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▲高崎市美術館。JR高崎駅からすぐの場所にあります。
20世紀のはじめから1970年代にかけて、戦争の時代をまたぎながらモダンデザインの世界を牽引したブルーノ・タウト、アントニン&ノエミ・レーモンド、井上房一郎、ジョージ・ナカシマ、イサム・ノグチ、剣持勇。そのネットワークをテーマとした展覧会が、高崎市美術館(JR高崎駅近く)で開催中です(3月31日まで)。タウト没後 80年、レーモンド生誕 130年、井上生誕 120年、イサム・ノグチ没後 30年というメモリアルイヤーにちなんで企画され、現代生活の基盤となったモダンデザインが、どのようにして生まれ、広がっていったかを体感できます。
▲高崎市美術館内に旧井上房一郎邸が保存・公開されています。
▼高崎にて、井上房一郎とブルーノ・タウト(提供:井上弘子氏)
高崎と縁の深いブルーノ・タウト(1880〜 1938)の展示では、目にすることの少ない家具や工芸品が並びました。1933年、ナチス政権下のドイツを追われるように来日したタウトを支援した人物のひとりが、高崎の事業家井上房一郎(1898〜 1993)でした。井上がタウトを高崎に迎え、新しいものづくりを目指した工芸運動を繰り広げます。井上自身も若き日に、自由画教育や農民美術運動で知られる山本鼎(かなえ)の影響をうけ、20代に渡仏して絵画や彫刻を学んでいます。
タウトは日本滞在中の 3年間、本業の建築を手がけられないことに悩みました。ドイツの田園都市を思わせる「生駒山嶺小都市計画」や桂離宮をオマージュしたといわれる「大倉和親邸」など、図面を描くものの実現には至りません。その一因は、日本の建築界がタウトに対して西洋モダニズムを求めた一方、タウトは日本の築いた本質的な意匠を発展させるべきと訴えたからという研究もあります。その思想は大学の講義や著作によって、タウト没後も次代へ語り継がれます。タウトが日本に残した唯一の建築作品 熱海市 旧日向別邸(2022年 4月まで改装工事のため休館)では、展覧会用のVTR撮影が行われました。そのディテールには、タウトが高崎で築いた工芸の粋が込められているようです。
▲ タウトが関わった、久米権九郎設計の大倉和親邸資料。「ブルーノ・タウト滞日作品」『國際建築』12巻12号 1936年
今回の展覧会にあわせ、塚越 潤館長は井上邸の実測図面を完成させると共に、タウト設計の日本家屋の模型を、自らの手によって復元しました。1934年、昭和天皇が陸軍大演習の視察で高崎を訪れたとき、井上房一郎が設計をタウトに依頼した皇太子への献上品です。ドイツで発見された図面の写真をもとに、可動する襖や障子、ガラスの水面、内部のソファまで再現しました。「池の亀や鯉まで詳細に図面に描かれ、桂離宮への思いが感じられた」と塚越館長。日本家屋とは寸法体系が異なり、和洋の折衷建築をタウトなりの感覚で表現したと思われます。
▲ タウトとパートナーのエリカ、剣持勇(提供:松戸市教育委員会)▼竹小椅子(デザイン:IAI、担当:剣持勇)1957年頃
井上房一郎とアントニン・レーモンドは軽井沢の「ミラテス」で知り合い、戦前・戦後を通じて交友しました。旧井上房一郎邸は麻布笄町のレーモンド自邸をそっくり再現した建物です。
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1934年、銀座・聖書館屋上で撮影されたアントニン・レーモンドと所員たち(提供:レーモンド設計事務所)
▲ パイプ椅子の背と座面は籐皮編みです。
▼ 軽井沢新スタジオのためデザインしたイグサ編みの椅子。北澤興一氏蔵
ブルーノ・タウト来日の翌年、1934年に銀座・聖書館屋上で撮られた集合写真には、ここに設計事務所をかまえたアントニン・レーモンドを中心に、ジョージ・ナカシマ、前川國男、吉村順三が写っています。ボヘミア出身のアントニンは、アメリカでフランス出身のノエミ・ベルネッサンと結婚しフランク・ロイド・ライトと共に来日。帝国ホテルでは、ノエミ夫人が内装設計に活躍しました。今回はノエミの家具デザインに着目し、先端的な金属パイプ椅子、民芸風イグサ椅子、北欧モダン風の椅子など、その多彩な仕事ぶりを紹介しています。
井上邸のためにノエミ・レーモンドは、可動式ソファベッド、造り付けキャビネット、照明器具、北欧モダン風の椅子、テーブルセットを提供しています。今回の展覧会にあわせ、井上邸のしつらえがレーモンド自邸風にアレンジされました。レーモンドスタイルと呼ばれる独特の空間は、ノエミの家具によって完成することが分かります。今回の展覧会を担当した主任学芸員の住田常生さんは、モダンデザインに関わる人々を訪ね、様々なアドバイスを受けながら企画を練ったそうです。「1970年までのモダンデザインは、手作りを前提としながら量産していくという、クラフトとプロダクトの中間領域を手がけていたと感じます。今回取り上げた方々は全員がゆるやかなつながりを持ち、仙台で出会ったタウトと剣持が高崎の井上房一郎とつながり、井上は同時期にレーモンドとつながり、いったんは戦争で引き裂かれながらも戦後に復活し、そこにイサム・ノグチ、ジョージ・ナカシマが加わります。建築家、デザイナー、アーティストという異なった才能を持ちながら、日本の伝統的な素材、工芸の技を活かしたモダンデザインを生活の基盤にするという、同じ夢を描いていたのではないでしょうか」と住田さん。1905年ジャーナリスト中島勝治と寿々の子としてワシントン州に生まれたジョージ・ナカシマは、1934年に来日し、レーモンドの設計事務所に入所。軽井沢の聖ポール教会(軽井沢聖パウロカトリック教会)を担当した際、ノエミ・レーモンドのデザインした椅子を井上房一郎の「高崎木工製作配分組合」で製作しています。磨いた丸太とワラで作られたプリミティブな椅子は、その後のナカシマの家具に大きな影響を与えたと考えられます。戦時の影響でアメリカに戻ったナカシマは日系人キャンプに抑留され、そこで木工の基礎を学びます。戦後はレーモンドの暮らしたニューホープにスタジオを建設し、ウッドワーカーとして家具を制作。彫刻家・流政之の紹介で高松を訪問した際、讃岐民具連との親交を結び、その家具や照明器具は1964年から桜製作所で作り続けられています。
ヨーコの旅日記第16信赤提灯と日本酒でお出迎え川津陽子メッセフランクフルトジャパン
2月にドイツ・フランクフルトで開催された世界最大級の消費財見本市「アンビエンテ」でのこと。かれこれ 10年以上出張していたこの見本市で新たなる経験をする。アンビエンテには、今年も日本から 85もの企業・団体が出展した。メッセフランクフルト ジャパンが主催する「ジ
ャパンスタイル」は今年で 11年目を迎え、20社が参加。▲ はじめての試み「 BAR Japan Sty le」のブース。赤提灯や日本酒は日本から持ち込み、お茶などのノベルティも好評だった。
今回は弊社も、イチ出展者として参加することになった。し、もっとこのプロジェクトの趣旨や、それに賛同して参ンテリアライフスタイルリビング」を紹介し、もっと海大きな目的はふたつ。加してくださっている出展者を知ってもらい、繋がっても外の業界関係者に知ってもらうことである。ひとつは、ジャパンスタイルのプロモーションブースとしらうこと。というわけで、ジャパンスタイルのディレクターを初回かての機能。にぎやかな雰囲気をつくり、ブースに訪れるそしてもうひとつは、アンビエンテの姉妹見本市として日ら務めていただいているTIME & STYLEの吉田龍太海外バイヤーやプレスにジャパンスタイルについて説明本で展開する「インテリア ライフスタイル」と「IFFT/イ郎社長やYOnoBIの渡邊真典社長を交え、1年前か ら様々なアイデアを出しあった。結果、海外で関心が高まっている日本酒を振舞うバーを展開することに決め、TIME & STYLEのデザイン・設計監修のもと、「BAR JAPAN STYLE」を展開した。開催初日から多くの人たちが立ち寄ってくれた。日本のプロダクトやものづくりに関心があるバイヤー、デザイナー、プレスの方々、今後アンビエンテの出展を検討していて遥々日本から視察に来られた企業の方々、インテリアライフスタイルに参加されているインポーターの方々、フランクフルト本社や各国支社の同僚たち。たまたま通りがかった、ただただ日本が好きという来場者も多かったが、連日、実にさまざまな来場者が立ち寄ってくれた。我々の展示・PR活動に関心を持ってブースに入ってきてくれる人たちがいることが、純粋に嬉しかった。すっかり出展者の気分であった。思い起こせば、数十本もの日本酒を丁寧に梱包しドイツに向けて発送した際に頭をよぎった「途中で破損することなく、税関で止まることなく、無事に現地に届きますように、という不安感。ブースで振る舞うお茶用にと、メッセ会場近くのスーパーで大量のペットボトルの水を購入し、同僚と絶句状態で会場まで歩いて手運びしたこと。ブースの設営が大幅に遅延し、寒さが増してきた夜の展
▲「深山」や「大橋量器」の実演には多くの人。Hansjerg Ma ier-Aichen教授のプレスツアーやトレンドツアーも立ち寄ってくれた。
示ホールで「うちのブースは一体いつ終わるの?」という焦りや疲労感に駆られたこと。そしてようやく迎えた開催初日朝の緊張感。ブースに来場者が入って来てくれた時、話を最後まで聞いてもらえた時の高揚感、今後に繋がる良い話が出来て、笑顔でブースを去る来場者を見送る時の安堵感。見本市に携わる長い年月の中で、何度か自社ブースに立
ったことはあったが、これほどまでに出展者の立場を経験したことはなかったように思う。見本市に出展し結果を出すには、並ならぬ密なプランニングや努力が必要であることを改めて痛感する。初の試みで反省点は多々あるものの、これらの経験は何にも勝る価値のある気付きとなった。こうして沢山の収穫を得て、今年のアンビエンテは幕を閉じたのである。
2017年の夏。コラージは北海道・北部の町、中川町を取材しました。今回は冬の中川町を再訪し、中川町と北海道大学 中川研究林が共同開催する「広葉樹林業体験会」に参加しました。
▼ 中川町産業振興課の石垣さんから歓迎の挨拶がありました。2012年に中川町と北大中川研究林は包括連携協定を結び、様々なコラボレーションを行っています。
早朝に北海道立旭川高等技術専門学院に集合。造形デザイン科で家具づくりなどを学ぶ生徒・先生方と、Time & Styleのスタッフ(横山さん、北垣さん、菊池さん、菅原さん、杉さん、清水さん、古澤さん)がマイクロバスに乗り込み、旭川を出て吹雪の雪道を3時間半。お昼ごろ、北海道大学中川学生宿舎に到着しました。平成25年から開催の「広葉樹林業体験会」は今年で6回目。北海道大学中川研究林と中川町有林で伐採現場を見学し、森林の魅力を体感する2日間です。
2017年、夏の取材でお世話になった中川町産業振興課の高橋直樹さんと、北海道大学中川研究林に向かいました。中川研究林は明治35年に発足し、面積約194k㎡。今回の現場は、94年ほど前に山火事にあった場所で、大正14年頃からカラマツやヨーロッパトウヒの人工造林が進められました。日本の林学はドイツから導入され、最初期はトウヒ(ノルウェースプルース)などの苗を輸入して、人と馬の力だけで植林していました。北海道に鉄道が発達すると、鉄路を強い風から守る鉄道林としてもトウヒが植えられます。アルプスの厳しい環境で育つトウヒは中川町の山々を覆う蛇紋岩の地質にも適し、同じトウヒ属のアカエゾマツは、中川を代表する樹種となりました。
旭川から稚内を結ぶ「宗谷本線」。大正12年には中川まで鉄道が延伸され、原生林から伐り出された木々は重要な輸出品として、遠くヨーロッパまで運ばれました。右側は、鉄道を吹雪から守るために植えられた鉄道林です。
▼現場の図面。台帳番号39のカラマツ植林地が3.67ヘクタール。台帳番号40のトウヒが8.79ヘクタールあります。
乗用車に分乗し、参加者は造材現場の「土場」に到着。中川研究林の林長補佐・北條元さんから現場の説明がありました。今回見学するのは昭和4〜5年に植林され、90年ほど経ったカラマツやヨーロッパトウヒの森です。当時はカラマツやトウヒの造林が多く、昭和10年以降になると、トドマツやアカエゾマツの造林が始まりました。今回はあらかじめ選ばれた木を間伐し(定性間伐)、カラマツとトウヒで450立米の丸太の生産を予定しているそうです。
土場から20分ほど、急な山道を歩き伐採現場へ。樹齢80年ほどのカラマツを伐ります。チェーンソーやホイッスル、木の倒れるどーんという音が、山に響き渡ります。雪の重み、風、山の傾斜などで思いもよらない方向に倒れる危険もあり、伐採には経験と冷静な判断力が必要です。
北海道大学北方生物圏フィールド科学センター森林圏ステーション北管理部部長の吉田俊也教授(農学博士)は、北海道北部に広がる雨龍研究林、天塩研究林、中川研究林を統括されています。今回間伐する森は植林から90年近く経つものの、手入れが不十分なことや過酷な自然環境から生長が思わしくない木が多いそうです。切り株の年輪を見ると、周辺に行くほど年輪が詰まっているため、もっと早い時期に間伐を行えば太い木に生長した可能性もあります。植林の際、木と木の距離を離しすぎると枝が横に伸びて節が多くなったり、密度が濃すぎると上に伸びて太らなかったりするので、最初は密度を濃く植えて、徐々に間伐するのがよいと言われています。
カラマツは炭鉱の坑木の需要を見込み大量に植林されましたが、炭鉱の閉山と共に使い途を失い、長年、利用価値の低い木と言われてきました。しかし今、林産試験場で開発された「コアドライ .」(前号15ページ参照)など、カラマツを利用するための技術革新が進み、需要が急増しています。植林をしてから利用できるまでの数十年間で、木材の需要は大きく変化するため、どの樹種を植林するかは難しい判断になります。「カラマツのように、まとまった量があれば、それを活用しようというモチベーションが上がり、技術発展によって使い途が見出される可能性が高くなります」と吉田教授。いま北海道大学の研究林では昭和のはじめに植林されたアカエゾマツが伐採期を迎えていて、その活用が模索されています。伐採地を明確にして、北海道産材のブランド価値を高めるなど、様々な試みが続けられています。林長補佐・北條さんが、伐採のプロセスを解説。木を伐る位置は地面から30cmほどのところで、あらかじめ雪を掘って露出させます。木を倒す方向を決めたら、「受け口」と呼ばれる斜めの切り欠きをつくります。次に受け口の反対側から「追い口」を伐り「つる」という部分を残します。最後に方向を微調整しながらクサビを打つと、つるが蝶番のような働きをして、目的の方向にゆっくりと木を倒せます。もちろん、各手順ごとに行う安全確認や合図は欠かせません。
林業というと、まずは伐採シーンを思い浮かべますが、1年を通して様々な作業があります。北海道大学の研究林では1年前の冬から立木の調査をはじめ、どの木を伐るか、道路をどこに通すかなどを検討し、翌年冬の伐採に備えます。林地を傷めずに木を運び出すため、雪と土を混ぜて道路を固め、沢は木の根や枝で埋めてブルドーザーが通れる橋を作ります。沢の水は枝の間を流れ続けるため、道路の水を排水する効果があります。夏になった時に、道路の跡が分からなくなるのが理想だそうです。
伐採した木の元(根本の方)にワイヤーを巻き付け、ウィンチで引っ張り上げて集めてから、土場へ運びます。木を運ぶ仕事は重労働で、昔は人と馬だけで行っていました。周辺の農家に研究林の土地を貸し出し、その対価として冬の伐採を手伝ってもらった時代もあったそうです。枝をつけたまま木を運ぶ方法は「全木集材」と呼ばれます。
土場では枝を落としたり、適切な長さに丸太を切る「玉切り」などの造材作業を行います。樹種や木の状態によって、広葉樹の一般材・パルプ材、針葉樹の一般材・パルプ材に分けて積み上げ、山(ハイ)にします。一般材には、JAS(日本農林規格)による等級(1〜4等)があり、等級が高く、幹が太く、長いほうが1立米あたりの単価が高くなります。品質が悪かったり、腐っている部分がある丸太はパルプ材(紙の原料)になり、全体の6割を占めるそうです。春になると丸太を搬出し、木材業者などに売却します。
研究林から学生宿舎に戻り、森林の勉強会がひらかれました。中川研究林林長の野村睦准教授からは、研究林の成り立ちが説明されました。中川研究林は音威子府村から中川町にまたがり、約2万ヘクタール。他に幌延町の天塩研究林約2万2千ヘクタール、幌加内町の雨龍研究林約2万5千ヘクタールがあります。そのルーツは札幌農学校時代にさかのぼり、明治政府は国有林を森林学科のある学校に割り当て、山の木を伐って販売し、大学の運営にあてるよう指示していました。中川研究林は、針葉樹と広葉樹の混じった針広混交林で、全体を重金属を含んだ蛇紋岩で覆われ、その地質に適したアカエゾマツが多いのが特徴です。ペンケ山、パンケ山を中心に、一番高い標高は約700m。標高によって色々なタイプの森林が観察でき、30種類ほどの樹種が確認されています。森林だけでなく、野鳥、動物、魚、昆虫の生態系の研究、地球温暖化の研究、自然環境での物質循環の研究など、幅広いジャンルの研究者や学生が宿舎に滞在し、長期間にわたるフィールドワークを続けています。天塩川にそって中川研究林が広がっています。冬の間、天塩川は氷で覆われます。木の寿命や比重、種の重さは、樹種によって大きく異なり、一カ所で長く生きる「定住者タイプ」、種子を遠くまで飛ばす「放浪者タイプ」など、様々なライフスタイルがあります。
吉田俊也教授は長年にわたり、森林の利用と保全の関係を研究してきました。欧米ではいま、木を伐りながら生き物を守る「保持林業」が実践されています。例えばフィンランドのヨーロッパアカマツ林では、1ヘクタール当たり10本の木を残すことが決められ、生き物の保全が期待されています。どのような形で木を残すかがポイントで、山火事や洪水、強風による倒木など、自然撹乱に近い形で残す試みも行われています。北海道の森林には針葉樹と広葉樹の混合林が多く、中川の森林は7割が天然林と考えられています。天然林には「原生林」、「天然生林」、「二次林」があり、原生林は人間の手が加わっていない森、天然生林は木を伐採した後に自然再生した森、二次林はより強い人為的な力が加わった森です。
北海道ではかつて原生林の広葉樹を伐り、外貨獲得のため大量に輸出していました。その反省から特に国有林では天然林の広葉樹を伐らないという時代が長く続きました。現在、原生林はとても少なく、1%にも満たないと考えられていますが「天然林=原生林」という誤ったイメージもあり、天然林の伐採と環境保全は相反するものと考えられてきました。しかし今、国産広葉樹の需要は増えていて、伐採期を迎えた木々も多く、価格も上がっています。また森林資源の豊かな国であるにもかかわらず、海外の木材を輸入することの矛盾も指摘されています。今こそ環境とのバランスをとった林業が必要と吉田教授。カラマツなどの針葉樹は、計画的な伐採と植林を行う人工林として管理しやすい一方、広葉樹の人工林は成功例が少なく、天然林からの伐採に頼るしかありません。研究林には50年以上にわたって木の太さや本数の変化を測ってきた約1平方km、4万本の林地があり、伐採による樹種や生長の変化を記録してきました。欧米の同緯度の森林に比べ、北海道はササの繁殖力が強く、広葉樹の自然更新は難しいと考えられています。ササを刈り込んで整備したり、山火事にあった山の再生を行うなど、林業を活性化して人と自然が手をとりあい、森を豊かに育てることが求められています。勉強会のあとは鍋を囲んだ食事会が開かれました。
つれづれなるままに
第56回
野菜の苗。両手に袋を下げ階段を降り、振り返って丘の上の梅に一礼。凛と咲く梅に背筋を伸ばし、小さな花に腰を屈めて目を細める、どちらもとてもいい。
日の当たる窓辺に鉢を並べ、たっぷり水やりをする。チューリップは薄ピンク色をつけた。「咲いた咲いたチューリップの花が、並んだ並んだ赤白黄色 ……」歌いながら水やりする。ちょっと演出かかりすぎ ?と思ったが、来年は赤白黄色を揃えてみようかと思う。
ーひな祭り
妹の娘に女の子が生まれた。妹にとっては初孫になるが、私はとっては何になるのかわからない。そんなことはどうでもいいが、やはり姪の子、あれこれ心配もする。うるさい叔母バアバにならないようにと、自分に言い聞かせ顔を見に行く。やっぱり可愛く愛くるしい。持っていったぬい
鉢づつ、それとサラダのちょい足しにいいと勧められた
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わからないが、それを楽しみに 鉢。バラはピンクと赤を
東風吹かばにほひをこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ
久しぶりに、羽根木公園の梅を観に行った。ここには、太宰府天満宮より寄贈された、菅原道眞伝説
ー梅まつり
の「飛梅」の分身として、「寒梅」「白加賀」の紅白の梅が対で並んでいる。歌と一緒に謂れが書かれた石碑もあり、多くの人が足を止めている。
何年か前に行った時、最後の「春な忘れそ」をどうしても思い出すことができなかったが、梅の季節になると、なにげに復唱していたおかげで、碑を見る前にちゃんと詠むことができた。小高い公園一面にそれぞれに名のついた紅白の梅が、見事に「凛」と咲いている。
梅祭り期間中にはたくさんの屋台が出て、群馬県から春野菜が届けられ即売会もあるが、平日ということもあり野菜の即売会はない。ちょっと残念だったが、ゆっくり梅を観賞するには手ぶらがいい。
丘を一周し階段を降りて帰ろうとすると、花畑のように可愛らしい花が小さな鉢に入って並んでいた。色とりどりのスミレやチューリップ、バラやキンセンカ、ハーブなどいろいろ。手ぶらが幸いして鉢に手が伸びる。チューリップは蕾なので何色か
東風吹かば
ぐるみを喜び、抱っこをすればニコニコする。まだ半年経たないが、嬉しいことはちゃんと表現する。
今年は初節句。妹のところのお雛様は、この長女が生まれた時に
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父が七段飾りをお祝いに贈ったものだが、子供たちも大きくなり、家も手狭になったのを言い訳に全部飾ることはなかった。「今年はちゃんと飾りなさいよ。」とつい口を出た。
七段のスペースを空けるのは容易でなかったと思うが「飾ったよ」とメール。並べるのが精一杯、桃の花は買ってないという。早速、桃の花とひな壇に供えるお菓子を持って見にいった。子供も自分を祝ってくれているのがわかるのか、ご機嫌である。
お雛様を前にした父とその長女の写真がある。長女の子がまたこのお雛様の前でいい顔をしている。「繋がっているね」と、長女が言う。お雛様を飾ると家の中が明るく華やかになる。父が(この子にとってはひいおじいさん)すごく喜んでいるような気がした。
「飾りなさいよ」と言いながら、自分の家のは忙しさを理由に、いいかぁと思っていたが、妹から、「お父さん、お母さんのために」と言われ、帰ってからすぐに飾った。私の方は、お内裏様だけなので場所は取らないが、それでも細かいものを飾り終わるまで1時間を要した。雪洞(ぼんぼり)をつけて、桃の花を添えた砂糖菓子をお供えすると、お雛様も喜んでいるように見えた。妹に「飾ったよ」と写真付きでメールを送ると、「おじいちゃん、おばあちゃんが喜んでいるよ」と返ってきた。ひな祭り、女の子の健やかな成長を祝う節句。歳をとっても女の子、健康を祈ってこれからも飾っていこうと思う。
ー嬉しい出来事
月は私の誕生月である。最近はシラーとやり過ごしていたが、親しい友人に食事に誘われた。花粉症で出歩くのを控えていたが、思いがけないお誘いに喜んで出かけた。スープ、サラダ、メインの魚料理に入荷したばかりの牡蠣を加えたアラカルト料理。舌鼓を打ちながら楽しいおしゃべりに時間のたつのも忘れた。最後のデザートとコーヒー。とその前に ……突然、バースディケーキがろうそくを立ててやってきた。まぁなんということか !!
それもハッピーバースディを歌いながら、
目を白黒していると周りのテーブル席の人たちがこちらを見て拍手をしている。
なんとも気恥ずかしいというか、何をしていいのやら ……どこかで見たシーンを思い出してろうそくはかろうじて消すことができた。心憎い演出とバラの花束にまたまた感激。いやはや、人生まだまだ楽しいことあるんですねぇー。歳を重ねるのもいいもんだと、すごく嬉しい一日でした。
インポッシブル・アーキテクチャー
もうひとつの建築史
2019年 3月 24日(日) まで埼玉県立近代美術館で開催中
巡回展(予定)新潟市美術館(2019年 4月13日〜7月15日)広島市現代美術館(2019年 9月 18日〜 12月8日)国立国際美術館(2020年 1月7日〜 3月15日)
「第3インターナショナル記念塔」模型制作:野口直入建築設計事務所壁面に投影されたCG作品「第3インタ
ン・ブリック、マーク・シッチ、ウラジーミル・タトリン
長倉威彦 :ーナショナル記念塔」、監督アンドレ・ザルジッキ、長倉威彦、ダ :CG
実現しなかった建築には、実現した建築を超える発見がある
いま話題の建築展「インポッシブル・アーキテクチャーもうひとつの建築史」に行ってきました。場所は黒川紀章設計の埼玉県立近代美術館(JR北浦和駅近く、3月 24日まで)。20世紀以降の建築家約 40人のアンビルト建築(実現しなかった建物)を紹介した会場は、まずロシア・アヴァンギャルドを象徴するウラジーミル・タトリンの「第 3インターナショナル記念塔」からスタート。黒川紀章による「農村都市計画」や海上都市「東京計画 1961-Helix計画」も展示されていました。農村都市計画は地上 4mにグリッド状のフレームを設け、地面を農地として、人工土地に施設や通路、住居を設ける計画。黒川はこれを伊勢湾台風の体験から発想したともいわれ、津波、洪水対策の解答のひとつともいえます。
▲ 1982年開館の埼玉県立近代美術館。設計は黒川紀章。▼「東京計画1961-Helix計画」黒川紀章 1961年
有機的なフォルムは、瀧澤眞弓による
「山の家」(1924年)。堀口捨己、山田守たちと結成した「分離派建築会」の第 2回作品展に出品された作品で、音楽のリズムや流動性をヒントに設計されたといわれています。瀧澤眞弓はドイツ・ユーゲントスティル建築の影響をうけ、堀口捨己とともに平和記念東京博覧会(1922年)のパビリオン設計を行ったほか、山本鼎の「日本農民美術研究所」(1923年 群馬県上田市)を手がけたことでも知られています。ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエによる「ベルリン、フリードヒ通り駅の摩天楼のコンペ案」(1922年)。ガラスで覆われた外観が斬新すぎたため落選したものの、鉄とガラスによる高層建築の可能性を示し、ミースを一躍有名にした作品といわれています。ドイツ表現主義を代表するブルーノ・タウトが1933年の来日時に描いた「生駒山嶺小都市計画」。大阪電気軌道(現・近鉄)からの依頼で、ジードルング(住宅団地)を手がけてきたタウトにはうってつけの仕事でした。生駒山山頂付近に、ホテル、集合住宅、小住宅を配した完成度の高い田園都市計画です。
▲「ウクライナ劇場国際設計競技応募案」模型。制作:諏佐遙也(ZOUZOU MODEL) ▼「霊楽堂(ある音楽礼拝堂)」模型。制作:たかいちとしふみ(おさる工房)、梅宮弘光(神戸大学大学院)
川喜田煉七郎は学生時代、帝国ホテルの建築現場で遠藤新、土浦亀城の指導をうける一方、作曲家・山田耕筰の神秘的な音楽論に傾倒し、1924年、山田の提唱する音楽の聖堂を具体化した「霊楽堂の草案」を卒業作品として制作。さらに図面 40枚からなる「霊楽堂(ある音楽礼拝堂)」に発展させて、1927年の分離派建築会第 6回展に入選しました。1930年にはウクライナのハリコフ劇場建築国際設計競技に 4位入選して国際的に注目され、銀座に建築工芸研究所を設立するとバウハウス流の建築教育を実践。店鋪設計やデザイン評論を多く手がけ、店舗設計家協会初代会長となります。
東京帝室博物館建築設計図案懸賞募集(前川國男案)模型監修:松隈洋(京都工芸繊維大学教授)、制作:京都工芸繊維大学松隈洋研究室3回生(大友沙弥、田中ふみ、西口友晃、萩尾涼太、水野まりや)
前川國男の「東京帝室博物館建築設計図案懸賞応募案」は、前川のコンペに対する不屈の闘志を表しています。1923年の関東大地震でコンドル設計の東京帝室博物館が使用不能となり、1930年、帝室博物館復興翼賛会による設計競技が行われました。審査員の伊東忠太は「日本趣味を基調とした東洋式」の建築様式を条件としますが、前川は和風の傾斜屋根を否定し、フラットルーフのホワイトキューブを応募。「時代の粉飾を振るい落とす白色の背景こそ、正しき観察を可能にする」と主張します。273点から選ばれた渡辺仁案は、宮内省営繕課によって実施設計され、1938年に開館します。これが現在の東京国立博物館本館(上野)です。磯崎新の「東京都新都庁舎計画」(1986年)。新都庁舎のコンペは、丹下健三をはじめ9社の指名コンペとなり、1986年に審査が行われた結果、丹下案が当選。現在の東京都庁が建てられました。磯崎新はコンペの要項から、超高層ビル2棟案が求められている事を読み取りながらも、スタディの末に低層案を採用。縦割り行政から横へのネットワークを促す「錯綜体」を提案します。石田了一によって刷られたシルクスクリーンの断面図は「UNBUILT」を代表する作品として記憶されています。
「東京都新都庁舎計画」シルクスクリーン 1986年 磯崎新アトリエ蔵「東京都新都庁舎計画」断面模型1991年公益財団法人福岡文化財団蔵 大分市美術館寄託
2日目は、中川町有林の造材現場を見学しました。まずは町有林を管理する中川町産業振興課の高橋直樹さんからブリーフィングを受けます。町有林の広さは約2100ヘクタール。ウダイカンバ、シラカンバ、ミズナラ、ハリギリ(セン)、イタヤカエデ、ホオノキ、トドマツ、オニグルミなど多様な木々が生え、優良な広葉樹は、TIME & STYLE FACTORYをはじめ旭川の家具メーカー、旭川家具工業協同組合のほか、宮地鎮雄さん(工房宮地)など木工家にも供給されています。土場に集積された木材はJAS等級ごとに分けられ、上の写真は家具材となる良質なハリギリや旭川家具工業協同組合に送られるヤチダモです。
▼規格としてはパルプにされる丸太にも家具に適した部分があり、貴重な杢目が入っているものも。こうしたグレーゾーンの木を大切に見ることが必要と高橋パルプになる予定の丸太。北海道広葉樹の9割ほどは、木材チップになっていると思われます。
いま高橋さんが手がけているのは、中川産材のブランド化です。そのため従来よりも精度の高い「木材トレーサビリティー」の構築を進めています。今まで町有林は「森林調査簿」で地番を管理してきましたが、1本1本の木までは記録されませんでした。そこで木の写真を撮り、どこで、いつ伐採されたかを細かく記録する作業を始めています。また家具メーカーなど利用者とのコミュニケーションを密にして、山の造材現場と家具の製造現場を直接つなぐ試みも行ってきました。今回、北海道立旭川高等技術専門学院やTIME & STYLEを中川町に招いたのもその一貫で、伐採の現場を見学し、意見交換することで、より利用者の都合に沿った丸太を生産しようとしています。実は広葉樹は、以前から流通の問題を抱えていました。広葉樹の丸太は旭川などで行われる「銘木市」に出品され競り落とされますが、そこで高く売るための造材方法と、家具メーカーにとって使いやすい丸太の仕様が異なる場合も多く、パルプ材となる丸太の中にも、家具メーカーにとって有用な材料が多いことも事実です。
木の根本に「受け口」を掘り、バックホーに付けた「ザウルス」と呼ばれるアタッチメントで木を掴みながら「追い口」を伐ります。貴重なミズナラに伐倒による割れがでないよう慎重に芯の部分を抜き、「ツル」を残さないようバックホーと呼吸をあわせます。ポイントは木の力が掛かる方向を見極めることで、谷川に傾斜している木は特に難しいそうです。
▲丸太が曲がっている率によって等級が異なってきます。
倒れたミズナラを見て、どの長さで丸太を玉切りするか話し合いました。この木は TIME & STYLE FACTORYに納品される予定で、最長 3 .6mの丸太がとれます。もし銘木市に出すことを前提とした場合は、丸太の曲がりが問題になります。JAS規格では曲がりや変色が減点になるため、曲がりの大きさ次第で等級が落ちる可能性があります。一方、T IME & STYLE FACTORYの製材担当・横山さんの希望は、最長の3 .6m。曲がっていても自社で製材できるので、テーブル天板用の厚く長い板を挽き、曲がりの部分からは薄い板をとりたいと言います。
北海道大学の吉田教授や北條さん、TIME & STYLEの横山さん、中川町の高橋さんたちが、玉切りの長さや希望する樹種の安定供給などについて、山の中で意見を交わしました。こうした交流は今まで無かったことです。遠藤工業の遠藤富士幸さんは、山のなかで 1等、 2等材をとろうとすると、曲がりや欠点を避け、短めに玉切りすることが多い。家具メーカーとの話し合いがなければ、どの長さが正解かどうかは分からない。きちんと使い途を考えた方が、丸太の価値をより高められるだろうといいます。
ハリギリは、 TIME & STYLEが制作した天塩中川駅(中川町交流プラザ)のテーブルトップ(上)に使われた材料で、すっきりとした杢目は和のテイストを感じさせます。丸太の価格は、太さ、長さ、品質のほか、地域性や流行にも左右されます。人気の樹種の価格があがり、市場に沢山でるようになると急落することも。伐採の現場をみると、広葉樹は人の都合だけで伐れるものではないことが分かります。
朝集合した土場に戻り、ノコギリを借りて自分たちで木を伐ってみました。一見、細く見える木も、伐り倒すまで何度もノコギリを往復させ、汗が吹き出してきました。倒した木を橇(バチ)にのせて土場へと運びます。人力と馬で造材を行っていた時代は、どんなに厳しく、大変な仕事だったのでしょうか。
毎年2月、中川町で「きこり祭り」が開かれます。今年は6回目、2月24日に開催されました。薪割り体験、雪遊びコーナー、工芸品マーケットなどが設けられ、メインイベントの「丸太レース」は、昔の林業道具「とび」「がんた」「ばち」を使って人力で丸太を引っ張り、速さを競います。
雪のなか、焚き火を囲んでバーベキューランチを楽しみました。
2日間の体験会を終え、TIME & STYLE のスタッフたちは都心のショップへ戻っていきました。雪山の中で見た木々の風景は、どんな経験となって家具づくりに生かされるでしょうか。
「ベルギー・チコリ」と言えばフランス料理の添えやサラダで使われる、葉端が多少縮れて淡い黄色みを帯びた白菜の芯葉のような葉野菜のこと。時折スーパーで見かけても、その価格を見れば気軽に家で、という気にならない値段で売られているのが普通だ。なぜかと言えば「その栽培に手間が掛かるから」というのが生産者側の説明だ。和名はキクニガナ(菊苦菜)。昨今イタリア料理店で出される葉端が赤紫色を帯びた「ラディッキオ・ロッソ」もしくは「トレビス」も、このチコリの一種だ。こちらは更に高価というよりも、普通のスーパーや八百屋で見かけることは、まず、ない。ただ、チコリがキク科の多年生植物であることを思うと、「手間が掛かる」という言葉には、消費者として多少抵抗を覚えざ
るを得ない。なぜなら、キク科の植物は適応力が強く、放おっておいてもはびこるほどに育つ雑草的な強さを有するものが多いからだ。あの白菜の芯葉のような「出来上がった商品」だけを見ているから、なにやら高級そうに見えるのだ。もし、あれが「青い花を咲かせる菊の一種で、その根から生える葉の部分を切り取っ
たもの」と聞いたら、イメージはだいぶ違ってくるのではないか。
では、このベルギー・チコリ、どうやって栽培しているのか。その栽培法は大きく分けて、2段階に分かれる。まずは畑に種を撒いてチコリを育てる。キク科だから、どんどん育つ。やがて小松菜のような緑の葉が育ち、そのまま放おっておくと、桔梗のような青色の菊花
が咲く。葉と茎は青色の染料素材ともなったが、食用の葉を育てるためにはこの根を使うので、畑から根ごと引き抜く。地下の根の部分は、ひげ根のあるゴボウ状というか、朝鮮人参状というか、そんな感じだ。ここからは室内での作業となる。この引き抜いた根から生えている葉と茎の部分を、ナイフで根から切り離す。この葉と茎は食用になるが、ここでは、ゴロたんとした根が大切なのだ。土を満たしたコンテナにこの根を刺す。わずかに土の上に頭を出すくらいにまで埋める。土にはたっぷり水を吸わせる。そして、これを暗室に入れるなり、上から箱をかぶせるなりして、遮光する。だいたい2週間少々で、あの店で売られているベルギー・チコリが、根から育っている。その間、常に土が乾かないように気をつける。これだけだ。根の栄養でベルギー・チコリは育つ。この根さえ手に入れば家庭でも簡単に育てることができるが、日本ではチコリの根なんて、そう簡単に手に入らない。
フランスではベルギー・チコリを一般に「アンディーヴ」と呼
根から生えたチコリ。畑から引き抜き葉を切る。
ぶ。そのフランスでのアンディーヴの商業生産は、9割以上が、水耕栽培だ。広大な畑で栽培したチコリを収穫機で掘り起こし、並走するトラックに移す。トラックから処理場に運ばれ、流れ作業で根から茎が切り離される。根は暗室になっている栽培場に運ばれ、天井から床まで数段に設置された水耕栽培の容器に、びっしりと根を立てて並べる。水温と栄養分は自動管理。真っ暗な部屋で立派なアンディーヴ(ベルギー・チコリ)が出来上がる。これを根から切り離し、袋詰して箱に入れて出荷する。袋詰から箱詰めまで、こちらもかなりの工程で自動化されている。フランス・ベルギー・オランダ・イタリア・ドイツ・イギリスの各国のスーパーでチコリやラディッキオを見ているが、一般的に日本で売られているものよりも大きい。それだけに、ひと袋買うと食べでがある。面白いのは、いまだに土のコンテナで栽培して出荷している農家があること。こちらのほうが味わい深いというグルメ向けで、水耕栽培に比べて2〜3割高い価格で売られている。
このチコリ、古代ギリシア&ローマの時代から食用に栽培され、先程の工程で切り取った緑の葉の部分が料理に使われてきた。キクニガナ(菊苦菜)とい
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う和名が暗示するように、葉は部分的に苦味があり、それだけに若芽が好まれたらしい。一方、ゴボウのような根は苦味が強く食用に適さないが、その苦味を活かし思いがけない用途に利用されることになる。根をよく洗ってみじん切りに。これを天板に広げて 分ほど中火で熱する。もしくは、フライパンで炒る。その後これをミルサー等で挽いて粉末に。これをコ
ーヒーの粉と混ぜて使うのだ。混ぜる割合はお好みで。実は欧州ではチコリの根は、ずいぶん昔からコーヒーの代用品、というか「偽コーヒー」として売られてきた。近いところでは、第二次世界大戦中のパリのカフェ。ナチス・ドイツの占領下で本物のコーヒーを提供できる店はほとんどなく、占領軍によしみを通じた、すなわち裏切り者のカフェでは、占領軍から下げ渡された「本物のコーヒー」が、ごく一部の客に提供されていたという。これに対して、たいていのカフェでは代用コーヒーが当たり前だった。この時代サンジェルマンの寒いカフェで、代用コーヒーを飲む気持ちの侘しさを、哲学者サルトルのパートナーであったボーボワールがその日記に見事に描いている。この時代を覚えている人々がまだ多かった時代には、「チコリのコーヒー」は、欧州では決していいイメージがなかった。
ところが時代は移り、コーヒーも選び放題となった現代。チコリのコーヒーは復活する。「偽コーヒー」としてではなく「本物のチコリ・コーヒー」=「一種の健康茶」として。その効用としては、本物のコーヒーと混ぜてカフェインの摂取量を抑える、皮膚の炎症を抑える、血糖値を下げる、胃腸の働きを良くする等々の効果が挙げられている。但し、一部の人にはアレルギー反応が出る。また、妊婦は摂取を避けるべきと言われている。いずれにしても、欧州の食文化史においてチコリは、なかなかに興味深い野菜ではないだろうか。
第2回スパイス信仰と医食同源。イスラームの影。早稲田大学エクステンションセンタ第4回食の革命。ポテト、モロコシ、カカオ。第3回キリスト教と食 第5回レストランでの講義と会食。第水曜1回華麗なる英国宮廷宴席。日 10:30.:12。断食:00計5回日の面白ーさ。中野校
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6/19はレストラン体験のため 11 5/22、5/29、6/05、6/12、6/19詳しくは左下のリンクへ
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「瑛 九」誕生の謎にせまる 杉田秀夫と山田光春、ふたりの芸術家
瑛九と光春 .イメージの版 /層2019年 4月 14日(日) まで
平成 30年度 MOMASコレクション 第 4期埼玉県立近代美術館で開催中
瑛九『面影』1936年
2人の宮崎での交友は1934年〜36年と短いものでしたが、毎日のように会い、書簡を交わし、鹿児島の指宿に写生旅行にでかけています。その際のスケッチや数々のドローイングから、杉田と山田が同じモチーフに向き合い、近い感覚の作品を生み出していたことが伺えます。上は当時の杉田の作品(左)と山田の作品(右)です。瑛九誕生に大きく関わった人物が、愛知出身の山田光春です。光春は1912年生まれ。東京美術学校を卒業したのち、1934年(昭和9年)、宮崎に中学校教師として赴任します。ある日、宮崎美術協会の創立総会の場で、かすりの着物を着て眼鏡をかけた青年・杉田秀夫から「山田君」と呼び止められます。「宮崎には、ピカソを語り合える友達がいない」と嘆く光春に対し「僕の所へ行って、ピカソについて大いに語ろうではないか」とアトリエへ誘われたことをきっかけに、2人の蜜月ともいえる交友がはじまります。今回の「瑛九と光春 .イメージの版/層」は、その交流が瑛九誕生に果たした役割を、スケッチや資料、作品から紐解くもの。瑛九研究を長年続けてきた埼玉県立近代美術館学芸主幹 梅津 元さんに会場を案内していただきました。
戦争の気配が濃くなるにつれ、瑛九は「印象派からやり直す」と宣言し、様々な美術史上の流派をたどるように目まぐるしく作風を変えます。様々な技法を越境し、相互に交流させたことにも瑛九の魅力があります。
『手』に使われたと思われる型紙。
1951年、瑛九はデモクラート美術家協会を結成し、埼玉の浦和に移住します。『手』は1957年に制作された型紙とエアーコンプレッサーを使った作品で、以前、瑛九の遺族から寄贈された型紙を使用したと推測されます。山田光春は1976年に刊行した瑛九の評伝でエアーコンプレッサーの技法にふれ「1957年ころからはじまったエアーコンプレッサーによる作品は、型紙による単純な形体から複雑なものに移行し、彼の強い意思を表すかの如き筆による強い線条が加わって躍動的な画面は、筆のみによる新しい技法へと連なっていく。」(山田光春『瑛九評伝と作品』青龍洞刊)と書いています。1960年、瑛九は48歳の若さで亡くなります。そして光春は1965年「瑛九の会」に参加し、研究と評伝の執筆に半生をかけました。瑛九の油彩画を全国に訪ね写真を撮ったり、展覧会の記録を全て調べあげたりと、愛知で教職を続けながら、驚嘆すべき熱意を注ぎました。
山田光春『瑛九評伝と作品』(青龍洞 1976年刊)
瑛九『コンポジションA』1948年
瑛九『コンポジションA』(1948年)は、ペン画と型紙の吹付けを組み合わせた作品。山田光春のガラス絵(1951年)には、瑛九と共通したモチーフを感じます。離れた場所に暮らながら、2人の根底には同じものが流れていたのかもしれません。「作風を真似るとか、影響し合うというレベルではないつながりを、2人の作品から感じます」と梅津さん。
瑛九『作品(61)』1954年
梅津さんは、光春が我が事のように瑛九評伝に没頭した背景には「自分も瑛九という装置の誕生に関わった」という思いがあったと推測しています。瑛九評伝は、自身の自叙伝でもあったのかもしれません。詳細な評伝によって瑛九は美術史に刻まれ、展覧会が各地で開かれ続けています。山田光春は1981年名古屋市で亡くなりました。研究が進むにつれ、その業績や作品の評価は高まっていくと思われます。
瑛九『雲』1959年
晩年の瑛九は浦和のアトリエにこもり、点描の油彩画に集中します。今回は瑛九の代表作『田園』を暗室「瑛九の部屋」に展示し、見る人が光をコントロールできる特別展示が開催されています(美術館公式YouTubeで関連動画を公開中)。
「そして、ここに生まれた円形と方形とが細かくからみ合って籠目状となり、円が孤立してくる。そしてその円は、はじめは大きな円として画面をふさぎ、その連作の後に次第に小さくなって宝石のような不思議な光を放ちながら画面に充満する。やがてそれがくだけて散って落葉となって舞い、花となり、花びらとなり、花火となって散って空間をうずめ、ついには微細な色点となり星となって、あの最晩年の荘厳にして華麗な独創的な絵画世界を現出することになっていった。」山田光春『瑛九 評伝と作品』(青龍洞刊)
瑛九『青の中の黄色い丸』1957〜58年
愛別町 粋人の集う館へ
▲珍しい国産の生キクラゲ。プリプリした食感が特徴。
愛別町は、舞茸、えのき茸、なめこ、椎茸、エゾユキノシタなど、キノコの一大産地として知られています。1970年代から町全体でキノコ栽培に取り組み、毎年9月には「きのこの里フェスティバル」も開かれます。矢部きのこ園は40年以上前、農業の副業としてスタート。最高品質の「幻味舞茸」で知られています。
舞茸は「真気栽培システム」によってマイナスイオンを大量に発生させた湿った環境で育てられています。菌床には広葉樹のオガ屑が使われ、ミネラル成分やフスマを混ぜるそうです。
愛別町のメインストリートに建つ「粋人館」は、大正11年(1922年)竣工の近江商人屋敷を再生した日本料理店です。
粋人館
新しく建てられた本館に入ると、京都の絵師浦地思久理さんによる「愛必見(あいべつ)鳳凰」。信州小布施岩松院の天井に北斎が描いたような八方睨みの鳳凰に迎えられます。浦地さんは愛別町に滞在し、鳳凰や牡丹獅子など、様々な壁画を描きました。
本館を手がけたのは、京都のデザイナー永田正彦さん(NDS)。八方卓を置いた入れ子構造の半個室を中心に、すっきりとした白木調のしつらえが広がります。家具は飛騨のものです。
様々な地域や年代の骨董品が、訪れた人の目を楽しませる贅沢な空間。
木造の和館とレンガ造の蔵を組み合せた建物は、愛別ではここだけです。
食事のあと矢部さんが、100年近く経つ母屋を案内してくださいました。来客用玄関脇のレンガ蔵は、かつて金庫として使われ鉄製のドアで母屋と仕切られています。この家を建てた上西家は、琵琶湖周辺から来た近江商人で、明治28年、愛別に店を開き入植者たちに鍋釜、鋸、農具、米などを売る米穀雑貨商としてスタート。味噌、醤油の醸造をはじめ財を成すと、貴金属や金融業で栄え大地主となりました。
アンティークのコレクションは、矢部慎太郎さんによるもの。
大正11年、上西弥助氏は、近江から棟梁や庭師を呼び寄せ、仕掛けを凝らした迎賓館ともいえる住居と茶室を建設しました。レンガ蔵の向いには洋風の客間があり、波板ガラスの窓に竹の柱など、和洋折衷が大正モダンを感じさせます。洋家具はフランスから新たに取り寄せたアンティーク。ここで商談をしたあと、隣の和室で宴をひらいたといわれます。
雪見障子から雪が見える1階和室。平書院は富士山と松竹梅を描いた組子障子。床の間の犬養毅像と直筆の掛け軸は、この家に伝わったもの。建具はほとんど傷んでなかったそうです。
▼襖で仕切られた和室は、敷居を外して1室にも出来ます。
脇床の違い棚は、筆返しを大きく作ったり、板を少し下に反らせたりと、棟梁の洒脱な遊び心が伝わってきます。繊細な虫籠格子の欄間や贅沢な鏡板を使いながら、華美な装飾を省いた近江商人屋敷らしいつくりです。
煎茶道の道具(上)や椅子、テーブル(左)も、家伝のもの。この家が壊されるこを知った矢部福二郎さんは、息子の慎太郎さんと相談して、町の文化財ともいえる屋敷を遺すため、家屋を買い取ったそうです。一部の書画や古道具、家具は、そのまま残され、貴重なブリキのおもちゃ、有名日本画家の絵画などが発見されました。
客間として使われた2階和室は、矢部慎太郎さんのプロデュースによってリニューアル。伝統的な茶屋建築を模して、壁面を鮮やかな色で仕上げています。欄間は富山の古民家で使われていたものを再生。天井は天井板を取り外し、船底天井に改装しました。ここからは竹内栖鳳と荒木十畝が描いたと思われる風炉先屏風が発見され、お茶会も開かれています。慎太郎さんは銀座や金沢、京都に飲食店を展開し、神楽坂には陶芸作品や骨董を扱うギャラリーも運営されています。船底天井をつくるため天井板を外した際に、明治時代の梁が4本出てきました。マサカリやチョウナで荒く削られたトドマツの梁は、入植時の小屋に使われたものを転用したようです。目に見える和室の柱には四方柾の材料を贅沢に用い、屋根裏には古材の梁を転用する姿から、近江商人の心得を感じます。
▲ 粋人館料理長 塩谷直也さんは奈良県の出身。
粋人館の料理長は、京都で修行した塩谷直也さん。友人の紹介で愛別に来てから5年目。名物のキノコ、蕎麦、採れたての野菜、山菜をはじめ、魅力ある北海道の食材の可能性を広げていきたいといいます。味付けは関西の薄口を少し濃い目に調整するなど、地元の嗜好にあわせた工夫を重ね、ミシュランガイドの「ビブグルマン」に選ばれました。
Special thanks to Srashina-san
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