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Healing from
Latvia/Estonia
ラトビラ /エストニア 夏至祭の夜に謡い踊る
時空を超える美意識
8月号 踊 2019 http://collaj.jp/
前号のフィンランド編に続き、バルト海沿岸の田園地帯をめぐります。今回はラトビア、エストニアの旅。フィンランドのヘルシンキ空港から1時間ほどで、ラトビアの首都リガへ。飛行機の窓からリガの玄関口、かつて「ヨーロッパへの窓」といわれたダウガワ川の大きな河口が見えました。
夏至祭の夜にフィンランド、ラトビア、エストニア田園地方の魅力を日本に広く知ってもらおうと企画されたCAITO主催のプレスツアー。前号のフィンランド編につづき、今月はラトビア/エストニアの旅をお届けまします。帝政ロシア期は、モスクワ、サンクトペテルブルクに次ぐ第3の都といわれ、ロシアから流れる
Latviaダウガワ川を中心に発展した古都リガは、約800年の間、様々な国の支配を受けました。もともとは1200年頃、ブレーメン(ドイツ)の司教アルベルトが要塞を築き、十字軍の流れをくむリヴォニア帯剣騎士団を組織して、ドイツ人のバルト地域支配の拠点としました。
13世紀末にリガはハンザ同盟に加盟し、世界遺産となる中世ドイツ風の旧市街がダウガワ川を望む岸辺に形成されました。そのほか19世紀末、帝政ロシア時代に建てられたユーゲントシュティール様式の建物群は世界最大規模といわれています。ひときわ目立つタワーは、ダウガワ川の中洲に立つリガのテレビ塔。高さ368mで、展望室へは脚の中に設けられた傾斜エレベーターで上がれます。
バスに乗ってダウガワ川をさかのぼり東へ。約1時間40分ほどで、 Skr.veri(スクリーヴェリ)の街につきました。
ラトビアの自然を凝縮したアイス〈 Skr.veri Homemade ice-cream〉
アイスクリーム好きで知られるラトビアの人々。 Skr.veri Homemade ice-cream(スクリーヴェリ手作りアイスクリーム)は、天然100%の安心安全なアイスクリームを家族で作っています。
Lelde Sotnieceさんが、お店を案内してくれました。できるかぎり地元の新鮮な食材を使い、添加物は一切加えずにラトビアの味を凝縮したアイスクリームを提供しています。作りたてを提供するため、お店の厨房で全てのアイスを家族で作っているそうです。人気は「凝乳」を使ったイチゴアイス。イチゴなどを収穫するときは近所の人も協力します。12年ほど前、Leldeさんの母の発案でアイスクリーム工房がスタートします。100種以上開発したレシピから20種ほどが定番に。8割はラトビアのベリー類を使っています。ラトビアの名産品を封じ込めた色とりどりのアイスから、大自然の醍醐味を感じます。6種類のアイスを盛り合わせた人気のセットを作って頂きました。デザートとしてだけでなく、コース料理のように楽しめるアイスを目指しています。
▲ アイスの原料となるケフィアにビールを掛けたデザート。
上から時計まわりに、黄色いアイスは卵白ゼフィア+かぼちゃ+マルメロ。茶色はラムレーズン。ビンクはルバーブ。紅白は凝乳+木苺。白いバターミルクアイスはダイエットに最適。中央の黒いアイスは、自家製の炭を入れたもの。
ラトビアの人々は、樹木と共に生きる民族とも言われます。農家では、男の子が生まれると柏の木、女の子が生まれると冬菩提樹の木を庭先に植え、一生を共にする守り神の依代とします。
父ブリューゲルの作品『農民の結婚披露宴』(1567年頃)、本誌の読者なら、一度はどこかで見たことがあるはず。この絵を最初に購入したのは、アントワープの造幣局長であった、ジャン・ノワレ(仏語風読み)で、彼の家のダイニングを飾る一枚であったという。ジャンは父ブリューゲルの絵の大ファンで、そのダイニングには他に、これまた有名な『雪中の狩人』、そしてもう一枚の『農民の結婚披露宴』(野外での群舞シーン)など、全部で4枚の作品が飾られていたという。我々がウィーンの美術館で崇めるように眺める父ブリューゲルの「世界的な名画」は、元をたどれば、食卓の雰囲気を盛り上げる背景画として、当時欧州で最も豊かな都市のひとつであったアントワープのトップクラスの市民の家を飾っていた、ということになる。
近世初期、欧州の造幣局は、金融業者はもちろん金匠(主体は銀職人)の世界と関係が深く、また同時にその長は、商工会議所(諸ギルドの連合体)を仕切る面々とも密接な関係の中で日々の仕事を行う立場だった。例えばロンドンの場合だと、造幣局が送り出す金銀貨幣については、毎年一度必ず、その品質(純度等)を第三者
機関が検査する、という伝統が今も続く。その検査を行うのがどのような機関かといえば、銀職人が主体の金匠ギルドの親方で構成される、アセイ・オフィス(金銀検質所)だ。本来、自分たちの業界(銀職人)が送り出す製品が、自主基準に合致しているかどうかを厳しく検査して、認証刻印(ホールマーク)を打刻する機関であって、要は、民間の業界の検査機関である。それが、「公」(おおやけ)の機関である造幣局が送り出す金貨や銀貨の品質を検査してきた。興味深いのは、完全に儀礼化してはいるものの、現在でもこの年に一回の検査が続けられているという点だ。民が官(公)をチェックする。ギルド(同業者組合)の権力の凄みを示す、象徴的な一例だと言っていい。
話が横に逸れたが、このアントワープの造幣局長ノワレさん。これがまた、その職掌に似合わず放埒な一大浪費家で、愛人にものめり込むというタイプ。如何に金満上流市民とはいえ、町人の分際で分不相応な贅沢限りなく、挙句の果てに1572年8月、破産する。この人が破産してくれたおかげで、いいことがひとつあった。それは、その詳細な財産目録が残されたこと。破産の結果、すべての動産・不動産の目録が作成され、これを競売に掛けることによって負債を弁済するに至る。その目録を詳細に分析すると、実に興味深い、様々な事実が浮かび上がってくる。その目録に、父ブリューゲルの『農民の結婚披露宴』2枚と『冬の狩人』が含まれていたのだ。こうした地道な研究を積み重ねる研究者たちの論文を読み解くことで、ブリューゲルの絵の背後に広がる当時のフランドル上級市民層の暮らしの一端が見えてくる。私は、当時のフランドルの上級市民層の食文化を知りたくて、あれこれ調べているうちに、ノワレ造幣局長の破産という史実に遭遇した。そのおかげで、誰もが知る父ブリューゲルの超著名な諸作品が、実は造幣局長の私邸のダイニングルームを飾っていた「連作」であると知って、非常に驚いた。
ちょっと想像してみて頂きたい。ふだんは6人程度、ぎゅう詰めにして
座れば目一杯という小ぶりのダイニング。その四方の壁に、あの有名なブリューゲルの農村の四季を描いた連作が掛けられている。当時はフランドルでもイングランドでもフランスでも、貴族階級と上流市民の間では、大きなダイニングホールでの大宴席の後、人数を絞って小さな「二次会」を催す形式が流行し始めてい
た。イングランド貴族の場合には、広大な庭園の一角に、わざわざそのための小さなあずま屋的な建物を立てて、そこで庭を眺めながら、少人数でお酒を片手に親密な会話を楽しんだ。これが若き男女であれば、ほろ酔い二人は手に手をとってあずま屋をあとにし、庭のしげみへと姿を消すことになる。フランドルでは、新たに登場したユマニスト(人文学者)たちがこうした上層市民のサロン的な宴席に招かれて、大いに談論
風発した。文章ではなく会話によって学識が深められていくという場所。欧州サロン文化の原点と言っていいかもしれない。その小さなダイニングを飾る絵画として選ばれたのが、父ブリューゲルが描く農民世界の絵画であったのだ。破産財産目録には、多数のクリスタルのグラス類と、金メッキをほどこした銀製の水差し(おそらくは食卓での手洗い用)も記入されている。上流貴族でもないのに、食卓で手洗い用の水差しを使うなど、贅沢誠に不届き至極。よって遠島申し付ける!と言われてもおかしくないほどの贅沢だといっていい。見方を変えれば、それだけ贅沢で文化度の高い宴席を催すことのできる豊かな財力と文化力を、上級市民層が獲得し始めていた証拠、ということになる。
食文化探求から始まって、ブリューゲル、さらには、フランドル上層市民の暮らしぶりへと導かれていく。自身が予期せぬ展開で、新たな世界と出会う。それを調べていくと、更に、新たな扉が開いて、私を導いてくれる。その面白さの一端を、早稲田大学オープンカレッジの講座でこの秋もまた、お話させて頂きます。毎回百枚前後の画像を映し出しながら、西欧食文化の歴史背景をお話致します。
12
人も
歴史を秘めた領主の館を体験〈 Odziena manor 〉
ラトビアの首都リガから東へ約100kmのOdziena manor(ウアヅィエナ領主館)。500年以上続く荘園が、宿泊施設や結婚式場などに活用されています。館のエヴィタさんによると、この領主館は19世紀中頃、ルドルフ・フォン・ブリンメルによって建てられたネオゴシック建築で、ドイツのキッテンドルフ城との類似性が指摘されています。ルドルフは良い領主として領民に慕われ、冬菩提樹の庭園では領主家族と農民が一緒になって舞踏会を愉しんだそうです。
最盛期の荘園には約300の建物があり、今も領主館、庭師の家、穀物倉庫、旅籠、鍛冶屋の家、醸造所など10軒ほどが現存しています。ラトビアにはかつて1300軒以上のマナーハウスがあったといわれ、広大な領地では農作物のほか家畜、乳製品、蒸留酒・ビール、革製品、手工芸品などが生産され、地方経済の拠点として機能しました。一方、領地の農民たちは、農奴として自由な移動を許されない時代もありました。
ボートに乗って5分ほどでレストランに着きます。
カルガモ親子が暮らす泉など、豊かな自然に囲まれています。
領主ルドルフの跡をついだ息子ミハエルは暴君として知られ、農民の反発をかいました。1905年、危険を感じたミハエルは、絵画、家具、宝飾をリガに避難させましたが、その1週間後、ロシア第一革命の混乱に乗じた農民たちが館を襲撃。全ての窓を割って館に火を放ちました。使用人たちには事前に襲撃を知らせ、逃していたそうです。ラトビアは700年以上にわたり、ポーランド、スウェーデン、ロシアと支配者を変えながらも、バルト・ドイツ人と呼ばれるドイツ系住民の貴族階級に、農業、工業、商業、政治、教育を支配されてきました、
ショップとして利用されている鍛冶屋の家。向かいには景観に合わせたバス停があります。
1920年からの農地改革により領主の土地は農民たちに開放されますが、ソ連の統制下で国有化されていきます。領主館の一部は、コルホーズの映画館や公民館として使われました。
ウアヅィエナ領主館は、現在の新しいオーナーによって修復され、2015年から結婚式などのイベントに使われています。今回は若いシェフたちが、ラトビアを知るための特別な料理を作ってくれました。アペタイザー(前菜)のテーマは「庭のビーバーの旅」。木の樹皮にビーバーのしっぽ(本物)を載せ、トルティーヤを置きました。黄色はナマズ、赤は鶏肉とベーコンです。
夕食を共にしながら、ガイド・通訳のウギス・ナステビッチさんが、ソ連時代の話をしてくれました。ラトビアは第二次大戦以降、ソ連に支配されていました。独立回復を果たしたのは1991年。その4年前に生まれたウギスさんは、肉屋におつかいに行ったことを覚えているそうです。長蛇の列で順番が来た時には何も残っていませんでしたが、KGBの手帳を示した人物は奥の部屋に通され、贅沢な肉をもって出てきます。KGBの虚偽の密告により、数十万人が処刑されたり収容所に連行され突然消えていく。こうした環境に鍛えられたラトビア人には、苦難を乗り超える力がある。ソ連時代を経験し自由の価値を知ることができた、とウギスさん。ラトビア文化アカデミー大学院では、院生に日本語の指導もされています。上)バルト海のバイクパーチ(スズキ目)、ナマズのフィレ、ナマズの皮を焼いたもの、リンゴとマスタードクリームで。中)可憐な花を散らした一皿。人参や馬鈴薯をクリームに載せ、ライ麦の下には豚の皮を敷いた。左)採石場の清らかな池で養殖されたマスを、赤えんどう豆クリームに載せて麦芽バターソースで。
領主館周辺には、様々な年代の建物が残されています。
自然をテーマにしたロッシュボボア新作「 N A T I V」
UNDERLINEソファは、ヴィンテージ風のヌバック革で張られ、U字型の肘のラインが特徴。フランスのサヴォアフェール(職人技)を生かしています。エルサレム出身のラファエル・ナヴォさんは、アイントホーフェン・デザイン・アカデミー(オランダ)を卒業後パリを拠点に活動し、デビット・リンチさん達とともに会員制クラブSilencioをデザイン。2018年にはサンジェルマン大通りロッシュボボアショールームのリニューアルを手掛けました。
搾りたての牛乳をチーズに〈 Vecsilj..i farm / Ievas siers〉
ヴェツスィルヤーニ農場は、2010年から「イエア・チーズ」ブランドを立ち上げ、ハードチーズの生産を開始しました。オーナーのユリスさんがチーズの製造工程を案内してくれました。
▼キャラウェイ入りのソフトチーズにハチミツをのせて。
トリュフ、バジル、ニンニク、ラベンダー、イラクサ、玉ねぎ、チリ、トマトなど、様々な風味のハードチーズ。夏至祭の時に食べられるキャラウェイ入りのソフトチーズもあります。農場の面積は約1500ヘクタールで、600頭の乳牛が1日18トンの牛乳を生産し、4トンをチーズに使うそうです。牧草の育成、衛生管理、飼料の選択、乳搾り、チーズの加工と、牛乳の生産から一括して行っている工房は珍しいようです。
この日は夏至祭のため、キャラウェイ入りのソフトチーズを作っていました。牛乳を92℃まで加熱して塩を入れ、酢の成分を加えると15分くらいで固まりはじめます。それにキャラウェイを混ぜて型に入れ、手で押さえてから10分間加圧。770リットルの牛乳から80kgのチーズが出来るそうです。牛舎で牛乳を絞ってから3時間ほど、温かいうちに工房に運んで作業できるため(通常のチーズ工場は数日後になる)。牛乳の風味やカゼインなどの成分がチーズに生かされます。
ハードチーズは装置で加圧して1日置いてから、塩水に1.2日漬けます(上の写真)。それを乾燥させて片面ごとにワックスでコーティングを行い、2日ごとに手作業で回転して熟成させます。チーズの味は熟成期間や大きさによって変化するそうです。ここでは 2カ月、4カ月、半年以上の3種類の熟成期間を設けています。
水上の城〈 Koknese castle ruins 〉
Koknese castle ruins(クアクセネ城址)は、1209年、リガの街を築いた司教アルベルトによってダウガワ川の渓谷に建設されました。1701年、北方大戦のなかで爆破され廃城になります。1965年、ソ連時代の水力発電所建設によって渓谷は水没し、水面が上昇してクアクセネ城は水上に浮かぶ城となりました。
「 これは ランプっていうよね どう? 気に入った? 」
「 ピカッ ピカッ 」「 キラン キラン 」新連載「 ホワァ ホワァ 」
「… おも … おも ..! 」
原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
ダウガワ川ほとりのレストラン Klidzi.a(クリヅィニャ)のランチ。パイクパーチのフィレソテーにグリーンピースのペースト。水面に浮かぶ「クアクセネ城」を彷彿とさせます。
レストラン近くの駐車場には、近所の方がベリーや手工芸品、ハチミツ、ジャムなどを持ち寄った出店が並んでいました。
ラトビアに数カ所ある「裸足の小道」。そのひとつ Janavas biological farm(ヤナワス有機農場)を訪ねました。今日は夏至祭の花冠をかぶり、皆が靴を脱ぎ裸足になって深呼吸。大地の暖かさ、大気のパワーを全身で感じていきます。
裸足の小道には、松ぼっくり、クリ、石、ヘーゼルナッツ、コルクなどが敷かれていて、丘を下っていくうちに、足裏の感覚が研ぎ澄まされ、自然のパワーが身体全体に染み込んでいくようです。丘を下った天然の泉から水を汲み、喉を潤します。
農場の建物でオレガノ、セージ、ペパーミントなどフレッシュなハーブを自分で選び、ハーブティーをつくりました。ハーブの種類を知らなくても、自分が手にしたハーブが自分に必要なハーブとのこと。ラトビアの医療費は無償に近いものの、軽い病気では病院に行かず、まずはハーブなどの自然治療を試すそうです。農場ではハーブを蒸留したエッセンシャルオイルや蜜蝋のフェイスクリームを開発・販売しています。ルーラルの人々の力強いクリエイティビティを感じました。
ダウガワ川に浮かぶ社殿へは、ハンドルを手動で回すボートで移動します。神道本庁の方が案内してくださいました。
ラトビアへは13世紀にキリスト教が伝わりますが、太古からの民間信仰は弾圧を受けながら700年にわたり守られてきました。19世紀のラトビア民族啓蒙運動を機に「ラトビア神道」として体系化され、ラトビア神道本庁が設立されます。2017年には社殿「ルアクステネ神社」がオープンし、祭事のほか、神前結婚式もひらかれています。
島に上陸すると、一の鳥居で壺に入った水を使い口や目を清めます。「清らかな目、清らかな考え、直き言葉、立派な行い」と祈るそうです。祖霊碑の周囲を反時計まわりに一周するのは、先祖の御霊へと遡るため。祖霊碑に刻まれているのは、ラトビア東部で出土した6500年前の骨の板に描かれた古代人の点描画で、人間を包む世界の構造を表しています。島に渡る前に拾っておいた石を岸辺に置いて、岸を固め、島を広げることに協力します。
社殿の前に立つ2本の柱は、真ん中に太陽の印を刻み、上下に松葉を描いています。
この「誓いの石」は、100年近く使われてきました。占領下時代、この儀式は、親族の家などで密かに行われたそうです。
神殿に入り、祭壇を時計まわりに回って、時を現在へと戻します。ここでひらかれる結婚式をシミュレーションして頂きました。花婿は天空神の息子、花嫁は太陽神の娘として「誓いの石」に足を載せ、神職が中心で手を添え誓いの言葉を唱えます。石のごとく親族の縁を固める意味があるそうです。その一方、墓標はやがて朽ちるよう卒塔婆のような木で作られ、亡くなった方は先祖の御霊となり、八百万の神の一部になると考えられています。
入母屋造平入茅葺の社殿は、屋根に千木を掲げ、日本の神社建築や茅葺き民家にも似ています。
ラトビア神道にまとまった神典はなく、四行詩の民謡によって継承されました。課題と解決、質問と答など2行ごとの対話式で、祭や生活のなかで口ずさむことで、ラトビア神道の「道」が見えてくる仕組みです。キリスト教が布教されていくなか、12世紀末のラトビア王は神職に対し、海の一滴のしずくのように知恵を民に分け与えなさい。パンの酵母が混ざるように歌に混ぜ、子どものおとぎ話に混ぜることで、その知恵はラトビア人の希望と力の源になると言いました。700年の時をこえ、王の予言は現実になったようです。
燕麦の茎から作られた正八面体の「プズリ」はラトビア人の宇宙観を示します。これはラトビアの人間国宝の手によってつくられた精緻なプズリで、三段式の構造により太陽、惑星、衛星、宇宙を表しています。一般家庭ではプズリを1年間居間に吊り下げ、邪気を吸ってもらってから、祭のときに焚き上げる習慣があります。
ラトビア国立図書館(リガ)。
1850年代、科学者で民俗学者でもあったバロンスは、教師や図書館司書の協力を得て、民謡収集活動を始めます。学校の子どもたちに家族や隣人に伝わる民謡を書きとらせ、それが歌われる場面、地域などをカードにまとめ自宅に届けさせました。喜怒哀楽、冠婚葬祭、春夏秋冬など民謡のカテゴリーを分類し、26万編を収集。カードを納めた「民謡の戸棚」は世界遺産としてリガの国立図書館5階に置かれています。現在は3万曲の旋律と100万編もの民謡が確認されています。
ラトビア中部の聖地 Ozolu -akme .u p.ava(柏石原)で開かれた夏至祭に参加しました。来客はまず、ハチミツビールやキャラウェイ入りのヤーニチーズでもてなされます。時刻は夜9時頃。人々が聖なる柏の大木に集まり始めます。
伝統衣装をまとった人々。まるで中世にタイムスリップしたようです。夏至祭の夜は旅人も等しく迎い入れられ、祭に参加します。草原では女性たちが野花をつんで、花冠をつくります。3の3乗=27種類の草花を集めるのが縁起のいい数字とされています。花冠をかぶると、夏至の夜は既婚の女性も未婚者と同じ処女になるとされています。
若い柏の木の周囲を皆でまわります。木の幹にしめ縄のようにリエルワールデ帯を巻きつけ、天福神ヤーニスの依代として、次代を担う立派な木に生長することを祈ります。リエルワールデ帯はラトビア中部の民族衣装で使う伝統文様を織った帯です。文様にはラトビア神道の神々を表すものもあり、古くからお守りとして用いられています。
10時頃、丘に向かって人々が歩み始めます。元々農民が多かったラトビアでは、太陽と月の動きによって、植え付けや刈り取りの時期を決めてきました。夏至と冬至、春分と秋分、立春、立夏、立秋、立冬にあわせ年8回の祭があり、特に夏至と冬至は重要とされています。1年で最も短い夏至の夜には、様々な魔物が出現するため、日の入りから日の出までかがり火を焚き、太陽の代わりにすることが必要と考えられました。そのまわりで踊り、謡うことで魔物を防ぎます。日が落ちてくると、丘の上で高い竿の先に火を灯し太陽に見立てます。
知っているよ知っているよ太陽神はどこで寝ているのか海原に浮かぶ石の上の葦の穂の先に
訳 ウギス・ナステビッチ
シンプルな旋律と詩を繰り返し口ずさむと、自然のリズムと自分のリズムが同調し、まわりの自然と一体になっていくようです。人と人の垣根は消え去り、その魂がひとつに溶け合います。
松明の火を焚き火に移し、居間などに飾っておいた花冠や柏葉冠を焚き上げます。
口伝の民謡が謡い続けられます。歌いだしに続き、韻を踏みながら応えるように歌うスタイルは、子どもたちにも覚えやすく、ラトビアらしい構文を身体に染み込ませていきます。ソ連時代に夏至祭は禁じられていましたが、森や湿原で秘密裏に継承されてきました。
手をつなぎ、焚き火のまわりを回りながら、夜通し踊り、謡い続けます。やがて男女がペアとなり、森の中で羊歯の花が咲くと、ふたりは契を結ぶといわれます。日の出がくると朝つゆでみそぎを行い、身についたけがれを落とします。
火を焚こう 九本の粗朶で天空神も運命神も暖を取る我が運命を定めし二方なり我が身も我が魂も暖を取る
火よ明るく灯り給え何供えるか君に解らず君に捧げるお供えは三の三乗の物に成る
三の三乗の火の粉が太陽に向かって昇る火の粉の如く厄も燃え尽きよ
訳 ウギス・ナステビッチ
Interior Lifestyle Tokyo 2019
7月17.19日まで東京ビッグサイト 西ホールにてInterior Lifestyle Tokyo 2019が開催されました。恒例のアトリウム特別企画は、The Corner Shop - How to make a market - 。昨年に続き山田遊氏(method inc.)がディレクターをつとめ、出展者の商品を購入できる特設ショップ「(CORNER SHOP) by method」も人気を集めました。。
包丁の柄は中空で、軽く使いやすそう。価格が手頃なのも特徴。
The Corner Shopに出展したDYK(ダイク)は、慶応2年創業の高儀(新潟県三条市)によるキッチンツールブランド。同社の本業は大工道具の製造で、その技術力を活かしたモリブデンパナジウム鋼製の包丁やステンレス製お玉、フライ返し、ツールスタンドなどを製品化。デザインは鈴木啓太さん(PRODUCT DESIGN CENTER)。
目玉展示のひとつMADE51(メイドフィフティーワン)は、難民の自立を促すためUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が推進する活動のひとつです。いま世界では7080万人が故郷を追われています。その大多数は仕事場も失ってしまい、避難先ではそれまでの人生で培ってきた優れた職能を生かす場がありません。そこで世界市場に通用するユニークなインテリア用品やアクセサリーを開発し、各国のバイヤーとリンクして、販売に結びつけるのが「MADE51」の目的です。フランクフルトの国際消費財見本市ambienteの展示をきっかけに、アジアで初めての出展が実現しました。
▼ 砂漠の民といわれるトゥアレグ難民の職人。© UNHCR/W Elsen
15カ国にいる難民が作る製品を展示。上は、ブルキナファソに暮らすトゥアレグ難民によるアクセサリー。槌で打った金属を革でカバーする技術を生かしています。右上の伝統的なコイル編みのバスケット類は、モダンなデザインが製品をひき立てます。ルワンダのマハマおよびキゲマ難民キャンプで、ブルンジとコンゴの難民が製作しています。
左は、インド・デリーに暮らすアフガン難民の女性たちによる人形。生地は縫製工場の切れ端を利用し、家庭内で行われてきた伝統的な刺繍を生かしています。人形のデザインはフランス人デザイナーによるもの。会社を立ち上げ、安定した収入を得るようになりました。ほかにシリア難民による刺繍入りのストールやアフガン難民の木工製品など、質の高い製品が並びます。年ごとに難民は増加し、環境は厳しさを増しています。製品を通して、手仕事にかける思いが伝わってくるようでした。
JAPAN STYLEに出展したTIME & STYLEは、ポケットコイルを使ったベンチスタイルのソファや座布団のようなクッションを敷いたソファなど、ベッドとソファの中間的なスタイルを提案。伝統工芸の実演コーナーでは、秋田県大館市でスギの曲げわっぱを作る「りょうび庵」の伝統工芸士成田敏美さんが、桜の皮を解説中でした。
たくさんの来場者が集まったLIFE STYLE SALON。SUPPOSE DESIGN OFFICE Co., Ltd.の谷尻誠さん、吉田愛さんは、新しい働き方を提案したオフィスなど「しごと」をテーマにた講演をおこないました(上)。お二人は、11月開催のIFFT/インテリアライフスタイルリビングの見本市ディレクターをつとめます。右は江東ブランド認定企業6社が出展した「江東区ものづくり団地」。ワークショップスタイルの展示に、多くの人が集まりました。大蔵山スタジオは「伊達冠石」を使ったドアハンドルやテーブルを出展。宮城県南部で100年ほど前から採掘される伊達冠石(だてかんむりいし)は、独特の鉄さび色が特徴で、彫刻家イサム・ノグチも採石場を訪れ作品に採用しています。内部の黒檀色と表面の鉄さび色のコントラストを生かした製品が並びました。
Best Buyer'sChoiceに選ばれた「r.tela(リテラ)」(大越敦子さ Young DesignerAwardに選ばれた「KODAMATOKI(小玉陶器)」(小玉清美さん)。石膏型をん)。インドのブロックプリントの下敷として破棄されていた布を、スカ使い、陶土の量で高さを調整した器など、独自の製造方法を開発しています。ートやバッグなどに利用。意図しない絵画のような柄が生まれます。
©Google
Filmitalu映像スタジオLuhtre 農家体験
首都リガ
リガからラトビア沿岸の道を北上し、隣国エストニアに入りました。バスの車窓から、松林ごしにバルト海が見えてきます。現在はどちらもEU加盟国で、通貨もユーロに統一されています。
エストニアで最も高いTolkuseの砂丘。ネイチャーガイドのMarikaKoseさんと待ち合わせました。近くの海岸から運ばれる砂によって形づくられた大規模な砂丘は、松の木を中心に、白樺などの茂る林になっています。
展望台の下には砂地がひろがり、ここが砂丘であることを実感します。約1万年前、大地を覆っていた氷河が溶け、海中から隆起した土地に砂丘ができます。その内側にラグーンが形成され、約4000年前に湿原となりました。
砂丘の内側に広がる湿原。木道が整備されボグウォークを楽しめます。
ドローン撮影/株式会社レッドクリフ 佐々木孔明 DALIFILMS 菅健太
砂丘と湿原の中間地点はクラウドベリー、ブラックベリー、ブルーベリーなどの宝庫です。食べごろのブルーベリーを、木道の上から摘んでみました。樹齢数百年の松の木も、ここでは生長が遅く、細く見えます。
MarikaKoseさんが、湿原の地層について教えてくれました。水の染み込まないピート(泥炭)の層がお皿のようになって、湿原の水分を保っています。ピートは主に寒い地域で、植物が分解されずに蓄積していったもので、ソ連時代は石炭のかわりに燃料としても使われましたが、二酸化炭素の排出量が多く、環境保護のため今は使用が規制されています。佐々木孔明さん(レッドクリフ)と菅健太さん(DAL IFILMS)によって、湿原の上空からドローン撮影が行われました。
木道を歩いて行くと、目の前に美しい池が出現しました。
地元の女性団体「H..demeesteMartad」のみなさんが、素晴らしいピクニックランチを用意してくれました。20年ほど前からケータリングや手工芸品の制作を行っているそうです。
ヘラジカ、ニシン、マス、新じゃが、マッシュルーム、採れたてのベリー類など、地元の食材をたっぷり頂きました。
湿原と砂丘の境界域では、木を伐採して、林を湿地に戻す工事を行っていました。地球環境の変化によって乾燥し、森林化が進んでしまう場所もあり、湿原を守り未来へつなげる努力が続けられています。
中学の同窓生がジャズバンドを組んで年に数回演奏していると聞き、親父バンド?と思いながら「演奏会があったら知らせてね」と言っておいた。六本木でライブがあると連絡があり、友人数人と連れ立って出かけると、驚くほど大勢の人が集まっていた。
ステージには20名以上のメンバーが並び、白髪混じりの友人は重鎮的存在として、ライトを受けて正面に座っていた。
ジャズは昔むかし若かりし頃、 NYの小さなクラブハウスではじめて聞いた。黒人の演奏にウイスキーを片手に、ちょっぴり大人の雰囲気を気取ってみたが、心地よいリズムでいつのまにか寝てしまっていた。以来、ジャズは心地よい。という印象がある。
友人のライブは若い人も多く聴きにきているせいか、 NYのような雰囲気はないが、なかなかどうして、親父バンドと思ったのは全くの間違いだった。
友人はテナーサッスク。中学の頃ブラスバンドで活躍していたが、その後もずっと楽器をやっていたとのこと。社会人になっても結婚しても続け、今は大きな孫もいるそうだが、若いメンバーと定期的にライブを続けている。とても素敵なことだと思った。
楽曲はいろいろ、知らない曲もあったが懐かしい曲もある。友人はテナーサックスをカッコよく吹いていた。その隣で少し小さなサックスを吹く人と掛け合いの演奏もあった。
その楽器がアルトサックスだということは後で知ったが、その音が耳から離れなかった。なんとも言えないいい音を出す。いつか吹いてみたいと思った。思い切って楽器屋さんに行ってみたが、パンフレットをもらうのが精一杯。なかなか楽器そのものを手にする勇気はなかった。いつか、いつかと思いながら「アルトサックス」は、憧れの楽器になっていた。
この夏、思いがけずそのアルトサックスに触れる機会を得た。
市民大学で音楽体験教室が開かれ、講師付きでいくつかの楽器を体験できるという。何の楽器があるかはわからなかったが、直に楽器を触れる機会はそうあるもので
60(代)の手習い
はない。
真夏の暑いさなかで参加者は少ないものの、会場には電子ピアノ、エレクトーン、ドラム、バイオリン、そしてアルトサックスが並んでいた。アルトサックスはちょっと怖そうな男性講師がついていた。まぁ彼らにしてみれば、高齢者の音楽体験教室、そうそう面白いものでもないと、少し気の毒には思ったが、憧れのアルトサックスを前にそんなことはどうでもよかった。
首から紐を引っ掛けて指をあて、口にくわえて吹いてみた。音は出た。が、息が漏れないように唇を締め、指をしっかりあてて、ドレミファソラシドを吹くのは容易ではない。そんなすぐにできるものではないと思いながら、思いの外、楽器そのものが重く首や肩が凝る。カッコよく吹くのは相当難しいだろうと、吹いているうちに想いがだんだん冷めていった。肺活力を鍛えるのはいいが、音楽は無理してやっても楽しくないなぁと、ちょっとクールダウンして、エレクトーンと電子ピアノへと移った。鍵盤以外にたくさんのボタンがついている。曲目をセットして鍵盤についたランプを追えば誰でも弾けるという。星に祈りを 80
選んで弾いてみた。これを「弾く」というのかわからないが ……。
帰り際、バイオリンが飾ってあったので、触っていいかと聞くと、持ち方を教えてくれた。バイオリンの演奏は生でもテレビでも見たことはあるが、触るのははじめてである。
顎の下で支え弦に弓をあててみると音が出た。バイオリンを持つと姿勢がよくなる。
弓のあて方で違う音が出る。これには自分でも驚いた。ほんのちょっとのことで、とてもいい音が出る。思わずお手本を見せてと、講師に一曲弾いてもらった。目の前で、指のおさえ、弓のあて方で音を自在にする技を見ることができた。聞けば、歳から始めた方もいるという。ムム …………。
バイオリンなら重くて首や肩が凝るということはないかもしれない。と秘かに想う。
60(代)の手習い、今からでも遅くはあるまい。
友人に話したら、納屋にしまいこんでいた、二胡、大正琴、エレクトーンを引っ張り出して、ほこりを払ったと写真が送られてきた。
仲間で演奏会をするのも夢じゃないかもしれない。アルトサックスもまだ諦めてはいない。
エストニア最大のテーマパーク「 Lottemaa Theme park」は、大人気キャラクター 発明大好きな子犬の少女ロッテを中心に、その友達や隣人たちが暮らす世界を表現しています。
個性的なキャラクターたちが、子どもたちと一緒に踊ったり、歌ったり、フィジカルに触れ合えるコミュニケーションを大切にしていました。多様性のある自由な生き方、スタイル、価値観があり、単純な善悪でものごとは計れないことをポジティブに伝えるため、全身をつかったフルパワーな表現が印象的でした。
古い農家を再生し、2005年オープンした「Luhtre TourismFarm」。女性起業家たちが時間をかけて宿泊部屋、結婚式場、プール付きサウナ、イベントホール、テニスコート、散策コースなどを整備した複合施設です。
小さな丘のような食品保管倉庫は、エストニアでよく見られます。
ファームの女将 MarjeSchmidtさんは、長年エストニアの首都タリンで料理研究家として活動してきました。有機農法により大半の野菜を自分たちで育て、食材は可能なかぎり地元のものを使っているそうです。
MarjeSchmidtさんに教えていただき、ディナーの料理を自分たちで作ります。腸詰めソーセージ、きゅうりのピクルス、採れたて野菜のフレッシュサラダなどを手分けして調理しました。
▲出来たばかりのソーセージを炭火でじっくり焼きます。 ▼プール付きのサウコテージも用意されています。
イベントホールにて地元の舞踏グループの方々が、この地に伝わる伝統的な踊りを披露してくれました。恋愛模様をテーマにした踊りなど、スピード感あふれる舞台。このホールは、企業の研修や発表会などにも利用されています。
数十時間、ハチミツを撹拌して作られる自家製ホイップハニーを、この農家に伝えられてきた生活用具、服飾、農機具を展示したミカモミールのハーブティーに入れて頂きます。ュージアムや工芸品の販売店もあります。
夏至の夜明けをまつ湿原コンサート〈 Sunrise concert at H.passaare bog 〉
真夜中3時頃、夏至のH.passaare湿原では、Suure-Jaani音楽祭の一環「夜明けコンサート」が開かれます。気温10℃以下の湿った地面の上、思い思いのスタイルで開演をまちます。
エストニア国立シンフォニーオーケストラのメンバーによって結成された「湿原オーケストラ」。楽器の音あわせが始まると、霞がかった湿原の大気に、音が吸い込まれていくようでした。
エストニア国立テレビ局の女声合唱グループによる合唱は、まるで天使の歌声でした。小鳥のさえずりのような、それでいて力強いソプラノが、ほの暗い湿原にひろがっていきます。
「目覚め」をテーマとした曲が演奏され、日の出とともにコンサートは終わりを迎えます。霧のたちこめる木道を歩き、家路につく人がいる一方で、泉を泳ぎ、身を清める人たちもいます。
ヨーコの旅日記第21信電車に乗って銭湯へ川津陽子メッセフランクフルトジャパン
江戸川区
涼を求め、急に思い立って志賀高原まで足を運んだ。滞在時間よりも乗車時間が圧倒的に長い日帰りの旅。帰りは草津回りで東京に戻った。そこで恥ずかしながら、人生初の草津温泉を体験する。連休中のせいもあってか、駐車場に入るにも、湯船に浸かる前のシャワーも、入浴後のドライヤーの利用も列に並んで順番を待つはめに。そうした煩わしさも含めて、観光地に来たという実感が沸く。さすがは日本 3名泉。お湯も素晴らしく、駆け足だったけれど、非日常な時間に心は満たされ、存分に旅気分を味わった。と、温泉の話に始まり、今回は銭湯のお話。私にとって銭湯とは、これまで身の回りに存在しなかったこともあり、なかなか行く機会のない、それこそ非日常的な場所である。そんな、すこし憧れのような存在である銭湯が、最近、少し身近になってきた。東京都江戸川区にあるその銭湯には、ある日、車で出かけたついでにたまたま寄ったのだが、妙に気に入ってしまい、先日もわざわざ電車に乗って訪れた。その佇まいは、まさに町にある銭湯でレトロ感がたまらない。入り口前には近所からやってきたお客さんの自転車がずらりと並んでいる。一見、普通の銭湯なのだが、自家源泉 100%かけ流しの歴とした天然温泉。黒湯がいかにも肌に効果ありそうだ。風呂場は天井が高く、天窓から外光が入り、日が落ちるまで浴場内がとても明るい。
▲ 志賀高原の山並み。いたるところにスキーのリフトが存在。
女湯と男湯を隔てる壁の向こうからは、風呂場特有の反響で内容は聞き取れないが、威勢の良い年配と思われる男性の会話が飛び交っている。そこには、いわゆる旅館の温泉にあるような静けさは無く、かけ流しのお湯の音はもちろん、桶が床にぶつかる音や脱衣所からのドアが開閉される音など、銭湯ならではのノイズがなんだかとても心地よい。
ここの銭湯は深夜 0時までオープンしているが、いずれの時たまたま夕方早い時間だったせいか、女湯にはお年を召された大先輩方が目立つ。きっと近所に住む常連さん達なのだろう。ルーティンが確立されているかのような動きで数種類ある風呂を使いこなされている。思い思いに湯船に浸かるそんな方たちは、特に会話は無くとも、目が合うと静かに微笑み返してくれる。ここの電気風呂は、過去に経験したどこの風呂よりも衝撃が強かったのだが、鳩が豆鉄砲を食らったような私の様子を見かねて、同じ浴槽にいた方が、もっとこっちに来たらいいと声をかけてくれた。最初からいきなり電極板に近づきすぎたらしい。思わず笑ってしまう。そんなコミュニケーションが楽しい。そして入浴後の脱衣所では、近くにいた外国人女性がロッカーを開けて叫び声をあげた。日本語が堪能で「どうして? こっちに旦那のパンツが入ってるよ」と、袋を広げて
▲ 午後 3時過ぎで気温は 19℃くらい。霧のミストを浴びてリフレッシュ。
爆笑している。たまたま目が合い、こちらも苦笑い。多分、今頃、旦那さんのほうが困ってるんじゃないですか?と突っ込みを入れると、そうだよね、とさらに大爆笑。別の日は、着替えを終えた 3人組が座談に興じている場に出くわした。お子さんやお孫さん達の話から、いつしか話題は戦時中の話へと変わっていった。地方に集団疎開した頃の思い出話が中心だったが、今でも飛行機を見ると、知り合いの兵隊さんがその後どうなったのかと必ず思い出すのよ、と静かに語る姿がとても印象的であった。公衆浴場との名のとおり、さまざまな人生が窺える場所である。そういえば、初めてこの銭湯を訪れた時、入り口で欧米人の若いカップルと一緒になった。折角日本に来たのだから銭湯を経験しておかないと、という好奇心に満ちた雰囲気であったが、入り口の暖簾をくぐり抜け、下駄箱に松竹錠をかける、ひとつひとつの動作がややぎこちなく周りの反応を伺うかのような様子が微笑ましい。来年の今頃は東京五輪。この銭湯も外国人で溢れるのだろうか、と一瞬想像が頭をよぎったが、いやいや、ないな。どんな状況になろうとも、ここの番頭さんと常連さん達は、変化に動じることなく、日常の生活の一部として、いつものようにここに集まるのであろう。事前に計画して訪れる温泉を満喫するのも良いが、ふらっと気まぐれに立ち寄りたくなる、そんな貴重な場所を見つけた気がする。
広い麦畑の向かいに建つ、ラオ・ヘイドメッツさんの映像工房を訪ねました。ヘイドメッツさんは国際的評価を得た映像作家で、広島国際アニメーションフェスティバルの国際審査員をつとめ何度も来日されています。100年以上たつ農家を改装したスタジオでは、子どもや映像作家を目指す若者に向けたワークショップを開いています。。
砂粒を使ったアニメーション、切り抜いた紙を動かすアニメーション、本格的なストップモーション・アニメーションなど、様々な技法をここで学べます。ヘイドメッツさんが子どもたちに伝えたいのは、自分で映像を作れること。人の作品を観るだけでなく、創造を体験してほしいそうです。はじめは消極的に見えながら、素晴らしい才能をもった子どももいる。それを見つけサポートすることで、才能を伸ばしてあげるのも自分たちの役割といいます。
夏至に集まった親戚や友人がパーティを愉しみます。自然の中で生きるためヘイドメッツさんはタリンを離れ、農家を手に入れスタジオに改装。この庭でアニメーションを撮ることもあります。
発想の源という離れのサウナで、多くのアイデアが生まれたそうです。
タリン工業大学で電子工学を学んだヘイドメッツさんは、卒業後、タリンのアニメーションスタジオにアニメーターとして入所。その後ディレクターとなり、その作品は世界各国のフィルムフェスティバルで公式上映され、数々の賞を受賞しました。アートディレクター森本千絵さんに協力した「フランクミュラー」のCM作品は日本の人気テレビ番組で紹介され「日本にエストニアを知ってもらうことが出来た。こうしたミッションが大切」とヘイドメッツさん。
エストニアの偉人ヤコブセンの夢〈 Kurgja Farm Museum 〉
19世紀の中頃、エストニアの農民たちに民族としての目覚めをうながし、経済的な自立を指揮した偉人が、カール・ロバート・ヤコブセン(1841.82)でした。当時まだ農民は自分たちのことを「土地の人」と呼び、帝政ロシアの支配のもと、実際の権力はバルト・ドイツ人にありました。当時は新聞や書籍、論文はドイツ語で書かれていましたが、ヤコブセンはエストニア語の新聞を発行したり、農民向けの学校教育を実践し、教科書の出版にも尽力しました。
ヤコブセンはエストニア語による初めての農業教科書を出版しました。石臼を手で回す重労働は、女性の仕事だったそうです。
「Kurgja Farm Museum」は、ヤコブセンが1874年に購入し、8年をかけて築いた実験農場を体験型の博物館として整備した施設です。木造2階建ての製粉所には、水力で動く巨大な粉挽き機や製材機が設置されています。農業の近代化に必要な技術・設備のモデルを示し、自らも研究をすすめながら酪農学校の設立を目指していました。
川にそった広大な敷地に、製粉所、牛舎、住宅、養蜂場、サウナ、脱穀舎などが点在しています。
ドローン撮影/株式会社レッドクリフ 佐々木孔明 DALIFILMS 菅健太
水力で動く製材機。川で運んだ丸太を製粉所の2階に引き上げ、レール上の台車に載せます。奥にある帯鋸の方向へ台車を動かすことで、丸太を板材にしました。おが屑は1階に落とし、再利用する仕組みです。ヤコブセンはこうした機械の開発も行いました。仕組み自体は、現在の製材機とほぼ変わりません。
手工芸品をあつめたミュージアムショップ。農民が領主から開放されるには、知識力と経済の自立が必要と考えたヤコブセンは、エストニア語の農業教科書を制作。「農夫が金持ちになる方法」や「牛と収穫が農民の富になる方法」といった経済を解説したものもありました。女性教育にも力を入れ、母から子へ知識の伝搬に期待しました。
エストニアの夏至祭
6月23日の夜から博物館の敷地で、古来からの夏至祭を体験するイベントがひらかれました。まずは目隠しした鬼ごっこ、集団で乗るブランコ、竹馬などで愉快に遊び、豊作や村の繁栄を祈ります。
夏至の日は、干し草づくりを始める日でもあります。この時期のやわらかな干し草は来春生まれる仔牛、仔馬のために保管して使います、大鎌で刈り取った草を冠のように編んでから、これを持って牛舎に向かいます。
牛舎の中に入り、牛たちの頭に草の冠を載せて清めます。ここで飼育されているのは貴重なエストニア牛で、糞は堆肥として利用し、ヤコブセンが提唱した循環式の酪農を今も実践しています。
次にミュージアムの畑に行き、畑の四方に若木を差してから、水を3回掛け、渇水がないことを祈ります。
他にもいくつかの儀式を行ったあと、焚き火に火をつけ、周囲をまわりながら古来の歌を唱えます。家族で焚き火をかこみバーベキューをしたり、思い思いに朝までの時を過ごします。
1882年、カール・ロバート・ヤコブセンは41歳の若さで肺炎をこじらせ、夢半ばにして急逝しました。その後ロシア化政策が強まり、農民の目覚めを促す運動は一時停滞しますが、1918年、エストニア共和国はついに独立を宣言します。エストニアの首都タリンからフェリーに乗りフィンランドのヘルシンキへ。タリンク・シリアラインの大型フェリーは、約2時間でタリン.ヘルシンキを結んでいます。ヘルシンキ国際空港からフィンエアーに乗り日本へ帰国しました。
ドラゴンシリーズ 59
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
挑戦と失敗
僕は歳の時にドイツでの生活を始めた。そのころの自分には何も無かったからだ。
何も無い、何の能力も持たないというのは、若い人間にとっては本当に不安だけでしかなく、自分の将来の展望や希望を描くことも、可能性を信じることもできなかった。何もできないこと、何も持っていないこと、自分に全く自信の持てないことが自分の唯一の確信だった。しかし、そんな時になぜ自分はド
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イツに行こうと思ったのだろうか。その頃の自分の気持ちは未だに思い返えせないし、理解できない。ドイツ語も全くできない若者がドイツの田舎に行って生活をすることなど無謀以外の何物でもない。
ドイツでの時間はまさに初めて経験することばかりであり、若い時代の失敗の始まりの序章のような時間だった。そのドイツでの生活をはじめて自分の人生が、自分の手足で動き始めたように感じていた。しばらくすると言葉が通ずるようになり、一つ一つの言葉の積み重ねと同時に生活習慣や食生活など様々な文化が自分の若い時代の感性に吸収されて行った。それは若いから経験できたことであり、多くの失敗を経験することで頭では無く、身体も心も全て引っくるめて体全体で経験できた貴重な瞬間的な時間だった。
それからドイツで生活している7年の間に父から沢山の手紙や本が僕のアパートに送られてきた。自分が持参した本も父が送ってくれた本も何度も何度も繰り返し、ベッドの中で読んだ。何度読んでも、その時々の意味を持って僕に様々なことを教えてくれた。そして、前に進む勇気とエネルギーを与えてくれた。父は本を通して人生とは何か、生きることとはどう言うことなのか、僕へメッセージを送ってくれたのだ。前に進め、諦めるな、というメッセージだった。
自分が何も無い不毛な場所から、少しづつ前に進んだ感覚を持てたことだけでも、ドイツで味わった経験や孤独感はその後の人生に欠かせないものとなった。しかし、自分が何かの技術や能力を獲得できた訳ではない。人並みにも及ばないが、それまでの不毛な人生感から、動けば変わると実感でき、ゼロからでも何かが生まれることが理解できた根本的な経験だった。そこから先の人生の中でも、技術や知識の無い者の苦しみと虚脱感は何度となく経験し尽くしてきた。おまけに自分の能力だけでなく、お金という必要不可欠なところでも沢山の失敗を繰り返してきた。何かを始めるためには、常に最低限の資金が必要であり、それをどのようにやり繰りして継続してゆくのかを、沢山の失敗の連続で経験してきた。お金はとてもリアルであり、資金がなければ出来ないことも沢山あった。だからといって資金があれば何でもできるという訳ではなく、行動とアイディアが無ければ実現できない方が多いかもしれない。資金が無いからこそのアイディアや能力が世の中には沢山あり、
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そのような考え方のほうが継続性を持つことが多い。
日本に代後半で戻り、ベルリンで始めた事業を日本でも実現したくなった。ベルリンで創業して年しか経過していない時に、ベルリンと東京の2
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つの会社を同時に進めることになり、また失敗の連続だった。ようやくベル
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リンの事業が軌道に乗り始めると、僕は紙で家具を作る事業を始めようとして東京に会社を設立した。年のことだ。その頃を振り返ると何も全く進んでいなかったように感じていたが、今では全く逆の、もの凄いスピードで動いていたように思えるようになった。全ては手探りで進む、計画は机上の計画であり、それを実行しようとすると、全てのことで大きな動かない壁に突き当り、完全に行き詰まることばかりだった。資金が底を付いては、信用金庫の担当者にお願いしたり、国の融資制度にも全て申し込んだ。国会議事堂にも足を運んで赤絨毯を歩いて同郷の政治家に相談したこともある。なんと無謀なことを繰り返しては、倉庫の中にダンボールを敷いて、布団代わりにして作業しながら寝起きし、通帳の残高に怯えながらもまた何度も失敗を繰り返した。しかし、潰れそうになると、なぜだか奇跡的に救世主が登場して、何度も仕事を受注して食いつなぐことができた。それは、本当に奇跡的なことだが、強引にその奇跡を生み出してきたのかもしれない。そんな失敗はまだまだ続くが、それこそが今の自分を支える、体得した感覚なのだと思える。
10歳に満たない小さな頃に頻繁に家を飛び出しては、ひたすら遠くにあるおばあちゃんの家や親戚の家を目指して家出した。実家を飛び出すと後先を考えないで走り始める、初めは不安でいっぱいだった気持ちが真っ白になってゆく。ただただ前を向いて排気ガスで汚れた道路の端を車に轢かれないように走り続ける。目の前には次々と難所が待っているのだが、長い坂道を登りきって、そこから眼下に広がる大きな緑色の森は、今も自分の幼少時代の風景の一つとして思い出すことができる。走り始めること。そして遠くにある目的地に辿り着くことが、走ることの目的だった。
2017年の3月末、オランダのアムステルダムに Time & Styleの直営店をオープンした。そして2年と4カ月の歳月が流れた。ここでも失敗を繰り返しながら、ドイツや東京や旭川で経験してきた失敗の継続が何かに繋がってゆくのだろう。何も無いと思っている自分は今もそのまま変わっていない。我々ができることは失敗を繰り返しながらも諦めないで続けることだと信じている。諦めなければ必ず次の景色が見えてくる。今度見るのはどんな景色なのだろうか。自分たちで歩いて苦しんで辿り着く場所が楽しみでしょうがない。
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