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時空を超える美意識
熱海 遊学
夏衣 2020 https://collaj.jp/
東京至近の温泉地として発展した「熱海」。熱海駅からビーチに向かう坂道を降りると、相模灘が見えてきます。バブル期には多くのリゾート施設、マンションが開発され、崩壊後は温泉地の衰退が心配されましたが、地域イベントの開催や歴史・芸術を学べる街づくりをすすめ、観光客をV字回復しました。
熱海という地名は奈良時代、海底から温泉が湧き出て海が熱湯に変わったことからと伝わります。海岸付近にはいくつもの源泉があり、江戸時代には徳川家康も保養に訪れ、湯を江戸城に運ばせました。コロナの影響で春の海上花火大会、熱海こがし祭りなどイベントの中止が続いたものの「起雲閣」、「MOA美術館」といった施設はすでに再開しています。熱海市役所に近い「大湯間歇泉」。江戸時代には毎日6回湯が吹き出したそうです。近くには湯の神を祀った「湯前神社」があります。明治18年、この地に日本初の温泉療養施設「..館(きゅうきかん)」がひらかれ、明治22年、皇太子時代の大正天皇のため「熱海御用邸」が完成。その周辺に華族・実業家の「お別荘」が建てられるようになります。
初川沿いにある熱海芸妓置屋連合組合の見番。熱海には今も50を超える「置屋」に所属する120名以上の芸者が活躍していて、毎週土・日曜には歌舞練場で華の舞を公開しています(2020年6、7月は休演)。熱海でいま熱いのがスイーツの世界。谷崎潤一郎はじめ文豪が愛した喫茶店や、大正時代からつづく「熱海本家ときわぎ」、「常盤木羊羹店總本店」など老舗の建物も魅力的です。
Misson!!!
深海トンネルヲ通リ抜ケ海底マデ到達セヨ
Vol.12
原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
机の上に散らばっていたハカセの設計図 No.23090555 "ダイビングスーツメチャカル DX2"
海運王から鉄道王、そして市民へ
熱海の迎賓館「起雲閣」
いま熱海へは、東京から新幹線で40分ほどですが、昔は不便な場所でした。明治40年、小田原〜熱海を結ぶ軽便鉄道が開通すると、気候が温暖な保養地として実業家や華族、政治家が別荘を構えるようになりました。それら「お別荘」のなかでも「岩崎家別荘」、「住友家別荘」、「根津家別荘」は3大別荘として知られ、その中で唯一、旧根津家別荘が「起雲閣(きうんかく)」として一般公開されています。ほかにブルーノ・タウトが設計した「旧日向別邸」も市の施設として公開されていました(保存修理工事のため2022年4月まで休館)。
熱海駅前の「熱海軽便鉄道7機関車」。小田原〜熱海を2時間40分で結びました。新幹線は10分です。
「起雲閣」はもともと、海運王と呼ばれた内田信也(後に政治家)の別荘として建設されました。そのきっかけは、内田が母、兄と共に遭遇した列車事故でした。神戸〜東京に向かう列車が脱線転覆し、寝台に寝ていた内田と母が生き埋めになり、兄を亡くしました。そのとき「神戸の内田だ。いくらでも金を出すから助けてくれ」と叫んだと新聞に載ったことが有名です(本人は否定)。内田は怪我をした母のため、車椅子に対応したバリアフリーの本館を大正8年に建設。「湘雲荘」と呼ばれた邸宅は関東大震災にも耐えましたが、内田が他の別荘を建てたため、大正14年、鉄道王・根津嘉一郎に渡りました。根津嘉一郎は、洋館を増築し庭園を整備しました。昭和7年完成の洋館は、サンルーム、食堂、居間の3部屋からなっています。サンルームには天井一面にアールデコ風ステンドグラスが張られ、床のモザイクタイルには、約2万枚の「奉山タイル」が使われました。
ステンドグラスは、宇野澤辰雄の弟子の工房で作られました。天井と高窓の間には、石膏のレリーフが嵌められています。屋根がガラス張り(下写真)のため、天井のステンドグラス明るく映えます。
サンルームに隣接する食堂室「玉姫」。折り上げ格天井には、貴重な金唐革紙を貼っています。寺社の屋根にある「斗.(ときょう)」や中国風レリーフなど様々なモチーフが散りばめられ、会食中の会話には事欠かないようです。暖炉に使われた色鮮やかな「泰山タイル」は、池田泰山が京都で創業した泰山製陶所で焼かれました。
リビングとなる「玉渓」は英国チューダー様式でまとめられながら、暖炉中央にガンダーラ様式の仏像レリーフをはめ、その脇にステンドグラス。奈良の古刹に使われた円柱を床柱に見立て、柱・梁は手斧跡を残した名栗仕上げ、天井に煤竹を張るなど、東西の融合が見られます。実業家茶人として知られた根津嘉一郎の感性をうかがい知ることができます。
ドラゴンシリーズ 70
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
借金天国
5月の日本の倒産件数は過去で最も少なかったそうだ。多くの中小企業や飲食店がオープンできなくて苦しんでいた 5月の倒産件数が過去最少だったと聞いて違和感を感じる人もいるかもしれない。しかし、過去にも同じような状況に出会ったことが何度かあった。リーマンショックの時もそうだっ
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たと思う。
日本の人々は世界の国々の支援策を見たり聞いたりして、日本の中小企業への対応が遅れていると感じていると思うが、それはどうだろうか。緊急事態の支援について、アメリカやヨーロッパ(ドイツ、フランス、イタリアなど)の国々は自国民や中小企業を救うための対応策を矢継ぎ早に打ち出して、その対応力の速さに日本国民は驚いていたように思う。しかし、平常時の欧米の中小企業に対する支援体制の基本的な考え方は、はたして日本国民が欧米に抱いているような盤石の対応が行われているだろうか。日本では普段から銀行の貸し渋りを抑制するため、国の金融支援機関が貸出資金の保証を行い中小企業や飲食店など個人経営者の支援を行っている。それは、現在のような厳しい時だけでなく、平常時にも様々な融資制度が設けられていて、日本の中小企業は国や銀行によって手厚く保護されているのは事実だ。
僕がドイツで会社を起業したのは1990年のことだったが、金融機関に融資してもらう機会は一度も無かった。ドイツの法律に従って G M B Hと言う有限会社(大企業以外は大半が GMBHだ)を設立したが、赤字が 3年以上続けば、これ以上会社を維持することができませんと言う警告もあった。そんな厳しい社会の中では簡単に融資など受けることは出来なかったし、考えもしなかった。とにかく自前の資金でやりくりするしか術はないのだから、何とも厳しい社会だといつも感じていた。
それから数年して日本に帰国し、日本法人を設立してからも年間くらいはずっと資金繰りで苦しんだ。資金が底を付くと借金するしかなかったのだが、会社を始めたばかりの頃、起業した若者がまずお世話になるのが国民金融公庫だ。
国民金融公庫(現・日本政策金融公庫)とは。何ともいえない初々しい響
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きのある金融機関である。多くの経営者はここで300万円からの借金生活 をスタートするのが相場だ。それを返済するのに〜年が経過する。その間、順調に返済を半分以上済ませると、500万円に借金を増額するのも初級パターンなのだ。そこから卒業すると、次に国が運営する信用保証協会に借金を保証してもらい、もっと大きな数千万円単位を借りるようになる。ここからさらに地獄の三丁目に突入する。そのようにして様々な国の支援制度を駆使して借金を重ねてゆくことで、日本の中小企業は手厚く守られてゆきながら、いつの間にか真綿で首を閉められるように泥沼の状態で茹でガエルへと移行する。時には緊急支援融資、時には経営正常化融資、時には緊急対
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応化資金と名目を変えながら。そして新型コロナ緊急融資が設けられて、ど
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んな危険な状態の中小企業も借金錬磨の経営者によって国民の税金が金融ブローカーを介してどんどんと融資されてゆくのが、倒産件数を史上最少にしている要因なのだ。もちろんほとんどの融資は適正に行われているはずだが、多く 30
の融資が行くべきでないところに回っているはずだ。
突然、年以上お世話になっている老舗飲食店の社長から相談があった。その社長はどこの金融機関からも融資してもらえなかった。直近の売上が〜%以上昨年よりも減少していれば、所在地の区役所から売上減少の承認を受け、それを信用保証協会が認めれば、たいていの会社や飲食店は新型コロナ融資を受けることができるはずだ。しかし、その飲食店は年以上も堅実に経営をつづけ、素晴らしい料理を長年に渡り提供し、本当に真面目に仕事をしてきた人たちなのに、何故だか分からないが信用金庫や信用保証協会の独断で、本来は融資されるべき飲食店に融資されなかった。
その一方、元々、倒産寸前の会社には湯水のように融資が実行されている。何かがおかしい。税金が回収できない融資先へと流れて行き、真面目に仕事をしてきた本当に必要な会社には融資さていない。それが厳しい現実のなか、5月の日本の中小企業の倒産件数が史上最少であった現実なのだ。しかし諦めてはならない。諦めなければ、復活できるし、不景気をきっかけに資金で苦労した経験は、人や会社を磨き成長させてくれる良薬なのだと信じている、頑張って乗り越えよう。
根津嘉一郎は青山本邸(現・根津美術館)でも分かるように、水の豊富に湧く敷地を好みました。起雲閣の敷地にも小川が流れていて、これを気に入って購入したといわれます。敷地は3000坪に拡張され、池泉回遊式庭園を造成します。石好きの根津は熱海一帯を歩き、気に入った石があると、熱海造園の石井氏に依頼し庭園に運ばせました。まだ重機のない時代、モッコを持って作業を手伝う嘉一郎の姿を見て、職人もやる気を出したと伝わります。
戦後、昭和22年に根津から別荘を購入した金沢の実業家・政治家桜井兵五郎は、旅館に改装して「起雲閣」を開業。山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治、舟橋聖一、武田泰淳など文豪たちに愛され、熱海を代表する名旅館になりました。「起雲閣」が平成11年に廃業すると施設は競売に掛けられますが、熱海市が取得に成功し、観光文化施設として平成12年から公開されました。「起雲閣」の運営は指定管理者NPO法人「あたみオアシス21」に委任されています。同法人は起雲閣を取得するよう熱海市に働きかけた主婦グループを中心に結成されました。来場者には最初に起雲閣の歴史を解説してくれて、アットホームな雰囲気に包まれています。本館2階の客室「大鳳」は10畳+8畳の眺めのいい座敷で、3方に畳廊下をまわし床をフラットにしたバリアフリー仕様です。壁の鮮やかな群青は金沢の花街に見られるもので、桜井の趣味により改装されました。太宰治はこの部屋に昭和23年3月、山崎富栄を伴って宿泊し、その3カ月後に2人は玉川上水で情死しています。『人間失格』は起雲閣別館で書かれました。
敷地で発見された温泉を引くため作られた「ローマ風呂」。浴槽内にはメタリックなタイルが貼られ、床は滑りにくい木製タイル。窓にはステンドグラスがはめられています。
「金剛」は昭和4年、根津嘉一郎によって建てられました。暖炉の上部には、スペード、ハート、ダイヤ、クラブの形をした螺鈿細工がはめられ、ステンドグラスやスクラッチタイル、暖炉の石積みなどが、ざっくりとした力強い素材感を伝えます。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
コロナ禍中、ライフラインとしての食品スーパ.の今
新型コロナウイルスによるパンデミックは、この数カ月収まる気配をみせませんが、経済をまわさなければ暮らしも成り立たず、各国首脳達が葛藤しながら人々の暮らしを整えるよう、やや前倒しの気もしますが、経済界がもう待てないと云っているのか決断しました。ここに来てようやく幾つかの国が厳しいロックダウンを解き、日常を取り戻そうと活動しつつあります。
コロナ渦中では「エッセンシャルワーカー(essentialworker)」という言葉がよく使われます。ロックダウン中もストップ出来ない、必要不可欠な仕事(service/business)に携わる人々の総称です。代表例が、医者や看護士など医療従事者、薬剤師、介護士などで、我々の命と健康を守ってくれる存在です。もう少し範囲を広げるなら郵便局員、宅配の配達員、運送業者、交通機関の職員、警察官、消防署員、ガス・水道・電気等のエネルギーインフラ関係者、通信なども公共サービスですね、社会を支えるためにコロナ感染リスクを覚悟して現場で従事しています。
世界では、エッセンシャルワーカーに感謝の気持を伝え、励ますために、毎日決まった時間に窓から拍手を送るムーブメントが EUなどで広がっています。さらに食品小売業界でも「エッセンシャルワーカー」という言葉が登場するようになりました。スーパーマーケット、ドラッグストア、コンビニエンスストアなどの小売り事業関係者もそれに位置づけられ、感染リスク高いと考えられる現場従事者です。
東京都が外出自粛を広く都民に呼びかけたゴールデンウィ
ーク前後の「ステイホーム週間」には、多くの商業施設で、
前の週末よりも来店客が増加したと報じられました。スー
パーマーケットが 12%、ホームセンターが 9%、ドラッグ
ストアーが 7%増です。
特にスーパーマーケットは生活にとって一番欠かせない存
在ですから、外出自粛によってどこへも行けないこともあり、
普段よりも沢山の老若男女が来店して大混雑となり、店舗スタッフの業務負担は増大しました。小池東京都知事が、「スーパーマーケットでの買い物は、3日に1回位にしてくだ
さい」と懇願する姿が記憶に新しいです。
そんな中、食品スーパーマーケットでは年商 7000億円を超える国内最大の売り上げ規模を持ち、近畿圏や首都圏に 275店舗を展開する「ライフ(LIFE)」は、店舗スタッフの「コロナに感染するのでは……」という心理的な負担を配慮して(もちろんレジ前には透明プラスチックシートを設置するなど感染予防対策を施している)、パートやアルバイトを含めた全従業員約 4万人に総額約 3億円の「緊急特別感謝金」を支給すると報じられました。雇用形態や出勤日数に応じて4月分の給料に上乗せして支払われたようです。それに加え「ライフ」は感染拡大防止に向けた臨時店休を実施しました。「店舗の衛生環境の維持」と「従業員の体と心のリフレッシュ」を図ることが目的です。全店が1日休めば売り上げは20億円くらい減少し、経営陣にとっては勇気のいることですが、従業員を思いやる素晴らしい判断です。お客様の利便性を確保するため、チェーンの一斉休業ではなく、3日間の内各店 1日だけ臨時休業する方式をとりました。結果、従業員を大事にする企業だと市場が感じ株価が上昇したと聞きました。アメリカではやはり食品スーパーマーケット大手のクローガー(Kroger)がこの3月に「ヒーローボーナス」と呼ばれる賞与をフルタイム・パートを問わず、それぞれの貢献に応じて支給しているそうです。
日本の小売業、特にドラッグストアや食品スーパーマーケットの大半はチラシを大量に配布し「ハイ・ロー型」と呼ばれるプライス政策をとります。チラシ(日本人はお祭りが好きなのでしょうか、よく◯◯祭り開催中!!と唱われます)の掲載商品は特売商品(その時だけ安く、期間を過ぎれば価格を戻す)で、当然大量に売れます。店舗へ配送するトラックにチラシ掲載商品を山ほど積みますので、お店に出される商品はある意味、偏ります。このコロナ禍中、食品スーパーマーケットチェーンの一部
では、チラシ自粛を行っているところがあります。理由の一つは「混雑緩和」で、チラシ掲載商品への密集を避けるためです。もう一つは「商品の安定供給」です。各企業は総力を投じて、売り場の商品構成を考えています。それを特売によって崩すことなく「今お客様が必要なものをしっかり売り場に並べることが、小売業本来の使命」と、原点に立ち返って安定供給に努めるという強い想いからです。
アメリカ国内最大の売り上げを誇る企業は、今や石油会社でも自動車メーカーでもありません。経済誌『Fortune』の調査で 7年連続売上1位を続ける小売業「ウォルマート(Walmart)」です。全米で現在 5,263店舗を展開し、全世界での年商は約 51兆 4400億円(1ドル 100円換算)です。イメージとすれば「イオン(AEON)」グループの年商が「ウォルマート」1カ月分の売り上げ位でしょうか。ちなみに Appleが 26兆 5500億円で第 3位、Amazonが 23兆 2800億円で第 5位です。
元々ディスカウントストアから始まった「ウォルマート」ですが、最近は食品売り場も充実し、全ての商品をエブリデー・ロー・プライス(EDLP)で販売します。つまり商品価格を「ハイ・ロー型」にしないのです。当然タイムセールなどしませんし、夕方に総菜の見切りシールも貼りません。24時間営業ですから、いつもでも、どの店舗でも商品値段は一定です。お客様の買い物行為に差をつけないのです。フェアで良いと思いませんか? しかし何故か日本では、EDLPの理念が根付きにくいようです。アメリカへ行くと毎回思うのですが、平均年収は日本の方がアメリカより高いはずなのに、暮らしは豊かな気がします。実質的に役立つ「ウォルマート」のような「本物のディスカウントストア」が日本には存在しないからかもしれません。
今回のコロナ危機は、治療薬が完成しワクチンが充分に製造され国民全体に行き渡るまで相当な期間を要すると想像されます。収束した時、日本もEDLPが定着すれば、社会が変わると思っています。暮らしに役立つ「本物のディスカウントストア」が誕生し、我々にとって新たな意味を持つ暮らしがスタートすることを切に願います。
日本の美を伝えるMOA美術館
熱海駅からバスで10分ほど。相模灘をのぞむ小高い山のうえに「MOA美術館」があります。創立者・岡田茂吉氏の日本美術、工芸コレクションをもとに1982年開館しました。エレベーターを上った円形ホールのドーム天井(直径約20m)には、依田満・百合子夫妻が制作した万華鏡がリアルタイムに映写され、刻々と変化しています。
エントランスから総延長200mのエスカレーターで斜面の長いトンネルを上ります。山の景観を守るため、斜面にトンネルを埋めてから植栽を復元するという特殊な工法がとられました。設計施工は鹿島建設です。
壁面のレリーフは、エミール・アントワーヌ・ブールデル作「アポロンと瞑想」(真ん中)、「走りよる詩神たち」(左右)。原型はシャンゼリゼ劇場のため制作されました。
海抜約250mから眺める相模灘が、美術館の自慢のひとつです。広場ではヘンリー・ムアの彫像「王と王妃」が静かに海を眺め続けています。外壁はインドの砂岩で覆われ、手彫りの凹凸がスクエアな建物に表情を与えます。建物の設計・施工は竹中工務店で、BELCA賞のロングライフ部門とベストリフォーム部門をダブル受賞しています。
2017年には、現代美術作家・杉本博司さんと建築家・榊田倫之さんの設計により、ロビーと展示スペースの大規模リニューアルが行われました。赤・黒に塗り分けられた入り口の自動扉は、漆芸家・室瀬和美さん(人間国宝)の作品。杉本さんの提案で、根来塗の「片身替え」(器を赤・黒で塗り分ける意匠)をコンセプトにしたそうです。大きな窓からは相模灘を望めます。
杉本博司さんデザインのベンチ。脚には光学硝子が使われています。2020年8月18日には、子どもたちに向けた「能楽教室」が開催される予定です。
館内に設けられた能楽堂。屋根は檜皮葺の入母屋造。舞台は総檜で、鏡板の松・竹は日本画家・松野秀世さんの作品です。目付柱、ワキ柱は脱着式で音楽会、講演会にも利用可能。
茶室・数寄屋の研究で知られる建築家・堀口捨己博士の監修、早川正夫氏の設計により復元した「黄金の茶室」。豊臣秀吉は天正14年(1586)、正親町天皇のため京都御所に黄金の茶室を運びこみ、黄金の道具を用いて茶を献上。その御所の様子が復元されました。千利休は黄金の茶室を認めなかったという説もありますが、堀口氏は「華やかさも利休の茶の一面である」と考えていたようです。
鬼瓦職人)によって焼 (展示室への通路には、奈良の鬼師
かれた瓦が敷かれています。天平時代と同様に低温で焼かれているため、1枚1枚の表情が異なります。
川津陽子
ヨーコの旅日記第29信アミーゴの優しさに触れた危機一髪の旅メッセフランクフルトジャパン
これまで旅した国でどこが一番良かったかと訊かれれば、色々ありすぎて迷ってしまうが、一番印象に残っている場所といえば、後にも先にもメキシコと答えるであろう。20代後半に、それなりに長かったアメリカでの生活を終え日本への帰国を目前に、しばらく地球のこちら側には来ることもないだろうと、有休消化のタイミングで旅に出ることにした。当時、メキシコ系移民が多い地域に住んでいたわたしは、彼らの背丈や髪の色のせいか、妙に親近感を持っていた。実際、自分の祖母にそっくりな女性にも出くわし驚いたことがある。彼らの音楽や建築物や民族衣装などの鮮やかなカラーづかいにはエネルギーを感じるし、何と言っても豊かな食文化が魅力的で、わたしの中ではメキシカンフードは世界三大料理のひとつであった。行き先は迷いなくメキシコに決まった。道中は度々の腹痛に見舞われた。某旅のガイドブックには、腹痛が襲っても「いらっしゃいませ」のマインドで受け止めるべしと書かれていたし、これはヤバいかなと不安がよぎりつつも、食べたい気持ちが勝り、結果、約 3週間のバックパックの旅で、二度もお医者さんの世話になる羽目となった。一度目は太平洋に面したマサトランという町。目の前に広がる海に心踊るのも束の間、到着したその日の夕食時に出先のレストランで悪心が襲いトイレに駆け込む始末。翌日も改善が見られず、安宿のフロントスタッフに教えてもらった近所の総合病院のようなところに恐る恐る駆け込む。一緒に旅をしていた友人は多少スペイン語が話せたが、医療用語はハードルが高く手こずっていたところ、そこの患者らしき、いかにもアミーゴという感じのおじさんが、これまたやや拙い英語で通訳してくれた。
「お腹に虫が入った。虫を殺すための薬を出します」というストレートな内容で、前日の冷たいメキシコビールとつい手を出してしまったシーフードカクテルが原因かと思ったが、生野菜か?記憶を巡らせながらも、ここはただ従うしかない。なぜか診察代も請求されず、少しの安堵と引き続き不安な思いで宿に戻り、あとはひたすら 2日間ほど眠ってマサトランでの旅は終わった。すっかり回復したので、マサトランから次の町サカテカスを目指した。今となってはなんとも贅沢な時間の使い方である。サカテカスに行くには大きな山を越える必要があるのだが、ここで二度目の悲劇が訪れる。マサトランのバスターミナルを発った直後は、出発前に買っておいたパンを快復飯とも言わんばかりに調子よく.ばりながら、健康のありがたみを噛み締めていた。しかし、いよいよ山道に入ると、状況が一変する。今まで経験したことのない山道である。かなり短い間隔でカーブは繰り返され、しかも結構な急カーブのため、前シートの手すりにしっかり捕まらないと振り落とされる勢いである。病み上がりだからと一等バスを選んだのにやたら体への衝撃が強い。最初は、ありえないね、と笑い飛ばしていたが、少しずつ口数が減る。この不自然なほどのカーブの連続がいつまでも終わらないのである。ようやく落ち着いてきた頃には吐き気がピークに近づいており、冷や汗も止まらない。顔面蒼白。完全にバス酔いである。しばらく迷ったが、重い腰を上げてバス後方のトイレに向かった。案の定、清潔とは言えないトイレで、しかも外気が入って暑さも半端ない。それでも吐き気が先行し、正確には覚えていないがかなりの時間こもっていたと思う。少し楽になりトイレから脱出しホッとするのも束の間、今度は手足が痺れ出し、次第に呂律が回らずうまく喋れない症状に襲われる。これはただ事ではないと察知した友人が運転手に向かって、ありったけのスペイン語でバスを止めてくれとお願いした。一斉に乗客みんなの視線を感じたが、もうそんなことはどうでもよかった。
「山中を通過中で、今ここで降りたら何も無いのでもっと危ない。あと少しだけ我慢してくれ」と、友人が運転手さんの返事を訳してくれたが、後に聞いたところ、友人の脳裏には最悪の事態が浮かび「あー、親御さんになんて説明したらいいのだ」と苦悩していたらしい。旅先で非常に気の毒なことをした。しばらくすると突如バスが止まった。友人に抱えられながらなんとかバスを降りると、初老のお医者さんが待ち構えていた。一気に安堵感に包まれた。そこは山の中に突如現れた小さな集落で、道路沿いに家や小さい商店が数件ほど並んでいた。そのひとつが診療所だった。診察室に入るやいなや再び友人がスペイン語で挑むが、コミュニケーションがうまく行かない。そこに、学生らしきメキシコ人の青年が通訳をかって出てくれた。診断結果は度重なる嘔吐による脱水症状だったが、突如ベッドにうつ伏せに寝かされた。結果的に友人と通訳の青年の前でお尻をさらけ出し、注射を打たれるという何とも恥ずかしい体験となった。友人曰く、あれだけ大胆な注射の打ち方は日本では見たことないと……。そしてナトリウムたっぷりの液体を大量に服用し、だいぶ落ち着いてくると頭も現実に戻り、今度は「こんな山奥で今夜どうしよう、宿は見つかるのか」と心配になってきた。が、驚いたことに診察室を出ると待合室にバスの運転手さんと乗客達が座って待っていたのである。1時間近く長距離バスを止めてしまったことになる。日
本だったらまずあり得ないし、ヤジのひとつでも飛ばされそうなものだが、乗客たちは大人しく座って待っていてくれた。忘れられない光景である。安堵と感謝の気持ちで胸がいっぱいになり、友人も私も涙を浮かべながら、みんなに「グラシアス」と頭を下げてまわった。ようやくサカテカスのバスターミナルに到着する頃には、大げさに聞こえるかもしれないが、死ぬかもしれないという恐怖感のもと、全面に曝け出した自分の弱さを見られてしまった相手というような気がして、ものの一日であったが、彼らを勝手に親戚のような近い人たちに感じていた。そんな彼らと別れる際には、再び心から御礼の気持ちを込めてさよならした。大げさな言葉は無かったが、はにかむような笑顔を返してくれたのが印象的であった。恐怖と感動を一度に体験したあの一日は、あまりにも強烈で今でも鮮明に覚えている。今では町で困っていそうな外国人がいれば話しかけることも普通となった。そして、特にこれからの季節、水分補給を軽んじてはならない。忘れられないあの日に得た教訓である。
明治9年、久留米市に生まれた吉田博は、修猷館の図画
教師吉田嘉三郎に画才を認められ吉田家の養子となります。上京して洋画家・小山正太郎の画塾・不同舎に入門すると、明治32年(1899)、23歳で描き溜めた水彩画を携え片道切符で渡米。デトロイト美術館の即売会が成功し、その資金でヨーロッパを巡って2年後に帰国しました。さらに2年半後には、夫人となる義妹ふじを(女流版画家)と共に再び渡米し、3年以上をアメリカ、ヨーロッパで過ごしました。自分の脚で古今の西洋美術に触れ、画技を磨いた吉田は西洋画壇の中心人物として活躍しました。
「ヴェニスの運河」(大正14年)
雲に霞んだ大気の表現は吉田版画の醍醐味です。スイスのユングフラウは、ヨーロッパの名峰の中でも吉田が特に賛美した山。その造形や雲を正確に描いています。北海道を取材した作品では、海に浮かぶ利尻山が見事に表現されました。
「ユングフラウ山」(大正14年)
「北海波静 利尻山」(昭和13年)
まるで床の間のような、ガラスを嵌めない素通しの展示から肉筆の息遣いが伝わります。右から吉田博作「水車」、「山村小舎」、「瀑布」、「渓流」、「帆船」。脇には當麻寺と海龍王寺の古材がはめられていました。
洋画家の吉田を本格的な木版画にいざなったのは、大正12年の関東大震災でした。吉田は太平洋画会員を救済する資金づくりのため、3度目の渡米を行います。米国で木版画の評価が高いことを知った吉田は、計7年におよぶ欧米外遊の写生をもとにした「米国の部」、「欧州の部」を発表。自ら木版の技術を身につけ、優れた職人と共に制作にあたりました。30〜90版以上を重ねた木版画は江戸から続く技術の集大成であり、「冨士拾景朝日」(右)は約53×71㎝の大作で、紙の収縮による版木のズレを克服した、木版画の概念を変えるものでした。
MOA美術館の創立者・岡田茂吉氏は、戦後、日本の美術工芸が海外に流出する姿を見て、その保全のため琳派などの作品収集を始めたと伝わります。吉田博の作品も、伝統を継承する近代画家のひとりとしてコレクションされたと考えられます。
野々村仁清の国宝「色絵藤花茶壺」を展示した特別な部屋。江戸黒とよばれる深みのある黒漆喰が塗られています。仁清は尾形光琳の弟・乾山を指導しています。
ひとときコロナを忘れて心を古代に。文字がない時代から人間は、集まって酒を飲み、食事を共にし、歌を交わし、男女が交わり、神に祈ってきた。人間の本能だと言っていい。
我が国で古代の宴席と言えば「歌垣」(うたがき)が興味深い。
『日本国語辞典(精選版)』は、これを次のように説明する。「(1)古代、男女が山や市(いち)などに集まって飲食や舞踏をしたり、掛け合いで歌を歌ったりして性的解放を行ったもの。元来、農耕予祝儀礼の一環で、求婚の場の一つでもあった。のちに遊楽化してくる。かがい。(2)(のちに(1)が宮廷など貴族にとり入れられて)一群の男女が相唱和する、一種の風流遊芸。」
一方『日本歴史大辞典』の説明が凄い! 冒頭ズバリ「男女が集まって歌の唱和をし、性関係を持つ行事。」というドッキリの一文から解説が始まる。それに続く説明で注目すべきは「……共同飲食、歌舞、性的解放が盛んな年ほど豊年になると考えら
21
れた。」という部分。要するに、この酒宴でしこたま飲みかつ食べ、激しく歌い踊り、あげく若き男女が集団でセックスに励めば励むほど国が豊かになる、と我々の先祖は考えていたのだ。これ、
日本の現状(出生率)を思えば、誠に説得力がある。
万葉集・古事記・風土記などに残された歌の断片からうかがい知ることが出来る、文字がなかった時代の我らが先祖たる若き男女は、誠におおらかにして、かつ、ものすごくワイルドだったのだ。
古き世の酒宴について我が国の外に目を向けてみると、古代ギリシアの男の酒宴「シンポシオン」(symposion)が注目に値する。皆様が日常耳にする機会がある言葉「シンポジウム」の語源だ。『広辞苑』では「(ともに飲む、すなわち饗宴の意)プラトン対話篇の一篇→『饗宴』のこと」となっている。『日本国語辞典(精選版)』でも同様の定義だ。要するに、言葉としては「飲食の饗宴」という意味ではあるが、基本的にはプラトンに関する「作品名」であるという説明で、いわば、固有名詞扱いだ。しかし、その「作品名」の背景たる「飲食の饗宴」シンポシオンが、時代的にいつ頃、どこで、いかなる形式で行われた宴席であるかについては、説明されていない。これはある意味無理からぬところで、この古代ギリシアの酒宴の詳細については、1980年代末から本格的な研究成果が出始め、世紀に入ってかなり詳しい実態が解明されつつあるという状況だからだ。西欧食文化史研究の最前線におけるホットなテーマの一つ、といっていい。
たぶん多くの皆様は思われることだろう。大切なのは宴席で交わされた話の中身、すなわち、プラトンやソクラテスが交わした「哲学的会話」の内容こそが重要であって、その宴会のやり方がどうこうなんてことは枝葉末節ではないか。そんなことを研究してなんの意味があるのかと。確かに欧州でも中世以来長らく、そういう捉え方が中心で、宴席での酒や料理、座席のしつらえの形式、さらには飲食のサーブの仕方から、宴席マナーなんてことは、誰も細かく追求してこなかった。だが、「会話の中身と、その会話が交わされた場を完全に切り離して考える」なんてことが本当に可能なのだろうか。
古代ギリシア哲学は、その成立以来2千年以上の長きに渡って、西欧から流れ出て世界の隅々にまで影響を与え続けている重要な存在だ。しかし、その哲学と呼ばれるものの大半は、弟子や仲間との会話から誕生したものだ。時には道を歩きながらの会話、そして、酒宴での会話。「会話なくしてギリシア哲学なし」なのだ。会話は、その相手により、その交わされる場の状況により、同じことを主題としていても、語られる内容と表現は大きく異なってくる。皆様とて、対友人、対恋人、対上司、対部下、対家族では、言葉使いから何から大きく異なるはず。会話表現はそれくらい「場に縛られる」。
だとするならば、ギリシア哲学誕生の場である宴席、とりわけシンポシオンと呼ばれる酒宴の詳細について知ることは、その哲学が誕生した重要な経緯を知ることに直結する。敢えて言えば、場としての宴席の詳細を知らずして、そこで語られた会話の中身を正確に理解することはできないのではないか。というのも、シンポシオンは、現代の我々から見れば、かなり特殊な形式で行われた酒宴であったからだ。
例えば冒頭に掲げた「歌垣」。ここで歌われたと推定される歌の断片を万葉集や古事記や風土記に見出す時、「歌垣」という特別な場の詳細を知らずに「単なる恋の歌」と解釈してしまったのでは、事の本質を見失っている、と言わざるを得ない。若き男と女の体の交わりを前提として、結婚に結びつく可能性も大いにあった集団での出会いの場で歌われた歌。このことを知って初めて、そこで歌われた言葉の真の意味に近づくことができる。「ソクラテスはかく語りき」と聞かされたとき、「その言葉の語られた場の詳細なんてどうでもいい」とは到底言えない、ということだ。だから西欧食文化史のシンポシオン研究の最前線では、そういう微妙な細部の深堀りを続けているのだ。
では、今から2千5百年も昔の人々の宴席がいかなるものであったのか、研究者たちは、いったい何を手がかり(史料)として、その追求を行ってきたのだろうか。まずは、プラトンの『饗宴』など、シンポシオンの場で語られたことが確かとされる「哲学書」やその周辺史料。次いで、ギリシア悲喜劇の脚本や、ホメロスに代表される叙事詩の中に見いだされる宴席に関連した描写。ビジュアル史料として、酒宴で使われた大ぶりの陶器の盃や酒を満たした壺に見られる、酒宴を描いた絵。壁画やレリーフ。時に遺跡から発掘される食べ物の残滓。そして古代ギリシアの影響を大きく受けた古代ローマ時代の宴席に関する諸史料。こうした広範囲の史料を比較分析することで、徐々にシンポシオンという宴席の全体像が浮かび上がってきた。それが具体的にどのような宴席であったのか。次回に …………
復元された「光琳屋敷」
MOA美術館に併設された「茶の庭」には、京都の尾形光琳屋敷(復元)や岡山の伊木忠澄(三猿斎)の茶室を移築した「樵亭」などがあります。尾形光琳は正徳2年(1712)頃、京都新町通り二条下ル(御所の南側、二条城近く)に屋敷を新築しました。間口7間半、奥行13間ほどの敷地に建つ約90坪の数寄屋造で、画室、茶室、書院、居間、台所、浴室、土蔵などが、光琳自筆の図面(小西家文書)により復元されています。光琳はこの屋敷で、国宝「紅白梅図屏風」(MOA美術館蔵)を描いたと伝わります。
尾形光琳は江戸の初期、京都の裕福な呉服商に生まれ、幼い頃から能楽、書画に親しみ、俵屋宗達に絵を学びました。父の死後、陶芸で知られる弟・尾形乾山と共に莫大な遺産を相続しますが、放蕩により家業はかたむき、40歳の頃から画業に生きることを決意。二条綱平をパトロンにして、たちまち一流の絵師として認められます。野々村仁清に学んだ乾山とともに「琳派」を発展させた天性の芸術家であり、独自の画境をひらきました。玄関を入ってすぐの書院。廊下の出入り口に床の間があるという変則的なつくりです。
MOA美術館の「光琳屋敷」は、光琳が残した平面図(左)や大工の茶室越し図をもとに、堀口捨己博士の監修により復元されました。京町家は、細長い敷地に座敷を直線的に並べたプランが大半ですが、光琳屋敷は座敷を雁行に配置したユニークな設計。図面下側が来客用パブリック空間で、上側がプライペート空間、左側に通り庭があります。
客間の赤に対し、プライベート空間は渋い聚落を基調にしています。座敷の奥には仏間が見えます。
敷地の奥には「三畳台目」の小さな茶室があります。ここは光琳のプライベートな茶室と考えられ、すぐそばに2階の画室(16畳)に上がる階段があります。光琳は茶室と2階の画室を行き来しながら、作品を描いたのでしょうか。
土間の通り庭は天井が高く、大きなクドを備えた台所があります。カマドの数も多いことから、使用人を抱えていたことが伺えます。光琳屋敷には、日々沢山の来客があり賑わっていたのでしょう。
光琳屋敷の並びには「二條新町そばの坊」、「和食・甘味花の茶屋」があり、蕎麦や和食を頂けます。
多様な変化を見せる屋敷自体が、光琳作品のひとつであると感じます。仏間には、尾形家の菩提寺泉妙院の協力により、光琳の位牌が祀られています。6月2日の命日(弟・乾山の命日も同日)には、兄弟を偲ぶ茶会が開かれてきました(現在は京都広沢池畔・平安郷にて開催)。
文豪の里 熱海
温暖で都心にも近い熱海には、多くの作家や芸術家の住宅、別荘があります。戦時下の昭和17年、谷崎潤一郎は家族をおいて神戸から熱海市西山の別荘に移り『細雪』を執筆します。
昭和19年、神戸に空襲の危機が迫ると、谷崎は家族を呼び寄せ熱海に疎開しました。戦後は一度京都に戻りますが、冬の寒さが身にしみたらしく、昭和25年、再び熱海市仲田の別荘「先の雪後庵」に転居。昭和29年には熱海市伊豆山鳴沢「後の雪後庵」に転居しています。西山には佐佐木信綱が72〜92歳を過ごした「凌寒荘」があり、土・日に公開されています。
熱海市西山の日当たりのいい高台は、市内で最も温暖な場所として知られ、旅館や別荘、企業の保養所が点在します。
緊急事態宣言が解除されたものの東京の感染者数は一向に減らない。検査の数が増えたからとはいえ、第二、第三の波も心配する中では、友人たちと会っておしゃべりというわけにはまだいかない。
楽しい計画をしてくれる友人の誘いにその気になるが、冷静な東京在住の友人は「東京の人間は他の地域に行って移さないようにするのが節度です」と自粛延長を促す。「はい。おっしゃる通り」と、マスクをつけて近所の散歩回数を増やしている。
紫陽花がそこかしこに咲いていて、薄い水色から紫まで綺麗なグラデーションが目を楽しませてくれる。
友人たちとはメールで近況を知らせ合っているが、役に立つのが献立レシピ。ワイン党のおつまみレシピは思わず生唾が出る。
友人たちは一様に断捨離を初めたが、腰痛で寝込んだり、一旦捨てた洋服をまだ着れると戻してみたり、処分しすぎて読む本がなくなったと嘆く友もいる。私は積ん読本を手に取ったものの、あまりに昔に買った本は何で買ったのかも思い出せず、読む気はしない。難しい経済予測の本は、後出しジャンケンのようで理解はできるが今更読んでも仕方ない。待ちに待った営業再開をした日本橋デパートの書籍売り場に出向いたが、あろうことかフロアー一式閉店。山野楽器もあって、昔懐かし映画や好きなクラシック CDもよく買っていたので大ショック。売り場はデパートの中ということもあって、スペースもゆったりしていて、本が探しやすかった。何より私世代向けの本が平積みされているので、手に取りやすかった。一通り眺めてから、雑誌や料理本を含めていつも4〜5冊は買い込んだ。
家に帰り、コーヒを飲みながら買ってきた本をパラパラとめくる時間は至福のひと時でもある。アマゾンで取り寄せた本ではこの味わいはない。いやはや、コロナはこんなところにも影響をしていたとは ……参った。本の出会いがなくなるのはなんとも寂しいもので
酢漬けづくりあれこれ…
ある。さりとて丸の内や八重洲のビジネス書の中を歩いてまで、探したい本があるわけでもない。それはアマゾンで頼べばいい。デパートはもうデパ地下しか行かなくなるだろうなぁと思いながら、早々に引き上げた。
コロナで自粛生活が長引く中で増えたものは、通販お取り寄せと電話のおしゃべり。
もともと両方とも得意ではないが、こういう時に専業主婦の友人たちから教えてもらうことは多い。三度の食事と手抜き掃除の仕方、片付けの極意、保存食の作り方、野菜を捨てない工
A
夫、などなど ……美味しそうと思うレシピはすぐにやってみるが、包丁さばきはおいそれとはいかない。指の皮も一緒にはいでしまうこともある。今やキッチンにバンドエイドは必須。中学時代、華奢でいつも朝礼で倒れていた友人は健康診断でトリプル
を取っていて、とにかく野菜を食べろとやかましい。最近バンドエイドを使うことが多くなったというと、何?足腰の前に手にきたかと、手先きの不調を心配してくる。まぁ、そんなこんなで、コロナ自粛を励まし合いながら、私も負けじと、この6月は酢漬けづくりに挑戦した。
①鳥取の泥付きらっきょうを1キロ。泥落としをして、ヒゲと根をきり、薄皮を取って、塩漬けと、甘酢漬を半分づつ。②新生姜の甘酢漬けは、生姜をできるだけ薄く切って30秒湯通しし、少し冷めたところで甘酢をかけて色を出す。③人参と干しぶどうの酢漬けは、半分に切った人参を細く千切りし軽く塩をしてから干しぶどうを混ぜてピクルスに。④セロリとミョウガは斜め千切りにして塩昆布をあえて酢漬けに。
人前ではマスクは外せないが、暑い日差しの中では息も苦しくなる。熱中症にも気をつけないといけない。とにかく自衛するしかない。免疫力を下げないためにも、酢漬けを脇役にしっかり食べることが大事と頑張った。ラッキョウは下ごしらえで2時間もかかりいささか疲れたが、上手にできたら友人たちにおすそ分けしようと思う。それまでは内緒……。
來宮(きのみや)神社は古くから来宮大明神と称され、熱海郷の地主の神として信仰されてきました。
樹齢2千年の楠の木。熱海を守る「来宮神社」
来宮神社は大楠で知られます。参道脇に聳えるのは、樹齢1300年を超える第二大楠。300年前の落雷にも耐え、若葉を芽吹いていました。
7月の例大祭「こがし祭り」は、30基以上の山車が海岸の道路を練り歩き、デザインやアイデアを競う熱海で最も盛大な祭りです(2020年は神事のみ開催)。
本殿の奥にたつ樹齢二千年の大楠。御神木の根を守るための保護工事が行われていました。「幹を一周すると寿命が伸びる」という言い伝えがあり、樹のまわりをデッキで囲み参拝によって根が痛むのを防いでいます。
Y
当初、ヘリコプターやセスナ機などに関する問い合わせ先を国交省航空局に聞いたら、一度総務課に回され、そこから運用課につながった。だがここは、大型機の運行スケジュー
Y
ルを管理しているらしい。しかし担当者の口から、小型機の飛行については「まあパイロットのアイコンタクトにまかせたゆるい運行が実情」なのだと聞かされ、無法地帯、低空飛
!!
行の事実を確認できた。その後もネットで調べていたら、運
3
2
行安全課なる部署が存在するらしく、ホオさっそく連絡を
Y
つけてみた。対応してくれた氏は柔軟で温厚そう。こちらの事情に理解を示す姿勢も感じさせ、珍しく大人な人物のように思えたのだったが ……。まさにこの運行安全課こそが、小型機の担当部署であることを後に知ることとなる。
氏は東京近郊の各ヘリポートに高度を守って運行するよう注意を促してくれると言ったけれど。実のところ、彼らの動きはますます真逆の方向へエスカレートさせる有様だ。まだ大型ジェットも旅客機も飛んでいないのに、月の空の状況を憂いた私達は、思いあまり、思い立ち、月早々、吹きすさぶ風の中を、国交省航空局へ向かった。そう氏に
その 3
青山かすみ
本日、南風なれども
いか。まだ皆さん誰もマスクを着用して居なかったし、これ
は「だいぶやばい
」と一番奥の課長のまわりでミーティン
グ中の
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氏を待ちきれず、安全課のフロアをあとにするも、
運用課にも立ち寄り、今日伺った訳を申し伝え、国交省を急いで出た。
庶民にとって霞が関の官庁街はなにか遠い存在と思っていたけれど、中に入ってみたら大違い。この現実を垣間見、コロナショックとともに国交省ショックに面食らう。生涯忘れ得ぬアニバーサリーとなったのである。テレワークを呼びかける前に、省庁こそ早めに改善すべきじゃん。つくづくそう感じましたよ。3月上旬でまだそんな風なんですから。海外で(特にイタリア)新型コロナ感染拡大のニュースが伝わっていた頃ですのに。
2月、3月は小型機の低空飛行攻撃に悩まされながらも、各方面へ問い合わせ、その対応に注視したつもり。新航路直下に住む人達にとって、コロナと飛行騒音という2大空襲奏でるなかをくぐり抜け、生き延びることができるだろうか。首都東京を弱体化させ、再び高層ビル化でも?
もうそんな時代じゃないのにね。
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