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スピリッツ in飛騨フィン・ユールと近代民家
時空を超える美意識6月号 水張月 2019 http://collaj.jp/
名古屋から飛騨高山へ。列車は名勝「中山七里」に沿って進みます。
Finn Juhl
飛騨 匠の手から生まれた デンマーク フィン・ユール邸
1942年に竣工したフィン・ユール邸は、デンマークを代表する建築家、家具デザイナーフィン・ユールの自邸です。オリジナルはコペンハーゲンに建設され、2011年、飛騨高山の家具メーカーキタニの敷地内に再現されました。中央のレンガ色の部分が玄関。右側階段は勝手口です。
北アルプスをバックにしたフィン・ユール
邸。南北2棟に分かれていて、鮮やかなカーリーイエローのオーニングを付けた南側は、煖炉のあるリビングや応接間、仕事場を備えたパブリックな棟。その左側のガラス張りの通路・玄関はガーデンルームになっていて、ダイニング、キッチン、寝室のあるプライベートな棟につながります。オリジナルのフィン・ユール邸は増改築を重ねてきましたが、ここはフィン・ユールの図面に従い、竣工時の姿に近くなっています。
フィン・ユール邸(岐阜県高山市松倉町2115)の見学は予約制で入館料(協賛金)3,000円/人。予約はTEL.0577-34 .6395(キタニ)、休館日は左下のリンクからホームページでご確認ください。なお、研修等での利用も柔軟に対応とのこと。7月27日(土)にはJAZZコンサート。6月29日(土)、10月26日(土)にはアンデルセン童話読み聞かせ会を予定。フィン・ユールは1912年、デンマーク・コペンハーゲンの裕福な家庭に生まれました。デンマーク王立芸術アカデミーで、アルネ・ヤコブセンも師事した建築家カイ・フィスカーに学び、1934〜45年までデンマーク機能主義建築の先駆者といわれる、ウィルヘルム・ラウリッツェンの事務所に勤務します。1945年から専門学校でインテリアデザインを教えながら家具デザインを行い、独立してからは、ニューヨーク国連本部の内装デザイン(下)や世界各地のSASオフィスなどを手がけ、その家具デザインも自ら行いました。彫刻家ジャン・アルプ、ヘンリー・ムーアなどの影響を強くうけ、「空間と家具の彫刻家」とも評されています。
Trusteeship Council Chamber, 1952. UN Photo
南北の棟をつなぐ通路は明るいガーデンルーム。地下室との段差を活かした階段の上には、ダイニングやキッチン、寝室、ゲストルーム、浴室などがあります。「デンマークは光の使い方についてセンシティブだと思います。むろんフィン・ユールもそうでした。デンマークのデザインは、生活の中で潤いを与える媒体となり、それをもって全体が生きてきます。それをフィン・ユールは特に実践してきた人だと思います。生活からデザインを考える人、内から外、行動パターンからデザインを創り上げるということをしてきた人だと思います」。若き日にウッツソン、ヤコブセン、フィン・ユール、ヘニング・ラーセンの事務所に勤務した建築家竹山實さんは、フィン・ユールについて、このように評しています。フィン・ユールが寛いだレンガ敷きのデッキ。秋・冬の日差しを長く採り入れるため、リビングは西側に大きな開口を設けています。白い観音開きの折り戸は全面開口し、地面とほぼ同じレベルの床面と、レンガのデッキがひと続きになります。鮮やかなカーリーイエローのオーニングは日差しを避けるだけでなく、自然光に温かみを加え、室内のブロークンホワイト色と呼応して空間にふんわりとした柔らかさを与えています。北欧に多い曇天の日に、その効果がよくわかりました。「フィン・ユールは壮大なテントを作ろうと考えたと私は想像する」と建築評論家ヘンリック・ステン・モラーは評します。彫刻的な肘をもつ、フィン・ユールの椅子。ハンス・J・ウェグナーやボーエ・モーエンセンなど同時代のデザイナーたちは、デンマーク家具デザインの基礎を築いたコーア・クリントの教えを守り、椅子の模型や試作品を自ら作りました。その一方、フィン・ユールは名匠ニールス・ヴォッダーとコラボレーションして、美しく彩色された図面やドローイングを元に作品を生み出していきます。フランク・ロイド・ライト「落水荘」のオーナーである美術評論家エドガー・カウフマンとも親しく交流し、その作品はまず1940年代のアメリカで認められました。
キタニによって復刻生産されている「NV-53(FJ -01)」
1994年、家具メーカーキタニは、デンマークから中古の名作家具を輸入し、技術習得のために修復作業をはじめます。その縁でデンマークの家具職人スネーカーマスターとの交流を深めた同社は、フィン・ユールのパートナーハンナ・ヴィルヘルム・ハンセン女史からフィン・ユール作品「NV-53」の復刻生産の許可を得ました。現在も北欧名作家具のライセンス生産を続け、同社の柱のひとつとなっています。約10年まえの2008年、同社元会長田中清文さんの呼びかけにより結成されたNPO法人フィン・ユールアート・ミュージアムクラブは、活動の一環としてフィン・ユール邸の建築プロジェクトを企画。ヴィルヘルム・ハンセン財団とライセンス契約を結び、高山での再現プロジェクトがスタートしました。
▲フィン・ユールデザインのボウル。 ▼フィン・ユールの元で竹山實さんが担当したデスクライト。笠が可動します。
フィン・ユール邸の主役ともいえる造り付けソファや棚などは、キタニの家具職人によって竣工当初の姿に近い形で再現されました。ソファの黄色と天井のクリーム色が呼応して、空間に調和を与えています。白っぽい木の床は、幅広のモミ材で張られています。
フィン・ユール邸で使われていたベンチを再現。クッションを畳むとテーブルとして使えます。煖炉以外はほぼ直線と平面で構成されたシンプルな空間でありながら、コンポジションとディテール、色によって、豊かな空間を生み出しています。
自邸はフィン・ユール30歳の頃、1942年に設計されました。第二次大戦中のデンマークはナチス・ドイツの占領下にあり、金属やコンクリートは入手困難で、レンガや木など伝統的な素材で建てられました。場所はオードロップゴー美術館に隣接する50m角ほどの緑豊かな住宅街の一角で、現在は美術館の施設として一般公開されています。2009年、建築家仲康信さん(アァバン飛騨環境計画)などによる調査団がデンマークのフィン・ユール邸を訪れ、5日にわたる調査が行われました。仲さんは、建設プロセスを記録した本『夢の家フィン・ユール邸建築プロジェクト』のなかで、現地調査の様子や、高山の敷地条件にそって建物の配置変更を議論したこと、どの年代のフィン・ユール邸を再現すべきか検討したことなどを書いています。キッチン金物はデンマークから輸入。開き扉にチリを付けることで、閉めたときに薄く見えるようデザインされています。
キッチンはフィン・ユールが最後まで悩んだ空間といわれています。建設当初はお手伝いさんがいたため、それを前提に設計されました。床はコルクタイルで、収納も多い実用的なキッチンです。シンクの縦長窓は、下側が上下に昇降し、上側が回転して開きます。これらフィン・ユールの実験的な建具を再現したのは、飛騨で100年近くつづく山口木工所でした。
キッチン入り口のガラスキャビネットが、縦長窓から入る光を通路へと導いています。赤と黒のトレイはフィン・ユールのデザイン。勝手口のドアは、上のハッチだけを開けられるアメリカに多いタイプ。
建築工事は2011年5月から始まりました。ヴィルヘルム・ハンセン財団から提供されたフィン・ユールの図面をもとに建設当時を再現することになり、西側にリビングを向けた方位もそのまま守られました。オリジナルは地面から直接レンガ壁を積んだ構造でした。デンマークでは断熱のためレンガ壁を2重に立て、外壁と内壁に30cmほどの隙間をつくる工法が一般的です。しかし日本では耐震や法規の問題もあり、木構造となりました。工事にあたり、財団の顧問建築家モーエンス・シーエステッドさんが6日間にわたり内装の色や外装の左官、キッチン、外構などについて職人と直接交流し、綿密な打ち合わせを行いました。各室の色は現場で何度も色合わせを行い、飛騨の塗装会社 大装の職人によってブラシで手塗りされました。
ダイニングの壁はクリーム色で、天井は濃いカラシ色です。窓際のカウンター下には食器やカトラリーのキャビネットが造り付けられ、パネルヒーターの上に敷かれた金属パネルは、暖房を利用したディッシュウォーマーになっています。
子ども部屋、あるいはゲストルームとして設計された部屋。収納式ベッドが設置され、壁には畳表が張られています。天井は鮮やかな青色、ベッド脇のケースの中は赤く塗装。ローキャビネットには腰を掛けることもできます。
ボヴィルケ社のためのデザインをモチーフにした、造り付けデスク。椅子は「NV-48」。フレームを浮かせた建築的な構造がフィン・ユールの特徴を表しています。廊下に造り付けられたミニソファの下は、下開き式扉でひらく収納になっています。
廊下に設置されたクローゼット。下着、シャツ、外套、靴と、着る順番にそれぞれのキャビネットが並んだ効率的なもの。白いタイルは入隅を丸く仕上げた特注品です。
建設を請け負った高山の丸仲建設は、木造の躯体とレンガ壁を両立させるため、新しい工法を研究しました。木造躯体が立ち上がってから、外側に穴の空いたレンガブロックを積み、基礎に固定した縦のボルトをレンガの穴に通し、木造の柱に取り付けたステイと連結しています。モーエンスさんからはレンガの表情を出すため、あえて凸凹を出して積むよう指示があったそうです。レンガの上に白い石灰クリームを塗る外壁仕上げはデンマークではよく見られますが、左官を担当した山下組にとっては初めての経験でした。モーエンスさんが、濃度の異なる石灰ミルクを3回に分けて塗る方法を実演し、それを元に飛騨の左官が施工しました。本社ショールーム、工場は、渋草焼の窯元をリニューアルしています。ストーンサークル状の彫刻は林武史さんの作品「円舞」。創業 40周年を記念して 2007年に制作されました。
▼ナナ・ディッツェルのアームチェア。ナナさんはハンセン女史と共に、2002年に高山を訪れています。
フィン・ユール邸に隣接したキタニのショールーム。ライセンス生産されているフィン・ユールの椅子「FJ -01」はもちろん、ナナ・ディツェル、イプ・コフォード・ラーセン、ヤコブ・ケアの椅子やソファ、テーブルも生産されています。
ドラゴンシリーズ 58
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
走ること、考えること。
12
12
娘が
この
1
年くらい前に南青山のアパートから下目黒のアパートに
引っ越しました。それからずっと同じアパートに住み続けて
います。て来ました。
それ以前は、数年毎に転居しながら南青山界隈に住み続け
年前に黒猫のモモがベルリンから東京にやっ
て来て、翌年、当時
歳の長男も東京に来ることになり、彼
の学校のバス停のある場所に引っ越すため、はじめは駒沢公園近くのアパートにしようと決めていました。当時、僕が通っていたキックボクシングジムが目黒にあっ
て、ジムでのトレーニングを息子と
人で終えて歩いている
途中、目黒通り沿いの不動産屋の張り紙を息子が見つけたの
が、これまで
年間住み続けている下目黒のアパートです。
このアパートの窓の前には森があり、窓から見える公園の
木々、カラスや小鳥のさえずり、木々をすり抜けて窓辺に届く木漏れ日、強風に騒めく木々の枝葉の揺れ動く自然の声は
生活の中に溶け込んだ日常となっています。息子が約
年間、モモが
12
年間
住み続けた、多くの思い出のあるこのアパートを離れることができません。
昨年末に黒猫のモモを失って、突然、寂しくなりました。それでもモモや息子達との思い出の沢山あるこのアパートを離れると、みんなが寂しがってしまう
気がするのです。息子が
年以上前にプレゼントしてくれた
小さなガジュマルの木は、もう天井に届くような高さまで大きく生長しました。それ以外の家具や壁に掛けてある写真も、
年間ほとんど変わっていません。このアパートで僕は
しばらくの間、病気の生活を送って来ました。病気との闘いもこのアパートで過ごした貴重な日々でした。病気は決して良い事とは言えませんが、初めて知ることができた沢山のことがあります。
森の木漏れ日や樹木の枝葉の揺れ動く音、傍で添寝してくれる黒猫のモモがどれだけ気持ちを癒してくれたかわかりま
せん。いアパートの前の森を
今日は土砂降りの雨でしたが、土曜日の午前中に誰もいな
人でゆっくりと走りました。 100
年以上が経過した様々な木々の枝葉をくぐり抜けながら、自分のスピードを保ち、ゆっくりと心地よいペースと気持ちで
1
10
12
13
12
2
6
年間、
走ることが毎日の楽しみです。
5キロからキロくらい、その時の体調に合わせて距離は自由に、苦しみを感じない程度のスピードで走るのが気持ちいいのです。毎日は走れません。やはり体力が続きません。でも、走れないと思っていても走
8
り始めるとだんだんと気持ちよくなって身体も軽くなってきます。走れる状態に自分があることが、自分が元気だと言う確認にもなるのだろうと思います。ですから、走ることは苦痛ではなくなりました。むしろ走らない方が日常の気分や体調は苦しいのです。
僕が走る目的は気分と体調だけではありません。これはあまり話したくないのですが、走っている時が最も何かを集中して考えられる時間なのです。仕事のことは、走っている時に最も良い解決方法が生まれます。
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多分、身体と脳の動きは繋がっていて、集中して考え、身体も同時に動いていることが、眠っている脳を刺激するのだと思います。
疲れや痛みさえも、走りながら意識を集中して考えていると忘れてしまいます。多くの小説、文学、哲学が散歩を必要としていたことを考えると、身体を動かしながら何かのテーマに集中することは、人間の身体の道理に適っていると思いま 2
す。
体調や気分が良くない時は、本来は走るべきではないでしょうが、走ることでその壁を越えてみようと試みるのです。時々失敗してしばらくダウンします。でも時々成功して壁を越えることができます。
目黒の森の他に、お気に入りの公園がもう1つあります。それは、アムステルダム市内にあるホンデルパークです。僕らのお店から少し離れていますが、その公園まで運河沿いの道を沢山の自転車を横目にキロくらい一緒に走って、公園に入ると一周キロくらいの公園の中をゆっくり走ることができます。
何か壁を感じた時や、迷ったり答えが見つからない時は朝の公園を走るのです。気持ちと身体と心が一体となった時に、本当に良い考えや勇気が自然に湧いてきます。そして、身体の中から悪いものを絞り出して、邪念や迷いも汗や気持ち良い疲れと一緒に洗い流してくれます。
走ることは身体の健康だけでなく、それ以上に心や脳を健全に保ち、考えを身体と連動させることで元気になれると感じています。僕には昔から困った時に助けてくれる本があります。今でもそうですが、今は走ること、考えることで助けられています。そして、木々の優しさの中で新鮮な空気と活動するエネルギーを吸い込み、また明日へと進んでいけると思います。人間は同じ自然界の一部なのだと感じます。
飛騨高山 JAZZフェスティバル @飛.の里
5月25日(土)。飛騨高山の古民家が集まる「飛.の里」で、今年2回目となる「飛騨高山ジャズフェスティバル2019」が開催されました。18組のアーティストが参加し、民家の屋内外に設けられたステージでのライブが、昼12時〜深夜12時まで続きます。
旧富田家旧富田家の屋外ステージ。富田家は江戸末期の入母屋造茅葺き民家で、鉱山地帯である飛.北部の越中東海道に建ち、神岡鉱山の荷物や馬牛の中継業(ドライブインのような役割)を営んでいました。
15:30にスタートした Dagforce Bandのステージ。高山出身の DAG FORCEさんは、歌うようにラップする「Blues Rap」スタイルを確立し日本と NYを往復しながら活動しています。
旧富田家に隣接する「旧吉真(よしざね)家」は1858年、マグニチュード7を超え飛騨で700戸余りが損壊したといわれる角川地震(飛越地震)にも耐えた頑強な家です。四隅に立つ柱には、上部が二股になったクリ材の「むかい柱」が使われ、曲がった柱の頭で構造を受ける仕組みです。
白川村北部の合掌造り民家「旧西岡家」は、蓮受寺という寺院の庫裏(僧侶の住居)でした。チョウナ梁を用いた「カタギ造り」で、豪雪地帯に多い構造です。円形に田植えをした「車田」は、高山市松之木町に残る珍しい田植え方法で、伊勢の神宮に献上する神饌米をつくるための田だったといわれます。中心の杭から放射線状に7本の線をだし、それぞれの線に沿って稲を植えていきます。
飛騨高山ジャズフェスティバル出演アーティスト
□富田家野外ステージ ブルームーンカルテット / DagforceBand / 韻シスト / 金子マリ
□西岡家ステージ ChikoKidoTomo / Hanah Spring × Gatz
a.k.a. Nobuyoshi Nakazawa / MURO / 海野俊輔 Mirage Trio feat.TOKU
□田口家ステージ Dock In Absolute / Evan Marien x Dana Hawkins / 峰厚介カルテット / スガダイロー
□神社ステージ JiLL-Decoy association / 中山うり / 浦朋恵 / TOKYO No.1 SOUL SET / KODAMA AND THE DUB STATION BAND
立保神社
神社ステージでは、中山うり さんがリハーサル中。この神社は、河合村大字保から移築された立保(たてほ)神社です。リハーサル風景を見られるのも、このイベントの楽しいところ。
立保神社は、鈿女・白山・国作大神社の3社を合祀し、3つの拝殿を集めて建てられました。そのひとつを舞台として、奥に拝殿を設け、手前で獅子芝居や地歌舞伎を奉納していました。禁令の厳しかった江戸時代、芝居などを「神事」として行うことは、村にとって大切な娯楽でした。
江戸中期に建てられた「旧田口家」では、ルクセンブルク出身のピアノトリオ「Dock InAbsolute」が演奏中。飛.南部の田口家は代々名主をつとめた大きな農家で、寄り合いに使われる広い板の間には囲炉裏を3台備えています。積雪が少ないため開放的なつくりで、正面から右横には濡れ縁がまわっています。
板張りの広間に続いて畳敷きの居室があり、建具を取り払うと100畳ほどの大空間になります。納戸の上には「落し座敷」と呼ばれる隠し部屋があり、百姓一揆の首謀者などを匿ったのではないかといわれます。飛騨の里に移築後、記録的な豪雪で梁が折れたことがあります。同じ高山でも豪雪地帯と雪の少ない地域では、家のつくりが大きく異なります。旧田口家をはじめ、田中家、前田家、大野家、新井家など、飛騨の里には、屋根を木で葺いた民家が保存されています。クリ、ネズ、サクラ、カラマツ、ナラの薄板を葺き石を載せて押さえた「榑(くれ)葺き」は、茅葺きよりも一般的でしたが、防水・防火性の高いトタン葺きへ変わっていきます。榑と呼ばれる薄板は、割った丸太をマンキリという道具で均一の厚みに裂いたもので、飛.の里では定期的に葺き替えを行って技術継承につとめています。
飛.民族村「飛.の里」が生まれたきっかけは、戦後の高度経済成長によってダム建設が進み、合掌造りの古い民家が次々とダムの底に沈んでいったことでした。昭和32年「御母衣ダム」の建設時に、荘川村の若山家からダムに沈む合掌造りの自邸を譲渡したいとの申し出が高山市にあり、移築された若山家が「飛騨民俗館」として開館します。その後に、長倉三朗氏(小糸焼窯元)による集落博物館構想が市議会にかけられ、資金集めなどの苦難を乗り越えて、昭和46年に飛.の里がひらかれました。場所は室町時代に三木自綱(よりつな)が松倉城を築いた山の斜面で、金森氏に滅ぼされるまで、山麓には高山の城下町がひろがっていました。いまも飛騨の里内に松倉城の土塁跡が残されています。
夜8時をすぎてひんやりしてきましたが、会場の熱気はますます高まります。
「四丁目酒場」で腹ごしらえ。チケットはリストバンドで再入場できるため、外にでて休んでから戻ったり、12時間の長丁場をマイペースで楽しめます。
神社ステージでは「TOKYO No.1 SOUL SET」が演奏中。
アーティストの楽屋として使われた「旧前田家」は、農家としては珍しく、高山の大工によって明治32年に建てられました。小庇を設け、腕木と雲形の持送りを付けるなど町家風の意匠になっています。飛騨高山ジャズフェスティバルは、2020年も開催予定。演奏を聴きながら民家をじっくり見学できるおすすすめのイベントです。
いまも多くの古民家が立ち並ぶ岐阜県庄川流域の白川郷。
5月25日、26日の2日間「2019春飛騨の味まつり」が高山市本町1・2丁目商店街で開催されました。名物の鮎、飛騨牛串焼き、コロッケ、高山そば、みだらしだんごなどの屋台が並びます。
Interior Lifestyle Tokyo 20197月17日(水)〜19日(金)東京ビッグサイト 西1・2・3・4 ホール+アトリウム
時間:10:00〜18:00(最終日は17:00まで)
難民のためにビジネスチャンスを与える「MADE 51」が初出展。主催: メッセフランクフルト ジャパン
MADE 51(GLOBAL A -41)
毎年 5〜 6月に開催されていた Interior LifestyleTokyo。今年は 7月17日(水)〜19日(金)の 3日間、東京ビッグサイト西ホールで開催されます。アトリウム特別企画は昨年に続き山田遊氏( method )がディレクターをつとめ「The Corner Shop -How to make a market-」をテーマにした理想の商談の場をバイヤーに提供します。初出展となる、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が設立した MADE51 (メイド フィフティーンワン)は「難民に
大蔵山スタジオ(MOVEMENT I-03) ©.masaki ogawa
稲元マーク(ACCENT H-63)DYK /高儀(アトリウム S-49)松葉畳店(NEXT G/N-28)
持続可能なビジネスチャンスと生活を提供すること」で手に 発表。 1963年創業の稲元マーク(東京)は、車や携帯電
技能をもつ難民の自立を目指したプロジェクト。ユーザーに 話用部品で培ったアルミ仕上げ技術(ヘアライン、スピン切
欲しいと思わせる選りすぐりの商品を開発して、グローバル 削、ダイヤモンドカット)を生かしたインテリアアクセサリー
なマーケットへと発信しています。 を初お披露目。鋸鍛治として慶応 2年創業の高儀(新潟)
歴史ある製造メーカーたちが、その技術力を生かして開発し は、 150年余年の技術を投入したキッチンツールブランド
たインテリア用品も注目です。 DYK(ダイク)を出展。デザインは鈴木啓太さん(P RODUCT
1887年創業。伊達冠石の採掘、加工を行う大蔵山スタ DESIGN CENTER)。松葉畳店(静岡)は、通常は廃棄
ジオ(宮城)は、伊達冠石を用いたドアハンドルシリーズを される短いイ草を生かしたインテリアアイテムを発表します。
日下部家住宅(日下部民藝館)
観光客でにぎわう高山市の古い町並みから少し離れた、大新町の伝統的建造物群保存地区に、日下部(くさかべ)家(日下部民藝館)が一般公開されています。日下部入り口家は江戸時代、代官所の御用金を用立てする掛屋や両替屋を営み、大地主であると共に町年寄をつとめた高山一の商家でした。
日下部家は1966年に重要文化財に指定され、日
本を代表する民家として高く評価されてきました。建設は明治 12年で、江戸時代の建物ではありません。この事がこの家を特別なものにしています。江戸時代、徳川幕府の天領であった飛騨高山は、代官によって支配されていました。家を建てたり改修する際は代官所へ届け出が必要で、たとえ自分で山を持っていても、木曽五木と呼ばれるヒノキ、ヒバ、サワラ、コウヤマキ、ネズコは使えませんでした。また 2階建て、武家屋敷を超える高さ、門扉、玄関、式台なども全て禁じられ、裕福な商家であっても、建てられる家には限りがありました。
ただし現実的に材料の規制を全て守ることは難し
く、実際は森林を管理する地元の役人(地役人)に付け届けをして、マツと偽って他の木材も使うことが多かったようです。しかし新しい代官が赴任すると建物の検分が行われるため、ベンガラに煤を混ぜて木に塗ったり、断面を白くして樹種を隠すなど、商人と代官所の駆け引きが行われました。高山の独特な間取りのひとつに「かずき」があります。本来は衣装部屋の意味ですが、家を支配するものの部屋を示しました。日下部家では祖母がこの部屋にいて、金庫を押入れにしまっていました。番頭でさえ入室できない家長の部屋でした。日下部家のたつ越中街道は、飛.高山と富山を結び、塩、魚、薬などを運ぶ重要な街道でした。明治になり代官所の禁令がとけると、使用する材料や高さ制限が無くなり、門や玄関なども自由に作れるようになりました。その一方、高山の旦那衆たちは、各家の1、2階壁面を揃え、中間に小庇を入れるという基本スタイルを守るべく、自主規制を設けました。こにより今日まで、スカイラインの揃った古い町並みが残っているのです。
江戸時代から数十回の大火に見舞われた高山ですが、明治 8年の火災は大規模で、大新町でも日下部家をはじめ沢山の家が焼けました。日下部家の新築を任された棟梁川尻治助は当時39歳の働き盛りで、高山一の棟梁といわれていました。焼失した家は現在の向かいにあり、間取りはほぼ同じで、畳のサイズも 5尺 8寸(1.76m)×2尺 9寸(88cm)と標準的なものでしたが、変わったのは梁の高さでした。街道からは通常の 2階屋と同じ高さに見えますが、天井の低い玄関(なかどーじ)の暖簾をくぐった瞬間、高さ約 8mの棟木に圧倒される大空間が広がります。材料は総ヒノキで、梁や束柱はカンナで綺麗に仕上げられ、見られることを意識しています。ちょうなで荒削りされた梁とは異なり。柱を貫通した補助材「貫」を用いないのも特徴です。一見、古い様式の民家に見えますが、明治という新しい時代は川尻棟梁に自由を与え、伝統技術を生かしながら、日下部家当主とともに、今までにない様式を模索しています。民家研究で知られる建築史家伊藤ていじは日下部家を「高山民家の集大成」と評しています。
▲ 細かく編んだ竹籠を飛騨では「ショウケ」と呼んでいます。
▼ 春慶塗に使われた、生漆のゴミを取り除く搾り器。
日下部家は昭和41年、11代目当主日下部礼一によって民藝館として公開されました。民藝運動の思想に共感した礼一は、雑誌「暮しの手帖」編集長花森安治のすすめもあり、全国各地から集めた伝来の工芸品のほか、高山の渋草焼き、春慶塗、一位一刀彫などを蔵に展示しました。開館式には、濱田庄司やバーナード・リーチも訪れています。
ヨーコの旅日記第19信 夜も灼熱のドバイ川津陽子メッセフランクフルトジャパン
▲ ジャパンパビリオンも、多国地域から訪れた沢山の来場者で賑わいを見せました。 ▲ 世界が注目のデンソーブース。
先日、UAE・ドバイに行って来た。中東地域で最大規模の自動車のアフターマーケット・サービスのための見本市「アウトメカニカドバイ」への出張である。63カ国・地域から1,880もの出展者が集う当見本市には、20社近くの日系企業が参加。来場者は、貿易のハブとも言うべき好立地にあるドバイでの開催だけあって、中東地域を筆頭に、アフリカ、アジア、CIS地域など、さまざまな国・地域から来場者が集結し、会場内は国際色溢れ、活気に満ちていた。昨年は 5月初旬の開催だったアウトメカニカドバイ。今年はラマダン開けの 6月半ばに会期を移した。このほんの一カ月ちょっとの時期のズレが、気候に差をもたらしていた。6月のドバイには覚悟しておいで、と現地の同僚から忠告され、出発前にふとスマートフォンで週間天気をチェックすると、梅雨入り後の東京の雨マークに対して、ドバイは曇りひとつない晴れマークが気持ち良いくらいキレイに並んでいた。しかも、44℃になる日もあるではないか。とは言え、実際には、現地の空港に到着した午前 3時半には暑さもやや落ち着いている感じ、というか、空調が完璧の空港からそのままタクシーに乗り込みホテルへチェックインしたので温度感がよくわからずにいた。幸いなことに、今回滞在したホテルは見本市会場に直結しており、外を出ずに行き来が出来、結果的に会期中はまったく陽を浴びることもなく、快適に過ごすことが出来たのだ。ところが滞在中に、本場の夏を思い知らされることになる …… 。アウトメカニカドバイの開催初日の夜に出展者パーティーが開催された。毎年、当見本市のパーティーは見本市会場から車で 30分くらいのところにあるジュメイラビーチ沿いのホテルの中庭で開催される。椰子の木が並ぶ芝生の上での屋外パーティー。リゾート感溢れ、他に類を見ない出展者パーティーである。夜とは言え、夏に突入したドバイである。一瞬、ためらいを感じる。周りの出展者さんたちにも、「滅多にない貴重な機会ですからぜひ行きましょうよ」と声をかけるが、一日中、ブースでアテンドし疲労困憊のご様子の彼らか
▲ ゴージャスな出展者パーティー会場。 ▲ 氷の見本市ロゴ。触らずにはいられない。 ▲ 特設ステージのダンスパフォーマンス。 ▲ 水タバコの甘い香に異国情緒を感じる。
らは、いや〜、空調がガンガンに効いた屋内で美味しいサーブされたビールもすぐさま緩くなっていく。それでも会場中央のダンスフロアでは、楽しそうに踊る人ビールが飲みたいです〜、と実にごもっともな返答が。え今夜は特に暑いね、と現地の人たちが漏らす。去年の「生たちもいる。暑さへの順応力の違いを見せつけられた。〜、じゃあ私もそちらに一緒に……という気持ちを抑えて、きててこんなの初めて〜」な暑さ体験の記録を難なく更日本人の我々にとっては熱中症のリスクと隣り合わせのレいざパーティーへ。新してしまった。会話もなかなか弾まず、「信じられないベルである。震えるくらい冷やされた大型バスに揺られ、会場に到着ね」、「尋常じゃないよね」、そんな言葉の繰り返しである。結局私は23時でギブアップ。ビール1杯、ペットボトルのすると、熱を感じる湿った空気が体中にまとわりつき、息なんだか意味もなく笑ってしまう。現地の同僚が、放心ミネラルウォーター3本という、非常に私らしくない飲みっ苦しさを感じる。一瞬にして汗が噴き出してくる。一旦ホ状態気味の私に気を使ってか、せっかくだからと、水タぷりで、耐久レースのような夜は終わったのである。まるテルに戻り、軽装に変えておいて本当によかった。バコである「シーシャ」を手配してくれる。アップル味とでひとつの戦いを潜り抜けたかのように、時差ぼけもすっビュッフェスタイルの食事だったので、ここぞとばかりにロミント味から選べるというので、スッキリしそうなミント味飛ばし、その夜はぐっすり(ぐったり?)と眠りについた。ーカルフードを皿に取り、同僚たちとテーブルに着くが、にしてもらったが、この環境下ではもはや何が何だかわ今年の夏は、いつもより楽に越せるに違いない、ドバイか息苦しさとこぼれるような汗に、食もなかなか進まない。からない。らそんな変な自信をもらって帰ってきた。
延焼を防ぐための「火垣」。高山特有の火事に対する備えです。
吉島家住宅
「日下部民藝館」に隣接する「吉島家住宅」も、重要文化財に指定された貴重な民家建築です。明治 8年の大火で焼失し、立て直した家も明治 38年の失火によって灰となりました。現存するのは明治 40年に再建されたものです。度重なる火事に備えるため、隣家との敷地境界には延焼をさえぎるための「火垣」が設けられています。暖簾には「二つ引両(ひきりょう)」紋が染められています。吉島家は、生糸、繭の売買、金融、酒造業を営んだ商家で、明治 40年の再建時には、その前の建設にも関わった棟梁西田伊三郎が、当主吉島斐之と共に 2度目の普請に挑みました。西田棟梁は川尻棟梁よりも一世代あとの名棟梁で、吉島家との 30年ぶりの普請が遺作となりました。
春日部家とよく比較される吉島家の梁組。天井の棟を支える大黒柱の四方から梁や桁を差し込み、一間ごとに整然と立った束柱が印象的です。梁組は大黒柱の上で 2段になっていて、全ての束間に角梁をかけた「立体格子」。屋根勾配は 3寸5分と大きく、梁高 7.2mの吹き抜けは明かり窓の光に照らされ、表面にカンナを掛け春慶塗で仕上げられた梁・柱を壮大に見せています。明治も 40年になると、ガラスやレンガなど新しい素材が登場しガスや電気も普及するなか、江戸時代の建築様式や間取りを踏襲した富裕層の自邸は珍しくなっていました。そんななか、梁組の美しさを存分にいかした吉島家は、匠の技によって生まれる飛騨高山なりのモダン建築を模索したのかもしれません。当主の吉島斐之は文化人として知られ、文庫蔵や茶室も備えています。向かい台所(左)と洗面所(上)。古い井戸も残されています。使用人たちは、天井のない吹き抜けで寝起きすることが一般でした。街道沿いの窓には、太い格子が嵌められています。大原騒動のころ商家の打ち壊しが多発し、格子で守るようになったといわれます。
2階は屋根勾配に合わせ、スキップフロアのように床が高くなっています。7代目当主 建築家の吉島休兵衛忠男さんによると、はっきりした仕切りのない民家では、入り口からの距離と高さでヒエラルキーを表現するため、土間から1段上がった「おえ」、階段を上がった「みせにかい」、段差をあがった「たかにかい」へとヒエラルキーが高くなり、一番高い部屋を当主が使ったそうです。東京でジョサイア・コンドル設計の洋館が建てられていた頃、日本の住居建築の新しい方向性のひとつを、吉島家は示しているのではないでしょうか?
吉島家の向かいは長屋になっていて、ブティックや飲食店が営まれています。明治時代は商人を泊める旅籠だったそうです。
「エトルスク」という言葉に初めて出会ったのは、中学1年生のときだった。家に毎月届けられていた骨董の小さな雑誌に「エトルスクの壺」が紹介されていたのだ。黒と黄土色の不思議な絵が描かれた壺の写真を見て、瞬時にその魅力に惹かれたことを、今もよく覚えている。その雑誌は和骨董の雑誌で、当時は、お茶道具と仏教美術が中心で、たまにシルクロード系のオリエント美術が紹介されることがあっても、これまた仏教美術関連がほとんど、という感じだった。中学1年生がそんな「爺むさい雑誌」を毎月楽しみに目にしていたのは、そこに紹介される品々に、独特の風情というか、センスと言うか、選択眼とでも言うべきものの存在が確実にあることを、子供心にも感じていたからだ。当時の私は、古い神社仏閣に格別の関心があり、中1の夏休みには、頼み込んで1週間、京都への一人旅を許してもらい、真夏の炎天をものともせず、京都・奈良の古い寺社仏閣を訪ね歩くという、「渋い少年」だったのだ。
母は西洋料理の先生(料理研究
家)だったが、和食器について
もうるさくて、数は少ないなが
らも、青山近辺の骨董屋をめぐ
っては、あれこれ古い和食器を買
っていた。だから、和骨董の雑
誌が毎月届いていたのだ。私は
後に、日本初の西欧骨董銀器の
専門骨董商を営むことになるが、
これを三十年近く続けることが
出来たのも、子供の頃からこう
した「爺むさい世界」に親しみを
持って接してきた経験があった
からではないか、と思っている。
そんな爺むさい少年が、骨董銀器商になる前に、ふたたび『エト
ルリヤの壺』に出会うことになる。それは、大学に入って手にし
た、岩波文庫収録のフランスの小説家メリメの小説だった。あの『カルメン』の作者だ。懐かしい友達に出会ったような気持ちで読
み始めてみたが、これは決して「エトルリアの壺」を直接の主題
とする話ではなかった。しかし、このタイトルのおかげで、メリ
メという素晴らしい作家を知ることができたのは幸運だった。
エトルリアとの3度目の出会い、それは、楽しげな宴席が描かれた、エトルリア人達が残した墓所の壁画だ。古代ローマの宴席の歴史を調べるうちに、極めて洗練された、その宴席文化と出会うことになったのだ。中学1年生の時に直感的に感じた、壺の魅力。以来数十年を経て出会ったエトルリア美術。その壁画は、エトルスクの壺よりも遥かに強い磁力で私の心を捉えた。洗練された色彩とデザインの衣装で踊る男たちと女たち。楽師が笛を吹く傍らで、カウチに横たわって楽しげに盃を交わす男と女。夫婦仲睦まじく、来世と再生を信じて、永久の旅へと向かうために準備された、見事な墓室。壁面には、空を飛ぶ鳥をねらい、大海で魚を取り、酒と料理を準備し、共に宴を楽しむ様子が描かれている。こんな墓所であるならば、喜んで入れてもらいたい。彼らと共に、
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再生と来世を信じて、永久の旅路を共にしてみたい。そう思いたくなるほどの魅
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力にあふれている。 85
令和の年を迎えてからのひと月間に二度、親しい親族の葬儀に参列し、お骨揚げを行い、骨壷を抱いて安置する、という体験をした。共に夫人を残しての旅立ちだが、男で歳と歳であってみれば、天寿を全うしたといっていい。そうであるならば、なにもわざわざ家の玄関で塩を振って「けがれ」を落とす必要などなく、むしろ、エトルリア人たちのように、再生と来世を信じて、豊かなる永久の旅立ちへのお手伝いをさせて頂いた、と捉えればいいのではないか、と思ったりもする。昨今、人の死をめぐる日本人の考え方が、深いところから大きく変化しつつある。病院もしくは家での最後の迎え方、葬儀のあり方、墓所、
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親族関係、相続等々、その変化は、人の死をめぐって生ずる、あらゆる側面に及びつつある。ほんの十年前まで「当たり前」と思われていたことが、もはや当たり前でもなんでも、なくなりつつある。将来的には、戸籍制度の大きな改変にまで及んでいくのではないか。否が応でも、人生の最後の迎え方と向き合うことになったひと月間だった。
いやはや、かつて爺むさかった少年は、今や、来世を語る爺さんになりつつあるのだ。が、まだしばらくは、お迎えが来そうもないので、エトルスクに戻ろう。度目の出会いがあったのだ。それも、思いもかけない場所で。その場所というのが、アメリカの中西部オクラホマ州の田舎町シャウニー。修道会設立のカトリック系大学に付属する美術館での出会いだった。このとき私は州都オクラホマ・シティにひと月半、滞在していた。「車で2時間ほどの町にある美術館で、古代ローマの美術品の展覧会をやっているから見に行こう」と誘われたのだ。どうせ地元の石油成金が集めた品々が、僅かに並べられている程度だろう。でも、シャウニーという町を見てみたかったので、喜んで連れていってもらった。ところが、広大なトウモロコシ畑を越えてたどり着いた美術館に入り、その展示を見てビックリ仰天。なぜなら、その展示は正確には、古代エトルリアの金の装身具をメインとする、極めて珍しい展覧会だったのだ。私は年近くに渡って毎年日本と欧州を往き来して、欧州の主要都市の美術館や博物館は、かなり見ている。ヴァチカンには、ほぼ2週間毎日通いつめたことだってある。とりわけ金属工芸は、仕事柄注意して見てきたつもりだ。その私にとって、オクラホマの片田舎の美術館で見たエトルリアの装身具の展示は、これまで見たエトルリアの金属工芸品の中でも最も見事な品々を数多く集めた、素晴らしい水準の展覧会だったのだ。オクラホマの片田舎で出会った見事なエトルスク。ここまでくれば、不思議な縁で「古代エトルリアに招かれている」と思わざるを得ない。
飛. 鯉の泳ぐ匠の街 古川
高山の隣町「古川」は、高山を築いた金森長近の養子、金森可重によってひらかれた城下町です。長近が手がけた越前大野、飛騨高山、美濃などと同じく、壱之町、弐之町、三之町の通りが碁盤目状に並ぶ近代的な町並みになっています。
「蓬莱」で知られる渡辺酒造店。享保年間から両替商や生糸で財を成した渡邉家が、明治3年から酒造りをはじめました。
古川名物の「瀬戸川」は、かつて商人の町と武家の町を隔てていました。元々は流れのない堀でしたが、快存上人が可重に依頼して水の流れる用水に変え、新田開発に利用されたといわれます。川沿いに並ぶ白壁土蔵の多くは造り酒屋のもので、町の9割を焼いた明治38年の古川大火以降に建てられました。家の裏に白壁を連ね防火壁のようにしたものです。
古川の町には、伝統的な家並みのなかに普通の暮らしがあります。多くの家には「せがい」と呼ばれる深い軒先があり、腕木を出して軒の屋根を支えています。こうした造りを古川では「そうば」といい、そうばに合わない造りは「そうばくずし」といわれ嫌われます。昭和60年には古川観光協会の「景観デザイン賞」が設けられ「そうば」が基準化されました。外壁は木造真壁造り、軒裏は化粧垂木、丸桁には腕木を設ける、開口は格子、出格子で覆うことなどが推奨されています。
軒先を支える「雲」と呼ばれる腕木には、大工によって異なる模様が彫られています。これは昭和になってから始まった風習で、今は300軒以上に描かれ、この模様によって誰が建てたか分かるそうです。まつり広場にたつ「飛騨の匠文化館」には、建築に参加した大工の「雲」が、一カ所にまとめられています。
「飛騨の匠文化館」は、古川の30名を超える大工によって釘を1本も使わずに建てられた、匠の技を伝える施設です。子どもたちがチャレンジしているのは「千鳥格子」という木を格子状に組んだ仕掛け。どのように木が組み合わさっているか、なかなか分かりません。追掛継ぎ、腰掛け鎌継ぎ、四方蟻継ぎといった伝統的な仕口も触って体験できます。
歴代の棟梁が愛用した大工道具も展示されています。
「飛.の匠」誕生のルーツには、朝廷の課した「庸調」(税)があります。奈良時代の飛.国では4里(16km)ごとに、匠丁(たくみのよほろ)を10名、「庸調」に代えて都へ送りました。匠丁4人にひとり、賄いのカシワドを付け、都で自炊生活をしながら宮殿や寺院の建築にあたりました。万葉のうたに「かにかくに物はおもはず飛.人の打つ墨縄のただひと道に」(あれやこれやと思い悩む浮気はしない飛.の匠が打つ墨縄のようにただ一筋にあの人を思い続けよう)があります。飛.で最大の木造建築といわれる「本光寺」には、蓮如上人から賜ったと伝わる方便法身尊形がのこされています。明治37年の大火で全焼し、明治41年に鐘楼が、大正2年に本堂が再建されました。棟梁は8代坂下甚吉と弟子の土村栄吉。坂下は、擬洋風建築の製糸工場や高山町役場、洋風の個人邸など、和洋をとわず手がけた近代の名工といわれます。
瀬戸川に裏口を接する「由布衣工房」。古川には珍しい数寄屋風の屋敷は、登録有形文化財に登録されています。
玄関をあがり中へ進むと、囲炉裏のある船底天井の和室で、染色織り作家河合由美子さんが出迎えてくれました。河合さんは2009年に工房をひらき、天然染料を使った染と手織りの作品を生みだしています。
藍、山桃、一位(いちい)、茜、紅花、刈安、えんじゅなど、天然の染料にはそれぞれの薬効があり、染色された布を身につけることで、心身を健やかにする効果があるともいわれます。飛.位山(くらいやま)の一位の木は、天皇ご即位の「笏」として献上されます。一位によって染められた手織り物には、聖なる山のエッセンスが凝縮されているようです。
河合由美子さんは、洋館風の旧河合病院(登録有形文化財)に生まれ、斐太高校を卒業後、東京の女子美術大学で学び安宅奨学賞を受賞、国画会展に初入選します。その後、東京で仕事につき管理職となりますが、1998年に創作活動を再開。古川・高山を拠点にしながら、東京新宿の京王プラザホテルでも、定期的な染織展をひらいています。
「斐太間道(ひだかんとん)」(登録商標)は、河合さんのオリジナル製品。「間道」は街道を表し、それを縞模様に込めています。飛騨の匠をはじめ、野麦峠を越えた女工たち、商人、武士の歩みが飛騨の歴史を築いてきたのです。
屋敷の奥には、瀬戸川に面した大きな蔵があり、その向かいは庭園になっています。由布衣工房では、自然染色体験、機織り体験受け付けています((予約制))。
由布衣工房の向かいには、8代続く「三嶋和ろうそく店」があります。全て手作業で作られる和ろうそくは、ハゼの実からとれるロウを使い、和紙とイ草の芯のまわりに何重にもロウをかけて固めるを繰り返す「生掛け和ろうそく」です。
店先では誰でも作業風景を見学でき、7代目のご主人が丁寧に工程を説明してくれます。パラフィンを主原料とする洋ろうそくに比べ和ろうそくは工程が複雑で、一人前になるには10年かかります。赤いろうそくは正月やお祭り、誕生日などを祝い、仏壇に供えることもあるそうです。10kg以上ある巨大ろうそくは、古川の冬の風物詩「三寺まいり」で使われます。店舗の奥の座敷。NHK朝の連続テレビ小説「さくら」の舞台にもなりました。店先には柳宗理さんのサインが2枚掲げられています。「とこしえに燃える蝋燭の心」(昭和48年)、「未だ燃えに燃えてる蝋燭の心」(平成4年)。
古川市街から少し離れた「吉城の郷」は、明治3年に建てられた佐藤家住宅を市民有志が再生した複合施設です。江戸時代の豪農で、明治には、銀行、郵便局、製糸工場などを経営し、地域産業にも貢献した名家の家でした。古川大火で焼けなかった貴重な建物で、レストラン、宿泊施設、シェアオフィスなど多角的に利用されています。
「biカフェラシーム」は作業場として使われていた大空間を改装したイタリアンカフェで、パスタやピザなど充実した内容。そのほか、1日1組限定の貸切宿「 iori 大野」など、豪農の屋敷を堪能できます。
金森可重によって築城された「増島城(ますしまじょう)」跡。鉄砲戦に備えた平城として設計されました。飛.が幕府の天領となると、城は廃城となり、武家屋敷は田畑へと変えられていきましたが、商人の町はそのまま残りました。
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5月、緑が濃くなる季節に毎年ウォーキング講座が開
かれる。昨年初めて5キロコースに参加した。皇居一周(4キロ)は何度かしたことがあったので、大丈夫だろうと参加したが、近場とはいえ普段歩いたことのない場所は
坂も多く、結構きつかった。
キロコースは初心者向け
ではなく参加はできなかったが、「いつか
目標になっていた。
今年の 10キロコースは初心者でも参加できるとのこと。ためらいもあったが、途中でギブアップしてタクシーで帰ってもいい、と思い切って申し込みをした。
講座の1回目は 90分の座学。これを受けないとコースには出られない。
「ウォーキングはスポーツです。」と講師の第一声。年齢とともに落ちて行く筋力、家の中での転倒、つま先が上がらない、膝が痛い。腰が痛い、 etc ……身につまされる事例も人ごとではない。歩けなくなるリスクを食い止めるために、
スポーツとして、しっかり歩きましょう。と、何度も歩く練習をする。何十年も歩いてきた姿勢はそうそう治るものではないが、膝や腰に負担がかからない歩き方を教えてもらえるのはありがたい。講師の厳しい指摘を受けているうちに、みんな綺麗な歩き方になっていく。終わってからのストレッチは、痛めた筋肉をほぐし呼吸を整える。普段意識していなかった筋肉の動きも感じられるようになる。その日から、かなり意識して歩くようにしていたが、疲れ方が随分違うように思えた。
「今から」ウォーキングを
キロコースは、「武蔵野を歩く」
。9時半吉祥寺駅集合。
井之頭公園でストレッチをして、三鷹から調布まで、途中で昼食をとって、西調布駅近くで解散とある。当日は、天気よし、風あり、気温は高くなく、絶好のウォーキング日和りとなった。遠足気分で早くに家を出
る。分前に
JR
吉祥寺駅に着くと係の人が手を振って
いる。通勤時間帯を少し過ぎているが、井の頭線の乗り入れもあり混雑している。
どこから見てもシルバーのおじさまおばさまが、一様
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キロ完歩」が、
ウォーキング 10キロ完歩!!
にリックを背負ってかたまりになっている。かつて時折見かけたことのある風景だが、自分がこちら側にいるのもなんだか不思議な気がした。総勢名、一列になって井之頭公園までダラダラ歩きはない。慣れている人が多いのかもしれない。遅れないように前の人に
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ついて歩く。
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吉祥寺が「住んでみたい街ランキング No1」になるのを納得し
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ながら井の頭公園へ。来たのは初めてである。御茶ノ水の水源がこ
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こにあるのも初めて知った。
ストレッチを一通りした後、講師から街中を歩く注意を受ける。自転車が結構なスピードで行き交うのを気をつけないといけない。
初めてのキロコース挑戦で、多少緊張している。さぁどこまでいけるか。歩ききれるか。散策を楽しむ余裕はなくても、なんとかついていければいい。と黙って後に続く。時々講師が声をかけてくれる。歩き方の基本を思い出して、姿勢を良くすると背中のリュックも重く感じない。歩幅を大きくとると、案外しっかり歩ける。三鷹下連雀、上連雀を通り、山本有三記念館や禅林寺で太宰治のお墓を見、奇抜な反転住宅の前を通って、大沢ほたるの里で昼食。歩き始めて2時間半。なんとかここまでついてくることができた。靴 10
を脱いで芝生に腰をおろし、おにぎりを食べる。風が心地よい。久しぶりのアウトドアでの食事である。子供の頃の遠足を思い出す。大半が今日初めて会った人だが、土の上で食事を取ることで一気に距離が縮まったような気がした。係の人から配られた飴玉はまさに甘露の1粒だった。
食事が終わると、足裏をほぐす足もみ体操を教わった。ほんのちょっとのことだが、疲れが随分と取れるようだった。
近くの水車小屋を見学したあと、川沿いを歩く。ここが東京?と思うほど緑豊かなのどかな風景である。東大の馬術部では馬が顔を出し癒してくれた。ようやく調布に入り、運が良ければ見れるといっていた飛行機を頭上に見ながら公園に入ると、ここがゴールだという。あと分は歩くと思っていたので、思わず「やった!。キロ完歩!。」と大きな声を出した。すかさず携帯で歩数を確認、トータル・6キロ。19700歩。われながらよく頑張った。最後のストレッチは、気持ち良く身も心も軽くなっていくのを感じた。
ウオーキングは、この後2回、江戸川と二子玉川コースに参加した。キロは去年からの目標だったが、完歩はとても嬉しく動くことの自信となっている。これを糧にウォーキングシューズを新調し、楽しく続けていきたいと思っている。
大原騒動の現場飛騨一宮水無神社
高山市の南、飛騨一宮水無(みなし)神社は、今から250年前、1771〜88年までの18年に渡った「大原騒動」の悲劇の舞台です。農民たちに過酷な増税を課した高山陣屋の代官大原紹正への反発から始まった一揆は飛.一帯に広がり、江戸での直訴、商家の打ち壊し、代官所前の大集会、首謀者の磔獄門と、大規模な農民一揆の典型例として、歴史家の研究対象になってきました。
樹齢800年の杉の御神木は、騒動の静かな目撃者です。大原騒動の特徴のひとつは、農民大沼村忠次郎による詳細な回想録『夢物語』が残されていることです。当時の農民の教養の高さを示すと共に、農民と領主(代官)の間には一種の契約関係があり、契約違反や不正に対しては、請願や暴動を起こす権利があるという意識がうかがえます。1回目の一揆「明和騒動」の後、1773年、2回目の「安永騒動」大集会が水無神社で開かれました。
善九郎が妻かよに宛てた遺書は美しい筆文字で書かれ、妻への尊敬と思いを込めた文学作品として評価されています。
安永騒動の首謀者はわずか18歳の本郷村善九郎でした。増税を目的とした検地強行に反対した農民1万人が水無神社に集結。大原代官は一揆鎮圧の出兵を要請し、郡上藩の大軍2000人が境内の農民に火縄銃を放ちます。従来の一揆では正規軍が武力行使することは皆無で、組織だった農民に対する代官所のあせりが感じられます。境内では多くの死者と検挙者をだし、善九郎をはじめ宮司までもが獄門となります。その後、大原代官は病に倒れ、息子の大原正純が跡を継ぎますが、公金の不正流用などを幕府に咎められ八丈島に流されました。
おやど蛍の木造建築
水無神社から西へ4kmほど。宮川上流のせせらぎが聞こえる「おやど蛍」。初夏にはホタルも見られます。オーナーの垣内甚太郎さんは建設会社を経営し、飛騨高山のヒノキなどをふんだんに使い、この宿を建てました。建物は切妻屋根の棟入りという、高山の典型的なつくりです。高山周辺では、妻入りの家はあまりないそうです。
客室には桜や翡翠の襖絵が描かれています。地元の日本画家 長谷川観石の作品は、飛.一ノ宮の名所「臥龍桜」をモチーフにしています。紫陽花の絵は、観石に習った垣内さんの娘さんの作品。
飛騨一ノ宮駅に近い「臥龍桜」。
飛騨牛の飼育から事業をスタートした垣内さんは、本物の飛騨牛を知ってほしいと、手頃な価格でゲストに提供。玄関の吹き抜けは古材を利用した立派な梁組み。明り採りから光が入り、束を貫通した「貫(ぬき)」も見られます。
丸太の皮を剥き、角材や板材などの木取りを行ってから、製材機の帯鋸によって木を切っていきます。必要な寸法よりも大きめに製材し、乾燥後に曲がりを挽いて修正します。上は飛騨産のヒメコマツ。
高山の市街地、吉島家の近くで生まれた垣内さんは、飛騨牛の飼育からスタートし、少しずつ土地や山を買い足しながら、事業を広げていったそうです。
飛騨高山を中心に、全国どこでも仕事に出かけています。
プレカットは使用せず、大工が自社工場で梁や柱の仕口を1本、1本刻んでいます。柱は芯持材しか使わず、百年以上生き続ける家を目指しています。
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