コラージは下記オフィシャルサポーターの提供でお送りいたします
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Colla:J について
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定期配信のお申込み(無料)
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オフィシャルサポーター
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プライバシーポリシー
零下の日が続く、冬の旭川。旭川駅前の「買い物公園」を歩きます。
7条通8丁目の「こども富貴堂」は、赤い扉が目印の1981年オープンの児童書専門店。あべ弘士さん、堀川真さんなど、地元作家の絵本を豊富にとりそろえ、市民の良心によって30年近く支えられてきました。店内にはギャラリーKIDSも併設。
老舗ホテル「旭川グランドホテル」が「星野リゾート OMO7旭川」に生まれ変わりました。1階OMOカフェ&バルは、ゲストでも楽しめるランチやケーキセット(11:30.14:00)を提供。「ブックトンネル」で旭川関連の本をゆっくり閲覧できます。昭和33年創業の喫茶「ブラジル」。3条通8丁目の路地を入った地下の店で、中はひろびろ。数十年来の常連さんでにぎわっています。昭和レトロなホットコーヒーや家庭料理そのままの日替わりランチもおすすめ。
人気の生ラム店「成吉思汗大黒屋」(4条5丁目)。旭川でジンギスカンといえば、タレに漬け込んだものが主流でしたが、最近は観光客を中心に生ラムがブーム。店内はいつも満席で、煙っています。
5条11丁目界隈。
「買い物公園」のライトアップイベント「街あかり」は、3月10日まで開催中。冬の繁華街(3・6街周辺)は、遅くまで大勢の人で賑わっていました。
国:
36
現在、世界で最も多く生産される農産物は何?
麦? ているの?
意外なことに、トウモロコシだ。じゃあ、どこで生産され
%、中国:
世界の総生産量を国別の割合で示すと、アメリカ合衆
21
%。この
2
カ国だけで世界のほぼ6割を占める。
続いて、ブラジル・アルゼンチン・メキシコの中南米
で16%。これら上位
5
カ国で、世界の全生産量のほぼ四分の三を
占める。文字通り寡占状態だ。では、世界で最も多くトウモロコシを輸入している国はどこ? ほんの数年前までは長らく、日本が第1位の座を占めていたが、米国農務省の最新のデータでは、
メキシコ・ EU・日本が、ほぼ同じ割合(各 にエジプト・韓国・ベトナム・イランが各
一つの国と見れば、これら輸入上位7カ国が、世界で輸出されるトウモロコシの6割近い量を買い込んでいることになる。要するに、トウモロコシは世界で最も多く生産される農作物であるにもかかわらず、その生産・輸入共に、極めて限られた国と地域に偏った、いびつな構造になっている。
で、日本はどこから輸入しているの? なんと全輸入量のほぼ8割をアメリカからの輸入に頼っている。これに続いてブラジルと南アフリカ、一時絶えた
ている。問題は、日本が輸入しているトウモロコシのほぼ9割が、GMすなわち遺伝子組換え品種で占められている点だ。これについては、後で触れる。
それ以前に、なぜ日本は、世界でも有数の輸入国なのか。トウモロコシなんて夏、八百屋やスーパーに北海道産が並ぶくらいで、あとは缶詰や冷凍を目にする程度なのに ……なんて思うのは、あまりにもナイーブすぎる。トウモロコシは現代社会で欠かせない様々な用途で加工利用されているのだ。我が国における最大の用途は、牛や豚や鶏そして養殖魚向けの飼料(えさ)。ついで様々な加工食品の素材、中でもコーンスターチ(でんぷん)としての利用。また、見逃せないのが、食品成分表示では「異性化糖」と表示されるコーンシロップに代表される人工甘味料の素材としての利用。欧米では最近、特にコーラに代表される清涼飲料の甘味料と利用される High-Fructose Corn Syrup (HFCSトウモロコシを素材とする高果糖度シロップ)のとりすぎが問題となっている。糖尿病や肥満の大きな原因として「摂取の抑制を」という声が高まっているのだ。このシロップは砂糖を越える強い甘みで、砂糖に変わる甘味料として開発されたもので、その基本技術の開発者は、旧通産省産業技術院(現産業技術総合研究所)の研究員だった高崎義幸博士。この技術自
中国産の輸入は、
17
年に急増し
コメそれとも
10
カ国合計
%)で並び、これ
6
%台で続く。
EUを
3
体は、第二次世界大戦後初の輸出特許となったといわれる、極めて優れた研究発明だ。今頃になって欧米で、その技術で開発された異性化糖の過剰摂取が問題視されるとは、博士も思ってもみなかったのではないだろうか。
ヒトの食用、家畜・養殖魚のエサ、人工甘味料。トウモロコシの用途は、これ
にとどまらない。近年は、ガソリンに代わる車の燃料エタノールの原材料として、
ブラジルを中心に生産と利用が拡大している。またバーボン・ウィスキーの主要
素材であること、言うまでもない。加工食品としては、英米の朝食に欠かせない
コーン・フレーク、そして米南部で大切なコーン・ブレッドも。それ以外にも、
極めて広範囲の市販食品の素材として利用されている。我々はもはや、 GMトウ
モロコシを素材とする食品を取らずに一日を終えることはないのではないか。皆
さんが日常口にする、牛・豚・鶏そして養殖魚。そのほとんどは GMトウモロ
コシを主体とする配合飼料で育っている。「肉食」=「トウモロコシ摂取」なのだ。
実際、米国では「トウモロコシの主要な産地」=「豚・牛・鶏の主要な産地」と
いう構造になっている。例えば最近東京のデパ地下や一部のスーパーで目立ち始
めた「アイオワ・プライム・ビーフ」。その産地アイオワ州は、米国でも一、二を
争うトウモロコシの産地として知られる。鉄道以前、
車社会の到来以前、家畜の餌を遠方から運ぶなどと
いうことは考えられなかった。という歴史背景から、
こうなっている。現代の日本でさえ、輸入穀物の荷
揚げが集中する限られた港のある周辺が、畜産の盛
んな地域となっているほどだ。いずれにせよ、国産
肉も輸入肉も、その大半は遺伝子組み換えトウモロ
コシを主な素材とする配合飼料で育てられた家畜の
肉だ。この事実は、頭に入れておいていい。もちろん、
これを嫌う一部の消費者向けに、海外はもちろん我
が国でも、 NOー GMトウモロコシを飼料とする牛・
豚・鶏を生産する農家がある。その流通に力を入れ
る団体や店舗が、勢力としては未だ小さなものながら、確実にその勢いを増しつ
つあることは注目に値する。なお、牛肉については、この問題とはまた別の問題
が一つある。牛は生来、穀物ではなく草を食べてこれを反芻して消化する動物だ。「草原で放牧された牛、また、牧舎でも干し草を飼料とする牛であってこそ本来
の旨味が味わえるはず」という強力な主張がある。これが高価ながら我が国でも
流通し始めていることも要注目だ。
ところで、商品としてのトウモロコシの国際相場価格は、その生産で世界最大規模を誇るアメリカで決まる。その中心がシカゴ商品取引所だ。日本の明治維新の少し前頃から、五大湖を結ぶ運河の完成、そして鉄道網の発達で、シカゴが北米の穀倉地帯の穀物と食肉の中心的な集散地となっていく。そこで最初に「先物取引」の対象とされたのがトウモロコシだった。先物相場はときに乱高下する。その理由が天候不順であればまだしも、思惑による博打相場となる場合があるのだ。というわけで、トウモロコシの世界を知ることは、現代の世界を知ることに通じる。ネット上では「北川祐子・トウモロコシ」で検索すると、雑誌『農業経営者』に連載された、日本でのトウモロコシをめぐる状況の詳しい記事を読むことができる。 (編集部註・左下のリンクからもご覧いただけます)
美しい雪におおわれた冬の北海道。旭川駅から富良野線の各駅停車に乗り、4駅目の西瑞穂(みずほ)駅で降りました。この駅の近くには、昭和25年に開設された日本最大規模の「林産試験場」があります。
瑞穂とは、たわわに実る稲穂のこと。目の前に広がる雪原は、春になると黒々とした田んぼに変わります。明治25年、旭川で屯田兵による開拓が始まった当初、お雇い外国人ケプロンの報告によって北海道で稲作は不可能とされ、田んぼを作ることが禁止されました。米にかわり麦作が推奨され、主食をパンとするよう命じられますが、屯田兵や農民は禁令に背き、水溜まりを利用して種籾を撒き、上官に見つかって営倉に入れられる兵もいました。旭川では明治27年、倉沼川から用水路がひかれ屯田兵村で米の試作が始まりました。それから120年、旭川は「ゆめぴりか」「ななつぼし」など、本州にも優るブランド米の大産地となりました。
地方独立行政法人 北海道立総合研究機構 森林研究本部
「林産試験場」
北海道の森林資源を産業に活かすため、昭和25年(1950)、林業指導所として開設された「林産試験場」。昭和61年現在地に移転し、新しい木質材料の開発、木材の認証試験、防火性を高める研究、木工加工機械の開発、バイオマス燃料の研究、木材乾燥の研究、合板や木質ボード材の開発、きのこや微生物の研究、林業をアシストする機器の開発など、多岐にわたる研究・開発を行っています。
普及連携グループ主査の大西人史さんが、施設を案内してくれました。庁舎棟1階ホールには最新の研究成果が展示されています。いま注目されている技術のひとつが「コアドライ .」です。カラマツは北海道人工林150万haの32%を占めていて、その8割以上が木枠の梱包材などに消費されます。より価値の高い建築材料として活用するため開発されたのが「コアドライ .」技術で、カラマツ芯持ち材を割れやねじれの出ないよう中心まで均一に乾燥し(中心部で含水率15%以下)、角柱や梁材として利用することを可能にしました。現在は複数の道内企業が生産に着手しています。
敷地では、CLT(クロスラミネイティドティンバー)を使った実験棟Hokkaido CLTPavilionの建設が始まっていました。道産カラマツ、トドマツCLTの大面積面材を活用した、ミース・ファン・デル・ローエ「ファンズワース邸」を思わせるスタイルの建物で、強度や断熱性の検証を行うそうです。壁と床の接合は、斜め打ちしたビスなどで止められます。カラマツ大断面集成材を、ドリフトピン工法によってジョイントしたユニークな構造。クラフト製品や木と暮らしの情報館木の建材、サッシ、床・壁材などを一般にむけて紹介しています(4月1日.11月30日まで開館)。大規模木造建築の見本ともなっている情報館。北海道はじめ各自治体は、地域材を優先的に使う方針をだしていて国産材の利用拡大が予測される一方、林業の人手不足、高齢化が深刻です。2020年4月に林業で働く人材を育てる「北海道立北の森づくり専門学院」の開校が予定され、CLTなどを使用した校舎を林産試験場に隣接して建てる計画が進んでいます。クラフト製品のほか、木製ドアや窓、壁・床材、集成材、エクステリア材など、北海道のメーカーの製品を一堂に見られます。
広大な敷地には、加工試験棟、性能試験棟、きのこ試験室、粉砕成形試験棟、応用試験棟、製材試験棟などが並んでいます。これだけの規模の林産の研究施設は、世界的にも珍しいといわれます。
各棟では様々な木材の開発や試験が行われています。圧縮木材の研究では、トドマツなど針葉樹の厚みを「ホットプレス」機で半分ほどに圧縮し広葉樹のような硬さをもたせることで、床材や家具材として利用することを目指しています。
かつて林産試験場は合板の生産を行っていた時期もあり、合板メーカーと同様の製造ラインを備えています。木材の有効利用を目的に開発されたのが、木の節をカメラで検知し、接着剤を自動的に塗布する装置です。これにより、節が多い材でも歩留まりよく合板に利用できるようになります。
▲体力的に厳しいイメージの林業ですが、誰でも働きやすいよう、林業機械の改良も行われています。上は植林に使うポット苗の運搬機で、山地を楽に進めます。
意外なことに、金属旋盤やボール盤を備えた金属工房もあります。金属加工のプロが研究員の要望にあわせ、試験用機具や加工機械の制作を行っています。機器を内製することで開発のスピードがあがり、互いにアイデアを出し合いながら進めているそうです。林産業の高度化にともなって、機械工学、化学、生物学など、幅広い知識と技術が求められています。
▲木製サッシの気密・水密性を試験する装置もありました。▼防火試験を行うため、試験体を作っている所。
木造建築の大規模化や公共施設での利用が増えるにつれ、木材・集成材の強度や防火性など「大臣認定」を取得することが大切になっています。林産試験場は認定に必要なデータをとる機関としても重要で、全国から依頼があります。「クリープ試験機」では、長期間、材木に一定の力をかけて変形量のデータをとります。こうした試験装置も独自に開発するそうです。こうして得られたデータにより、2018年に道産材CLTが建築基準法のCLTに関する基準強度に追加され、大臣認定を受けることなく、建築確認での建築が可能となりました。
外部で実際に使われた木材を集め、経年劣化によって強度がどう低下するかを測定し、耐久年数の予測に役立てています。自然材料である木材を安全に使用するためには、こうした調査が欠かせません。林産試験場では、腐敗を人工的に進める「腐朽ユニット」を開発して、試験時間を短縮する試みも行っています。
▲丸太の皮むき機や製材機も揃っています。▼木材の加工を行う、家具工場のような木工場。
実は「きのこ」は野菜ではなく林産物のひとつで、林産試験場では新種のきのこが開発されています。通常の菌床には広葉樹のオガ屑を使いますが、針葉樹であるカラマツのオガ屑に適したブナシメジ「マーブレ219」や健康機能のあるマイタケ「大雪華の舞1号」などが開発され、北海道の林業との連携が図られています。
▲様々な木材乾燥機を揃え、乾燥スケジュールの実験を繰り返します。民間企業ではなかなか出来ないことです。
林産試験場が大きな役割を果たした仕事のひとつに、木材の品質を大きく左右する「乾燥技術」があります。木材の人工乾燥で最も普及しているのは「蒸気式乾燥装置」です。その温度管理や乾燥スケジュールを確立して、北海道全土に普及させました。「コアドライ .」の技術も、乾燥方法の研究から生まれたものです。山の自然を守るためにも、林業の適切な運営が求められるなか、それを経済的に支える林産業の重要性はますます高くなっていると感じました。
大雪山系
▲ワンダースらしい、お洒落なディテールが随所に。
内田 和子
つれづれなるままに
第55回 読書堪能
1月、久しぶりに連続もののテレビドラマを楽しんだ。
1回目の放送は途中からで、半分よくわからないまま視ていたが、サスペンスなのか大人の恋愛ものか、続きもので
次回が気になり、毎日曜の 時は用事を切り上げテレビの
10
前に座った。
亡くした一人暮らしの女性と精神科医。時々意味ありげに登場するのは若い女性。連続4回ものだが、3回目が終了した後、どうしても最終回まで待てず本屋に出向いた。本のタイトルも作者も確認しないまま、平積みであるだろうと探したが見当たらない。ぐるり3回店内を見渡したがどうしても見つからない。聞くのはいささか気恥ずかしくためらったが、作家は女性で、 BSでやっているドラマというと、すぐに探して持ってきてくれた。小池真理子著『モンローが死んだ日』。読み始めると夢中になり、食事もソ
(C)NHK
コソコに深夜まで読み進み、3回目の放送のところまで追いついた。どうしても最終回には読み終えておきたいと、ちょっとの時間でも手放さなかった。電車の中で本を読むなんてことは目眩がしそうだったが、この時はメガネもかけず2日で読み終えた。ことの次第と結末に大きなため息が出て、しばらく本を閉じることができなかった。
主人公を演じる鈴木京香と精神科医の草刈正雄は間合い
のあるいい味を出しているが、食事の場面で並ぶ料理もいい味を出していた。テーブルに並べられた料理は、魚の煮付けや季節ものの野菜やお浸し、ハチミツをかけたトーストとサラダの朝食、りんごと小さなおにぎりの昼食など豪華なものではないが、女性ならではの細かな描写が大人の女性を引き立てる。本では細かに材料やレシピも書いてあり、ピックアップして作ってみたいと思った。
しばらく読後の余韻を楽しみ、日曜日は落ち着いて最終回を視た。原作とは大きく変わっていたが、最後はやっぱり食べ物が出て、ハッピーエンドを感じさせるものだった。
本をドラマ化するには脚本が必要だが、難しい小説もいい脚本家と役者が揃えば思いの外いいドラマとなる。暮れの紅白は見なかったが、 NHKBS
の受信料を払っていて
良かったと思った。
舞台となるのは晩秋の軽井沢、登場人物は 年前に夫を
8
読書堪能
本屋さんでぐるり探していたとき、タイトルと表紙だけを見て、別に2冊を買った。
内館牧子の『すぐ死ぬんだから』と、なかにし礼の『芸能の不思議な力』。表紙は最後の東京ドームで不死鳥の衣装で歌う美空ひばり。
内館牧子は脚本家だが、本も多数書いている。最近「終わった人」が映画化されて話題になった。文章は小気味好くリズムがあってすぐに読み終えた。主人公は 歳のおばさま。家業を息子に譲り、おしゃれを楽しみ、旦那は折り紙を趣味としながら仲間と展覧会を開
くなど文字通り悠々自適生活を楽しんでいる。その夫が突然 歳で亡くなり、快活で誰よりオシャレだった主人公は、もうすぐ死ぬんだからが口癖になっていた。が、ある日ひょんなことから隠し子が
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いたのがわかり、憤然とその真実と立ち向かう。辛辣な言葉を口に出し、意地悪ばあさんになるところだが、潔よさと小気味よさに「あっぱれ」と応援したくなる。主人公が「あと 10歳若かったら」と何度も繰り返えしながら、先のことをあれこれ考えるが、最後は自分の一番居心地のいい場所を得て「完」。「あと 年若かったら ……」ちょっと待って!!、80
プレイバック プレイバック ……そっ80と自分の胸に手を当ててみた。
なかにし礼は作詞家として有名だが、直木賞も受賞した作家でもある。最近は二度のガンを克服し話題になっている。昔読んだ小説が面白かったので、中身を見ずに表紙で買った。美空ひばりに始まって石原裕次郎で終わる、芸能全般のつれづれが綴られ、面白く読み始めたが、途中でハタと止まってしまった。ロシアと中国と韓国とアメリカの難しい話になっている。なかにし礼は 1932年旧満州に生まれ8歳の時に日本に引き上げてきた人である。幼い頃の生活体験は 歳になる今も根深く、鋭く厳しい目で日本の現状を見ている。ミーハー気分で読み始めた本だが、アジア史の悲惨さ、民族感情、複雑に絡む米朝、日ロについて知らないことが多すぎる。学校で習う歴史では到底追いつかないが、今の世界情勢は長い歴史の中にあることを、この本の中でほんの少しだけ感じることができた。
本を読むのも根がいる。ここ数年、積ん読本は一向に減らないでいたが、動機はどうあれ、本を読む楽しみが増えたのは嬉しいことである。
2月初旬、風邪をこじらせ寝込んだけれど、本の世界は不思議な力が蘇ってくるような気がする。
海と大地を味わうル・ゴロワ フラノ世界トップレベルのスキーリゾート富良野。新富良野プリンスホテルの一角に、北海道各地の食材を味わうレストラン「ル・ゴロワ フラノ」があります。
美しい雪に包まれた新富良野プリンスホテル。敷地に点在する「ニングルテラス」や「Soh’s BAR」、「珈琲 森の時計」にくわえ、2018年5月28日「ル・ゴロワ フラノ」がオープンしました。
東京・神宮前で長年愛されてきた「ルゴロワ」。惜しまれながら2016年5月に閉店し、シェフの大塚健一さん、マダムの大塚敬子さんは富良野に移住。敬子さんが子どもの頃から抱いていた「馬と一緒に暮らしたい」という夢を叶えました。そして大塚シェフにとっての北海道は、新鮮な食材を与えてくれる恵みの地……。
ゆるやかなカーブを描く店内に、BC工房の家具。
東京・神宮前の店にはBC工房の家具が使われ、代表の鈴木恵三さんも大塚シェフの料理を敬愛した一人です。新しい店は脚本家・倉本聰さんが店舗デザイン、メニュー監修、ロゴデザインなどを行い、引き続きBC工房の家具が採用されました。倉本聰さんは大塚夫妻の富良野移住を支援し、ル・ゴロワフラノの開店を後押ししたのです。
花束のような「ル・ゴロワ風サラダ」。神宮前の定番メニューが、よりパワーアップしました。ホタテ、エビ、サーモン、タコ、パテ、サラミ、チーズと一皿で北海道を一巡りできそう。野菜は中富良野の天心農場など、地元産を中心に。フレッシュな酸味の冷製スープは「人参のムースと完熟トマト(左)」、ほろ苦さが食欲をそそる「中富良野産アンディーブ(上)」、濃厚な「坊ちゃん南瓜のポタージュ(下)」、そば粉入り自家製パンに添えられるのは日高産バター。新鮮な魚は羅臼や寿都(すっつ)から。漁師がその日の水揚げから自慢の魚を送ってきます。この日は肉厚のオヒョウやクロガレイ。魚にあわせて調理法を選択します。天然ホタテは野付から。天然物は貝柱の太さが違うそうです。
大塚シェフが追い求めてきたのは、新鮮な食材。神宮前の時から北海道の農家、漁師、酪農家を訪ね、信頼関係を築いてきました。「北海道に来て、東京では手に入らない素材が使える。料理は素材だから、素材がよくないと美味しい料理はできない。そのためには、心をもった生産者と話をして、お互いに知ることが大切。その土地に行かないと分からないことがある。農家が大切にしてきた土の匂いをかいだり、海の空気を感じると、それは料理を食べる人にも伝わるんじゃないか」と大塚さん。
ジビエ料理のひとつ「白糠産エゾ鹿もも肉のソテー」。白糠の名ハンター松野穣さんがネックショットにより一瞬で仕留めた鹿は、後処理も迅速で臭みがありません。大塚シェフは肉のスジや脂をとり、赤ワインで煮込んだ専用ソースを作ります。鹿は鹿、羊は羊と、一切の無駄なく肉を活かしたソースには、命への敬意が込められているようです。
手作りのロウソク、銀細工、ガラス工芸、革細工、万華鏡、ペーパーワークなど「富良野らしさ」をテーマに倉本聰さんがプロデュースした「ニングルテラス」。点在するログハウスを行き交う人々の姿はブリューゲル「雪中の狩人」のようです。
神宮前の「ルゴロワ」にて鈴木恵三さんの誕生会(2016年)。20年近くにわたり、様々な人の思いが込められた店だっただけに、閉店には大きなエネルギーを注いだそうです。
倉本聰さんの点描画を飾った部屋。「白糠茶路めん羊牧場仔羊骨付き肉のグリエ」(右下)は、白糠の牧場で育った仔羊をダイナミックに。貴重な国産羊の脂の甘味を味わえます。茶路めん羊牧場の武藤浩史さんと大塚シェフの付き合いは15年以上。こうした交流のきっかけを作ったのは、北海道で馬と暮らしたいと願う敬子さんの思いでした。
魚の身の透明感は、北海道の澄み切った海を思わせます。「下ごしらえから仕上げまで全部やらないと、それが料理人の基本だから」と大塚シェフ。新鮮な状態を保ちいかに早く調理するか。下ごしらえの出来が料理にも現れるそうです。
▲「仔羊肉のトマト煮込み」。トマトと仔羊肉の相性が抜群。
大塚シェフとパティシエの敬子さんが出会ったのは、軽井沢プリンスホテルでした。敬子さんのレシビ「グレープフルーツのプリン」は、皮のほろ苦さとカラメルの香ばしさが同居。白糠、寿都、厚岸、野付、富良野、芦別、江別、中標津と、北海道の素材が集結するル・ゴロワフラノ。大塚夫妻のおもてなし料理に導かれ、北海道めぐりを楽しめます。
美瑛
ドラゴンシリーズ 54吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ドラゴンへの道編
悲しいことも生きていること。
昨年の
月末に
歳の愛猫のモモが亡くなりました。
最後まで生きると言う意思を持って、僕の腕の中でもがき苦しみながら亡くなりました。安らかな死が最後には訪れると信じていた僕にはとても苦しかった。
最後まで必死で生きたいと言う気持ちで僕の腕の中で歯を立てて全身の力を込めて噛みつき、もがき苦しみました。
力がスッと抜けてゆくと同時に彼の目に涙が出て綺麗な本当の彼の素顔になりました。それから彼を抱いて公園を散策して、その一晩ゆっくりとベッドで一緒に眠りました。
その悲しみと愛情は今もずっとそのままです。何も変わりはありません。私達には生きていると言う、ただ真実があります。それだけが大きな真実ですが、その後に残るものが存在するのかもしれません。そう言うことを感じています。
思考することは常に続いている、寝ている間も、走っている時も、ほぼ無意識でいる時も、意識は眠っていても、脳が勝手に思考しているように感じている。無意識と言う状態の中でも脳は思考している。それは自分の意識的な思考ではなく、自らの中にある誰かの第三者的な思考。若い時の自分自身の経験にある表面的な思考は本当の意味を持っていない。考えることの入り口は表面的な思考が始まりではあるものの、表面的な思考に留まった事柄が熟成したものへと進むことは少ない。しかし、この初歩的な表層的思考から始めない限り、具体的な物事の事象にぶつかり次へと進むことは無い。したがって私達は常に何かを自発的な考えや悩みから始まり、その思考する行為がある程度の熟成を重ねながら、具体的な事象の中で現実とぶつかり、そして時には自己破綻しながらも、その苦悩を克服してゆくことで次第に思考は現実と繋がり始め、想像や妄想は現実的なものへと歩み寄ってゆくように考える。
ほとんどの出来事は偶然が生み出したものに意味を後付
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けしたように感じている。その時間やプロセスが長ければ長いほど、僕らの中での無意識の中の思考する脳は次第に真実を捉えることができるように進化してゆく。常に脳は何かを捉えて思考しているように感じている。意図して成り立っていると言うものでもなく、抽象的な感情や経験値から自然な流れから生み出される答えと脳が結びついた導き出す事柄を具体的な物や行為として表層化することで、その人間の内面に眠っている無意識の中の蓄積された副産物が具象化して形を成すように思う。その副産物には無意識の中の人間の本能や受け継いできた血や本人だけしか知らない自分の奥底に眠る欲望や弱さや本心など本質に関わることが沢山眠っていて、その本質的なもの、具体的に言い表すことができない何かが表層化し、確実にその人の奥底にある無意識の本質を導き出し、引っ張り出して、恥を晒すように逃げ場の無い現実を具現化して人々の目の前に晒される。そこにはどこにも逃げ場も言い訳もできない具体的な物や事が真実が横たわっている。その真実に目を向けることで自分や他人の本質的な内面に存在する何者かを見つけ出すことができる。この紛れも無い真実が意外にも目に見える一番近いところに行為や形として残っている。その人が生きている行為や仕事や成果物を見てみることがその人の本質と真実を知る最も簡単な近道なのである。人間として生まれ、生きてきたことがどれだけ素晴らしいことかを知ることは難しい。
今、生きていること、感じている事ができて何処かに向かおうとしていること自体が奇跡的な出来事であり、私達自身が思考して出した答えの意味が今のあなたのその瞬間とその場所に存在している。中傷も怒りも悲しみも焦燥も。自分が存在していることの中でしか感じることができない感情であり、そしてその瞬間はもう二度とあなたにも私にも訪れる事がない瞬間と言うことが真実である。
さて私達はどこからやってきて、今をどのような意味で存在して、これから何処に向かおうとしているのだろう。「生きることはすなわち愛することだ」とヘッセは語ったように、私達は生きながら憎しみや悲しみを感じながらも愛することで生かされている。誰も愛せなくなった時に人間の生きる意味が失われてしまい、生きてゆく活力が失われてしまう。しかし、全ての人々、いや、その人間としての本質的な愛情と言う回路が破綻してしまった人達は本当に悲しく、罪深い犯罪者となったり、自
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暴自棄になって自分から人生を捨ててしまう。しかし、人間には本来奥底に数億年と言う年月を経て蓄積されてきた根本的な本質が存在しているのであり、そこには怒りや恨みと言う感情も存在するものの、そこにある本質は愛と言うものなのではないだろうか。全ての世界の事象には意味があり、私達の身の周りに存在する具象的、抽象的なことの中にも人間としての存在の証と意味が含まれている。日々、常に焦りながら表面的な表現の中にもその先に眠る本質的な可能性への兆しや片鱗を見つけることが出来ることもある。
本質的だと思われていることが、全く表面的だったりすることも同時に存在する。それは偶然性の中から始まった物事の中で熟成していったもがほとんどだ。人間として始めから本質を求めて、それを直線的に現実化しているように見える出来事も全ては必然的な偶然性の中から生まれたものだ。
このような話をずっと昔に 歳の時に宮崎の田舎から東京に出てきた青年がおじさん達の中で無意味な話を無意識にしていたことがあった。新聞配達の奨学金制度を使って学費を出してもらっていて抜け出せない多くの貧乏な学生達はボロアパートの中でそんな抽象的で無意味なことを何かの欲求に向かって安酒を片手に朝の配達の時間までよく話していたように思い出す。人間としての奥底にある本質的な部分はその頃よりももっともっと若い少年時代から何も変わっていないように感じる。ただ少しずつ少しずつ少年の時に見つめていた何か抽象的なことを具体的なことにして歳を重ねている。
そしてこれからもその本質は変わらないだろう。人はどのような一生の生き方をしてゆくのだろうか。青年期をピークとして山を登り降りてゆくような人生、もしくは大きな山の高峰を目指してそこで息絶える人、ずっと同じように平坦な道を歩いて行こうとする人、それぞれの生き方はそれぞれが生まれ持った必然のような気がする。もちろん後発的な進化や変化もあるだろうが、その人が意識しない次元で決まっている運命がその人の人生の多くを占めているのだろう。
明治〜現在まで、学び場の変遷をたどる
子どもたちの建築・空間を時代背景とともに俯瞰した展覧会
明治から150年、学校、公園、図書館、講堂など、子どものための建築・空間は、時代背景を最も機敏に反映してきたといってもいいでしょう。その変遷を時代順に並べ、教育の道具や家具、衣服、絵本などと共に紹介した展覧会です。
▲旧開智学校1/100模型。旧開智学校蔵。
▲『少年倶楽部』付録「軍艦三笠の大模型」(設計:中村星果)。昭和7年1月号付録のペーパークラフトで全長82cm。弥生美術館蔵。▲菊竹清訓設計の「黒石ほるぷ子ども館」。青森県黒石市に、ほるぷ図書販売会社が寄贈した子ども図書館で、小規模な木造建築でありながら菊竹作品の傑作といわれています。
北海道の原木丸太を家具に
TIME & STYLE FACTORY
2008 年の設立から10年をへた東川町のTIME & STYLE FACTORY。北海道の木を丸太から製材して家具にする。天然木のトレーサビリティを重視した試みをスタートさせました。
ものづくりを追求するうえで、避けて通れないのが主材料である「木」の問題でした。北海道はかつて直径1m以上の広葉樹(ミズナラ、タモなど)が豊富にとれ、住宅、家具、木工品に使われてきました。しかし今、大半の家具材料は欧米、ロシア、中国、東南アジアからの輸入品で、製材された乾燥材として工場に納品されています。
大雪山系を背景に、積み上げられた丸太。和人による北海道の開拓が始まって150年。その頃の北海道には、原生林が広がっていました。屯田兵や移住者たちは巨木を切り倒し、根っこを掘り返して、田畑へと変えていきました。その後、北海道で伐採された広葉樹の多くはヨーロッパへ送られ、ワイン樽や家具へと変わりました。
TIME & STYLEでは、毎年東京のスタッフを呼んで工場研修を行っています。朝のミーティングで、MIDTOWN(六本木)、RESIDENCE(二子玉川)などのスタッフ5名(菅原さん、杉さん、菊池さん、清水さん、古澤さん)が紹介され、吉田安志専務の案内でファクトリーの説明が始まりました。足元に転がる丸太の樹齢は40年。ファクトリーでは、仕入れた丸太の年輪を必ず数えるようにしています。
北海道は北緯45度の亜寒帯。木の生長は遅く、樹齢250年近いミズナラも大木までは育ちません。木目の詰まったナラは石ナラと呼ばれるほど硬く、アイヌ民族の時代から北海道の大地を見つめ続けてきました。
「ファクトリーのスタッフ全員で年輪を数えることで、木に対する気持ちが変化し、自分の年齢を超える木に対する尊厳が生まれてきました」と吉田専務はいいます。200年以上の年を重ねた木を肌で感じると、木の寿命以上のプロダクト・ライフサイクルを持つ製品を作り、傷んでも、壊れても直して使っていこうという意気込みが生まれます。新しく導入した製材機はヨーロッパ方式。バンドソーを使って丸太を横に切るタイプです。日本では縦切りの製材機が多いですが、横切りはどんな丸太にも対応しやすく、一枚ごとに厚みを調整できます。製材を担当の横山さんが、レーザー光線を使ってバンドソーの位置を調整していました。必要な板厚に合わせて製材することが可能となり、材料の無駄を省けます。
ナラやタモなどの道産材は、今も木材市場に出てくるものの、品質の高い丸太は高価です。TIME & STYLE FACTORYは木材産地の山から、製紙(パルプ)向けやバイオマス燃料となるグレードの丸太を直接買い付けています。いま、ナラなど広葉樹の多くはバージンパルプの原料として使われ、樹齢100年を超える木が粉々のチップになっていきます。ものが生まれ、捨てられるまでのプロダクト・ライフサイクルで考えれば、ティッシュペーパーやコピー用紙の寿命は極端に短く、樹齢100年の木にはふさわしくありません。林業に携わる人達も、その事実には問題意識をもっていて、ロングライフの家具に使われるのであれば、ぜひ使って欲しいと考える産地もあります。「自分の育てた丸太から生まれた家具を林業家に見て欲しいし、家具を使う人には、丸太や山を知ってほしい」と吉田専務。木材の「トレーサビリティ」という新しい試みに取り組みはじめました。製材した板を並べると、木の歴史が見えてきます。小さな節は細い枝が枝打ちされた跡で、太い枝の跡も見られます。こうした木の特性を見極めるのが、製材の面白さです。現在の家具メーカーは、木を板材で仕入れるため、中国産、ロシア産が混じり合い、ひとつの椅子、テーブルに様々な産地の材料が混在しています。一方、食肉の分野では、牛の個体を特定するといった「トレーサビリティ」が重視されています。家具材もトレーサビリティによって、どこで育ち、誰が伐採し、どういう経路で届き、どう加工されたかを示すことで、生活者にとって、より特別な家具になるというのが吉田専務の考えです。
▼板の幅と厚みを測り記録します。この板は長さ2550、幅150、厚み50mm。NAはナラ材、53yは樹齢53年の意味。乾燥や加工により、家具になるまでに35mmくらいまで削られるため、製品の厚みから逆算して板の厚さを決めます。
製材した木は皮付きのまま桟積みします。雪や雨、風にさらされ、木はゆっくりと乾燥していきます。ここで含水率を20%ほどにしてから、ファクトリー内で人工乾燥します。丸太が製品になるまでには長い月日がかかります。
製材したミズナラに「含水率計」のセンサーを打ち込み、含水率を測ってみまし
1%」はまだ生の状態で、家具に.た。「25
使うには10%以下にしなければいけません。広葉樹の適切な含水率は7.8%で、それ以上では木が縮んだり、捻れたりという不具合を生じやすくなります。本州よりも湿度の低い旭川では、環境の違いによって出荷した家具に不具合がでることもありました。先人たちは研究を重ね、樹種によっても異なる適切な含水率を導いていったのです。ファクトリーの一角には、空知単板工業との協働で人工乾燥機が設けられました。室温約40℃の「低温乾燥機」といわれるタイプで、トドマツ製です。いま最も普及している70.80℃の金属・コンクリート製高温乾燥機は、短時間で木の応力を一気に取り去ります。一方、40℃という人間にも心地よい温度で、1カ月ほどかけてじっくり乾燥する低温乾燥機は、木の細胞が壊れにくいことが特徴。壁の中には木くずや貝殻が入っていて、40℃前後の温度で細胞内の水分が移動しやすくなる原理を利用して、木の壁に材木の水分を移動させ、外に排出する仕組みです。
ファクトリーを見学し、東京から研修にきたスタッフたちは、さらに北にある、中川町の伐採現場へと旅立っていきました。その様子は、また次号でご紹介したいと思います。
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