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鶴舞 2019 https://collaj.jp/
時空を超える美意識
ここは土の國 益子
秋葉原駅から益子・笠間へ向かう高速バス「関東やきものライナー」は、県道1号線の仏ノ山峠を超えて栃木県に入ります。左右には田畑が広がり、入母屋造りの立派な農家の家が点在する『木枯し紋次郎』のような世界が広がります。
ユニークな姿の益子駅。真岡鐵道はSLの運行でも知られます。
陶芸の里として知られる「益子」。江戸後期の19世紀中頃、笠間で製陶を学んだ大塚啓三郎が益子で粘土を発見し、窯を築いて焼き物をはじめたと伝わります。しかしそれ以前の8〜9世紀にも、緩やかな丘陵と低地の粘土を利用して、須恵器や瓦が盛んに焼かれた窯業地であったことが近年の発掘調査によって明らかになっています。
当時の益子をおさめていた黒羽藩は焼き物を奨励し、大塚に土地を与え築窯を助けました。やがて他の農民も藩の支援をうけて次々と窯を立ち上げる一方、藩はその運営を厳しく管理し、益子は「官窯」として発達します。農民は焼き物だけでなく農業や林業も続け、近年まで半農・半陶が続けられていました。
飴釉、黒釉、青磁釉、並白釉、柿赤釉、糠白釉、灰釉など、あたたかく、力強い釉薬が、益子焼の特徴です。
益子駅からつづく益子本通りには、今も懐かしい建物が並んでいます。益子焼きの土瓶やカメ、壺、すり鉢、徳利、皿などの日用品は、鬼怒川の水運によって大量に江戸に運ばれ、黒羽藩の重要な財源となります。幕末の藩主 大関増裕は、勝海舟などと共に海軍の整備に尽力し海軍奉行もつとめました。
内町工場
民芸店ましこの近く、益子本町通りにある「内町工場」。工場といってもモノは作らず、アンティークや古本のお店です。オーナーの佐藤一貴さんが、この建物と出会ったのは10年前。元はベークライトの工場で、その面白さにひかれ古本や古道具、古家具を置いた店をひらきたいと思ったそうです。開店から徐々にファンが増え、ディスプレイを仕立ててくれることも。かつて内町は益子の繁華街で、飲食店が並び深夜まで賑わっていました。
春のゴールデンウィークと、秋の11月3日前後に開かれる「益子陶器市」は昭和41年に始まり、春秋合わせ60万人以上が訪れる大イベントです。益子焼窯元共販センターのある里山通りや城内坂通りを中心に、約50店舗のほか約500のテントが並び、伝統的な益子焼から若手作家のアート作品までが販売されます。今年春は4月29日〜5月6日の予定です。
益子古城跡からみる日光の山々。
益子のカフェ・レストランでは、益子焼のコーヒーカップや皿が使われています。
大正時代になると東京では都市ガスが普及し、益子の土鍋や土瓶は徐々に使われなくなります。そんなとき益子の山水土瓶にひかれた濱田庄司が、益子にやってきます。民藝運動の中心人物であった濱田は、益子焼に新たな魅力を見出し、昭和27年には益子焼専門店「民芸店ましこ」をひらくなど販路開拓も試みます。
7月23日〜25日にひらかれる夏祭り「益子祇園祭」で運行される田町彫刻屋台。1821年から宇都宮市日野町で作られたもので、明治15年に日野町から購入されました。同祭では各町の彫刻屋台が運行され、3升6合5勺入りの大杯に注がれた爛酒を飲み干し、五穀豊穣、無病息災、家内安全を祈願する奇祭「八坂神社御神酒頂戴式」も行われます。
海の底にあるのは鎖のきれた錨とつもりゆく遠い日々の記憶
Vol.08
原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
益子焼窯元共販センターに近い、栃木県立の「窯業技術支援センター」では、窯業の技術相談指導を行うとともに、陶芸を志す伝習生・研究生を受け入れ焼き物の技術を伝えています。
▼同センター隣の益子焼協同組合では、益子産の粘土を製造しています。
同センターのルーツにある「益子陶磁器伝習所」(明治36年設立)では、窯業技術者の育成が行われていました。その伝統は今も受け継がれ、伝習生・研究生の指導にあたりながら、粘土・釉薬・石膏型・焼成・意匠等に関する技術相談や、粘土、釉薬の研究などが行われています。
▼釉薬の配合を変えた見本が数百種類ストックされています。
益子焼伝統工芸士会会長の床井崇一(とこいたかいち)さんは、同センターで指導にあたりながら、釉薬や焼成技術の研究を行っています。調整室には、土灰や籾殻灰など釉薬の配合を10%刻みで変え色や艶の変化を数値化した見本が置かれていました。釉薬の配合は製品開発にとって重要で、これを参考にして色艶を発注する業者もいるそうです。上の見本では、ケイ酸質の高い籾殻灰の配合が増えるに従って、釉薬の光沢が抑えられていくのがわかります。
▲超高速昇温電気炉は、一日で焼けるため試験体の焼成に利用されます。
窯場には電気窯とガス窯が並んでいます。伝習生・研究生は自分の作品を実際に焼きながら、焼成時間や温度管理を学んでいきます。通常の窯は加熱から取り出しまでに3日ほどかかりますが「超高速昇温電気炉」は一晩で焼成できるため、試験体のピースに利用するそうです。こうした機器はプロの工房も利用できます。
製作室では生徒の中村さんが、ロクロの作品づくりに打ち込んでいました。グラフィックデザインなどをしていましたが、日々の生活で愛されるものづくりをしたいと益子で学びはじめました。全国の陶芸産地を探すなかで、益子には外部の人が入りやすい雰囲気を感じたそうです。釉薬の色・艶に興味があり、一生をかけて世の中に残るものを作りたいといいます。
いま生徒たちが取り組んでいるのが2月27〜28日に予定されている「登り窯」の実習です。電気窯、ガス窯が主流となるなか登り窯の経験は貴重なもので、生徒自らが作品を窯に入れ、昼夜にわたり薪をくべ続けます。作品を置く位置や、温度の上がり方で焼き上がりが大きく違うため、中村さんも釉薬がどのような変化を見せるか、楽しみにしているそうです。
登り窯のまわりには、約800束のアカマツの薪が積み上げられていました。薪を乾かして最良の状態にするのが大変と床井さん。登り窯の特徴は「還元焼成」と呼ばれる酸素の少ない状態で焼成が進むことで、器の向きによっても焼きムラが生じ、薪の灰が焼成中の器にかかると「自然釉」によって独特の表情が生まれます。また窯の一部を使い「塩釉」という益子特有の焼き方も行います。これは窯の中に塩を投入し、陶土と塩の反応によって器の表面に釉薬を発生させるテクニックで、あらかじめ塗っておいたコバルト化合物などが縮れ独特の表情がでます。
生徒の本間さんは「掻き落とし」の技法を使い、器に模様を描いていました。胎土のうえに掛けた化粧土に図案を描き、生乾きのうちに掻き落すことで凹凸と色の違いを作り出します。本間さんは東京の美術大学で油絵を描いていましたが、生活の中で使うものを作りたいと益子で暮し始めました。修了後は工房を借りて作陶を続け、益子陶器市でも作品を発表したいそうです。
たっぷりと釉薬をかけた床井崇一さんの、こね鉢や陶板。伝統工芸士会の会長として、益子の土や風土から生まれた作品を伝えていきたいそうです。
▼益子でも作陶した、バーナード・リーチの作品。
本館1階の展示室では、濱田庄司、島岡達三、佐久間藤太郎、村田元といった益子を代表する陶芸家の作品のほか、明治期の生活器や新しい技術を使った製品を展示・解説しています。
▼昭和22年益子を訪れた昭和天皇はマスの仕事ぶりを見て「さえもなき おうなのゑかく すゑものを 人のめつるも おもしろきかな」と詠みました。それを記念した石碑がセンターの入り口に立っています。
明治時代、益子では山水を描いた土瓶が大量に作られていました。濱田庄司が益子を知るきっかけとなったのも、板谷波山の自邸で見た益子の土瓶だったといわれます。明治7年生まれの皆川マスは、益子を代表する絵付師で、窯場をまわり1日に500〜1200個の絵を描いていました。作品は柳宗悦や濱田庄司から高く評価され、昭和13年、ベルリン第1回国際手工芸博覧会で特選に選ばれています。濱田が記録用の絵柄を紙に描くようマスに頼んだところ「紙は平らだから描きにくい」と断られたそうです。
▲村田元は、あえて絵画的な表現を封印し、力強さを表現。 ▼益子町の小中学校給食では、益子の陶器が使われています。
東京の組紐師の家に生まれ、戦後、益子に移住した島岡達三は、縄文土器や李朝の三島象嵌をヒントに、組紐を転がしてくぼみを付け、白土を埋め込んだ「縄文象嵌」の技法を編み出しました。濱田庄司のもとには、島岡をはじめ画家として活躍していた村田元(げん)など、様々な才能が集まってきました。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
発酵バーで、列車待ちの「角打ち」
発酵バー「醸(かもす)」は、JR長野駅善光寺口のMIDORI(みどり)というメインコンコースから直接入れるビルの2階、お土産売り場「信州お土産参道 ORAHO」の奥にあります。
駅の近くは地元銘店中心のお菓子売り場。中央階段吹き抜け横が、発酵バー「醸(かもす)」と醤油、味噌など地場発酵食品、有名お焼き店、軽井沢製ソーセージなど加工食品売り場。一番奥には信州地酒売り場で日本酒 300種類以上、地元ワイン100種類以上が揃い、漬け物コーナー、器コーナーなどバラエティーに富んでいます。前回お話しした、スピードスケートワールドカップ参加選手が宿泊したホテルへの通路に面していたのでこの店を、発見!しました。
テーブル席から見た、販売カウンター。
角打ちの賑わい。旅行者も気軽に立ち寄れる。
バーというからには、お酒をカウンターに腰掛けて飲むス
タイルを思い浮かべますが、ここは庶民的な 「角打ち(かく
うち)」スタイルです。「角打ち」とは一般的には、酒屋で
買ったお酒を、その場で飲むことが出来ることを指します。
店員さんが席まで運んでくれるサービスはありません。もち
ろんキャッシュ オン デリバリーです。なぜそれを「角打ち」
というのか定説は無いそうですが、島根県東部の方では「たちきゅう」と呼ぶそうで、「立ったままキュウ!」と杯を煽る様子がベタに想像されます。また店の一角や片隅で飲むのでという説や、量り売りのお酒を枡の角で飲むからなど
諸説あるそうです。
ここで提供されるメニューの中の売り物は、何といっても2タイプの日本酒利き酒セットです。1タイプは、信州の酒蔵から毎月10種類と日替わり2種類の計12種類の地酒が提供され、3種類選び出しオーダーシートにチェックを入れ試飲することが出来るもので、小鉢のおつまみが一つ付きます。オーダーシートには簡潔にそのお酒のポイントが書かれていますので、選ぶ楽しみが大きく、好みとは違う方向をトライも出来ます。もし失敗選択をしても小さい蛇の目ですから全く問題? ありません。余談ですが、利き酒時に使用する「蛇の目」と呼ばれる器の底に描かれている二重の青い丸は何のためにあるのでしょうか。昔の日本酒は山吹色といわれていました。今のお酒の多くは濾過されていますから無色透明に近いのですが、元々はうっすらと黄色みのある色がついています。色彩学者のマンセルという人が考えだした色相環(あらゆる色が繋がった環)では青(厳密には紫です)の真反対側が黄色になっていて、色彩学的には「補色関係」といわれ、その関係色は並べて使うと相互の色が目立ちます。お互いの色をより感じやすくするといってもいいでしょう。ですからお酒の黄色みを良くチェックするために、濃い青が使われているのです。もう1タイプは「大吟醸」セットで、普段は手軽に飲めない様なクラスのお酒が月替わりで 3種類試飲出来ます。そしてこの店のもう一つの特徴は、提供されるおつまみが発
日本酒利き酒セット 3種。つまみ(肉の煮込み)が絶品。
つまみ。干し柿とチーズのミルフィーユ。凍み豆腐。ドライフルーツ。わさび味ポテトサラダ。
酵食中心であること、お酒はもちろん、おつまみを始め提供されるほとんどのものは、フロアー内で買って帰れます。一つだけ問題があるとすればラストオーダー19:30、閉店時間が 20:00と早いことでしょう。
長野県は長寿ランキングで、男女とも近年はトップクラスです。以前は山国で海無県でもあり、塩分の多い保存食に頼らざるを得ない食生活によって、平均寿命ランキングの下位でしたが、県をあげての減塩運動が功を奏し現在に至っています。野菜の消費量も日本一です。高地が多く寒暖差も大きいことが、野菜の質を上げていて、豊富な栄養を含んでいるということになります。手前味噌という言葉が信州発かどうかは分かりませんが、長野県では料理に主要発酵食品でもあるお味噌を良く使うそうです。
しかし発酵食品の代表と云えばやっぱりお酒でしょう。サントリーミュージアムの『ウイスキーを知る 発酵の話 発酵の発見と利用の歴史』というホームページに「発酵」に対する古代人の取り組みが書かれています。発酵=fermentationという言葉の語源は「湧く」=fervere(ラテン語)だそうで、ワイン等が発酵時に出す炭酸ガスの 「泡」をイメージしたのではとされています。一番古いお酒はメソポタミア地方で作られたワインで、紀元前 17世紀〜 14世紀頃、ギリシャでもワインが盛んに作られていたそうです。Wikipediaでは紀元前 60世紀(約 8000年前)コーカサス地方で、イランでも紀元前 50世紀(約 7000年前)ごろに製造したことが確認されていると書かれています。大気中に浮遊する酵母によって葡萄が自然発酵していく不思議さは、当時は「神の恵み」と崇められていたでしょう。
発酵が「神の恵み」では無く、微生物によるものだと科学的に確認したのは、割と最近のことだそうです。オランダの科学者レーウェンフック(1623〜 1723)が 1672年頃、自ら考案した200〜300倍率の顕微鏡で、酵母やカビ等、発酵に関する微生物の関与を発見、研究しました。
「乳酸発酵」「アルコール発酵」「酢酸発酵」が三大発酵と呼ばれ、「乳酸発酵」は糖類を乳酸菌が分解し乳酸を作ります。ヨーグルト・チーズ・お漬け物が主な食品です。
「アルコール発酵」は酵母が糖質を分解し、アルコールと炭酸ガスを作り出します。ワイン・ビール・ウイスキー・日本酒等です。「酢酸発酵」は酢酸菌が糖質を分解し、酢酸を作り出します。お酢が作られます。
日本酒の陳列コーナー。
発酵バー「醸」では、提供される商品の殆ど全てが「長野県産」であり「発酵」が十二分に活かされています。大きなターミナルによく見られる大量販売を狙う従来のお土産店ではありません。信州の価値を深く広く知ってもらおうという骨太なコンセプトが滲み出ています。そして新幹線、在来線の改札口至近にあり、時間待ちのお客様に角打ちスタイルで、気軽に「ちょい飲み」しながら信州、長野の魅力を感じてもらおうという、押し付けがましくなく、非常に考え抜かれた造りに仕上がっています。他県のターミナルでも、うわべを真似するだけでなく、しっかりとコンセプトを理解してこのような事業を組み立てて欲しいと思いました。
10年程前からレストラン業界、特に若いシェフの間では「発酵」が注目されているそうです。素材の旨味を発酵技術でより強く引き出そうという狙いからです。料理はもちろん美味しいにこしたことはないのですが、元々は厳しく貧しい環境の中で人々が生き抜くために工夫し取り入れた、地域に添った大切な工夫が「発酵」のはずです。昔に戻れといっているのではありません。人口爆発、地球温暖化、海洋汚染等が進み、数十年後に必ず襲ってくるであろう食料危機を少しでも回避するため、人々の暮らしを継続出来る様、今から発酵という宝物を大切に育て、危機を回避するための技術を永く保持したいものです。人類を救えるのは科学技術ではなく、やはり生命が生命を助けることになる微生物による「発酵」なのかもしれません。
濱田庄司が家族と暮し、作陶に励んだ自邸・工房が「濱田庄司記念益子参考館」として公開されています。アーツ&クラフツ運動にも大きな影響をうけた、濱田によるアートコロニーです。
日本を代表する陶芸家であり「民藝」の中心人物のひとり濱田庄司。益子を拠点として作陶をはじめたのは、関東大震災(大正12年)の翌年からでした。バーナード・リーチと英国にわたり、セントアイビスに窯を築いた濱田でしたが、関東大震災の一報をうけて帰国を決意。以前訪れたことのある益子を活動の拠点にしたのは、英国滞在中に何度か訪れたアーツ・アンド・クラフツのアートコロニー「ディッチリング」での体験がきっかけになったといわれます。
ディッチリングとロンドンの距離は約60km。益子から東京は90kmで鉄道を使って日帰りできました。豊かな自然と東京との距離のバランスも、益子を選んだ理由と考えられています。
上ん台と呼ばれた古民家は、昭和17年、隣町の農家を移築し濱田の設計でモダンにリニューアルされました。当時の家具にも触れられます。
濱田がこの地に家を建て始めたのは昭和5年からで、45年の間に22棟にまで増えました。家族、職人、弟子たちが住み込み、国際色豊かな沢山の客が訪れ、ひとつの村のような景色が繰り広げられました。
この古民家を最初に手に入れようとしたのは、実業家茶人の松永安左エ門でしたが、別の民家を埼玉にみつけ、次に芸術家のパトロンとして知られる大原孫三郎が益子の別荘にしようと考えますが、若くしてなくなります。残念に思った濱田は、文藝春秋20周年の記念品をつくるのと引き換えに、同社にこの民家を買い取ってもらいます。長い梁は11間(33m)もあり、町の角を曲がりきれず、店先に梁を突っ込みながら運んだそうです。
益子内から移築した濱田庄司の工房。
濱田が使った手回しのロクロ。濱田は「土、釉薬、火、相手によく聞く」と言ったと伝わります。成形中に形が崩れても、かえって良くなることもあり、形はロクロ、絵付けは筆、焼くのは窯に任せるのがいいと語っています。
大谷石の石蔵を利用した2号館、3号館では、濱田が中国、南米、ヨーロッパなど、世界各地で蒐集した陶磁器、漆器、木工品、イコン、織物などが展示されています。濱田はこれを一般に広く公開したいと考え、80歳から参考館、陶器伝習場の設立を進め、亡くなる1年前の昭和51年、83歳の時に参考館を開館しました。
昨今のワイン売り場、比較的手頃な価格帯の棚で「チリのワ
インが以前ほど目立たなくなった」と感じる。その穴を埋める形で、フランス・イタリアなど欧州産のお手頃ワインが、じわりじわりと増えつつある。昨年2月に発効した、日欧 EPA協定(日本・ EU経済連携協定)により、欧州から輸入されるワイン・チーズ・食肉の関税が削減された。例えばスペイン産イベリコ豚の肉が一部の店に定番で並ぶようになったのも、このためだ。協定発効から1年、欧州からの瓶詰ワインの輸入量
は、前年比で
%も増加している。
これを好機と捉える
EU
各国は、ワイン・チーズ・肉類の
売り込みに躍起だ。その流れの中で
1月
(港区・三田)でトレンティーノ( Trentino
ークリング・ワインの試飲会が開催された。来日したトレンティーノ DOC協会会長のエンリコ・ザノーニ氏と生産者代表の2氏、イタリア最優秀ソムリエのロベルト・アネシ氏、そして日本側からワイン専門家の飯島勲氏。こうした皆様の熱心で
丁寧な解説をお聞きしながら、
イタリア大使館での試飲会。
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種類の発泡ワイン(内ロゼ2
種)を試飲する機会を得た。自分の無知を基準にするつもりはないが、トレンティーノという地名を聞いて、その場所の見当が付くという読者は、数少ないはず。イタリア長靴半島の最北端に位置するトレンティーノ=アルト・アディジェ特別州の南半分の地域の呼称で、その中心都市はトレント(人
口約
ロミティ山脈( 3千 m級)の山麓に位置し、周辺にはマドンナ・ディ・カンピーリョやコルチナ・ダンペッツォなど多数のスキーリゾートが散在する。そのコルチナで開催された 1958年冬季オリンピックでは、猪谷千春がアルペン回転競技の日本代表として参加。欧州選手以外で初めて、銀メダルを獲得している。文武両道で素晴らしい足跡を残した超人的な努力の人だ。
この一帯のワインの歴史は古く、古代ローマ時代以前にまで
遡る。一方、トレンティーノ地区での発泡ワイン生産は、
紀初頭に始まる。それでも既に百年を優に越す歴史があり、近年のスパークリング人気の中で、イタリアでも最高水準との呼
び声が高い。今回は地区を代表する
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種のスプマンテ(発泡ワ
イン)を試飲させて頂いた。
その特徴を一言で表せば、「キリリと引き締まった辛口」ということに尽きる。メトド・クラシコ(伝統製法=シャンパーニュと近似)遵守が基本で、ベースとなるワインに使用される葡萄は、手摘みのシャルドネとピノネッロ(ピノ・ノワール)がメイン。その絞り液に酵母と糖分を加えてタンク内で1次発
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日、イタリア大使館
万人)。アルプス・ド
)産スパ
世
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20
30
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なる。この地はイタリア有数のリンゴの産地でもあり、特にゴールデン・デリシャスが名高い。当然サイダー(りんご酒)の生産も盛んで、リンゴを使ったストゥルーデルや小さなタルトもデザートの定番だ。他にも多彩な果樹のジャム。秋には森のきのこ類。アルプス山麓の花々の香り豊かな蜂蜜。珍しいところでは、馬肉やヤギ肉を素材とするソーセージも名物のひとつとされる。もちろん、チーズは多様なものがある。では、郷土料理にはどのようなものがあるのかと探り始めると、とても興味深い事実が浮かび上がってきた。イタリア料理中心ながらも、リンゴのストゥルーデルに代表される、峠を越えたアルプスの向こう側からの香りが感じられるのだ。
今回の試飲会では、徹底して特別州の南部であるトレンティーノ(県)に焦点が絞られていて、同じ州の北部アルト・アディジェ地区(県)については、一切語られることがなかった。北部の中心都市ボルツァーノ(人口万人弱)は、トレントから僅かキロほど北に位置する隣町だ。そこに至ると、街路名や店の看板には、イタリア語と並んでドイツ語が併記され、山間の建物はチロルの山小屋的な風情一色となっていく。南部とはまるで異なる「テロワール」のように思われてくる。その謎に対する答えを探り始めた私は、いつしかアルプスの深い歴史の谷底へと滑り落ち始めていた ……次回へと続く
トレントの街
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冊子には、の蔵元が紹介されている。その殆どがファミリー企業で、中にドイツ系と思われるブランド名が幾つかみえるところが興味深い。
ところで、しばらく前からワイン業界で強調されるようになってきたのが、「テロワール」という言葉。フランスの業界では本来「土壌」を意味したが、今ではより広く「ワイン産地の歴史的風土・自然環境」という意味で使われる。今回の試飲会でも皆様揃って「トレンティーノのテロワール」という言葉を強調していた。その意味するところは「作り手の個性と同じく、山国の斜面という厳しい環境の中で育った、素朴ながらも芯のある深い味わい」ということに
酵させたのち瓶に流し入れ、一旦ビールの王冠状の仮栓をして、瓶内で2次発酵。途中、発酵過程で出る沈殿物(オリ)を取り除き、その減量した分、新たに少量の
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高品質ワインと糖分を付加して寝かせた後、コルク栓をして出荷される。熟成期間は最短ヶ月、最長でヶ月にも及ぶ(本連載第回「発泡ワイン、プロセッコ・スペリオーレ」参照)。
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今回試飲した種の中では、次の3種が気に入った。
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1・ Rotari Flavio 2011 Brut Riserva(Rotari)
2・ Altemasi Riserva Granaal 2012(Altemasi)
3・ Ferrari Perle 2014 Brut Millesimato(Cantine Ferrari)
すべて原産地呼称は Trento DOCで、カッコ内は蔵元の名称。「1」は、アルコー
ル度強めながら、ふくよかで深みのある味わい。「2」は、ヶ月熟成。美しい黄金色で軽やかながらもしっかりとした芯があり、複雑な味わいが魅力。「3」は地区を代表する伝統ある大ワイナリー。たまたま車のフェラーリと同じ苗字。100
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%シャルドネで、フルーティーで香り豊かにして軽やか。今回試飲のワイナリーは上記の他に以下の8社。 Lerari, Maso Martis, Moser, Cesarini Sforza, Cantina d’ Isera, Endrizzi, Cantine Monfort, Revi. これらを含めトレンティーノ DOC協会の小
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72本の瓶が並ぶ染織工房日下田紺屋
▲ 日下田紺屋 9代目の日下田 正さん。
江戸時代から200年以上続く「日下田紺屋(ひげたこうや)」。益子焼が始まる以前にこの地で創業し、県の文化財に指定された母屋では茅の吹き替えが行われていました。9代目の日下田正さんは全国でも少なくなった江戸時代から続く紺屋を守っています。
ヨーロッパでは「ジャパンブルー」と呼ばれる藍染が盛んになったのは江戸時代。木綿の栽培が盛んになり、人々の衣服が麻から綿織物へと転換されると、約8割の布が藍によって染められていたそうです。紺屋は各町に必ずありましたが、明治になって人工染料が導入されると、次第にすたれていきました。
ブランコットンの栽培か機織りまで、日下田さんは一貫して行っています。
明治になって紺屋が次々と廃業するなか、正さんの父日下田博さんが家業を続けたのは、濱田庄司の影響が大きかったと正さんはいいます。濱田はイギリスで訪れたアーツ&クラフツ運動を色濃く残したアーティスト・コロニー「ディッチリング」に強い影響をうけ、益子を「手作りの町」にしようと若き工芸の跡継ぎたちに訴えました。その中に、日下田博さんもいたのです。
▼日下田正さんの草木染めは、ディッチリングのアーツ・アンド・クラフツ博物館に収蔵されています。
紺屋を受け継いた正さんは、糸紡ぎや織物の技術を習得し、藍染を続けながら織物作家の道を歩みました。濱田がディッチリングでそのライフスタイルに感銘をうけたのは、草木染めの染織作家エセル・メレでした。有名なスリップウェアとの出会いも、メレ宅でもてなされたときのことです。正さんはメレの記録を参考にして草木染めの制作にも取り組み、益子を手作りの町にするという濱田の思想を継いできました。
正さんが藍染を継続する手段として編み出したのが「益子木綿」の開発でした。益子の隣、真岡市は、江戸時代に木綿の大産地として知られていました。正さんは種まきから収穫まで自ら無農薬の綿花栽培を行い、益子産の綿を藍で染めた益子木綿を一貫生産しています。
▼明治時代の伊勢型紙を今も使っています。
正さんは地元高校の服飾デザイン科で、生徒の指導を25年にわたり行ってきました。貴重な古裂を張った資料を配ったり、人材の育成に貢献し、卒業生は一流ブランドに就職する人も多いようです。
ヨーコの旅日記第26信ドイツで味わう清水さんの寿司川津陽子メッセフランクフルトジャパン
▲ アンビエンテ恒例の「AmbienteTrends」。 ▲ 昨年につづき日本酒バーを出展。 ▲ JAPAN STYLEの展示(TIME& STYLE)
今年も世界最大級の規模を誇る消費財見本市、アンビエンテが無事終了した。日本からの出展は 90社を超え、各ブースでは積極的に商談が行われていた。新型ウイルスの流行は、少なからずアンビエンテにも影響したが、日本からは昨年を上回るバイヤーやメディアの方々が来場くださり、会場内ではいつも以上に日本の皆さんの存在が目立っていたように思う。出展、来場くださったすべての皆さんに心から大感謝である。また、新型ウイルスの一刻も早い収束を心から祈るばかりである。さて今回の出張では、ある日本人女性との大変貴重な出会いがあった。それは清水さんという「Accente (アクセンテ)」の料理人を長年つとめる女性である。Accenteの正式名称は、Accente Gastronomie Service GmbH。メッセフランクフルト GmbHグループ会社のひとつであり、フランクフルト見本市会場内では 22のレストラン、スーパーマーケット、売店などすべての飲食に関係する施設を運営している。メッセフランクフルトの見本市に来場された方なら、一度は Accenteが提供する食事を経験されたはずだ。ほかにも、カンファレンス、会議、出展者ブースへのケータリングから、パーティ、ブースをアテンドするスタッフ派遣までも担当している。また会場を飛びだし、フランクフルト市内のザクセンハウゼンにて “Depot 1899“というジャーマンパブも運営している。今回、メッセフランクフルト本社役員の計らいで Accente内を見学する機会があり、清水さんが案内役をつとめてくれた。Accenteの社屋は見本市会場内の3号館、4号館の間の別棟にある。朝一番に訪問すると Accente社の Schuster社長と Thoma社長と一緒に、夜勤明けにも関わらず笑顔溢れる清水さんが会場内の社員食堂で出迎えてくれた。ちなみに我々も、出張期間中のランチは社員食堂のお世話になる。もちろんここの食事も Accenteが担当している。フランクフルト滞在も一週間になると社員食堂でつい手が伸びるのが、寿司。やはり気持ちがホッとする。実は清水さん、この寿司を提供する作業チームのリーダ
▲ 清水さんとSchuster社長とThoma社長。 ▲ アジア系の学生がもくもくと寿司を詰める。 ▲ 目が合うと笑顔を返してくれるスタッフたち。 ▲ 頼もしい風貌の Schr.der料理長。
ーとして活躍されている。以前社内報で、Accenteで寿司をつくる日本人スタッフとして紹介される清水さんの記事を拝見して以来、どんな方なのだろうかと、とても気になっていた。清水さんははじめに「寿司担当チーム」の部屋に案内してくれた。アジア系の若いスタッフが数名、黙々と手を動かしている。ちょうど箱パックに寿司、ガリ、わさびを詰める作業中であった。手際が良く手元に見入ってしまう。聞けば、彼らはタイ、インドネシア、モンゴルなどから来た学生で、授業の合間にアルバイトをしているという。チームは全てアジア系スタッフで構成され、みんなとっても真面目で熱心な子たちと、清水さんはアジアチームについて誇らしげに語った。合わせ酢も清水さんが研究に研究を重ね、シャリ作りも大阪で修行をされたとのこと。日本とは違う限られた環境の中でも、こだわり抜かれた品であることがよく理解できた。その後、全体の料理長を務める Schr.derさんも加わり見学ツアーは続く。アペタイザー、メインディッシュ、デザートそれぞれの作業部屋、食器やグラスが整然と並ぶストックルームから、テーブルクロス、従業員のユニフォームを洗濯するクリーニングルームまで各部屋を案内してもらう。どの作業部屋もさまざまな国籍のスタッフが働いていたが、共通するのは、作業中でも目が合うと微笑みを返してくれて、中にはカメラを向けると笑顔でポーズを決めるスタッフもいる。体力の必要な大変な作業の中にも、どこか陽気な雰囲気を感じ、純粋に楽しみながら仕事をしているという印象を受けた。料理長の Schr.derさんも、いかにもコックさんという風貌で、作ることはもちろん、食べることも大好きなんだろうな〜という感じ。優しさが滲み出ている。やはり、人を笑顔にする食事は、こうした人たちが揃う環境の中で産み出されているのだ。
見学後は再び社員食堂に戻り、清水さんと少しお話した。ヘアーネットを頭から外した清水さんの顔は、厨房のリーダーから日本のお母さんに変わった。そう、清水さんが醸し出す優しい雰囲気は、ここで働くみんなのお母さんのようだ。みんなの”Frau Shimizu ”!日本の出展者さんたちがアンビエンテのブースで奮闘される一方で、同じ会場内の別の土俵で頑張っている日本人女性がいることを知り、胸が熱くなった。その日のランチのチョイスはもちろん寿司。これからも Accenteの食事にお世話になりますが、その度に清水さんとあの厨房の仲間の笑顔を思い浮かべ感謝して、いただきます!
益子で作り続ける佐久間藤太郎窯
益子を代表する窯のひとつ「佐久間藤太郎窯」。初代佐久間福次郎→佐久間藤太郎→佐久間賢司→佐久間藤也と、時代の変化に対応しながら、4代にわたり窯の火をつなげてきました。
佐久間藤太郎(とうたろう)は、濱田庄司と縁が深い人物としても知られます。大正の終わり頃、30代になった濱田庄司は、ここに身を寄せて作陶に打ち込みました。濱田が藤太郎と寝食を共にし、棟方志功もよく訪ねて来た部屋で、4代佐久間藤也さんにお話を伺いました。藤也さんは益子焼協同組合理事をつとめ、産地の振興にも尽力しています。益子周辺には約400軒の工房があり、その多くが家族経営だそうです。大メーカーが少ない理由の一つは粘土の産出量で、組合で採掘の管理・陶土の生産を行い、将来に渡り安定した供給ができるよう材料を確保しています。
座敷には、佐久間藤太郎が得意とした松竹梅の絵皿や壺、掛け軸が飾られていました。初代佐久間福次郎が明治に窯を開いたときは、益子の生活用品(土瓶、カメ、すり鉢、土鍋など)を量産し、藤太郎も職人のひとりとして働きました。そんなとき隣の工房で濱田が作陶をはじめ、面白いものを作っていると聞いた藤太郎が濱田に会いにいきました。「当時の益子には外の情報が入ってきませんでしたから、イギリス帰りの濱田の作品は、祖父にとってとても刺激的だったと思います」と藤也さん。
その作品に感心した藤太郎は、濱田を家に招きたいと考えました。父福太郎は昼間の本業はおろそかにせず、作品づくりは夜に限るという条件を付け同居を許します。当時は電灯がなく、職人は日の出から日没まで南に面した障子から入る自然光を頼りに働きました。夜になってから濱田と藤太郎は工房に並び、カンテラの火を頼りに新しい作品づくりに熱中しました。
工房の一画には佐久間藤太郎の作品が展示されています。
「祖父が濱田を招いた背景には、時代の変化もあると思います」と藤也さん。大正時代になると東京では電気や水道、石炭が普及し、益子が得意とした大きな水ガメや土鍋が不要になってきました。半陶半農を続けていた益子では、問屋の注文に応じて製品を作ることが主流で、自発的な市場調査や製品開発はほとんど行われていませんでした。その中で藤太郎は来たるべき時代に備え、濱田と共に作品性の高い製品の開発に挑んだのです。
藤太郎は濱田が独立した後も試行錯誤を重ね、6年をかけて独自のデザインを生み出しました。それは益子伝統の釉薬を上手に組み合わせ、華やかな雰囲気を生み出しています。濱田は「売りもせず売れもせず、よく続いた。6年間の夜業が自然に厚い土台を造り、陶工の中で一線を画した」と藤太郎を評価しました。
「輸送ルートが貧弱な当時は、益子で採れる土や釉薬をどう活かすかが課題でした」と藤也さん。益子の粘土は耐火度が低く、大皿などは焼成中に変形しないよう厚く成形し釉薬をたっぷり掛けます。釉薬には地元産の芦沼石を原料とした「柿釉」や籾殻の灰からつくる「糠白釉」などがあり、柿釉と糠白釉を合わせると「本黒釉」になり、糠白釉に銅を混ぜると鮮やかな青を発色する「青磁釉」ができます。これらの特性を知り尽くした藤太郎は、限られた条件のなかで、益子の魅力をひき出す道を模索し続けました。
佐久間賢司さんの作品。塩釉を使った作品も制作していました。
藤也さんの父佐久間賢司さんは藤太郎の四男で、濱田庄司の工房近くに、独立した工房をもっていました。濱田庄司の孫と藤也さんは同じ小学校で、濱田のもとによく遊びに行ったそうです。「子どもにとっては、気さくなおじいちゃんという感じでした。来客が多く毎日50個の饅頭をとっていました」。濱田は昼間来客の相手をして、職人が仕事を終えた夜から工房に入り絵付けなどを行っていました。
昭和50年、賢司さんは佐久間藤太郎窯を継ぐことになり、職人たちと一緒にここへ移りました。やがて藤也さんは名古屋芸術大学で学びましたが、在学中に父賢二さんが亡くなったため益子に戻ります。栃木県立窯業指導所(現・窯業技術支援センター)で1年間作陶を学び、4代目として窯を継ぎました。
▼代表作となっているナスの絵柄は、戦中に佐久間藤太郎が考案したもの。万一の事があっても職人や家族だけで作れる製品として考えたそうです。
工房を継いだ藤也さんは、祖父や父の作品から、益子らしい陶芸の姿を学びとっていきました。「すでに本人がいないので、余計なプレッシャーを感じず、素直に作品を真似ることができた」と語ります。益子でも全国の陶土や釉薬などを取り寄せられるようになった現在。藤也さんが目指すのは「益子らしい材料を使い、自分の作品にしていく」こと。「それを絶やさず100年先に伝えるのが僕らの使命かもしれない」といいます。
ドラゴンシリーズ 66
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
83年、四谷三丁目、ロイヤルホスト
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歳の頃、夜になると眠れずに四谷三丁目辺りにあった静
かなファミリーレストランに毎晩のように行っては、一杯のコーヒーを注文して長時間、長いカウンター席に座って意味もなく読書する日々が続いていました。
読書をすると言う行為が自分の空虚な時間を埋める都合の良い体裁であり、自己の行為を肯定する無意味な時間だったと感じてました。ボロアパートの部屋でじっと天井を見上げていても、白い天井や壁には自分の妄想が作り出す人々の顔が次第に沢山浮かび上がってくるだけで、そのうちに体が痺れはじめ動けなくなってしまうような精神的な病の寸前にあった日々が続いていました。
しかし、それは自分で作り出している妄想であることもしっかりと自覚していました。何かをしなければならないけれど意欲的な気持ちになることもなく、そこには心の存在しない生活が存在していた。不毛地帯とは若者の出口の無いエネルギーの溜まり場のように、若者の持つ形容できない寂しさや焦燥が充満しているだけで、何にもならない何もできないそんな時間が僕の貴重な不毛地帯だったような気がしています。
毎日のように僕はニーチェやトルストイ、マルクス、モームなど様々な文庫本を古本屋の安売ワゴンから見つけては、数冊をファミレスのカウンター席に持ち込んで、何杯も無料のお代わりをしながら時が過ぎてゆくこと、その読書する行為に自己を満たすことに溺れていたように思います。
それは誰もいない
人芝居のような喜劇的なものでした。
ニーチェやトルストイをただただ文字だけを目で追いかけながら、真っ白な頭には何の意味も入ってこないことも自覚していました。ただその時の僕にはファミレスの静かなカウンターに座って読む姿が大事だったのだと思います。恥ずかしいようですが、本の中身が何を意味していたかは全く不明でした。『ツァラトゥストラはかく語りき』は何度読んだこと
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でしょうか。しかしその時の自分には何も残るものがありませんでした。
ある日も僕は同じようにカウンター席に座り、何冊かの本をこれ見よ
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がしにテーブルの上に重ねて神妙な顔つきで読書をしながら時間を潰していました。そのカウンター席にはいつも、何人かの若者が何かを書いていたり勉強しているようでしたが、僕は常に人に対する恐怖感から、自分の惨めな素性をばらしたくなく、人との接点を持つことも話すこともありませんでした。
ある日の夜、少し離れた席に同世代の若者が座って何かを読書していました。その日のカウンターには僕とその彼が数席離れたところに座っているだけです。彼は座ったまま僕に話しかけてきました。多分、毎日コーヒーを何杯もお代わりしながら何を読んでいるのか「ニーチェが好
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きなんですね」と言うような言葉を掛けられたような気がします。
誰とも接点を持つことが出来なかった僕は戸惑いながらも自分の声を聞いてみることにしま
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した。できるだけ普通を装いながらも丁寧に何かを話したことを
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覚えています。それから、彼は僕を彼のアパートに誘ってくれました。彼のアパートはそのファミレスから歩いて分くらいのところにあり、昭和初期に建てられたような木造の階が彼の部屋でした。
ドアを開けると僕が住んでい
た畳半のアパートに比べ、ずっと広い畳くらいありそうな室内が広がっていました。玄関にたった僕がまず驚いたのは、無数に積まれた本でした。家具らしいものは何も無く布団さえも記憶にはありません。玄関から上がれないくらい、畳の畳の上と開けっぱなしになった押入れの中にも無数の本が積まれていました。その山の間を抜けるようにして僕らは部屋に入りました。
僕はそんな景色を見るのは初めてで、言葉にもならない衝撃で立ち尽くしていたように思います。彼は積み重なった本を動かして、僕らが座る場所を作ってくれました。僕はその彼とはその日以降は一度も合っていません。ですから彼の名前もそのアパートの場所も夜中だったこともあって明確な記憶がないのです。ただ、その時に彼が僕に話してくれた夢のようなことだけは、細部まで明確に覚えているのです。
彼は将来、東京の街中を森に変えることが、自分の行うべき仕事だと明確に言い切りました。僕らは夜中の四谷三丁目のファミレスのカウン
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ターで文庫本を読書する名も無い若者です。
『僕は東京の街を緑の森に変えることを真剣に考えているんだ』。彼はその方法を詳しく聞かせてくれましたが、僕は心の中ではそんな空絵事を考える奴は、現実を知らず子供から抜け出せない若者と少し軽蔑さえしな
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がら、夢物語を呆然として本の山の中に埋もれながら聞くだけでした。だから彼の名前も聞きたいとも、その後に会いたい気持ちにもなりませんでした。彼は僕よりも〜3歳年上だったように思います。そして彼は
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東京大学の学生であったことは、その場にあった手紙でわかりました。
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彼が話してくれた「東京を緑の森に変える」構想はこうでした。当時、年代前半の東京は、霞ヶ関、新宿、池袋に高層ビルが立ち始め、経済発展にともなってどんな土地にも灰色のビルを建ててゆく好景気の時代でし
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た。彼はその多くのビルが隙間無く乱立する東京の街を緑で覆い尽くすというのですから、僕など相手にならないくらいの不届き者であり、妄想癖のある若者だと、彼の話を聞きな
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がら感じていました。
彼の東京の街を緑にする構想は明確でした。まずはビルの屋上を緑化することでした。ビルの屋上に上がって周りを見渡して見ると、そこにはエアコンの室外機があるだけで何も利用されていません。彼はそれを地面のレイヤーとして考え、ビルの屋上を緑化して繋いてゆくことで、東京にもう一つの緑の地表を取り戻すことができる。さらにビルの屋上をブリッジやステアでつなぐことで、公園や散歩道が出現する。その緑の平原はやがて森に育ち、東京に豊かな緑を作り出す。それが彼が語ってくれた、東京に森を作り出す構想でした。
それから年たった2001年4月、『東京における自然保護と回復に関する条例』によって屋上緑化が義務付けられたとのニュースを見て、僕はハッとして記憶が蘇り、これはまさに彼が描いていた夢がつながったように感じたのでした。
僕が最も幸せを感じるのは、歳から歳までの年間の全く意味の見出せなかったと思える不毛な時間なのです。自分の存在が全く無意味に感じられ、誰からも価値を見出されずに東京の街中を無意味に彷徨っていた時間が、自分の根本に現在でも居座っているように感じるのです。それは時限爆弾のようなもので静かに時を刻みながらも、刻々と暴発する時を刻んでいるような感覚にあるのです。
益子焼の過去・未来をつなぐ戦国時代の城跡「益子古城(御成山遺跡)」にたつ益子陶芸美術館/陶芸メッセ・益子は、美術館、濱田庄司旧邸、
益子陶芸美術館/陶芸メッセ・益子陶芸工房などの複合施設です。御成山では、石器時代から縄文、弥生、奈良・平安時代の遺跡も出土しています。
益子陶芸美術館
陶芸メッセ・益子には、昭和5年、濱田庄司が益子に初めて建てた自邸と、登り窯が移築されています。
江戸時代後期に建てられ、益子町の隣、茂木町から移築されました。立ち退きの日が来ても、当主がなかなか動かず苦労したと濱田は書いています。
土間に面した板の間に手回しロクロや蹴りロクロが置かれ、初期の作陶が行われました。階段箪笥で上がる中2階は、夫人の機織り場としても使われました。洋風の食事を好んだ濱田は、カマドでパンを焼き楽しんでいました。
2014年から益子国際工芸交流事業が始まり、アーティスト・イン・レジデンスで滞在中の国内外の作家が、工房で作品作りに励んでいます。「益子国際工芸交流館」の建設は、益子町の窯元に生まれた大塚実氏(大塚商会創業者)の寄付に基づき行われました。2011年3月11日、東日本大震災は益子の窯場にも大きな被害を与え、多くの窯が崩れるなか、大塚実氏は、窯の再築費用を寄付するなど伝統産業の復興に大きく貢献しています。
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昨年秋、友人
人と古稀のお祝いにと東北旅行に出
かけた。紅葉に囲まれた露天風呂に入り、オカマショーでおひねりを奮発し、舞台に上がってカラオケを披露、存分にみんなで古稀を楽しんだ。
宴席では誕生日順に席を並べ、早生まれの私は一番末席に座り、なぜかほんの少しだけ優越感を味わっていた。それももうすぐ、名実ともに古稀を迎え、ふと思うことがある。
歳、古稀。「人生七十古来稀」の一節によるものと
ある。しかし今は人生 100年時代と言われ、
も活躍する人たちがテレビで紹介されたり、
っして稀ではない。そんな想いを巡らせているうちに、
古稀を迎えることができなかった、友人、知人、お世話になった方々の顔を思い出した。
中学のクラス会で訃報を知らされた友人、美人薄命をそのままに逝った高校時代の友人、社会人になって一から仕事を教えてくださった先輩、いつも気にかけ声をかけてくださった上司、働き盛りで魅力的だった同僚、仕事の上で大変お世話になった方、いつも先見の眼で新たな知識を教えてくださった方々、 ……みな、残念ながら古稀を迎えずに逝かれてしまった。
お一人おひとりのお顔を思い出し、あり日の姿を偲び、まだまだ活躍の場が多くあったことに惜別の想い
がつのる。やはり、
歳は稀なのだと …
の重みを深く感じることとなる。
人生 100年時代。自立して健康で生きるのは容易ではないが、自分自身のこれから、命永らえたことに
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歳で
歳はけ
改めて、古稀
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古希に想う
感謝して、大事に生きていきたいと思う。
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それにしても新型コロナウィルスには、手も足も出ない。朝時のニュースは見逃せないが、昼過ぎも夜のニュースも内容にさ
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して進展はない。新たな感染情報に釘付けになるものの、知りたい情報はなかなか得られない。深夜になってもニュース番組にチャンネルを合わせている。
不要な外出を控え、手洗いを徹底し、体力消耗を極力抑える自衛策しかない。ほんのちょっとの温度差や埃でくしゃみを連発するので、マスクは絶対必需品。マスクをかけずに電車に乗ろうも
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のなら、白い目が注がれる。
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友人との約束はウィルスが下火になってからとみな先延ばしした。そしてこの季節、日本海の美味しいカニや三陸の牡蠣やホタテに生唾を飲むが、楽しみは先にと、ぐ 7っと我慢をする。
人と会うこともできるだけやめているので、情報はテレビと新聞。一方通行なので新しい知見や見識がなかなか得られない。閉じこもっていたら、友人からメールが来た。「戦争が無くなると、人口が増え食糧危機の時代が来るが、また未知なるウイルスが人類を滅ぼす。それで人口増加が調整される」と、年も昔に読んだ本のことを知らせてくれた。その友人は、カニを食べに家族で城崎へ行く。と追記があった。
本当は怖いけどね ……とも書いてある。必要以上に怖がっても仕方がないが、ニュースとはなんだろうと、つくづく思う日々である。
閉じこもりの日々、ラジオ体操第、第をやっている。結構な運動量で続けるのは容易ではないが、出歩きが心配なくなった時のために鍛えるのも今は大事と、古稀仲間で励まし合っている。健康に生きるのはたやすいことではない。
益子陶芸美術館
益子陶芸美術館では益子焼の歴史を紹介するとともに、濱田庄司、島岡達三、佐久間藤太郎など代表的な作家の作品を展示しています。3月29日までの企画展として「健在する日本の陶芸 .不如意の先へ .」を開催中。近藤高弘(京都)、竹下鹿丸(益子)、谷穹(信楽)、福本双紅(京都)という4名の作品をとりあげていました。
近藤高弘「白磁大壺」。
福本双紅「雲」。
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