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夏の山居 小田原
睡蓮 2020 https://collaj.jp/
時空を超える美意識
▼ 葛飾北斎 東海道五十三次 小田原
小田原の城下町は15世紀、後北条氏によって整備され、江戸時代になっても東海道をおさえる重要な軍事拠点のひとつでした。小田原のシンボル小田原城ですが、城を大きく描いた浮世絵が少ないことから、天守は堀の外からちらっと見えたのかもしれません。15世紀末〜16世紀末までの100年間、5代にわたって関東圏を支配した後北条氏。初代の北条早雲(伊勢新九郎)は京都で将軍の弟、義視の近侍となり後継者争いに巻き込まれます(後に応仁の乱に発展)。義視について伊勢に逃れた早雲は、その後、伊勢に留まります。妹の夫・今川義忠を頼って駿河にでた早雲は、義忠の戦死をきっかけに今川家で重要なポジションにつくと、伊豆の韮山城を襲撃します。それは下剋上、戦国時代の幕開けを告げる出来ごとでした。伊豆の国盗りに成功した早雲は、さらに相模への進出をはかります。早雲は大森氏を継いだばかりの藤頼と懇意になると、ある日、鹿が小田原城の裏山に逃げ込んだので、勢子(猟師)を入れさせて欲しいと申し入れます。勢子に扮した早雲の一隊が裏山から一気に城を奇襲し、大森家を攻め落とします。こうした騙し討ちにより、早雲が小田原城主となったのは64歳、明応4年(1495)のことでした。2代目の氏綱は、伊勢氏から北条氏へと姓を変え「後北条氏」と呼ばれるようになります(鎌倉幕府の北条氏とは関係ありません)。氏綱は武蔵国にも勢力を広げ、後北条氏の基盤を固め、小田原城下の整備をすすめます。3代目の北条氏康は名将として知られ、領国経営にも優れました。領主の都合で取り立てていた税を改め、独自の検地を行って雑多な税制を3種類に整理。政策の決定を重臣たちと合議する「小田原評定」を確立しました。また領国の支城に実子を送り込み、広大な領国支配の基盤を固めました。このころ武田家、北条家、今川家は「甲相駿三国同盟」を結び、東国を支配しました。
4代、氏政は関東圏の領土をさらに拡大しますが、織田信長が桶狭間の戦いで、甲相駿三国同盟の一角である今川義元を討ちとると、それに乗じた上杉謙信は関東に進攻。永禄4年(1561)には小田原にまで攻め込み、城を包囲します。これに耐えたことから小田原城は、難攻不落の城として全国に知られるようになりました。後北条家の差配のもと城下町は高度に進化し、石組みの水路も作られました。絵画や茶道も盛んで、甲冑、刀、鍔などを作る工芸、染色なども発展します。
▼小田原城を中心に、総延長9kmにもおよぶ「総構」。
駅の西側、城山の急な山道を登っていくと「小峰御鐘ノ台大堀切東堀」があります。後北条氏は天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに対し、「総構」(そうがまえ)と呼ばれる周囲9kmもの空堀、土塁、水堀を築き、城下町を取り込んだ日本最大級の城郭を築きました。小田原はヨーロッパ中世都市国家のように城壁に囲まれた街だったのです。東堀は幅約25m、深さ12〜15mの空堀で、城の西側を守りました。これだけの防御をしたにもかかわらず、総勢20万といわれる豊臣軍に包囲され後北条氏は降伏。100年にわたる支配が終わりました。
街中を流れる「小田原用水」は後北条氏の時代に開削され、日本最古の用水路といわれています。箱根・芦ノ湖を源とする早川から水をとり、今も美しいせせらぎが流れています。飲用水として使われたので洗濯などは禁じられ、昭和の頃は製粉所などの水車が並んでいたそうです。
夜空に花模様をかいたんだいま君はなにを見ているんだろう
Vol.13
原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
小田原の板橋地区を中心に清閑亭(旧黒田長成別邸)、古稀庵(旧山縣有朋別邸)、松永記念館老欅荘、小田原文学館白秋童謡館(旧田中光顕別邸)、旧松本剛吉邸、皆春荘(旧山縣有朋別邸)、共寿亭(大倉喜八郎)など政財界の大物たちの別荘がありました。その一部は今も現存し、一般公開されています。
『益田鈍翁の想影』牧野紘一著より明治の実業家茶人をリードし「佐竹本三十六歌仙絵」などの海外流出を阻止したのが、三井物産の創始者・益田鈍翁(孝)でした。1848年、佐渡の役人の家に生まれ、江戸に出ると14歳でタウンゼント・ハリスの米国公使館(麻布善福寺)に勤務し、寝食をともにしながら英語を学びます。1864年には第2回遣欧使節に参加してパリ訪問(途中スフィンクス前で記念撮影)。各地で国際貿易を見聞する機会となりました。明治になると大蔵省に入り、井上馨と商社「先収会社」を立ち上げ三井物産に発展させます。年収は今の金額で約30億円、200億円以上の資産があり、旧家が手放した国宝・重文となる逸品を競り落とし、海外流出を防ぎました。1906年には小田原板橋に敷地3万坪の「掃雲台」を造営。茶室8軒、缶詰工場、畜舎、ミカン畑があり、益田はライフワークである茶の湯と栄養学の研究を実践し、皇族、華族、政治家、軍人、実業家が集う小田原社交界の中心サロンとなりました。
牧野さんは鈍翁関連の資料を収集し、写真集『益田鈍翁の想影』を出版しました。下は鈍翁自作の水差し。
益田が91歳で没すると、掃雲台は切り売りされ蒐集品も四散します。その業績を伝えようと牧野紘一さんが設立した私設展示館が「鈍翁in西生子(さいかち)」です。親交のあった政財界人からの手紙や書を中心に、貴重な往時の写真、献立表、鈍翁自作の茶器などを季節に合わせて展示。世界各国から日本文化の研究家が訪れています。
マスク到来といってもアベノマスクではない。秋口になるとくしゃみがひどく、小ぶりのマスクを箱単位で買う。コロナ騒動が起こっても行列に並ぶ必要がなかったことは、花粉症のおかげと胸を下ろした。その後アベノマスクが届いたが、嬉しさよりもまずは汚れを点検して、緊急避難時袋の中にしまいこんだ。マスクは外出自粛で使う頻度は少なかったが、減っていくと心細くなってくる。薬局をのぞいてみたが、小ぶりのマスクはどこにもない。アベノマスクはそれ用だったのかも ……と、そんな時、友人から手作りマスクが送られてきた。100キンガーゼで作ったとのこと。仲間の分と合わせて、女工哀史気分で作ったとのこと。
これには驚いたが、少し小さめで洗いのきくマスクは
すごく嬉しかった。柄もなかなかいい。会えないが同じ柄のマスクをしていると思うと、なんとも楽しい気分になってくる。東京脱出ができるようになったら、お揃いマスクで写真を撮ろうということになっている。
もう一つ到来マスク。「毎日白じゃ飽きるでしょう。」と、妹がおしゃれな柄のマスクをプレゼントしてくれた。テレビでは色々なマスクが紹介されているが、おしゃれ感覚でマスクをつけるという発想は全くなかった。ほとんど自宅から出ることもなく、人と会うこともない。ましておしゃれをして出かけるということなど半年以上もなくなっている。暑くて外したいと思うことはあっても、白いマスクが飽きるなど思ったことはない。
確かに小池さんは素敵なマスクをしている。西村さんもなかなかいいマスクをしているし、テレビに出る国会議員の中にも凝ったマスクをしている人もいるが、自分がそういうマスクをしたいと思ったことは1度もない。が、妹のおしゃれマスクはなかなかのものだった。このマスクに合うおしゃれをするのも悪くない、と思えてくる。そうか、今や人前に出て喋る人は、マスクのセンスがものを言うのかもしれない ……妙に納得できた。
マスク到来とボチボチ断捨離
マスクを送ってくれた友人は外に出る機会がなくなって、家中掃除をしているとのこと。便利な掃除グッズも教えてくれる。「え、毎日掃除かけるの?」「やりたくない!!」「5分でやったよ!」とたわいのないやり取りが、トイレの神様の話になり、最後は「天
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孫降臨以来、掃除に始まり掃除で終わる」という、高尚な講説となる。まぁ相当な暇人同士のやりとりではあるが、これがなかなか面
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白い。年近くそれぞれの人生を歩んできているので、お互いの若い時のことはほとんど知らないが、中学のクラス会で顔を合わせているうちに、同じだけ年をとって、健康管理と断捨離というテーマだけでメールやりとりはかしましい。
健康管理はそれぞれだが、断捨離は体力勝負。押入れに入ったままの客用布団、子供の本や親のアルバム、結婚式の引き出物など、何十年もそのままにしていたものを引っ張り出すには、相当
♪♪
の体力が必要となり、翌日はだいたい腰痛か腕が痺れるということになる。それでも互いを励まし、労わりながら、なんとか断捨離を進めている。 26
何度か試みた断捨離ではあるが、容易には進まない。友人たちの迫力に押されて、気合いを入れて押入れを開けてみると、料理の本が出てきた。平成6年発行の「 NHKきょうの料理」一年分である。(チャン
チャラチャラチャラチャンチャンチャン .)そんな音楽が聞こえてくる。おそらく父が買ったものではないだろうか?どこにも折り目がつかずきれいなまま揃っている。一旦束ねたが、年前の料理本とはいえ、料理の基本は同じと脇におく。これじゃいつまでたっても断捨離は進まず友人たちに報告できないが、「まだ使えるは、もういいか」「誰かが使えるは、誰も欲しがらない」「小さな文字の文庫本は、もう読めない」と自分に言い聞かせ、ボチボチ断捨離を心がけている。
それにしても年来の友人たちとのメールやりとりはコロナがなければなかったかもしれない。「若い時の私を覚えてくれて、思いだしてくれるだけでも嬉しいよ。」「メールのやり取りが貴重な外気の窓口。元気でいましょう!」中学時代の可愛らしい乙女は「頑張る美魔女?軍団」という名が板についている。
松永耳庵 撮影:杉山吉良日本カメラ財団蔵
敷地全体は西から東に下がる傾斜地で、三段に分かれています。中段の700坪は自邸と茶室、その上の高台(密柑山)からは相模湾がよく見え、政財界人、茶人を呼んだ園遊会が開かれました。一番下は耳庵設計の日本庭園で、蓮池を中心に記念館や収蔵庫が建っています。耳庵の生前から、記念館のコレクションは一般に公開されていました。
耳庵がコレクションしていた国宝「釈迦金棺出現図」。松永記念館から京都国立博物館へ寄贈されました。
「庭は生きている、そして、つねに動いている。決して造られたまま静止しているものではない」「庭造りも実は、事業計画や経済計画といったものによく似ている。一応の大づかみな計画を立てた上、この点はどうする、あの点はどうするとこまかく考えても、十中八九までは結局初めの考えどおりには行かない。」松永安左ヱ門著『喝!日本人』より
庭園の一角にたつ「葉雨庵」(よううあん)。中外商業新報(日本経済新聞社)社長、三越社長をつとめた近代小田原三茶人のひとり野崎廣太(幻庵)によって、諸白小路(南町)の別荘「自怡荘(じいそう)内に建てられた茶室です、昭和61年に移築されました。
設計は幻庵自身が行い、三畳台目中板入の茶室に、2間四方の水屋が付属します。床の間・中板、中柱による構成が自由闊達で、ジャーナリスト野崎廣太の眼を感じます。野崎は新聞に茶会レポート『茶会漫録』を連載するなど、実業界への茶道普及につとめました。ちなみに野崎と松永はともに慶應義塾に学び、福沢諭吉の謦咳に接しています、
庭園の軸となったのが、樹齢400年を超えるケヤキの大木です。大木のもとへ客を導くため、邸宅への石段は敷地の端に設けられています。ケヤキの下に置かれた大きな岩は、黒部峡谷産の10トンほどある巨石。石段にたつ「下り龍」の石像は、近代小田原三茶人のひとり益田鈍翁の旧蔵です。
TIME & STYLEの家具と空間
TIME & STYLEは、建築家と協業した空間づくり、家具づくりを手掛けています。写真はパリのレストラン「Maison」。インテリアデザインはエストニア国立博物館の設計で知られ、パリを拠点に活躍する田根剛さんです。TIME & STYLEは家具製作を担当し、既存家具のデザインをベースにして、空間全体を包むテラコッタの色に合わせたカラーリングなど、細かな仕様の変更を行いました。
▼長さ8mの大テーブルは、4mの無垢タモ板を2枚連結しています。
相模湾を望む高台のレストラン「ミクニ伊豆高原」は、シェフ・三國清三さんと建築家・隈研吾さんによって生まれました。ヒノキの無垢材を大胆に組んだ屋根構造が特徴で、テーブルは建築と同じヒノキ材で製作されています。テラスのチェアは2010年、隈さんとTIME & STYLEが共同開発したもの。これら特注家具は、北海道東川町のTIME & STYLEFACTORYで製作されています。H residenceはマンション最上階のオーナーハウス。TIME & STYLEが空間コーディネーションと家具製作を行いました。リビング・ダイニングにはベンチタイプのソファを配置し、ジオメトリックで軽やかな雰囲気。
▼地下のパーティルーム。ゲストを招くためのチェアとテーブルを用意。
寝室のベッドには、ウォールナットを使い温かみのある雰囲気に。寝室に続くウォークインクローゼットにも統一感のある素材を採用して、つながりを持たせています。
「老欅荘」(ろうきょそう)は、終戦直後の昭和21年に埼玉の柳瀬から小田原に移り住んだ耳庵による20坪ほどの家で、10年近くかけて増改築を重ね、晩年の25年を一子夫人と共に過ごしました。頻繁に茶席が設けられ、茶人や政治家、学者、建築家、画家などが訪れます。小田原城下の板橋地区には、相模湾を望む眺めのいい台地に、益田鈍翁、山県有朋、大倉喜八郎などがこぞって別荘・茶室をもうけ、政財界のネットワークを形成しました。
本玄関と呼ばれる土間は三和土になっていて、低い竹垣根で仕切られ、片側は開閉式です。土間には沓脱ぎ石が置かれべ右軍、隣接する茶室の待合も兼ねていました。
本玄関に穿たれた平安風の窓。
本玄関は3畳の茶室とセットで増築されました。天井は網代。床間はやわらかな室床風です。この茶室は「寄り付き」とも呼ばれ、天井が高く広く感じます。奥の茶室「松下亭」が完成してからは、待合としても使われたようです。邸宅の露地門は、益田鈍翁の掃雲台から移築されたもので、スコップのような十能瓦が使われています。瓦を挟んだ塀は、外からは中が見えず、部屋からは外の景色が見える絶妙な高さで、微妙なうねりが遠近感を強調します。
一子夫人の和室は3畳の茶室に隣接した日当たりのいい部屋で、6畳を10畳に広げています。櫛形欄間や障子の桟の面取りが、女性らしい雰囲気をかもしだします。一子夫人の体調をおもんばかり、柳瀬から小田原に移ったといわれる耳庵の思いやりを感じる部屋です。出入口には大きな金庫がすえられていました。一番ひろい10畳の和室は、付書院と3畳の床間をもつ、書院造の部屋です。床框は漆の黒真塗で、床柱には杉の四寸角柱を使い、床柱は室内に二尺ほど出ています。そのため畳の寸法がそれぞれ異なり、バランス悪く見えるところを、畳縁の線を一直線に揃えることで、ごく自然に見せています。付書院にふすまの戸当りを付けてしまっている所にも耳庵のオリジナリティを感じます。大きな床間は、自らの棺を置くために準備したともいわれます。耳庵は遺言で子供たちに遺産を残さず、屋敷やコレクションは、全て公的機関へ寄贈されました。
畳敷きの広縁は、後から付け足されたものです。10畳間をより広く見せ、庭との一体感を出して一枚の絵のように見せます。天井裏部分には屋根裏部屋収納があり、隠し階段で上がれます。収納量をとり、部屋にはものを置かない工夫がされていますが、実際の耳庵の暮らしは、沢山の本や道具に囲まれたものでした。
奥の茶室は昭和28年に増築され「松下亭」と呼ばれました。4畳半+台目という広めの茶室で、台目部分は主人の点前座となっています。洋式の出窓が設えられ、にじり口の障子には外側にガラスを張るなど、耳庵らしい工夫が見られます。点前座からにじり口を見ると、外に置かれた石仏と対峙します。出窓の棚に調度品を置くと丁度いいバランスで、点前座からの景色を大切にしていると感じました。
松永安左ヱ門は対馬の名家に生まれ、慶應義塾に入塾すると福沢諭吉をしたい、福沢の散歩に同行する「散歩党」のひとりとなります。「独立自尊」の教えをうけ、官よりも民を尊ぶ姿勢は生涯一貫したものになりました。在学時に投資した銀行株があたり、退学して日本銀行に入所。1年で退職すると盟友の福沢桃介(諭吉の婿養子)とともに丸三商店を設立するも4カ月で破産。その後、石炭の取引で利益をあげ、東邦電力の代表となると各地の電力会社を傘下におさめ「電力王」の異名をとります
前回に続き、古代ギリシアの男たちの宴席「シンポシオン」
について。紀元前5世紀には既に一定の宴席の形式が出来上がっていて、今回はその様子を、できるだけ具体的にお話してみたい。
招待客として招かれるのは男のみ。基本、地域社会の顔役たちに限定されていて、お互いがお互いを招きあう、という関係。当然、共同体の絆を確かめ、その選ばれた一員としての心得を固める場、という側面もあったので、十代半ばの若
者が入ることも珍しくなかった。ゲストの数は
人くらい。宴席が開かれた部屋は正方形が基本で、
弱から 7
m
弱四方くらいまで。畳の畳数で言えば、
いが一般的で、最大で 30畳という感か。要するに、一人当たり1畳強。しかしなぜ、その広さが必要だったのか。現代ならば1畳のテーブルを6人で囲んでも、余裕たっぷりすぎるセッティングになるはず。だが、古代ギリシア人たちの宴席では、「椅子に座ってテーブルを囲む」ということはしなかっ
たのだ。では、どうしたのか。
出席者は一人一人がカウチに横たわって飲食を行った。
幅
〜
ッド状のカウチ。後の時代には多少大型化していく。上半身を預ける側には特に美しい色彩の布地で覆われた豊かなクッションが置かれた。全員が基本、左肘を付く形で体を横たえ、この姿勢で相手の顔が見え、会話が交わせるようにカウチが配置される。それ
ぞれのカウチの脇に、小さなテーブルが置かれ、ここに料理や食器が並べられ、出席者は基本、すべて若く美しき酌婦もしくは酌少年から料理を取り分けてもらい、右手に持つワインカップに酒を注いでもらう形で飲食を楽しんだ。
この形式は後に古代ローマに受け継がれ、そこでは、3つのカウチをコの字型に並べて、真ん中に小さな三脚の丸テーブルを置く形が定形となっていく。ゲストはこの3つのカウチ一組を基本として、大人数の場合は、これを1辺として9個のカウチをコノ字型に並べて、これを次の基本とした。この3つのリクライニング(カウチ)を基本として置くダイニングルームのことを「トリクリニウム」(3つの寝椅子部屋)と呼ぶに至る。「トリ」はトリオの3、「クリニウム」はリクラインに通じる語である寝椅子を意味する。この「横臥しての宴席」という形式、オリンピックのようにギリシアが発祥の地かと言うと、そうではない。より古い歴史のあるアッシリアに代表される古代オリエントの宴席形式がとり入れられ
70
20
1
10
20
80cm
数人〜
数
辺5
m
で長さ 2
m
畳くら
弱のベ
たものだ。宴席の形式や食や料理が、地域と時代を越えて伝播され受け継がれ、
80
変容しながら更にその先へと伝えられていく。その道筋が見えた時感じる「あっ、そうだったのか!」。この快感があるから、遥か彼方の食文化に至るまで調べることが止められないのだ。
この寝椅子に横たわる形式の宴席は、古代ローマ時代に於いてこそ、その豪奢
を極めることになる。その一端は、様々な文学やポンペイの遺跡の壁画に美しく
残されている。一方で、古代ギリシアの宴席形式がローマに受け継がれる重要な
接点となったのが、文化的に極めて洗練されていたエトルリアだ。ローマの北西
キロほどに位置するタルクィーニア地方に残されたエトルリア貴族の墓所群、
そこに見事な彩色壁画が多数残されていて、寝椅子に横たわって宴席を楽しむ人
びとの様子が描かれている。また、ギリシアからの移民が多数の小都市を建設し
たマグナ・グラエキア(大ギリシア)とよばれるイタリア半島の最南端からシチ
リア一帯にも、同様の壁画が残されている。いずれも古代ギリシアの中でもイオ
ニア的雰囲気が一杯で、こと宴席文化に関して古代ローマは、如何に大きな影響
をギリシアから受けていたかを物語る重要な証拠だ。
ところで、古代ギリシアの宴席シンポシオンは、原則として二部構成となっていて、最初が食事、休憩時間をはさんで後、酒宴という形だった。ここでは圧倒的に「酒宴」が重要で、食事はその前座という感がある。なぜそうなのか。これは一つの仮説だが、ギリシアは大半の土地が農耕に不適で、農作物に乏しい。島々や沿海部では豊かな海の幸に恵まれたが、陸地ではかろうじてオリーブや僅かな果樹、あとは山間部の牧畜程度で、おせじにも「豊かな食」とは言えなかった。その宴席が「食事」と「酒宴」の二部構成で、前半がさして重要視されなかったのは、ここに大きな理由がありそうだと。納得できる説だと思う。
とはいっても、この宴席で料理についても、興味深
いことがある。時に肉料理が供されたが、これは圧倒的に羊。次いでヤギ、時に
イノシシ的豚、そして稀の特別な贅沢として牛だった。こうした肉食の始まりは「神への捧げもの」だ。神事に当たり贄(にえ)として神前に捧げられた肉を、
神事の後、参会者一同で分かち合う。我が国の直会(なおらい)と同様だ。古代
ギリシアではその昔肉食は、神事との関係で供される特別なものだったのだ。こ
のとき肉のさばき方が重要で、参会者の地域社会における役割と地位に従って、
分け与えられる肉の部位と量が異なっていた。この細部に渡る肉の解体へのこだ
わりが、やがて旧約聖書、ユダヤ教のコーシャ、さらには、イスラームのハラー
ルにまで底流としてつながっていく点は見過ごせない。たとえ内臓の切れ端しか
もらえなかったとしても、少なくとも神事に参加できる成員として認知されてい
ることが重要だった。後に神事ではない一般の宴席で肉料理が供されるようにな
るが、それでも、出席者に応じて供される肉の部位と量が異なるという「差別の
伝統」はしぶとく残り、近世に至るまで西欧社会に引き継がれていくことになる。
また同様に、宮廷やギルド(都市の同業者組合)や教会やエリートソサエティで、
それぞれの組織が主催する、席次にやかましい宴席。たとえ末席でもこれに参加
できる資格を有することが極めて重視されてきた伝統にもつながっていく。この
伝統は間違いなく現代にまで引き継がれていて、だから「基本タキシードにイブ
ンニング・ドレスで」なんて世界が今も現存しているのだ。 次回へと続く。
「老欅荘」の向かいに復元された「無住庵」は、耳庵が埼玉の古民家を昭和30年に蜜柑山に移築した田舎家風茶室です。園遊会の際には、各界の著名人も訪れました。耳庵の没後、記念館近くに移築されていましたが、今年、敷地内に移築されました。耳庵は茶室だけでなく、玄関の土間や広間、蜜柑山をはじめ様々な場所で茶を点てることを好みました。無住庵の移築により、書院、数寄屋、土間、田舎家と、耳庵が求めた茶の湯空間のバリエーションが揃いました。昭和初期になると、軍部や国による戦時統制の機運が高まりました。産業に重要な電力も統制の対象となりますが、松永安左ヱ門は電力の国営化に最後まで反対し続けました。しかし電力管理法が制定されると公営の日本発送電株式会社が設立されます。第二次世界大戦中、松永は公職につくよう促されますが、それを拒否して東邦電力を解散。柳瀬(所沢)に隠棲し、60歳からはじめたお茶三昧の暮らしを送りはじめました。耳庵とは論語の「60にして耳に順う」から来ています。いったんは隠居した松永でしたが、75歳で戦後の「電力再編成」という大仕事に駆り出されます。GHQの要請に対し松永は、全国を9ブロックに分け、発送配電一貫の電力会社を配置する提案を行いました。これが現在の電力会社の基礎になります。地域ごとに独立した会社が責任をもつという考えに政財界は反発しますが、松永はGHQや政治家を説得しました。さらに松永は電力料金の大幅な値上げに取り組みます。これは一般大衆からも非難されますが、松永は敗戦後の産業復興には発電所の建設が必須という信念を貫き「電力の鬼」と呼ばれるようになります。
「黄梅庵」(堺市博物館)「黄梅庵」(おうばいあん)は奈良県今井町(橿原市)の豊田家にあった今井宗久ゆかりの茶室です。戦前に松永安左ヱ門が入手し、現在「無住庵」のある場所に移築されていました。鈴木大拙も、この茶室を訪れたといわれます。松永の没後、昭和52年に堺市博物館に寄贈され、館内の敷地に再移築されました。ちなみに「黄梅庵」とは、梅の実が熟する頃に完成したことから、耳庵により命名されました。
旧東海道沿いの内野邸は、醤油(武功醤油)の元醸造元で、店の裏には小田原用水に面した工場がありました。松永安左ヱ門が95歳で亡くなる3カ月前、1971年3月に福島第一原発一号機が営業運転を開始しました。松永は「原発に手をだせばやけどする」といったそうです。その後、電力会社は大量の天下りの受け皿となり、米国主導の原子力行政にしばられ官営企業としての体質を強め、独自性を失っていきます。まるで松永の鋭い眼光が消えるのを待っていたかのように……。
400年の歴史をもつ「済生堂薬局小西本店」。
ドラゴンシリーズ 71
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
林太郎と小次郎
今年の
月下旬から世の中は激変した。私たちの生活も随
分と変わってしまい、未だに慣れないマスク生活をしている。この現実を本当に受け入れることができず、夢の中で生きているようだ。現実の確かな実感が無い。そして、これから先の時代や生活も見えてこない。
こんな時に見えてくるのは、人間の本性のように感じる。世の中には沢山のおかしな人たちが登場し、その素行が話題になっている。政治家や有名人にも変な人が登場した。アメリカもおかしな国だと思っていたけど、世界で同時に問題が起こったとき、その国が良く見えてくるものだ。あちらの大統領さんも元々変人と思っていたけど、本当におかしい事が世界中に明白に伝わってしまった。これは彼の行動作戦の失敗だ。本当におかしいとバレると、世の中の目は本当に厳しい。と言うことで、おかしな作戦はボチボチ終焉を向かえそうな様相だ。
一方、我が国首相の露出は激減し、おかしな大統領との親密な関係も微妙な感じになってきた。これは黙って静かに固まり、見えないフリのダンゴムシ作戦に出たのだろうか。この作戦は多くの政治家が状況が悪くなると使ってきたが、国民にはもうバレてしまっている。このまま黙って消えてしまわないように注意しないとまずい。
そこに追い討ちをかけるように、ブラジルのおかしな大統領も登場してしまい、イケメンなのだが頭の方はいけてないようで、ブラジル国民を混乱に導いてしまっている。
その他の国々も同じようなものだ。中国も香港の問題ではおかしなことになっているし、北朝鮮も不気味な兆候を見せ始めているし、隣国の韓国も周辺諸国との関係が危うい状況だ。このまま暴君が暴走しないように願うばかりだが、社会は根っこを失ってしまったかのようだ。
このようなマスク生活になって
カ月間しか経っていない
が、この世は、何年掛けても起こらないはずの変化を、数カ月でやり遂げてしまった。私たちの常識の中にあった多くの
2
4
ことが変わり始め、どんどんとおかしな方向に向かっているように感じる。
6
しかしこの動きを、しばらくは止められないかもしれない。これからのこと
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は誰にも分からない。それだけは明白だ。
僕はこの状況を好ましいとは思わないが、前向きに捉えるしかないとシフトを切り替えることにした。考えてみれば、世の中のルールは大きく変わり、これまでの常識や概念が変化し続けてゆく中だからこそ、本質的なことが大切になってくるようにも感じている。
人々は新しい形や方法を作り出さなければならない。それは自由に未来を定義することや、将来の変化を生み出すことが容易になったと言えるのかもしれない。生活習慣さえも変わるなか、新しいことに対する障壁は少なくなった。メディア向けのデジタル人間が露出するようになり、そんなデジタルさえも人間味を帯びてきたことに対して、人々は共感し新しい社会のリーダー像がデジタル系へと自然な変化を遂げている。
僕自身は賛成では無いし、そんな社会は好きでも無い。それは僕らが生身の人間であることはずっと変わらないからだ。リアルは淘汰さ 6
れデジタルでなければ生き残れ 5ない過渡期のようだ。しかしどうだろうか。それが事の本質の根っこまでを司ることにはならないのだと僕は信じている。
月日の夜中に公園を走っていると、一頭のカブトムシが街灯の光に向かって飛んでいた。月日のカブトムシはずいぶんと時期が早すぎるように感じたので、落ちてくるのを街灯の下で待っていると、僕の足下に降りてきた。普段は公園の森に返してあげるのだが、最近は昆虫採集の親子が朝から夜まで虫網を持って探していて、このまま捕まってしまい短い運命になるのが可愛そうで、家に持ち帰り虫かごを買って育てることにした。少し小さめだが、ツノは大きく堂々とした雄のカブトムシを僕は林太郎と名付けた。林太郎は生まれたばかりで元気が良く、体も艶のある明るい茶色をしている。
数日後にアパートの屋上に一匹のさらに小さな雄のカブトムシが仰向けになって倒れていたが、生きているのかがわからないくらいに動かない。林太郎の部屋に一緒に入れたら、勢い良く昆虫ゼリーを食べ始めて、どんどん元気になった。彼を小次郎と名付けた。カブトムシにも個性があり、感情があることにはじめて気がついた。二頭とも元気に生きている。自然は脈々と営みを続けている。
小田原 後北条氏の最前線
武者の山里菅井集落
小田原から丹沢山系を抜けて北に30km。神奈川県緑区牧野の山里菅井地区。戦国時代は小田原・後北条氏の前線基地であり、武田氏との戦場にもなりました。
菅井地区は東京都心から車で約90分と近く、戦国時代からつづく集落の姿を色濃く残しています。古くは縄文の遺跡も発掘され、慶長9年(1604)の地寄帳(検地の記録)には、田畑の耕作が記録されています。集落入り口に立つ「六地蔵」(実際は7体)は、仏教の六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)を示し、疫病を防ぐと考えられていました。
集落の向こうに、丹沢山系を望みます。
奈良時代に高麗氏、秦氏によって西国から伝わった養蚕、織物は菅井地区にも伝播し、日当たりのいい山の斜面を開墾して、麦、粟、稗、蕎麦を作り、自然の中で育てた蚕の繭を紡いで絹糸を作り、反物を織って生活していたと考えられています。集落の高台に、今から150年ほど前に建てられた養蚕農家。ながく使われていませんでしたが、農業法人藤野倶楽部によって「柚子の家」として再生されました。
後北条家は、小田原を甲斐武田家から守り、武蔵進出の拠点とするため、津久井城主に重臣・内藤左近将監をすえ、この地に尾崎城(伏馬田城)を築きます。永禄2年(1559)の北条氏所領役帳には、城主として尾崎家の禄高が記録されています。尾崎城は敵襲を知らせる烽火台としても、重要な役割を担っていました。
菅井地区の中心的な神社、山之神神社。
天文5年(1536)には、尾崎城で武田軍との戦いが起こります。武田軍は山に松明を付け、そこから大軍が押し寄せるように見せかけ、尾崎勢を待ち伏せて襲撃しました。不意をつかれた尾崎軍はほぼ全滅し、その場所を「人潰れ」といい松を植えた塚がありました。戦いを生き延びた落ち武者が「山之神神社」周辺に移り、集落を形成したともいわれます。正月5日、山之神神社には菅井地区の人々が集まり、お祭りの準備をしていました。
戦国時代の菅井地区は、後北条家と武田家の国境にあたる最前線で、幾度となく支配者が入れ替わりました。城を追われた尾崎家の子孫たちは名主や有力者として地元に残り、その子孫には「議会政治の父」と呼ばれる政治家尾崎行雄(咢堂)がいます。むかし村人は、城のふもと「尾崎原」に入る時、草履を脱いで敬意を表したといわれます。
IFFT/インテリア ライフスタイル リビング 2020年10月28日(水)〜30日(金)
事前イベントとして「インテリア ライフスタイル ウェビナー」がスタート
新型コロナウイルスの影響によって、見本市の中止、延期が続いていましたが、毎年秋に開催されてきたIFFT/インテリア ライフスタイル リビング(主催:日本家具産業振興会、メッセフランクフルトジャパン)は、2020年10月28日(水)〜30日(金)、東京ビッグサイト南展示棟での開催が決定し、出展者募集中です。新型コロナウイルス感染防止策を充分に行い、安心して参加できる商談の場を提供すると主催者。今回は、Withコロナ時代を反映しテレワークがクローズアップされます。特別企画の「WorkplaceMix」では、オフィスだけでなく、色々な場所で「自分らしく働く」ための空間づくり(オフィス、自宅、カフェ、サードプレイスなど)をサポートする家具、インテリア用品、雑貨、食品などが揃うようです。
■ 事前イベント、オンライントークショー「Interior Lifestyle Webinar」開催に先立ち、Zoomを利用したオンライン上のセミナー「Interior LifestyleWebinar」が、7月21日から全4回、無料配信されます。各回500名限定で、事前申込みが必要です(左下のリンクからどうぞ)。第一弾はライフスタイルジャーナリストの本間美紀氏。日時は、2020年7月21日(火)20:00〜21:00。今年ドイツ・フランクフルトで開催されたアンビエンテ、ハイムテキスタイル2020のレポートが中心になるようです。第二弾はベースフードの橋本舜氏とエイトブランディングデザインの西澤明洋氏が登場。日時は2020年7月30日(木)20:00〜21:00。なお、IFFT/インテリアライフスタイルリビング会場でも、恒例のセミナー「LIFESTYLE SALON」の開催が予定されています。
東京ビッグサイト南展示棟で開催決定
▲武者小路実篤「萬年山房」の書。
「柚子の家」は宿泊、ワークショップ、クリエイティブキャンプ、アートギャラリーなどアイデアしだいで多目的に使える施設。都心から車で90分と近いこともあり、企業のミーティングにも利用されています。菅井地区にはかつて「菅井農業小学校」があり、毎月1〜2回、地元と都会の子供たちが一緒になって農作業を学びました。『一つの花』で知られる児童文学者今西祐行さんが校長をつとめ、100名ほどの児童が陸稲、小麦、ソバ、ジャガイモ、大根、白菜などをつくり、なかには大学の農学部に進学する人もいました。学校は今西氏が亡くなる平成16年まで続きました。「柚子の家」2階の養蚕室は広いギャラリールームに改装されています。江戸時代になると上野原で特産の織物市が開かれ、菅井地区も養蚕、製糸、織物に力を入れるようになります。柚子の家2階にも蚕棚が置かれ、繭や織物を市場に馬で運び、塩、油、衣類などの生活必需品を購入していました。狭い山道の運搬は馬が頼りで、遠くは八王子まで商品を運んでいたようです。農作業のできない冬場は、炭焼が大切な仕事になっていました。
▲朝ヨガの気持ちいい木製デッキ。BBQも楽しめます。
組子細工の板戸などは、もともと使われていたものを修復しました。柱や梁などもきれいに再生されています。良い材料が使われ、高台の風通しのいい場所にあるため材料の痛みは少なかったようです。施工は藤野の関戸大工が中心に行いました。
▲アルカリ泉質で美肌の湯といわれる「いやしの湯」。
近くには「いやしの湯」など温泉もあります。道志ダムは奥相模湖の発電用ダムで、道志川の流量をコントロールしています。高台の菅井地区は水の確保が大変で、下の川からの水くみが子供たちの日課でした。
「柚子の家」のシンボルともいえるヒノキの大階段。業務用ステンレス厨房もあり、自由に料理を楽しめます。戦国時代、武将たちが生き残りをかけて議論を重ねた「小田原評定」。新しい時代をひらくソリューションが、山里から生まれそうです。
A
55 C
を過ごしたものだ。その初日、時計の針が3時をさし、ベランダから何気に、そして恐る恐る外の様子をうかがってみる。左手に
航路、渋谷側に飛ぶルートが見えたと思ったら、右手にも大型ジェットがやってくるではないか。我がマンションの直上を飛び、麻布方面に抜ける滑走路へのルートがそれ。つの航路をゆくジェット機がまかんなく行き交っちゃっている?
私たちの地域はまさに「ねらわれた学園」と化し、魔のトライ
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!!!
アングル状態となってしまった。オーマイゴットジェットの騒音が私には「ここを出ていけ、出ていけ」「ここから消えてしまえ」と呪文のごとくに聞こえてしょうがない。国民の命を守ると宣言された政治を司るリーダーの言葉は、聞き間違いだったんだね。だって真逆の行為をして、平気でいるわけじゃない?守るどころか、命を奪うことに直結する行為だとマジ思います。
同日午後 3時分頃、衝撃的な光景を目撃する。一瞬の出来事なのだが、 Aoビル(旧紀ノ国屋スーパーがあった場所)の上あ
日からのはずでした。が、天候の影
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その 4
青山かすみ
本日、南風なれども
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ほどの位置である。ヘリコプターが飛んで
ルートへ入って行ったのである。
月3日は金曜日、土
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日は休みで電話はつながらない。今日中に伝えておかねばと判断した。なぜ管制課の氏を知ったかといえば、小型機担当の氏を通じ連絡をもらっていたからである。青山地区の飛行高
!!!
度を再度氏に確認する。彼は 500〜 600だと答えた。以前、港区環境課の担当者にも同じ質問をした事がある。「えーっと」と資料をペラペラめくりながら、しばらくして、「高度
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750ですね」としらじらしい答えを返してきた。私は仰天せずにいられなかった。港区の答えと国交省の回答にはすでに、
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150〜 200の違いがあり、実のところ、 150以下を飛行しているという現実を知らない。役所のみんなが違うことを言う。そしてその現場の現状を見
てないし、足を運び調査さえしていないのだ。そんな人たちに国を任していい訳がないよ〜役所の人たちに、何を聞いても納得がいく返事を頂けたため
しがない。日本てマジ、恥ずべき国になっちゃったね。あなた達は日本の舵取りをする役目があるんですよ。自覚の欠如としか思えないです。しっかりせい
小田原城三の丸土塁の上に建つ邸宅は、黒田長成侯爵の「清閑亭」(せいかんてい)です。
箱根から続く山嶺の先端に建ち、数ある別荘の中で最高の立地といわれる「清閑亭」。建主の黒田長成侯爵は、黒田官兵衛の子孫、福岡藩最後の藩主黒田長知の長男として生まれ、12歳で17代目当主になり家督を相続。侯爵となるとケンブリッジ大学に留学しました。帰国後は明治27年から30年間も貴族院副議長をつとめ、華族出身の政治家と幅広い親交がありました。
孔雀や菊を描いた見事な杉板戸が目を引きます。小田原には福岡藩に関係する、団琢磨、安広伴一郎、杉山茂丸(夢野久作の父)の別荘もあり、隣接する閑院宮載仁親王(日露戦争で活躍)とは、子供同士(黒田長礼・茂子夫妻)が結婚するほど親しく交流しました。
長成の子・長礼は鳥類学者として知られ、日本鳥学会会長をつとめ『鳥類原色大図説全3巻』をまとめました。没後は黒田家の財宝「漢委奴国王印(金印)」を福岡市に寄贈しています。
関東大震災後に増築された2階から相模湾や真鶴半島が一望できます。福岡藩祖黒田官兵衛は、1590年豊臣秀吉小田原攻めの際、北条氏と交渉し城下町を戦火から救った功労者です。
▲大正13年築の山本眼科医院。和室の待合室があります。
川津陽子
ヨーコの旅日記第30信バンコク 伝染する二日酔い?メッセフランクフルトジャパン
(c)ASEAN-Japan Centre)
とある週末の朝、目を覚ますと気分が優れない。理由は明確である。完全な二日酔いである。自粛期間中、お酒を飲む機会がめっきり減ったせいか、以前に比べて酒に弱くなったのか、単純に飲みすぎたのか。昼になっても気怠さから抜け出せずに、ソファに倒れ込みダラダラと地味に苦しみながら、これほどのムカムカ感はいつ以来だろうかと、ぼんやり考えてみる。まぁ、こうした状況は珍しいことではないのだが、真っ先に頭に浮かんだのはバンコク出張からの帰国の朝の出来事だ。10年くらい前になるが、アジアにある支社が集まった会議に参加する機会があった。数日に渡る全行程を終えた日の夜、打ち上げ的なディナーが開催された。箱詰め状態から一気に解放され、かつ身内だけの場でもあり、みんなテンションが上がり、会話を楽しみながらお酒も進む。アジアのメンバーは本当に元気が良いし、とにかく飲みまくる。昼間は難しい顔をしてプレゼンしていたお偉い方も、普通のおじさんの顔だ。翌日は帰るだけだし、宿泊先のホテル内のレセプションルームがディナー会場で、各々好きなタイミングで抜けられる。さらにリラックスモードのなかダラダラと宴は続く。翌朝の早朝便で帰国する予定だった私は、寝過ごすことを恐れ、結局一睡もせず準備を済ませてチェックアウトし、そのままホテルのロビーで同じ便で帰国する同僚を待つ。ところが、待てども姿を現さない。現れない。もしや、まだ寝てるのか? いや、昨晩はわたしよりだいぶ先に切り上げたようでいつの間にかいなくなっていたしな。ハラハラしながら待っていると、ようやく同僚は降りてきた。明らかに様子がおかしい。聞くと、宴の途中からずっと吐き気に襲われていたとのこと。フライトの時間もあるし、少し良くなってきたと言うので、とりあえずタクシーに乗り込む。車中でも相変わらず顔面蒼白で無言状態の同僚に、大丈夫か、と時折気遣い声をかけながらも、自分はホテルで買ったカフェラテを片手に余裕を見せていた。まだ、その時は。なんとか空港に到着し、チェックインを済ませたころから、状況は一変する。
やんわりと嫌な感覚を覚える。次第に倦怠感が現れ始め、一気に気分はどん底。横を見ると同僚は調子を取り戻してきたのか、顔色も良くなり会話も増えてきた。滞在中は会議だらけで、せめて空港で何かタイらしいお土産を買わねば、と考えていたものの、もはやそんな気持ちも一気に吹き飛ぶ。なんとか全ての手続きを終えるやいなや、トイレに駆け込む始末。その後も、搭乗口に向かうまでに何度かトイレに立ち寄り、絶望的な気持ちで搭乗口前のソファで様子を見ることにした。刻々と搭乗時間が迫り、不安に駆られる。果たしてこのまま搭乗して大丈夫だろうか。乗ったら二度と降りることが出来ない密室ともいうべき機内、限られた数のトイレ、様々な風景が頭に浮かび泣きそうになる。搭乗開始のアナウンスがかかり、最後に再びトイレに駆け込む。もはや気休めでしかない。ファイナルコールが始まり、取り残されるわけにもいかず、不安な思いでいよいよ機内へ。普段は搭乗後、離陸を待つ間に眠りに落ち、目覚めるとすでに上空を飛行しているということが多いのだが、この日ばかりはそうはいかない。これほどまでに離陸までの時間を長く感じたフライトは他にない。そこからは自分との長い長い闘いであった。が、シートベルトサインが消え、自由の身になる頃には、これまでの疲労感で一気に眠気に襲われ、気づいた頃には間も無く東京というありさま。結局、最悪の事態は免れたのだが、あれは一体なんだったのか。二日酔いを人からもらうこともあるのか、または単純に自分も二日酔いだったのか。いずれにしても、この経験を機に出張であろうがプライベート旅行であろうが、フライト前日は自制心が働くようになった。あんな思いは二度とごめんである。あ〜、あの時よりはマシか……と久々にこの苦い経験を思い出した。
(c)ASEAN-Japan Centre)
ちょうど同じ頃、突然友人からパッションフルーツが届いた。全くのサプライズで箱を開けると、瞬時に放った南国の香りと、所狭しにゴロゴロと並ぶパッションフルーツに、ひとり小さな歓声を上げた。そう、わたしの中での「フルーツベスト3」に入るパッションフルーツ。はまったきっかけも、同じタイの出張であった。朝食に食べたパッションフルーツの香りと美味しさに、とり憑かれたように滞在中はひたすら食べ続けた。友人からのパッションフルーツは、一日ひとつずつ大事大事に食した。苦い思い出は他所に、バンコクの熱気と活気を思い出しながら。そう、当分旅はお預けだが、こうしてその土地を感じたり、思い出したりすることはできる。この夏は色んな産地の名物でも取り寄せてみようか。その前に、この週末は鰻を食べにいこうと決めている。知らぬ間に季節が変わることのないよう、しっかり夏を感じなくては。
国道1号線沿いの老舗料理店「だまる」は明治26年の創業。初代は金沢出身の網元で、関東大震災により一度倒壊しますが、2代目がブリの大漁で得た潤沢な資金を注ぎ込み再建。食堂ではごま油で揚げた名物の天丼がいただけます。
司馬遼太郎『坂の上の雲』の主役の一人、ロシアバルチック艦隊を破った秋山真之(さねゆき)は、小田原の旧山下亀三郎別荘「対潮閣」でなくなりました。山下は秋山と同じ愛媛の出身で、山下汽船(現・商船三井)の創業者です。大正6年、盲腸を患った秋山は対潮閣で療養し、散歩や読書三昧の日々を送ったそうです。山縣有朋の別荘を訪れたあとに体調が急変し49歳で没しました。対潮閣の跡には石碑「釣鐘石」と古い石垣が残っています。
かつて武家屋敷が並んでいた「西海子小路」(さいかちこうじ)。春は桜並木となります。通りに面した「小田原文学館」(旧田中光顕伯爵別邸)では、尾崎一雄の書斎や白秋童謡館を見学でき、ドラマやCM撮影にも利用されています。
▲ブリ大漁を記念して網元が配った着物「万祝」。
西湘バイパス下のトンネルを抜けると、御幸の浜がひろがります。
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