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伊根
天橋立舞鶴
京都府京都市
海と生きる 伊根の舟屋
天の橋立から北東へ15kmほど。京都府伊根町の伊根浦は、民家の1階を船着き場とした「舟屋」で世界的に知られています。伊根湾の海上タクシー「成洋丸」の船長・蔵さんの案内で230軒ほどの舟屋が並ぶ湾内をめぐりました。
舟が木造だった頃は、舟屋に揚げることで、舟が腐ることを防いでいました。FRP製となった今も電動の巻揚機で舟を引揚る習慣が残っています。
▲舟屋は草葺でしたが、明治から今の姿に変わりました。
▼ 伊根祭では大型の木造船をつないで船屋台とします。
伊根浦では昭和初期までクジラ漁も行われていました。庄屋の指示のもと村人が総出になって湾の入り口を網で塞ぎ、湾内にクジラを追いつめてから周りを二重三重の舟で取り囲みモリで突きました。こうした捕鯨方法は伊根浦独特のもので、捕獲した鯨は村人たちで分け、皮・肉・海老尾・はぐき・油・臓物・骨にいたるまで残らず利用しました。
7月に開催される伊根祭は「海の祇園祭」ともいわれ、木造船をつないだ屋台船で神楽や歌舞伎を奉納します。
湾の入り口に浮かぶ青島に、えびす神社の鳥居が見えます。伊根浦は日本海側には珍しく南側に開き、三方を山に囲まれた独特な地形。青島が防波堤の役割を果たし、湾外の波が4〜5mある日でも、湾内は穏やかで、潮の干満差も30cmほどしかありません。こうした条件が揃うことで、日本唯一ともいえる舟屋の町並みが形成されたのです。
▲湾内では、タイやハマチの養殖もされています。▼江戸時代の古い舟屋も公開されています。
伊根浦の漁業の歴史は古く、江戸時代にはブリを年貢として納めていました。ブリ、カツオ、サバの他、かつてはイルカやクジラ漁も行われました。現在は共同の定置網でとれた新鮮な魚が漁港にあがります。毎朝7時頃に漁船が戻り、誰でも新鮮な魚を購入できるので伊根に魚店はありません。寒ブリは特に有名で、一度に6000本を揚げた日もあったそうです。
まるで映画のセットを思わせる舟屋の家並み。「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」、「釣りバカ日誌5」、「連続テレビ小説 ええにょぼ」など様々なロケに使われています。
石敷きのスロープは、海水が2mほど入り込むようになっています。石は海水と反応して赤く変色しています。
平地の少ない伊根では、寺院や神社は急な階段を登った先にあり、高台からの眺めにも、海からとは違う趣があります。
▼街のあちこちに蔵が建っています。最近は民宿として宿泊できる舟屋も増えています。
舟屋の1階では、魚をさばいてから干したり、洗濯物を干したり、洗い物をしたり、日常的な作業を行い、隣の家ともつながるコミュニティスペースになっています。生活の場は道路向かいの母屋(平入り)にあり、道路を渡って頻繁に行き来します。伊根工房は、以前は独創的な陶芸を作る工房でした。今は舟屋の2階でコーヒーを楽しめるカフェになっています。舟屋の中には通り庭があり、海の方までまっすぐに抜けられます。
▲漁師からもらった魚(ハラクチ)をさばき、夕方まで干して一夜干しにするそうです。
一般的な舟屋を見せて頂きました。吊るされた舟は祖父のものだそうです。伊根は1軒1軒の家に船着き場があり、どの家からも港の全体を見渡せます。漁師は個々に漁をしながら、クジラ漁など必要な時には一致団結して作業にあたりました。その伝統は今も生きていて、舟屋の景観と海を守り、日々その恵みを生かしながら暮らしています。
赤米を使った清酒「伊根満開」は、杜氏の向井久仁子さんが、東京農大在学時からのアイデアを実現させたもの。
ドラゴンシリーズ 53吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ドラゴンへの道編
美しいものとは何か。
世の中が変わり始めて久しい。何となくこの流れの中で生きている気がする。僕らがこうやって文字を書いている行為の半分くらいは、機械の文字変換機能に委ねたような文章になっているのが本当のところなのだろう。写真も携帯電話でじゃんじゃん良い写真を撮れるようになって、フイルムで撮影しているのは余程の趣味人か本当のプロくらいなもの。写真は芸術から日常の記録画像へと変身したように思う。
果たしてそれは「美しいもの」だろうか ?
美しいものとはどう言うものなのだろうか、と考えるために生きてきたように思っていたのだが、本当に美しいものとはどのように生まれたものをさすのだろうか。
年齢を重ねると、成果物よりも行為と過程のほうが大切に思えてならない。世の中は進化しているかのように錯覚しているが、実のところ人間と社会は大きく退化しているのが真実だと感じる。社会とかと言うと話が大きくなってしまうので、自分が直接的に関わっていることについて考えてみると良く分かる。
今は何でも機械で作ることができるようになったが、果たしてその機械で作ったものには如何ほどの価値があるのだろうか。成果物(完成品)を見て、それが人間の手で作られたものか、機械によって作られたものかを判別出来るのは少数派だと思う。その完成品が持つ価値はどこにあるのだろう。
現代の価値基準のような目に見えないものは、実は芸術にも、人間にも言えるように感じているのだが、自分達が関わっているものづくりの世界でも何でも機械化によって人間の手を介さない、もしくは人間の頭を介さない過程でものが出来上がって行くような社会となった。
その流れに上手に乗って生き抜ける者だけが、勝者となって君臨しているかのような社会へと美意識も変容してしまった気がする。もちろん、それが全てそうなっている訳では無いが、社会と言う大きな枠で見た時に感じる全体感には触感や思慮、気配、抒情、考える時間や想いに耽る時間が欠如して、表層的に出来上がっているものが社会の多くを占めるようになって久しく、そこに何も違和感を感じないように私達の感覚も鈍化している。
生きる為の惰性の社会となっている。それだけではないが、逆の生き方をしているものや時間を掛けて考えられたもの、手間を掛けて作られたもの、独自の世界観で生み出されたものの価値が見出せない社会となってしまった世界はとても刹那的だ。そんな現代の一辺倒だった価値観もまた多様化している。
同時に社会は常に対極的な考え方も許容してきた歴史があり、そうではない価値を再認識しようと考える人たちも多く存在している。僕自身は出来ていないことばかりだが、しっかりと歴史の背景を考え、これからの未来を見つめながら、現在を生きることが大事だと思う。
過去があり、未来のための現在があると考えれば、いま行っている行為は、過去から未来へと繋がることだろう。自分について、丁寧に時間を掛けて深く考えてみる時間が必要だと思う。自らを知ることによって大切なことが見えてくる。そして、自らにとって大切なことが見えてくることで社会や周りにとって大切なことが何であるのか、見えてくるかもしれない。
精神論的に聞こえるかもしれないが、もっと私達は自分自身の人間としての真実と向き合わなければならないと思う。本当の自分自身を知ることは難しく、そこには必ず人間としての多面性があり、善も悪も同居している。善意だけを見せている人には自分の内面に存在する悪は見えない。しかし、明確に世の中に悪が存在するように自分の中に存在する悪をしっかりと認識することも大切なことだ。あなたの中にも悪が存在している。それを知ることから人間と価値の多様性を受け入れることが出来るのではないだろうか。
社会のスピードと技術が早くなっている時代に逆行するような生き方は不器用で見えにくいかもしれないが、そんな不器用で丁寧な過程こそが真実のある社会を支えていると思う。美しいものはそんな中に存在している。美しく見えないけれど。
天の橋立
与謝の海の霞のおくになりにけりさやかにみえし天のはしだて
大正天皇
平安時代から愛されてきた日本三景のひとつ「天の橋立」。宮津湾と阿蘇海(与謝の海)を遮る全長3.6kmの砂州です。。明治40年、舞鶴から駆逐艦に乗って天の橋立を訪れた皇太子時代の大正天皇は、浜辺にいっぱいに並ぶ地元民に迎えられ、東郷平八郎と共に上陸。「与謝の海の霞のおくになりにけりさやかにみえし天のはしだて」の歌を詠み、松を植樹しました。
近年は海流の変化などによる砂浜の侵食が問題となり、ノコギリ状の部分に小型の堆砂堤を作るなど景観を守る試みが続いています。
ドイツ フランクフルトにて、2
月8日〜12日開催。
2月 8日(金)〜 12日(火)、ドイツ・フランクフルト国際見本市会場(Messe Frankfurt)にて、世界最大級の消費財見本市「ambiente」が開催されます。昨年は 88カ国・地域から 4,376社が出展し、167カ国・地域から 133,582人が来場。今年は 12号館(下)のオープンにともない、会場構成が大きく変わります。
鎮守府の設置により軍人や家族の住宅が必要となり、交通網の整備と合わせ東新市街の街づくりが急ピッチで進められました。格子状の計画道路には、南北に1条〜9条、東西に「三笠」など艦船名の通り名が与えられ、今でも「7条三笠」といった住所が使われています。格子状街区のモデルとなったのは陸軍第7師団のあった北海道・旭川といわれています。
江戸時代に干拓された水田を1〜2m埋め立てるなど東新市街の大工事は、横浜・吉田新田で知られる吉田組によって行われました。吉田寅松は明治を代表する土木建築請負業者でしたが、舞鶴の工事後に経営が悪化。明治40年に寅松が亡くなると芝公園の豪邸は競売にかけられ、話題となりました。
舞鶴赤れんがパーク舞鶴名物の赤れんが倉庫は、舞鶴鎮守府の軍需品保管庫として、明治33年から大正10年の約20年間に建てられました。12棟のうち8棟が重要文化財に認定され、平成24年舞鶴赤れんがパークとしてオープン。初期に建てられた倉庫は、外観のデザインなど、短期間の工事にも関わらず凝ったつくりになっています。
赤れんが倉庫には耐震補強などリニューアル工事が施され、レストランやカフェ、土産店、イベントスペース、資料館など、様々な用途に使われています。この日は5号棟(旧水雷庫)で、福祉施設を支援する市民たちがチャリティーマーケットの準備をしていました。明治37年には軍港引込線が開通し、倉庫内まで線路が引き込まれていました。
軍都舞鶴の歴史を伝える赤れんが3号棟「まいづる智恵蔵」の展示。他に「赤れんが博物館」(旧魚雷庫)、赤れんが2号棟「舞鶴市政記念館」(旧砲銃庫)などがあり、海上自衛隊舞鶴補給所の現役倉庫としても4棟利用されています。海軍の家族が暮らす官舎は、官舎山(夕潮台公園)に区画されました。甲乙丙丁の4タイプあり、甲153㎡、乙137㎡、丙113㎡、丁73㎡と定められ、長い縁側に和室がならぶ和館の作りでしたが、台所や土間、基礎にはコンクリートを使い、当時の住宅としては先進的でした。
舞鶴海軍ゆかりの港めぐり
土・日・祝日には「舞鶴海軍ゆかりの港めぐり遊覧船」が運行され、海上自衛隊舞鶴地方隊基地をはじめ、歴史的な名所を船上から見学できます。海上自衛隊の多用途支援艦「ひうち」(4301)は、射撃訓練の支援や故障した船のサポートなど、様々な装備を備えた船です。災害派遣にも活躍し、東日本大震災の際は、福島の原発事故現場へ横須賀の米軍基地から1000トンの真水を積んだバージを運びました。女性隊員も含め、放射線防御服を着込み任務にあたったそうです。
海上自衛隊舞鶴警備隊の掃海艇「すがしま」「のとじま」は、祝日ということもあり満艦飾で飾られていました。掃海艇は、水中の機雷処分に特化した木造船で、機雷は金属に反応するため、ベイマツ、タモ合板、ケヤキから作られています。東日本大震災の際は被災地に派遣され、水中の障害物を取り除く作業に活躍しました。
旧海軍の基地跡を利用した海上自衛隊舞鶴教育隊が見えます。隊員はここで基礎教育を受け、各地に配属されます。水色の建物は防火防水訓練場で、実際に火をつけた消化訓練をします。山の中腹には旧海軍の2階建て地下壕があり、当時からエアコンによって空調していたそうです。山地の開削工事は土砂の崩壊、岩盤の亀裂、岩石の落下などの事故が相次ぎ、請負者の吉田寅松は63名の犠牲者を弔うためお堂(現・真宗寺)を建立しました。
舞鶴鎮守府には、日本海側で最大の海軍工廠(造船場)が設けられました。明治34年に舞鶴造船所、翌年に第一船渠が完成し、36年には駆逐艦「追風」を起工。大正3年には第二船渠が完成し、大正9年には八・八艦隊の建造が計画されますが、大正12年のワシントン軍縮会議で主力艦の比率を日本3・アメリカ5・イギリス5とすることが決定され、戦艦の建造9隻が中止されます。その影響をうけ、舞鶴海軍工廠は工作部へと降格され、一時舞鶴の軍港は閑散としました。昭和6年の満州事変を契機に昭和8年、日本は国際連盟を脱退し、昭和11年には海軍工廠が復活します。太平洋戦争中は舞鶴、京都や鳥取、福井の学生たちが5000人近く学徒動員され、海軍工廠で働きました。敗戦と共に海軍工廠は閉鎖されますが、現在もジャパンマリンユナイテッド舞鶴工場の2号ドック、3号ドックとして活用されています。石造とコンクリート造を組み合せたドックは当時最大級を誇り、日露戦争から太平洋戦争終結までに建造された日本の軍艦296隻のうち最多の69隻が建造され、海軍関連の造船技術をリードしていました。
3ドック(元第二船渠:新造船用) .No 2ドック(元第一船渠:修理用) .No
補給艦「ましゅう」は全長221mの巨大艦で、大量の物資や燃料を運びます。インド洋での海上補給支援に参加し、洋上で走りながら他国の軍艦に燃料補給を行いました。甲板が70℃以上になる猛暑のなか、併走によって起こる大波に神経を使いながら、海上から戦地を支援。東日本大震災の際も、物資輸送に活躍しました。
日本海側では唯一の海上自衛隊の航空基地「舞鶴航空基地」が見えます。哨戒ヘリコプターSH -60Jが12機常駐し、護衛艦搭載ヘリコプターの整備も行っています。
戦後は掃海作業が行われ、昭和27年には舞鶴地方隊を設置。現在は島根県から秋田県にいたる長大な海岸線を守備しています。日本海での不審船の活動や、大和堆(やまとたい)での違法操業、P1偵察機の問題をうけ、その役割は重要度を増しています。一方で乗組員不足は深刻で、6、7割の人出で運行されているのが実情です。平成30年度からは新型護衛艦「3900トン型」の建造がはじまり、多目的化、省人化、低コスト化が図られる予定です。
赤白の煙突は日本板硝子の工場です。戦前は海軍の火薬工場で、日本海海戦でバルチック艦隊を苦しめた高性能火薬が、ここで作られていました。太平洋戦争末期、舞鶴港には米軍によって190発以上の機雷が敷設され、艦上爆撃機によって戦艦は行動不能に陥り、原爆の模擬弾投下によって工場に動員された学生も多く犠牲となりました。
イングランド王ヘンリー8世(1491〜1547)は、歴代の英国王の中でも、飛び抜けて存在感が大きいひとりで、そのイメージは強烈だ。巨大な樽のような体を豪華な衣装で包み、生涯で6人の妃を娶った王様。最初の妃と離婚する許しをローマ法王から得ることが出来なかったため、大喧嘩の末にカトリック教会を離脱し、英国全土の修道院をお取り潰しにした王様。自身の王
1320
位を継承する男子を期待して密かに結婚した2番目の「妃」アン・ブーリン。娘エリザベスを生んだものの、その後男子誕生の希望
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が消えたため、これを処刑した王様。ドラマ化される機会の多さでは、自身の長女エリザベス1世やヴィクトリア女王に勝るとも
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劣らない。数多く残る肖像画は、そのほとんどが、あごが首筋と一体化するほど、でっぷりと太った姿で描かれていて、まるで子供向けの絵本に登場する「王様」そのものだ。果たして子供の頃
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から肥満児だったのだろうか?12
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1509年4月 日父王ヘンリー 世がロンドンのリッチモンド城で逝去する。5月9日遺骸はセント・ポール大聖堂からウェ
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ストミンスター寺院に移されて埋葬される。埋葬時「高貴なる王アンリ7世ご逝去」と唱和された後、「高貴なる王アンリ8世万歳!」と布告する声が17寺院内に響き渡る。共にフランス語でなされている点が興味深い。シェイクスピア以前のイングランド宮廷では、特に儀式用語でフランス語が使われる場合が珍しくなかった。なぜなら、1066年の「ノルマンによる征服」以降、イングランド貴族はその大半が「フランス語」を母語とする征服者ヴァイキングの子孫だったからだ。また、 世紀半ばからの二百年弱の間、現在のフランスの西半分近い広大なアキテーヌ公領が、婚姻によりイングランド王家の領地であったことも大いに関係している。
父王逝去の カ月後、 6月 日夏至の日、 歳を迎える誕生日の4日前に、ヘンリー8世の即位式が執り行われる。この即位式の 日前、ヘンリー8世は、当時欧州で最強国であったスペインの王女キャサリン(1487〜1536)と結婚している。8世の兄の許に 歳で嫁ぎながら、その早逝で僅か1年弱で幼き未亡人となり、宮廷内で不遇を囲っていた女性だ。ヘンリー8世は 歳で、 歳になっていた「元の兄嫁」と結婚した、ということになる。さて、その若き8世は、子供の頃から肥満児だったのかというと、とんでもない。若き日の彼は、中年以降とは似ても似つかない見事な容姿だった。身長180センチを超す長身で、しかも、豊かな感受性を備えた美男子であり、そのうえ図抜けたスポーツマン。
幼少の頃から徹底した帝王学を授けられていたため、知的水準も高く、まさに「理想の若きプリンス」そのものだった。さらに音楽の才にも優れ、自身でリュート(琵琶)と鍵盤楽器を弾き、歌も見事で、作詞作曲もこなした。生涯で 本のフルートを収集したことでも知られ、自身が正規の隊列で外出する際には、音楽を奏
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でる楽士の一団が必ず随行したという。一方、戦う武将の棟梁となるべく、剣術・レスリング・アーチェリー・鷹狩そして、長大な槍を手に戦う騎馬戦等々を通して、恵まれた体を厳しく鍛えられながら成長した。癇癪持ちの気性もあって、周囲の貴族騎士からも恐れられる対戦相手だったという。
200頭に及ぶ馬を保有し、 10キロ四方の広大な狩場を駆け巡る「狩り」を好んだ。それはスポーツと言うより戦闘訓練の色彩が濃いもので、自身が仕留めた大鹿は、その腹を自分の剣で切り裂いて内蔵をわし掴みにして取り出し、その血を同行の騎士貴族になすりつけることを楽しんだ。こうした行為は古来勇者の証であり、取り出した内臓は狩りに随行する下級の者たちに分け与えられるのが習慣だった。「秋にはジビエを!」とは、これだけの戦闘力ある騎士貴族の特権であり、自ら仕留めた獲物をかっさばいて内蔵を手づかみできる肝っ玉を持つ男の世界の
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話なのだ。東京のレストランで供される、こぎれいに飾られた小さな肉片を前に語られる「美食」とは別次元の、荒々しい戦の伝統から生まれたものであることを強調しておきたい。
これほどの男であってみれば、ヘンリー 世は若い頃から自身の容姿に自信があり、衣装についても、大変なおしゃれだった。特に注目すべきは、その真っ直ぐに伸びた長い脚のすねを見事な布地できっちりと締め上げて強調する衣装をとりわけ好んでいたこと。これは残された肖像画を見れば一目瞭然だ。しかし人間の一生とはわからないもので、この見事な衣装と騎馬槍試合好きが、8世の中年以降の人生を台無しにする原因となる。常に締め上げたスネは、中年になるに従って、うっ血し、皮膚がただれ、かゆみから痛みへと悪化し、やがて歩行に支障をきたすほどに至る。それに加えて、人並み外れて活動的だったヘンリー8世が、その活動力を決定的に奪われることになる重大事故が起きる。1536年1月 日、自身が生まれ育ったテムズ河口に近いグリニッチ城で挙行された騎馬槍試合に参加し、馬と自身共に鉄製の重い甲冑を全身にまとった姿で落馬。打ち所が悪く、2時間以上意識不明となる。このとき脳に損傷を受けたと言われ、当時 歳の王は、以後、脚の病と落馬の影響で歩行に支障をきたすようになる。また性格も大きく変化して、快活さは失われ、陰鬱で残酷な側面が強まる中で、失意のうちに晩年を迎えている。ヘンリー8世は、歴史上、いいイメージで語られることが少ない。しかし、こうした背景を知ってみれば、「落馬事故さえなければ」と、同情の思いも湧いてくる。この王様の代に、イングランドは強国の仲間入りを果たし、その居城ハンプトン・コートの台所は、法王庁のそれと並んで、全欧州で最も設備の整ったものとなる。その居城で催された華麗な宴席と料理については、またいつか、お話してみたい。
海軍料亭「松栄館」
東郷平八郎、秋山真之をはじめ、海軍御用達の老舗旅館「松栄館」。
長く放置されていた別館「聚幸菴」が再生され、海軍料理レストラン「松栄館」として昨年秋にオープンしました。
▼廊下の足元にガラス引き戸が仕込まれています。
延べ床面積は約500㎡。杉皮張りや雁行の板壁など、数寄屋に洋の要素を採り込んだつくり。玄関には、西洋の騎士をモチーフにしたステンドグラスがはめ込まれています。映画『飢餓海峡』や『海賊とよばれた男』などロケにも使われました。
1階の大広間(食堂)には能舞台を備えています。
▲ ビーフシチューの失敗から生まれた「肉じゃが」。▼カレイとデミグラスをあいがけした特大ロールキャベジ。
2階には床の間付きの個室が5室あり、それぞれ異なったしつらえ。階段や廊下にも凝ったつくりが見られます。映画『飢餓海峡』や『海賊とよばれた男』などのロケ現場にも使われてきました。
海軍機関学校
海軍機関学校は、海軍兵学校、経理学校とならぶ旧海軍三学校のひとつで、機関科に属する士官を育成しました。現在も残る校舎群は、海上自衛隊舞鶴地方総監部、第四術科学校として活用されています。
海軍機関学校は設立当初、横須賀に置かれていましたが、大正12年の関東大震災で全焼し、広島県江田島の兵学校内に仮移転したあと、昭和2年には旧海兵団の跡地4万5千坪を利用して、庁舎、生徒館、理化学講堂を80万円で建設し、昭和5年に完成。ふんだんに使われた鉄材料は、ワシントン条約で中止された9隻の戦艦の鉄骨を利用しています。機関学校は青年たち憧れの場であり、地元の誇りでした。
レンガを効果的に使った新古典主義的なデザインが特徴。
海軍記念館(旧海軍機関学校大講堂)
海軍関連の資料500点以上が展示されています。
中央の照明器具は、舵輪と蛍光灯の組み合せ。
第四術科学校の催しに利用されています。同校は主に「経理」、、、
「補給」「調理」「業務管理」
など、正面部隊を支える後方支援を行う若者を育成しています。戦後の一時期は、米軍のダンスホールとして使われました。
北吸桟橋
全通型甲板をもつ護衛艦「ひゅうが」やイージス艦「みょうこう」「あたご」、ミサイル艇「はやぶさ」「うみたか」などが接岸する北吸桟橋。主に土・日・祝日に一般公開され、桟橋から間近に艦船を見られます。
内田 和子
つれづれなるままに第54回京都南座新装開幕
11012
今年の顔見せ興行は、特別に
4
れるとのこと。仁左衛門ももう
1
いうことか、発売日その日、すでに特別席と 売り切れ。わずかに残る 7011
2
まぁの席を
当日は夜の部、 場となる。
最後の
12
10
改修工事を終えて開場した。
月末、歌舞伎役者が京の街を練り歩く「南座新開場祇
園お練り」をテレビで観て、数年前初めて行った南座と顔見世興行大歌舞伎を思い出した。座席を間違えて大慌てしたり、吉兆のお弁当が 5000円もしたり、展開の早い演目についていけなかったりと、途中居眠りもしたが、歌舞伎の面白さを再認識。南座顔見世興行は暮れの恒例観劇にしたいと思ったが、翌年は思いがけない入院となり実現しなかった。実に 5年ぶりの京都南座である。
を超えている。大丈夫だ
ろうかと心配するが、観ておかなければという気持ちもある。はやる気持ちを抑えて 12月の座席を確認する。なんと
等席は真ん中より後ろ、花道近
くはない。そんなバカなと思いながら、自分のスケジュールは二の次に、パソコンで空席のある日にちをメモし、役者の顔が良く見える、花道近くの席をチェック。ようやくまぁ
し過ぎに京都に着き、軽く食事を済ませ錦市場を歩く。観光客は多いものの、やはり暮れならではの京都風情がここにはある。正月野菜や乾物が並び、綺麗な京菓子は目を楽しませる。「鍵善」でくずきりを食べて一休み。時間はまだある。小雨が降るなか南座の入り口は開場を待つ人で一杯。席は決まっているから慌てなくてもいいとはいえ「まねき」を見上げ写真を撮り、場の雰囲気を楽しんでいる。
東京の歌舞伎座は完全建て替えで昔の面影はなくなったが、南座の雰囲気は元のままだった。天井や椅子の見た目は綺麗になったものの、こじんまりさは変わらない。南座で歌舞伎を観たいのは、このスケール感かもしれない。吉兆、とらや、なだ万が並ぶお弁当売り場を覗き、なだ万で
月の中旬に確保で
きた。それから宿探し。こちらはタイミングよく駅前を予約でき、歌舞伎を観て帰るだけの暮れの京都行きをスケジュール表に書き込んだ。
時半から開
時の新幹線で昼少
つをゲット。席に戻ると開演ブザーが鳴った。
月の南座は、旦那衆と思しき着物姿の男性や置屋のお
かあはんと一緒の舞妓さんが多く、旦那衆はあちこちの舞妓さんと挨拶を交わしている。すぐ近くに座る若旦那が「松嶋屋 !」「成駒屋 !」と掛け声をかけると、花道を引く愛之助がチラッと目を向けて行く。案外役者もご贔屓さんの声を知っているのかも。南座独特の華やかさは、祇園の色
昨年 月、待ちに待った京都南座が 年にわたる大規模
11
3
月、 月のふた月公演さ
12
等席は全て
京都南座新装開幕
香がそこかしこに漂っているからだろう。
演目は、「義経千本桜」「面かぶり」「弁天娘女男白浪」「三社祭り」。途中休憩を挟みながら 時間。終わったのは 時半。興奮冷めやら
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ず、南座を出ると土砂降りの雨である。覚悟して走り出したらタクシーがきた。すんなり乗れたのは運がいい。宿に戻りお風呂に入る。ここちよい疲れの中、観てきた演目や舞台の華やかさが目に浮かぶ。台詞回しや筋書きが腑に落ちず、ガイドを読み直し、「あぁ、そういうこと」とビールを飲みながら合点する。
「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」は、歌舞伎の三大名作と言われているが、それぞれに膨大な幕、段があり、演
5
目は知っていても観る場面は初めてというものもある。長唄に合わせた役者の所作を見て、筋書きをようやく得心することも多い。
【義経千本桜】(よしつねせんぼんざくら)
義経や弁慶が出てくるのは見たことがあるが、今回の段は初めてで、平維盛(たいらのこれもり)が登場する。なかなか筋が見えてこないので、時折ガイドに目をやる。三段すし屋の場で、仁左衛
50
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門演じる悪の権太が腹を刺されながら息絶え絶えに真相を語るのは、ものすごい長台詞で最後の見せ場でもある。よく声の通る仁左衛門だが、瀕死の状態なので聞き取りにくい箇所もある。途切れ途切れのセリフを身を乗り出して聞いた。
お正月たまたまテレビで、その「すし屋」の場面をやっていた。長唄で綴られる情景は字幕が出て、権太のセリフを補っている。これは舞台にはないことだったが、長唄が重要な役目を担っていたことを改めて知り、長台詞の場面に見入った。
「面かぶり」と「三社祭り」は踊りである。衣装も華やかだが、型がびっしと決まっている。足の運び屋、腰の落し方、息の合った舞いに引き込まれる。
【弁天娘女男白浪】(べんてんむすめめおのしらなみ)
これは面白かった。演目をみてもとっさにわからず、登場した娘は愛之助の女形とばかり思っていた。筋が進むにつれ、詐欺で女を演じている男とわかり、昔父に連れられて見に行った弁天小僧の映画を思い出した。美空ひばりが「シラザァイッテキカセヤショー」ともろ肌剥いでまくし立てた名セリフが思わず口に出て、子供心に残った艶やかさと、最後に傘をさして並んだ白波五人男のかっこよさがあの時のまま蘇った。幼い頃の映画がオーバーラップして、愛之助演じる菊之助は、美空ひばりのようにも見えた。
歌舞伎の面白さを語るにはまだまだだが、 年来の友人が歌舞伎大好きというのをごく最近知った。それも仁左衛門と玉三郎ファン。来年の南座のチケットは何としてもとれという。数年前に出会った
代の女性弁護士は仁左衛門のファンクラブメンバー。どういうわけかわからないが、じわりじわり、外堀が埋められそうになっている。
えっ ?それって自分で触れ回っているからという気もなくはない
が、黙ってはいられない魅力が、歌舞伎にはたっぷりなのである。
本土への帰還 平桟橋昭和20年8月15日、玉音放送により日本の降伏が公表された日は「終戦の日」として浸透していますが、海外に残された軍人、民間人にとって、この日は苦難の捕虜生活や、命がけの逃避行の始まりでした。舞鶴港の「平桟橋」は、数年〜十数年をかけて日本に戻った引揚者が、最初に本土の土を踏んだ場所です。
終戦時に海外の戦場、植民地にいた日本人は推定約660万人。そのうち300万人以上は民間人でした。舞鶴をはじめ佐世保、呉、横須賀など海軍の街には、兵舎や桟橋を利用した引揚援護局が設けられ、舞鶴にはソ連、中国、朝鮮から約665,000人、346隻の引揚船を受け入れました。舞鶴に多かったのはシベリアの抑留者で、終戦直後にソ連軍に拘留され、数年から十数年にわたり強制労働に苦しめられた元軍人たちでした。
舞鶴引揚記念は、引揚の実態を公開する日本唯一の博物館。2015年には展示資料の多くが「ユネスコ記憶遺産」に登録されました。舞鶴には昭和20年から引揚がはじまり、昭和33年まで13年間も続きました。中国、朝鮮、南方の捕虜は1年半以内に戻りましたが、シベリアだけが10年以上も抑留されたからです。ポツダム宣言の9項には「日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る」とあり、長期間の抑留は明らかに違反ですが、兵士1600万人、民間人750万人を失ったソ連は労働力不足を補うため、森林伐採、炭鉱採掘、鉄道・道路建設などを過酷な労働を課しました。
ラーゲリの暮らし
食堂
シベリア抑留者 賃金の未払い問題
ハーグ陸戦条約などの国際法では、抑留時の労働賃金は、捕虜の母国が支払うことになっています(日本人シベリア抑留者の場合は日本が支払う)。日本政府は、南方で米英の捕虜になった日本兵に対しては、労働証明書にもとづき賃金を支払いました。しかし、ソ連政府は抑留者に労働証明書を発行せず、日本政府も支払わないまま推移。昭和31年の日ソ共同宣言以降、日本政府は「戦後処理問題として決着済み」としてきました。しかし元抑留者たちはこれを不服とし、賠償請求訴訟や抗議活動を行ってきました。2010年「シベリア特措法」が可決され、旧ソ連で強制労働させられた元抑留者に対し、勾留期間に応じて1人25万円〜150万円が一時金として支給されることになりました。当時すでに元拘留者の平均年齢は88歳、約7万人が存命されていました。
白樺日誌
シベリアに2年間抑留された舞鶴出身の瀬野修さんが、白樺の皮に、空き缶から作ったペンで書いた日誌。約200首の和歌と日記で構成され、家族、故郷への思いや抑留生活が詳しく書かれています。所持品検査をくぐり抜け、奇跡的に没収を免れました。