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北陸から飛騨高山へ
神通川第二ダム
今月は、飛騨高山の名工たちを訪ねます。従来、東京から飛騨への鉄路は名古屋から高山本線で北上し、飛騨高山駅へというのが一般的でしたが、北陸新幹線の開通により、富山から高山本線を南下するルートも選べるようになりました。鉄路ははじめ神通川をさかのぼり、車窓からは神通川ダムや険しい渓流の姿を望みます。猪谷(いのたに)駅のあたりから神通川は宮川と名をかえ、富山県から岐阜県に入ります。田園風景が広がり、川の流れがゆっくりとして、地形に柔らかさが感じられるようになると、飛騨高山はもうすぐです。
2005年の合併により高山市の面積は約2,177k㎡と15倍以上に広がり、東京都とほぼ同じになったものの、山林面積が92%と人の住める場所は限られています。
▼中華そば「つづみ」。昭和31年の創業で今は3代目、豚骨、野菜をベースに、さっぱりとした醤油味が特徴です。
ライダーハウス高山のオーナー西本久平さんが、高山の街を案内してくれました。名物「塩せんべい」や老舗旅館の「田邉」、高山名物の一番街の中華そばに寄り道しつつ、街を南北に流れる「宮川」を渡り古い町並みへ。高度経済成長期には汚染が心配された宮川でしたが、子どもたちによる鯉の放流や地域の清掃活動により、川底まで透き通っています。コンビニや銀行も町並みの景観に配慮したデザイン。
観光のメッカ、高山の古い町並みは、旦那衆と呼ばれる裕福な町人たちによって築かれてきました。高台には空町(そらまち)と呼ばれる武家屋敷があり、一段低くなった宮川の東側エリアを中心に、一番町、二番町、三番町(現在の一之町、二之町、三之町)といった南北の通りが約600mにわたり作られました。
商業を重視した金森氏は、他の城下町に比べ町人地の割合を多くし、京文化をとりいれた近代的な城下をつくりあげました。今も三町、下二之町大新町の重要伝統的建造物群保存地区に、数百件の伝統的な町家が残されています。密集した町人地はびたびの大火にあい、天明4年(1784)の2342軒をはじめ、明治8年(1875)には下二之町を中心に1032軒が全焼。辻々には60を超える火防の神「秋葉様」が祀られ、軒下に神棚を備える家も目立ちます。
町家を改装したカフェ「茶乃芽」。
隙間なく連なる町家は軒先の高さが揃えられ、千本格子や高山格子が連なります。町を仕切った旦那衆の不文律によって、江戸時代から美しい街並みが守られてきました。その一方、幕府の直轄地となってからは、厳しい建築制限をかけられ、屋根の高さは陣屋の門より低い4.2m以下、使用する材もヒノキ、サワラ、スギ、ネズ、ヒバ、ケヤキが禁止されました。以前はベンガラに黒いススを混ぜたものを木に塗っていましたが、使用した材を隠すためともいわれます。
宝暦年間からの「大のや醸造」。糀味噌、赤味噌、醤油を製造販売しています。初代は大野(福井県)から飛騨に来たそうです。
町並み保全への高い意識は、今も続いています。屋台組を母体とした町並み・景観保存会が組織され、独自の「申し合わせ事項」をつくり、建物や景観のルール、改修工事の事前申請などが定められました。屋根の勾配や看板、のれん、縁台の出し方、使用する色などが細かくマニュアル化され、町並みの統一感を保っています。
2軒の造り酒屋が向かい合う。原田酒造場と舩坂酒造店。
かつては商店街の役割を果たしていた古い町並み。深い軒と格子窓に守られた中2階は家族や使用人の生活空間で、職住一体の暮らしが営まれていました。昭和9年に高山駅が開業すると商店街は駅に近い本町通りに移り、三町の店舗は店じまいして一般の住居となりますが、古い町家を大切にして暮らしたことが町並みを残すことにつながったと考えられています。現在は高山市外の経営者がテナントとして運営する店舗も増え、地元との協働が課題となっています。
桐箱は自らを凹ませ、中身を守る。
撮影:TIME & STYLE
高山の街の北部、飛騨総社(ひだそうじゃ)本殿の裏手に、大屋文雄さんの「大屋桐材店」があります。飛騨高山周辺で採れる国産の桐材を使い、陶磁器や木彫品、掛け軸などを収める、特注の桐箱を主に制作しています。
大屋桐材店は昭和30年代まで下駄を制作していましたが、時代の変化とともに、桐箱用の桐材を扱うようになり、制作も手がけ始めました。中身に合わせ、1個から制作するそうです。
▲のし袋をしまう小引き出し。軽く密閉性の高い引き出しです。
桐という字は「木」と「同じ」と書くように、草と木の両方の性質をもち、扱いも独特な材料と大屋さん。そのため桐材専門店が飛騨高山にも数件ありましたが、いまは大屋桐材店1軒になりました。桐材の角をとるための丸いカンナなど、道具は引退した指物師にもらったり、下駄屋時代から使っている古いものもあるそうです。
帯鋸で丸太を製材する作業も、大屋さんが行っています。
桐は生長が早い一方、寿命がは20〜50年と短く、育った環境によって年輪の細かさが異なります。女の子が生まれると花嫁タンスのために庭に桐を植えると聞きますが、庭の桐は目が荒いことが多く、山で育った方が細かく質が高いそうです。丸太を持ってみると、他の木材に比べ軽く感じました。飛騨周辺でとれた丸太を1〜2年寝かせてから製材します。板を屋根に乗せ、4〜5カ月かけて雨や雪に当ててアクを抜き乾燥させます。桐はきちんとアク抜きしないと、製品になってから紫色っぽいアクが浮き出てしまうことも。板は乾燥と同時に反ってくるので、乾燥後に板を平滑に仕上げて狂いをとります。
45度に角度を付けた丸鋸など、箱作りのためセッティングされた機械や治具を用い板を加工します。板目、柾目を使い分け、箱の天板や引出しの前板には杢目の美しい材を使うそうです。
▲ 箱の本体と蓋を合わせてから、揃えて削る機械。
大きな面は、矧ぎ合わせで作ります。同じ木目や色をあわせ、仕上がったら1枚の板に見えるようにします。桐はヒノキやマツのようなヤニがでず、気密性がよく多孔質のため湿気をよく吸い、アルカリ性で虫が寄らないといわれます。昔の桐箱に虫食いがあるのは、ノリに使われた膠やご飯を食うためだそうです(今のボンドはその心配が少ない)。
飛騨の伝統工芸「一位一刀彫」の箱をつくる大屋さん。カンナで削りながら蓋の開け締めを調整します。桐箱の良さは、焼き物や漆器、木彫品を入れたときに、揺れても桐が凹んでくれるので品物を傷めないこと。「なんでもやるだけですから」という大屋さんは、箱の中の主役を守るため長年寄り添う「箱」づくりを続けています。
可愛らしい桐のミニ下駄やプレートなど、大屋さんの奥様が手がけた作品。
平安の創建といわれる「飛騨総社」。飛騨国の十八社を合祀して総社としたと伝わります。一時衰退したものの、高山祭りの創始者国学者・田中大秀の呼びかけにより再興しました。
観光客でにぎわう赤い「中橋」。今年は桜の開花が1週間ほど遅れたそうです。
▲ 元は百貨店だった洋風の建物。 ▼ 飛騨牛の精肉店「天狗」。
高山駅が開業してから街の中心は西側へ移り、宮川の西岸に本町通り商店街が形成されました。古くからのスーパー駿河屋本町店は不動の人気をほこっています。鉄道で行きやすくなった高山は観光ブームにのり、新しい街が拡大する一方で、古い町並みを残そうという機運も高まりました。飛騨春慶や一位一刀彫もお土産物として生産を拡大します。
本町通りで1951年に創業した純喫茶DON。ネルドリップのコーヒーや果物のジュース、自家製のケーキ、ほうじ茶プリンなど、地元の方にとっては学生時代の思い出がつまった家族経営のお店です。
明治28年から高山町役場として使われていた建物。高山市政記念館として公開されています。
飛騨高山まちの博物館の近くには、素敵な骨董店が並びます。
今年も行ってきました。4月恒例「四国こんぴら歌舞伎大芝居」。
今回は、高松城と7〜8年前に見学した丸亀町の再開発商店街のその後を見たくてうどんツアーはパス。岡山から瀬戸大橋を渡り高松へ。駅のすぐ前にある高松城、堀伝いに桜を見ながら中へと入る。高松城は海からの攻めを守る水城として建てられ、堀は海水を取り込んでいるため、真鯛や海の魚が多く泳いでいる。堀の中を観光客を乗せた小舟が浮かび、天守閣跡から眺める海もいい。城の前を走る小さな「琴電(ことでん)」の行き交いも風情がある。
丸亀町は四国の玄関口として栄え、縦横に商店街が連なっているが、数年前大規模な再開発が行われ建築雑誌にも取り上げられた。高級ブランド店や東京をはじめ地方の有名どころのお店を誘致し商店街を活性化させた。東京でもデパー
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トの高級ブランド店は休日でも人はまばらで、正直、地方都市でこんなにたくさんの店を作って成り立つのかと思っていたが、どの店も構えしっかりと、当時より商店街全体が賑わっているように思えた。丸亀町の人はお金持ちと聞いていたが、本当だったんだと、なぜかホッとした。
翌日、琴電を利用して歌舞伎座のある琴平に入った。駅前には登り旗がたち、いつもは素通りの重要民俗文化財「高燈籠」は桜も満開で、華やかさに一役買っていた。
歌舞伎の話になるとどうしても前のめりになるが、今回のお目当ては、勘九郎、七之助、そして中車。
金丸座のこんぴら歌舞伎は、中村勘三郎や中村吉右衛門、澤村藤十郎等が歌舞伎復活に尽力し、今年で回目となる。江戸時代の芝居小屋をそのままに、当代名役者の歌舞伎を身近に楽しむことができる。
勘九郎の「高坏(たかつき)」は初めて観る舞踊だが、
こんぴら歌舞伎から皇居へ
祖父の勘三郎が大好きなチャップリンの影響を受け、父の十八世勘三郎も得意だったという高下駄を履いて踊るタップダンス。韋駄天で身のしまったところを見せている勘九郎でも高下駄のタップは危なっかしく、見ている方もハラハラするが、ユーモラスで滑稽な仕草に客席からはヤンヤヤンヤの喝采と拍手が響いた。
お目当て3人の出る場面はどれも充分に楽めたが、今回圧倒されたのは中村扇雀。踊りが上手で、歌舞伎の型が綺麗に収まった正統派。今まで何度も観たことがあり、うまいのは当たり前と思っていたけれど、今回初めて観る「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)」という芝居で、吃音の絵師を演じる扇雀はすごかった。しゃべりが不自由で長台詞を言う難しい役どころ、女房役の七之助相手に身振り手振りで掛け合う。
芝居の展開は複雑で、聞き逃すと筋が追えなくなり最後まで気が抜けなかったが、ようやくのことで師匠の名字を許され念願成就をした時には、観客席からも喜びの拍手がわきおこった。花道を去る扇雀のユーモラスな姿にこちらの緊張もやっと溶け、胸を撫で下ろして幕は下りた。扇雀の芸のすごさと、歌舞伎を観た!!!という高揚感が金丸座いっぱいに広がっているようだった。代々の名を継ぐ歌舞伎役者は鍛錬が違うように思う。
踊りにしても芝居にしても、台詞がないときの所作動作、全ての鍛錬がそこにある。歌舞伎も見慣れてくると、案外台詞のないときの役者の所作に目がいったりする。うまい役者が出る舞台は見終わった後の満足度が違う。若手役者の活躍に期待する一方、年齢を増した役者がいぶし銀のような重厚さを放っているのが懲りない魅力になっているのかもしれない。観劇土産は、讃岐うどんとそら豆の醤油まめ。帰ってからうどんを茹でてぶっかけにし、豆をつまみにビールを飲む。勘九郎のタップダンスや扇雀の芝居を思い出しながら歌舞伎ガイドを見るのも至福のひとときである。
平成最後の歌舞伎を見納めたあと、5月4日、天皇即位の一般参賀に参列した。新緑が映り込む窓ガラスに両陛下のお顔を拝した。雅子妃の明るい笑顔に、「よかった」とみながホッとした。陛下の「暑い中 ……感謝します。」のお言葉もはっきりと聞こえ、令和の始まりを実感した。
飛騨春慶 名工を訪ねる
撮影:TIME & STYLE MIDTOWN
宮川の河川敷に近い、飛騨春慶の塗師(ぬし)、松野洋一さんの工房を訪ねました。春慶塗りは、江戸の初期、京都出身の金森家御用塗師成田三右衛門によって発明されたといわれます。慶長11年(1606)、黄色の透き漆で仕上げた鳥籠が金森重近(宗和)に献上されます。その色合いは瀬戸焼の開祖加藤四郎左衛門の名茶壺「飛春慶」に似ていたことから「春慶」と命名されたといわれます。
春慶塗には「黄春慶」と「紅春慶」があります。まず木地をとの粉などで目止めし、黄色や紅色に着色した漆を刷り込んでは拭き取るを何回も繰り返します。下塗りがしっかりできてから、上塗りは漉き漆を1回で仕上げるそうです。
仕上げの透き漆は、失敗の許されない一発勝負です。むらの出ないよう厚みも一定に、刷毛でなでながら均等にしていきます。。松野さんは今年 77歳で、55年以上も塗師を続けているそうです。塗師だった父が 2歳くらいのときに亡くなり、学校を出てから別の親方のもとで修行しました。独立した昭和 49年から、この工房で仕事を続けています。数十 cmの人毛を使った刷毛は貴重品で、今は高価だそうです。漆を塗った後は、小さなゴミを筆で丁寧にとっていきます。この作業が大変だそうです。上塗りをした後、板の縁の漆がダレるのを防ぐため、回転式の「室(むろ)」のなかで 5時間位かけて硬化させます。今はタイマーで回転をコントロールしていますが、昔は手作業で行っていたそうです。縁が乾いたら平らな室に移し1日〜 2日位硬化させてから反対側を塗ります。塗っては硬化させを何回も繰り返します。一番忙しかった昭和 50年前後は、3人の塗師が深夜まで仕事を続け、室の中は漆器でいっぱいだったそうです。
春慶塗が難しいのは、透明感のある艶をだすこと。これが、なかなか思うようにいかないと松野さん。漆にえごま油が入っ
ているので、塗りたては油が吹き出てきます。それを拭いているうちに、独特の光沢が出て杢目が浮き出てきます。半年〜1
紹鴎好みの「水指棚」(上)など、飛騨春慶は茶道具として愛されてきました。飛騨春慶を奨励した金森重近は、大坂の陣の方針の違いをきっかけに父と不和となり、 30歳の頃、京都大徳寺で出家し「宗和」と名乗ります。公家と交友し茶人として活躍した宗和は、古田織部や小堀遠州の作風をとり入れながら、飛騨春慶を茶道具にとり入れ、陶工野々村仁清を見出すなど、道具の制作にも取り組みました。その優美な茶風は「姫宗和」と呼ばれ今に続いています。
高山市郊外。新宮町の「ライダーハウス高山」。東京で暮らしていた西本久平さんが、数年前に実家をつぎ、手軽に宿泊できるライダーハウスとして運営しています。
家の前を流れる水路。昔はここで洗い物をしたそうです。建具を春慶塗で仕上げたしっかりした造作。
夜の「一番街」は高山一の繁華街。「半弓道場」という珍しい名前にひかれ、入ってみました。
「半弓」とは、通常よりも短い弓を使い、坐った姿勢で行う伝統的な弓矢の競技でした。本格的な「ゆがけ」を手に装着し、京都出身・藤原さんの指導で弓をひきます。10射300円で、的に当たった爽快感にひかれ何度も通う地元民も多いようです。全国でも珍しい半弓店を残していきたいという藤原さん。
「半弓道場」の向かいにある串焼「かっぱ」は、もつ焼き屋からスタート。天井の高い伝統建築の店舗を50年ほど前に建てたそうです。山菜のてんぷら、漬物ステーキ、味噌、油揚、漬物のシンプルな朴葉焼きなど。かっぱという店名は、初代ご主人が、かっぱと呼ばれるほど渓流釣りを愛したことから来ているそうです。
前回の続き。ピタゴラス(前 569〜前 470頃)の菜食主義が西欧社会で広く知られるようになるきっかけは、なんといっても、古代ローマの詩人オウィディウス(前〜後)の著『変身物語』(中村善也訳・岩波文庫・上下2巻)だろう。そこでは菜食主義をはじめとして、ピタゴラス派の主張が力強い「詩」の形で見事に紹介されている。「人間たちよ、忌まわしい食べ物によって自分のからだを汚すようなことは、しないことだ! 穀類というものがあり、枝もたわわな果実がある。葡萄(ぶどう)の樹に
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は、はちきれそうな葡萄もなっている。生でうまい草木もあれば、火を通すことで柔らかくなる野菜もあるのだ。乳もあれば、麝香草(じゃこうそう)の花の香にみちた蜂蜜にも、こと欠きはしない。大地は、惜しげもなく、その富と快適な食料とを供給し、血なまぐさい殺戮(さつりく)によらない食べ物を与えてくれる。(中略)たとえば、馬や羊や牛は草を喰って生きている。(中略)ああ、どれほどの罪であろう! 臓腑の中に臓腑をおさめ、肉を詰め込むことで貪欲な肉をふとらせるとは!(中略)他の生命を滅ぼすことなしには、飽くなき貪婪(どんらん)な口腹の欲を鎮(し
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ず)める事ができないというのか? ……」ヴェジタリアンではないけれど、今から二千年も昔の異国の詩人の 18言葉が、ストレートに胸の奥まで響いてくる。引用箇所から先には、 21生きものへの愛情を表す言葉が続き、ピタゴラスという男が、広く大きな心で世界を見つめていたことがわかる。だから、その思いに、そしてその言葉に惹かれる人々が、彼の周囲に集まるようになってきたに違いない。こうしてピタゴラス派(教団)が誕生する。
ピタゴラスは若い頃、幅広く中東オリエントを旅して、各地の古代思想を知る機会があり、その影響が思想の随所に見え隠れしている、と言われる。ただし、ピタゴラス本人が書いたと確証のある文書は、何ひとつ残されていない。加えて教団には密教的な性格があって、その詳細は今も謎が多い。我々が知るピタゴラス主義の考え方は、弟子、同時代人の評価、後世の研究者や信奉者の解釈等々が積み重ねられた結果出来上がったものなのだ。そしてそれは、ルネサンス期以降、何度かブームと呼べる時を迎えている。「令和の発表と同時に万葉集!」に象徴されるように、古典は、その時代背景に応じて、多くの人の心を惹きつけるブームを迎えることがある。ピタゴラスの哲学については、世紀フランスの、太陽王ルイ世の宮廷(ヴェルサイユ)で重んじられたことの影響が見過ごせない。というのも、ヴェルサイユは、全欧州の宮廷が憧れを持って模倣したお手本的存在だったのだから。そして世紀に入って、菜食主義の高まりと共に、特にアメリカでその思
想が新たな感心を集め始めていることが注目される。
では、教団の主な主張はどのようなものだったのか。最も有名なのが、数学の定理と音楽理論。これらは共に、宇宙の原理を探る思想と関係が深く、人間と宇宙の根源を極めたいという思いが強かったことがわかる。衛星探査機「はやぶさ」やブラックホール探求に代表される現代の宇宙科学志向と一脈通ずる。一方、人間(生きものすべて)の運命については、不滅の霊魂が衣を変えて生まれ変わり続ける、という輪廻説(りんねせつ)に立つ。来世は犬か、猫か、それとも再び人間か。となれば、動物の肉を食べることは、できない。同じ流れから、人は菜食主義に代表される禁欲的な訓戒に従う日常を送ることで、心と体の浄化をすべし、と説く。ストイックに生きよう、ということで、これは現代最先端のミニマリズム的生き方に通じる。このように教団の哲学には、現代の我々を惹きつける要素が少なからず含まれている。
ところで、ピタゴラス教団の教えには、食をめぐって、奇妙な戒律があった。「豆を食べてはならない」さらには「豆の畑に立ち入ってはならない」とまで定めていたという。ここでの「豆」とは「ファヴァ豆=そら豆類」を指すと考えていい。当時この地域では、レンズ豆と並んで重要な豆作物で、今も昔も貴重な植物蛋白源だ。なのに「そら豆を食べてはならない!」とは。もちろん理由がある。その解釈は諸説錯綜しているが、
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次の説明が通説となりつつある。
南欧人種の中には「そら豆アレルギー」の人々が少なからずいる。豆畑に入っただけで反応する人もいるほどで、知らずにこれを食べれば、場合によっては、死に至る。ピタゴラスは血筋として、そら豆アレルギーの持ち主で、そら豆で命の危険を覚えるような体験をしたに違いない。だから、これを禁忌としたのだと。宗教的な集団には、様々な食をめぐる戒律(禁忌)があることが珍しくない。しかし、「豆を食べるな」という戒律は、他にあまり例がないのではないか。
私はそら豆が大好きなうえ、肉も食べるから、ピタゴラス派には入門できない。だが「禁欲的に生きることで、心の平安を得ることができる。自己を内省し、生命の根源に思いを致せ ……」という主張には、大いに心惹かれる。
ピタゴラスの名が知られ始めるのは、前 530年頃から、というから、歳前後のことになる。古代ギリシアの植民都市クロトン(現南イタリア)で、自身の哲学を説く私塾を開設、その教えに共鳴する人々が集まり始める。当時、イタリア長靴半島の最南端は、マグナ・グラエキアと呼ばれ、ギリシアの植民都市が点在し、海上交易路の中継地点として大いに栄えていた。その豊かさの中で、禁欲的な生き方を求める思想が共感をもって迎えられた。ここに現代の最先端との共通点がある。世界を理解する基本に数学を置き、同じ発想で音楽をとらえ、人と命の根源を探る過程で、その輪廻とめぐりあい、生きものの命を奪わずに生きる道を探る。モノと情報の海に溺れずに我々が生きる道を、ピタゴラスは二千年前に見抜いていたのではないだろうか。
木地の美
▲鍛冶屋で作った道具を使い杢目を「目ざらい」していきます。
飛騨春慶には挽物(椀、鉢)、板物(重箱、棚)、曲物などがあり、三橋さんは曲物を手がけます。材料は主にサワラの板を使い、ナタで割った板に見立てた「へぎ目」という溝を小刀や自作の道具で彫っていきます。この技法は明治の頃に材料を節約するために編み出されたそうですが、味わい深い杢目が浮かび上がります。
▲板にしたサワラ材を、よく乾燥させておきます。
▲曲げた板を挟んで固定し、1〜2日吊るして乾かします。
板を曲げるには、コロと呼ばれる道具を使います。湯につけたサワラの板を2〜3時間煮て柔らかくしてから、コロに挟み回しながら曲げます。つなぎ目が綺麗に重なるよう、つなぎ目は互いに薄く削っておきます。
つなぎ目は桜カンバの皮を綺麗にへいだもので縫って固定します。これは奥様が作っているそうです。容器の内側に縫い目を見せたくない場合は、板を2重にすることで隠します。
▲皇室に献上した湯桶(水筒)の写し。湯桶や酒器の注ぎ口は、木の塊から削り出すため加工が難しいそうです。
材料のサワラやヒノキは、三橋さん自らが入札して良質の丸太をストックしています。製材所で厚さ数cmほどの板に挽き、5年ほど立てて
おくと、水が下がっていい板材がとれるそうです。
80歳になる三橋智雄さんは、父・銀太郎さんと共に、15歳からこの工房で働きながら、仕事を覚えたそうです。下は女優高峰三枝子さんの依頼で作ったお弁当箱。
ドラゴンシリーズ 57
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ベンジャミン・フランクリンの戒律
第第
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節約 沈黙
飽くほど食うなかれ、酔うまでのむなかれ。
なかれ。第3 規律 を定めてなすべし。
自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄する物はすべて所を定めて置くべし。仕事は全て時
……からはじまる、ベンジャミン・フランクリンの戒律
条はフランクリンが自分のために決めた戒律です(岩波文庫の『フランクリン自伝』より)。
常に振り返れば、全ては浅はかな考えからだった。浅はかでなければ生きてこれなかったし、浅はかでなければ今の自分は存在しない。動機は単純なのだ。美しいものとは何か。それが僕の心の深いところにある純粋な欲求なのだろうと感じている。
美しいものの存在を音楽の中に感じることができる。純粋
に音楽の美しさはメロディや技能や経験だけでは無く、音楽の中に存在する美しい瞬間が私達の心に直接響く。耳を通してではなくて直接的に心に届く。それが美しいと僕は感じている。そこにはルールは存在しない。全ての音楽にはそれぞれに違った瞬間の美しさがあり、それを決めるのは誰でもない。美術や音楽の美しさの裏側には常に深い苦悩が存在している。
本当に美しいものを生み出す為にはそれだけ人間として深い苦しみや悩みを経験してきた者しか得ることができない凝縮した時間の結晶が美しい音楽となり。美しい絵画となり。美しい彫刻となっているのではないだろうか。
僕の感じる美しさとは見た目の美しさではない。それは一つの音であり、また、筆跡の放つ苦悩の後であったり、彫刻の持つ肌であったり、その言葉では言い表せない美しさの
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存在を感じる時、その中には、美しさと相反する苦しみや貧困が存在し、その美しさを求めた欲求の中で生まれた苦悩や凝縮した時間が美しさを支えるものとなっている。
どのようにして、美しいものを生み出すことに向かうことができるのだろう。浅はかな考えの僕は、単純に美しいものを見たり聴いたり推測したりすることが好きなのだ。今もそうだけれど、自分にはそのようなものを生み出す資質はないと思っている。それを見たり聴いたりして、その美しさの中に浸り、同調することはできると思う。
それは理屈ではなく自分が小さな頃から見て経験してきた自然風景のようなものであって、動物や植物や山々や森、海などとの関係の中から感じ取ってきた感覚であり、それもまた自然の厳しさの中に育つ木々や山々や海の荒々しさや怖さとは相反する大きな優しさのような感覚と同じ。また、人間としての弱さと向き合ってきたその葛藤の痕跡が美しさの一部にもなっているのだろうと感じる。
北欧で夜中に空を見上げた時、これまでに見たことのないほどの星の夜空に出会うことがあった。それは言葉にはならない圧倒的に美しく。音楽のように。絵のように。自然のように。無限に広がりどこまでも永遠の夜空は私達の中にある心の永遠と同じもののように感じた。
宇宙の広がりの永遠を私達は自分の心の中に持っている。それは何と美しいことだろうか。心の中の想像は宇宙のように永遠であり、その壮大で無限の力は、私達の心の中でどこまでも広がってゆく。音楽も永遠であり、絵画も、彫刻も永遠であるように人間の心も永遠のように広大でありたい。散歩している道端に生えている草も永遠に美しい存在であり、その辺に転がっている石ころも永遠のものだ。私達の命に限りはあるが、魂や心の痕跡はこのように形にして残すことができる。これも永遠で広大なものであり、私達が生きていることだ。迷い、苦しみ、貧しく、悩み、痛み、.いて、生きて、死にたい。
宮川沿いの片原町保存地域にある「喫茶店 茶楽」は、高山マダムたちのサロンになっています。
和ろうそく、絵ろうそく、ろうそく立てを販売する藤田鉄工工芸店。ろうそく立てはオリジナルのデザインで、隣接する鉄工所で制作しています。壁に掛けられるタイプ、回転する兼用タイプなど色々。安全のため、サイズに合ったろうそく立てを使ってほしいとのこと。
長い塀に囲まれた「高山陣屋」は、幕府直轄となった高山の歴史を伝えます。元禄5年(1692)、100年にわたり飛騨をおさめた金森氏が出羽国へ転封になり、幕府は飛騨を「直轄領」として、金森氏の下屋敷を高山陣屋としました。
▼徳川家が好んだ、永遠を表す青海波の屏風。
全国にあった幕府直轄の役所のなかで唯一現存する「高山陣屋」。昭和 4年に国史跡となり、平成 8年まで 3回にわたる復元処理が行われました。武家屋敷を体感できる観光スポットとして人気で、海外の方も団体で訪れています。
金森氏が転封されたのは、元禄 5年(1692)6代藩主・金森頼時のとき。当時の将軍は徳川綱吉で、幕府の基盤をより堅固にするため130回もの大名転封を行っています。飛騨国の場合は、豊富な森林資源や鉱山(金、銀、銅、鉛)を幕府のものにしたかったと考えられ、また百万石の加賀藩を抑え込む目的もあったようです。幕府の陣屋は、行政、財政、治安維持などの業務を100人ほどの役人が担い、明治にいたるまでの177年間に 25代の代官(郡代)が派遣されました。正面玄関から入れるのは代官や幕府の使者だけで、地役人は脇の玄関から出入りしました。
代官所の仕事は忙しく、最も大切な年貢の取り立てから、森林、鉱山、特産品の管理、河川、街道整備、街の警護、罪人の吟味までを担い、西日のあたる部屋でなるべく遅くまで仕事をしました。そんななか 7代目・長谷川代官は、飛騨の歴史風土を丹念に調べた「飛州志」を編纂。当時を知るために欠かせない資料となっています。日本三大曳山祭のひとつ高山祭が盛んになったのも陣屋が置かれた頃からで、代官たちが人心の掌握に配慮したことがうかがえます。当時、江戸から飛騨までは 13日ほどかかり、代官の家族と側近あわせ中山道を数十人で移動する厳しい旅でした。陣屋が置かれたことで江戸〜飛騨間の街道が整備されると、江戸風の文化が飛騨に伝わり、文物の交流も盛んになります。陣屋奥の役宅で代官一家が暮らし、金森氏時代からの地元の武士(地役人)が部下として働きました。江戸中期に貨幣経済が発達すると、陣屋は敷地の 3分の 2を売って 3300坪に縮小。役所の運営に当てました。元々陣屋のまわりは田畑の多い街の外れでしたが、陣屋の仕事を請け負う大工や諸職、味噌・醤油の職人町が形成され、現在のメインストリート「本町通り」に発展しました。▲高山城から移築された御蔵。江戸時代の蔵としては最大級。
代官というと領民を苦しめるイメージがありますが、実際は謙虚で領民を大切にするよう求められる一方、年貢や材木、金、銀を幕府から厳しく要求される辛い立場にありました。12代大原代官は、幕府から年貢の増収を求められますが、農民の反発にあい米蔵の襲撃が頻発。団結した農民 3千人ほどが陣屋前に集結し窮状を訴えますが追い返されます。ついに水無神社に1万人の農民が集まると、武力に訴え火縄銃で鎮圧。農民 250人以上をとらえ陣屋のお白州で厳しい吟味を重ね、獄門や磔、死罪、島流しといった厳しい罪を与えました。これによって代官所は郡代所に昇格します。かつて農民が集まった陣屋前広場には早朝〜正午頃まで陣屋前朝市がでます。飛騨というと味噌、醤油、糀、日本酒など発酵食品が盛んで、その風味には独特のものがあります。自家製の「玉味噌」は冬の間に吊るして乾燥させた味噌玉を樽に仕込んだものです。
▲陣屋前のみたらし団子は、さっぱりとした醤油味。
ひだねぎなど、飛騨固有の野菜やキノコ、豆類、漬物、米、餅、生花などが揃い、地元の方もよく利用しているようです。
農民の弾圧から 40年ほど経った文化 12年(1815)、18代 芝郡代のときになると、森林や鉱山資源は枯渇し、老朽化した建物は荒れ放題で、陣屋は近寄りがたい存在になっていました。そこで芝郡代は陣屋内で祭りをひらき一般に開放。再興への理解を求めると旦那衆から 380両を超える寄進をえて建て替えを実現しました。これが今に残る陣屋です。明治維新になると高山県庁が置かれ、以来、200年にわたり活用されてきました。金森氏転封や農民の弾圧、贅沢禁止令など厳しい姿勢でのぞむ一方、高山祭の絢爛豪華な屋台には目をつぶり、飛騨春慶や一位一刀彫、小糸焼、渋草焼など工芸を推奨しました。参考文献:高山市民時報「もっと知りたい高山陣屋 飛騨代官物語」古田眞砂子著
▼民の声を聴くという意味をこめた「真向兎」の釘隠し。
ヨーコの旅日記第18信 函館 弘前 素敵な人たち川津陽子メッセフランクフルトジャパン
函館・弘前
大型連休の数日間、北の地を訪ねた。例年、ゴールデンウィークと言えば地元で過ごす派であったが、10連休ともなるとどこか遠くへ行かなくてはと、半ば焦る思いで一カ月程前に慌ててプランを立て始めた。今回は函館・青森・弘前の三都市を巡る旅である。北海道新幹線で一気に東京から新函館北斗駅に向かい、函館に二日間、そして青函フェリーで青森に下り、青森・弘前に二日間滞在という旅である。初めて訪れる地とあって、どちらの街でもいわゆるザ・観光地を巡ることとなり、どこへ行っても人で溢れていたが、それもまたゴールデンウィークらしい。東京を早朝に出て、北海道新幹線で北上していく。全長
▲ 五稜郭タワー。満開の桜、こいのぼり。 ▲ 函館、八幡坂からの眺め。 ▲ 函館ハリストス正教会。
53.85kmにも及ぶ青函トンネルを抜けると、そこは北海 声のトーン、衣服の着こなしなど、その女性から醸し出さ
道の大地。あっという間だった。 れる雰囲気と、ギャラリーの雰囲気とが見事にマッチして
函館に到着し、最初に目指すは元町。やはり港町には憧れ いて、とても心地良い美しい空間であった。カップルが店
がある。カトリック元町教会に向かう道の途中で、ふと足 を出るや否や、話しかけてみる。オーナーであるその女性は、
が止まる。白壁に空色の窓枠が特徴的な佇まい。とても 東京の方で、函館の街に魅せられ、ようやくこの歳になって、
気になる。窓の向こうに気品を漂わせた小母様の姿が見え 今ここで好きなことをしているんですよ、と話してくださった。
る。引き寄せられるかのように中に入ってみると、そこは小 作品は千葉の工房で制作されるのだそう。そして、この
さなガラス工房のギャラリーショップ。シンプルでお洒落に ギャラリーの窓際にある、これまた味のある一枚板のテ
リノベされた空間に、決して沢山ではなく、ちょうどよい感 ーブルで、女性がそれらの作品に丁寧に絵を書いていく
じに作品の数々が並んでいた。窓際にはガラス作品が吊る のである。絵柄は白樺の木、煙突、星、窓など、童話
されており、陽を受けてキラキラと光る。その女性はちょう の世界のようなタッチでとても優しい。一目惚れしたガラ
ど旅行中と思われるカップルの対応中であった。振る舞い、 スの教会の置物を購入。いくらでも眺めていたい気持ち
に駆られたが、到着したばかりの函館。まだまだ予定し
ていた訪問先があったため、後ろ髪を引かれる気持ちで
店を出る。オーナーは外まで出てきて、丁寧に手入れが
行き届いた花壇に植えられた草花に触れながら我々を見
送ってくれた。「ここはとても良いところですよ。」ここで生
まれ育ったのではなく、この地の魅力に導かれてここで生
きている人の言葉だからこそ、きっと本当にそうなのだろ
うと感じた。ほんの少し立ち寄ったに過ぎないが、静か
でゆっくりとした豊かな時間だった。
函館滞在の後、青函フェリーで青森へ。弘前での夜のこと。
弘前公園を散策した後、以前から気になっていた津軽の郷
土料理が食べられるというお店へ向かう。事前に電話して
みたが予約は受け付けておらず、ま〜、来てみて、というノ
リだったので、一か八か、立ち寄ってみる。暖簾の向こうの
ドアを開けると、既にカウンター席にもテーブル席にもお客
さんが入っていたが、女将さんとアルバイトと思われる女性
たちとの暫しの相談の後、無事カウンター席に通される。
この女将さんが、まさに「おっ母さん」のイメージがしっくりくるような感じの女性であった。あまりの威勢の良さに最初はやや戸惑いもあったが、「どこから来たの?北?南? 」と聞くから、はて東京は北か?南か?と一瞬迷い、「東です……」と応えると、ポカンとした顔から、「よーく、
▲ 「ねぶたの家ワ・ラッセ」。躍動を感じる。 ▲ 奈良美智「あおもり犬」。 ▲ 弘前城の桜と花筏。
こんな店を見つけてやってきたねー。」と笑った。このお店は、京都のおばんざいのように、さまざまな総菜がカウンターに並ぶ。黒板に書かれたメニューから普通に注文もできるが、数々のおばんざいの中から「これ頂戴」と選ぶのが楽しい。最初にざっとおばんざいの内容を説明してくれたが、店が混み合って来ると、何かと細かく質問してくるお客さんに、「悪いけど一つずつ詳しく説明できないからね」とはっきりと切り返す。これに怯む人もいるかもしれないが、決して嫌味な感じはなく、まるで親戚の叔母さんと対話しているようである。その後も、注文が立て込むと女将さんの口数は減り、時折、アルバイトの女性たちに何やら指示を出しているのだが、津軽弁が飛び交い理解が出来ない。静観していると、「何言ってっかわからないっしょ?これが本場の津軽弁だよ」と笑う。さまざまな郷土料理を色々いただいたが、特に締めの若生(わかおい)おにぎりに感動を覚えた。五稜郭と弘前公園での満開の桜、長蛇の列に思わず並んだラッキーピエロ、一度は見てみたかった「あおもり犬」、奥入瀬渓流のマイナスイオン。いろんな場所に行ったが、ふと思い出すのは、魅力的なパワー溢れる二人の女性たち。ローカルの人たちとの交流は、旅の思い出をより印象深いものにしてくれる。
高山陣屋の近く本町通り、天保14年(1843)から180年近く続く「一位一刀彫」津田彫刻。津田亮友(すけとも)さん、亮佳(すけよし)さん兄弟が店頭での制作と販売を手がけています。
幕末の頃、文箱や棚など箱物・板物で知られた名工松田亮長(すけなが)が、旅先で見た奈良の一刀彫に刺激をうけ、根付を彫り始めたのが一位一刀彫のルーツといわれます。彩色を施さず、一位(イチイ)の木の色、質感を生かすのが特色です。
この日、彫っていたのは、6月に開かれる飛騨高山ウルトラマラソン(距離100km)参加者への記念品でした。市からの依頼で、飛騨一位一刀彫協同組合の皆で作っているそうです。同じ猪のモチーフでも、つくり手によって色々な顔になるのが面白いところ。30〜40本のノミを使い分けるそうです。
津田亮友さんによる伊勢海老。店舗で他の作家の作品を扱うこともあり、あまり彫られてこなかったモチーフを彫りたいそうです。イチイはオンコ、クネニとも呼ばれ、古くから彫刻に使われてきました。目が細かく柔らかい一方、パキンと折れやすい性質もあり、木の目を読みながら作る必要があります。海老のヒゲは木目が通る方向に彫り、折れるのを防いでいます。新しいものを作のは、一番面白いけれど、一番むずかしいと亮友さん。
▼ 津田兄弟の高祖父
3代目 亮貞(すけさだ)のカエル。カエルは亮長も得意とした代表的なモチーフです。
初代松田亮長(すけなが)の「あくびだるま」は、今も彫り続けられているモチーフです。同年代の葛飾北斎「北斎漫画」からヒントを得たのかもと亮友さん。旅が好きだった亮長は、23歳の頃に2カ月ほどかけて名古屋、伊勢、奈良、四国、大坂、京都をまわっています。その時、奈良の一刀彫(ヒノキ)を見て、一位一刀彫を考案したと考えられています。亮長は天保の大飢饉(1833〜)の頃、仕事をもとめ江戸に出た時期もあるようです。
白・赤のコントラストを活かした彫刻は、今も作られています。
亮長のアイデアは、イチイの白太と赤太の色の違いを造形に生かすことでした。上は津田兄弟の父・津田亮定の作品で、おかめの頬を白太にしたデザイン。40年以上拭き続けたことで、飴色の光沢が出ています。イチイの木は生長が遅く、樹齢100年以上の材を使います。中心は割れてしまうため彫刻には使えず、樹齢数百年の木でないと大きな塊はとれません。現在は主に、杢目の細かな北海道産イチイが使われています。
先代、津田亮定の作品は、緻密でありながら、ほっこりした温かみを感じます。代々の彫師が知恵を絞ってきた根付には、「銭がカエル」、「ネズミ算式に金が増える」といった洒落っ気が込められています。江戸時代から続く町民文化が一位一刀彫を育てたのです。根付を入れる桐箱は、大屋桐材店のもの。
▲ かつては朝廷に献上されていたイチイ製の「笏」。
イチイの木が名付けられたのは、平治元年(1159)二条天皇の時代といわれます。高山近郊の位山(くらいやま)で採れたイチイの笏(しゃく)を朝廷に献上したところ、優れた材と評価され、位階正一位にちなんで「一位」の名を付けられたそうです(それ以前はアララギ)。カナダやイスラエルの方が訪れ、フクロウやダルマを購入していました。亮佳さんは、高山にも作品を残している円空仏を彫っています。
弟の亮佳さんは、兄の隣で一刀彫を彫ってきました。高山でも兄弟のペアは他にはないそうです。先代の父は陽気な人で、仕事は細かく注意されましたが、見て覚えろという感じで手とり足取りはなかった。道具は兄弟別々で、何十本の中から手が自然に刃を選んで彫っていくそうです。難しいのは、イノシシならイノシシの形になっているか見極めること。一人前になるまでは一生かかる仕事と感じるそうです。
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