念的でない」「確固として自信にあふれている」「いきいきと躍動的」「新鮮・自由、迫力がある」「明るい幸福な感情にあふれている」ことをあげています。創美の美術教育は画家の育成ではなく、自由な自己表現を認め、生まれ持った創造力を伸ばすことを目的にしました。毎年夏には全国から美術教師や保育士を集めた「セミナール」を開催し、教育者、理解者を育てるため跡見学園短期大学の教授をつとめ学長にも就任しました。
瑛九、靉嘔、池田満寿夫、泉茂など、デモクラート美術家協会に参加した作家たちの作品が展示されています。
交流館のレストラン「トラットリアココロ」にて、参加者がテーブルを囲みました。参加者同士が自己紹介したあと「久保貞次郎の会」メンバーたちが、跡見学園短大の講義で行われていた版画頒布会を再現しました。これは自分の好きな版画に手をあげ、くじ引きで落札者を決めるもので、久保貞次郎は数百円〜数千円という破格の安値でコレクションを提供し「作品を購入し、身近に置くことの大切さ」を訴え続けました。久保貞次郎は芸術の真価について、次の言葉を残しています。
現代の芸術家たちは、公衆を代表して人間の心の探求者でなければならない。日本のあいまいな、不明確な、妥協的な精神に反逆して、もっとはっきりと、もっとはげしく摩擦をおこさないで、ひとびとの胸をうつ新しい芸術を生みだすことがどうしてできるであろう。(中略)芸術はひとびとの一日の労働の疲れをいやすだけのためにあるのではない。ぼくたちが現代社会の卑俗なマス・コミュニケーションで無気力になり、見失っている人間の生命力を、もう一度とりもどそうと、一生懸命努力する芸術家の精神の断面を示すものこそ、芸術というものである。(久保貞次郎美術の世界11「絵画の真贋」から)
2018年11月14日(水)〜16日(金)まで東京ビッグサイトで開催された「IFFT /インテリア ライフス
が訪れ、入口には行列ができました。アトリウムの特別企画「はじまりの仕事展」(ディレクター:ナカムラケンタさん)では 84の出展製品が紹介され、見本市のインデックスとなっていました。
IFFT/インテリア ライフスタイル リビング 2018年11月14日(水)〜16日(金) 東京ビッグサイト
574名の来場者 ,タイルリビング」。昨年を超える17
▲様々な内装材や照明器具を扱う友安製作所は、若手社員で結成したチームイレブンがユニークなアイデアを提案。「ピラゴラ」風アトラクションで観衆をひきつけました。
▲岡山の染色布メーカー正織興業は、出荷
規格外の布を活かした布積層板「 SAN」
を開発。ブロック状に何層も重ねた布をス
ライスすることで、絵の具を水に流したよ
うな自然な模様があらわれる。まったく新
しいパネル材です。
▲好評のトークショー「 LIFESTYLE SALON 2018」では、世界で活躍するデザイナーや建築家が熱弁をふるいました。フィンランドのデザイナーハッリ・コスキネンさんと良品計画の矢野直子さんの対談は、立ち見がでるほど。無印良品をはじめイッタラ、デザインハウス、イッセイミヤケなど、コスキネンさんのデザインワークと今後の展望が語られました。
▲ Time & Styleは、様々な樹種を使って制作した新作キャビネットを発表。金属皮膜を用いた玉虫色の半透明ガラスが注目されていました。
▲「丹後暮らしの布」のブースから。明治
▲図面やスケッチ、書類をおさめるための引出し。引き抜いてそのまま持ち運びできます( Time & Style)。
8年創業の丹後ちりめんの織元「丸仙」は、ボディタオルや枕カバー、布団カバーなどに絹 100%のちりめんを贅沢に使った「ちりめん美人」を発表。ハイパーガード加工によって水に濡れても縮まず、洗濯も可能。
▲まるは油脂化学は、植物性石鹸を使った石鹸塗装「ヴェネックス」を展示。有機溶剤を含まない2液タイプで、従来のソープフィニッシュにはなかった撥水性をもち、木地の色・風合いをそのまま生かします。 Time & Styleの家具にも採用されているそうです。 ▲建築家・芦沢啓治さんがディレクションする CREATIVE RESOURCEのコーナー。特別展示企画「 arch itect meet makers」では、建築家とメーカーの出会いから生まれた家具やプロダクツを発表しました。参加建築家は、芦沢啓治建築設計事務所、トラフ建築設計事務所、 NOR M ARCHITECT。参加メーカーは、カリモク家具、三和化工、 Sarensen Leather A/S、パナソニックでした。
▲アシストの「 P r e vi o M1」は、ピンクやオレンジなどカラフルな色を揃えた木製 d階段用ノンスリップ材。視認性がいいので段鼻を認識しやすいのが特徴です。
▲カリモク家具は、初めての針葉樹家具(ヒノキ)となる MAS F a mil yシリーズを発表。木のジョイント部に伝統的な組み継ぎを用い、ヒノキの魅力をひきだした、すっきりとした表情に仕上げています。デザイナーは熊野亘さん。
歴史の大舞台「金ヶ崎城」
敦賀湾に突き出た金ヶ崎は、越前と若狭の要衝として、数々の歴史の舞台となりました。
建武3年(1336)足利尊氏が湊川の戦いに勝利して京都へ迫ると、比叡山に逃れていた恒良親王は、父の後醍醐天皇から三種の神器を譲られ、兄の尊良親王、新田義貞・義顕父子と共に追っ手を避けながら木の芽峠を越え敦賀に向かいます。氣比神宮の支援をうけて金ヶ崎城に立て籠もり、北陸朝廷の樹立を目指しますが、後醍醐天皇が吉野に南朝をひらいた事により、恒良親王の皇位は幻となりました。室町幕府軍は10倍の軍勢で敦賀の町を埋め尽くし、籠城戦は5カ月に及びました。最後は食料が底をつき、金ヶ崎落城の際は、尊良親王に殉じて総大将新田義顕以下321名の武士が自刃しました。大半は近畿、中国、四国地方の無名戦士で、その魂は金崎神宮内の絹掛神社に祀られています。
月いつこ鐘は沈るうみのそこ松尾芭蕉
幕府軍との戦いに破れた新田義顕は「陣鐘」を敦賀の海に沈めます。のちに国守が陣鐘を探しますが、逆さに沈んだ陣鐘は海底の泥に埋まって、引き上げることが出来ませんでした。
金ヶ崎城跡
江戸末期に、金ヶ崎城跡から経塚が発見され、石室から銅製の経筒、円鏡、碗が出土したことから、明治9年、ここが尊良親王御墓所見込地とされ碑がたてられました。京都市内には尊良親王の御墓所があることから、親王自刃の地として大切にされています。
戦国時代には、織田信長最大のピンチといわれる「金ヶ崎の退き口」の舞台となりました。元亀元年(1570)、織田信長は越前の朝倉義景討伐の軍をおこし敦賀に進軍します。金ヶ崎城を守備していた朝倉影恒を落し、陵北と陵南を隔てる木の芽峠を超え越前に入ろうとしたとき、同盟を結んでいた近江の浅井長政裏切りの一報がもたらされます。長政に嫁いだ信長の妹「お市の方」は、この危機を兄に伝えようと、両側を結んだ小豆袋を届けたと伝えられ、金崎宮には故事にちなんだ小豆袋のお守りがあります。
敦賀火力発電所(北陸電力)
金ヶ崎城の本丸跡「月見御殿」から、敦賀火力発電所が見えます。1991年に1号機が運転を開始し、2000年に増設された2号機は、石炭に加え木質バイオマスを燃料としています。石炭輸送船から石炭を下ろしていました。
月見御殿から見える敦賀半島の先端、立石岬には敦賀発電所があります。戦国時代末期、敦賀を治めていた大谷吉継は町を再編成し、豊臣秀吉の京都復興にともなう東北からの木材の流通により敦賀は活気をとり戻します。木材は「太閤板」と呼ばれる規格サイズに加工され、琵琶湖の水運を利用して京都へと運ばれました。
ヨーコの旅日記第14信有田・波佐見の窯元めぐり川津陽子メッセフランクフルトジャパン
10月半ば、フランクフルト本社から来日したドイツ人の女性
を連れて、有田・波佐見の地を訪ねる機会があった。いく
つか訪問した工房のひとつが、昭和 28年創業の有田焼
の窯元「文山窯」。
武雄温泉エリアから車で向かうと、専務の中島さんが道路に出て「グーテンモルゲン!」と、我々を笑顔で出迎えてくださった。まずは生地工場にお邪魔し、楽しみにしていた独自の『てびねり』技法を見せていただく。亜麻の布で生地を「たたきしめる」ことにより布の絶妙なシワ感を表現した文山窯の『てびねり』は、昭和初期に誕生したもので、この伝統技法の更なる進化により創り上げられたのが、“ceramic mimic fabric”というブランド。リネンのようなシ
▲ 文山窯の工房。整理整頓された空間が印象的でした。
▲ 亜麻の布で生地をたたきしめる『てびねり』の技法。
ワ感が特長で、展示会で初めて拝見した時から強く印象に残っていた。この工場に勤めて40年近いという女性が、この『てびねり』を担当されている。ものすごく優しい雰囲気を放っていらっしゃったが、黙々と亜麻の布で生地をたたきしめて、まるで本当に布のような磁器を作りだして行く様子はまさに職人技。暫しのあいだ見入ってしまう。少し触らせていただいたが、たたきしめられたその生地は予想以上に薄く、少しでも強く触れると壊してしまうようで緊張感が走る。まるで職人さんの手のひら全体に優しく包み込まれて創り上げられたかのようで、熟練の職人技が成す繊細な手仕事に心から感銘を受けた。現在、唯一この職人さんが『てびねり』技法を使えるのだそうで、中島さんがその技術を学ばれているということであった。伝統技術の継承は重みがあるが、とても重要で素晴らしい責任だと感じた。その後、有田焼工業協同組合に場所を移し、絵付けや有田焼で唯一のトンネル窯を見学させていただいた。ご存知の方も多いと思うが、トンネル窯とは、トンネル型
▲ 坂道が印象的な波佐見町。いたるところに煙突が見える。 ▲ 焼き物の神様を祀る波佐見町の「陶山三神社」。 陶山三神社の豪華な天井画。波佐見町で見た登り窯の跡地。
▲
▲
の窯の一方から器を積んだ台車を入れて、トンネル内を移動する間に余熱、焼成、冷却が行われて反対側の出口から出てくるという連続焼成用の窯である。ここでは中島三代目社長も出迎えてくださった。生産性と均一な焼成を可能にするトンネル窯であるが、ここでの焼成以外は全て手作業とのことで、ひとの手でなければ成せない手仕事への強いこだわりを感じた。このトンネル窯は現在、有田のメーカー 6社が共同で利用しており、週7日、24時間、常に火が焚かれているため、持ち回りで宿直を担当されるのだそう。そんなフル稼働のトンネル窯だが、お正月とお盆の年に 2回、火が消される時期があると言う。もちろん、こんな時期くらい休みたい.、という理由からではない。年に 2回、窯の定期点検が実施されるためである。常に火が焚かれている状態から窯内の熱が冷めるまでに約 2日間、点検後に再び火を焚き始めてから一定の温度に戻るまでに更に 2日間ほど要するというのだからトンネル窯の巨大なサイズ感が窺える。競合にもなり得るメーカー同志が協力し合って火種を守る、この仕組みが象徴する一体感がこの地域の伝統工芸を支える大きな柱になっていると感じた。今回の訪問について打診した際に、全国の数ある産地から有田を選んでくれてありがとうと仰った中島さんの言葉をふと思い出した。駆け足となったが、日ごろからお世話になっている波佐見・有田エリアの工房やショップを訪問し、改めて日本のモノづくりの現場に
▲ トンネル窯のある有田焼工業組合。
▲ 迫力のあるトンネル窯。
触れる貴重な 2日間の旅であった。快く受け入れてくださった皆さまに大感謝です。余談だが、波佐見・有田に行く前日のこと。今回来日したドイツ人女性はすでに何度も来日経験があり、都内においては、今更どこに行きたいといったリクエストは出てこないのだが、今回は一仕事終えるや否や、真っ先に連れて行ってほしい場所があると言う。場所は神田神保町。会社から近いこともあって、古本屋や飲み屋で賑わうこのエリアは個人的によく訪れるが、なぜ彼女が? 聞くと、ドイツ人の知り合いから教えてもらったお店に「 KOKESHI 」を買いに行きたいと言う。ウェブ検索で確認し、とりあえず向かった先は「書肆ひねや」。皆さんご存知だろうか。入り口から中を覗くと1階は古本屋の様子。いわゆるこのエリアでよく目にする雰囲気である。外国人を連れているせいか、店内に入るとすぐに店主と思しき方から
「こけしですか?」と 2階に案内された。2階に上がると、目の前に相当な数のこけし人形が並ぶ。500体は優に超えていたと思う。年代も形状も顔の表情もさまざまでずっと眺めていられる。アンティークこけしも置かれており、玄人向けなムードが漂う雰囲気のなか感嘆する我々日本人を横目に、彼女はずらりと並ぶこけし人形たちを黙々と吟味し、潔く6体ほどご購入。こんなに身近にこんなお店があったとは ……、しかも外国人に教わるとは ……。今年も間もなく終わりを迎えるが、来年も新たな発見に溢れる毎日でありますように。
敦賀赤レンガ倉庫
明治32年、大和田銀行創始者大和田荘七の主導により外国貿易港の指定をうけた敦賀港。明治38年には紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社のレンガ倉庫が完成し、アメリカ産の石油を直輸入しました。レンガ倉庫は外国人技師の設計で、フィート単位で設計され、オランダ製のレンガを使用してます。
レンガ倉庫は日本原子力発電が4億円で買収し、歴史建造物保護のため敦賀市に寄付。レストランや観光施設として整備され、古き良き国際都市敦賀の街並みを再現した「ノスタルジオラマ」が目玉です。全長約27m、奥行約7.5mの巨大ジオラマで、3方を山で囲まれた、明治から昭和初期の敦賀を再現しています。
敦賀とウラジオストクは定期旅客船で結ばれ、金ヶ崎の旅客桟橋には連絡鉄道が乗り入れ、駅舎や税関、大和田回漕部、ロシア義勇艦隊などのモダンな洋館が並び、金ヶ崎の城趾には、ロシア領事館がたっていました。昭和8年に来日したブルーノ・タウトも、この桟橋に降り立ちました。
「スペルト小麦・全粒粉使用」と表示されたスパゲッティが、輸入食品店や自然食品の店ばかりか、大手スーパーの棚でも定番化し始めたのは、ここ数年のことだ。これが定番化したことは、現代日本の食のトレンドの向かう先を暗示している。
単にスパゲッティの種類が増えたくらいで大げさな? いえいえ、この動きは氷山の一角なのです。「スペルト」とは、麦の種類の名称。お米で言えば、コシヒカリ・ゆめぴりか・バスマティ(インド)等の名称に相当する。「全粒」は、お米で言えば玄米で、精白していない玄麦のこと。「精白」とは、玄麦(米)の粒から「胚芽とふすま(ぬか)」を取り除いて「白くする」ことから来た言葉。この過程を経て挽いた麦が、現在一般に売られている小麦粉で、これがコピー用紙のように白い色の粉であること、皆様よくご存知の通り。「玄」とは「黒い・暗い」の意で、お米で言えば、玄米の反対語が白米だ。現在市販のスパゲッティの主流は、精白したデュラムセモリナ麦粉。その見かけは、つるりとした透明感のある小麦色だ。これに対して冒頭に挙げたスパゲッティは、色がこげ茶に近く、透明感がなく、黒い粒状の麦芽やふすまが点々と混じっているのが、はっきり見える。これを「なんか汚れているみたい」と見るか、それとも「おいしそう」と見るか。その人の食へのこだわり具合で分かれる。
我が国で「白米信仰」に陰りが生じ始めたのは、1970年代半ば頃からではないか。一般消費者の間に自然食志向の人々が少しずつ増え始めたことがきっかけだ。それは減農薬&有機の食材を求める動きと表裏一体で、農家の側でもこれに応える動きが出始める。有機栽培かつ合鴨利用の減農薬で作られたお米の玄米は現在、高値ながらもネット通販の人気商品となりつつある。映画『奇跡のリンゴ』のお米版だ。
一方、一部で家庭用の精米機が普及し始め、炊飯器にも玄米炊飯モード搭載が当たり前になってきたのも、玄米の人気ぶりを反映している。この根強い玄米志向は「自然食志向」なのであって、これは、現代の「食の産業化」に対するアンチテーゼだ。ファストフードや添加物漬けの加工食品、農薬当然の農産物。「こんなものを当たり前に食べていていいの?」。消費者の側から湧き上がりつつある、この素朴な疑問。これは、現状維持を望む食の生産・加工・流通に関わる業界人にとっては、恐ろしい問い掛けとなりつつある。なぜなら、実は食の業界人こそ、この素朴な疑問の背後に広がる事態の重大性を、はるかに深刻に認識しているからだ。
「スペルト小麦・全粒粉使用」スパゲッティの登場は、欧米における、自然食志向を象徴している。「スペルト小麦」というのは、長い間欧州で、忘れ去られていた小麦の種類だ。この麦種、古代ローマ時代はもちろん、そのはるか昔から、長きに渡って地中海沿岸地域で盛んに栽培されてきた。だが、より単位面積当たりの収量が高く、また寒冷な気候でも耐性の強い小麦の種が開発されるにつれて、いつしか忘れ去られた存在となっていたのだ。それが、二十世紀末になって、欧州で復活し始めた。風味がいいからだ。消費者が「そのおいしさ」を求めたからだ。消費者の声に農家が動かされた。ここが肝心な点だ。なぜか。米にせよ麦にせよ、農作物の品種改良というのは、つい最近まで、「単位面積あたりの収量をより高める」「痩せた土地や気候の厳しいところでも育つ耐性がある」等々、基本的に「生産者の経済的な利益中心」で進められてきた歴史がある。その最先端が GMF(遺伝子組換え食物)ということになる。
農業のこうした方向性に対して、消費者の一部が反旗を掲げ始めた。「安全で美味しい多様な食材を」という消費者の声は、日増しに強まりつつある。その結果、スペルト小麦(中でも発芽麦)の全粒粉がトレンド化している。スペルトには独特の風味がある。その全粒粉は、胚芽を残しているため栄養価が高い。しかし、精白率の高い真っ白な小麦粉と比較すると、変質しやすい。だから流通業者にとっては、ありがたくない。農家にとってスペルトは、単位面積あたりの収量が低い。このように、この小麦粉をめぐっては、消費者と生産・流通に関わる人々との間で、利益が相反している。その中で、消費者の声が徐々に重みを増しつつある。
スペルト小麦の復活に続いて欧州では、かつて貧しさの象徴とされた大麦・ライ麦が従前以上に、また収穫効率が低く馬の餌とされてきた一粒麦でさえ、新たに食用に出荷され始めている。無論、すべて減農薬にして有機が合言葉だ。しかも、これらの麦を、玄麦のままで購入するグルメな消費者が徐々に増えつつある。米も麦も、精白せずに玄米や玄麦の状態であれば、精白したもの比べて、はるかに長期間の保存が可能だ。麦の場合、パンやパスタにするためには、精白に加えて、挽いて粉末の麦粉にする必要がある。このため、「精
欧米の自然食志向の家庭で徐々に普及しつつあるのが、白」と「製粉」を一度にこなす「家庭用製粉機」だ。古代からの伝統に基づき、石臼を小型化・電動化したものだ。これを使って玄麦を家庭で挽き、その挽きたての新鮮な全粒麦粉でパンを焼き、ピザを焼き、パスタを練る。当然おいしい。パンやパスタに限らず、基本食材は、できるだけ家庭で手作り。これが三ツ星レストラン巡りに飽きた欧米のグルメの、トレンドの最前線だ。ネット通販の普及に伴い、従来はプロしか入手できなかった食材も個人での入手が容易となり、家庭用の調理器具もどんどん進化して安価になりつつある。料理の作り方は、ユーチューブでいくらでも見ることができる。こうした時代の大きな変化が、この「家庭グルメ」の流れを強力に後押ししている。こうした動きは、マックやケンタッキー・フライドチキンやサブウェイやタコベルなど、食の均一的な大量供給システムを生み出した、米国において最も先鋭的に現れている。この新たな食のルネサンス、我が国でも確実に胎動が始まっている。
人道の港「敦賀ムゼウム」
金ヶ崎緑地にたつ敦賀ムゼウムでは「東洋の波止場」といわれた国際港敦賀の歴史やポーランド人孤児の受け入れ、杉浦千畝「命のビザ」のエピソードを紹介しています。2020年度をめどに、敦賀港駅舎、税関旅具検査所、大和田回漕部、ロシア義勇艦隊の4棟を復元した建物に拡充される予定です。
地上の「ヘブン」敦賀
映画や小説で話題となった、外交官杉浦千畝の「命のビザ」。リトアニア総領事代理の杉浦によって6000人分ほどの日本通過ビザが発給され、多くのユダヤ人がシベリア鉄道で敦賀をめざしました。昭和14年、ドイツとソ連に分割・占領されたポーランドのユダヤ人は中立国である隣国リトアニアに逃げ込み、そこから唯一の脱出手段といわれたが、シベリア鉄道でウラジオストク〜敦賀に渡り、アメリカなど第三国に亡命することだったのです。列車が停車するたびにソ連の秘密警察が乗り込み、若者が拘束されてシベリア送りになったり、貴金属や時計、アクセサリーを没収されたりしました。命がけでウラジオストクに着いたものの、日独伊三国同盟を結んだばかりの日本政府はユダヤ人難民受け入れを拒みます。しかしウラジオストク総領事代理根井三郎は、杉原と同じハルビン大学出身で、杉浦の思いを無駄にはしたくないと考えました。根井は「日本領事館の発給ビザを持っているのに、入国させないのは外交機関の威信を損なう」と主張。ウラジオストクから敦賀への船旅のアテンドは、JTB職員の大迫辰雄たちに任されました。難民を満載した「天草丸」では、荒れ狂う日本海で大半が船酔いを起こし劣悪な状況に陥ります。その中で大迫たちは一人ひとりの名前をリストと照合し、アメリカの「ユダヤ人協会」から送られた援助金を分配しました。10カ月にわたり毎週一往復の難民船が運行され、のべ4000人以上が敦賀に上陸し、新聞でも大きく報道されました。敦賀の人々は難民をあたたかく迎え、銭湯を解放したり、食料を差し入れたり、家に泊めたり、時計やアクセサリーを現金や食料に替えたりと、常に命の危機と闘ってきたユダヤ人難民にとって、敦賀はまさに地上の「へブン」でした。昭和2年、二代目大和田荘七によって建てられた大和田銀行本店。設計は永瀬狂三、吉田克。永瀬は京都帝国大学建築部長として、京都大学吉田寮や京都大学文学部陳列館、理学部附属地球熱学研究施設など、山本治兵衛との共同設計で京都大学の建物を多く手がけました。鉄筋コンクリート(一部石造)、地上3階地下1階の建物には、当時の北陸地方では珍しかったエレベーターが備えられ、銀行としてだけでなく、地下の食堂や屋上ビアガーデン、舞台を備えた公会堂としても利用されていました。現在は往時の面影を残しながら、敦賀市立博物館として活用されてます。
氣比神宮(けひじんぐう)
市内でひと際目だつ大鳥居は、古来から越前国一宮として信奉されてきた「氣比神宮」です。北陸道の総鎮守として朝廷からも重視され、敦賀が越前の玄関口とされてきたことを物語っています。元禄2年(1689)9月、敦賀に到着した松尾芭蕉は、月の美しさで知られ名月や北國日和定なき松尾芭蕉る敦賀で見る、仲秋の名月を楽しみにしていました。到着した日は快晴でしたが、旅館の主人に「あすの夜もかくあるべきにや」と訪ねると、主人は「北陸の天気は変わりやすい。今夜のうちに氣比神宮へ参りませんか」とアドバイスされます。氣比神宮に出かけ月見を堪能した翌朝は、主人の言葉通り雨となり「名月や北國日和定なき」の句が生まれました。時宗2代目遊行上人が、正安3年(1301)に氣比神宮を訪れ
た際、境内西側に沼地があり参詣者が往来に苦労していま月清し 遊行の持てる 砂の上松尾芭蕉
した。上人は自ら先導して弟子や信者たちと海岸から砂を運び、水溜りを埋め立てました。この故事に感銘をうけた松尾芭蕉は「月清し 遊行の持てる 砂の上」の句を残します。
ドラゴンシリーズ 52
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
素敵な日本と愚かな日本
20
い
全国の地方を訪れながら物作りをしていると、多くの
人々との出会いが待っている。日本は北から南までの3000キロの島国で、多様な文化が脈々と受け継がれ、今でも日本全国各地には地方独特の文化が息づいている。
昨日まで島根県を訪れた。石見地方に受け継がれる石州和紙の職人たちが丁度、和紙の原料となる収穫されたばかりの楮(こうぞ)を茹で上げ、その皮を剥いている最中だった。現在でも楮を地元で収穫する和紙の産地は、石州和紙だけになってしまったそうだ。楮を茹で上げる時に漂う香りは、まるで栗を茹で上げた時のようにふっくらとした優しくまろやかな香りで、初めての体験だった。
今度は茹で上がった楮の小口を大きな木槌で叩いて割れ目を作り、乾かない内に素早く木の皮を剥いてゆくのだ。木槌で叩く作業と皮むきの作業を少しだけ無理を言って体験させてもらった。
この時期に限られる楮の収穫と茹でて皮むきをして天日干しをする作業は、地元の農家の人々が行なっている。若
代の女性も年配のご婦人の中に数名いて作業をして
いた。そんな風景を見ていると1300年以上続く石州和紙の長い伝統を支える人々の、地元に対する深い愛情を感じることができた。
石見地方は交通の便が良く無いことも幸いしてか、地方の伝統文化が今でも大切に受け継がれている地域である。石州和紙で作られた神楽面を使う「石見神楽」の団体が200以上あり、毎週土曜日には必ずどこかで神楽を舞っているそうだ。そして島根県の江津市には、昔からの石州瓦や石見焼などの伝統産業が、世代を越えて受け継がれてきている。そんな石見地方の素晴らしいところは何といっても、人々の優しさや人間味溢れる情だろう。日本海と山々が隣接した土地は夏は過ごしやすいが、冬になると海からの風と雪が厳しい地域だ。しかし、厳しい自然の中で育まれた人間と伝統文化には、日本独特の優しさと包容力に溢れるエネルギーを感じるのだ。
そんな体験をしてきたばかりの帰り道、ニュースでは普天間基地の移設のため、辺野古の埋め立てが進んでいるという話が聞こえてきた。
70
何と愚かなことだろうか。自然とそこに住む生き物は何千年、何万年、何億年の時間を掛けて、その場所にその環境を作り、尊い生命を育んできた。その貴重な環境を埋め立ててしまえば、もう取り戻すことはできない。
環境や自然、生物を死滅させることも愚かなことだが、そこに住む沖縄の人々を苦しめてきた戦争や戦後の混乱に対して、日本人は自らの責任を持って人々の生活を守ろうとしていない。戦後 年以上が経過しながら、今もアメリカの支配下のままのように、沖縄だけが米軍基地のように不当な扱いを受け続けている。
沖縄にも固有の民族の伝統があり、今もその地域では大切にされている文化や言葉が存在する。しかし、私達日本人は沖縄の人々の苦難から目を逸らし、自分たちだけのうのうと日々の平和と生活を送り続けている。それが同じ国民であり、同じ日本という国の実態であり、悲しさでもあると思う。
私達はもっと日本という自分たちの国に目を向け、お互いのことを思いやらなければいけない。それは沖縄のことだけではなく、隣にいる自分にしか興味の無い人々である私達自身が真剣に考えて行かなければならない命題なのだ。沖縄はこのままでは二度と自由を取り戻すことはできない。それは私達日本人の全ての人間が抱えている未来への課題だ。日本は本当に地方色が多彩で、それぞれの地域で豊かな生活文化が育まれてきた素晴らしい国だ。そんな地方の文化をこれからも大切にして行きたいと思う。
No War, No Nuclear.
【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】Copyrigt . 2018 Shiong All rights reserved 無断転載・複写を禁じます