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時空を超える美意識
白菜 2019 https://collaj.jp/
台風ニモマケズ
あ わ
安房・ラスキン・藤野
台風15号、19号などの暴風雨によって、千葉県は甚大な被害を受け、いまも復旧を待つ地域が多く残っています。今回はバスタ新宿(新宿駅)から高速バス「新宿なのはな号」に乗り、安房(あわ)の国・館山に向かいました。バスは東京湾アクアラインをわたり、対岸の木更津を経由して南下。1時間30分ほどでJR館山駅に到着します。2009年からアクアラインでは、普通車終日800円のETC限定割引がはじまり、利用しやすくなりました。▲ アクアラインから、京葉工業地帯の煙突が見えます。▼バスが南下するに従い、台風の被害が目立ってきます。駅の西口にはヤシを植えた海に伸びる道が整備され、南仏リゾートの雰囲気をかもしだしています。1987年のリゾート法により、館山は千葉の重点整備地区に選ばれ、海岸線一帯をコスタ・デル・ソルやコートダジュールのような景勝地にしようと「館山サンシャインリゾート」計画がスタートします。「海洋性リゾートタウン」を目指した館山市は、1989年に「館山市街並み景観形成指導要綱」を作成。それをもとに館山駅西口地区街づくり協議会は、 ●屋根はオレンジ色のS瓦、 ●壁は白、 ●高い塀は造らずに生垣とするなどを定め、建築や表札、歩道、街路灯、案内板などが南欧風に統一され、無電柱化も実現しました。
館山駅の西口から海に向かうと、夏は海水浴場として賑わう北条海岸にでます。遥かに富士山をのぞみ、沢山の貨物船、タンカーが浦賀水道を行き来します。12世紀、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵し、石橋山の合戦で平氏に破れたとき、真鶴から船で敗走した先が、対岸にあたる安房の国・館山でした。東国武士団の支持をえた頼朝は伊豆半島を北上し、わずか40日で鎌倉に到着。平氏を滅ぼして鎌倉幕府を打ち立てた後も鎌倉と安房は仏教を通して深く結びつき、館山は鎌倉文化圏の一角として発展します。
海岸にそって「たてやま温泉郷」のホテルや旅館が並んでいます。台風の時は、防風林の松が倒れ、流木が浜辺に打ち上げられましたが、地元の方の尽力によって綺麗になっていました。
富士山を望む館山湾は、古くから鏡ケ浦、菱花湾と呼ばれ、文人墨客に愛されてきました。「渚の駅たてやま」のレストラン、館山なぎさ食堂は、地元でとれた魚料理が自慢。館山湾を一望しながら、伊勢海老をまるごと使ったペスカトーレや海鮮丼、煮魚定食を楽しめます。
海のマルシェたてやま。新鮮な魚、野菜、おみやげ品が手に入ります。
押送船(おしょくりぶね)は、5、6人で櫓を漕ぐことで、風向きに関わらず運行できました。小型快速で、江戸霊岸島と館山を10時間で結びました。
館内の「渚の博物館」(館山博物館分館)では、館山で行われてきた様々な漁法や船を紹介しています。ジビキ舟、ウタセ舟、イッチョウロ舟、ミズキ舟、アバツリデンマなど、漁法によって使われる舟も異なり、船大工の高い技術を間近に見られます。館山ではアワビの潜水漁や突きん棒漁も盛んで、韓国済州島から海女たちが出稼ぎにやってきました。夏は地元の海女と海に潜り、冬は花を栽培して暮らしました。
唐桟織はオランダ人によってインドの港町サントーメから伝えられた織物で、細い木綿糸を植物染料で染めています。江戸時代には縞模様と異国情緒あふれる色合いが粋な江戸っ子に愛されました。「房州うちわ」は、丸亀うちわ、京うちわと並ぶ三大うちわのひとつで、丸竹を使うのが特徴です。館山はもともと竹の産地で、明治からうちわの生産をしていましたが、大正12年の関東地震によって日本橋のうちわ問屋が館山に移転し、全国的な産地に成長しました。
前回の続き。ギルド(同業者組合)の正規構成員すなわち、親
方職人(もしくは商人)であることが、ロンドン市民(納税者)としての基本的な条件だった。この親方職人をフリーマンと呼ぶ。フリーマンになるには原則として、.歳で徒弟として入門し、親方一家と寝食を共にしながら、7年間の徒弟修行が必要だった。親方職人(主人)のみが市民として認定されていたわけで、徒弟は、その範疇には入らなかった。あくまでも、各職域のギルドにおいて親方職人として名前が登録されていることが基本要件だったわけで、日本の住民登録のように、市区役所のような「お上の出先機関」への届け出によって「市民」となったのではない、という点が注目点だ。
言い換えると、各職域のギルドこそが市域内における「お上」だったわけで、これが「市民意識」の原点にある。日本語の「市民」という言葉が時にウソっぽく感じられるのは、この「市民=お上」
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という自治の伝統が我が国では薄かったためではないだろうか。ギルドを通しての市民自治。これが肝だ。 1418世紀末ロンドンには、およそ百業種のギルドが存在し、それぞれのギルドの長が集まって、彼らが権限を持つ市域(シティ)で必要となる諸問題を討議
ユニコーンと女神(正義の女王)ロンドンの金匠組合の紋章
した。その会場となる建物がギルドホールだ。ここで全ギルドの長たちの中から、全てのギルドの長すなわち、ロンドン市民の総代表であるロードメイヤーが選ばれた。任期は1年で続投不可。が、間を置いて何度も就任する大物も存在した。全職
域の同業者組合の長というと、商工会議所会頭という感じだが、権限の強大さは、その比ではない。少なくとも、約2㎞四方のシティ域内での公的な事柄は、徴税・警察業務を含めすべて、ロードメイヤーの権限の下で処断されていた。要するに、ロンドンのシティ域内は、ロードメイヤーを頂点とするギルドによる自治が貫徹した市域として歴史的に形成されてきた場所であって、国王であっても、うかつには手出しができない、特別な地域だった。
その強力な自治権の名残りは、今も、意外な形で継続している。現在は儀礼的な役職となったロードメイヤーではあるが、その公用車には、一般の車とは全く異なる形式で、 Lord Mayor's Office の頭文字「 L MO」の3文字のみが記された特別なナンバープレートが付されている。それどころか、十数年前までは国王の公用車と同様に、ナンバープレートそのものが付いておらず、ロールスの屋根の最前部中央に立派な紋章が掲げられているのみだった。このことからも、シティが一種の「独立した国家的存在」であったことが判る。ロードメイヤーは、いわば「小さな国の元首」に等しい存在なのであって、その重要な地位に、徒弟からたたき上げの銀職人や服飾職人が就く道が開かれていた、ということになる。
ところで、諸ギルドのフリーマンとなるにあたっては、興味深い「例外規定」が幾つか定められていた。その代表例が、フリーマンである親方が病気や事故で亡くなり、親方の妻と何人もの徒弟が残された場合だ。残された妻が、その工房を継ぐ形で、新たにフリーマンとして認定され、その妻の名前で工房を運営し、従前どおり銀器を市場に出すことが認められていた。「女性銀職人」として名が残るのは、このケースである場合が珍しくない。このように徒弟たちは年少期から、工房の家族の一員として働きながら、そのギルド内の世界だけを見て育ち、やがて金匠のフリーマンへと成長していく。各ギルド内では当然、子供の頃から皆が知り合いという、人間関係が極めて濃密な集団で、結婚も同じギルド内部で完結する場合が大
フィレンツェ羊毛商人組合の紋章とサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
半だった。そんな彼らこそが、ロンドン下町のはなし言葉「コックニー訛り」の源泉だ。職域を異にする諸ギルド間の対抗意識はかなり強烈なものがあったが、その一方で「シティは俺達の街」という共通感覚もそれに劣らず強いものがあった。そういう人々が、ロンドン市民の中核を占めていたわけで、他の都市からやって来た「よそ者」は、同じイングランドの職人であっても、そう簡単には入り込めない世界だった。それだけに、戦乱や宗教弾圧などで外国人労働者が集団でロンドンに移住、というような事態を迎えると、諸ギルドは身構えて外国人排除
に乗り出すのが通例だった。
さて、話は飛んで、ルネサンス期のイタリア。特に強力な貴族がなく、教皇庁の支配下でもない、フィレンツェのような「自由都市」。ここでは、実質的にギルドが都市の運営主体となっていて、その活動は広範囲に渡っている。例えば、フィレンツェ観光に行けば誰もが訪れる、淡い緑と白の大理石が美しいサンタ・
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マリア・デル・フィオーレ大聖堂。世紀初頭以降、その建設と維持費の大半は、当時のフィレンツェで最大最強のギルドであった羊毛商人組合が拠出した。これに限らず諸ギルドは、教会や病院のパトロンとして、互いの力を競い合っていた。
ここでパトロンたるギルドは、例えば教会内部のフレスコ画を寄進するにあたり、画家を指定し、描かれる内容に口出しし、使用される絵の具、例えばラピスラズリ石を原料とする高価なウルトラマリン(群青)の使用量を制限するなど、事細かに指示を出す口やかましい注文主(パトロン)だった。我々は、ルネサンスアートを「芸術家の創造物」として捉えがちだ。が、パトロンとしての君主やギルド、枢機卿や教皇様が、その制作のあらゆる場面において、作品の発注者として細かく指示を出していた。今に残る作品は、これらパトロンの意向に従う形でアーティストが制作したものなのであって、決して彼らの「自由な自己表現」などではなかったのだ。このことはパトロンとしてギルド(市民)が果たした役割の大きさ共に、再認識されるべきではないかと思う。
物資を江戸に運ぶには、浦賀の番所を通す必要がありましたが、安房の鮮魚を積んだ押送船は直接霊岸島の河岸に向かうことが許されました。江戸の食卓に安房の魚は欠かせないものだったのです。また押送船で江戸まで10時間(一晩)という利便性を活かし、江戸の町に働きにでる人もいました。滝沢馬琴が有名な「南総里見八犬伝」を着想したのも、安房の職人や女中が馬琴のまわりに多かったからと思われます。
漁船の並ぶ海岸線を歩いていると、船大工の作業小屋がありました。久しぶりに頼まれて新造船を作っているそうです。上の青い舟形がFRP船の原型で、それにガラス繊維を張りプラスチック樹脂を塗って型どります。40年以上船大工を続けているそうです。漁師はだいぶ減っていて、趣味で漁船を持つ人が増えたとのこと。台風の際は小屋の半分が壊れて海の方へ飛んでいってしまい、ブルーシートを壁代わりにしていました。
海岸に近い地域は特に被害が大きく、建て替えている家もありました。家のまわりを塩害に強いマキ(イヌマキ)の生垣で囲むのが城下町の伝統で海上自衛隊館山航空基地は、主に艦載哨戒ヘリSH-60J・SH-60Kや救難ヘリUH-60Jを運用し、ここから飛び立ったヘリが横須賀に停泊する護衛艦「ひゅうが」などに搭載されます。元々は帝国海軍の基地で、首都を守る「東京湾要塞」の一部として建設されました。海に突き出した土地は、大正12年の関東地震で隆起した浅瀬を埋め立てたもので、昭和5年に館山海軍航空隊が置かれ、空母への離着艦訓練が行われました。
港を望む「鷹之島弁天閣」。基地の埋め立て前は、独立した島の上に鎮座されていました。10年ほど前に寄付によって屋根を直しましたが、今回の台風で崩れてしまったようです。
基地に近い海岸では、地震による隆起の痕跡を見られます。館山はフィリピン海プレートと北米プレートの境界にあり、約7千年の間に35mも隆起し、この速度は世界一といわれます。湾の海岸段丘には関東地震の隆起面と元禄地震の隆起面が見られ、地震のたびに海岸線が隆起し陸地を広げてきました。大正12年の関東地震は、震源地の一部だった安房にも大きな被害をもたらし、湾に面した街の家屋は大半が半壊、全壊、焼失して病院も多くが倒壊。各地で6尺〜8尺(1.8〜2.4m)も土地が隆起して、人々を動揺させました。
沖ノ島はかつては離れ小島でしたが、基地の埋め立てにより陸続きになりました。海岸はサンゴやウミホタルが生息する北限で、サンゴは約30種類確認されています。約1万年前の館山は現在よりも温かく海岸にはサンゴ礁が発達し、神津島の黒曜石を使ってヤジリをつくりイルカや海獣を狩っていました。沖ノ島の海岸にはイルカの追い込み漁をして焼いて食べた痕跡が残っています。古くから干しアワビの産地として知られ、奈良の平城京からも安房国の木簡(荷札)が出土しています。
関東地震によって鉄道や道路が寸断され、館山は陸の孤島となりますが、翌日には山間部の青年団、軍人会、消防団がかけつけ、千葉や銚子から医師団が派遣されました。それ以降、館山には大規模な災害はありませんでしたが、今回の台風は、ほぼ100年ぶりの大災害となりました。
館山城跡の城山公園(標高約70m)を登ってみました。頂上付近には茶室「雁月庵」があり、美しい紅葉を楽しめます。平安時代の書物「古語拾遺」には、四国の阿波の忌部(いんべ)氏が、海をわたって房総半島をひらいたという伝説が描かれています。
1200年前ほど、安房国の阿波国分寺が建立され、館山が政治・経済の中心となります。その後、戦国時代に足利氏によって安房に派遣されたのが、「南総里見八犬伝」で知られる里見氏でした。関東管領上杉氏と東京湾の覇権をめぐって戦い、15世紀には安房一帯を制した里見氏は上総へと進出し、房総半島を治めました。
復元された天守(RC造)の中は「八犬伝博物館」になっています。16世紀後半、戦国時代の終わりになると、東京湾をめぐり長く争っていた里見氏と北条氏が和解。里見氏は海上を行き来する商人の安全を保証して湊を整備し、税の優遇など流通の活性化につとめます。城下町づくりが進むと、商船の寄港や船員の宿泊を館山城下に限定し、町の活性化をはかりました。海上交通により力をつけた里見氏は、やがて江戸幕府にとって目ざわりな存在となります。里見忠義公の時代に突如、伯耆国倉吉(鳥取県)への国替えを命じられ、館山城も取り壊され、城下町が残されました。倉吉の大岳院には、配流された里見忠義公と八賢士の墓が残り「南総里見八犬伝」のルーツになったといわれます。
城山公園から見ると、ブルーシートを載せた家が目立ちます。公園を整備していた植木屋さんも、大木が倒れるような被害は初めてといいます。大正12年関東地震の後は、海岸に鉱泉が湧いて「たてやま温泉郷」のルーツとなりました。海水浴場が整備され、鉄道もより便利になり、震災前を上回る観光客が来るようになりました。今回の台風も館山の復興は、観光にかかっているのかもしれません。
館山夕日桟橋から見た夕景。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
日本は石炭火力発電で「化石賞」ヨーロッパは「LCA規制」によって産業支援
90カ国以上、850の環境NGOからなるCAN (Climate
Action Network =気候行動ネットワーク)が、COP25のな
かで気候変動対応に最も後ろ向きな国として、日本に対し「本
日の化石賞(Fossil of the Day Award)」を12月3日に贈り
ました。これはとても不名誉なことです。Fossilは化石のこと
ですが、その他に時代遅れの人、老いぼれ等の意味があり、
日本の報道内容では「賞に込められた皮肉」を伝えきれてい
ません。国として恥ずべき受賞なのですから。マスコミの使命
としてしっかり扱って欲しいものです。「本日の化石賞」は日本以外に、オーストラリア、ブラジルの
森林火災に対する両政府の対応の悪さにも贈られました。
1989年に設立された CANは、気候変動について各国との
交渉にも関わっていて、COP参加者で CANを知らない人は
COP25の会場で開かれた「化石賞」の発表イベント(共同)。12月11日小泉環境相の演説を受け2回目の化石賞を受賞した。
いません。期間中は政府代表団とそれぞれ個別に協議を行い、地球温暖化の解決を求める市民社会からの声を伝えています。
産業革命以前からの世界の平均気温上昇を「2度未満」に抑える。加えて平均気温上昇「1.5度未満」を目指すという目
標がパリ協定(2016年)で批准されました。「2度未満」に抑えるだけでは「地球環境悪化へ向かう変動」を抑えきれないと、世界110を超える国や団体(EU等)が利害関係を超えて「1.5度未満」を目指すべきと理解したからです。
COP25開幕前に、国連環境計画(NUEP=United Nations Environment Programme)は、各国の「地球環境悪化へ向かう変動」対策が極めて不足しているため、そのギャップを埋めるには、大量の温室効果ガス(CO 2等 )を排出する石炭火力発電所建設を中止すべきという報告を発表しました。また開幕前日の開会式でも、国連事務総長のアントニオ・グテーレス氏(ポルトガル、同国の首相でもあった)が「石炭中毒」からの脱却を求める話をしました。しかし何とその翌日に、CO 2排出量世界第 5位の国の閣僚・梶山経済産業大臣が「石炭火力発電など化石燃料の発電所は選択肢として残したい」つまり石炭火力発電を維持していくと発言しました。海外メディアがこのことを世界に報道すると、世界の市民社会が「COP25の交渉を大きく後退させる」と即座に反応しました。これが日本の「化石賞」受賞理由です。世界は脱石炭に大きく舵をきり始めたのに、このままでは、日本の方針はパリ協定を軽視し地球を破壊して人類を危険にさらすものと、厳しく批判され続けることになります。日本の政治家、電力担当官僚の国際感覚の無さ、タイミングの悪さに呆れるばかりです。実は、日本はパリ協定の基金に、多額の資金援助をしています。もっと評価されるべきなのでしょうが、一方でアジア等へ CO2排出の少ない新型石炭火力発電プラント(新型は CO 2排出量が少ないというものの、旧型に較べて少ないだけで、他の発電方式に較べて大きい)の輸出を目論むなど、時代に逆行した政策に固執し、国のマイナスイメージを強くしています。今後の国際交渉に不利になると考えられます。
「地球環境悪化へ向かう変動」の主たる原因の一つである CO2排出量の、日本での産業部門別割合を見てみましょう。2017年度 JCCCAのデータによると、直接総排出量は約11億 9000万トンで、そのうち「エネルギー転換部門(発電施設等電力部門のこと)」がなんと41.3%と半分近くを占めています(円グラフ参照)。もしこれからも石炭火力発電を国内稼
日本の部門別 CO 2排出量は、4割以上が発電。
働・プラント輸出を進めれば電力部門の比率は上がるばかりで、地球環境改善とは全く反対方向へ向かうことになります。平成 31年3月28日付けの環境省報道発表資料「電気事業分野における地球温暖化対策の進捗状況の評価の結果について」の冒頭で「電力事業分野からのエネルギー起源は、 CO2排出量の 4割程度を占めており、他部門の排出削減努力にも大きく影響を及ぼすことから、同分野は、地球温暖化対策上、非常に重要な分野です。」と述べられています。本来は平成 28年2月、環境大臣と経済産業大臣が合意し政策的対応を行うことにより、電力業界の取り組みの実効性を確保していくともありますが、はたして合意しての発表だったのでしょうか?
2%を .排出量第3位は「運輸部門」で、17 2日本でのCO
占めています。ヨーロッパの運輸部門 CO 2排出量はわかりませんが、ヨーロッパの自動車業界(運輸部門と捉える)は、 CO2排出量大幅削減に向け、2つのステップで新たな段階に入ります。第1ステップは 2021年の燃費規制です。ヨーロッパで販売する自動車メーカーに対して、1km走行あたり、平均の CO 2排出量を 95g以下にするものです。1g超過するごとに一台あたり「95ユーロの罰金」を支払わなければなりません。もし3g超過のクルマを10万台売れば、罰金支払額は2,850万ユーロ(1ユーロあたり120円換算で、34億2000万円)に上ります。これは会社経営にとって大変なことで、業績と企業イメージの低下というダブルパンチになります。前号で少し述べたとおり、ホンダ初の EV(電気自動車)とな
e」が今年中にヨーロッパで先行販売されます、 -る「HONDA
それもこれらの背景を睨んでのことです。 CO2排出量を 95g以下に抑えることは、現在のガソリンエンジン単体で走るクルマでは不可能だそうで、走行中に CO 2を排出しない EVの普及に拍車を掛けなければ、「パリ協定」の実現に向け前進出来ないのも事実です。1997年、日本が世界で初めて市場に出したプリウスなどのHV(ハイブリッド車)は、HEV(ハイブリッド電気自動車)に発展し、従来のガソリンエンジン車に較べ、CO 2排出量を大幅に削減しました。しかし走行中の CO 2を制限するヨーロッパの 2021年規制は、日本が得意とするHV、HEVにとって非常に不利です。HV、HEVを制限して EVの市場を形成し、製造時の CO 2排出量については時間をかけて低くするなど、ヨーロッパの狙いが透けて見えると関係者は考えています。
そして第 2のステップは、2030年頃から始まる「LCA規制」です。「 LCA=Life Sycle Assessmennt 」のことで、車の生産、燃料等エネルギーの生成、走行時、クルマの廃棄、バッテリーの再利用など、車のライフサイクル全体で CO 2排出量を評価するものです。ヨーロッパでは、当面は走行中以外の CO 2排出量は問題にせず、EVの大量普及を図りたいようです。しかし今の EVは、電池製造時の CO 2排出量が大きいことが課題です。また石炭火力発電が多い国・地域では、電力の発電時に大量の CO 2が発生します。
COP25 はチリの政情不安から急遽マドリードに変更されました。
一方、HEVは走行中の CO 2排出量は EVより多いものの、電池の容量が小さいため、製造時や発電時の CO 2排出量は少ないのです。石炭火力発電が多い日本のような国では、
「LCA規制」の考え方でいえば、EVのCO 2排出量はHEVを大きく上回ります。ある自動車メ.カーの話では「EVの CO2排出量は、HEVやガソリン車の1.5倍〜2倍はある」そうです。
しばらく前まで自動車の環境規制の先進地は、米国カリフォルニア州でした。今はヨーロッパがリードし、中国、インド、アジア諸国に広がっています。しかし「LCA規制」がどれだけ広がりをみせるかは未知数です。再生エネルギー等のクリーン電力がもっと着実に普及しなければ、EV普及は加速しません。各国のエネルギー政策とのマッチングが必要で、メーカーだけでは国や地域の電源構成は変えられません。そんな中でも、大手メーカーは打開策を次々に打っているようです。例えば、 ●再生可能エネルギーとCO 2から「e燃料」を作る(ヨーロッパ、日本)
● ガソリンエンジンの熱効率をあげてHEVのCO 2排出量を大幅に下げ、「LCA規制」視点でEVを超える(日本、ヨーロッパの一部)
●(夢の様な話ですが)空気よりもきれいな排気ガスを出すマイナス・エミッション車(日本)等々、いろいろあります。ヨーロッパや日本の自動車業界が、誠実に切磋琢磨して、 CO2排出量削減に向け大きな努力を払っているのを見るにつけ、先に述べた日本政府の世界動向を無視した、余りな無策に愕然とし、怒りさえ覚えます。私の利用するFCV(燃料電池電気自動車)の「LCA視点による環境負荷」がどれくらいか強い関心がありますので、機会があればまたこの話を進めたいと思います。
大好きなともだち へクリスマスツリーをかざったよ見にこない?ホロホロノクニのキキとココ より
Vol.05
原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
2019年11月20日(水)〜22日(金)まで、東京ビッグサイト南ホール1・2・3・4にて、IFFT/Interior Lifestyle Living 2019 がひらかれました(主催:一般社団法人 日本家具産業振興会、メッセフランクフルト ジャパン)。今回は初めて南展示棟での開催となり、会議棟脇(東京ビッグサイト駅からは右側)の新しい通路(下写真)からホールへ向かいます。天井に木の格子を配した南ホールは、ワンフロアで見晴らし良好。
(金)の開催予定です。〜30日 )なお次回は、2020年10月28日(水
特別企画「OFFICE-UP」は、ディレクターをつとめたSUPPOSE DESIGN OFFICE 谷尻 誠さん、吉田 愛さんが企画。オカムラ、カンディハウス、センプレデザイン、ノル、インターオフィスが出展して、テレワーク、コワーキングスペースなど働き方が多様化する社会でのオフィスのあり方を提案しました。オフィス、カフェ、ホテル、リビングの境界線は、ますます曖昧になりそうです。
華やかなテキスタイルエディターたち
好評だった特別展示「アップサイクルって何?」。廃棄物再利用の手段として注目されるアップサイクルについて、デザイナー、建築家が具体例を示しました。
遊ばなくなったプラレールを使った子ども用ハンガーやミラー「Toyto」。子ども自身がアップサイクルできる可能性を示しました(minna角田真祐子、長谷川哲士)。
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▲「パンのミミ家具」は、家具工房から出る端材(リノリウム合板)を利用したシェルフやテーブル、トレイ。この展示のディレクター 芦沢啓治さんのデザイン。
▲もこもこソファは、ポリエチレン発泡体工場の端材を利用したソファ(トラフ建築設計事務所 禿真哉、鈴野浩一 )。▲MONOHARA FLOORは波佐見焼の廃棄品にセメントを詰め、店舗の床として活用(Yusuke Seki studio 関祐介)。
エストニアが日本初のデザイン大規模出展を行いました。1990年代初頭に旧ソ連支配を脱したエストニアでは、ITをはじめ様々な産業が興りました。いま特に力を入れているのがデザインで、エストニア・デザイナーズ協会のコーディネーションによって、20数社の企業、デザイナーズブランドが来日しました。左上はエストニアを象徴するマテリアル(木炭、ガラス、植物)を使ったアクセサリー。アンゲラ・オルグサールさんのデザイナーズブランド「K ILLUD」の作品です。上は1997年創業の張りもの家具メーカー「Softrend」。キャノピー型のチェアには防音性があり、オープンなオフィスで仕事に集中できます。エストニアには旧ソ連時代から続く大きな家具工場と、新しい工房的なメーカーがあるそうです。右上は「Ba lteco」のバスタブ。人造大理石製でカラーリングも鮮やか。背面のグリーンは「Growert」の縦型プランター。キッチン脇でハーブを育て料理に使うことも出来ます。
▼ジョン・ラスキンの描いた「ヴァル・ダオスタの7月の嵐雲」 July Thundercloud in the val daosta(1858)
博士課程でラスキンの環境思想を研究した花角聡美さん(日本女子大学助教、東京ラスキン協会会員)は「ラスキンが見た19世紀の空」をテーマに、ラスキンが1884年に行った講演「19世紀の嵐雲(ストームクラウド)」を中心とした発表を行いました。ラスキンのいう「嵐雲」はある種の比喩であり、気象現象だけではなく、人の精神の衰退やパニッシュメント(天罰)など、様々な意味をもつと花角さん。少年時代から各地を旅したラスキンは、空の青さを計るCyanometerを使い観測記録を付けていました。50年以上に渡る観察に大きな変化が表れたのは1870年代のはじめ「空が黒い雲で覆われる」異常な現象に気づきます。ラスキンはこの雲の特徴を6つに分類します。1)この現象は暗さをもたらす2)風が震えるように吹いている3)恐怖と興奮をともなって音をたてている4)明るさが2秒以上同じことがない5)通常の嵐よりもはげしい6)日光を漂白してしまっている英国の石炭消費量は1800〜1850年の間に6倍にも膨らみ、英国全土に鉄道が発達。都市人口は急増し街は工場労働者であふれ、硫黄を含む排煙は、自然界にダメージを与えます。ラスキンは工業化による単純作業によって働く喜びは失われ、その結果、大気の汚染が生じたと論じます。排煙を単純にスモッグとして考えず、ラスキンはプレイグクラウド、プレイグウィンドと呼んでいます。プレイグは出エジプト記にある「次々に起こる災害、神がもたらす天罰」を示し、大気汚染という冒涜を続けるなら嵐雲が人々を苦しめるだろうと唱えました。世界的な発展を続ける当時の英国で、石炭を燃やすことが神への冒涜というラスキンの主張は、冷ややかに受け止められました。発表当時のラスキンはRose LaToucheとの恋愛問題や、たびたびの発作に襲われ、不安定な精神状態による科学的論拠の薄い主張ともいわれました。しかし講演から135年がすぎた今も、石炭による二酸化炭素排出問題はCOP25の主要テーマです。ラスキンは警鐘を与える一方で、将来への希望も示します。人間の力で気象は変えられないが、身のまわりを注意深く観察し精神性を改善することで、環境を変える可能性があると訴えます。まさに今、日々の行いが環境を改善することを予言したのです。川端康雄教授は『「清らな空気、水、大地」と「悪疫の雲」-人新世の黙示録』をテーマにした講演を行いました。ラスキンは1870年代初頭、イギリスの労働者にあてた手紙(月刊の公開書簡)「フォルス・クラヴィゲラ」を発行しました。その第5書簡には、人生に欠かせないものとして、清い空気、水、大地、非物質的な称賛、希望、愛の6項目があげられています。それを実践するためにひらかれたエコロジカルな共同体「セント・ジョージのギルド」は、動力は風や波など再生可能エネルギーを利用し、蒸気機関は使わず、農業労働を中心として学校や図書館で教育を行い、音楽や陶芸を愉しむというユートピア的な共同体を目指していました。この計画は理想は高いものの悲惨な失敗だったといわれますが、セントジョージのギルドは今も活動を続けていて、ラスキンの作品やコレクションを公開するギャラリーも運営されています。
ラスキンが描いたアルプスの風景 「A View in the Alps」(1835)
横山千晶教授(慶應義塾大学)は、ラスキンの気象に対する鋭い観察眼と、19世紀の気象学の関係をテーマに「19世紀イギリスにおける気象学の発展と気候の表象」を発表しました。ラスキンは幼少の頃から様々な気象を観察・記録し、18歳の時、1837年ロンドン気象学会において「山脈の作用によって引き起こされる雲の形状と色彩」を発表しています。ラスキンが17年を費やした大著「近代画家論」では、ターナーの風景画を称賛する論拠として気象現象が随所に取り入れられています。第一巻第Ⅲ部第Ⅳ章「雲の真実3番目雨雲の領域」では、正確な筆致でアルプスの雲の動きを描写します。「蛇のような雲の線は、ものすごい速さで動き、やがてクルア・デ・ファー峠のスレート岩の下、パルム峠から続く谷に達した。そこで鋭角を成して向きを変えると、今までの進路に対して垂直にこの谷を滑り降り、最後はそれにまったく逆行し、村から500フィート以内のところまで降りてくる。そしてそこで消えたのである。」▼ターナーの作品「ストーンヘンジ、ウィルトシャー」水彩(1827-28)ソールズベリー博物館ロバート・ウォリスがエッチングにした「ストーンヘンジ、ウィルトシャー」(1829)テート・モダン
ターナーは、ストーンヘンジで雷に打たれた羊や羊飼いを「ストーンヘンジ、ウィルトシャー」に描いています。ラスキンは雲を背景にした雷について「その白い稲妻は、それほど観察力のない、あるいはあまり能力のない画家によって描かれるようなジグザグの防壁ではなく、特有の凄まじい不規則な火の流れとなって、暗い雲の上のみならず、雲の間に開く明るい青空の放つ強い光を通して降りてくる。しかしその青空の光とて稲妻の白い光芒を制することはできない。」と書いています。ターナーは写真技術のない時代に、多重雷(同じ放電路に沿って何回も繰り返す雷)の姿を正確に捉えていました。1880年代後半から気象学に写真が取り入れられ、ターナーの絵やラスキンの正当性が証明されていきました。
▼The Fighting Temeraire tugged to her last Berth to be broken up(1839)ロンドンナショナル・ギャラリー The entrance to Fowey Harbour, Cornwall
ラスキンはターナーの描いた気象現象を分類し、表にして各作品に当てはめています。光線をF、L、LF、LBの4種に分け、Fは前方からの光、Lは横からの光、LFは横と前方からの光、LBは横と後ろからの光としています。例えば、嵐に襲われたコンウォール・FoweyHarbourの絵(上)は「朝の横からの光(L)、日の出10分前、激しい嵐、トーチライト」と分析しています。戦艦テメレール号の絵(左)では「前方からの光(F)、日の入り5分前、空は輝く巻雲によって覆われている」としています。気象を正確に描くことで、風景画のなかに見る人を引きずり込み、体感させる。ターナーの絵を分析したラスキンの鋭い観察眼は、その美術批評、社会批評の土台となったと横山教授はいいます。哲学研究者の伊藤邦武教授(龍谷大学教授、京都大学名誉教授)は、ラスキンによる新しい経済思想を分析した「経済学の哲学19世紀経済思想とラスキン](中公新書)を著しています。今回、伊藤教授が着目したのは、ラスキンによる気象変動論の特性でした。それは「黙示録的傾向」、「ミルの科学論への批判」、「ミルの道徳論への批判」、「多面的・立体的文明批評の視点」の4点に分けられます。
■ 黙示録的傾向と未来への希望についてラスキンの公開書簡「フォルス・クラヴィゲラ」における「きれいな空気、水、大地」は、やがて絶望へと転じ「世界に花など存在しない」という終末論的な傾向を強くします。そのなかでラスキンは、未来の子どもたちに対しての責任を訴えます。当時、生まれていない人間に対しての責任を論じることは珍しく、ラスキンが哲学者として優れている点と伊藤教授。ラスキンの思考は複眼的で、終末論的な一方で建設的な精神の改善を訴え、真理の把握のためには、破滅の可能性が契機となることを指摘します。過去を振り返ることは懐古ではなく、過去に滅びたものが再生のヒントを与え、その先の希望となる新しい文明の可能性を与えてくれます。
■ ジョン・スチュアート・ミルへの批判についてラスキンは著書「この最後の者にも」(中公クラシックス)のなかで、ヴィクトリア期を代表する哲学者ジョン・スチュアート・ミルの社会科学論に対し「神の見えざる手」による経済の調和という幻想を人々に植え付けるものとして、厳しく批判しています。またミルの功利主義的な道徳論についても「最大多数の最大幸福」を求めることは、将来の人々が享受すべき幸福
を考えていないと否定します。今回の講演にあたり伊藤教授は、川端康雄教授が翻訳したラスキンの著作「ゴシックの本質」(みすず書房)を再検証したそうです。ラスキンはゴシックの特徴を6点あげ、建築的な性格は、荒々しさ・粗野、変化への愛、自然への愛、奔放な想像力、頑固さ、寛大さに見られるとしています。「ふたたび前に進み出て、古い大聖堂の正面をみつめてみよう。そこにみられるむかしの彫刻師の途方もない無知をあなたはたびたび笑ってきた。あの醜い子鬼(ゴブリン)や不格好な怪物、そして解剖学を無視したぎこちない姿のいかめしい彫刻をいま一度吟味していただきたい。だがそれらをあざ笑ってはならぬ。なぜなら、それらは石を刻んだ職人ひとりひとりの生命と自由のしるしなのだから。(中略)そして今日のヨーロッパ全体が第一の目標とすべきなのは、そこで生まれる子らのためにこれをとりもどすことなのだ」(「ゴシックの本質」)。ラスキンは道具としての人間を否定し、自然と人間の全てを認め、愛することを重視しました。そして将来の子どもたちに、中世の精神的価値を見直すことを求めます。これがやがてモリスのアーツ・アンド・クラフツ運動、ウィーン分離派、日本の民藝運動へとつながっていきます。「恥につぐ恥、失敗につぐ失敗、次々と間が空く。だが彼の威厳の総体もまたあらわれでるのである。そして彼の上に雲が垂れ込めているのを見るときはじめてその高さがわかる。そしてその雲が明るかろうが暗かろうが、その背後と内部には変容が生じることになるだろう」(「ゴシックの本質」)。人は失敗を繰り返し、はじめてその価値を見い出すといったラスキン。生誕200年がたった今、その思想を現実にすべき時が来ているようです。
ドラゴンシリーズ 64
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ベルリン三浦謙司ピアニスト
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年前の秋、彼とベルリンにあるトラットリアで待ち合わ
せた。その日、彼は東ベルリンを象徴するテレビ塔最上階にあるレストランで BGMのピアノ演奏をする予定だったが、そのアルバイトを休んでくれて再会することとなった。
彼は数年前からベルリンの音楽大学でピアノを学びながら、夜にはそのテレビ塔のレストランでアルバイトの演奏を毎日
のようにしながら生活していた。僕が
年前に住んでいた頃の
ベルリンからすると、違う都市のように大きく発展し、銃痕
が街中に残る東ベルリンの印象は微塵も感じられない。
の歳月は街も人間も大きく変えていた。当時、僕が暮らした西ベルリンよりも、ずっとモダンでお洒落な街並みに変わり、
何だか異次元を訪れた気持ちになって、僕だけが
空に取り残された過去の人間のような感覚に陥った。
僕にとっては久しぶりのベルリンで、プレンツラウアー地区にあるロシアの作家ゴーリキーから名をとった古いアパートを改装したお気に入りのホテル Gorkiに宿を取った。僕の知るベルリンの建物の感覚を少しでも Gorkiで感じたかった。僕の中には未だに東ベルリンと西ベルリンの壁が残っている。その
東西ドイツの併合に直面して時代の激動を経験した衝撃とその後の数年間の人間の混迷を目の当たりにした者として、その後の世の中を大きく変える変革期であったことの印象が強すぎ、その衝撃と概念から離脱することができていないのだ。
それだけ東西ドイツの併合、そしてその後の東西ベルリンの変化は、僕の中で経過する時代と言う意味を実感するものなのだ。そんな場所で久しぶりの彼との再会をトラットリアにしたのも、僕らが若い頃に苦しんでいた街で学ぶ彼に美味しい晩飯をご馳走したかったからかもしれない。
代後半の多感な時期に
彼の名は三浦謙司、 1993年生まれの現在
のピアニスト。僕がベルリンで待ち合わせをしたのは
になるので当時は
歳のピアニストだった。トラットリアに
彼が現れ、こんばんは、とにこやかに緊張するようすもなく。しかし、目の前に彼が座った瞬間に僕はどこかで感じたことのある感覚に捉われたのを憶えている。それは音楽家が持つ存在感では無い。
僕らはワインを飲みながら彼のベルリンでの生活からこれまでの彼の人生の道のりについて色々なことを話したが、話
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年
年前の時
歳。日本人
年前
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せば話すほど歳をとうに過ぎた僕のこれまでの人生の経験を圧倒するような存在感を、彼の放つ空気と言葉から激しく感じとった。それは、僕に
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も体験のある生と死の狭間を経験した者だけが放つものであり、正直日本
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人から初めて感じる匂いでもあった。僕が代前半、パレスチナの若者に
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首を締められた時に感じた、死から生き延びた者だけが持つものだった。
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彼は歳の時に音楽の奨学金を得て単身でイギリスに渡り、歳からこれまで親からの支援など一切受けずに生き続けてきたと言った。代のころは父親の仕事で中東の生活を送っていたものの、現地の学校は荒れ果て、小さな子供がナイフなどで武装し、何度も刺されたり殴られたりして帰宅した。しかし彼の父は、日本人として負けて帰ってくるなと現地の学校を続けさせ、戦いに挑む心を持つよう子供に伝えたと言う。過酷な環境の中で生き抜くことが彼には必要だった。そこで生きるには闘うしかなく、ボ
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クシングを身に付けたのもその為だった。僕が感じた匂いは格闘家のもつ柔らかさの中に潜む、鋭利な尖った殺気に近いものだったのだ。
そんな歳前後の幼少期を中東で過ごし、過酷な環境で生き抜いた少年にとっては、歳でのイギリス単身生活は、さして困難ではなかったのかもしれない。しかし彼はイギリス留学の後にアメリカに渡り。一度代後
半でピアノを辞めている。その時に
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訪れたカナダで自然のスケール感に
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ふれ、自身の悩みや存在の小ささを
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感じて、もう一度ピアニストとして頂点を志すようになったと言う話をしてくれた。
彼は話の後半で目指していること
を堂々と一瞬のまたたきもせずに、
一切の表情も変えず平然と毅然とし
た態度で『ショパンコンクールで優勝します』と言い切った。
彼が日本に帰国する機会があった2018年に Time & Style Midtownで「三浦謙司ソロライブ」を開催した。冒頭に彼は右手でマイクを握り、左手はポケットに突っ込んだまま、クラシックの演奏には似つかわしくない立ち姿で無愛想な挨拶をして演奏を始めた。圧倒的な演奏はこれまでやってきたジャズライブとは異なり、 Time & Styleの空間と聴衆のクラシックに対するイメージを一変させる迫力あるものだった。そして演奏後にお礼も兼ねて、スタッフとの懇親会に参加してもらうことにした。それは、僕からのスタッフへの大きな贈り物であり、世界の中で生き抜いている同世代の若者から何かを感じとって欲しかったからだ。そんなチャンスなど一生の中でもなかなか巡り合うことはない。
2019年月日のNHKニュースで、フランスで開催された年の歴史を誇る「ロン=ティボー=クレスパン国際コンクール」で年ぶりに日本人ピアニストが優勝したと言うニュースが流れていた。優勝者の名は三浦謙司、日本人歳。来年2020年秋、ポーランドで開催される年に一度の世界最高峰のピアノコンクールで未だに日本人の優勝者はいない。
JR中央線で新宿から約1時間半。旧藤野町(相模原市緑区)は、相模湖をかこむ中山間地(平野の外縁から山間にかけての地域)です。約8割を山地が占める東西6.8km、南北13.5kmの旧町域に、約8,500人が暮らします。2019年10月12日に通過した台風19号では、首都圏のなかで大きな被害を受けた場所のひとつでした。
藤野倶楽部から見た景色。藤野にはまとまった平地が少なく、里山の裾野に数軒〜数十軒単位の集落が点在します。
会場は藤野倶楽部「結びの家」。ふじの里山くらぶ理事長の星さんから、会の趣旨について挨拶がありました。災害を受けた今こそ、住民の力が試されるときと星さん。
台風19号の被害をうけ、気候変動に取り組んできた「ふじの里山くらぶ」によって、気象変動の藤野学ワークショップが開かれました。台風の総雨量は約770ミリに及び、70件近い崖崩れが起きました。車に乗ったまま川で流されたり、崖崩れで生き埋めになった方もいて、崩落、亀裂、冠水、土砂流入などで道路が寸断し、孤立して停電や断水が続いた集落もありました。また1週間ほどJR中央線や中央高速道が土砂流入により不通となり、東京方面との交通が困難になりました。
▲ 名倉地区 自治会長 倉田さん。 ▼ 藤野の夏祭り。祭りに人が集まる際に、訓練を行うことも検討されています。
今回のテーマは「水土砂災害と支援ケースに学ぶ」。各自治会の方と外山咲子さん(シェアリビング・コタン)が、災害に対する備えや台風当日の体験について発表しました。名倉地区自治会長の倉田さんは、防災訓練に人が集まらない現状を訴えました。藤野小学校で起震車体験や簡易トイレの組立など防災訓練をしたものの役員以外は数名しか集まりませんでした。次回は1月のだんご焼き祭の時に、煙体験やAED体験をしたいそうです。高齢者が多い地域では、数軒単位で集落が離れている所があり、どこへ避難するかを検討しています。藤野小学校は地震の避難場所であるものの、台風の避難場所ではなく、藤野中央公民館が満員で返された人がいました。藤野芸術の家も避難場所ではあるものの、山の下の道は水が出て通行不能になることもあり、避難所不足や移動の安全の確保が課題になると分かりました。吉野地区の自主防災組織副本部長佐藤さん(右)と指導員長田さん(左)。吉野地区は「防災計画書」を作成しています。
吉野地区の自主防災組織からは佐藤さん、長田さんが参加。指導員の長田さんが防災組織の構成や防災計画を説明しました。災害には主に風水害、地震、豪雪の3種があり、それぞれの対策は全く異なります。地震はいつ来るか分かりませんが、家の耐震性を高めるなどの備えができます。一方、崖崩れ、洪水などの風水害は、予知は出来るものの、避難することでしか生命を守れません。藤野では特に崖から離れることが大切で、数軒離れた家に避難すれば助かったケースもあります。吉野地区では公的な避難所を設けると共に、親戚、友人宅、自治会館など、なるべく近い場所に避難することをすすめています。そのためには普段から安全な場所を探し、関係性を築く事が大切です。台風19号の教訓として、組織の活動を開始するタイミングがあげられました。防災計画書を見直し、避難準備が発表されたらすぐに避難所を開設して、避難を始めることを検討しています。一回、避難を体験をすれば、次はスムーズにできるようになるそうです。
各所で大きな崖崩れが発生し、早めの避難の重要性が改めて分かりました。相模原市は84カ所の避難所を開設し最大6000人が避難しましたが、藤野では避難所不足が課題となりました。
▲ 外山咲子さん(シェアリビング・コタン)。 ▼ 「ふじの里山くらぶ」の皆さん。
日連地区で「シェアリビング・コタン」を運営する外山咲子さんは台風19号を振り返り、避難所の不足、安否確認の重要性、ボランティアの課題などを発表しました。シェアリビング・コタンは、普段は講習会やサークル活動、食事会に利用され、様々な人が集まります。千葉県に大きな被害をもたらした台風15号(9月9日千葉上陸)の時は、トランジション藤野による藤野地域通貨「よろづ屋」のメーリングリストを活用して、600人ほどのメンバーに連絡をとり、夕方すぐに集まって弁当をつくり千葉の被災地に届けたそうです。その後、台風19号(10月12日)の際は、子どもの安全を確保するため早めに東京に避難した人もいましたが、外山さんは気象庁の情報を見ながら子どもと家に待機し、藤野芸術の家か中央公民館に避難しようと考えていました(すでに近くの避難所は一杯でした)。その時、夫の実家が崖崩れに巻き込まれたという連絡が消防団からあり、家族が残っているかどうか聞かれました。父が残っていることが分かっていたので救出を依頼し、幸いなことに一命をとりとめました。
■安否情報の一元化と「ハザードマップ」の課題この体験から外山さんは、安否情報の大切さを知ったそうです。避難所に避難した場合はリストに記録が残りますが、知人や親戚の家に避難した場合はデータは残りません。今回は父が家に残っていたことが分かっていましたが、車で家族を探す途中に被災するなど、藤野では二次災害も起こりました。住民の居場所の情報を一元化して、すぐにアクセスできる仕組みが必要と感じたそうです。これは個人情報に関わるため、行政での対応が求められます。気象情報や「ハザードマップ」など、事前情報の活用にも課題がありました。風雨のピークは9月9日午後6時といわれていましたが、崖の斜面はその前に崩れ始めました。また被害者の出た崖崩れ現場は、ハザードマップの危険地帯に含まれていませんでした。事前の情報を元に、まだ大丈夫、ここは安全と判断することの怖さを知ったといいます。倒木や土砂により道を遮断され、行き来出来なくなった集落もありました。■避難所の不足と快適性の大切さ避難所については、地区一帯に避難指示がでたものの、避難所が足りない、避難所に行けないケースがありました。今回、外山さんが強く感じたのは避難所の快適性でした。崖崩れが多かった地区の中にも「あそこに避難するなら家の方がいい」と避難しない方もいました。普段使わない避難所はカビ臭かったり、毛布がなかったり様子が分からないため、日常的に行き慣れた場所でないと足が向きにくいのが実情です。その中で「篠原の里」(篠原地区の元校舎を活用した宿泊交流施設)には、保育園、カフェ、宿泊施設があり、日頃から集まる場所として機能していたので避難者が多く、長期にわたり滞在した人もいたと外山さん。ただし正式な避難場所ではないので、安否確認や公的な援助の点に課題があり、民間と行政の協力体制がポイントとなります。これから災害が多くなるなかで、避難所の利用は増えると思われます。普段から避難所などでイベントを開催し、停電に備えて薪で煮炊きするなど、親子で楽しみながら訓練することも考えらます。今回、外山さんたちはボランティアとして炊き出しやマッサージ、物資の配達など、様々な活動を行いました。千葉の台風支援をはじめ、普段から顔の見える関係を築き、活動を続けてきたからこそ迅速にスタートできたといいます。
■災害から見えてきた藤野の希望国道や中央高速道、JR中央線が不通となり、スーパーに生鮮品が入ってこなくなったとき、外山さんは道端の無人販売所で多くの野菜が売られている事に気づいたそうです。藤野には野菜を作る人が沢山いるものの、普段はスーパーで他県産の野菜を買って食べている。そこで、炊き出しをした際に畑の余剰野菜を利用し、情報を一元化して各地区に配達する試みを始めました。台風を経たことで、地元野菜の新しい流通方法など、地域活性化のアイデアが見えてきます。藤野は災害により強くなり、もっと結束できると外山さんはいいます。▼ 藤野倶楽部では色々なワークショップが開催されています。普段から集まることが防災の基礎づくりになります。
発表が終わったあと、参加者全員がグループに分かれ、輪になって台風の体験や課題を語り合いました。
■ 篠原で介護事業所を運営する、宮内さん90年間氾濫しなかった自宅前の川が氾濫して車が水に浸かった。高齢者の避難は大切な課題。台風の日は、通所や訪問サービスは中止したが、一人暮らしの高齢者をどうするか、職員だけでは助けられない。また避難所に連れていったものの、帰りたいという高齢者もいた。ひとりでは歩けない方もいるので、誰が誰を助けるか(地域の人、家族、職員など)、あらかじめ決めておくべきと感じた。
■ 70年以上藤野に暮らす牧野地区の方外山さんの避難の話には共感した。特に女性はトイレなどが綺麗で清潔でないと難しい。そこは行政も考えるべきだと思う。早めの避難は判断が難しいので、どのレベルで避難するか、どこに行くかを家族で決めている。住民が恩恵を受けてきた自然環境が、マイナスになる可能性を感じている。
■ 「藤野倶楽部」代表、桑原さん藤野では39年前に、山が崩れて人が亡くなった事があった。こうした過去の歴史を知ることも大切。災害のあと、若い人がボランティアとしてすぐに動き出したことに感動した。全国でもこれだけ頑張った地域は少ない。しかし、ボランテ
▲ 介護事業所「すずかけの家」を管理する宮内さん。
▲台風15号の際は「藤野電力」のメンバーが、千葉・布良(めら)地区にでかけ、ブルーシートの設置を支援しました。
ィアは資金的、体力的にいつまでも続けられない。そこを行政がどう支援するか。藤野独自の検証を行い、行政と話し合いながら対応を進めることが大切と思う。
■ 柴田地区の自主防災会隊長 池辺さん名倉の自治会長倉田さんとは防災の話をよくしますが、住民の関心が薄く、心が折れそうになる。避難指示がでて集会場を開けても誰もこない。確かに安心して避難できないのかもしれない。そんななか災害が起こると安否確認ができない。普段からのコミュニケーション不足が浮き彫りになった。今回は実際に身のまわりで災害が起こり、気象変動がおきていることを痛切に感じた。世界各国が気候危機を宣言しているなかで、日本は出遅れている。気候変動を緩和すために日々行えることと、災害時の対応策を両輪で考えていきたい。
■ 藤野倶楽部の近くに暮らす高橋さん手作りの電力をつくる「藤野電力」に関わっていて、防災時の電力をどうするかについて、相模原市と協力して啓蒙活動を始めます。今回は崖崩れの場所について、専門家の意見やドローン映像からを分析を行いました。林道から崖が崩れはじめたり、整備の行き届かないスギ、・ヒノキ人工林の斜面が崩れるケースが多いことが分かった。元々、田んぼや
藤野倶楽部では、地元農家が野菜を直売する「ビオ市」が第一、三火曜日の朝8時〜11時まで開催されています。
畑のエリアは土がやわらかく崩れやすい。また間伐材を山で切りっぱなしにしておくと、それが流れ出して被害を与える。広葉樹の植林などの対策が必要と感じる。
■ 吉野地区自主防災組織 佐藤さん今回の災害はまったくの想定外だった。風水害は事前に状況を予測できるので、自分で判断して、安全を確保することが大切な時代になった。テレビのインタビューでは、どの街の高齢者も「生まれて始めての大きな災害」という。今は過去のデータは当てにならず、どんな災害が起こるか分からない。2011年東日本大震災の後から、個々の意識が変わってきた。吉野地区は9月の第一日曜を防災の日にして安否確認訓練を全戸で行っている。自治会の未加入者にも計画書を配り、訓練に参加してもらう。今は誰が誰を助けに行くか、細かく決めておく協議をしている。
江戸時代から藤野に暮らす旧家の方、新しく藤野に移住した方が経験や課題を語り合うことで、アイデアや知恵の伝搬が行われることを、今回のワークショップで感じました。こうした事態は藤野だけでなく、全国各地で毎年のように起こると思われます。災害は多くを奪う一方で、人々が垣根なく集い発展する機会を与えてくれます。日本人はこうして、この国での生き方を模索し続けてきた民族と思いました。
ホアキン・トレンツ・リャドという画家の名前を知ったのは、7年前。会社に届いたカレンダーの中にこの画家の絵があった。
当時大掃除の後には、会社に届いたカレンダーを会議室の机の上に広げ、各部署ごとに使いやすいカレンダーを選び、その他は各自気に入ったものを自宅用に持ち帰った。大判のカレンダーは飾る場所が難しいとのことで案外人気がない。数点の残りの中から綺麗な花の絵が描かれたカレンダーを見つけ自宅用にといただいた。リビングの壁に掛けるとそこに絵があるように華やかだった。以降、毎年リビングには欠かせないカレンダーとなっていた。
会社を退いた後も、大判のカレンダーは引き取り手が
ないとのことで、保管してくれていた。が、最近は会社に届くカレンダーは少なくなったようで、このカレンダーもなくなったとのこと。それまでカレンダーを買うということはなかったが、綺麗な風景写真や使いやすい卓上カレンダーを探すのも楽しみの1つになっていた。しかし、リャドの絵が載っているものはどこにもない。リビングの壁には買ってきた写真カレンダーを掛けてみたが、月替わりにめくるトキメキはない。
もうリャドのカレンダーは手に入いらないかと諦めたが、年明け、ふと駄目元でもと思い切って発行元の印刷会社に電話をしてみた。広報に繋いでくれた。事情を話し、有料でもいいので譲ってもらえないかと。売り物ではないが、在庫があるので送ってくれるとのこと。思いがけない返事に大感激。諦めていたリャドのカレンダーを今年、3年ぶりにリビングの壁に掛けることができた。
2カ月毎に変わるカレンダーの絵を楽しみながら、今
想いかなった原画鑑賞
年最後の1枚となった花を眺めている。
リャドは、1946年スペイン生まれ、1993年、47歳の若さで突然亡くなった。カレンダーを通して彼のプロフィールを知ったが、王室画家として著名な人物や肖像画を数多く描いたスペインを代表する画家とある。
カレンダーに描かれているのは花のみ。モネのような印象派の雰囲気なのだが、弱くて強い、強くて儚い、明るさだけでない、もの哀しさが漂っているのはなぜだろうと、ずっと気になっていた。原画をどこかで観ることができないか。リトグラフでもないか、インターネットで探してみたりしたが、若くて亡くなっているので作品もあまりなく、原画を観るのは容易でなさそうだった。が、今年9月、電車の小さな吊り広告で横浜で展示会が開かれることを偶然目にした。目は釘
付けに、すぐにネットで調べて、展示場所を確認した。初めての、みなとみらい駅、何度も同じ場所を行ったり来たり、上がったり下がったりを繰り返し、ようやくのことで会場にたどり着いた。
入り口に原画が飾られていた。思った以上に大きく迫力がある。絵の具の飛び散り、花の色付け、光のあたり方、独特の額縁内の窓枠。原画は数点だが、7年間毎年リビングを飾っていたカレンダー
の絵がそこにあった。「弱くて強い」「強くて儚い」、じっくりと絵の中に吸い込まれながらそれを直に感じることができたのは、今年得た喜びの1つでもある。
47歳で亡くなったリャドの絵を知ったのも偶然ではないだろう、焦がれた原画を観ることができたのも、また時の流れがあってのこと。この感激を大事にしたいと思う。
展示を記念して発行された画集がようやく届いた。カレンダーの花の絵も収められている。ずっと捨てられずにいたカレンダーをようやく処分することができる。
画集をゆっくり眺めながら、新しい年を迎えられることとても嬉しく思う。
Photoレポート千葉県の中でも、台風15号、19号などの被害を最も強く受けた町のひとつ鋸南(きょなん)町。台風15号から2カ月ほど経ってからも、半分ほどの住宅にブルーシートが掛けられていました。
鋸南町のいま
多くの方が、雨水の染み込んだ自宅で暮らし続けています。洪水とは異なり、2階の穴から雨水が染み込んでくるため、家全体に水がまわり壁にカビが出てくるなどダメージが深刻になっていきます。
本来であれば、1日も早く屋根を修理するべきですが、業者不足から1年、2年待ちといった事態が続いています。ブルーシートも3カ月経つと痛みがひどくなり、防水性を保てなくなります。防水シートなどへの張替えが、ボランティアの手で行われているももの、高所で作業できる人は限られていて、全ての住宅の張り替えを行うのは難しいのが実情です。安房勝山駅前の千葉銀行も、台風による浸水で数日にわたり銀行業務を行えず、今後の課題を残しました。
鋸南町役場は天井が崩落し、正面玄関から入れない状態が続いていました。自宅で調理できない住民に対して、温かい食事を提供するサービスを続けていました。
一部では屋根の修理が始まる一方で、ブルーシートが剥がれても、対応できない家もあります。高齢化の進むなか、子どもの家に転居した高齢者もいて、被災した空き家の管理もこれからの課題となりそうです。
大黒山のふもとの家は、建て替えを行っていました。外観からは被害の程度が分かりにくいのも今回の特徴で、家の中に水が回ってしまうと部材を乾かすのは難しく、建て替えるしかないケースも多くなっています。
大黒山の展望台に登ってみました。途中には房総捕鯨の祖といわれる醍醐新兵衛定明の墓所があります。急な階段は何とか登れますが、倒木の枝があちこちにもたれかかり、頭に当たる場所もありました。
大黒山から望む勝山港。台風の風の向きと地形の関係によって、近接する地域でも被害が大きく異なりました。昔の漁師たちは小高い山の上から数日先の天候を予測し、気象庁よりも当たるといわれたそうです。
風雨の強かった漁港の近くの家々。RC造の漁協もガラスが割れ大きな被害を受けました。ブルーシートを土嚢で抑えているものの、風雨によって剥がれかけている家もあります。
かつて捕鯨で賑わった鋸南町は、まるで京都のように豊かな街といわれたこともありました。
鋸南町には古くからの住人の他に、1990年代前後のバブル経済期に別荘を購入し、会社をリタイアしてから暮らしはじめた人がいます。千葉県の中でも人口減少率が高い町で、高齢者の多い地域特有の問題を抱えています。ある住人の方は、夫が半身麻痺のため避難指示が出ても避難できず、屋根に穴が空き水が流れてくるなか、水の来ない部屋に移動し恐怖の一夜を過ごしたそうです。その後もデイサービスの利用などを続けるため、今の家を離れる事はできず、カビが生えるなか数カ月にわたり暮らしています。
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