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空蝉 2020 https://collaj.jp/
時空を超える美意識
もののふの聖地
鶴岡八幡宮
鎌倉の象徴として多くの観光客が訪れる「鶴岡八幡宮」。1180年、伊豆に幽閉されていた源頼朝は、北条政子の父・北条時政の援助を得て挙兵。伊豆で勝利したものの真鶴の石橋山合戦で敗北し、いっとき山中の洞窟に隠れると、夜半に真鶴の浜(岩海水浴場)から海上をわたり対岸の安房国(千葉県南部)へと逃れます。
安房国に上陸し、上総介広常や千葉常胤の支援をうけた頼朝は、侵攻しながら勢力を拡大し、たった40日で鎌倉へ入ります。頼朝は、先祖源頼義が源氏の守り神とした石清水八幡宮を由比ガ浜から北山に移すと、源氏の氏神である八幡神をまつった鶴岡八幡を創建しました。武蔵国浅草の大工によって造営された八幡宮本殿は、坂東武士のシンボル、精神的な支柱となります。
頼朝の弟・源義経の愛人白拍子の静御前は、義経追討の際に京都・吉野で捕らえられ、鎌倉に連行されます。頼朝の前で舞を奉納することになった静御前は、義経への思いを込めた曲を舞いました。
▲ 頼朝を祀る「白旗神社」。妻 政子により創建されました。▼境内の鎌倉国宝館(昭和3年)は、岡田信一郎の設計。
勢いにのる頼朝は一気に京都への上洛を目指しますが、それを抑えのは頼朝を支援してきた坂東武者たちでした。圧倒的ななカリスマ性をもつ軍事貴族「棟梁」を欠いていた坂東武者にとって、頼朝は源氏直系の「貴種」として欠かせない存在でした。生まれ故郷の京都を慕う頼朝は、鎌倉に京の雅を醸成していきます。
ドラゴンシリーズ 72
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
戦死者の遺言
世界中の誰もが予見できなかった不測の事態が今も続いていま
す。今年の
月、
月頃「数カ月後には平常に戻れる」と見てい
た私たちの想定を裏切り、世界の事態は日増しに悪化して感染者と死者が増え続けています。私たちは日本の場当たり的な政策の中で、これからどうしたら良いのかもわかりません。それでも多くの人々は毎日の生活や仕事、子育てに迷いながらも生きて行くことしかできないのです。
新型コロナウィルス感染が勢いを増して全国各地に広がり続けています。検査数に比例して感染者数も記録を更新し続けていますが、政府からは相変わらず感染対策や検査体制への政策が出てきません。
東京も毎日の知事会見はあるものの、同じコメントの繰り返しです。本当の感染者数は発表の何倍もあるでしょう。しかし私たちは、一向に増えない検査数に比例する忖度された感染者数に一喜一憂するばかりで、その状況に飼い慣らされています。
問題の根本には気付きながらも、相変わらず自分の利益に直接関係の無い問題に対しては無関心を決め込んでいます。人々は自分の利益に関わることには関心を寄せますが、社会が抱える多くの問題に対しては見て見ぬふりをする、それが今の私たち日本人の実像ではないかと思います。政治や宗教が唱う正義や道徳以前の、人間にとって当たり前の「命=生きる権利」が一部の権力や富の犠牲にされてきた歴史から、今も昔も全く変わらないことに私たちも目を向けるべき時にあると感じています。
世界各地に感染が拡大してゆく中で、今では全国のどこで集団感染が起こっても不思議ではなくなりました。この感染の広がり方は、戦時中に戦地が拡大し、大人だけの戦争から青年、女子、子供までを巻き込んでいった、その時代の空気と近い体験に感じ
ます。今年
月
日の広島、そして
月
に感じた臭いと感覚は、これまでとは全く違ったものでした。
年以上続いた世界大戦の中で、日本の政治と軍隊は、権力と保身のために国家や天皇という大義名分を掲げ、多くの国民を犠牲にしました。いま私たちは世界で起こっている国々の争いを肌で感じることができます。そして、広島と長崎に投じられた原爆が頭の上で強い光となり、全てを一瞬で墨になる高熱で焼き、多くの人々が誰からも手当てを受けられないまま痛みの中で亡くなりました。生き延びた人々の焼けただれた肌皮からは血が流れ続け、苦しみを全身で感じながら生き抜いた人々の肌の臭いを、現実として感じる日となりました。
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日の長崎の原爆投下日
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75当時の政府や軍部が、権力に固執するあまり多くの命を奪ったことを、日本は
年の時の流れの中で忘れ去ろうとしています。今も政治の根本思想は、戦中と全く変わっていません。防衛と安保という大義名分を盾に、唯一の被爆国でありながら核廃絶を目指す「核兵器禁止条約」を締結しませんし、米国の核の傘の下から出ようとしません。まして近年の日本政府は、過去の罪を振り切るように四世、
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三世、二世の国会議員が罪深い祖祖父や祖父の亡霊を真剣に追いかけています。
政治家の大義は国家の主権と尊厳を守るためと言いますが、血統として代々受け継がれてきた政治思想の継承こそが政治家を支える根本思想です。自分で苦労して人生を切り開いていない世襲政治家には、肌で感じた生活の積み重ねがありません。国民のための政治思想は育まれず、庶民の視点で国を作ることはできないのです。そんな権力の亡霊のため、古くは戦国時代から多くの国民が命を失ってきました。
そして日本は「安保」という蜃気楼のような約束事のために、戦時中に最も犠牲を強いた沖縄の人々とその土地に米軍を駐留させています。戦後も沖縄が多くの犠牲を強いられても、本土で平和に生きる政治家、国民は真剣に向き合ってきませんでした。そして今でも米軍から沖縄に何が持ち込まれ、何が行われているか、日本政府も沖縄の人々も知る由がありません。さらに最近の防衛大臣は、中国・ロシア・北朝鮮の軍事力増強に対抗するという理屈で、軍事基地を直接攻撃できる弾道ミサイルを米軍に代わって日本政府が配備しようと堂々と発言しています。
いまだに政治家は軍事力による抑止力を正論としていますが、その幼稚な理論をどうしても理解できません。各国が抑止力のために軍事力を増強するほどに、全世界に核兵器の数が増え、一度でも使われれば年前に広島、長崎に投下された原爆の何倍、何十倍の殺傷力をもつ核爆弾の犠牲は想像すらできません。
その一発の原爆による犠牲者、人々を苦しめる後遺症と環境破壊、想像するだけでも恐ろしいことです。そして原子爆弾の数は、世界中で15000発以上、隠されている数を含めると20000発以上です。それは地球を何度も破壊できる数であり、全ての生物を一瞬で消滅させ、地球上から排除してしまう数の核爆弾を、今も世界の国々が保有しているのです。
唯一の被爆国である日本が、非核三原則の中で核廃絶のリーダーとして、世界中の政治家や各界のリーダーに広島、長崎の出来事を正々堂々と伝えることは、全世界の政治に大きな影響を与えると信じます。
これからの日本のリーダーは、勇気と誇りを持ってそれを実行することが真の役割と思います。そして日本も周辺アジア諸国や多くの国々に対して攻撃を加え、耐え難き危害を与え、多くの他国民を苦しめたことは明確な事実であることを認めて、どれだけ時間が掛かっても反省をして公言するべきと感じます。
新型コロナウィルスのパンデミックは、世界の危機管理に対する壮大な社会実験と比喩されることがあります。そんな中、日本の危機対応は世界の先進国の中でもダントツに最低レベルであり、国民の不安が最も大きい国というアンケート結果も出ています。安倍総理の信頼度は、あのトランプ大統領よりもずっと低かったそうです。安倍総理は月日、日ぶりに記者会見を開きましたが、次の予定があると分で切り上げました。
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我が国にはリーダーが存在せず、方向性や解決方法など具体的な方針がトップから全く国民に伝えられません。国民が聞きたいのは大臣からの経過報告や場当たり的会見ではなく、国を代表するリーダーが自ら国民に向けて示す言葉であり、
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リーダーから国民に対する愛情だと思います。安倍総理の言葉には魂が感じられません。長崎市長の原爆の日の言葉には、魂と愛情がありました。国民は長崎市長に日本の政治を託したいくらいの気持ちだったと思います。何年も何年も同じ
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挨拶の文章を広島でも長崎でも、国会の答弁でも繰り返す安倍総理を信任しているのは、紛れもない私たちなのです。それが私たち日本人の真実であり、世の中
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が進化してデジタル化しようとも A化しようとも、変えられないのは人間で
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あり人間性であることを痛感します。 49
いま中国では香港の民主活動家の活動が阻害され、多くが逮捕されています。これまで長期に渡り世界の金融都市として発展して独自の文化を培ってきた香港の人々が苦しんでいます。
その訴えに対して、私たちは正しい答えを返すことができているでしょうか。しかし同時にアメリカでは中国企業の活動が阻害され始め、多くを排除する動きが始まっています。台湾は中国が香港を統制してゆく経過を見て危機感を募らせ、急速にアメリカとの関係強化に向かっています。
ロシアは中国とアメリカの関係悪化が進むなか、年代に終息したはずのアメリカとの冷戦関係を、国力と権力を強化するために利用しようと政策を変えています。多くの国々はコロナ危機に乗じて禁じ手である軍事力増強と核配備の強化を進めています。どこかの国のリーダーが明確な平和と言うビジョンを掲げてゆく勇気が求められています。欧米のリーダーも世代交代の時代に入り、これまでの構図は大きく変化して行きます。
さて、私たちの日常生活と政治はかけ離れたものに感じられると思います。私自身も政治と日常の現実にリアリティを感じることができません。
しかし私たちの日々の小さな日常に目を向けると、小さなほころびが沢山見えてきます。これまで静かだった東京の生活圏の空に、突然頭上のすぐ上を大きな民間旅客機が頻繁に飛び始めました。旅客機の少ない今でさえこの状況だとすると、普通の便数に戻った時の日常生活の静寂は、確実に失われるでしょう。
このような重要なことを、官僚が勝手に決めています。戦前、戦後も同じように官僚達が自分の既得権や政治権力の論理で重要な判断を曲がった個室政治で決めてきました。それが今の政治家にも引き継がれ、間違った政治の病巣となっていますが、私たちにはなす術が無く、大きな脱力感、虚無感さえも感じます。
しかし私たちの未来を考えてゆくと、これから大きくなってゆく世代や世界の未来のために、私たちには残された役割があるように思います。自分や周りの人達のためだけではなく、見えないこれからのために考える時間が与えられました。もし地球に意思があるならば、この不自由な時間も、人類を試すために与えられたのではないかと感じます。
さて、これからの時間を私たちはどう生きて行きましょうか?
鎌倉の平等院永福寺(ようふくじ)
湘南工科大学による「永福寺」復元CG。
鎌倉駅の北東に位置する永福寺(ようふくじ)は、源頼朝によって築かれた大寺院でした。京都・宇治の平等院のように両翼を広げて堂が配置され、手前には大きな池や橋が設けられました。1194年頃に完成し武家のサロンとなった永福寺では、様々なも宴会や儀式が行われました。昭和58.平成8年にかけて鎌倉市が発掘調査を行い、中心の二階堂、阿弥陀堂、薬師堂のほか、複廊、翼廊、釣殿、橋、庭園の規模や配置を明らかにしました。明治の頃、横須賀線で東京と結ばれた鎌倉には、古くから多くの文士が暮らしました。大正から昭和にかけて「鎌倉文壇」をリードしたのが、里見.(とん)と久米正雄でした。里見は関東大震災の翌年、大正13年に自らして設計して鎌倉に自邸を建てます。現在は石川家の所有となり「西御門サローネ」として、毎週月曜日に一般公開されています。
里見邸での新年会。左から真船豊、大佛次郎、里見.、久保田万太郎、川端康成、中山義秀。
建設当時、帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトが話題となっていたこともあり、旧里見邸にも大谷石を使った玄関のファサード、窓や階段の幾何学的なモチーフ、多角形につながった間取り、壁面に埋め込まれたソファ、斜めに造られたレンガの煖炉など、ライトの影響が色濃く見られます。
母屋に組み込まれた爽やかなサンルーム(左)は、兄・生馬の稲村ヶ崎の別荘(イタリアの生糸商ヴィヴァンティによる)に影響されたと考えられています。
兄の有島武郎、有島生馬とともに芸術家兄弟として育った里見.(山内英夫)は、雑誌『白樺』創刊に参加し、志賀直哉と親しく遊びました。泉鏡花に師事して文学を学び、代表作『安城家の兄弟』(1927年)には、鎌倉での家族生活や兄・武郎の情死、愛人菊龍の家で関東大震災に遭遇し、鎌倉の家族と分断されたことなどが赤裸々に綴られています。
母屋の隣には、京都の志賀直哉邸を手掛けた棟梁を呼び、高床式の茶室が増築されました。高い位置から庭の景色がよく見えます。旧里見邸は建設当初から、生ゴミを利用した調理用ガスの発生装置や汚水浄化層など最新機器が導入されていました。廊下の天井をよくみると一部に「白樺」が使われ、屋根は茅で葺かれています。
数寄屋風の茶室。畳は京間になっています。簡素に見えながら天井杉板の柾目、板目を使い分け、壁の竹小舞を見せるなど細部に凝ったつくり。材料も吟味されています。水屋が右手に位置するため、茶室は非勝手になっています。
三方を山に囲まれた鎌倉にとって、海は唯一開けた空間。その港は遠く大陸につながっていました。
大陸につながる海
観光客で賑わう材木座海岸。浜辺の先に見えるのが、現存する世界最古の港湾施設といわれる「和賀江島(わかえじま)」です。1232年頃、伊豆や相模から石を船で運び、浅瀬を埋め立てて港が築かれました。当時から鎌倉への物資輸送は船が中心でしたが、遠浅のため座礁する船も多く、勧進僧往阿弥陀仏の提案で港の建設がすすめられました。港の管理は極楽寺によって行われ、遠くは南宋の交易船も出入りしていたと思われます。現在、満潮時には石積みはほとんど隠れてしまいますが、陶磁器などの交易品が見つかることも珍しくありません。
Vol.14
原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
海の泡の ひとつぶ ひとつぶ
に人魚は音符をつめました
裏切りの若宮大路
由比ヶ浜から鶴岡八幡宮への参道「若宮大路」。鎌倉時代の海岸線は今より100.500m入り込んでいて、「一の鳥居」付近が海岸線だったと考えられています。頼朝は京都の朱雀大路を参考に妊娠中の妻北条政子の安産を祈願し、現在よりも広い幅33m、長さ1.8kmの大通りを造営しました。それは今も鎌倉の背骨として生き続けています。
若宮大路の「鎌倉市農協連即売所」は昭和3年の発足。「ヨーロッパでは、農家が野菜などを決まった場所で直接消費者に販売している」という外国人牧師の話がきっかけとなり、今も鎌倉と横浜の農家が共同で運営しています。朝8時頃から夕方まで、毎日新鮮な野菜が販売されています。
若宮大路の特徴である中央の「段葛(だんかずら)」。鎌倉時代には、前浜、西浜とよばれる広大な湿地が広がり地盤が悪かったため、一段高い段葛が設けられたと言われます。今は沢山の店舗が並ぶ目抜き通りですが、鎌倉時代は聖なる道として、建物は若宮大路に背を向けて建てられ、大路を中心に武士の館や役所、商売屋、花街が形成されていきました。
鳩サブレーで知られる「豊島屋」本店2階の展示室「鳩巣(きゅうそう)」には、本店建替え時の発掘品が展示されています。鎌倉時代には中国・龍泉窯の青磁など「唐物」が流行し、扇や硯、烏帽子、紅皿も沢山出土することから、優雅な生活スタイルが伺えます。武士はしだいに貴族化し、若宮大路周辺に居館をもつことがステイタスシンボルとなっていました。
武士の居館は140坪ほどの広さで、初期の書院造が生まれ、畳はまだ部屋の一部だけに敷いていました。一方庶民の建物は、掘立て柱や竪穴式の四角い建物でした。鎌倉に多い方形竪穴式住居は、地面を四角形に掘った半地下式の建物で、倉庫や作業場と思われます。鎌倉で重要な場所が、道の交差する「辻」でした。辻には篝火が焚かれ、物売りや演芸、説法の場となりました。辻や浜辺、川岸は「無主、無縁の場」であり、人間の道理とは切り離された自由な場と考えられたのです。1199年、源頼朝が53歳で亡くなると、幕府は有力御家人による集団指導制(合議制)で政治を執り行います。そのなかで勢力を伸ばした北条氏は、名超、山内、極楽寺、六浦といった交通の要衝に建長寺、円覚寺などの臨済宗寺院を置いて、都市の基盤を固めました。その過程で2代目将軍となった源頼家は、病気を理由に母政子によって修善寺に幽閉され、暗殺されます。若宮大路は北条政子、源頼家の無事を願って造営されましたが、北条家によって頼朝の血脈は絶えていくのです。
頼朝の墓
前号のイラストでは、魚の骨や貝殻、肉の骨などの食べかすが床に投げ捨てられている様が描かれている。これは宴の第一部である食事宴席(デイプノン)がそろそろ終わりという場面を描いたもので、この場面の後、宴は休憩時間に入る。
その間に奴隷たちが部屋の床を掃き清め、少テーブルの上を片付け、カウチを整え直し、ワインが満たされた大きな酒壺クラテールからワインをサーブできるように準備する。参会者たちは一旦部屋を出て、頭にかぶる冠(月桂冠状でギンバイカなどを刺して飾った)を新たにし、香油や芳香を染み込ませた軟膏を肌に塗り、身繕いを整え直して気分一新。掃き清められた部屋に戻って、第二部である酒宴シンポシオンに臨む。鉢巻を締め直して「さあ、これから本番の酒宴だ!」という感じ。
では、いつ頃からギリシア人はこうした宴席を行うようになったのか。古代ギリシアの男たちの宴席、それを言葉で綴った最も古い時代の代表例として挙げられる定番がある。紀元前8世紀頃活躍したと推定されているホメロスの作品『イーリアス』と『オ
デュッセイア』という2つの長大な叙事詩だ。共に戦う武将の英雄譚であるゆえ、そこに描かれる宴席は、「英雄たちの宴席」ということになる。
では、これが後の時代、紀元前7世紀末から6世紀前半にかけて新たに花開くことになる2部構成のシンポシオン宴席の祖先と言えるのだろうか?
実は、両者の間には、決定的と言っていい断絶が幾つか見られる。まず、ホメロスの叙事詩の宴
席では、参会者は徹底して男(将兵)のみで、部屋で横臥することなく、座って会食している。その宴席は日中開かれる。使用される部屋が邸宅の日常の食堂であるメガロン(ダイニングホール)で、酒と料理は、同時にサーブされている。
これに対して、シンポシオンはどうであったか。参会者はカウチに横臥しての飲食。開催は夕暮れから夜に掛けてであり、場合によっては明け方まで続くことも。開催場所は、アンドロンと呼ばれるシンポシオン専用の部屋。そして、宴席は前半の食事宴席
(デイプノン)と、休憩を挟んで後の酒宴「シンポシオン」という二部構成となっていて、後半は文字通りの酒宴だった。
そして何より異なるのが参会者の顔ぶれ。シンポシオンでは、武家に生まれながらもすでに貴族化した男たち、都市国家ポリスの政治家や顔役、哲学者などの文化人、さらには招かれたわけでもないのに宴席に押しかける「招かれざる客」まで。また、酌婦はもちろん笛や竪琴を奏でる女性楽師や踊り子、そこに遊び女が侍るのが通例だった。要するにシンポシオンは、ホメロスが描く
「英雄たちの宴席」とは大きく雰囲気が異なるものだった。
30では、紀元前6世紀以降広く行われるようになる酒宴シンポシオンは、いかなる流れで進行した宴席だったのか。まず宴席進行役(以下、宴席ディレクター)の役割が重要だった。これが必ずしも宴席の主催者(会場の邸宅の主)とは限らないというところが面白いところで、宴席経験の豊富さや社会的地位そして人柄が重視されたようだ。後のローマ時代に至るもワインは水で割って飲むのが当然とされていたが、シンポシオンでは宴席ディレクターの考えにより、混合割合は1対1から1対3くらいまで幅があった。単に水で割るだけでなく、蜂蜜や香草ときには松脂を香り付けに混入させて味わいを深めることが当然とされ、季節によっては山間部から特別に取り寄せた雪(氷)でワインを冷やして供するということまで行われていた。このときワインと水を混ぜ合わせる容器が、高さセンチ前後の大きな縦長の壺で、これをクラテール(混酒器)と呼ぶ。陶製が基本だが、ブロンズ製のものや、例外的に
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銀製のものがあったことは、ヘロドトスの『歴史』に詳しく書かれている。宴席ディレクターは、「今回の宴席はクラテール5杯分で」というように、人数と参加者の顔ぶれに応じて当日出されるワインの総量を決定し、会の終わりまで宴席が乱れずスムースに進行するよう配慮した。もちろん、最後は酔って乱痴気騒ぎ、はては男と女(もしくは少年)が連れ立っていずこかへと消えていく、というのも日常的だったが、そういう宴席はプラトンのような超知識人からは嫌われた。
シンポシオンが習慣として定着して以降ギリシアでは、水で薄めない「生(き)のワインを飲むのは文化果つる野蛮人」という見方が行き渡っていて、その代表として蔑視されたのが、当時黒海北岸に勢力を張っ
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ていたスキタイ人だった。現代の我々など、軽蔑すべき野蛮人の群れ、ということになる。
ただ、ギリシャ人が生のワインを口にする例外的な機会があった。それが「シンポシオン開始の儀式」だ。酒宴を開始するに当たり、大きめの盃に注がれた生のワインを参加者一同で回し飲み、もしくは、それぞれの盃で少量ずつこれを口にし、ここで神に祈りの言葉を捧げるという儀式が行われた。正規の招待客は概ね7〜人ほどまで。ここに招待客の年若き子弟や、前述の「招かれざる客」も加わって、
人近くになることも珍しくなかった。但し、正規の招待客以外にはカウチが準備されず、年若き子弟は床に座して参加。「招かれざる客」は、座ることが許されず立ったままという惨めさに耐えて初めて飲食を許されるという場合も多々あったらしい。実際、前号のイラストでも、奴隷とは思われない姿で、カウチの周りに立ったままの姿で描かれている男の姿が見られる。
この「招かれざる客」とは、いったい何か。かつてはシンポシオンの常連であったものが、何らかの事情で経済的にも社会的にも没落してしまった男たちなのだ。これが「お情けで参加を許される」という感じで、それでも「シンポシオンに参加できること」が都市国家ポリスの中で一定の社会階層に属しているという証となったわけで、悲しくも張り続ける世間体(見栄)ということになる。シンポシオンは、参加者が互いに招き招かれという、贈与と返礼の応酬で成り立っていた世界。互いにそれができる階層であるという一種の同族意識を互いに確認する場でもあったわけで、招いてくれた相手を招き返す力を失ってしまえば、もはや「同じ階層の一員」とは認められなかったのだ。
では、「開始の儀式」の後、酒宴シンポシオンはどのように進行していったのか。次号へと続く。
北鎌倉駅を降りてすぐの臨済宗大本山「円覚寺」。1889年、軍都横須賀と帝都東京を結ぶ横須賀線の突貫工事のため、境内の池「白鷺池」は線路で境内と分断されています。日本へ禅宗を伝えた栄西(ようさい)は、12世紀に宋に2回留学し禅宗を日本に持ち帰ると、鎌倉幕府の庇護をうけ普及に努めます。14.15世紀に禅宗と鎌倉幕府は深く結びつき「京都五山」(天龍寺、相国寺、建仁寺、万寿寺)にならった「鎌倉五山」(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)を形成しました。
円覚寺は夏目漱石をはじめ著名な文人が参禅しています。漱石は円覚寺三門をモデルに『門』を書き、参禅の様子を『夢十夜』に残しました。
『門』 夏目漱石 1910年彼の頭の中をいろいろなものが流れた。そのあるものは明らかに眼に見えた。あるものは混沌として雲のごとくに動いた。どこから来てどこへ行くとも分らなかった。ただ先のものが消える、すぐ後から次のものが現われた。そうして仕切りなしにそれからそれへと続いた。頭の往来を通るものは、無限で無数で無尽蔵で、けっして宗助の命令によって、留まる事も休む事もなかった。断ち切ろうと思えば思うほど、滾々として湧いて出た。
北条貞時が寄進した鎌倉後期1301年、物部国光の制作の巨大な梵鐘(国宝)。鎌倉時代、禅僧と幕府のエリート層によって、中国の散文、詩が探求され、鎌倉独自の「五山文学」を生み出します。自然と調和した簡素な美意識から、絵画、庭園、茶道など様々な芸術が鎌倉で育まれました。
円覚寺は1282年、鎌倉幕府8代将軍、北条時宗によって招聘された宋の禅僧「無学祖元」によって開山しました。時宗は、建長寺を創建した父・時頼にならい、蘭渓道隆の弟子を宋に派遣して、天童寺の首座を努めていた無学の招聘に成功したのです。
当時の中国はモンゴル帝国からの侵略をうけ、無学の来日はその迫害から逃れる意味もありました。帝国の勢いは蒙古来襲となって鎌倉幕府にも襲いかかります。その国難に対して無学は「莫煩悩」の3文字を北条時宗に与えたと伝わります。莫煩悩とは「煩い悩むことなどない」という意味で、無学は時宗の精神的な支柱となりました。
円覚寺の創建には、蒙古来襲によって命を落とした全ての霊(敵味方を問わず)を弔う意味がこめられ、僧100人、行者160人を数える大寺院として興隆を極めました。
旧和辻哲郎邸鎌倉市川喜多映画記念館
映画の発展に大きく貢献した川喜多長政・かしこ夫妻を記念する「鎌倉市川喜多映画記念館」。夫妻の旧宅は、もともと哲学者和辻哲郎の邸宅で、東京練馬から鎌倉に移築されました。川喜多長政・かしこ夫妻は、昭和初期から海外映画の輸入をはじめ、『制服の処女』『天井桟敷の人々』『第三の男』『禁じられた遊び』など様々な映画を日本に紹介しました。海外の映画スターをもてなしてきた邸宅は、日本文化を感じさせながら、椅子でくつろげるスタイルになっています。和室には和辻哲郎が使っていた本棚が……。内部は年2回(春・秋)の公開ですが、外観は記念館開館時に見学できます。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
コーネル大学講義てきました。
毎年出る新しいテーマに苦心 ●日本国内で約1年間、コーネル大学 FIMPにおける実
践的な世界標準の経営理論および、それに基づく日本の例年であれば、4月.5月に開催される『コーネル大学・実情に合致した実践理論を学ぶリテール・マネージメント・プログラム・オブ・ジャパン』が、 ●国内トップレベルの講師陣はもとより、コーネル大学教今年はコロナ禍で延期され7月末に再開校されました。受授陣を招聘し直接講義を受け、次代の最先端マネジメント講生の約半分がなんとか出席、あとの方々へはビデオ講義を学ぶ で聴講して頂きました。コーネル大学(CornellUniversity)は、米国北東部の
アイビー・リーグ8校のうちの1校で、ニューヨーク州の今年で11期を迎えた同プログラムは、社団法人日本セルフ・学術都市イサカ(Ithaca)にあります。ニューヨークから約サービス協会(2018年一般社団法人全国スーパーマーケ
280km離れ、車で4時間以上かかります。歴史は古く、ット協会に変更、以下 NSAJ)の 50周年事業の一環と南北戦争直後の1865年に上院議員エズラ・コーネルとアして「食品流通業の次世代ビジネスリーダーの育成」を目イサカンドリュー・ディクソン・ホワイトにより設立。当初から開
的に開校されました。受講生は、食品流通(スーパーマーかれた大学を目指し、性別・人種・宗教・所得等にこだわケット等)・卸売業(ベンダー)・食品メーカー・飲料メーらず、広く多くの人々に高いレベルの教育を行っています。カー等の経営幹部や幹部候補者です。今まで 40名のノーベル賞受賞者を輩出し、なかでも工学
数多くの食品産業リーダーを輩出した米国コーネル大学食/コンピューター科学、ビジネススクール、ホテル経営学品産業マネジメントプログラム(FIMP)と全面提携して、日は有名です。本食品流通業の『業界内大学』を目指し、以下を実践し私が『コーネル大学・リテール・マネージメント・プログラム・
1865年創立、アイビー・リーグのひとつコーネル大学。
講義は日本の教室で行いました。
オブ・ジャパン』で講義することになったきっかけは、日
の「エコストア研究 )以下JSA (本スーパーマーケット協会
会」でした。参加者は主に店舗の空調工事業者、冷蔵ショーケース、レジスター、計量機器のメーカー、生活協同組合の店舗担当、スーパーマーケット開発担当者等 20名ほどで、毎回多彩な議論を展開していました。チェーンストアデザイン等の建築関係者は私一人で、毎年の JSA主催セミナーで、エコストア研究会の成果発表などをしていました。建築は常に総合的視点で作り上げるものですから「お前がまとめて話せ」ということになったのだと思います。JSAの成果のひとつが『2020年のスーパーマーケット業界の課題と展望.シナリオ2020』の発刊(2011年8月)でした。出版に強い使命感を持っていたのが、元ヤオコー常務取締役大塚明さんです。また2015年10月には続編『シナリオ2025』も発刊され、エコストア研究会の成果も一部盛り込まれたようです。その後、大塚さんは NSAJからプログラム・ディレクターとして迎えられました。私は JSAセミナーで「未来のスーパーマーケットの姿」などをテーマに、数回講演しましたが、それが御縁で大塚ディレクターから声をかけて頂いたと思っています。
講義を始めてから6期目となり、従来は「エコストアの姿」、「理念が店を作る」、「最新の店舗 アメリカ編、ヨーロッパ
「MOM’S Organic Store」。ZESを実践しています。
編」など日々の業務に近いテーマを取り上げていました。今期ディレクターから示された講義テーマは「店舗づくり小型店・エコストア」です。受講生からはリクエストや要望の多い課題と聞きましたが、正直難しいテーマです。小型スーパーマーケットの規模は、売り場面積が 1000㎡前後です。やや専門的な話ですが、1000㎡以内であれば大規模小売店舗立地法の対象外になりますので、比較的短時間で出店できます。一方、私が主に携わっているスーパーマーケットは 2400.3000㎡と大型店舗が多く、小型店の経験は少ないのです。そのためいくつかのチェーンの、オープンしたての新しい店をまわりました。そのフィールドワーク(地方を代表するチェーンや都内の多層階店舗視察)を中心に講義を組み立てることにしました。
小型店の売場面積は小さいため、陳列できる商品アイテム
も当然ながら少なくなります。各部門で商品が絞られ、ど
うしたらお客様の期待に寄り添えられるのか、難しい選択
に迫られます。一方ハードの面では通路幅も広く取れませ
んし、陳列什器を高くすれば見通しが制限されます。どの
ようにお客様の回遊性を促進、確保するかが勝負どころと
なります。
そこで講義の論点を、小型店は「チェーンの特徴・主張の
明確な表現」の感じられる店作り、チェーンシンボルデザ
インの重要性、店内を移動するお客様の視線を受け止め
る鉛直面(陳列什器や壁の垂直面)の演出、照度計画等
の解説にしました。
一方「エコストア」は SDGs視点を取り入れ、省エネをもっとアクティブに進め、ZES(Zero Energy Store)の重要性を解説しました。実は本連載 2019年9月、10月号で取り上げたアメリカ・ワシントン D.C.周辺で展開する「MOM’ S Organic Store」では、スーパーマーケットでは非常に難しいといわれる ZESを、自前の巨大なソーラーファームで再生エネルギーを作り出し、店舗に供給するこ
とですでに実現しています。
今回も講義の準備など苦心しましたが、国内外ストアの代表的なビジュアルを中心に、論点を解きほぐして講義させていただきました。
北鎌倉の「星岡窯」魯山人とイサム・ノグチ
北鎌倉にはかつて、北大路魯山人の「星岡窯(せいこうよう)」がありました。大正8年、東京・京橋に美術骨董店「大雅堂芸術店」を開店した魯山人は、一時期、東京から鎌倉に越して、円覚寺の借家に暮らしていました。大雅堂芸術店の2階で「美食倶楽部」を発足すると、骨董陶磁器に美食を盛り付けた演出が好評を得て会員が急増。足りない器を自ら作ろうと思い立った魯山人は、山代温泉(石川県)の須田菁華窯で大量の陶磁器を焼きました。それが北鎌倉「星岡窯」設立のきっかけとなりました。
北鎌倉駅から坂道を登り、「星岡窯」の跡地をめざしました。北鎌倉には、鎌倉時代から続く家が残っています。かつて武士たちを迎えた小野田家の門。近所の人に愛される隠れ家カフェ「ギャラリー&カフェ伊左衛門」を運営しています。
丘の上の神明神社を過ぎ、魯山人が「臥龍峡」と名付けた切り通しの坂道を登ると、左手に山崎小学校が見えます。関東大震災の後、魯山人は共同経営者・中村竹四郎とともに、東京赤坂・日枝神社に「星岡茶寮」を再興。政財界を中心に400名の会員が利用します。その食器や調度品を制作するための場所をさがし、約700坪の土地を借りて「星岡窯」をひらきました。優秀な陶工をスカウトして登り窯をつくり、近隣の古民家や屋敷を移築して、十数年をかけ魯山人の理想郷を築きます。小学校の校庭越しに見える里山が、かつて「星岡窯」のあった場所です。田畑の地形を巧みに利用して古建築を並べ、鎌倉時代の農村のような景色が再現されました。魯山人は東京電灯社長だった小林一三に依頼し、この地域に優先して電気を引いてもらい、地元民から名士として慕われるようになります。
魯山人はここで大量の陶磁器を作ると共に、瀬戸や美濃、朝鮮の古窯をめぐって発掘調査を行い、失われていた古陶磁の技術を復活させました。「星岡窯」には住居となる母屋をはじめ、迎賓館「慶雲閣」、数寄屋茶室「夢境庵」、窯屋、職人住宅のほか、蒐集した名器を展示する「参考館」も建て、「魯山人窯芸術研究所星岡窯」の看板を掲げました。
昭和27年、「星岡窯」で暮らし始めたのが、彫刻家イサム・ノグチと、新婚の妻山口淑子(李香蘭)でした。魯山人のもとで百姓屋に暮らしながら、ノグチは集中的に作陶に取り組み多くの作品を生み出しました。
昭和11年、53歳の魯山人は北鎌倉で一通の内容証明郵便を受け取ります。それは中村竹四郎からの「解雇通知」でした。星岡茶寮の成功により絶頂期にあった魯山人ですが、美術品収集や放漫経営に危機を感じた幹部から追放されたのです。落胆する魯山人を支えたのが「星岡窯」でした。支持者から会社の記念品などの受注をうけ魯山人は息を吹き返します。
ノグチは百姓屋裏の崖を崩して、土をあらわにした作業場を築きます。その暮らしぶりは海外の雑誌にも取材され話題となりました。ノグチは瀬戸、信楽、唐津、笠間、備前など、様々な産地の土、技法を用いた作品をつくり、神奈川県立近代美術館で発表。芸術に対して辛口で知られる魯山人ですが「いかなる形態をとるにしても、その素質の美しさは、これを芸術価値あるものとして許せるものである。……イサムはビカソより美しく感じる。」と評しています。
建物の多くは焼失しましたが、母屋や茶室が茨城県笠間「春風萬里荘(笠間日動美術館分館)」に移築・公開されています。
第
70回LINEの効能
3カ月ほど前、友人の勧めで LINEを登録した。随分前から勧められていたが長いこと断り続けた。いつも携帯を見ていないといけない、返事をすぐに書かないといけないという脅迫感があった。メールやメッセージで事足りているし、返事も自分都合でできる時に書けばいいので、不自由はなかった。友人との LINEデータは、取り次いでくれる友人がパソコンに転送してくれた。がそれも頻繁となり、随分と手間をかけていたことを知り、 LINE登録を決心した。
Webでインストール方法を見つけ、ゆっくり読みながら慎重に進めていった。が、インストールが済むや否や、ドドっと名前が入り込んできた。これにはびっくり、怖くなってすぐに消した。しばらくそろおっとしていたが、「LINEやったの?」と友人から電話があり、長いこと会っていなかった中学時代のクラスメートからは写真付きで「しばらく」ときたのには、驚くというより、仕組みがわからないものに手を出したことを後悔した。全てはなかったことにしようと思ったが、私宛にきたものはそのまま残っているらしい。
電話やメールが来た人には事情を説明し「 LINEはやっていない」ことにして、その後、友人の娘さんから固定電話で、携帯電話の LINE登録をいちから教えてもらい、なんとか使えるようにはなった。
LINEは、ごく一部の人とのやりとりにしている。だんだんと慣れてきて便利さも感じるが、どでかいアイコンや突拍子もない表情のアイコンには未だ慣れず、移行するのは抵抗がある。
コロナ、高温注意警報でほとんど引きこもりの毎日で、人と会う約束もない。携帯はテーブルの上に置いたまま、時折、メールの確認をするが、急用なら電話がかかってくるだろうと、ほとんどそのまま。暑くてへばっていることが多い。ウトウトと昼寝をしていると、携帯電話が鳴った。数少ない LINEをやりと
LINEの効能
りをする友人からだった。「LINE送ったけど見てる?既読がないけど大丈夫?暑さで倒れていないか心配で ……」と、ありがたい電話だった。そう、 LINEは見れば返事をしなくても「既読」になるので、生きている証拠になる。友人が LINEを勧める理由はここにある。コロナ騒動で、人と会うのがままならない。予定は全てキャンセル。約束事も延期延期が続いて、次回の予定も立てられない。連絡を取り合うことを面倒がっていると、だんだん人と関わることが億劫になってくる。
そんな毎日にも慣れてくる。食欲だけは落とさないように努力するが、気力を保つ努力は難しい。「これってコロナ鬱??」かもと自分でハッとする。
そんな時、 LINEで厚生労働省から、「新型コロナ対策のための全国調査」というのがきた。質問項目を追っていくと、最近の状況で「ほとんどのことに興味がなくなっていたり、大抵いつ
もなら楽しめていたことが楽しめなくなっている」というのがあった。
まさにこれ。これって私だけではなか
ったんだ。テレビを見ても半沢直樹以外
は面白くない。本を読んでも続かない。
食べたいものも思い浮かばない。なんだ
かちっとも面白くない。楽しいことは何
にもない。
この落ち込みは、コロナ鬱?と思っていたが、そんな風に思っている人多いんだ。となんだかホッとした。 LINEを入れておいてよかったと、初めてその効能を実感した。
それ以降、グウタラよし、昼寝よし、食べてさえいればなんとかなる。と、随分と気が楽になり、友人から送られる動画にも癒され、自粛生活もほどほどで過ごしている。
先月手作りマスクが送られたが、嬉しいことに今月は別の友人から手作りマスクケースが送られてきた。可愛い柄で和装小物入れにも使えそうなくらいよくできている。今の時期マスクは正直辛いが、こういうもので気持ちが明るくなるのはすごくありがたい。コロナは恐怖ではあるが、怖がってじっとしているばかりでは身が持たない。せめて、人との関わりだけは面倒がらずに、メール、メッセージ、 LINEの返事は書くことにしようと思う。
こんな嬉しい贈り物がくることもあるのだから …………
鎌倉の西部、逗子との境、名越地区に湧く「日蓮乞水」(にちれんのこいみず)。悟りをひらいた日蓮が千葉から鎌倉へ向かう途中、喉がかわき地面に杖を突き刺すと水が湧いたという伝承があります。日蓮が鎌倉で布教を始めた1250年代は、疫病や地震、洪水といった数々の災難に見舞われていました。すでに1220年代から天候異変は始まっていて、1228年には日照りと大雨が繰り返され、台風によって鎌倉御所の建物が倒壊します。また十数回の地震に襲われ、夏に雪の降ることさえありました。1230年「寛喜の飢饉」では、冷夏により荘園で2割ほどの百姓が餓死し京都鴨川は死体で埋まります。この多雨、降雪、寒冷といった異常気象は中国、朝鮮、ロシア北部にも共通し、エルニーニョ現象の発生と考えられています。こうした災難に対し、京都の朝廷は旧来の祈祷を繰りかえすばかりでしたが、鎌倉幕府は備蓄米を放出し、減税を行うなど具体的な対策をとることで勢力を全国に広げていきます。仏教界では日蓮が「立正安国論」を説いて、災害の原因は世間が真実の教えである法華経に背いているためと述べ、鎌倉幕府の内乱や蒙古軍の襲撃を予言しています。日蓮は幕府に弾圧され佐渡に流されますが、その5カ月後、九州博多に数万の蒙古軍が来襲しました。横須賀線の名越踏切から山の方へ上っていくと、鎌倉を敵襲から守ってきた「名越切り通し」があります。京都の九条兼実は日記『玉葉』に「鎌倉城」と記し、三方を山で囲まれた鎌倉の街を城に例えています。山は敵を防ぐとともに交易の妨げにもなるため、幕府は「七切通し」と呼ばれる岩を切削した7ルートの切り通し(極楽寺、大仏坂、化粧坂、亀ケ谷坂、巨福呂坂、朝比奈坂、名越坂)を整備しました。「名越切り通し」は鎌倉当時の様子をよく留めています。切岸、平場、土塁、空堀などが設けられ、敵の侵攻を食い止めるとともに、見通しの悪いよう鉤の手を設け、切り通しの崖の上から平場に潜んだ兵士が石や材木を投げおとし、弓矢で狙い撃ちました。鬱蒼とした切り通しを歩いていると、どこからか「もののふ」の声が聞こえそうです。
三浦氏の館があった横浜国立大学付属小中学校。
道の真ん中には、馬が高速で駆け抜けることを防ぐ石が置かれています。鎌倉の西に位置する「名越切り通し」は、三浦半島を支配した北条氏最大のライバル三浦氏の侵攻を防ぐため設けられました。鶴岡八幡宮の西側、横浜国立大学付属小中学校の敷地には、かつて三浦氏の屋敷があり、北条氏に協力して勢力拡大に貢献しました。やがて北条氏から警戒されるようになると、北条時頼の挑発によって三浦氏は挙兵し、若宮大路を挟んで戦いが始まります(宝治合戦)。破れた三浦一族500人は、源頼朝の墓所法華堂で自刀。三浦氏は滅びました。
観光客で賑わう報国寺を過ぎて水路沿いに進むと、昭和4年に建てられたハーフティンバー様式の洋館「旧華頂宮(かちょうのみや)邸」があります。内部公開は年2回ですが、外観や庭を見学できます(月・火休)。神奈川県内最大級の洋館で(延床約600㎡)、木造3階建て、洋小屋組、外壁木骨モルタル塗り、屋根は銅板葺きです。
庭は左右対称のフランス式庭園で、左右非対称の洋館とバランスよく調和しています。南側の茶室「無為庵」は、昭和46年に東京から移築されました。華頂宮家の始祖博經親王は1852年に知恩院門跡となり出家しましたが、明治元年(1868)の勅命により復飾し、知恩院の山号「華頂山」にちなみ華頂宮の称を賜っています。
!!! 5
T
オリンピックは開催されていたはずでした。この8月をむかえ、最近の出来事を考えあわせてみる。長雨による集中豪雨、急変す
7
る天候、止まらぬ地球温暖化は、極東の地、日本に、いまだかつてない天災を運んでくる。ふと、経済成長期に流行った言葉が脳裏に浮かぶ。「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」、「オー!モーレツ」、「日本沈没」、「わかっちゃいるけどやめられない」先人たちの的を得た言葉に感心するばかりだ。昔、ほのぼの君というあだ名の高校の先生が、社会の授業で語ったフレーズを思い出
Y
す。「片手落ちの成長をとげた日本」。その言葉どおりと思う。
イケイケゴーゴーと号令をかけたらかけっぱなし。後片付けやメンテナンス、苦情が発生した時は他人におまかせ、我関せず。平然とした顔で知らぬ存ぜぬしか言わぬ。
私たちは月上旬、国交省航空局運行安全課にて、氏の上司にあたるらしき氏と会う約束を取り付けた。ヘリが港区のビル街で低空飛行していた現場の証拠写真を見てもらうためである。霞が関へは二度目の訪問となり、コロナ騒動勃発の頃から2カ月が経っていた。受付で訪問先と用件、氏名を記入し、受付を済ませ、入館証を首からぶら下げて階で降りる。フロアーに古い机が不
その 5
青山かすみ
本日、南風なれども
なされたようだ。仕切りのない大きな一室空間ではあるものの、 掃除しましたよ、そんな風に宣言してるみたいと思いつつ奥の方へ。前回よりヒト気も少なく、密になってないことがひと目で分かる。コロナ対応と新年度の異動を機に職場環境の改善が
3
Y
2
随分、見通し、風通しがよくなり、よかったです。
10
前の密々だとほんと危険でした。他局にて人規模のクラス
Y!? 4
ターが発生したので、反省したかしら? ほんとに省庁こそ大改革が必要よ。国交省航空局の改善点と人事異動はいろんな面
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から感じ取れました。電話連絡をとる際、前は内線で直に担当者さんにつながった。けれど月に入ると、まず部署の窓口さ
T 10
ん(女性)が出るようになりました。小型機担当の Yさんとは3月に一度連絡がつき話ました。その後、やれ入院しただの、休みだのと雲隠れ。いつの間にか年度がわりと共に新メンバーへと入れ替わってしまいます。今まで氏ひとりだったはずが、名にもなったんですって へぇ〜やる気満々なのね〜。そんな様変わりを感じながら、運行安全課へ問い合わせを続けたものです。ただ、月から氏を通した幾つかのやりとりなどもあったため、同部署上司と名乗る氏との面談に至ったというわけ。約束は午前時、少し早めに着いた。氏は一番奥の課長席、ひとつ手前の机に座っておいでで、「お待ちしてました、こちらの部屋へどうぞ」と広く明るい会議室へ私たちを案内し、首都圏航空課の氏を伴い入室してきた。密にならぬよう窓に
本日、南風なれども
だけ明快に言い切った言葉がある。
「サワラナイデクダサイ !!!」。写真から眼をそらし、見ようともせず、彼のはっきりしないホニャララな態度にシビレを切らした私が、彼の肩に一度ポンと触れたときの事。とっさに出た氏の自己防衛本能の現れだったんだろう。私は何より氏の反応ぶりにドッキリさせられた。こちらから資料を準備し、それを見てどう思うか聞いているのに「これでは証明できない分からない。モゴモゴ」と、航空法に違反した低空飛行のヘリ側を擁護す
T
るばかり。空の安全を守る課でありながら「写真では高度は分からない。取り締まる権限はないので検察庁にいって欲しい」など
T
と運航者側を守る姿勢しか感じられない。そんな返答では、こっちが納得できぬ。
航空局にこそ立証データがあってしかるべきだし、残し持ってなければ、運行安全課や管制課が存在する意味がないではないか。旅客機のフライトデータも隠さず住民に公開すべきじゃない? 騒音データもしかりである。あなたたちがまっとうに問題なく飛行してるなら、ちゃ〜んと証明して頂戴。最後にそう伝えて一時間ばかり。以上、国交省航空局面談の巻でした。
若宮大路からも近い「壽福寺」ですが、訪れる人も少なくひっそりしていました。頼朝の没後、北条政子は臨済宗の開祖・栄西を招聘し、頼朝の父・義朝の邸宅跡に壽福寺を建立。栄西は幕府の庇護をうけ京都に建仁寺を創建すると、禅宗の基盤を鎌倉につくりました。宋に2回留学した栄西は『喫茶養生記』を記し、茶の習慣を伝えたことでも知られます。
壽福寺境内の借家には、詩人の中原中也や、魯山人の共同経営者だった中村竹四郎が住んでいました。鎌倉に暮らした文人、高浜虚子や大佛次郎の墓所もあります。凝灰岩の岩壁をくり抜いた洞窟状の墓所は「やぐら」と呼ばれ、平地の少ない鎌倉に墓地を作る工夫です。かつて入り口には木戸があり、中を白漆喰で塗った幽玄な空間でした。
北条政子や源実朝(鎌倉幕府第3代将軍)の墓所が並ぶ「やぐら」郡。
洋館を再生したレストラン「古賀邸」。荘清次郎の別荘として桜井小太郎が設計(大正5年の完成)。一時は近衛文麿も暮らし非公開の邸宅でしたが、2015年にオープンしました。
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