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真鶴や美し相模の宝島
時空を超える美意識
鶴舞 2019 https://collaj.jp/
海・山と生きる真鶴
神奈川県西部に位置する真鶴町。その半島は箱根の山々を背に、鶴のように見えることから古くは「真名鶴」と呼ばれたといわれます。日本のリビエラの名のもと東京から鉄道の便もいい真鶴には、大正、昭和初期から多くの文人、画家、財界人が往来しました。
真鶴「美の基準」が守ったもの
1980〜90年代のはじめ、大型のリゾートマンション建設ブームに沸いた相模湾沿岸の街々。周辺の街が大きく姿を変えるなか、真鶴では「背戸道」と呼ばれる路地が網の目のように広がり、起伏のある懐かしい風景が残りました。無秩序な開発の抑制に貢献したのが、1990年〜2004年まで町長をつとめた三木邦之さんの提案で制定された真鶴町まちづくり条例「美のd基準」(Design Chord)です。
▼坂道の途中に設けられた石のベンチ。坂の上から景色を眺める贅沢。
建築家や弁護士、町づくりプランナーが参加して作られた「美の基準」の目的は、石材業や漁業によって発展し、半島の風土で醸成された町の空気を後世に伝えること。文化財のような古民家の町並みではなく、トタン屋根やモルタル、鉄筋コンクリートを含め、普通の暮らしから生まれる家々の連鎖に価値を見出しています。真鶴産小松石の石垣は見どころのひとつ。様々な積み方が見られます。
「美の基準」は、クリストファー・アレグザンダーが提唱した「パタン・ランゲージ」や英国チャールズ皇太子の料」、「装飾と芸術」、「コミュニティ」、「眺め」を軸にして、1 993年に制定されました。
材」、「和調」、「度尺」、「けづ格」、「所場則「原のつ8たしに考参」を察考るす関に築建-像来未の国英「
▲町のあちこちにあった井戸。関東大震災の際は多くの命を救いました。
「美の基準」制定から30年近くたった今、真鶴はバブル経済期の開発を逃れ、静かな町並みを保っています。石材の町として栄えた真鶴には様々な石垣が連なり、豊かな緑をまとった石段と連続します。家々の門は訪れる人を歓迎するように植裁や石垣で飾られ、道との境界を曖昧にしています。家並みの変化を楽しみながら歩いていると、坂道が多いにも関わらず疲れた気がしません。
▲背戸道は自動車の往来には不便なところもあり、車の便が良いよう新たに開発された高台の住宅地もあります。
色や形を規定したり、法律的な文言や数値によって定められた景観条例とは異なり、「美の基準」には人々が心から求める町の姿が描かれています。キーワードには未来に向けての詩的なイメージが散りばめられ、個々の利益だけを優先した小手先の工夫を許さないウェットな熱意に満ちています。
近所のスーパの店先に、くわいと京人参がならんだ。
昨日までクリスマスケーやチキン、シャンパンやワインが所狭しと並べられていたが、
かまぼこや伊達巻、田作り、黒豆と、お正月のお重に詰めるものが棚一杯に並べられている。近頃は出来合いのお重をデパートで注文することもあるが、煮しめときんとんだけは毎年作るようにしている。作っても到底食べきれないけれど、母の味を忘れないため、里芋の皮むき、サツマイモの裏ごしはボケ防止、体力維持と続けている。作った煮物は大きなお重に詰め、近くにすむ妹の家に届ける。お正月に集まる姪や甥の口に入れば、あっという間に空となる。「おばあちゃんの味!」と言ってもらえれば、里芋の皮むきで指がつったことなど忘れてしまう。
母のエプロンを締めて台所に立ち、椎茸を戻し、ご
ぼうの泥を落とし、野菜の
皮むきは、私にとって暮れ
の紅白歌合戦と同じように
年末行事のひとつとなって
いる。
去年はたくさん作りすぎ
て、何度も火を通した煮しめが七草がゆまで続いたので、今年はもういいかなぁと思ったが、形のいい「くわい」と、色のいい「京人参」が、目に入り、そのままお正月用煮しめモードにスイッチが入り、気がつけば、ごぼう、レンコン、タケノコ、里芋、コンニャク、椎茸と一通り買っていた。
くわいは父が大好きでお正月のお重には必ず入っていた。子供の頃、その味はわからなかったが、父が亡くなった後、ほろ苦いくわいは、我が家のお正月定番として、兄や妹の子供たちにも伝えたいと作り続けている。
一通りお正月の準備を終えた後、買い足しものがないかデパ地下を覗きに行った。
お正月の煮しめ
年配はあまりいない。子連れの40代、ファミリーが多い感じだが、人気は洋食のオードブルコーナー。ハムやチーズのコーナーも多い。うん?クリスマスでさんざ食べたんじゃないの?デパートも2日から初売りで開くのはわかっているのに、パン売り場は長蛇の列。お正月の食べ物志向は随分と変わってきているのかもしれない。煮しめだけは作っていこうと改めて思う。
正月2日、妹の家に煮しめのお重と頂き物のとびっきりのお酒を持って出かけた。お正月は元旦で終わりとお重はもう片付けられている。聞けば、暮れからみんな集まって元旦で全部空いた、とのこと。すでに子供達は出かけていて、おばあちゃんの煮しめと、真っ先に椎茸に箸をつける姪も、おじいちゃんのくわいだね、と喜ぶ甥の姿もなく残
念だったが、ようやく大晦日の喧騒から解放された妹はホッとしていた。
持って行ったお重の蓋を取り、金賞酒で乾杯!。妹のダンナさんは、お酒が殊の外好きでこれまた詳しい。持って行ったお酒はどういう製法かひとしきり能書きを垂れる。
食べ物にもうるさい。凝った料理はその材料から火加減、秘伝の隠し味まで、後始末は女房任せだが、家族が唸るほどの味だという。私は一
度も食べたことがないが、聞いていればいかにも美味しそう。そんなにいうなら私の家で作ってくれというと、二つ返事で「いいよ」という。「ただし、ステーキ用の肉は ……」途中で妹がお酒を上手に取り上げて、お開きとなった。まぁ、お正月の話半分と思っていたら、後日、「お酒は空になりました。お肉は XXの Aランクでね」とメールが入った。
七草がゆが過ぎると、同級生の友人から、「野菜を食べてる?」と写真つきメールが入った。大根と葉のゆず入り塩もみ。ステーキよりこちらの方が美味しそうと思ったが、良質なタンパク質と野菜でバランスとって、今年も健康第一に!と誓う。
自然と向き合い生きた芸術家中川一政美術館
「お林」と呼ばれる真鶴半島自然公園の一画に、樹齢数百年の樹々に囲まれた真鶴町立中川一政美術館があります。円筒をモチーフに自然と一体になった建築は、東京都現代美術館などで知られる、 柳澤孝彦+TAK建築研究所の設計。1990年、吉田五十八賞を受賞しました。
「福浦突堤」(1966) 中川一政 73歳。
達磨は面壁九年、私は堤防二十年。
明治26年(1893)に生まれ、97年の長い人生を創作に生きた中川一政。「生命の画家」とも称される中川一政が、後半生の40年以上を過ごしたのが真鶴でした。太平洋戦争が終わり、荒廃した東京を離れ56歳で真鶴にアトリエを築いた中川一政は、福浦漁港の景色を気に入り、突堤からの景色を20年にわたり描き続けました。突堤にキャンバスや道具を持ち込み、ひとつの作品を数年掛けて現場で描くのが、中川一政の創作スタイルでした。
中川一政美術館では、「中川一政唯一無二の画室を求めて」を開催中(2020年2月25日まで)。福浦漁港の作品を見比べることができます。真鶴に暮らすようになった動機が、随筆「真鶴」に書かれています。真鶴に立派な屋根瓦の家があると大河内正敏子爵(理研所長)の別荘を紹介された中川一政は、雪の降る日に真鶴を訪ねます。番人に別荘のいわれを聞くと、元は向島にあった成島柳北の茶室で、戦時中は幸田露伴が暮し、岩波書店の小林勇がよく訪ねていた場所でした。松林を抜けて福浦の港にでた中川一政は乾いた喉を水が通るような、まったりしたあたたかなものを感じます。素朴な漁村は、空襲で荒れ果てた東京を見てきた心を和ませてくれるのでした。
生命ほとばしる駒ケ岳
昭和42年、ドライブの途中で見つけた芦ノ湖スカイラインからの風景が、第2のモチーフとなりました。湖の向こうに見える箱根駒ケ岳の山容が、中川一政をとらえたのです。駒ケ岳の創作は70代〜90代まで続き、中川一政はこの場所を「天上天下 唯一人のアトリエ」と称したそうです。
「駒ケ岳」(1979) 中川一政 86歳▼ 開館時を伝えた「中央公論」1989年5月号の記事。
美術館建設のきっかけとなったのは、中川一政から真鶴町に寄贈された油彩画117点、岩彩34点、書137点でした。1989年のオープニングには96歳の中川一政が参加し、自らテープカットを行いました。
「薔薇」(1987)「向日葵」(1980)
中川一政を象徴するモチーフのひとつがバラです。マジョリカ焼やペルシャの壺に花を活け、その生命力を表現することに挑みました。額装も自らデザインして、絵に合わせて作っています。
80代、90代の作品から、ほとばしるようなエネルギーを感じます。キャンバスをよく見ると、ところどころに草の葉や種が付着し、現場での格闘をうかがえます。
孫を描いた肖像画や岩絵の具を使って魚などを描いた「岩彩画」も展示されていました。向田邦子との対談で「サカナってのはこわいですよ、目が。」と中川一政は応えています。「霜のとける道」(1915)
中川一政は明治26年、東京・本郷生まれ。若山牧水など歌人、文人の家に出入りし、少年の頃から詩歌や散文を新聞、雑誌に発表しました。当時、若者たちの心を掴んだ雑誌「白樺」に掲載されたゴッホ、セザンヌに触発され、舶来の油絵の具一式をプレゼントされたことから油彩画を描き始めます。岡本太郎の父・岡本一平とも親しく、デビュー当時の作品「霜のとける道」はキャンバスが無かったため一平の作品の上に描きました。それが若手登竜門といわれた巽画会展で、岸田劉生に認められ劉生の草土社に参加。その縁で白樺派の武者小路実篤、志賀直哉たちの知遇をえて美術学校には入らず、留学もせず、独自の創作にはげみます。
中川一政の希望で造られた茶室。床には真鶴産の「本小松石」が敷かれています。
中川一政は、風炉先屏風や花入れ、茶碗、茶入、香合、茶釜などを自作して茶を楽しんでいました。美術館の茶室で茶会をひらくことを心待ちにしていたそうです。「漢詩貼り混ぜ屏風」には、李白、王維などの漢詩を書いています。
椅子やテーブルなども、アトリエで実際に使われていたものです。
美術館の近くに、生前のアトリエが復元されています。イーゼルには描きかけの駒ケ岳が掛けられ、絵の具や筆、パレットなどは、今も使われているように見えます。棚には大量の油絵の具がストックされ、色の名前が大きく書かれていました。アトリエの見学は定時のツアーで行われています。
中川一政が、世界で一番大きいアトリエと称した福浦漁港の突堤。20年にわたりここに立ち、漁村の姿を描き続けました。海岸の姿は大きく変わりましたが、赤い灯台は今も健在です。
世の中の変化というのは目立たぬ形で始まり、我々がそれと
気付いたときには、すでに地殻変動が起きている。中には、その構造変化に気づいた時、「漠たる不安」が心の奥底に生まれるような事柄が、ある。
たとえばスーパーやデパ地下の魚売り場に並ぶタコ(蛸)。数年前から「モーリタニア産」がメインとなっていて、脇に申し訳程度に、より価格が高い「明石産」がわずかに並ぶ、というのが当たり前の光景になっている。今では「今日は明石のタコが出ている!」と驚く始末。この5年ほどの間に起きた大きな変化だ。日本近海で地場のタコの漁獲量が減り、それを埋める形で、輸入タコがそれに取って代わった、ということだ。それにしても、モーリタニアって、どこ?
地理的にはアフリカ大陸の北西部に位置し、フランス帝国の旧植民地。西サハラ・アルジェリア・マリ・セネガルと国境を接し、西部は大西洋に面して約 700km近い海岸が続く。宗教はイスラームが中心で、その歴史は長く、食はその戒律に
モーリタニアの魚市場。
基づくハラルに従うのが当然とされている。で、タコだ。コーランの教えでタコ食が許されるか否か。広大なイスラーム圏で、タコ食を禁忌的に捉える地域と、そうでない地域に分かれるようで、モーリタニアはインドネシアと並んで、タコを食べることが禁忌とされていない。だから昔から、ある程度タコ漁が盛んで、そこ
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に日本の商社マンの誰かが目をつけた、のが始まりではないだろうか。
宗教的な食の禁忌は、明確に戒律に記されたものは格別、その具体的な適用にあたっては、地域の食文化や時代風潮に応じて、時々に力を持つ宗教者の「解釈」に左右されることが少なくない。例えば、キリスト教圏では断食日(期間)に肉食を遠慮して「魚」を食べる習慣がある。コロンブス以後(キリスト教の普及後)の中米では、ウミガメが「魚の一種」として解釈され、そのため、断食期間に食べる一番のご馳走となっていく。これが結果としてウミガメの乱獲につながり、事態に危機感を覚えたローマ教皇庁が、教皇自身のメッセージで、その捕獲を止めるように訴えるという事態に至っている(本連載第回)。
イスラームのハラルにせよ、ユダヤ教のコーシャにせよ、全世界一律に同じ解釈で食の禁忌が徹底されているわけではない。このあたりが「世界宗教」の寛容性であると同時に、セクト間の対立を招く遠因ともなっている。なぜなら食の禁忌は、人間の生理的な感覚に直結するものであるため、根深い嫌悪の情の源となりやすいからだ。
モーリタニアのタコに戻ろう。人口僅かに百万人足らずで、国土の大半が砂漠である発展途上国で、ここ年ほどの間に、日本向けのタコの輸出が爆発的に伸びた。鉄鉱石の採掘と多少の石油産業に頼る同国の経済にとって、「タコ漁」は今や最重要産業の一つとなりつつあり、その資源保護と輸出のための品質管理に向けて様々な施策が講じられている。我々は「モーリタニアのタコを目にするようになったなあ」という程度の認識だが、あちらにとっては、政府が本格的に肩入れして、
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タコ漁業の発展に取り組む状況となっている。我々自身の海産物に対する貪欲さが、さして意識しないままに、アフリカの果ての国の漁業資源問題に影響を与えている。人口減少衰退中とはいえ、1億2千万という人口で、いまだ巨大な経済力がある国家の動向は、他国の経済に大きな波紋を広げることがあるのだ。
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ところで、パンガシウスという魚をご存知だろうか。これ、ナマズ科の汽水&淡水魚で、日本には、ベトナムのメコンデルタ地帯の養魚池で養殖されたものを中心に輸入されている。現在では、この魚の養殖は、タイ・カンボジア・ラオス・ミャンマー・インドネシア・バングラデシュからパキスタンにまで広がりつつある。稚
ヴェトナムの養殖魚 パンガシウス。
魚からドッグフードのような丸薬状の配合ペレットを餌にして半年で1〜 1・5キロに至り、さらに成長する。条件さえ整えば、それだけ養殖が容易でお商売になる魚なのだ。
中でも規模の大きなヴェトナム。その加工場は、まさに巨大な工場そのもので、清潔な白衣に身を包んだ若い女性を中心に、数百人の手によって、ものすごいスピードで魚が処理されていく。おろされた身は巨大な回転タンクで薬剤洗浄され、臭みをすべて抜き去った上で急速冷凍され、箱詰めされて輸出される。もちろん旧宗主国フランスはパリの魚屋にも定番として並んでいる。
従来、最大の輸出先は米国で、次いで香港を筆頭とする中国、そして
なっていたものが、近年は日本が最大の輸出先となりつつある。これは注目に値する出来事だ。世界でも有数の海の魚食い民族である日本人が、他国から輸入してまで、ナマズを食べるに至るとは。日本の食の嗜好が根本的に変化しつつあることを象徴する出来事の一つだと思う。近年ヴェトナムでは、その冷凍フィレの米国向けの輸出に陰りが見え始めたところに、救世主のように増大し始めた日本市場。 CPTPPの発効とも相まって、今後パンガシウスの輸入量は確実に拡大していくはずだ。
養殖魚については、その加工工程はもちろん、まずもって養殖の餌の成分と養殖現場での日々の作業の実態をきちんと把握する必要がある。これは、何もパンガシウスに限らず、ノルウェーやスコットランドのサーモン養殖、地中海のマグロ養殖
(イタリア・マルタ・スペイン、トルコ・クロアチア・キプロス・ギリア・チュニジアさらにはリビアまで)、様々な問題を抱える養殖エビについても同じことだ。我々は「自分が一体何を食べているのか」について、よく知ることの重要性が飛躍的に高まってきている、とモーリタニアのタコを食べながら感じた令和2年の新春であります
EU圏と
「お林」の物語
先端に名所「三ツ石」を抱き、海からこんもり盛り上がったように見える真鶴半島。クロマツ、クスノキ、シイ、タブなどによって形成された「お林」は、かつて禁忌の場とされた特別な森です。真鶴駅から先端の岬までは約3km。歩いて1時間半ほどの道のりです。箱根外輪山から流れた溶岩流によって半島が形成されたといわれてきましたが、最近は、約15万年前この場所で噴火して盛り上がったという説が有力です。樹齢数百年のマツ、クスノキがそびえる「お林」は、かつて萱(かや)しか生えない野原でした。江戸時代、明暦の大火(1657年)により材木が大量に必要になり、江戸幕府の命で小田原の農民が動員され、3年がかりでマツの苗15万本が植栽されます。それ以降、立ち入りが許されない天領の森となりました。
鬱蒼とした森を歩く遊歩道が整備されています。明治になると「お林」は皇室御料林となり、太平洋戦争まで帝室林野局によって管理され、クスノキなどが植林されました。
戦後「お林」は神奈川県立真鶴半島自然公園となり一般に開放されました。350年以上にわたり開発の手をのがれた、関東圏では唯一ともいえる貴重な常緑照葉樹林を観察できます。
温暖な真鶴半島ならではの豊かな植生や、噴火によって形成されたダイナミックな地形を楽しめます。
明治時代からお林は「魚つき保安林」に指定され、漁業にとっても欠かせない森とされてきました。森と海の関係について研究が進められ、密接なつながりが明らかになってきています。
魚つき保安林の下には真鶴町漁協による「定置網」が仕掛けられ、暗いうちから漁が行われます。クロマツの森は海にせり出して海に影をつくり、それを好む魚が集まります。木から落ちた葉や虫にプランクトンが繁殖し、それを食べに魚がやってきます。森に吸収され海に流れる雨水は温度が一定で、魚の生息に適しているともいわれます。こうした「お林」の効果により半島のまわりに様々な魚が集まり、定置網に入ってきます。
2014年には産官学民連携の「魚つき保安林保全プロジェクト」が発足し、森の状況を調べる「お林調査」が始まりました。毎木調査には延べ367名が参加し、954本、35種類の樹木を調査。その分布を明らかにしました。江戸期に植林されたクロマツ、明治期のクスノキが自生するスダジイなどにゆっくりと遷移し、黒潮温帯域の森に成熟することが期待されています。
日本のリビエラ 真鶴港
まるでイタリアの漁村を思わせる真鶴港。魚市場の近くに、地元の魚介類を生かした入江真太郎さんのレストラン「 honohono 」があります。
▲ 真鶴 高橋農園の野菜をつかった前菜。
11年ほど前から真鶴に暮らし始めた入江さんは、4年前に「honohono」をオープンしました。真鶴の浅吉丸や高橋農園など、新鮮な地元の魚、野菜を中心に使い、気軽な値段のランチコースとして提供。昼時になると店内は家族連れでいっぱいになります。
水槽の熱帯魚は真鶴で捕獲されたもの。沖縄など南方から回遊してきますが、自然界では冬を越せません。ブイヤベースを煮詰めたリゾットも絶品。
身のしまった天然ブリのコンフィはオレガノトマトソースで。真鶴で釣った、珍しい魚を差し入れてくれる方もいます。
真鶴港をのぞむ貴船神社。毎年7月27日、28日にひらかれる「貴船まつり」は日本三船祭りのひとつといわれ、お神輿をのせた豪勢な船が海上を渡御する壮大な祭り。真鶴の一年は貴船まつりを中心にまわるともいわれ、町民が一丸となって祭りに参加します。
磯料理と宿の店「いずみ」は、真鶴魚市場の目の前にあり、毎朝新鮮な魚を仕入れています。相模湾には約1600種の魚介類が生息し、真鶴の定置網にも沢山の種類の魚が入ります。珍しい魚が捕れると阿部宗明博士(毎朝築地に通ったことで有名)を通じて、研究資料として皇室におさめられることもあったそうです。真鶴の定置網漁のルーツとなったのは、江戸初期に紀州から来た田廣与次兵衛が尻掛浦を拠点として、大きな網を使ったボラ漁を導入したのがはじめといわれます。多数の舟を使った組織的な近代漁法は関東では画期的で、人口の急増する江戸にむけて速度の早い押送船(櫓で漕いで進む輸送船)を使い、大量の鮮魚を運びました。ブリ漁にわく真鶴港の姿を、夏目漱石が「真鶴行」という小品に描いています。漱石一行は湯河原から軽便鉄道にのって真鶴に着くと、平井屋という宿屋の2階でホウボウの煮付けやイカの刺身、生のイワシを注文。急な勾配の石畳の道が交錯する風景を、イタリアの漁村に来たような心持ちと評しています。食事の後は漁船に乗り込みブリ網を見学。真鶴のカモメは隅田川と違うと漱石。ブリ漁は12〜6月まで。船は11艘で漁師は200人ほど、水揚げは10万円近いものの、揚屋でみんな遣ってしまうと聞いています。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
スピードスケート ワールドカップ 長野大会 観戦記
昨年12月初め、長野市と小布施町周辺フィールドワークの折りに偶然のタイミングで、ウィンタースポーツの花形、日本人選手が大活躍したスピードスケートワールドカップ大会に出会うことが出来ました。
長野駅北陸新幹線改札前のコンコースでスタッフを待っている時に、壁一面に広がる大型ディスプレイに何の気無しに目をやると、ワールドカップ長野大会の開催案内がパッと映りました。最初は「ああワールドカップあるんだな〜」位の軽い気持で眺めていましたが、インフォメーションをよく見ていると、なんと競技開催が明日からだと分かり、俄然興味が沸きました。今長野にいるのですから。実はスピードスケートワールドカップを見ようという気になったのには、前段に思わぬ光景との出会いがあったからで
トランクや自転車が並ぶ、ホテルの廊下。
す。ホテルの長い廊下が異様な器具や大型で変わった形のキャリーケース類や室内トレーニング用自転車で埋め尽くされていてとても驚いたからです。ホテルで見た光景だけでなく、駅へ向かう途中の通路やエレベータで、バランスのよい体格で、飾り気の無い爽やかな印象の若者たちとすれ違い、何かイベントがあるようだと感じていました。
スタッフと合流後、コンコースの長野市観光案内所でスピードスケートワールドカップ 2019長野大会のチケットを入手しました。大会は 3日間で一日券もあり、当日売り1,500円、前売りは何と1,000円です。これで世界トップクラスのスピードスケートがみられるのです。競技場は全席自由席、どの席へも移動自由だそうです。前売りチケットはコンビニエンスストアでも入手可能とのことで、セブンイレブンへ行き親切な店員さんの操作で、難なく前売りを入手し、スケジュール調整を行って観戦準備を整えました。
スピードスケート男子 500mで金メダルに輝いた清水宏保や女子 500m銅メダルの岡崎朋美等が活躍した長野オリンピックは1998年開催でした。もう22年も前のことです。今回のワールドカップ 2019長野大会は、長野オリンピック、パラリンピックが開催された「M-WAVE(エムウエーブ)」で行われていました。会場へは長野駅からバスで 25分程です。エムウエーブが目の前に建つ停留所で降りたものの、そこから会場入口への案内板やノボリがなく、寒い中、大きなエムウエーブの建物をほぼ一周してしまいました。やっとの思いでリンク入口へたどり着いたところ、入場チケット窓口は折り畳みテーブルを2本並べ布を掛けただけで、小規模な講演会受付のようでした。「ワールドカップ」といえば世界各国を代表するトップ選手が集まり、ウィンタースポーツの盛んな国々を転戦する国際的なビッグイベントですから、規模も華やかさもいろいろ味わえると期待していたのですが……。ただあり難かったのは、「東京から来た!」と話したら親切にスーツケースを壁際でそっと預かってくれたことです。事務的でないウエルカムな「おもてなし!」でした。大会サポートの方々のサービスはまさに手作りそのもので、国際大会感はありません。競技の性格上通年使用する施設ではありませんので無理はないのでしょう。施設内は飲食店も売店もなく、仮設のテーブルでは、軽井沢駅でも売られている有名な「峠の釜飯」のみが売られ、午後 1時半時点で5点しか残っていませんでした。
木造つり屋根構造の「M-WAVE(エムウエーブ)」
「M-WAVE」は建築面積 31,300m2、地上 3階、地下1階、建物高さ43m、固定席約6,500席、収容人数20,000人という巨大な施設です。この施設の外観デザインは特徴があり、ランドマークとして非常に効果的な存在で記憶に残ります。以下エムウエーブの案内サイトから、
『信州の山並みを表現した屋根が、M字型を波のように連続させていることから「エムウエーブ」の愛称がつけられました。世界最大級の木造つり屋根構造を持ち、信州産の唐松の集成材を使用した独創的な構造物です。英国構造技術者協会が制定する、1997年特別賞を日本の建築構造物として初めて受賞しました。この賞は時に卓越した建築物・構造物に与えられ、過去にシドニーオペラハウス等も受賞している世界的に権威のある賞です』と紹介されています。エムウエーブは日本初の屋内 400m標準ダブルトラックリンクで国際スケート連盟公認だそうで、これ以上の施設は日本ではここだけで、長野の自慢の一つです。
私にとって生まれて初めてのスピードスケート競技観戦です。受付の人に「観戦するのにリンクの何処が一番いいですか、やはりスタートとかゴールラインのあたりですか?」と質問したところ、「そこもいいが、通の人は直線から高速でカーブへ飛び込む第一コーナーか第三コーナーが面白いといっている」と見所を教えてくれました。短距離競技 500mは女子トップクラスが 37秒台(平均時速 48.5km程)、男子 34秒台(平均時速 52.2km程)ですから、コーナー入口では平均速度以上の速度が出ているはずです。直線方向に進む力を、体を内側に倒してカーブの方向に導き、速度を極力落とさないで回るのには強靭な脚力と足を交差して滑る巧みなテクニックが欠かせません。通の方にとってはこの体勢の切り替え、蘊蓄が楽しいからでしょう。何でも初めてなのでプログラムを買ってみ
ました。当日のレース開始予定時間と終了予定時間が、別
紙でついてきます。出場選手が多い種目でも短距離競技
は短時間で終わってしまいますから、お目当てのレースを
見逃さないように時間案内を細かくしてあるのでしょう。そ
れと応援用に日の丸が印刷された A3サイズ位のハリセン(張り扇)もついてきました。
開催初日ということもあり、まして午前中に会場入りしたので観客も少なかったです。テレビ中継もあり、報道陣がかなり詰めかけていて観客よりも多い印象です。そして客席もリンク内は意外なほど静かです。時間を争うレースで、短距離レースでのスタートの緊張感は共通です。選手への声援がうるさいとスタートの号砲が聞こえ難くなりますので、注意喚起の放送が時々流れます。スピードスケート競技では、陸上競技と違いスターティングブロックがありませんから、蹴り足を氷に食い込ませないと出足が遅れ、良いタイムが出ません。レース中はスケートのブレードが激しく氷を蹴って削る音、選手が履くスラップスケート靴のブレードが靴側に戻る時のカチッ、カチッというキャッチ音、バックストレートで滑る選手を励ます各国コーチの大声だけが響き渡ります。人気の選手にはハリセンをたたいて声援します
生で観ると、テレビに比べ選手のスピード感が違います。
が、目の前をあっという間に通過するので効果的かどうか分かりません。
スピード感を味わおうと最初はバックストレート側で一番リンクに近づける低い席に座り、トップ選手の迫力ある滑りを目の前で味わいました。それからお勧めのコーナー入口付近へ移動。それから表彰式が行われる正面スタンドへも行ってみました。私としては最初に陣取った一番スピードの出ている選手を見られるバックストレートが結果として気に入っています。通過する選手の表情まで見られます。各種目競技開始の少し前に出場選手がウォーミングアップを兼ねて公式練習をします。女子 500mAクラスに出場した小平奈緒さんの滑りを初めて目の前で見ました。2018年平昌オリンピックで日本女子として史上初のスピードスケート女子 500mで金メダル、1000mで銀メダル、ワールドカップ 500m総合優勝等輝かしい成績です。小平選手は身長 165センチと外国選手に較べて小柄ですが彼女の滑りの特徴は、姿勢がひときわ低く、動きがスムースです。コーナーに入る時の姿勢の切り替えが柔らかく力みが一切感じられません。両腕の振りも美しいのです。この日も 2位の選手と僅か100分の2秒差でしたが、500mで当然のように優勝しました。男子 500mでも村上右磨選手がリンクレコードを出し優勝した滑りを見られました。余談ですが小平選手は、以前取り上げた「仮面の女神」という国宝の土偶が出土した八ヶ岳の麓、長野県茅野市の出身です。
競技は白熱するものの、リンク内は非常に冷えます。予定外での観戦でしたので、室内とはいえ普通の防寒着では辛かったです。今度は真冬の屋外でも耐えられるくらいの、事前の準備を欠かさずに観戦しようと思います。
「真鶴オリーブ園」ミカン園継承の新しい試み
真鶴では、丘陵と温暖な気候をいかした果樹栽培が盛んでした。ミカンをはじめ柑橘類の実る景色は、冬の風物詩でもあります。
真鶴駅をまたぐ歩道橋を渡り、真鶴中学校の脇を抜けていきます。
曽我さんのミカン園は、明治期から続いているといわれます。曽我家は関東大震災(大正12年)の頃まで、小田原で米屋を営んでいました。ミカン小屋に残されたプレートには「米政」の屋号が刻まれています。戦後の農地開放で所有していた田畑を失い、曽我さんの父は教師を退職してミカン園の仕事に取り組みました。その姿を見ていた曽我さんも、根府川の農業試験場に入ってミカン産地を視察。やがて父の仕事を手伝い、ミカン園を継ぐことになりました。
ミカンの樹は害虫の被害を受けやすく、カミキリムシを駆除したり、下草をこまめに刈ったり手入れが欠かせません。現在の樹は曽我さんが少しずつ植え替えながら、丹精込めて育ててきました。
▲古い東海道線の時刻表が貼られていました。いま曽我さんは、ミカン園のそばに暮しています。
曽我さんは小田原に暮しながら、東海道線で真鶴に通っていたそうです。ミカン園の面積は約2700坪。最初は父の仕事を手伝い、自分なりのミカンづくりを模索しました。仕事が面白くなったのは、剪定を学んだ頃からと曽我さん。ミカンは11〜12月末までに収穫し、その後で枝の剪定を行います。剪定次第で多くの実を付けるようになったり、失敗すると枯れてしまうことも。正解はなく、木の芽が出る所を見極めながら切るそうです。
カビたものを取り除いたり、ミカンの管理には大変な手間がかかりました。
戦前に建てられた小屋の中には、ミカンを保存する木箱がずらりと並んでいました。静岡や愛媛など大産地に対抗するため、曽我さんは販売方法を工夫しました。個人客への直販をいち早く行い、遠くは北海道まで30年以上続くお客さんもいたそうです。木箱に入れたミカンを真鶴駅に持っていき、鉄道便で送っていました。ミカンを木箱に並べて熟成し、ミカンの出荷量が少なくなる3月〜4月まで待って出荷することもありました。
夏になるとミカンがまだ青いうちに、適切な数を残すため摘果を行います。冬のミカンはすっかり色づき、収穫期は近隣の女性たちに頼んで12月末までに収穫を終えました。実を残すと樹が疲れてしまうため、全てとりきる必要があります。曽我さんは酸味と甘味のバランスがとれたコクのあるミカンを目指し、無農薬栽培にも挑戦しました。樹が育ちすぎると実に栄養が回らないため、適切に剪定して生長をコントロールします。
大変な作業の中でも、特に忘れられないのが「石垣」を築いたことと曽我さん。真鶴名産の小松石をダンプ13台分ほど購入し、1個、1個、人力で運び上げ、石積み職人の手をかりて積み上げました。
「真鶴オリーブ園」への転換
時代の変化によってミカン園の運営が難しくなるなか、いま曽我さんのミカン園では、20年以上にわたりオリーブを育ててきた牛山喜晴さんによってオリーブ園への転換が進められています。
数百本のオリーブの苗を植える作業を続けています。苗のまわりに苦土石灰を撒き、土質をオリーブに適したアルカリ性に調整します。
牛山喜晴さんは30年以上にわたり、オーダーキッチン、家具の設計・製作を手掛けるレザルク(西新宿リビングデザインセンターOZONE)を運営してきました。牛山さんがオリーブと出会ったのは20年以上まえ、イタリア東海岸、バーリの街に近いオスティーニでのことでした。
オリーブに目覚めた風景イタリア・オスティーニ
はるかアドリア海まで、広大なオリーブ園が広がるオスティーニ。オリーブ栽培はローマ時代から続いてきました。風が吹くと樹齢数百年の樹々たちが、まるでさざ波のように葉を揺らします。
自邸からオリーブの鉢を降ろし、トラックで真鶴へ移送しました。
オスティーニのオリーブ畑に心動かされた牛山さんは、イタリアのオリーブ博物館で百冊以上のオリーブの本を読み栽培方法を独学。文京区・根津の自邸で栽培をはじめたオリーブの樹は数百鉢に及びます。毎年収穫してオリーブドルチェ(オリーブの漬物)をつくりユーザーに配ったり、オリーブの樹を分けてユーザーの庭で育てたり、人の歴史とともに歩んできたオリーブの魅力を広く伝えてきました。
長年にわたり、オリーブを生き生きと育てられる場所を探し求めていた牛山さん。海をのぞむ温暖で日当たりのいい真鶴のミカン園は、オリーブ栽培に理想の地でした。オリーブにかける牛山さんの熱意を感じた曽我さんは「この人なら農地を託せる」と思ったそうです。真鶴農業委員会の認可を得て2700坪の農地が継承され、令和元年「真鶴オリーブ園千年の杜」がオープンしました。
2019年12月の週末にミカン狩りの会がひらかれ、約300名が集まりました。皆で懸命に収穫したものの、たわわに実ったミカンは、なかなか減ったようには見えません。ミカン収穫の大変さがわかりました。真鶴オリーブ園では活動を支えるサポーターを募っていて、オリーブの樹の里親にはオリーブドルチェやオリーブオイルを毎年届ける予定です。
牛山さんに、強力な助っ人が現れました。3年ほどまえ真鶴に移住した、刺繍作家のカナイヅカユミさんです。カナイヅカさんはルーマニアの農村に滞在し、家事を手伝いながら地元の民族刺繍を学んできました。
木の根を掘ったり、笹薮を整地したり、小型のショベルカーが活躍します。千年の樹齢をもつオリーブを育てるには、しっかりした基盤づくりが欠かせません。農家の高齢化や後継者の不在、作物の競争力低下などから放置される農地が増えるなか、オリーブ園の試みは真鶴の農業にとってひとつの転機になるかもしれません。
オリーブの樹を育て、実をつけるためには、適切な剪定が欠かせません。ミカン園からオリーブ園に変わっても、日々の手入れは変わらずに続けられていきます。
ヨーコの旅日記第25信ビーガン エクスペリメンタル川津陽子メッセフランクフルトジャパン
▲ 50周年をむかえたハイムテキスタイル。今年も南村弾氏によるセミナーやツアーを実施。 ▲ トレンドエリアの特設ステージは巨大な唇。
今年も年明け早々からドイツ・フランクフルトの見本市へ。カレンダーの曜日の関係で、正月休みからそのまま海外出張に突入ということもあり、三が日の終わり頃からソワソワしていたが、今年一回目の出張も無事終了。しかし、すでに今年も半月が終わったことに気づき、何とも言えない焦りに駆られ意味もなくまたソワソワしている。今回の滞在で強烈に印象に残っているのが、本社の同僚に招かれたビーガンフードのレストラン。町の中心を流れるマイン川沿いに位置し、建物一棟すべてがそのレストランだ。幅は狭いものの 4、5階の建てになっていて縦に長い。「まるで東京の家みたいでしょ」と同僚が笑う。ミシュランの星を獲得したという前情報に加え、ほどよくリノベーションされた外観がさらに期待感を高める。中に入ると、まずは石造りの螺旋階段を降り地下に案内された。そこは、かまくらの形をした煉瓦造りのセラーになっていて、間接照明が心地よい。展示会場の喧騒から一変した静かでクローズドな雰囲気に妙に落ち着く。ひとりの男性スタッフが何やらディッシュの仕上げに取り掛かりながら、我々を笑顔で迎えてくれた。ピンセットを巧みに操り、エディタブルフラワーやハーブでフードを華やかに飾っていく。アペタイザーらしき一皿目はフィンガーフードで、一口で完食。「ん、美味しい!わたしビーガンもイケるかも?」。すると間もなく「さあ、ご移動を」と別のスタッフが迎えに来た。何やらここは最初の一皿目を
食すためのお部屋だそうで、ここからは上のフロアに案内するとのこと。非常にこだわりを感じる。次のテーブルにつくと、大きな氷がひとつ入ったグラスがサーブされた。氷の中に何やら緑色の草みたいなものが見える。それはなんと苔であった。氷が融け出したら飲み頃だと言うので、恐る恐るグラスに口をつけてみると、まるで小さい頃に食べた雪に似た味がした。「ん、わたし、今夜大丈夫か?」と不安が一瞬過ぎったが、同時にこの実験のような体験にワクワクした。二品目からは、一皿食すごとに次のディッシュが上階のキッチンから運ばれてきた。その度に先ほどの彼が、どこどこで採れた有機野菜をどのように料理して……と丁寧に説明してくれる。
▲ ハイムテキスタイルトレンドの体験型展示。 ▲ 体験型展示にはバーチャルリアリティも導入。 ▲ 多様なマテリアルをライブラリーのように展示。 ▲ 50周年記念は出展者パーティーも盛大。
彼の説明無しでは判断が不可能なほど、ひと目ではどんる。気分はすっかり上々であった。ところが、時間の経うような感覚に襲われる。何とも言えない初めての経験でな食材が使われているのか見当がつかないディッシュが続過とともに事態が変わってきた。妙に落ち着いた雰囲気あった。気づけば目の前には、飲みかけのペアリングワイく。特徴的な小瓶から注がれるソースやスパイスで仕上げに加え、お酒が入ったせいもあり、少しずつ瞼が重くなっンのグラスがズラッと並ぶ。非常に私らしくない。ひとつるディッシュは、とてもエクスペリメンタルで一同、彼の手てくる。あれ?と、我々の出張中の禁止事項にある「夕食ひとつ本当に素晴らしいものばかりなのに、万全の体制で先に目を奪われてしまう。この店で出す有機野菜はすべ時に時計を見るべからず」に反して、恐る恐るスマホを臨めなかったことが悔やまれる。て、彼らの所有する地元の畑か、もしくは彼らの知り合い確認すると、もう日本では朝が始まっているではないか。最後のディッシュが終わるころには 4時間が経過していの農家で採れたものだそう。眠気が更にドッとのしかかる。た。実に 12にも及ぶディッシュに、ペアリングワインも6また、ディッシュに合わせてペアリングのワインを出してく同フロアには我々しかおらず、貸し切り状態で何とも落ち種はいただいたと記憶している。大変な品数である。これれるのもこのお店の特長のひとつであるが、このワインも着いた静寂な雰囲気が更に眠気に拍車をかけてくる。は生半可な気持ちで臨んではいけない。出来れば次回は、もちろんオーガニックで、中には機械を一切使わずに人のまたこの夜は、人生であまり耳にすることのなかった、発現地時間に適応した身で、翌日を気にすることなくゆった手だけで作られているというワインもあった。一皿終えて酵を意味する「fermented」という単語が終始飛び交っりとこの実験的な体験を愉しみたい。非常に気さくで親はまた次の一皿へと、次から次にディッシュとペアリングていた。これが結構パンチがあった。普段、ナットウキ切なスタッフによる、フランクフルトでは珍しいと思われるワインが供される。ナーゼも糠味噌も好んで食べるほうだが、発酵されたデエクスペリメンタルな夜に大感謝。同時に、慣れないビークラフトマンシップを感じさせる非常にユニークな器や、ィッシュに発酵が強めのワインまでもが続いたこの時ばガンフードに、いかに日頃の自分が加工食品やジャンクフ多様な美しいフォルムのワイングラスにも感嘆の声が上がかりは、その独特な香りに一瞬覚醒しつつも、同時に酔ードに毒されているかを思い知らされた夜でもあった。
▲真鶴町役場。町の人口は約7,200人。
真鶴町役場に近い、狭い路地(背戸道)を入ったところに「泊まれる出版社」真鶴出版があります。2015年、真鶴に移住した川口瞬さん、来住(きし)友美さんによって設立され、2018年には2号店がオープンしました。
背戸道を一段降りたところにある真鶴出版のエントランス。ガラス張りのサッシから、中の様子が少し伺えます。ドアハンドルは真鶴の彫刻家・橘智哉さんによる、船の錨を再生した作品。
▼ 真鶴駅に近い、おおみち商店街の「くらしかる真鶴」。
川口瞬さん、来住友美さんが、写真家MOTOKOさんのすすめで初めて真鶴を訪れたのは5年前。真鶴町の移住希望者向け施設「くらしかる真鶴」に2週間ほど滞在し、真鶴暮らしを体験しました。印象的だったのは、たった1週間ほどで道で会った地元の人たちと挨拶を交わすようになったこと。紹介してもらった人が、また別の人を紹介してくれたり、つながりが連鎖する街だと思った、と来住さん。
真鶴出版が初めて発行した「ノスタルジックショートジャーニー」(左)は、とっておきの場所を紹介した真鶴の町歩きマップ。これが発展し「真鶴みんなの地図」やWebポータルサイト「真鶴暮らし」へとつながりました。2019年12月には書籍「小さな泊まれる出版社」(上)を発刊し、移住までの経緯や出版社の設立、宿泊施設の運営、2号店の設計・施工、オープンに至るまで、コストも含め詳しく記録しました。真鶴のレストラン、寿司屋など色々な場所で販売されています。
▲ 最初の活動拠点となった、真鶴出版1号店。
1号店で出版業と宿泊業をスタートした真鶴出版は、2号店出店を計画し、30軒以上の家を見て回った結果、1号店向かいの民家を借りました。リノベーションを手掛けたのは、鎌倉のトミトアーキテクチャ(冨永美保+伊藤孝仁)。背戸道とエントランス、ホールと事務所、客室の境界などを曖昧にして緩やかにつないだプランです。スタッフと宿泊客といった立場の違いもフラットに感じる、真鶴らしい空間にしたいと川口さん。
▼ 本小松石をくり抜いた洗面ボウル。▲ クッションはカナイヅカさんの作品。
2階の客室にはクイーンベッドとセミシングルベッドが置かれ、大人3人まで宿泊できます。起伏が激しく平地の少ない真鶴では、敷地を目一杯いかすため変わった間取りの家が多いと来住さん。この部屋も壁が斜めになっていて、二重に作られた奥行きの深い押入れ部分を利用して、クイーンベッドを設置しました。
本を購入しにやって来たのは、ガラス作家・橋村大作さん、橋村野美知さん(glass studio206番地)。真鶴に移住しガラス工房をひらく予定で、真鶴出版の照明にも橋村さんの作品が使われています(右下)。真鶴出版の設立当初、若い移住者はほとんど居ませんでしたが、その後、真鶴出版が関わったケースだけで40人ほど移住したそうです。その原動力のひとつが、宿泊者を対象にした「町歩き」です。背戸道を歩き、干物屋、魚屋などをまわり真鶴港まで、地元の人たちとゆっくり交流する2時間ほどのツアーによって、暮らしのイメージが湧いてきます。真鶴出版は、町の移住促進に貢献する全国でも珍しい出版社に成長しているようです。
真鶴出版が町の依頼で制作した移住促進パンフレット「小さな町で、仕事をつくる」から。町役場職員の卜部(うらべ)さんは、移住20年の大先輩。
4年ほど前、真鶴に移住した向井研介さん、日香さんによる「真鶴ピザ食堂ケニー」は、真鶴町役場の近くにあります。国産の小麦粉と塩、イースト、水だけをこね、冷めても美味しいナポリ風ピザを目指しています。
カジュアルな内装の店内はほぼDIY。真鶴出版の本や地元作家の絵本を並べて紹介しています。日香さんも花をテーマとした造形作家で、以前から親交のあった刺繍作家カナイヅカユミさんは、この店を手伝ったことをきっかけに真鶴で暮らし始めました。
塩辛やじゃこ、干物、焼豚など地元の食材と、生ハム、チーズがここで出会い、ケニーの味を作り出しています。熱海や箱根の帰り道に立ち寄る人も増えているようです。
真鶴でピザ店が成り立つか心配もありましたが、高齢の方から子どもまで幅広い人達が来店し、たちまち人気店に。テイクアウトして家族で楽しみたい方のために、冷めても美味しい生地を研究するようになったそうです。評判を聞きつけ遠くからくる人も増えていて、真鶴に人を呼び込む拠点のひとつになっています。
ドラゴンシリーズ 65
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
朝日新聞 江古田集配所
練馬区の江古田に引っ越してきたのは
験した大学に全て失敗したのは当然のことです。全く勉強しなかったのですから受かるはずはありません。僕は小学2年生のころから中学1年まで新聞配達のアルバイトをしていたこともあったので、朝日新聞の奨学生制度を使って学費と生活費を稼ぎながら浪人生活を始めようと思ったのでした。
江古田の新聞集配所に向かう日の記憶は、これから戦地に行くトラックの荷台に載せられ運ばれてゆく、モノクロのドキュメントフィルムのような景色しかありません。しかし、その心象だけは今も鮮明に残っています。
トラックは練馬区羽沢の集配所に夜
その建物には日章旗の大きな看板があり、シルバーのアルミサッシの引き戸の扉を開けると大きなコンクリートの土間がありました。初めての土地で、初めて訪れる東京の集配所には、宮崎の小さな町の集配所とは異なる空気が漂っています。
数名の若者達が無言で何か
の作業をしていました。土間の上の床の間はけっこうな広さの大きな板張りになっていましたが、なんだかひんやりしていて土間のコンクリートのほうが暖かいと思えるような、床の深い冷たさを足の裏に感じたことを覚えています。
しばらくして奥から集配所の若い社長と奥さんが出てきて挨拶を交わしました。優しそうな感じの
で、一所懸命に集配所を経営していることが伝わってきました。夜に到着した僕は、一緒にいる若者達の無言で暗い影のある姿を見て、少しづつ何かを感じ始めたのですが、どこかの牢獄に入れられたような恐怖を感じました。何だかまずい場所に来てしまった気持ちになったものの、今さら逃げ出せない所に自分が立っていることにも気付いていました。
もう引き返せない気持ちと、これからどうなるんだろうという不安感の狭間で、身動きもできず思考も停止しました。ど
こからか
人目の自分が僕を見て嘲り、笑いながら見ている
ような、冷静で暗い気持ちでした。その日は社長夫婦と少し
だけ話して、朝は
時に起きるよう言われ、集配所の上の部
屋に泊まりました。それが歳の初めての東京の夜になりま
した。数名の若者が下宿しているようですが、僕は物置のよ
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歳の時でした。受
時ごろ到着しました。
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歳過ぎのご夫婦
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うな部屋に泊まり、天井を見上げ涙が止まらなくなったことを覚えていま
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す。 18歳の感情は今でも思い返せますが、それが人生の長い迷走の始まり
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になるとは思ってもいませんでした。しかし振り返れば全ては運命的な出
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来事であり、必然的な場所や人との交わりだったのかもしれません。
翌朝時、集配所階の部屋から目覚まし時計が鳴り始め、ドカドカと
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2
階段を降りる音が響きます。僕は日目から遅れないように緊張していた
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こともあって、ほとんど眠れませんでした。本当は新しい出発の日でしたが、まだ気持ちは重く、真っ暗な夜明け前の朝を迎えました。集配所の土間には、カゴと荷台が大きい自転車と小型バイクが数台とま
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っていました。そして、広い床の間には朝日新聞が高く積まれ、その横には、
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様々な色どりとサイズの折り込みチラシが置かれ、新聞に折り込む作業を
、名の若い男女と、名のおじさんが凄いスピードで行っていました。両手の親指と人差し指にゴムの指サックを付け、横一列に並べた折り込みチラシを左手で順番に凄いスピードで摘みながら、右手で新聞の中央が開
くよう指で持ち上げてチラシを入れる姿を、僕は立ち尽くして見ていました。それは僕が小学校のころからやっていた新聞配達とはかけ離れた別次元の出来事でした。
若者達はみんな無言です。一言も言葉を交わさず、黙々とチラシを凄いスピードでただ入れ続ける機械のようでした。折り込み作業が終わると、今度は新聞を自転車に積み込んでゆく作業が始まりました。前カゴに新聞を丸めるようにしながら薔薇の花ビラが重なるように、綺麗に高く長い蕾になるよう上手に積み上げます。後部の荷台には平置きした折り込みチラシが入った新聞を積んでゆきました。そして自転車は次々と暗闇の中に消えるように、集配所の土間から外に無言のまま勢い良く飛び出してゆきます。
僕は若者達が自転車やバイクで全員出てゆくまで、時がとまったかのような、あっけに取られた放心状態で床に立ち尽くしていました。これはマズイ所に来たと思う暇もなく、最後の人が僕に声を掛けてくれました。少し年上の代半ばの先輩配達員でした。『君、名前は?』『よ、よしだです。』
『俺、横山。』『よしだくん、じゃ行こうか?』その横山さんは前髪が長く、隙間から優しさと厳しさの混じる目で僕を見ては、時々ニヤッとしたセクシーな笑顔を見せるのでした。
横山さんは僕が出会った中でも超人と言えるような存在の人でした。朝日新聞の江古田集配所から僕の迷走する東京生活がスタートし、その景色が今でも蘇っては、夜中にうなされながら汗をかいて目を覚ますのです。
頼朝船出の地 岩海岸
背戸道を歩くうちに、岩の海岸にでました。海の上を走るのは「真鶴道路」の岩大橋。岩海水浴場は「源頼朝船出の浜」としても知られ、石橋山の戦いに破れた頼朝が土肥真名鶴から船に乗り、対岸の安房(あわ)国(千葉県南部)へ向かったことが「吾妻鏡」に記録されています。晴れた日には70kmほど離れた、安房郡鋸南町の鋸山が見えます。
岩海岸では「どんと焼き」の準備が進んでいました。ダルマは稚児神社の方角を向いていて、縦の竿は7m、横2本は3m、5mで「七五三」を表しているそうです。毎年1月中ごろにお焚き上げが行われます。
相模湾から見た岩海岸。山の上には採石場が見えます。
コミュニティ真鶴
「美の基準」に関わった建築家・池上修一さんが設計した「コミュニティ真鶴」。美の基準を表現した建物として、小松石をはじめ真鶴の材料や手仕事をふんだんに取り入れています。
ガラスの建具を使った開放的な間取り。中庭を囲んで各棟が渡り廊下で結ばれています。今は一般社団法人真鶴未来塾によって運営され、様々なイベントやワークショップが開催されています。
福浦の町並み
真鶴半島の東側の根本にあたる福浦は、湯河原町に属します。のどかな漁村は、文人や画家をひきつけてきました。
真鶴駅から歩いて5分ほどの福浦の町。坂道をくだり、中川一政が愛した福浦漁港を目指します。
階段やうねった坂道を歩いていると、自然と気持ちが開放されていくようです。
子之(ねの)神社は、子授け、子育てのやしろとして、古くから信奉を集めてきました。
子育ての狛犬をなでると、子どもが健やかに育つといわれます。
休日になると、福浦漁港は沢山の釣り客で賑わいます。
Vol.07
原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
まってたよほら いっしょにでかけようよ!
小松石
真鶴は日本三大銘石のひとつ「小松石」の産地として、古く平安末期から採石が行われていました。町の高台に立つ「石工先祖の碑」によると、1160年年頃、土屋源格衛によって石材業が始まり、源頼朝が鎌倉幕府の城に大石を納めさせ、大仏の基壇など今も残る鎌倉の街づくりに使われました。やがて江戸城建設のおりには、全国各藩に石垣や濠の建設が割り当てられ、石切り場を確保しようと武士が真鶴に押し寄せます。江戸城を中心に石積みの水路が網の目のように整備され、水運による流通の活性化が江戸を世界最大の都市へと発展させました。
半島の先端部、番場浦海岸の近くには「真鶴町石の彫刻祭」で制作中の小松石の彫刻作品が置かれています。気鋭のアーティスが制作に参加し、2020年東京オリンピック・パラリンピックに合わせ公開される予定です。今から56年前、1964東京オリンピックの前年には日本初の「世界近代彫刻シンポジウム」が真鶴で開催されています。モーリス・リプシやカルロ・シニョリー、本郷新など12名の彫刻家が参加。委員として瀧口修造、谷口吉郎、丹下健三も関わり、新宿御苑で野外作品展がひらかれた後に、東京オリンピック会場周辺を彩りました。
番場浦海岸には海岸線を歩く「潮騒遊歩道」が整備され(現在は台風19号による落石のため不通)、遠くに大島や利島も見えます。幕末には、この浜から外国船の往来を監視したため「番場浦」の名がついたともいわれます。
初日の出 なぜ三ツ石に 注連張らぬ
潮騒遊歩道は半島先端の三ツ石に続いています。岩の間から初日の出が上がる「三ツ石」は、真鶴を代表する撮影スポット。正月に三ツ石を訪れた坪内逍遥は「初日の出なぜ三ツ石に注連張らぬ」と歌に詠み、今はしめ縄が岩と岩をつないでいます。
ゴツゴツとした岩の続く海岸では、江戸時代からの採石場(丁場)が見られます。垂直・水平に石が削られ、切り出す時に開けた「矢穴」の痕跡もあります。江戸時代は船で石を運んでいたため、岩盤の露出した海岸の丁場は輸送にも有利で、半島の姿が変わるほど切り出されたといわれます。沿岸の丁場は限界を迎え、現在は岩地区の山を中心に採石されています。
横須賀のドライドック
横須賀の米海軍基地内にある「ドライドックNo.1」。真鶴で採れた大量の小松石が使われ、約150年たった今も腐食はほとんどなく現役のドックとして軍艦の整備・修理に利用されています。幕臣の小栗忠順とフランス人技師フランソワ・ヴェルニーにより幕末から工事が進められ、明治4年に完成。幕府の御用金はこのドック建設のために使われたともいわれます。
最高級の本小松石
最高級の本小松石は、皇室や徳川家の墓石に使われ、まるで海の底を覗いたような深い緑味が特徴。縞のないものは特に高価です。岩地区で採石・加工を営む、海野石材店を訪ねました。
安山岩の一種である本小松石は、表面の加工によって大きく表情が変わります。海野石材では7つの工程をかけて、鏡のように深い光沢をもつ石に磨き上げていきます。安山岩は摩擦熱に弱く割れやすいため、大量の水をかけて冷やしながら磨きます。石の材質はもちろん、加工技術によっても品質は大きく変わります。
巨大なカッターで石を切り出します。最初は赤褐色ですが、磨くこと深い光沢が出てきます。海野石材代表の海野弘幸さんによると、この場所も以前は採石場でしたが、石の質が悪くなってきたため埋め立てて工場にしました。高級石材としての品質を守るため、他産地よりも研磨に力を入れているそうです。
採石場では重機を使い、本小松石の原石を採掘しています。内陸の採石場を最初に開拓したのは福岡藩で、岩村の西の山地に良質の石材を発見します。石は岩海岸の港から船で江戸へ出荷されました。江戸城築城が終わると各藩は石丁場の運営を民間に任せ、その数は50カ所以上にもなり人々は潤いました。今も小松石は真鶴にとって欠かせない産業です。
石材はかつて牛や馬によって海岸まで運ばれ、丁場から港まで尾根にそって緩やかに下り続ける道が整備されました。道の管理は共同で行われ、その伝統は今も神奈川県石材協同組合に引き継がれています。
山側の小松石は40万年前に始まった箱根の噴火活動によって形成され、真鶴町全域に岩盤が広がりますが、石を採るまでには20mほど表土を掘る工事が必要でコストもかかるそうです。一様な色の大きな石は珍しく、ピンク→グレー→緑味の順に希少で高価となりますが、実際の採石場を見ると、それに捕らわれなくも小松石独特の魅力は活かせると感じました。
真鶴港には小松石を運ぶクレーンを積んだガット船が係留されていました。江戸時代は船の遭難も多く、海底には多くの小松石が眠っています。真鶴駅前の割烹「福寿司」。地元で捕れた魚だけを使った地魚握りは、その日の水揚げしだいで魚種が変わります。この日は、ヤガラ、サンマ、アジ、ウマズラハギのほか、珍しいユメカサゴが出ました。台風などで船の出られない日が続くと、店を閉めることもあるそうです。
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