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ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。
寺田寅彦 昭和10年
夏目漱石の愛弟子としても知られる物理学者・寺田寅彦は、昭和10年軽井沢で浅間山の小噴火に遭遇します。その様子を描いた「小爆発二件」のなかで寺田は「正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。」と、科学的な理解の難しさを説きました。いま世界の運命を変える困難にある人類は、どのように事態を理解し、対応すればいいのでしょう。今回は、その一助として、感染症と人類の歴史的な関わりを、イタリアの世界遺産「チンクエテッレ」やミラノ、フィレンツェの景色にのせてお届けいたします。
人類のふるさとは、感染症のふるさと
人類誕生の地アフリカ大陸には、ヒトに感染する細菌、ウイルスが他の大陸よりも多く存在します。それこそ、アフリカが人類のゆりかごであることを示しているのです。アフリカから世界へ旅立った人類は、火の発見や衣服・家屋の発明によって寒冷地にまで適応し、多くの感染症から逃れることが出来ました。紀元前4〜1万年まえ爆発的に人口を増やした人類は、地球全体を覆うようになります。
真珠のように並ぶ 5つの村 世界遺産チンクエ・テッレ
ミラノから南へ150km。地中海をのぞむリグーリア海岸には、入り組んだ海岸線に色鮮やかな村が点在します。ローマ時代からワイン、オリーブ産地として知られる世界遺産「チンクエ・テッレ」です。
マナローラの集落狩猟から採集へ人類の多様性が高まる
大型動物の狩猟をしてきた人類が、人口の急増により動物を狩り尽くすと、人類はサルの時代の雑食性をとり戻し、海岸で魚介類をとったり、オリーブや木の実、キャサバ芋を食用にする方法を見出し、加熱、発酵といった料理法を確立します。やがて集落が形成され人口密度があがると、細菌や寄生虫の感染リスクにさらされるようになります。
ローマ時代から続くぶどうやオリーブの段々畑。
農耕が盛んになるとアジアでは灌漑がすすみ、豊富な水をたたえる水田は寄生虫(吸虫類)の温床になりました。一方、焼畑農法が盛んなアフリカでは、草原化した焼畑地にマラリア蚊が大量発生し大流行を引き起こします。一度は感染症から逃れた人類でしたが、自然の撹乱や民族の大移動によって、新しい疫病が次々と生まれ、伝染する時代が始まりました。
本日、南風なれども
うちのマンションから嫌なものが見え始めた。羽田
新航路を低空で飛ぶ、ジェット機の風景だ。ブァーブァー、グォーグォー、騒音と排ガスを撒き散らしながら、都心上空を我がもの顔で飛び去る姿を見るにつけ、自国が起こす大空襲ともいえる現実に唖然とするしかない。一応は晴れた南風時の 3時〜 6時半頃まで続く決まりのようだが、朝から晩までこの辺りの上空を偵察ヘリが回遊しているからタマらない。すでに堪忍袋の緒も切れた状況である。一方、瞬く間に、世界各国で新型コロナウイルス感染症が広まってしまい、オリンピック開催は 1年延期となり、ニュースはコロナ対策一色へと塗り変えられた。政府は国民に不要不急の外出をしない旨要求を強めているが、そもそも早期の対処法に問題があったと思えてならぬ。国民の健康安全を守るなどど体裁のいいことを口にしながら、実のところは経済優先。インバウンド頼みである。日本は国際便の空港封鎖を一向に進めなかったし、人に出るな
新連載
その 1
青山かすみ
本日、南風なれども
出るなという一方で、旅客機をどんどん飛ばし続けているのだから、始末におえぬ。ましてや休業給付金など、先のまた先であろう。国境を越えて人やものを運ぶ交通機関、船や飛行機、そして鉄道、車、こうした移動空間でこそ、感染を生むんですから。政府・国交省には、これ以上、感染を増やさぬ努力を切望します。
港区に縁を得てかれこれ
年以上、ケン太と私の暮ら
す集合住宅もこの辺りでは最古参。半世紀を生き延びたことになる。向田邦子さんはじめ著名な方々が住まわれた南青山第一マンションズにも近い場所である。
数年前、同マンションの建て替え計画が浮上した際、他人事と思えず、ことの成り行きを見守るべきと覚悟したものの、計画は進展しないまま、平成から令和へ時代は過ぎていった。オリンピック開催にあわせ、その間、東京都と政府は、港区再開発、羽田新航路計画の両輪を着々とおしすすめ、オリンピックイヤーの今年2月、羽田新ルート実機飛行を実試したのである。突如、鳴り止まぬジェット機騒音との遭遇。なんの告知もなしに、直上を飛ぶなんて!!!???
一瞬、沖縄の基地と空港へワープした感覚に襲われた。都心、低空飛行の件は知っていたけれど、いやはや我が身に降りかかろうとは。コージ君の次がジェットとヘリなの?また腹の虫が怒りだした。
20
マクロとミクロの相互関係
『疫病と世界史』(中公文庫)を記した歴史家ウィリアム・H・マクニールは、細菌・ウイルスと人間の関係を、文明の初期段階にたとえています。強大な軍事力をもつ征服者は田園地帯を攻撃して、その中心に都市を形成します。征服者は田園に寄生し、労働力や作物を接収することで文明を維持しますが、田園が維持できるよう接収量を調整することで長期にわたる寄生が可能になります。一方、細菌・ウイルスが体内に入ると、細胞にとり付いて栄養を吸収し繁殖しますが、繁殖が限界点を超えると相互関係は崩れ、宿主に死をもたらします。
杉江弘さんはじめ専門家が危惧することのひとつが、南風時に行われるB滑走路からの離陸ルートです。従来は飛行禁止だった川崎コンビナートの低空を離陸した旅客機が飛びます。
2000年ほど前、文明社会に恒常的な繋がりがうまれると、人や物の移動によって各地の風土病が急速に広がっていきます。都市では疫病によって多くの人が亡くなり、それを補う人口の流入を必要としました。そのため周辺の田園地帯は都市に食料を供給すると共に、失われた人員の補充という二重の生産を担います。その一方、免疫力の弱い農村に疫病が蔓延すると、大きな被害をもたらしました。都市部のひ弱な新兵よりも、田園の屈強な若者の方が、流行病によって次々と倒れていくということも起きました。
旧世界の主な文明の多くは、都市文明の発生から紀元前500年までの間に、人から人にうつる疫病の一式を備えてしまったと考えられています。生活用水、寄生虫、直接の接触などによってうつる感染症は、人の密集する都市や農村地帯にひろがり、病気に見舞われながら、人類は様々な細菌、ウイルスへの「抗体」を獲得していきました。
戦争と疫病
地中海世界にはヒポクラテスの時代(紀元前450年前後)まで、天然痘や麻疹(はしか)はなかったと考えられています。紀元前430年、ギリシャ最大の都市アテナイでは、軍の4分の1を壊滅させた疫病(ペスト、天然痘、発疹チフスなど諸説あり)が発生しています。この惨禍からアテナイは立ち直れず、当時戦っていたスパルタ・ペロポネソス同盟を滅ぼすという野望は途絶えました。「歴史家は疫病と戦争の関係を否定しがちだが、実際は疫病が戦争の結果を大きく左右した」とマクニール氏は主張しています。
西暦900年頃になると、中国やヨーロッパで感染症を抑え込む知識や技術が発達し、一時期、人口が爆発的に増加します。シルクロードなどアジアを横断する隊商によって東西交易が盛んになり、ジンギスカンにより陸路が整えられると、数千人単位の人々が極東と西ヨーロッパを行き来するようになりました。しかし、モンゴルの草原地帯には「腺ペスト」を保有するげっ歯類(クマネズミなど)がいて、隊商との接触によってヨーロッパに悲劇的なペストを運ぶことになります。
ローマでは紀元前386年頃から、少なくても11回の疫病の災厄があったと『ローマ建国史』を書いたティトゥス・リウィウスは記しています。ネルウァ=アントニヌス朝の時代、最盛期を迎えた古代ローマ帝国を襲った疫病は、帝国全域にひろがり165年から15年にわたり続きました。原因はメソポタミアからの帰還兵によってもたらされた天然痘の一種と考えられています。致死率が高く、流行が広がった都市では4分の1から3分の1の住民がなくなり、地中海世界の人口を大きく減少させました。
5年前に初めて買った「5年連用日記」。1年目に少
しだけ書いたが、あとの年は数日分所々記載があるもののほとんど白紙のまま。しかし結構な厚みがあるので場所はとる。こんなものを残しておいても後始末に困る。もう2度と5年連用日記を買うことはないと思った。が、年明け早々に撤回した。前回の時もそうだった。何か大きなものが自分の行く手を阻むと、その心細さから、こういうものを手元に置いて、生きていることを実感したくなるのかもしれない。
今年1月、先の手術から丸5年、無罪放免を願っての検査で再発がわかり手術となった。血液検査のたびに、中性脂肪、血糖値、コレステロールの数値を気に
誰にプレゼント? 撮影=大河内勝司さん
目より大きい。好きな食べ物を制限するのはきつい。お正月はお酒はもちろん、イクラや数の子を出されても箸をつけず、苦手な運動も随分と頑張ったつもりだったが、再発とは ……
美人薄命の時はとっくに過ぎているよと友人に言われながらも、古稀を迎えることができるか?2冊目の5年連用日記、これが最後まで書き続けられたらと、殊勝な気持ちで購入した。令和になった2020年1月、心新たに手術までの日々、1日5行を書き続けた。
ありがたいことに手術は思った以上に短時間で済み、体への負担も小さく、回復も早かった。入院期間も短く、イケメン理学療養士の訓練を受けることなく退院となった。するが下がらない。有酸素運動がいいとウォーキングに参加しても、毎日となると続かない。生活習慣病はそうそう簡単には治らない。再手術となった時のショックは1回
五年連用日記の活用
そのあとすぐにコロナ騒動となり、ギリギリのところで病院を脱することができたのはラッキーだった。が、今また、いつ病院のお世話になるかわからない。高齢者の域に入り、自宅での自衛、自粛の軟禁状態を2カ月以上、古稀仲間とメールのやりとりをしながら生き延びる知恵を交換しあっている。
緊急事態宣言が発令された。軟禁生活はさしては変わらないとはいえ、感染への警戒感は大きい。宅急便の受取り物は増えたが、都度マスクをつけ、荷物を解いたら手洗いを徹底。買い物は近くのスーパーで週に1度。野菜、果物の買い置きは難しいが、なんとかやりくりして凌ぐしかない。外からの感染リスクは低いと思われるが、もしかかっても自宅療養できるよう、ストックできる食料品を少しづつ揃え、肉や魚はしっかり保存袋に入れ、ご飯は1膳づつ小さく包んで冷凍保存、籠城準備を始めている。古稀友達の知恵が大いに役立っている。
ふと、机の上の5年
連用日記が目に入る。
2月のコロナ騒動以
降、ほとんど開くこと
がなかったが、コロナ
が発症するのは、感
染から2週間前後?
(高齢者は早いようだ
……)感染経路を追うのは大変とあったので、毎日の血圧、体温、どこに行ったか(スーパー、郵便局、コンビニ ……)誰と会ったか、喋ったか、そんなことを連用日記にメモすることにした。
手術前、自宅に戻ってこれるかとまで心配して買った日誌だが、2カ月以上何も書いてない。平穏無事という証でもあるが、万が一感染して、自分で喋れなくなったら、この日記が役に立つかもしれない。2冊目の5年連用日記、思いがけない活用となる。
桜を愛でることも今年はできないと思っていたが、仲間から素敵な写真が送られてきた。美しい写真は心を穏やかにしてくれている。三密は今しばらくの辛抱と、連用日記に何も書かなくてもいい日がくることを願っている。
須賀川のしだれ桜 撮影=KANOYAさん
ローマ帝国の落日
西暦251年から15年ほど、ローマ帝国各地で麻疹(はしか)や天然痘が猛威をふるい、異民族の進入や帝国内の反乱とあわせて、帝国の都市人口が大きく減少します。そこでローマはゲンマン人など北方民族の移民を認め、辺境警備を任せるようになりました。都市の人口減少は徴税の停滞をまねき、軍隊の給金が滞るようになると、軍隊は暴徒化して都市を襲撃するようになります。経済の混乱は高尚な文化の担い手であった地主層「クリアーレス(都市参事会員)」を没落させ、ローマは凋落の道をたどります。
疫病を封じるための「大仏建立」
島国である日本には、朝鮮半島や中国大陸から感染症が伝わりました。はじめて天然痘が上陸したのは、仏教が伝来した552年頃、中国・朝鮮からの使節、貿易団が運んだと考えられています。585年、698年、735年と天平時代には100〜50年に一度の大流行があり、日本の総人口の25〜35%にあたる、100万〜150万人が死亡したと推測されます。有名な「墾田永年私財法」(自分で開墾した耕地の私有化を認める法)は、疫病によるダメージからの回復を目指した政策でした。、東大寺の大仏は疫病を封じるため、聖武天皇によって建立されました。
平安時代中期の808年には人口の半分が亡くなる疫病があり、日本に初上陸した「腺ペスト」という説もあります。861年には「咳逆(がいぎゃく)」(咳が止まらなくなる病)が流行。994年からまた天然痘が蔓延し「住民の半ばが死んだ」と記録されています。この時代、栄華をほこった藤原道長の『御堂関白記』には「994年疫病西国に起り諸国に流行。995年疫病流行、中納言以下8人死亡」とあります。道長はライバルの死によって権力を手に入れますが、11世紀に流行した麻疹(はしか)によって次々と近親者を失い、失脚していきました。
史上最大の災厄 ペストは草原から
西暦900年頃になると、中国やヨーロッパで感染症を抑え込む知識や技術が発達し、一時期、人口が爆発的に増加します。一方、シルクロードなどアジアを横断する隊商によって東西交易が盛んになりジンギスカンの政策により陸路が整えられると、数千人単位の人々が交易のため極東と西ヨーロッパを行き来するようになりました。しかし、モンゴル、カザフスタンの草原(ステップ地帯)には、「腺ペスト」を保有するげっ歯類(クマネズミなど)がいて、隊商との接触によってヨーロッパへペストを運ぶことになります。
14世紀 ブリューゲルが描くペストとの闘い「死の勝利」
14世紀、ヨーロッパ、中国は未曾有のペスト被害に襲われます。大流行のきっかけは13世紀後半、モンゴル軍が雲南省、ビルマへ進行し草原地帯に入り込んだことでした。中国では1200年頃1億2300万人だった人口が、1393年6500万人にまで減少します。一方、ヨーロッパの人口は1347〜50年までのわずか十数年に人口の3分の1を失ったといわれます。
交通の発展が感染スピードを加速
海運の発達した地中海世界では、商船によってペスト被害が遠方の街に飛び火していきました。陸路の線的な拡大に加え、商船の点的な拡散は流行のスピードを加速度的に高め、小さな島を全滅させることもありました。商船を40日間沖合に停泊させる「隔離検疫」も行われましたが、効果は限定的でした。そしていま、遥かに高速化、巨大化した交通ネットワークは、短期間で世界中に感染を広げていきます。
宗教改革を後押ししたペスト
ペストによる人口減少の回復には100〜150年の歳月が必要でした。イタリアやオランダの毛織物産業が衰退し、階級間の軋轢が大きくなると、中世世界を支配してきた農奴制も崩壊します。昨日まで元気だった若者が今日亡くなってしまう姿を見せつけられた人々の間に、いかなる努力も無力であるという諦観、刹那的な快楽主義、異教的な神秘主義がひろがりました。多くの聖職者が倒れるなか教会への信奉は薄れ、16世紀の宗教改革を後押しします。
ヨーコの旅日記第28信知らない日常に気づく日々川津陽子メッセフランクフルトジャパン
先日から在宅勤務がスタートし、家で過ごす時間が増えた。思うように言うことを聞いてくれないリモートコントロールソフトに悪戦苦闘しながらも、今や日中はデスク化しているダイニングテーブルに花を添えてみたり、アロマを焚いてみたり、集中力を高めるとされる音楽をかけてみたり……。それなりに工夫しながら、自宅での勤務にも少しずつ慣れてきた。
日中、ここで仕事をしていると、色んな発見がある。例えば、数軒先に住むおじいさん。ご自宅前の道路脇で様々な花を育てていらっしゃる。毎朝、出勤で駅に向かう途中、その前を通ると開いたばかりの花が目に止まり、朝から清々しい気持ちにさせてくれる。決して派手さは無いが、凛とした感じの一輪の花が目立つ。以前拝見した、真っ直ぐに伸びる大輪の菊も非常に素晴らしかった。昼間に時折、窓からそちらの方向を眺めると、熱心に手入れをするおじいさんの姿が見える。そして、毎朝、家を出る時にはまだシャッターが閉まっており、帰りが遅いとこれまたシャッターが閉まっていて、普段は週末しか顔を合わせることのない、斜めお向かいのお肉屋さん。在宅勤務が始まって、ここのお父さんが自転車で出勤してくる時間もわかったし、お昼に並ぶコロッケの種類も覚えたし、このお店のイチ押しである焼き豚が店頭に並ぶ時間帯もおおよそ掴めてきた。そして時々、お店が静かになるとお父さんが奥の方で昼寝していることも。休憩の度にリビングルームの窓から辺りを観察し、フムフムとしている毎日である。そして、この在宅勤務の間に新たな日課も生まれた。
“StayHome”を頑なに実行しながらも、1日一回の散歩は欠かさないようにしている。犬を飼いたくて飼いたくて、仕方ない自分にとって、散歩中のお犬さん達との遭遇が毎日の楽しみになっている。
「あの子、お人形さんみたい、あの子、お尻が可愛い」と勝手に品評したり、お気に入りのお犬さんを見かけると通り過ぎた後までも凝視してしまったり。飼い主さんからしたら良い迷惑だが、散歩に出かけるモチベーションのひとつになっている。散歩ルートはいくつかあるが、近所を走る川沿いを 2キロほど進んだ先にある公園に行くことが多い。公園中央にあるメインの芝生のスポーツ広場には、早朝でも結構な人たちが集まっていて、各々、春の朝の空気を満喫しているようだ。とは言っても、広場が巨大過ぎて「密」からはほど遠いが ……。
その広場を一周すると、ここでも様々な草花に遭遇し、飽きることがない。色とりどりの花が咲き誇る数ある花壇は、それぞれ手入れが行き届いており、また手作りのサイネージも温かみを感じる。気分を明るくしてくれるこの光景は、ガーデンボランティアに参加されている方々によって造り上げられているということも学んだ。敬意と感謝の想いを胸に、明日もまた散歩に行こう。今、非日常の中にいるからこそ、自分が知らないだけだった日常に気づかされる今日この頃である。
「さて神さまの御子が降誕されてから、すでに一三四八年になった頃、イタリア随一の優雅な町と言われているフィレンツェに恐ろしい疫病が見舞ったのであります。」という一節からはじまる『デカメロン(十日物語)』(ジョヴァンニ・ボッカッチョ作)は、14世紀ペスト大流行の実体験を克明に描いています。ペスト患者は、腿のつけねや腋の下に腫れ物ができ、みるみる全身にひろがり、黒色、鉛色の斑点が体中にあらわれ、医師や薬は役に立たず、大半が3日以内に亡くなりました。火が燃え移るように感染はひろがり、話したり、訪問しただけで健康な人にも感染し、貧者のボロ着に顔を突っ込んだ豚さえも、その場で死んでいったと書いています。
こうした事態に市民たちがとった行動は様々でした。「デカメロン」によると、1)仲間をつのって館に閉じこもり、とびっきりの葡萄酒を飲み、音楽や会話で気を紛らわす人々。2)街で飲んで歌って遊びまわり、欲望を満足させることが災難を回避する最も有効な薬と信じ、実行する人。3)中庸を好む人々。食べたいときに食べ、出かけたい時は外を出歩き、ハーブの香りでリラックスしたり(死体の臭いを消すため)する理性的な人たち。ペストはいずれの人々にも関係なく襲いかかりました。紳士淑女で賑わった宮殿や貴族の館は空き家になり、使用人も主人を残して逃げ出します。空き家には他人が入り込んで好き放題。生きる希望や所有欲は失われ、神の掟も人間の法も権威も地に落ちて無力となり、役人たちもみな死んで都市国家フィレンツェは無法地帯となりました。隣人はもちろん親兄弟も互いを避けあい、見放すようになり、臨終に立ち会ったり教会で弔う習慣も廃れ、穴さえあれば道端の死体を放り込み、やがて死臭から逃れられなくなると、市民はフィレンツェの城外へ逃げ出しました。一方、田園にもペスト流行はひろまり、風習は乱れ、家畜や畑は放置され、牛や山羊は自由に田園を歩き回き、農夫は獣のように道端で死んでいきました。『デカメロン』の物語は、人々のまばらになったフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会からスタートします。18歳〜28歳の聡明で気品があり、美しく身だしなみもいい貴婦人7人、パンピネア、フィアンメッタ、フィロメーナ、エミリア、ラウレッタ、ネイフィレ、エリザが教会に集まり、彼女たちを慕う若者3人パンフィロ、フィロストラート、ディオネーオが加わって、計10人で2マイルほど離れた美しい庭園をもつ丘の上の館に避難します。1日ごとに一人が女王役をつとめ、その指示で女中や従者など役回りを決めた共同生活を送り、交代で1日に10話の物語を披露するという趣向です。
第三日 第一話 園丁と尼たち
ランポレッキオのマゼットは唖をよそおって女修道院の園丁になる。すると尼たちはみんな競って彼と寝るという話。
ある日、男がいろいろ仕事をしたあとで休んでおりますと、庭を通りかかった二人の若い尼が彼のいる方に近づいて来ました。彼が寝たふりをしておりますと、じっと見つめはじめました。そのうち、いくらか大胆な尼が相手にこんなことを申しました。「もしあなたがないしょにしていてくださるなら、私が今まで何度も考えてきたことを申しあげたいのですが、これはきっとあなたにもお気に召すことでしょう」「安心しておっしゃってください。きっと誰にもお話しいたしませんから」と相手は答えました。すると、大胆なほうがこんなことを言いはじめたのです。「あなたもお気づきになっているかどうか存じませんが、私たちってずいぶん厳重に監視されておりますでしょう。この中にいる男といえば、あのお年寄りの管理人と、この口のきけない男だけなんですもの。ところで、私はこちらへ来られる女の方から何度も聞いたことですが、この世には女が男と味わう時の快感くらいいいものはないのだそうでございます。私はそれが本当かどうか、他の男とは試してみることもできませんから、この口のきけない男と試してみたいという気が今まで何度もおこっておりましたの」(高橋久訳)
ダンテの「神曲」に比して「人曲」ともいわれる『デカメロン』は、教会の実態を赤裸々に描き、ペストで荒廃した世の中に対して、宗教やモラルにしばられない、力強い人間性の再興を訴えかけます。それはやがて、絵画や音楽、建築へとひろがり、15世紀ルネサンスの最盛期へとつながっていくのです。
第三日 第十話 悪魔は地獄へ
美しい娘アリベックが隠者になると、僧ルスティコは彼女に悪魔を地獄に追い返すことを教える。だが、やがて彼女は郷里へ帰され、ネエルバーレの妻になるという話。
娘は、今まで一度も悪魔を地獄へ入れたことなどなかったものですから、最初は少し痛みを感じました。そこでルスティコにこう申しました。「神父さま、たしかにこの悪魔は悪い奴に相違ございません。本当に神さまの敵でございます。中へ入りますと、ほかばかりか地獄まで痛みますもの」ルスティコは申しました。「娘さん、いつもそうだとは限りませんよ」そしてこんなことが起らないようにするために、二人は寝台から下りる前に、六回も悪魔を地獄へ追い込みました。 (高橋久訳)
イタリア頑張れ!
その思いを抱きつつ、前回に引き続いて、
トレンティーノ=アルト・アディジェ特別州(以下、トア特別州と表記)の話を続けます。現在 EU諸国では新型ウィルスの感染拡大を防ぐため、ほぼすべての国境が実質的に閉じられた結果、「域内は国境を越えて人も資本も移動自由」という EU設立の基本理念が実行できなくなりつつある。その一方で、各国の医療水準、ウィルス対処方針、生活習慣の違いから、感染者数と死亡者数について、国別に大きな差が出ている。
現状を見る限り、ドイツ国民は「ドイツ人でよかった」と思っている人が少なくないはず。このコロナ惨禍の起きる前から、ブレグジットに代表されるように、各国の民族主義・地域主義・国家主義的な主張を掲げる政党が大きく勢力を伸ばしつつあって、 EU内で「国家の存在」と「地域主義」が強まりつつあった。そこにコロナ惨禍。生死を目前にすれば「まずは身内」という意識が全面に出てくるのは必然で(本連載第回 2016年8月号「EU脱退英国の庶民感情」参照)、現状では到底「EUはひとつ」などと言える状況には、ない。他国に比べれば連帯
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イタリア側から見たチロルの山並み。
感の強い我が国の中でさえ、今回ばかりは「地域の衝突」が目立ち始めていることを思い起こして頂きたい。
英国を除いて地続きの欧州諸国の国境地帯には、歴史的に現在の国境できっちり分けることが難しい地域が幾つも存在している。その一方でカタロニア、北アイルランド、スコットランドのように、「現在所属する国家」からの独立を求め過
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激な暴力を伴う「命がけの独立運動」や紛争が起きている地域さえ存在する。ここに言語(母語)と宗教の問題が絡むと、摩擦は更に強まり、紛争解決に大きな困難を抱えることになる。実際、 EU諸国で国内にこうした問題を抱えない国など存在しないのではないだろうか。イタリアの場合、全土州のうち5つの特別州が、歴史的にこうした困難を抱えている地域である、と見ていい。中でもトア特別州は、5特別州の中でも突出する形で、根深い地域紛争を抱え込んできた地域なのだということを、今回初めて知ることになった。
そのきっかけは、去る1月日イタリア大使館で行われた、トア特別州トレンティーノ自治県のスパークリングワインの試飲会だった。トア特別州には、主に北部にドイツ語を母語とする人々が多く住み、チロル(オーストリア)文化の影響が見られる上に、品質の高いワインの産地としても知られている。イタリアの中でも目立って興味深い独自の文化がある地域である、と事前の調べで知っていたので、この地域の独自性について何か解説があると思って試飲会に臨んだ。
ところが、試飲会ではもちろん、引き続いて行われた記者発表の場でも、そうした説明は一切なかった。同業種で隣町同士競っている場合、我が国でも、併存する地域が犬猿の仲というケースは、まま存在する。きっとそんな事情なのかと思って、
てみた。「トア特別州には、ドイツ語を話す方も多い興味深い文化があるとお聞きしていますが、如何でしょうか」と。これに対してザノーニ氏「確かに。でもそれは、北隣町であるボルツァーノの話ですね。私、地域の歴史、よく知らないんですよ。実は私自身はロンバルディア出身なものですから ……」というお答え。で、思った。ああ、競合関係にある隣町のことなんて話したくないんだなと。それも当然と納得して、それ以上突っ込むことはしなかった。ただ、協会長が代々の地域住民ではないとお聞きして、その意外性に驚いた。「地域の伝統」を強烈に押し出すワイン醸造の世界で、醸造業者の代表が「よそ者」とは。英語に不自由のないザノーニ氏、その押し出しの良さからも「よそ者」でも格別の人望がある方なのだと思った。その背景に深い歴史の棘が秘められていることなど、露ほども知らぬままに。祖父母以前の代からトレンティーノに代々暮らしてきた住民は極めて少数である、なんて
ことは全く知らなかったのだ、この時点では。
スパークする発泡酒の香りに包まれた試飲会の会場で頂いた立派な資料一式と地域の大地図、そして数ギガバイト分の動画や写真資料が収められた USBメモリ。家に帰ってこれらに目を通してみた結果、大きな疑問が湧いてきた。私が目を通した限りでは、頂いたかなりの分量の資料の中に、ボルツァーノ自治県に関する記述が、ほとんどゼロだったのだ。まるで北隣の県は存在しないがごとき扱
地域名チロルはドイツ語源で上図の大半を指す。黄と紫を抱えるイタリアはその歴史的経緯を嫌って、この呼称を使わない。
いではないか。いくら何でも、これは、オカシイ。ヒストリアン(歴史探求者)のアンテナがビリビリと反応し始めたので、興味津々、地域の歴史を調べ始めた。それで初めて知ったのだ、現在トア特別州とされる地域は、1919年以前は、オーストリア=ハンガリー帝国の領土であったことを。より歴史的に表現すれば、この一帯は長らくドイツの前身である神聖ローマ帝国の一部だったのだ。
そのため、この地域は古くからドイツ語で「南チロル」と呼ばれてきた。チロル
という呼称は日本人にも馴染みが深く、誰だってこの言葉を聞けば、アルプスの一
角を思い浮かべるはず。ところが、この南チロルという地域呼称は現在、イタリア
側の公式資料では、原則として使用されない。これを「(ボルツァーノ・)アルト・
アディジェ」と呼ぶ。なぜか。日本海に浮かぶ小さな島の呼称をめぐる国家間の紛
争に類似する歴史背景があるからだ。イタリア語で「アディジェ川上流」というほ
どの意味で、「上アディジェ地区」という感じだろうか。
しかし、ドイツ語圏はもちろん、英語圏でも「南チロル」という呼称が使われて
いる。言語的に世界を制覇している英語の世界で「南チロル」と呼ばれることは決定的で、イタリア政府にとっては我慢ならないことではないだろうか。なぜなら、「南チロル」といえば、「広くチロルと呼ばれる一体性のある地域」の「南側の部分」を指すことになる。これが困るのだ。というのも、チロルといえば大昔から「ドイ
ツ語圏の山岳地帯の名称」(旧チロル侯領)(さらに続く)として認知されてきたからだ。
スペインの侵略者を支えた 目に見えない武器「伝染病」
アメリカ大陸のインディオ社会は、ヨーロッパ、アジアの感染症から隔絶された世界でした。その新世界を崩壊させたのは、1521年、アステカ王国に侵攻したエルナン・コルテスや、1533年、インカ帝国を侵略したフランシスコ・ピサロなど、スペインの征服者(コンキスタドール)です。彼らはたった数十人〜数百人で上陸し、最新の武器や白い神の伝説、インディオ部族間の内部紛争を利用して数百万人の王国を征服したといわれてきましたが、近年では病原体の感染が、彼らの侵攻を助けたといわれています。
免疫のないインディオ社会は、人口が10分の1に
当時のインディオの人口は1億人ほどと想定されています。スペインのコンキスタドールが上陸し、天然痘をはじめ、はしかや発疹チフスなどを持ち込んで50年たらずの1568年には、メキシコ周辺に暮らした3千万人ほどが300万人と10分の1以下になりました。疫病で次々とインディオの兵士が倒れるなか、抗体をもったスペイン軍や宣教師にはほとんど被害がなく、スペイン軍に協力したり、キリスト教へ改宗する部族が増えていきます。疫病こそが、圧倒的少数のコンキスタドールによる征服を可能にしたのです。
Vol.10
風が日差しを運んでくる昨日よりももっと
原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
15世紀の終わりにはイタリアの医師たちが、都市国家内で発生したペストの対抗策を確立しました。16世紀中には隔離検疫によりペストの連鎖を断つことに成功し、19世紀、顕微鏡や研究機器の発展とともに、細菌やウイルスの正体が分かってきます。19世紀、近代細菌学の開祖のひとりルイ・パスツールは、1861年『自然発生説の検討』を著し、有名な白鳥の首フラスコ実験で「生命の自然発生説」を否定しました。それまで生命は無の状態から突然発生すると考えられていたのです。ロベルト・コッホが1876年、炭疽菌をはじめ結核菌、コレラ菌を発見すると、弟子の北里柴三郎はペスト菌を見つけました。1877年、パスツールは弱毒化した炭疽菌やコレラ菌によって、人工的に免疫が出来ることを発見し炭疽菌や狂犬病のワクチンを開発。19世紀後半〜20世紀初頭にかけて細菌の発見やワクチンの開発が進み、人類の反撃が本格化しました。
細菌の正体を見つけた 人類の反撃
幕末 黒船がもたらした疫病
ペリーの黒船をはじめ、幕末に相次いで来航した外国船は、日本にコレラ、チフスなど様々な疫病をもたらしました。早くから開港されていた長崎では、1817年に腸チフスが流行し、1819年には江戸で赤痢が発生。1822年にはコレラが大阪にまで広がり、1日に300〜400人が亡くなったともいわれます。さらに1858年に長崎に上陸したコレラは、九州、大阪、京都、江戸に広がり、江戸では50日で4万人以上が死亡。幕府が外国船の港を江戸から離れた場所に設けたり、人々が黒船を恐れた背景には、疫病への恐怖がありました。
様々な感染症が抑え込まれていくなかで、20世紀最大のパンデミックを招いたのが、1918〜19年、第一次世界大戦をきっかけに広がった新型インフルエンザ(スペイン風邪)でした。世界人口の半分約6億人が感染。4000万人超の死者を出した史上最大級の疫病です。日本では1918年、1920年の2回流行しました。1回目は患者約2000万人、死者約26万人。2回目は,患者約250万人,死者約13万人と死亡率があがり、ウイルスの変異により強毒が上がったと考えられています(当時の日本の人口は約5700万人)。流行はアメリカから始まり、米軍がヨーロッパに進軍したことにより世界へひろがりました。戦地で兵士が倒れると、また新兵が補充されて感染を繰り返し、戦時中のため各国は被害を公表せず事態が悪化します。ウィルスの大きさ(nm単位)は細菌の大きさ(μm単位)の1/1000しかなく、電子顕微鏡が登場する1933年まで目に見えない闘いが続きました。
史上最大の死者をだしたスペイン風邪目に見えない、インフルエンザとの闘い
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
水素で繋がった富山と東京その1
水素ステーション北陸地方第一号「水素ステーションとやま」開所式に参加して
ついに東京と富山が水素で繋がりました。3月7日(土)、富山駅からクルマで10分程の富山市上富居町に、北陸地方(福井県、石川県、富山県の3県)で初めての商用水素ステーション「水素ステーションとやま」が開所しました。その式にわがフュエル・セル・ビークル=燃料電池発電・電気自動車「HONDAクラリティ(以下FCV)」を東京から走らせて参加してきました。
北陸初となる商用水素ステーションのオープンですので、開所式参加者は石井富山県知事、森富山市長、経産省中部経産局局長などをはじめとして100名を超え、顔ぶれも錚々たるものでした。
商用水素ステーション「水素ステーションとやま」は富山
TOYOTAミライと、HONDAクラリティ。
富山市上富居町に開所した水素ステーション。
水素エネルギー促進協議会が運営します。開所式は一般的な流れで、主催者挨拶、数人の方による来賓祝辞、協議会事務局による事業・設備説明、主要出席メンバーによる記念テープカットと続き、2台の FCVへの水素充填デモンストレーションが行われ、改めて事務局からマスコミへ基本事項の説明と質問を受けて終了となります。私の役割は、スタンバイさせていた HONDAクラリティ
(FCV)をステーション中央の水素充填ディスペンサー前まで動かし、クルマの充填口を開くことです。司会が明るい声で「続きましてクラリティへの充填です。みなさま、こちらのクラリティに御注目ください。本日の開所式の為に、東京から富山へ走行して来てくださいました。東京と富山を水素がつないだ記念すべき第一号車です!」と紹介があり、森富山市長と水素協議会の方が協力して行う水素充填のデモンストレーションを、テレビカメラをはじめ、大勢の記者団が取り囲みました。
現在、市場には HONDAクラリティ(今のところリースのみ)とTOYOTAミライ(市販)の FCV2車種が走っています。FCVの航続距離はカタログスペック上は概ね 700km〜750kmですが、この3年間で約 35,000km走行した燃費、ではなく電費(車に積載した水素を空気中の酸素と結合させて電気を発生し、モーターで走行するため私は一応このようにいっています)の実感は、カタログスペックの65%〜70%です。
ですので東京から富山までは、水素満タン(満充填)で最短ルートを通れば途中の給水素なしで「往く!」ことが出来るのですが、富山に水素ステーションがなかったため、当然ですが『復ってくることが出来なかった!』のです。今回の北陸地方商用ステーション第一号「水素ステーションとやま」開所によって、富山からみれば「東京」、「名古屋」、「大阪」の3大都市と FCVによる往復が可能となり、実質的に「水素でつながった」ことになります。
国内での商用ステーション開設に時間がかかっているのは、以下の様な要件が求められているからです。 ● FCVの燃料となる水素の品質(国際規格 ISO14687.2)
● 安全かつ迅速に高圧ガスを充填するための基準(FCVに 3分程度で安全、確実に水素を充填するための圧縮水
東京から富山へ、FCVとして初めての走行となった愛車。
水素を管理したり、充填するための設備。
素充填技術基準(JPEC-S0003)に適合すること。
● 水素を商品として販売できるよう、適正に計量をするための施設の維持・管理上の文で FCVの「燃料」となる水素とありますが、FCVは水素を燃やして走るのではないので、おかしい表現ではあります……。日本国内の水素商用ステーションは、現時点で 28都道府県で115カ所に設置済み、20カ所が新たに計画中です。栃木県、群馬県、鹿児島県の各県がそれぞれ初のステーションを計画中で、まだ16県が設置未計画です。特に東北地方の青森、岩手、秋田、山形の4県がまだ未設置です。北海道・札幌には水素ステーションがすでに一カ所ありますが、FCVの航続距離を考えると、本州最北の水素ステーションがある宮城からは、フェリーを使っても札幌まで辿り着けないのです。
水素でつながった FCVで行く東京から富山へのルートは大きく3つあり、「ルート上の近辺に水素ステーションが設置」されているかどうかがポイントです。
● ルート1 中央高速で松本へ行きます。ここから一般道で梓川沿いから上高地入口をかすめて安房トンネルを抜け右折し、カミオカンデで有名な神岡から富山へ。距離は一番近く365kmです。途中の山梨県・甲府駅近くには水素ステーションがありますが、クラリティ(FCV)であれ途中充填しなくても OKです。ただし冬場はスタッドレスタイヤの着用が必要です。
● ルート2 同じく中央高速で松本へ。そのまま水清い安曇野インターから信越道で妙高の山並みを左に見て上越へ、そこから北陸道に乗り、以前大火のあった海沿いの糸魚川を抜けて富山へ。距離は 457kmありますので、一旦高速を降りて甲府の水素ステーションで充填した方が安心です。その後富山までの約 350kmは水素ステーションがありません。また安曇野インターから信濃大町、大きな青木湖のある仁科3湖を左に見て白馬を抜けて糸魚川まで一般道を使うことも出来ます。走行距離は少し短くなりますが、時間的にはあまり変わらないようです。
● ルート3 東名から新東名、豊田東ジャンクション(以下 jct)で東海環状自動車道、美濃・関 jctからトンネルが多い東海北陸道で、小矢部、砺波 jctから北陸自動車道で富山へ。走行距離が 557kmとかなり長距離になりますので、豊田市近辺で一度高速道を降りて水素ステーションで充填しなければ富山まで行けないことになります。幸い豊田市近辺は TOYOTAのお膝元ですから、東京よ
FCVで東京〜富山まで行ける、ルート1、2、3。
りも水素ステーションが数多く設置されていて(ルート選択肢が広い)安心出来ます。
卵(燃料電池自動車)が先か鶏(水素ステーション)が先か的に語られる FCVの普及進展には、各地で偏りがあります。福岡、大阪、名古屋、東京の4大都市圏は民間所有車が多いのですが、各県レベルでは公官庁所有車が中心です。水素ステーションの営業時間を公官庁にあわせていて、平日のみ営業、土日は閉店するところが大半ですし、営業時間も 9:00〜 17:00と短いのです。利用者がまだまだ少ないので経営的には充分理解は出来ますが、実態は一般利用者の方を見ているとは言えません。
今回の富山行きは、仕事の都合で日曜には必ず東京へ戻っていなければならなかったため、日曜に営業しているステーションがあるルートを選択せざるを得ませんでした。先の
「ルート3」で東名豊田インターで高速を一度降りて、一般のガソリンも扱っている併設ステーションで満充填し、豪雨の新東名を慎重に戻ってきました。全行程トリップメーターで 1202kmです。次回は、富山でもう一カ所訪れた、再生エネルギーによる貴重な「オンサイト型水素ステーション」を中心にご紹介したいと思います。
大切な WHO(世界保健機関)の役割
WHOのルーツとなったのは、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に設立された国際連盟の保健部門でした。WHOは発展途上国に医師を派遣し、最新の医療をいち早く提供することで感染症の世界的な拡散を防いできました。また天然痘をはじめ、ポリオなどの撲滅を目指した活動も続けています。抗生物質の乱用による「多剤耐性菌」のリスト公表や、伝染病の統計データベースの取りまとめなど、一国では行えない事業を展開しています。
2009年新型インフルエンザ流行
インフルエンザのパンデミックで記憶に新しいのは、2009年の新型インフルエンザです。豚から感染したと考えられるH1N1/09型がメキシコで発生し世界的なパンデミックを引き起こしました。世界で約40万人が死亡した一方で、日本では約1500万人が感染したものの、死者は約200人にとどまり「日本の奇跡」ともいわれました。政府は新型インフルエンザに対する行動計画やガイドラインを策定し、全人口の約25%が感染、1300〜2500万人が通院、死者数17〜64万人、従業員の欠勤40%程度という最悪のシナリオを想定して、外出規制、事業所の休業要請、抗ウイルス薬の備蓄などの対策を策定しています。これが現在の新型コロナウイルス対策の骨格になっていると思われます。毎年12月〜3月に流行する季節性インフルエンザウイルスには、A型、B型、C型の3種類があり、世界で年300万人〜500万人が重症化し、29〜65万人の死者を出しています。日本では、約1万人のインフルエンザ関連死があると推測されています。現在はワクチンや抗ウイルス薬により、感染の確率を減らしたり重症化を防ぐことができます。しかしRNA遺伝子をもつインフルエンザウイルスは変異しやすく、ワクチンや薬の効かない新型が生まれます。新型インフルエンザが発生するプロセスとして、シベリアからの渡り鳥が注目されています。雪解けの季節になると、水や土の中に冷凍されていたインフルエンザウイルスに野鳥が感染し、糞を通じて東南アジア、メキシコなどの家畜(鶏など)が感染します。鶏の中で変異を繰り返したウイルスは豚に感染し、豚は人インフルと鳥インフルの両方に感染するので、豚の中で両者が結合して、新型の人インフルエンザが生まれると考えられています。
いま世界中の人々が闘う、新型コロナウイルス(COVIT-19)。元々コロナウイルスは1960年頃に発見され、人に感染するタイプは今までに7種類見つかっています。そのうち4種類は一般的な風邪のウイルスで、風邪の10〜15%(流行期は35%)を占め、実は多くの人が風邪コロナウイルスに感染した経験をもつと考えられます。おとなしい風邪ウイルスが突然変異により強毒化した最初の例が、2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)、次が2012年のMERS(中東呼吸器症候群)、そして3例目が今回の新型コロナウイルス(COVID-19)です。SARSは中国広東省で発生し、その後香港,ベトナム,シンガポールなどに伝播。世界30か国以上で8000名を超える患者と約800名の死者を出しました。潜伏期間は平均5日で、インフルエンザに似た症状がでたあと、下痢を起こし、約20%の患者が肺炎により呼吸困難になりました。平均的な致死率は約10%で、院内感染が多かったことも特徴です。治療方法は、未だに確立されていません。
コロナウイルスとの闘い SARSから学ぶ対策
2003年、コロナウィルスの強毒化という人類初の事象を最初に報告したのは、WHOからベトナムに派遣されていたイタリア人医師カルロ・ウルバニでした。ハノイの病院スタッフが急激な肺炎で次々と倒れ院内感染が進むなか、ウルバニ医師は治療にあたりながらSARSという新しい感染症であることに気づきます。急いで病院を隔離したものの、自らも発症して46歳で命を落としました。ウルバニ医師の報告により、WHOは世界へSARS発生を警報しました。その検体をいち早く手に入れた米国のCDC(疾病対策センター)は、ウイルスの分離に成功し、それはカルロ・ウルバニ株と名付けられました。国際チームの協力で、1カ月足らずで全遺伝子が解析されます。最初の感染者の発生が、中国広東省仏山市だったことから、ライブマーケット(生きた動物、鳥の市場)が感染源として疑われました。市場の人からコロナウイルスの抗体が見つかり、古くから蔓延していたウイルスが、コウモリの体内で突然変異し、ハクビシンなどの動物から感染したたものと推測されました。SARSという「未知のウイルス病が、患者数8,098人、死者774名で抑えられたのは、公衆衛生対策としてたいへんな成功であった。また医学的にも、病気の存在が明らかになってから数カ月という極めて短時間に、ウイルス分離、ウイルスの全遺伝子情報の解明、感染ルート推定などの疫学的成功をおさめて、WHOをはじめとする世界的な研究・対策ネットワークの勝利であり、21世紀初頭の医学面での画期的な事件である」と、『人類と感染症の歴史』(丸善出版)の著者・ウイルス学者の加藤茂孝博士は記しています。
2012年、中東でMARSが発生し、SARSに似た新型コロナウイルスが発見されました。感染源はラクダと確定され、中東以外には拡散しませんでしたが、航空機によって韓国に飛び火しました。MARSの感染者は約2200人で、800人近くが亡くなり致死率は約36%と高くなっています。現在も中東で感染者は出ていて、治療法は確立されていません。SARSやMARSのように、人と動物が共有する感染症は数百種類あるといわれ、今後も毎年のように新興感染症が生まれるとWHOは予測しています。「人獣共通感染症」を防ぐには、家畜の飼育環境の改善や動物を扱う市場の衛生管理が大切と考えられています。
急発展する近代都市「武漢」で生まれた新型コロナウイルス
2019年12月、新型コロナウイルス(COVIT-19)が発生した中国・武漢(ウーハン)市は、2003年SARSが発生した広東省仏山市から北へ約850km離れた湖北省東部の内陸の街です。長江と漢江の合流点に位置し、上海、北京、南京に次ぐメガシティ(人口約1100万人)として、人口の急増と共に高層住宅が次々と建設され、中心部の人口は、1万5170人/km.と高密度です。
古くは漢口とも呼ばれ、1858年の天津条約によりイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本の租界となり、1938年には日本軍に占領されたこともあります。165本以上の河川、166の湖、広大な湿地帯に囲まれ、豊富な淡水を活用してここ数年急速な工業化が進み、2000年1207億元だった総生産は、2017年1兆3410億元と10倍以上になりました。光ファイバーや携帯電話製造のほか、最近はITベンチャー企業が多く生まれています。ショッピングセンターがある一方で、武漢華南海鮮卸売市場などでは、昔ながらに生きたままの野生動物、鳥、ヘビ、コウモリが売られていて、関連が調査されています。武漢での累計感染者数は5万人以上、死者は約3870人。急激な都市化による歪が、新型ウイルス発生の背景にあるものと思われます。
加藤茂孝博士は『新型コロナウイルスはどう落ち着くのか?』というコラムを発表しました。COVID-19は2003年のSARSに比べ、早い段階でウイルスが分離され、SARSに近いコウモリ由来であると推測されています。人に感染するコロナウイルスとしては7番目の発見であり、来年以降はSARSのように現れなくなるか、風邪コロナウイルスの一種として落ち着くかもしれないと加藤博士は予測しています。武漢ではSARSの教訓が生かされず、「通常の肺炎とは異なる」と警鐘を鳴らした医師の告発が非難されました。経済的な損失を恐れたことが感
19を広げることになります。 -ID中国そして世界へCOV染を拡大させ、
急速に発展した都市の特徴として、大量の患者に医療体制が整わず死亡率を上げる原因になりました(約7.7%)。普段から医療インフラの整備、医療従事者の訓練を行い、正確な情報発信によって「早期発見・早期対処」することが、結果として経済的な損失を抑え、死亡率を下げます。コロナウイルスは古くからの風邪ウイルスであり、感染防御は基本的に風邪と同じです。石鹸、アルコールには弱く、手洗い、マスク、うがいなどが効果的です。マスクには、ウイルスが付いた手で無意識に鼻、顔、口元を触ることを防ぐ効果もあります。 SARS2003年、MARS2013年、COVID-192020年と、ほぼ10年に一度の割合で新型コロナウイルスが発生しています。新興感染症の7割は動物由来であり、資源開発、人口増加、航空機の発達、経済発展など、動物と人の接触機会が高まるほど発生の可能性は高くなります。温暖化や核兵器根絶と同じくらい感染症対策は重要と加藤博士は主張します。
新興感染症を作り出すのは、人間の行動であることが分かってきました。経済優先の自然破壊、温暖化による気候変動などが、動物の体内に新しいインフルエンザウイルスやコロナウイルスを作り出し、人に感染させ、高度に発達した交通手段が瞬く間に世界中にひろげます。ウィリアム・H・マクニールは著書『疫病と世界史』(中公文庫)の冒頭で、「1976年の天然痘根絶は、WHOによる感染症の撲滅の頂点だった。しかしそれ以降、微生物が反撃をはじめた。その最初の事件はHIV(エイズ)で、マラリア、結核などの歴史的な感染症も、薬物に耐性をもった系統が勢いを増した。大昔から成り立ってきた人類と病原菌のバランスが崩れ、混乱状態に陥っている」と述べています。
ドラゴンシリーズ 67
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ベルリンから東京へ1992年
92
4
2
号の
ん中に
さも
年の冬にベルリンから東京に戻って来て、僕は絵描きの
友人の絵描きの家に居候しながら、ダンポールのデスクとダ
ンボールのスツール、電話機
台を絵描きのアトリエの片隅
に置かせてもらい、そこに会社を設立しました。ですから僕らの会社の最初の登記住所は絵描きの友人の絵描きのアトリエがある江戸川区の新小岩でした。(今は南青山ですが ……)
絵描きの友人は長谷川繁、そしてその友人は小林孝亘と言う絵描きでした。絵描きと言う表現が美術作家とかアーティストとかと言う表現よりも好きなのは、彼らの長い年月に渡る苦労を目の当たりにして感じた、彼らの仕事を正しく現す言葉が『絵描き』なのだと思います。僕の息子も今はウィーンのアンゲワンドクンストと言うところで絵描きをしています。まだまだ絵描きと呼べるようなものではないのでしょうが、彼もまた、地底の底を這うような人生の選択をしたのです。そんな絵描きに憧れていることも、自分の中の真実です。
小林のアトリエは新小岩駅
から歩いて
20
分くらいの場所
にあって、駅前の商店街を真っすぐに抜けて殺風景な町工場や住宅が混在する下町を過ぎると、中小の町工場の集まるところに橋本金属株式会社
の工場があり、その建屋の
35
階にありました。大き
めの鉄製の階段を上がり、自分でシャッターの上げ下げをし
て中に入ります。
階建ての工場の中は幾つかの金属関係の
中小工場が間借りしており、小林のアトリエはその
坪くらいの広さで、天井高が
ました。大きなアルミサッの窓からは太陽光が沢山入って来て、その窓を開けると目の前に大きな墓地が広がっていました。小林は多分、この墓地が前にあるので今後も大きな建物は建たないだろうと考えて、この場所にしたのだと思います。
大きな壁面のあるアトリエには、幅が
メートルくらいのキャンバスが床から壁に立て掛けて
ありました。そこで小林は一日中キャンバスを眺めている時もありました。僕は小林の姿を背にしながら、ダンボールのデスクとスツールで仕事を始めていました。会社の登記をす
10
4
3
1
階の真
メートルくらいあり
メートル以上で高
2
5
る為に、自分で登記書類を書いて何度も登記所に行っては、係の窓口職員からダメ出しをされて戻っては書き直して、その登記が受理されるまでにカ
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月くらいの時間が掛かってしまいました。泊まる家も無かったので会社がま
70
だ僕だけの時は、しばらく小林のアパートに泊めてもらっていました。半年
2
間くらいだったと思いますが、小林と布団を並べて、朝になると台所で小林
30
がコトコトと味噌汁を作ってくれて、朝ごはんを一緒に食べて、小林のアト
22
リエ、僕の東京オフィスまで一緒に駅の反対側にある小林のアパートから分くらい歩いて毎日通いました。
その東京オフィスのある橋本金属工場号には、多くの個人経営のネジ職人、鍛鉄の職人や、大型の空調を加工をする工場などが上下、左右に入って
2
金属加工をしていました。 35
隣は鍛鉄の金属をハンマーで叩いて、大きな特注のシンクを作っていたり、左側では歳くらいの熟練工のおじさんが特殊ネジを手作りしていましたので、東京オフィスは金属加工の音の洪水で、飛び散る金属粉の中で過ごしました。
しばらくすると小林のアトリエでは僕らの製品を収める場所が足りないため、同じ橋本金属工場号の中に、坪くらいの事務所と倉庫を兼用する部屋を借り、軒隣の部屋に引っ越し
30ました。その頃にはベルリンから中村も東京に戻ってきて、一緒に仕事をするためアパートを探し、隣駅の小岩に小さなアパートを借りました。そこは高架下のカラオケ屋さんの階風呂なしのアパートだったので、夜は近所の銭湯に通いました。僕らがお風呂のタイルを歩くと、金属粉にまみれた僕らの足跡がクッキリと付いているのです。それは「ハンテン」のロゴマークのようにハッキリと、人の足跡が銭湯の洗い場の風呂椅子のところまで繋がっていました。
僕らは黄色のケロヨンのたらいにお湯を入れて足跡を消していましたが、よくよく考えると僕ら人が毎日銭湯に通う金額をプラスすれば、風呂付きのアパートが借りられたことに後になって気がつきました。全ての行動がそんな感じでしたが、仕事のなかの毎日の楽しみの一つとして東京オフィスの近所にあった中華屋さんの唐揚げ定食が僕らの定番で、一日の唯一の食事だったと思います。中華屋さんのおじさんの作る唐揚げ定食が大好きでした。毎日、それだけを食べていました。
小林は、木材を購入して下地を組んで、そこに綺麗にキャンバス生地を張りこみ、下地に白の絵具を塗って張りを出し、それでキャンバスが完成します。時々僕らもそのキャンバス作りを見ては手伝っていました。
僕らは一大決心をして、幕張で開催される I S O Tと言う展示会に初めて出展しました。小林のキャンバスを真似て 3枚作り、当時小林はモネの睡蓮の絵を大きな壁に描くバイトをしていて、そこに使われる空を描くテクニッや、下地に白の絵具を叩くように乗せてゆく技法を習い、キャンバスの上に大きな空を完成させました。そしてコピー機を駆使してアルファベットの切文字に立体感と質感を出す為に、スチレンボードに艶有りのブルーのシートを貼り付けて、アルファベットの一文字一文字をコピーして
50
スチレンボードに貼り、その文字のアウトラインにそってカッターで丁寧に切り取って立体感のあるアルファベットの文字を完成させて、ブースの壁面に張り込みました。その大きな空のキャンバスを展示会場に持って行って組み立て、当社初めての展示会ブースが完成しました。
3日間、僕と中村は全く寝ずに準備をしていたので、展示会の前日に銭湯に行って体重計に乗ったら骸骨のような顔の僕は 60キロを切っていました。もう 1人の僕よりももっと骸骨のような顔をしていた中村は、多分キロを切っていたかもしれません。骸骨の顔をした 2人が笑うとカチカチと言う歯が鳴るような音がしていましたが、そんな顔で展示会の初日を幕張メッセで迎えました。そしたら、そこに大勢の人々が集まり始め、テレビ局やら読売新聞、朝日新聞の取材なども殺到したのでした。しかし僕たちは 2日間寝ていなくて、骸骨のような顔をしていましたので、まともな対応もできませんでした。
新小岩の倉庫のオフィスに誰も居なくなったこともあり、当時タクシー広告にあったチェスコム秘書センターに電話を転送するようにしました。 1カ月 1万5千円くらいの契約料だったのですが、翌朝の TBSの番組で生島ヒロシさんが現物の家具を紹介してくれたことが原因で、全国からチェスコム秘書センターに電話が殺到して、回線がパンクしてしまいました。
僕らはそんな状況も知らずに幕張メッセのブースに集まる多くの人々にフラフラになりながら、訳も分からずに対応しました。日本の商慣習も何も知らない僕らの無知が引き起こすトラブルの序章はこのような骸骨のような 2人の顔からでした。
2人の骸骨の顔がお互いの顔を見て、可笑しくなって腹を抱えて笑っていたことを鮮明に覚えています。腹を抱えて大笑いした後は、何故だか分かりませんが涙が流れてきて止まりません。その時代の骸骨の 2人が今はとても愛おしいですが、二度と出来ないことだとも感じています。
『人生は二度なし』ですよー!
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