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ノコギリ型工場の特徴は、主に北側に向けた屋根の窓から自然光を採り入れていることです。北側からの柔らかな光は1日中安定していて、繊維を痛める心配もありません。照明がまだ未熟だった時代、ノコギリ型は多くの工場に採り入れられていました。
バラエティ豊かなパンが並ぶ店内。子どもから大人まで様々な人が集い、広々とした店内でくつろぎます。桐生で暮らした坂口安吾にちなんだ「安吾パン」(アンとゴマ)も。屋根は木造のトラス構造になっていて、壁のレンガはイギリス積み。完成は大正8年で、渋澤栄一が深谷に設立した日本煉瓦製造のレンガを使っているといわれます。
ベーカリーレンガに隣接した「絹遊塾工房風花(かざはな)」では、新しく開発された手織りの織機を使い、初めてでも1日でストールを織ることができます。草木染めなど様々な糸を選べ、群馬県産シルクの普及にも力を注いでいます。
碓氷製糸(群馬県安中市)などで生産された絹糸を、草木染めによって染色しています。糸作りから工房で行うことで手頃な価格で絹糸を提供し、自分で絹を染めたい、織りたいという願いを叶えたいと代表の板野ちえさんはいいます。
レンガ工場の隣には、昭和初期に建てられた旧金谷レース事務所棟と和館が連続しています。ベーカリーレンガの向いにある株式会社桐生再生では、土日祝日に名所を無料でめぐる「低速電動バスMAYU」の運行(市の委託事業)や、郷土料理おっきりこみうどんを古民家「四辻の齋嘉」(土日営業)で提供するなど、桐生の町おこしを手がけています。
ノコギリ屋根の工場「旧住善織物工場」。大正10年頃の建築で、桐生ではじめての鉄筋コンクリート外壁の工場といわれます。アーティストのアトリエとして活用されてきました。
ノコギリ屋根の工場を利用した「金井屋ワイン貯蔵庫」。大谷石造の建物で、ワインの温度管理に適しています。
今年の桜はどこも見事だった。
実家近くの公園や桜並木、千鳥ヶ淵では、早朝、家族連れで賑わう昼間、そしてライトアップされた夜桜見物と、しっかりと枝に花びらをつけた可憐な桜を存分に楽しんだ。須賀川(福島)に住む友人に千鳥ヶ淵の写真を送ると、まだこちらは蕾だという。
何度か訪れたことのある福島だが、桜見物で行ったことはない。
震災後、東北の桜は復興の証として、毎年テレビでその様子が取り上げられているが、3月、須賀川の樹齢350年という見事な枝垂れ桜が、 NHKの番組で紹介されていた。桜を観るために建てたという2階の障子に映る桜色はなんとも幻想的だった。お嫁に来た時からその桜を守り続けているという、おばあさんの姿も印象的だった。
その話をすると、その方は友人のよく知る方で、桜が見頃になると連絡してくださり、毎年観に行っているという。現在は息子さんの代になっているが、桜は見せていただけるという。思いがけない話に身を乗り出し、手帳をひろげてスケジュールを確認する。
しかし、桜の見頃を定めるのは難しく、互いの都合を調整し、かつ先方のご都合を伺って日程を決めるのは容易ではない。東京でもお花見日和りの翌日は真冬並みの寒気が戻ったり、天気も気温も安定しない。千鳥ヶ淵のソメイヨシノを見納めにすればいいと自分に言い聞かせ、あのしだれ桜を観ることができたら、外からでも充分、雨でもいいと、翌々日の火曜日に行くことを決めた。
月曜日、少し肌寒く天気は良くない。花見のしすぎで体調を崩したのか寒気もするが、早めに床に入り眠
横田陣屋御殿桜
りにつく。
火曜日、目覚ましよりも早くに目がさめる。暖かくすこぶるつきの快晴である。すごい!!久しぶりの東北新幹線、途中みぞれ混じりの雨が降ったが、郡山に着いた時には青空が広がっていた。急遽合流したもう一人の友人と一緒に再会を喜び、おしゃべりとランチの後「横田陣屋御殿桜」のある須賀川へと向かった。遠目からも色鮮やかなしだれ桜が目に飛び込んで来た。すでにカメラを提げた多くの人が桜を取り囲んでいた。
個人のお宅の桜だが、溝口藩の家老だったというお屋敷に植えられた陣屋御殿桜は、今は近隣の方々はもちろん遠くからも足を運ぶ桜の名所となっている。友人が連絡をしてくれていたので、ご主人が出迎えてくださり、快く2階へと案内してくださった。
あのテレビで見た光景が目の前にある。障子は淡いピンクに染まり、桜の木の体内に入ったような不思議な感覚である。障子を開けると大きな幹から伸びた色鮮やかなしだれ桜に、体はすっぽり包み込まれるようだった。内側から見る大樹はものすごい迫力だが、枝の桜は優雅で全てを包み込むように優しい。不意に涙が溢れる。言葉にできないまましばしそのまま。外にいる見物者が上がれるのかと思われたようで、早々にお暇をしようと挨拶をすると、ご主人が他の桜もご覧くださいと、裏山から道案内をしてくださり、桜の苗木やご結婚した時に植えられた若い桜、ご両親が戦争の最中に植えられたというしだれ桜も見せてくださった。樹齢350年の桜を守るだけでなく、若木を育て、代々に植え続けてこられたことをお聞きし、歴史の重みを深くした。
淡いピンク色のしだれ桜の足元には、水仙や白や紫色のヒヤシンスが植えられ、訪れる人の目を楽しませている。青空に広がる春色の共演は、協奏曲が聞こえてきそうな景色だった。
聞けば、午前中は雲行きが怪しく、雪がちらついていたという。真っ青な空と美しい春景色を見せてくれた「一瞬の時」に感謝した。友人宅にも大きな桜の木があるがまだ蕾が多い。ご主人と植えたというしだれ桜は小さいが綺麗な花をつけていた。
思いがけない須賀川の桜見物は、大きなパワーがいっぱいだった。東京に帰ったその夜、須賀川には雪が降り、翌朝送られた写真は、白一面の中にピンクの桜が咲いていた。耐えて咲く桜の美しさは、震災復興の証そのものなのかもしれない。と改めて思う。
工場を切り盛りするのは、岩崎親道さん、愛子さんご夫妻。2人だけで5台のジャガード織機をあやつり、2000種類以上のお守りの生地を織り上げていきます。愛子さんが行っているのは、4000〜7000本の縦糸をつないでいく、気の遠くなるような作業です。
特製のペーストをつかい、数時間で数千本を縦糸をつないでいきます。技術者不足から、他の織物工場を手伝うこともあるそうです。
ジャガード織はフランス・リヨンの発明家ジャカールが考案した織機を使った織物で、桐生は明治10年にいち早くジャガード機を輸入しています。紋紙と呼ばれるパンチカードを織機の上に置かれたジャガード機に通すと、カードの穴に対応した糸が上下して模様が織られます。この仕組はコンピュータのルーツともいわれています。
410疋もの桐生の ,の際は、徳川軍の旗として2
桐生は渡良瀬川と桐生川にはさまれ、3方を山に囲まれた地形から耕作面積が狭く、養蚕や機織など農家の副業が盛んでした。関ヶ原の合戦
絹織物が使われ、徳川軍が大勝したことをきっかけに、織物を毎年幕府に納めるようになりました。その後、天満宮で紗綾市(絹市)が開かれるようになり、江戸中期に京都の西陣から高機(たかばた)が導入されると、飛紗綾織りなどの高級織物産地として関西にも知られるようになります。天明3年(1783)には岩瀬吉兵衛によって水車を動力源とした「八丁撚車」(下)が開発され、糸に強い撚りをかけた縮緬やシャリ感のある生地が作られるようになりました。
岩秀織物が設立された大正時代。桐生の織物は、第1次世界大戦による好況で生産量を数年で5倍に伸ばします。その後訪れた世界恐慌や絹から合成繊維への変換、電力を使う力織機の導入など、いくたの時代を乗り越えて今に続いています。岩崎さんは数年前から、工場近くの株式会社桐生再生と共同して観光客や子どもたちの工場見学を受け入れています。桐生の歴史を築いてきた織物の製造を肌で感じてもらいたいといいます。▲縦糸は整経屋によって、芯に巻かれた状態で納品されます。
岩秀織物のジャガード織機は、飛杼(シャトル)を使うタイプと、シャトルを使わない無杼織機の2種類を使い分けています。緯糸を管(くだ)に巻き、シャトルに入れてから織機にセットします。シャトルは高速で縦糸の間を行き来し、緯糸を通していきます。管に巻いた緯糸は5分程度で無くなってしまうので、頻繁に織機を止めて管を交換します。
岩秀織物の向いに残る、元織物工場。本町通りに接した細長い敷地に、通り沿いの店、門、蔵、応接間、母屋、従業員宿舎、工場、稲荷社といった施設を並べています。昭和初期の建造で、手前の工場はノコギリ屋根ではなく、桐生では珍しいマンサード屋根です。
桐生新町重伝建エリア
街の中心部、本町通りの「桐生新町(しんまち)重要伝統的建造物群保存地区」。幕末、明治、大正にかけ、織物産業の栄華を伝える家並みが残っています。樹齢300年のクスノキは、明治の絵図にも描かれています。
天正19年(1591)、桐生新町の町割りを進めたのは、徳川家康の家臣・大久保長安でした。1軒の間口7間、奥行40間という江戸や大坂に比べて4倍ほど大きい敷地は、なかに農地を確保するためでした。この大きな区割りが、のちに桐生の織物産業が栄える礎になったといわれます。上の「矢野久左衛門家」(近江屋)は、醤油、味噌、酒の製造で栄えた家で、明治23年の「大日本博覧絵」には、細長い敷地に密集する店や蔵が描かれています。
明治期の塩蔵。
初代・矢野久左衛門は、滋賀県近江の日出町出身で、江戸初期に桐生で雑貨の行商を行い、寛延2年(1749)2代目が新町に店をかまえて酒醸造、質店をはじめ、屋号を「近江屋」とします。4代目は味噌・醤油づくりに事業を拡大。明治になると荒物、薬、染料、呉服、お茶にまで業種を広げ、桐生で最初の百貨店(矢野呉服店)を開業しました。近江屋には江戸後期から大正にかけて建てられた大小11の蔵が残され、市の施設「有鄰館」として公開されています。
大正9年に建てられたレンガ蔵は、桐生最大のレンガ建築で、かつては醤油のもろみが保管されていました。レンガは壁はイギリス積みで、屋根を支える和小屋組みの梁が見事です。基礎には太田市藪塚で採れた凝灰岩が使われています。
天保から大正まで、様々な素材と工法で建てられた蔵には、それぞれの味わいがあります。
大正4年の醤油蔵。壁は土壁に漆喰塗りの真壁で、屋根は洋小屋(キングポストトラス)です。
蔵の並んだ近江屋小路。
壁面に描かれた、藤野の子どもたちとの共作「藤野花地図」。地元で植物博士として知られる池竹則夫氏の指導で、散歩
中に見つけた花の絵を子どもたち(
エムを藤野産の楢炭を使って書きました。
40代に高名な書家に出会い、仕事のかたわら書を習い始めた佐知子さん。隷書や金文など中国の古書体に魅かれたそうです。.遂良(ちょすいりょう)の「哀冊(あいさく)」や隷書の古典「曽全碑(そうぜんぴ)」などを臨書し、師からはその筆の動かし方を観察するという、独特の方法で自分なりの書を模索してきました。上の 3点は、清少納言「枕草子」の「春の章」を、異なる 3つの書体で書いて、その違いのおもしろさを表現しています。一緒に墨遊びを楽しんでいる子どもの作品
(左)も。肩肘張らず、花見のように楽しめました。
森合資会社
桐生新町重伝建エリアの中で、最も大切な建物のひとつといわれるのが、本町通り沿いにたつ、森合資会社の建物群です。
▲ 7代目の森壽作さんと奥様が、案内してくださいました。壽作さんは本一・本二まちづくりの会理事長もつとめています。
桐生の名家として知られる森家。19世紀前半に近江から桐生新町に移ったといわれ、明治〜大正時代に活躍した森合資会社の創設者 2代目・森 宗作は、桐生の近代化につくしました。ユニークなデザインの事務所は、大正 3年の建築。木造平屋建で全体を日本窯業の白磁タイルで覆い、屋根部に銅板を巻いています。現在も事務所として利用されています。
▲ 明治時代の買い場。大日本博覧絵より。
敷地には、江戸、明治、大正の家や蔵が並びます。森家に隣接した買場通りには、かつて桐生物産売買所(買場)が開設され、多くの店や人が集まっていました。森壽作さんは往時の賑わいをとりもどしたいと、買場紗綾市(かいばさやいち)を企画。現在は毎月第一土曜日に「四辻の齋嘉」で開催され、当日に開催される「天満宮古民具骨董市」と並ぶ人気イベントになっています。
森家を有名にしているもののひとつに、日本を代表するステンドグラス作家・小川三知の作品「ふくろう」があります。大正時代に建てられた茶室風の隠居部屋に嵌められていたもので、西側の窓にあったそうです。子どもの頃、壽作さんはフクロウの絵柄を怖がっていましたが、増築のため蔵の中にしまわれていました。ステンドグラスを研究する田辺千代さんが記録を頼りに問い合わせた所、忘れられていた作品が発見され、田辺さんの文と増田彰久さんの写真により『日本のステンドグラス小川三知の世界』(白楊社刊)で紹介されました。今は母屋の1室で大切にかざられています。
足利市に生まれた 2代目・森宗作は、20歳の時に森家に婿入りし、金融、糸商、機屋などで財を成した森家を継ぎました。宗作は織物産業の急成長に呼応して館林の四十銀行を桐生に移し、明治 33年、頭取に就任します。また撚糸工程を改善する模範工場や輸出向け織物の製造会社の設立などに出資。桐生倶楽部の前身となる桐生懇話会を立ち上げると、渡良瀬水力電気の設立に関わり、電力供給の整備によって大正時代には、力織機を使ったノコギリ屋根の織物工場が広まりました。桐生のひな祭りは旧暦の 3月(新暦 4月)にひらかれます。先祖から使わるひな人形が飾られていました。2代目・森宗作は教育についても力を入れ、織物業の後継者を育てる桐生織物学校や桐生高等女学校、桐生高等染織学校の設立にも関わり、教育機関の基盤を築きました。参議院議員として国立国会図書館の設立に力を尽くし「真理がわれらを自由にする」という言葉を残した羽仁五郎や、シイタケ栽培の研究で知られる森喜作も森家の出身です。敷地の一画にある「マリア・イコン堂」。当主自らが描いたといわれるイコンが掲げられています。
旧平田商店店舗。店舗の横に袖蔵を備え、奥の母屋とは渡り廊下でつながっています。
最近まで営業を続けていた「一の湯」。かつては繊維工場で働いた女性たちが通っていました。
出展者募集開始 2019 年11 月20 日(水)〜22 日(金)
10:00〜18:00(最終日は17:00まで)東京ビッグサイト 南ホール
特別企画は「オフィス」。新ディレクターに谷尻誠・吉田愛氏。
東京ビッグサイト「西ホール」で開催された、IFFT/インテリア ライフスタイル リビング2018 の会場風景。2019年は「南ホール」でひらかれる。
2019年11月20日(水)〜22日(金)、東京ビッグサコワーキングスペースが増えるなか、オフィスのインテリア、IFFT/インテリア ライフスタイル リビング2018 実績イトで開催される「IFFT/インテリアライフスタイルリビ家具、キッチンなどは、快適でコミュニケーションを重視出展社数:424 社、来場者数:17,574 名ング」の出展募集が始まりました。東京 2020オリンピしたものへと進化しています。■ 出展についての問い合わせ先:インテリア ライフスタックの影響で、南ホール(総展示面積 20,000㎡)に会今回から新ディレクターとして、オフィスやホテルの設計でイル事務局(メッセフランクフルト ジャパン)場を移して行われます。恒例の特別企画は「オフィス」がも知られる、谷尻誠氏、吉田愛氏(サポーズデザインオフTel. 03-3262-8443 Fax. 03-3262-8442 テーマ。企業での働き方が大きく変わり、シェアオフィスやィス)を迎え、これからのオフィスを提案するそうです。info@ifft-interiorlifestyleliving.com
繊維の街の手作り帽子工房「 com+position 」
▲斎藤良之さん。手に持つのは群馬シルク製の帽子。
鍛え抜かれた大山さんの手わざによって、ペーパーブレードがみるみる形になっていきます。大山さんは春日部の帽子メーカーで修行を積み、 com+position代表斎藤良之さんの誘いで 3年前、桐生へ移り住みました。斎藤さんは群馬産のシルクや、桐生で作られるリボン、刺繍など、地元の材料を大切にした帽子づくりに挑戦しています。
天井には動力を伝える回転装置や天窓が残されています。棟木には「上棟式大正九年六月」の文字が見られました。
古着店で働いていた斎藤さんはヴィンテージな物が大好きで、桐生の古い建物を探していたところ、この元工場を見つけました。東日本大震災で屋根などを破損したためオーナーは解体も考えていましたが、耐震・修復工事によって工場の雰囲気を残しながら生まれ変わりました。
刺繍やトーションレースなどを帽子づくりに活かしています。
桐生、太田、足利には、手のこんだ刺繍やトーションレースなど独自の技術をもった工場があり、都心からデザイナーズブランドのスタッフが試作に訪れることも多いそうです。斎藤さんは繊維産業活性化のため、帽子ブランドの要望にあわせ、優秀な工場をマッチングするビジネスも行っています。キャビネットには、ファイヤーキングのコレクション。
ドラゴンシリーズ 56吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ドラゴンへの道編
物を生み出す。
物を生み出すことは、生きていることを問うことでもある。
何のため、誰のために物を生み出しているのだろうと自問自答しながら、日々の生活の中で物を生み出すことを止めようとしていない。創造性の意味と意義はどこにあるのだろうかと、常に自問自答が続くのは当然のことなのかもしれない。音楽を生み出すことも、絵を描くことも、文章を書くことも、グラフィックを描くことも、家具を作ることも、その意味が常に問われている。それはなぜ私たちが、今ここに生きるのかと言う生物学的な存在意義にも似ていて、私たちがどのような職業であろうとも、野菜を作る人、牛を育てる人、道路を作る人、家具を作る人であっても、私たちが問われている命題はどこまでも付きまとう。
しかし、その問いから離れてはならない気がするし、また絶対に離れられないと思う。それぞれの人間の一生は、本当に美しい芸術のようなものだろう。日常の連続から生み出されるその人の人生は、映画や小説の物語よりも、とても愛おしく、また美しくもあり、醜くもある。
私たちが意識する自分自身と、人々が意識するその人の内面には、大きな違いがあるだろう。本人の認識する自分自身よりも、他人が認識する方が真実に近いのかもしれない。自分で思っているほど、自身を明確に認識できる人はあまり居ないような気がするし、それは真実だろう。
自分の本当の姿を認識するには、自己意識と他意識が同じように認識できなければ、永遠に自分の姿を理解することはできないのだろう。それでも人は自己中心的な生き方を止めることはできない。それが人間であり、若さであり、成熟するほどに人間は若くなると言うヘッセの言葉が、まさに本当のように感じられる年代に僕たちも近ずいてきた。
若さはエネルギーを持つものの、年齢を重ねても違う形でエネルギーは存在していて、良い配分で使うことで無駄のないエネルギーの消費が出来て、若い時代とは違った大きなエネルギーを
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創出することが出来る。それが人間としての面白さであり、コツコツと時間を積み重ねてきた人間が持てる大きな創造性のエネルギーのように感じる。 50
年以上も毎年何度も海外の国々を訪れているが、何か本質的なものが変わったかと疑問に思うことが、年々確実に増えている。
時代や技術や価値観の変容を感じつつも、変わらないものがそこにはしっかりと鎮座している。大きな意味でその時代時代の価値を表現するものが時代を作り、そしてつぎの時代への変化のきっかけを作ってきたのだ。その大きな流れの中に身を置いて生きるのか、もしくはその流れに逆らって生きて行くかは、その人の考え次第で良いと感じる。
その意味が単純に問われ、そこに継続性のある価値と、終わって消滅してしまう価値の違いは常にどの時代にも付いてまわるものだ。ただし、創造するためには時間と継続的エネルギーが必要である。そこには根拠のあるなしにかかわらず、何かを生み出す欲求としての源泉が存在する。
そこには喜びと苦しみが同居していて、創造には相反する感情と葛藤が常に付きまとっている。近年、世界は資本を中心に動いてきたし、現在も未来も経済的な価値観によって様々な行為の価値観が定義されている。しかし、その唯物的な生き方には限界があり、それが今、世界の価値観の変容の源泉となっている。世界は混迷しつつ、同時に秩序ある社会のあり方を志向する人々も存在する。それは 年前も 年前も 100年前も変わらなかったことなのだろう。
時間の積み重ねに勝るものはない、それが今の自分の偽らぬ実感であり、多分それを越える方法はないのではないだろうか。時々、ビートルズやクィーンやスミスやポリスのように、突然現れては最高の創造性を発揮し、そして突然のように終焉してゆく、爆発的な創造性や若い時代のエネルギーをもち、説明のできない本当に神がかったことが起こる。
しかし、それはごく稀な例でほとんどの人々の創造性には文脈があり、まわりからの影響を少なからず受け続け、自分の中にある創造性のかけらを発見しながら、少しづつ時間を掛けて積み上げる礎石のような作業の上に、その人、個人の中から発祥する創造物が生み出されるのだろう。
桐生の旦那衆がつどい、街の発展を協議した桐生倶楽部。
桐生倶楽部
大正8年竣工の桐生倶楽部は、邸宅風のスパニッシュコロニアル様式の木造建築で、赤瓦を載せた4本の煙突や円柱(オーダー)やドーマー窓を備えたエントランスなどが特徴です。設計は、当時清水組から独立した建築家・清水巌によるもの。1階ホールを中心に、邸宅の客間といった趣の部屋が並んでいます。明治33年に、繊維産業や金融界の有力者によって結成された社交クラブ「桐生懇親会」が、大正7年、桐生倶楽部に発展。駅舎の改築、発電所の開発、技術学校の設立、電話局の開設、道路・水道などインフラ整備といった、桐生の街の形成に大きな役割を果たしてきました。
各部屋には、デザインの異なるタイル張りの暖炉が設置されています。2階ホールでは、各界の著名人を招いた講演会が開かれ、時代の先端を伝えるハイカラな場所として、桐生の経済・文化をリードしていました。
桜の木や花壇で彩られる裏庭。倶楽部の建設には、桐生出身の野間清治(講談社創業者)が尽力したといわれています。
本町通りの桐生中央商店街は、昭和40〜44年にかけて建設されました。密集した小店舗の防炎化、大型店の出店対策、本町通りの道路幅拡張など、様々な課題を解決するため、商店連盟副理事長川田磯次郎氏の尽力により実現。設計は日本不燃建築研究所(今泉善一)です。
桐生織物会館旧館(桐生織物記念館)は、昭和 9年に桐生織物同業組合の事務所として建設されました。基礎部分は鉄筋コンクリートですが、上屋は木造の2階建て。当時流行したスクラッチタイルを張り、鉄筋コンクリート風に見せています。現在、1階には桐生織物の売店、2階には貴重な織機などの展示室があります。
カトリック桐生教会は、昭和33年の竣工。桐生では明治24年から、北関東の布教で知られるパリ外国宣教会カジャック神父による布教活動がはじまりました。折板状の屋根と連続するスリーブで強度を保った合理的で美しい建築です。
桐生市街を望む「水道山」の中腹にたつ水道山記念館。旧水道配水事務所で昭和7年の建設。外壁をスクラッチタイルで覆った木造で、フランク・ロイド・ライト風の建物といわれています。
桐生市の水道施設は昭和7年に完成。渡良瀬川の水をひき、水道山の高区・低区配水池から市街へ水を供給しています。水道山には松本竣介のコレクションで知られる大川美術館や洒落た小住宅のならぶ宮本町和洋折衷住宅郡があります。
大正4年、地元のあつい請願によって設立された官立桐生高等染織学校は、繊維産業には欠かせない染色・紡績・織物を学ぶ学校で、国立群馬大学工学部の前身となりました。創立当初の講堂・本館は昭和48年に曳家され、同窓記念会館として公開しています。レンガ
三角形のバットレス(補強壁)が印象的なファサード。破風には雁行状の装飾が嵌められ、チューダー様式の教会建築を思わせます。設計は、札幌農学校など明治の学校建築を手がけた、文部省技師の新山平四郎といわれます。平成29年の耐震工事により、当初のカラーリングが復元されました。
広々とした講堂は3階建ての高さがあり、2階に桟敷が回っています。屋根を支えるハンマービームの構造など、ゴシック風の意匠も見られます。桐生市と繊維業界は学校建設に多額の資金を投じていて、期待の大きさがうかがえます。
ヨーコの旅日記第17信記憶を呼びさます公園の一日川津陽子メッセフランクフルトジャパン
千葉県・野田
たまたま代休を取った某日。桜の満開宣言から、東京では、再び冬に後戻りしたかのような寒さが続いたが、この日は陽が燦々と降り注ぐ春らしい陽気で、気分も上々。これは外に出ないともったいないぞ。あれこれ考えた結果、午前中に用事を済ませて、急遽実家に帰省することにした。この時期、我が地元、千葉県野田市の清水公園の桜が頭に浮かんだのである。先日の都内で、寒さに震えた花見のリベンジである。実家に到着するや否や、母がちょうど清水公園でさくらまつりをやっている、今がまさに見頃だと言うので、自転車を借りて久々に足を運んでみた。近所にある清水公園は、実は、日本桜名所百選にも選
▲ 遠足のお弁当時間を思い出す「清水公園」の広場。
ばれていて、地元では有名な名所のひとつである。ぽかぽか天気に加え、平日の昼の時間帯という特別感がさらに拍車をかけて、満開の桜の下、実に清々しい。桜を観賞しに寄ったつもりが、園内に踏み入ると過去の記憶が次々と蘇ってくる。清水公園は、明治 27年(1894年)に醤油醸造業の柏家五代目当主茂木柏衛翁が、真言宗智山派の寺院であ
▲ さくらまつりの飾りが眩しい金乗院。
る金乗院から、5千 5百坪を 1千円の賃借料で 50年間の賃借契約を行い遊園地を建設したのが始まりなのだそう。同年 4月に開園式を挙行して一般町民に開放し、今に至るのだとか(公式 HPから引用)。清水公園には桜、そしてこれから見頃を迎える躑躅を観に大勢の人たちが訪れるが、園内にはそれ以外にも様々なアトラクションが揃っている。それは清水公園の起源に関係してい るのかもしれない。懐かしい気分になり自転車を止めて進んでみる。桜の木が並ぶ広場。小学校の遠足で訪れたこと、家族や親戚が集まって花見をしたことなどを思い出す。そして、地元の子供会のプログラムで何度か訪れたフィールドアスレチック。今となれば楽勝そうな種目も、幼少期には全てがやけに高所に感じ、半べそをかきながら恐る恐るトライした種目もあった。アリ地獄なんて、走り続けたらその勢いで止まることが出来ずに、そのまま穴の中から出てこれないんじゃないかと本気でビビっていた。特に水上コースが本格的で、着替え持参が必須だった。スキップしたい、逃げ出したい種目も多々あったが、確かスタンプシートのようなものがあり、ズルは許されなかったと記憶している。この日も目の前で思いっきり水中に落下しずぶ濡れの子供たちを目にした。春の陽気のなか、笑い声が弾ける。更にキャンプ場エリアへと進む。学生の頃、友人やバイト仲間たちとバーベキューをしたり、自転車ですぐに帰宅できる場所に住んでいたにも関わらず、バンガローをレンタルして朝まで飲んで語り明かしたりしたことを思い出す。この他にも、植物園から巨大迷路やポニー牧場まであって、シニア層から子供まで一日楽しむことができる。
▲ フィールドアスレチックの「水上コース」。 ▲BBQ場、ポニー牧場、巨大迷路。土産物店には醤油が並ぶ。
思い返すと、これまで結構沢山の友人をここに連れてきた。きっと、わたしの中では、清水公園は懐かしの場所であり、誇れる場所なのだと思う。余談だが、清水公園といえば今は無くなってしまったが、すぐ近くにコンビニがあって、進路が決まった高校 3年の後半からしばらくの間、わたしはそこでアルバイトをしていた。野田には、900年の歴史があるとされる戸隠流忍法の第 34代宗家・初見氏と仰る武術家が創設した「武神館」という道場があって、昔から忍術を学びに、世界中から受講者が集まっていたのだとか。今でこそ当たり前の風景だが、当時のこの長閑な町では珍しく、その道場に通っているという外国人が頻繁にそのコンビニに来店していた。すでに英語に興味を抱いていたわたしは勇気を振り絞って片言で話しかけては、コミュニケーションを楽しみ、そして少しだけ自信をもらった。と、次の元号の発表直後に、思いがけず昭和、平成の懐かしい記憶に思いを馳せる休日となった。わたしはこれからも、幾度となくこの公園を訪れるであろう。いつの時代になっても、明治時代の遊園地の名残りを感じる、すこしレトロでアナログ感が残る場所であってほしい。
いま桐生和紙を漉いている橘三紀さんは、先代の父・星野増太郎さんのあとをつぎ、母の光子さんと 2人で桐生和紙の伝統をつないでいます。増太郎さんはもともと、繊維会社で養蚕の指導員をしながら祖父の紙漉きを手伝っていましたが、40代のころに紙漉きを専業として各地の和紙産地を視察し、設備を揃えていったそうです。この日は均質に漉くのが難しい、薄い紙を漉いていました。紙の厚さは「桁(けた)」にはめた「簀
(す)」の目の細かさで決まり、細ければ薄く、荒ければ厚く漉けます。桁に結ばれた紐は、桁を持つ時の荷重を軽減する働きがあります。和紙づくりに欠かせないのが、分散剤として使われる「トロロアオイ」(ネリ)です。和紙を漉く水槽「漉き舟」に水と楮(こうぞ)の繊維を入れて撹拌し、トロロアオイの根から滲み出す粘液を加えて繊維を分散させます。気温の低い冬の方がトロロアオイの粘液の状態がよく、紙漉きに適した漉き舟のコンディションを長く保てるそうです。
漉きあげた和紙をカンダ(紙を重ねたもの)に移し、後で剥がしやすいように糸を挟んでおきます。紙の厚さにもよりますが、1時間で15枚、1日100枚ほど漉くそうです。カンダをプレス機にかけて1〜 2日かけて脱水し、乾燥機に貼り付けて乾かします。
アクを抜いた白皮を少量づつアクリル水槽に移し、裏表をチェックして細かなゴミや汚れを取り除きます。この工程が和紙の品質を决めるともいわれ、手の切れるような冷たい水を流したまま行います。桐生和紙では伝統的なソーダ灰を使って白皮を煮ています。強い薬剤を使いゴミまで溶かしてしまう製造法もありますが、繊維を傷めないためにも、昔ながらのやり方を守っているそうです。綺麗にした白皮を、叩解(こうかい)機で1時間ほど叩いて柔らかくしてから、刃のついたミキサーのような機械(ビーター)に 2分ほどかけて繊維をほぐします。もともとは農家の副業だったため、三紀さんの祖父の代は全て手仕事でしたが、増太郎さんは和紙産地として知られる小川町や全国の産地を訪ね、製法や設備を学んでいたそうです。
和紙は極薄口、薄口、中口、厚口の 4種類あり、増太郎さんが育てた楮で作られた和紙も残されていました。桐生和紙は江戸時代まで、今よりも小さな判型で、主に女性が座りながら漉いていたようです。それを 2枚に折って帳面にしたり、障子に張っていました。明治になると大判の洋紙に対抗して和紙も大判化し、主に男性が漉くように
桐生和紙の帳面は、桐生の織物工場や商家でなります。昔の和紙はごく薄く漉かれることが多く、楮の原料を節約する意味もあったのではと三紀さん。も盛んに使われ、地産地消されていました。原料となる楮はクワ科の木です。三紀さんは今、父が行っていた楮の栽培に挑戦しています。梅田では古くから傾斜地やあぜ道に楮を植えていました。春には株から新芽がでて、剪定を行って枝を真っ直ぐに伸ばし 12月頃に収穫します。手間はかかりますが、地元の楮から皮をとる工程を伝えていきたいといいます。畑は鹿よけの冊で囲われていました。桐生市境野町の「高光織物工場」では、桐生和紙を織った着物の帯を作っています。20年ほど前、桐生和紙のショップでハガキを購入した際に、星野増太郎さんと出会った...康郎さんは、和紙で着物をつくれないかと思いたち、増太郎さんと共に研究を進めました。帯状に裂いた和紙の両端に切り込みを入れて、紙縒(こより)状につなぎ、手作業で和紙の糸を作っていきます。縦糸には絹、緯糸には杼に巻き取った和紙の糸を使い、大変な手間をかけて手織りされています。. ..さんは思い出の着物をオーダーメイドのデザインで再生する「裂織」による帯も制作しています。
焼き肉・焼き鳥・ジンギスカン。牛丼・マック・ケンタッキー。加えて、いきなりステーキや肉寿司などの「ファスト肉食チェーン」まで。近ごろ日本の外食産業界は、食肉志向が鮮明だ。日本人の肉食志向が近年急速に高まりつつある? とても、そうは思えない。ではなぜ、が増えつつあるのか。はっきり言って、
「肉中心の店」これらの店で出されるものは、「料理」と呼ぶには、いささか単純過ぎるものばかり。業者側からすれば「料理人要らず」で店舗運
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営が可能なお商売が中心だ。要するに店舗運営がしやすい。だが、参入しやすい業種は、過当競争になる。おそらく肉中心の店は、
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そろそろ限界ではないか。だいたい少子高齢化が合言葉のこの国で、総体として食肉の消費が今後大きく伸びるなんて、考えられない。 歳を越えてなお五百グラムのステーキをたいらげるという三浦雄一郎のようなシニアは例外的。一般に食の好みが淡白に
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なっていく高齢者層の取り込みこそが、外食産業の大きな課題となりつつある現状で、スーパーやデパ地下の惣菜売り場も含めて、今後の重点は「菜食&穀物中心」+「有機減農薬」路線に向かうはず。なんといっても日本の食文化は、長きに渡って「コメと野菜と魚が中心」だったのだから。近年海外で和食文化が注目されるようになった最も大きな背景も、ここにある。だから「和のオガーニック菜食中心」のチェーン店を国内で新たに確立できれば、ユニクロのように世界で勝負できる存在になり得ると思う。
そう断言できるのは、欧米でべジタリアン(菜食中心主義)の流れが、着実に勢いを増しつつあるからだ。本コラムでも何度か触れたが、「欧米人=肉食中心」というのは、とんでもない誤解だ。人口の数%程度の貴族や大金持ちを除けば、西欧諸地域であっても人口の大半は、伝統的に「野菜と穀物と乳製品が食事の中心」で、
「肉を口にする機会が年に数回もあれば上等」という暮らしだった。その状況が変わり始めるのが 世紀末のアメリカ。これに遅れること半世紀。欧州諸国で庶民が日常の食事で気軽に肉を口にできるようになるのは、第二次世界大戦後、1950年台半ば以降のことだ。この点は、日本と大差ない。だから、「欧米で菜食主義への流れが強まりつつある」というのは、「新しい流れ」というよりも、自身の食文化の原点に戻りつつある、と見ることができる。
だが、時は 世紀。飽食の時代を経たのちに支持される菜食主義は、「食べたくても肉を食べられなかった時代」への単なる先祖返り、ではない。その背景には、
1)動物性脂肪&蛋白を避けたいという健康食志向、2)動物の命を奪いたくないという倫理志向、
3)牛や豚を育てるのに必要な配合飼料に、膨大な穀物とエネルギーが過大
に消費されているというエコロジー重視志向、といった大きな3つの流れがある。
そして、その3つの原点をいかに日々の生活に反映させるか。同じ菜食主義でも、その度合いに応じて、大きく分けて、ベジタリアンとビーガンの2派に分けることができる。「ビーガン」というと、ベジタリアンの略称みたいだが、そうではない。肉・卵・乳製品はもちろん、動物を素材とするウールの衣服や工芸品、動物実験を前提に作られる動物性の素材を含む化粧品に至るまで、原則拒否。人の生死に関わる病を救う医薬品についてのみ、他に選択肢がない場合に限って、動物素材が含まれるものでも「例外的に認める」という厳しさを求める人々を指す。要するにビーガンとは、戒律の厳しい宗教と同様だと考えていい。これに対して「ベジタリアン」は、動物の肉は禁止だけれど、魚介類はオーケー、というゆるやかな立場から、肉・魚介類・乳製品まで原則禁止、という一派まで、その立場に応じて様々な考え方の人々を広く含む。だから、レストランで
「私ベジタリアンなので、タイのカルパッチョ頂きます」は、ありかもしれしれ
ないけれど、「私ビーガンなのでカジキマグロのステーキで」というのは、あり得ない!ということになる。注目すべきは、ビーガンが、単に食の禁忌にとどまらず、自身のライフスタイルから発して地球環境保護という壮大なヴィジョンの下で発言し、行動していること。反捕鯨を訴える人々の中にビーガンが少くないのには、こうした背景がある。また、自己に厳しいぶ
ん、他者にも厳しさを求め、結果、製薬会社や化粧品会社へのデモといった、他者から見れば過激な行動に走ることも珍しくない。
いずれにしても、菜食主義の流れは、日々勢いを増しつつある。例えば、ごく最近アメリカのバーガーキングで、植物素材でありながら、遺伝子操作をしたイーストの力で、本物の肉の香りと質感を出すことに成功したパテを挟んだハンバーガーが売り出され、大きな話題になっている。1970年代半ばに牛肉の国アメリカで「赤い肉から白い肉へ」すなわち「牛肉よりも鶏肉を選ぶのがオシャレ」と言われ始める。次いで「肉ではなく魚を」となり、ついには「野菜と穀物だけで」こそがファッショナブルという地点に至った、ということになる。こうした流れは、世界の肉食をリードしたアメリカで最も先鋭的に現れている。その米国のベジタリアン並びにビーガンの主張を説く本に、必ずと言っていいほど引用される「西欧菜食主義の元祖」とされる人物がいる。それが古代ギリシアの、多くの謎に包まれた大学者ピタゴラス(前569〜前470頃)だ。そう、直角三角形の辺の長さの原理を定めた「ピタゴラスの定理」で有名な、あのピタゴラスだ。私は西欧食文化の歴史を追いかける過程で、この有名な人物の名に遭遇してビックリした。ではなぜ、ピタゴラスが西欧菜食主義の元祖とされるのか。三角形のツナサンドは彼の発案だったのだろうか。
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第2回スパイス信仰と医食同源。イスラームの影。早稲田大学エクステンションセンター中野校第4回食の革命。ポテト、モロコシ、カカオ。第3回キリスト教と食 6/19はレストラン体験のため 11 5/22、5/29、6/05、6/12、6/19第5回レストランでの講義と会食。第水曜日 10:30.12:00計5回1回華麗なる英国宮廷宴席。:。断食日の面白さ。
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次回へと続く。
桐生川
山中の割烹旅館「清風園」。桐生川を眺めながら、ゆったりお風呂につかれます。ココファーム(足利市)のワインも。
山中の割烹旅館「清風園」。桐生川を眺めながら、ゆったりお風呂につかれます。ココファーム(足利市)のワインも。清風園の近くには茶畑もありました。
山の斜面に群生するミツマタ。
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No War, No Nuclear.