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取材協力:エストニア政府観光局、機材協力:フィンエアー
Estonian National Museum
エストニア第2の都市タルトゥから北に約2km。ソ連支配時代の空軍基地跡地に、エストニア国立博物館がたちます。
2016年にオープンしたエストニア国立博物館の設計には、若き日本人建築家・田根剛さんが参加し、日本でも大きな話題となりました(設計集団「DGT.」ダン・ドレルさんとリナ・ゴットメさんとの共同設計)。田根さんは現在、パリでATELIER TSUYOSHI TANEARCHITECTSを設立し「TORAYA PARIS」 やGINZA SIX内「クレ・ド・ポー ボーテ」などを手がけています。
全長約360mにも及ぶ建物の下には湖があり、この部分は橋梁と同じ構造になっています。国立博物館コンペ(2005年)はエストニア初の国際建築コンペで、108案の中から選ばれました。
ガラス面には、エストニアの民族衣装に使われるモチーフがプリントされ、周辺の景色と溶けあいます。
争で命を落としたり、チェルノブイリ原発事故には数千人の若者が送られたといわれます。
博物館のOlmaru Luhaさんが、館内をガイドしてくれました。最初の博物館は1909年に設立され、エストニア建国(1918年)よりも歴史が長いそうです。2005年のコンペでは街の中に敷地が設定されていましたが、田根さんはグーグル・マップで滑走路跡を見つけ敷地として提案。ソ連時代の負の遺産であった軍事基地をメモリー・フィールド(記憶の原野)と捉え、博物館を新時代のランドマークとして提案した点が審査員に評価されたようです。
メイン展示となる「 Encounters(出会い)」。ユニークなのは現在〜氷河期まで1万1000年の歴史を、さかのぼるように展示した点です。最初に置かれているのは、スカイプ創業者の椅子やノートパソコン、エストニアの国民ID(国民識別番号)カードなど。エストニアの国民IDカードは、日本の住基ネット(住民基本台帳ネットワークシステム)が参考にしたといわれます。次のコーナーでは、エストニアの独立について100人のインタビューを映像で観せています。1989年8月23日、エストニアのタリン、ラトビアのリーガ、リトアニアのヴィリニュスまで、人々が600kmにわたって手をつないだ「人間の鎖」。総勢200万人が参加し、市民自らが映像を記録してタイムラグ無く世界へ発信された初めての革命運動ともいえます。タッチスクリーンで各地の写真、ビデオなどを選び、地域による服装、生活スタイルの違いも比べられます。1989年11月10日にはドイツでベルリンの壁が崩壊し、独立が夢ではないことが示されました。
中世の魔女狩りからソ連の支配時代まで、様々な弾圧を受けた人々の姿を展示しています。ナチス・ドイツのポーランド侵攻が始まった1939年、ソ連はエストニアに対し軍事的な圧力を強め、ソ連軍のエストニア駐留がはじまります。1940年には社会主義革命による人民政府が設立され、共産主義候補が93%の支持を集めたと発表されます。国会はソ連への「編入要請決議」を採択し、エストニアは表面上、自ら選択した形でソ連邦構成共和国となりました。
1941年にはエストニア人約1万人が連行され、シベリアへ送られる強制連行事件が起こります。反体制家への弾圧といわれましたが、実際は女性や子ども、老人も多く含まれ、コルホーズ(集団農場)で強制労働させられました。何度か行われた強制移住の犠牲者は10万人以上ともいわれます。1941年9月、不可侵条約を破ったドイツによりエストニアは占領されソ連軍は撤退。森に逃げた人々は「森の兄弟」と呼ばれるパルチザン活動に参加しました。第二次世界大戦の終戦後エストニアは再びソ連の支配となりなすが、大戦で3分の1近い人口を失いました。それを補うようにソ連から大量の入植者が送られ、ロシア人が役場や軍の中枢をにない、地元のエストニア人は排除されていきます。
はじめてのエストニア国旗を作ったのは、タルトゥ大学の女学生でした。1884年、タルトゥ大学ではドイツ語だけで授業が行われ、バルト・ドイツ人の学生ユニオンが力を持っていました。それに対抗し、エストニア人学生が自らのユニオンを結成。その象徴となったのがこの旗でした。ソ連時代は住宅の煙突に隠され、1991年、独立運動の象徴として取り出されました。
1950年代、スターリンを継いだフルシチョフにより雪解けの時代が訪れ、1960年代には追放されていた作家や芸術家の活動が再開されて、タリンはジャズ音楽のメッカとなります。禁書だったカフカ、カミュの本や、収納所の実態を描いたアレキサンドル・ソルージェニーツィンの「収容所群島」が出版され、1965年にはタリン〜ヘルシンキ間の旅客フェリーが就航します(当時はソ連・東欧圏と西側諸国を結ぶ唯一の交通手段)。生活が安定する一方、ソ連は言語のロシア化に力を入れ、街中の表示や教育現場のロシア語化を進めます。それに対抗するように、エストニアの詩人ハンド・ルンネルやユハン・ヴィーディンク、小説家ヤーン・クロスの歴史小説が人気を集めました。1989年の人口調査ではエストニア人の割合が62%にまで下がり、エストニア人の人口がロシア人を下回るという危機感がつのりました。
タリン郊外の「タリン合唱祭広場」では、5年ごとにエストニア最大のイベント「歌と踊りの祭典」が開催され、3万人以上の出演者と20万人の観衆が集まります。ソ連支配の時代、音楽祭のプログラムは当局の審査を受けましたが、民族への思いを慎重に織り込んだ歌が人々を熱狂させていました。1985年、ゴルバチョフによるグラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(立て直し)がはじまり、スターリン時代の犠牲者への追悼集会が開かれます。1986年にはシェールオイル採掘やリン鉱山拡大に反対する環境保護運動が活発になり、同年のチェルノブイリ原発事故により、環境に対する意識の高まりは全国に波及します。その一方、エストニアにはソ連初の海外合弁企業が設立され、1988年にはエストニア創作家諸同盟の総会において、民主主義改革を求め共産党を批判する発言が公然と行われました。さらに共産党員エトカル・サヴィサールによるテレビ生放送中の発言をきっかけに「ペレストロイカを支持するエストニア人民戦線」が誕生し、これはゴルバチョフの承認も得ました。1988年6月、人民戦線よってタリン合唱祭広場で開かれた集会では、禁止されていた青、黒、白のエストニア国旗がたなびき、9月の大集会には国民の4分の1にあたる25万人が集まり大合唱を行いました。これが全世界の注目を集めた「歌う革命」の始まりとなります。
もうひとつの常設展示「Echo of the Urals」は、フィン・ウゴル語を使う民族を紹介した展示です。フィン・ウゴル語は、ハンガリー、フィンランド、エストニアをはじめ、スカンジナビア半島北部のサーミ人、ロシア領内のコミ人、ハンティ人、ウドムルト人、マリ人など少数民族の使う語派として知られ、自国をもたないフィン・ウゴル語使用者は約250万人といわれます。 コミ人を紹介する展示。コミ人にはご馳走で客人をもてなす習慣があり、20種類の料理を揃えます。じゃがいも野菜料理、羊肉、川魚、ベリー類、黒パンなどがテーブルに並び、椅子は神様、主人、妻、客人と座り方が決まっています。
Echo of the Uralsの企画には、10年の歳月をかけたそうです。エストニア人がフィン・ウゴル語を大切にする背景には、エストニア国民とは誰かという問題があります。住民の3〜4割を移民を中心としたロシア系が占め、ロシア語だけで不自由なく暮らせる街もあります。1991年の独立後、居住を続けるロシア系住民にはエストニアの国籍取得が求められ、政府は取得の条件としてエストニア語の試験を行いました。言語こそがエストニア人である証と考えられたのです。
エストニア人には、同じフィン・ウゴル語を話す民族へのシンパシーがあるといわれ、その思いが展示からも伝わります。エストニア独立直後はロシア系住民を排除する機運もありましたが、EUに加盟したこともあり、国籍取得の条件は徐々に緩和されました。一方、ロシア系住民の中には仕事や親戚の都合でロシアとの行き来を必要とする人もいて、今も10%ほどが無国籍者となっています。無国籍といっても税金や教育、社会保障制度などは国籍保有者とほぼ変わらないようです。
月をこそ ……
誉田屋源兵衛 ×ラウラ・デ・サンティラーナ誉田屋源兵衛二百八十周年一穂堂ニューヨーク十周年特別記念展
夕闇を明るく照らす、月夜の晩。京都を代表する伝統的町家を解放して、帯匠誉田屋源 兵衛二八〇周年とニューヨークにギャラリーを構える一穂堂の開廊十周年を記念する、斬新かつ革命的な帯とヴェネチアン・グラスの
展覧会が開催された。(2018年
文:
10
月6〜8日)
写真:サトウヒトミ
石澤季里
上/1997年の初来日を機に、平和と静けさを重んじる日本文化に開眼したというラウラ・デ・サンティラーナ。右/静かな夜、古木にひとひらの梅が咲く儚げな屏風の前で、袋帯「跳鯉」と銀箔を織り込んだガラスのオブジェ「無題」が坪庭の柔らかな灯りを受けて穏やかに呼応している。
明治元年、西陣帯地大元卸商の「横綱」称号を授与された「誉田屋」は、
江戸時代から続く、京都を代表する老舗帯匠である。 1980年、
さで 10代目山口源兵衛を襲名した現当主は、以来、古都に伝わる染織技術の保存と復興に邁進する傍ら、ファッションデザイナー・コシノヒロコや建築家・隈健吾、画家・松井冬子らとコラボレーションし、和装界の可能性を追求する展覧会を多々開催している。素材作りからこだわり、卓越した職人技を駆使した、世界にひとつの芸術的な帯。その前衛的な創作活動は海外にまで広く知れ渡り、一昨年にはロンドン・ヴィクトリアン&アルバート博物館に帯 5点と着尺 2点が収められた。 一方、ヴェネチアに拠点をもつラウラ・デ・サンティラーナは、 1921年、ヴェネチアのガラス産業に一石を投じ、ヴェネチアン・グラスのクラシックなイメージを一掃したガラス工房「ヴェニーニ」の設立者を祖父に、建
上/大広間に整然と並ぶ長方形の平板状ガラスは、時刻によって様々に表情を変える。モノトーンのガラスのなかで銀や金の箔が光を反射する様は、風に揺れる水面のさざ波を見ているようだ。右/展覧会の会場は、豪奢な門構えがひときわ目をひ
く、京都の町家「誉田屋」。左/匠にとって工房は神殿のようなもの。互いの神殿を訪れ、創作意欲を刺激しあったという源兵衛とラウラ。
歳の若
けるようになった。
築家の父の背中を見ながら育った。
歳で古都ヴェネチアの閉塞感から逃げ
るように NYに渡った彼女は、建築やグラフィック・アートの世界に身を置きながらも、いつしか家業のガラスのオブジェや照明器具のデザインを手が
歳で島に帰郷した彼女は、何かに突き動かされるよう
に自身のガラス作家としての活動を開始した。余計なものを削ぎ落とした、強く、生き生きとした平板状のオブジェを得意とするラウラの作品は、現在、 NY・メトロポリタン美術館やパリ・装飾美術館、他、世界の名だたる有名美術館に所蔵されている。その創作過程には、ガラスという素材を熟知するだけでなく、次のステップを考えながら行動する、類稀な集中力とよどみない決断力が必要とされる。 今から4年前、二人は銀座・一穂堂ギャラリーで開催された展覧会「ラウラ・デ・サンティラーナ」展で初めて出会った。遥か遠い昔、世界の文化・
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右/本展のメインヴィジュアルに使用された作品。藤や松の刺繍がほどこされた見事な帯に、金箔を焼き付けた琥珀色のガラスが幻想的な共鳴を生んでいる。上/左2点の帯は、真珠の母貝を和紙に貼り、それが折れないように0.3mmの細さに裂いた糸を横糸に織られている。左の帯と同じタイプの帯がV&Aのパーマネントコレクションとして収められた。
芸術の中心地だった京都とヴェネチアに生を受け、街を代表する伝統工芸家の家庭で育った二人。年齢や環境は違えども、成るべくしてなった二人のアーティストは、互いにシンパシーを感じ、尊敬しあいながら距離を縮めていった。 展覧会の実現にあたって源兵衛がラウラに投げかけたテーマは、建礼門院右京大夫の『月をこそ・・・』。月の不在を嘆くあまり、満天の星空の美しを見落としていたという、美の再発見と凝視の味わいが込められている。 経年変化によってより深みが増した古箔の鈍い輝きを横糸に、月明かりに怪しくきらめく源兵衛の帯。ラウラの平板状ガラスのなかに封じ込められた、液体のように朧げに漂っている柔らかな光と影。歳月が織りなす伝統的な京の町屋を舞台に、日本の幽玄の美を表現した展覧会がここに完成した。今後、ニューヨークへと巡回予定のこの展覧会は、かの地でも、多くの美術愛好家を虜にするであろう。
上/竹は、清浄と縁起の良さのシンボル。月の使者に連れて行かれたかぐや姫をイメージして作られた青竹色のオブジェ。左/鳥の王を縁担ぎに、天下人、上杉謙信は孔雀の羽の陣羽織を身につけていた。本物の孔雀の羽を拠って横糸にした帯は、技術保持者の職人が高齢になったため、今後は創作不可能な一点物だ。問い合わせ先:銀座一穂堂 http://jp.ippodogallery.com
エストニア第二の都市タルトゥ
旧市街のレストラン「UMB ROHT」。秋はイノシシなどジビエ料理の美味しい季節です。
ワイルドなイノシシのステーキ(上)は、ポテトと人参のソースでいただきます。赤ワインソースのラム肉(右上)も美味でした。
14世紀後半に建てられた「聖ヨハネ(ヤーニ)教会」。テラコッタの彫像が埋め込まれています。
かつてハンザ都市として栄えたタルトゥ。ロシアとの交易は11世紀からはじまり、その後、バルト・ドイツ人の町「ドルパット」となってからはハンザ同盟の街として繁栄し、街を流れるエマユギ川には商船が行き交いました。
タルトゥの聖域といわれる「トーメの丘」。丘の上にはカール・エルンスト・フォン・ベーアの銅像が立ちます。1792年、有力なバルト・ドイツ人の子としてタリンで生まれたベーアは、生命の起源を研究し、ダーウィンとも比較される最も重要な自然科学者の一人で、タルトゥ大学で医学を研究していました。
Toomkirik街のシンボル、丘の上の大聖堂(トームキリク)。13〜15世紀にかけて、難工事の末に完成しましトーメキリクたが、16世紀の宗教改革によってルター派の焼き討ちにあい長いあいだ廃墟となっていました。
アーチ状の煉瓦構造がよく分かります。
建設中は魔物によって工事を邪魔され、夜の間に壊されてしまうため、しかたなく女性の生贄をささげたという伝説が残されています。
19世紀初めに聖堂の一部は再建され、タルトゥ大学図書館となりました。現在は歴史博物館に利用されています。
ヨーコの旅日記第13信上海の夕飯事情
10月は「ミュージックチャイナ」への出張のため、数年ぶりの中国・上海へ。「ミュージックチャイナ」は、出展者数2,200社、来場者数 11万人を超える、アジア最大の楽器と音楽の見本市である。計12ホールの会場は、ピアノ、弦楽器、木・金管楽器、パーカッション、ギター等の商材別に別れ、ギターに関してはさらにエレキ、アコースティック、フォーク、クラッシク、スパニッシュに細分化されたホール構成となっており、来場者は目的に合わせて会場を回ることができる。当たり前だが、楽器は触れて、演奏してみないことには、簡単に購入を決定できない。というわけで、会場内では至るところで積極的に実演が行われる。長年さまざまな見本市を見
▲ 数年ぶりの上海。外灘エリアからの景色
▲「ミュージックチャイナ」の会場風景
Messe Frankfurt (HK) Ltd
川津陽子メッセフランクフルトジャパン
てきたが、これほど賑やかな見本市は他にないのではないかと思う。特にドラム、管楽器、アンプのホールは、常に声を張らないと会話が出来ないくらいの賑やかさで、ライブパフォーマンスのステージ前は来場者の熱狂に溢れていた。来場者の試弾が周りの音と被らないよう、ブース内に、完全クローズの試弾用ルームを設ける出展者ブースも目立った。経済成長に伴い、今後、教育や娯楽などの「文化消費」が拡大していくと予想される中国。幼少の頃から音楽を習わせるという教育文化を反映してか、音楽教育に特化した出展ゾーンも確立されている。キッズ参加型の併催プログラムも充実しており、平日にも関わらず子供達の来場者が多いのが印象的であった。
さて、久々の上海出張にも関わらず、最近の上海の街について事前の下調べを全くしていなかった。ガイドブックも地図もなかった。楽しみにしていた夕飯、どうしよう。ネットで検索もしてみたが、いまいちよく分からない。そこで、郷に入れば郷に従え、で、現地の人たちにオスス メを聞くことにした。ある1日は、南京西路エリアの歩道ですれ違ったカップルとその(恐らく)両親に「四川料理が食べたいのです」と話かけてみたところ、一生懸命頭を悩ませて住所を教えてくれた。タクシーに乗り込み到着したのはインターコンチネンタル上海。その場所はホテル内の四川料理レストランであった。確かに美味しかったが、場違いなくらい豪華絢爛な装飾の店内になんだか落ち着かず …… 。うーむ、もっと地元の人が集うようなお店をお願い!
翌日は、展示会場に隣接したモダンな Kerry Hotelで、若手のベ
ルボーイに、「火鍋が食べたいのです」と訴えてみる。紹介された
お店に行ってみると、店内は地元の人たちとおぼしき客で溢れ、待
合スペースのようなところに通される。食べるスペースはともかく、こ
のお店の待合いスペースは異様に大きい。そして席が空くまでのお
もてなしに更に驚く。
カウンターにはナッツ、スナックが常備されていて、とりあえず何か
つまみながら待っていてください、ということのようだが、長時間待
ちもあり得るのか、すごろくゲームのようなものまで用意されている。
この間、唯一英語を少し話せる若い女性が単語を必死に並べて対
応してくれるが、ほかのスタッフたちも何かと視線を向けてくれる(笑)。
ご飯まで待てずフライングして注文したビールがなかなか来ないので「まだ?」と一言発したつもりが、数名が代わる代わるにやってきて
▲ キッズ向けプログラム。平日にもかかわらず子ども達も来場 Messe Frankfurt (HK) Ltd
▲ 日系企業の出展は、ジャパンパビリオンを含め約 30社ほど
申し訳ない気持ちになる。その後の食事中も、火鍋スープを継ぎ足す役割のおばちゃん、おしぼりを何度も交換に来てくれるおばちゃん、言葉は通じなくとも、目と目で会話が繰り広げられ楽しい気分になる。痺れる辛さに唸りながら、「やっぱり本場は違うよね〜」と満足して店を出る頃、なんと東京での出店疑惑が ……。でも、この独特なおもてなしはここでしか味わえないはずである。
最後の夜は、展示会の閉会後に外灘エリアまで足を運んだ。キラキラの夜景をバックに、近くにいたご夫婦に写真撮影をお願いしたところ、なんだか少し日本語を理解している様子。話を聞くと、なんと旦那さんは日本語の勉強のために、1990年から 3年間、埼玉県の大宮に住んでいたという。ひとしきり会話を楽しんだあと、最後はもちろん、日本語で「ありがとうございました!」と告げてお別れした。最後に、もうひとつ日本に関連するエピソードを。広大な「ミュージックチャイナ」会場内の中庭を、客を乗せてホールからホールへと走るトローリバス。歩行者との衝突を防ぐためか、常に音楽を鳴らして走っている。その音楽が、なぜかJR山手線の「ドアが閉まります」のアナウンスと共に鳴るお馴染みのメロディで、中庭でこれを耳にする度、なぜか一瞬焦る気持ちになるのでした。危険な飛び込み乗車にならぬよう、心にゆとりを持って師走を迎えたいと切に願います。
聖なる森 HIISへ広大な平原と森林、多数の沼地、湿原が広がるエストニアの大地。1500もの島々が点在する西部、豊かな耕作地の広がる中央地帯、ロシア国境と近く、森林、湖沼の多い東部といった3つの顔をもちます。その独特の地形は、スカンジナビア氷床によって削られた大地が隆起したもの。低地はバルト氷湖となり、バルト海の原型が形作られました。
エストニアの農家では昔から、ハーブを使った民間療法が盛んでした。プランターゴ(オオバコ)は、風邪の予防や下痢止めに効果があります。タンポポの根に含まれるステロイドは肝臓を守り、血液凝固作用をもつノコギリソウは、軍人にも重宝されました。柳の樹皮からとれるサリチル酸はアスピリンの原料になるなど、ラール教授は植物を手にとりながら説明してくれます。どこにでもある植物が、様々な病気や怪我、健康維持に活用できますが、植物の効能を把握した確かな知識も必要です。
ハゴロモクサは、バスに入れると肌が綺麗になり、皮膚のアレルギーに効くといわれます。
MAAUSK
エストニアのアニミズム
今も聖なる森 HIISは心の拠り所として存在します。日本の神社などと異なる点は、目印になる建物やシンボルをもたないこと。自然の木や石が聖なるものとして慕われています。聖なる石のくぼみには、コインを供える習慣があります。
白樺の樹皮に十字架や五芒星などを描き、患部に貼って治す治療法もありました。十字架には止める、五芒星には守るといった意味があり、マークを描くときは一筆描きにしたそうです。ソ連の支配時代に宗教の禁止されていたエストニアでは、独立後、エストニア本来の宗教観であるMAAUSKへの関心が高まっています。
おくれ .とは .ま .たくよく言 .たものだ .
それにしても .山の中のジジイに楽しみを
ラ .ジに刺激を与えてもらいたい!
しか読まない読者として .マンネリ化したコ
続けてもらわなき . .この頃は .工房楽記 .
激に .も .といい加減に .工房楽記 .を書き
そして鈴木さんにはこれからも .も .と過
バトンタ .チの件 .ご勘弁願いたい .
出す勇気も趣味も私には無く .
く考えるとSNSの様に普段の自分をさらけ
では調子にの .て書いてしま .たのだが .よ
と . .銀座路地裏あみだ歩き .のマクラま
も路地裏で軽く一杯景気づけ .
こんな日は大人しく帰ろうか .いやいや今宵
さて今日の売上は・・ムム .イマイチだ .
銀座和光の鐘が七時を告げる .
鈴木さんへ
タケオからの返信
タケオ
銀座のと .ておきの店を案内致します .
から下りて来て下さい .
でも .街の灯りが恋しくな .てきたら .山
銀座の安酒場は似合わない .
.傳 .も顔なじみ .そんなス .パ .ジジイに
ンチに舌鼓 .神宮前の予約の取れない有名店
良野の .ル・ゴロア .では大塚シ .フのフレ
バリの浜辺でイカンバカ .ルを楽しみ .富
SETOMAA
セト民族の地へ
エストニアの東南部、ロシアと国境を接する地域に、約3500人のセト民族が暮らすSETOMAA(セトマー)があります。セトマーはエストニアとロシアにまたがっていて(右地図の緑色がセトマー、赤い点線が国境)、ロシア正教を信仰しセト語を話す民族としても知られます。ツアーガイドHELEN K.LVIKさんが案内してくれました。
Seto Studio Galleryでは、SETOMAAで作られた工芸品を展示・販売しています。ギャラリーの方が自作した銀製のアクセサリーは、セトの民族衣装がモチーフ。銀を叩いて成形し、ノミで刻んで模様をいれます。
SETOMAAの陶芸やアクセサリー作家の作品が展示されていました。陶芸は民族衣装の特徴である刺繍をテーマにしています。セト地域の首都ペッツェリは現在ロシア領になっていて、両国間にはいまも領土問題が横たわっています。第二次世界大戦後の1945年、エストニアはソ連に支配され両国間には国境線が引かれましたが、ソ連邦構成共和国のひとつとして自由に行き来できました。しかし1991年の独立以降は国境を超えることが自由に出来なくなり、SETOMAAはエストニア側とロシア側に分断されたのです。
セト地域の伝統的な農家を訪ねました。セトやロシアの農家に多い、塀や建物で囲って外敵から守ったつくり。門から中庭に出入りします。ラートさん一家は16年前から廃屋寸前の農家を直し、母屋や納屋、ゲストハウスを作ってきました。一家がここに移住したのは、自分たちの食べ物を家族で作るため。有機野菜や酪農、ビール、蒸留酒づくりをしながら、セトの伝統を伝えるため子どもたちの体験学習も受け入れているそうです。家を訪れた人は、ライ麦から作った度数55%の自家製蒸留酒を主人から渡されるのがルール。一口飲むだけで、冷えた身体が一気に温まります。
客人をもてなすセトの伝統料理。特徴はソバの実を沢山使うことです。エストニアでソバを栽培するのはセト地域だけで、ロシアから来た習慣と考えられています。ソバの実サラダや黒パン、S.irと呼ばれる牛乳とフレッシュチーズ、卵黄などを混ぜた独特のチーズがテーブルに並びます。
Seto Leelo
セトレーロもともとセトレーロには決められた歌詞はなく、即興で歌われていました。最初の曲「マダラー」は、民族衣装を赤く染める植物の歌。リード役が歌詞を一行歌い、輪になって踊りながら皆で繰り返します。ヨーロッパではあまり歌われない音域があり、そのリズム感はアイヌ民族の伝統歌謡「ウポポ」にも似ていました。テーマは身近な生活からとられ、「湖の歌」には自然からの頂きものへの感謝が歌われています。「キルマスの歌」は、男女の出会いの場となった教会のパーティで歌われ、若い女性は髪の毛を見せて未婚であることを示す習慣がありました。既婚女性は白いスカーフで髪を隠します。
夏至を祝う「夏至祭りの歌」や「馬の歌」(夫を想う歌)、「泣き歌」(結婚の悲しみの歌)など様々な感情を込めた歌謡を、独特の踊りとともに歌い継ぎます。結婚式では3日にわたって歌い続けたそうです。昔は詩を作った人がメインの歌い手となり、追従する歌い手が歌詞を即興で変えて楽しみました。歌詞は文字に残っていませんでしたが、伝説的な歌い手VABARNA ANNEの歌を聞き書きした「PEKO」が、セトレーロのバイブルとなっています。身につけるアクセサリーは、中央の大きなブローチが特徴で、コインをチェーンでつないだネックレスと一緒に身に着けます。アクセサリーは祖母から孫に伝えられ、ブローチに刻まれたシンボルや服の刺繍には、様々なものから身を護る意味が込められています。
ソバの実を茹でたものと、羊肉のソース、サワークリームを合わせて食べます。ご主人がアコーディオンでロシア風のメロディーを奏でてくれました。
SETOMAAのソバ畑。林の向こうはロシアとの国境です。
しばらく前から家のヨーグルトとマヨネーズは自家製になった。今気に入っているのは、卵黄抜きの「マヨネーズ」風味。有機無調整豆乳とぶどうの種油を約1対2の割合で、電動ハンドミキサーで十数秒撹拌し、乳化させる。容器はミキサーがちょうど入るほどの直径の円筒瓶がおすすめ。仕上げにレモンと海塩とマスタードそして蜂蜜少々を加え、低速で十秒ほど練ったら出来上がり。電動ハンドミキサー利用で、所要わずかに2分。知らずに食べれば、植物性とは思えぬ味わいだ。バターについても、市販の生クリームを素材として、家で発酵させて作る自家製バターがおいしい。同様に、質のいい牛乳から生クリームを作ることだって、さして難しいことではなくなりつつある。マスタードについても、辛子の種と酢を素材に、ファロ(仏の著名メーカー)の水準を目指して挑戦準備中だ。これらは料理というよりも、食の DIY(手作り)と呼ぶべきか。一度やってみれば、いずれも簡単。自分で納得のゆく厳選した素材のみを使って作るのだから、市販品よりも当然おいしい。しかも防腐剤や乳化剤等の添加物・化学調味料はゼロ。その有無がもたらす味覚の違い。ピュアで新鮮な味わいを、舌が喜ぶ。
十年前だったら、こんなこと、一般家庭ではそう簡単には出来なかった。たとえば有機無調整豆乳なんて、手軽に入手できなかった。電動のハンドミキサー、これも料理のプロでもなければ、手が出しにくい価格だった。電子制御の発酵器にしても、現在の水準の製品は、家庭用では考えられなかった。家庭用の食品真空包装機なんて、存在しなかった。食材にしても同様で、例えばマスタードシード・ぶどうの種油・ゲランの塩なんて、売られている店が非常に限られていた。いずれも今では、容易に手に入る。このように、この十年ほどの間に家庭料理をめぐる環境は大きく変化した。
家庭料理の世界は今、創造力で無限の可能性を楽しむことができる、新たな環境が整いつつある。では、この十年で何がどう変わったのか。次の3つの大きな変化を挙げることができる。1.家庭用調理器具をめぐるテクノロジーの進展と低価格化。2.世界中から多様な食材が幅広く輸入されるようになり、国内産直の品々と並んで、これまで入手が難しかった品々が、ネット販売で容易に入手可能となった。3.ユーチューブに代表されるネットの力で、世界中の料理とその作り方を、誰もが簡単にいつでも見聞きできる環境が整った。
以上3つの変化は、何を意味するのか。これまでプロでなければ手にできなかった調理器具と食材と料理の専門知識。この基本3点について、一般人とプロの差が、この十年で大幅に縮まった、ということを意味する。だから? 敢えて言えば今、中途半端なプロでは太刀打ちできない、新たな家庭料理の世界が生まれつつある。
いわば「家庭料理ルネサンス」が起きつつある。もちろん、まだ限られた一部での話だ。でも、その「一部の勢力」は日々着実に力を増し、その要求水準も高まりつつある。例えば飲食の「飲」の世界。今は一段落した紅茶ブームそして中国茶ブームを経て、多くの人々は、茶葉の産地と摘果時期の違いによる味わいの違いを知った。数年前から続くコーヒーブームで、生豆を自家焙煎して楽しむ人も珍しくなくなった。今では豆挽きも行う全自動コーヒー・メーカーを各社が競う。喫茶店より「家で丁寧に入れる一杯こそ最高の味わい」と多くの人が思い始めている。現在、新築・リフォームを問わず、家づくりで最もお金が注ぎ込まれるのは、キッチンだ。実際、一般家庭の台所は、ひと昔前には考えられなかった水準に達しつつある。電子レンジ・炊飯器・ヘルシオ的電気クッカーに精米機、鍋とフライパン、包丁に研ぎ器、各種カッターからしゃもじ・スパテラに至るまで、この十年間で大きく変化した。家庭料理ルネサンスは現在、台所のすべてに渡って進行中なのだ。
ここにもうひとつ、見過ごせない要素がある。「団塊の世代」の皆様の動向だ。ここ数年スーパーでこの世代の男性を見かける機会が大幅に増えてきた。その多くは、弁当や惣菜売り場で、迷っていらっしゃる。が、野菜・果物・肉・魚そして調味料を真剣に選ぶ初老の皆様も、確実に増えている。今日本で最もお金を持っている、と言われるこの世代。定年後の余裕ある時間を料理づくりで楽しみたい。そう考える人達は、「長い老後」に備えた家のリフォームで、台所を最重視する。諸道具に凝り、食材に贅沢をし、吟醸酒やワイン選びにも心を配り、料理づくりを純粋に楽しむ。この心若く財布の豊かな熟年世代が、家庭料理ルネサンスの重要な支え手となり始めている。より料理を知るようになると彼らは内心思い始める「あの店の料理、値段の割にたいしたことないな」。
こうなってくると、飲食店は大変だ。どれほど腕の立つシェフや板さんであっても、プロは「店の経営維持」という重い足かせを引きずりながら包丁を握っている。これに対して家庭の料理人は、食材の原価や店の家賃や従業員の人件費なんて、考える必要がない。それに加えて、料理をめぐる基本3点で、プロと家庭の差が、急速に縮まってきた。その結果生じつつある、家庭料理ルネサンスという事態に、プロはどう対処すべきか。心配は無用だ。ファストフード、スーパーやデパ地下やコンビニでの惣菜が食事の中心で、時に高級グルメ巡り。そしてミシュラン食べログ志向の皆様。こうした「家でめったに料理をしない人たち」が以前に比べれば大幅に増えているからだ。加えて増加を続ける海外からの観光客。大都市圏の外食産業、こちらはこちらで、新たなルネサンスを迎えつつある。他にも様々な要素で大きな変化が起きつつあって、現代日本の食の世界は今、新たな創造の流れが渦巻く混沌状態がすごく面白い。
Smoke Sauna
サウナのルーツといわれるスモークサウナ。エストニアでは今も、伝統的なスモークサウナが愛好されています。
エストニア人は、スモークサウナを一種の聖域としてとらえられています。サウナに入る時はきちんと挨拶をして、大声で騒ぐことは厳禁。出産や病気の治療が行われ、結婚初夜にサウナに入り、亡くなるとサウナで身体を清める。生から死を司る場と考えられてきました。窯の上のサウナストーンが蓄熱し翌朝まで温かさを保つため、客人をサウナ室に泊めることもあったようです。大きなサウナには周辺の農家も一緒に入り、話し合いの場になりました。スモークサウナに入ると、まわりの人との一体感を感じます。日本の温泉や茶室のような役割を果たしてきたとも考えられます。
身体があたたまると、川に飛び込んだり、外のあずま屋で休憩します。準備の時間と手間のかかるスモークサウナは土曜日に入ることが多く、手軽な電気式サウナを持つ家庭も沢山あります。
SERGA村の礼拝堂
セト地域の小さな村。ソ連支配を生き抜いたロシア正教の礼拝堂。
セルガ村の村長をつとめるエーリ・リーナマエさんが、礼拝堂を守っています。近くの教会までは約8kmあり、ロシア領のためビザをとらないと行けません。リーナマエさんの肉親は、その教会に眠っているそうです。ソ連時代には郡長もつとめたリーナマエさんは、村の歴史を見守り続けてきました。子どもの頃は水車で粉を挽き、両親に連れられロシア正教会に通いました。ソ連時代に宗教は禁止されますが、礼拝堂はかろうじて残され信仰は続けられたようです。村には2カ所のコルホーズ(集団農場)が置かれ、ソ連からの移住者も含め500人以上が働きました。1950年頃、リーナマエさん一家も農地や家畜を供出しコルホーズで働き始めますが、配給されるじゃがいもなどだけでは暮らせず、ロシア側まで行って牛乳を売るなど生活は苦しかったそうです。
ソ連の支配時代、銀行や大企業は国有化され、農民が所有できる農地は30ヘクタールに制限される一方、土地のない農民には10ヘクタールの土地が分配され、農村では階級間の争いが起こりました。1950年には「クラーク」と呼ばれる強制移住策が実行され、夜中に家の扉を叩かれ1時間で身支度を済ませるように命じられた2万人以上の農民がシベリアに強制移住されられます。それを見た農民たちは、農地を供出し集団農場に加盟したのです。都市部では無神論を広めるための「科学的共産主義」が進み、厳しい管理下に置かれた教会の多くは、美術館やコンサートホール、倉庫などに転用され、聖職者の多くは国外に亡命しました。1991年、エストニアの独立によってコルホーズが解散したため、コルホーズに居た500人以上の農民が失職し、村長のリーナマエさんは対応に苦慮します。元々の村民に対しては、記録を元に土地や家畜が返還されました。ゼロから自分で農業をはじめる人や都市に移住する人などが各地に散っていき、村民はわずか19人となってしまいました。それでも「今の時代の方がいい」とリーナマエさんはいいます。
黒パンワークショップ
セト地域の学校を利用し、レイヴァ・アスティアさんは黒パンワークショップ Iti Leev.vabrik ni K..kをひらいています。ライ麦から作られる黒パンは古くからエストニアの主食であり、最近は健康食品としても見直されています。
発酵したパン種を手にとって、ライ麦の打ち粉の上で手早く形をつくり、十字などの切れ目をつけてオーブンに入れます。甘ったるい酵母の香りがキッチンに満ちてきました。黒パンは2週間ほどもつので、1週間に一度、まとめてパンを焼く家庭もあるそうです。ご飯を炊くのと同じ感覚の、日常的なパンづくりです。
アスティアさんにならって、パン作りに挑戦しました。パン種は思った以上に柔らかく、ぬか床のような感覚。桶に残ったパン種をこそげとり、少し残ったものが次の種になるため、定期的に桶を使わないと発酵しにくくなるそうです。オーブン250度で10分、180度で50分ほど焼きます。国立博物館にも展示されていた、中世と同じ作り方です。
Taarka Tar.
セトの食文化
Taarka Tar.は、伝統食を提供する家庭的なレストランです。ご主人のアーネフーンさんが迎えてくれました。
レストランはアーネフーンさんの実家を改装した伝統的なつくり。毎年8月に開かれるセト民族の祭りで、アーネフーンさんはSETOMAAの王様に選ばれました。PEKOの神話にもとづいた祭りでは毎年王様が決められ、祭りのための専用通貨やセト国のビザ(チケットの代わり)が発行されています。
小魚のスープには、煮干しのように乾燥させた魚を使います。エストニア最大の湖、ペイプシ湖で魚は採れますが、湖にロシアとの国境線があり漁は難しくなっています。7年前に魚が全く捕れなかったときは、代わりにアンチョビを使ったそうです。ロシア側の方が魚は安いので、ロシアのビザをとり、セト民族の首都ペッツェリの市場へ買い出しに行くこともあります。ロシアの皇帝もセトの干し魚が大好きなことで知られていました。
マッシュポテトのつぼ焼きには、美味しそうなおこげがついています。これにベーコンを使ったソースをかけていただきます。黒パンとポテト、豆料理がセトの主食だそうです。
地元の農家でとれた様々なハーブを使ったハーブティー。地元養蜂家のハチミツと一緒にいただきます。ハチはロシア領内にも越境してミツを採ってくるとのこと。本物のハチミツが、1.4kgで14ユーロでした。地ビールや黒パンも自家製です。
セト地域には「サーツェのブーツ」と呼ばれる一画があります。ロシア領がブーツ状に飛び出した場所で、その中にエストニアの道路が約800mにわたり続いています。ロシア領内に入る手前には、徒歩や自転車で領内に入ってはいけないことを説明した看板が立っていました。
ハイキングコースを歩いたり、自分たちでとったキノコを調理したり、思い思いの時を過ごせます。秋には家族で森を歩き
ブルーベリー、クラウドベリー、ラズベリー、スグリ、カシス、ブラックベリー、コケモモをとりジャム作りを楽しみます。
エストニアのキノコは400種類くらい。ピルビックというピンク色のキノコは、茹でてから食べます。キッツアモンパルというマッシュルームのようなキノコも人気です
セト観光協会のElim Priksさんたちが、森のコテージに美味しいキノコのスープなどを用意してくれました。電気や水道は通っていないので、ロウソクの明かりや暖炉の火が頼りです。
No War, No Nuclear.
エストニア取材協力:エストニア政府観光局、機材協力:フィンエアー
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