落鮎 2020 https://collaj.jp/
時空を超える美意識
GIFU-to
長良の誇り
日本三大清流 長良川
岐阜県内を縦断し、三重県から伊勢湾へ流れ込む清流長良川。全長166km、流域に約86万人の人口を抱え、都市部を流れる川でありながら、高知県の四万十川、静岡県の柿田川とならび日本三大清流といわれる美しさを保っています。
世界農業遺産「清流長良川の鮎」
2015年、2月に「清流長良川の鮎」が世界農業遺産(GIAHS)に認定されました。1300年の歴史ある鵜飼をはじめ、長良川の川漁師たちは、川や森林の環境を守り、天然鮎の種付けなど、資源を増やす努力を続けています。
撮影:HERMINE
鮎漁といえば、鵜飼や友釣りが知られていますが、9月〜11月に行われる「瀬張り網漁」は、秋の風物詩です。川幅一杯に白い布を敷き、ロープで音をたてて、産卵のため川を下る「落ち鮎」を狙います。
布や音に驚いて停滞した鮎を、投網でとらえます。鮎は寿命が1年の魚で、秋に川の中流域で孵化して海に出ます。冬は沿岸で動物プランクトンを食べて育ちます。春になると群れで川を遡上し、若鮎となって中流域〜上流域へ移動。夏は縄張りを作ってコケを食べ成長します。秋になると川を下り(落ち鮎)、中流域で産卵後一生を終えます。天然鮎は1日で体重半分くらいのコケ(藻類)を食べるといわれ、捕れた川の環境や季節によって食味が大きく変わります。鮎の味は、川の味そのものともいえるのです。
岐阜・長良に灯る明かり。
&n
アンドン
&nから見える金華山山頂の岐阜城。夕刻になると、長良川には鵜飼見物の船がやってきます。
▲&nを案内してくれたWebデザイナーの右高英一さん。&nで「絵画教室アトリエレゴット」を運営しています。
&n(アンドン)は、地元の建築家、Webデザイナー、庭師、陶芸家、アーティストなどが結成した「長良川リバースケープ」によって"長良"を楽しむプロジェクトの拠点として設立されました。週に一回、13人のメンバーが集まり、倉庫の掃除からはじめそれぞれの得意分野を生かして準備を進めたそうです。最初に入居が決まったテナントは、メンバーのひとり庭師の田中誠さんが、居酒屋をひらくという夢を叶えた「うかいや食堂」。令和元年、鵜飼の始まる5月11日にあわせてオープンしました。
&nで、様々な人が思いを叶えています。2019年秋オープンした「LALUCANDA(ラルカンダ)」は、ラットゥアーダルカさん、知世さん夫妻のイタリアンレストラン。ルカさんは北イタリア・ロンバルディア州の出身で、ベルガモの料理学校で5年学んだ後、ミラノ、パリ、ロンドンなどのレストラン・ホテルで修行しました。そのとき多くの日本人シェフと出会い、9年前に来日。木津川のリストランテナカモトにつとめた後、岐阜市川原町のラ・ルーナピエーナでパティシエの知世さんと出会いました。
3階客席の梁には、上棟の日付(昭和41年12月)が記されていました。
「日本の野菜、肉、魚、いろいろな種類があります。イタリア料理にマッチして、本当に美味しい」と語るルカさん。日本の新しい野菜、魚を毎日少しづつ採り入れて、オリジナルのイタリアンを作っていきたいそうです。『つばすのカルパッチョ』は、まるで、お刺身のような一皿。ツバスはブリの幼魚で、爽やかな味わいでした。作りたての生パスタ「タリアテッレ」を、奥三河どりのラグーソース、舞茸とあわせて。子どもの頃から「あしたのジョー」や「ドラゴンボール」のファンだったというルカさん。日本の寺院や城も好きだそうです。オープンから約1年、ランチタイムはいつも満席で賑わっています。
ディナーのメインは『バルバリー鴨のロースト』。皿のバルサミコソースが茶庭の飛び石にも見えます。ナポリ名物『ババ』のデザートには、ミツバチの花粉ビーポーレンを載せて。オープンキッチンで腕をふるうルカさんの姿は、まるでショーを見ているよう。特別な夜を感じる満足な気持ちにひたれました。
&nでは、朝市やコンサートなどのイベントが定期的にひらかれ、ショップ同士の交流も盛んです。一般のテナントビルとは異なる、共同体としてのコミュニティが生まれています。
green&flower puharaプハラ
&nの吹き抜け2階にショップを構える「puhara(プハラ)」は、完全オーダーメイドのフラワーショップ。堤晶さんが客の要望を聞きとり、それにあわせた花束をアレンジしています。「好きな映画や生き物のイメージなど、様々な注文に応えるのが楽しい」と堤さん。以前は岐阜市内に店舗がありましたが、改装前の倉庫を見学し、環境のよさから移転を決めたそうです。堤さんのアレンジメント。プハラのブログから転載。
堤さんがオーダーメイド制を始めたのは10年ほど前。生花の在庫を持たず、新鮮な状態で無駄なく提供できるのがオーダー制のメリットです。最近は手頃な価格で、個人宅に花束を届けるサービスが人気。外出が難しいお宅を定期的にたずね、花瓶に飾るところまで手掛けています。「花をきっかけに、色々なコミュニケーションが生まれたのが嬉しいです。&nでは、他の店のワインや焼き菓子と合わせたギフトをアレンジしたり、色々なコラボレーションがしやすくなりました」と堤さん。
岐阜市内を流れる長良川。鵜飼屋地区は、初夏から秋にかけ伝統の鵜飼漁でにぎわいます。対岸に見える金華山には、斎藤道三や織田信長が居城を構え、物流の大動脈である長良川流域を支配しました。
コロナ禍中の不可解? な横丁ばやり
昨年、大阪梅田駅の北側に大型商業施設 Lucua(ルクア)がオープンしました。その地下 2階に、気分やシーンに合わせた『食』を楽しめるフロア「バル &Foods」があります。細長いフロアの一番奥は関西地方でのスーパーマーケット
(以下 SM)の雄、阪急 OASISが経営するキッチン &マーケット(通称キチマ)が核テナントで、スターバックスやとんかつ新宿さぼてんなど有力ナショナルチェーンが入居している「Lucuaフードホール」となっています。元来スタンダードな SMとして評価も安定し、年間成長率も高い阪急OASISが提供する新業態となれば、当然業界内で注目度も高く、私も期待を持って視察に行きました。
梅田駅改札から「Lucuaフードホール」に辿り着くには、エスカレータを乗り継ぎ、細長い通路を延々と辿らなければなりませんが、この通路が実はとても面白いのです。ここは「Lucuaバルチカ」と命名されていて、両側は、複数の焼き肉店、複数の居酒屋、お好み焼き、たこ焼き、ラ
大阪梅田駅、大阪キチマ手前の横丁風通路部。
ーメン、うなぎ串焼き、餃子専門店、寿司屋、居酒屋、ビストロ、中華、エスニック料理、ワインバルや酒販店と、バラエティーにとんだ構成の飲食テナントが通路沿いにズラッと居並んでいるのです。どの店もかなり盛況ですが、その中の日本酒メインの居酒屋などは、平日ですが昼前から行列ができている程でした。それを見て気が付きました。日本有数のターミナル駅至近で高層商業ビルの地下 2階だけれど「ここは今様の横町なのだ!」と。
「横丁と呼ばれる界隈」は自然発生的なものと、意図して作られたものと大きく2つのタイプがあると思います。第 2次世界大戦直後、今日を生きるための物資調達から自然発生的に生まれた「闇市」の跡地型と、シャッター商店街の再構築や新築ビルの利便性や集客力などを意図した「ネオ横丁」とも呼ばれるものです。
「闇市」跡地型としては、JR渋谷駅山手線沿いの「のんべい横丁」、友人達と青い議論をした「新宿ゴールデン街」、学生時代、昼飯を安く済ませるため立ち寄った新宿西口の
「思い出横丁」等でしょうか。JR恵比寿駅の近くに「恵比寿横丁」があります。6年前に事務所を渋谷区東へ移転しましたので帰宅時にその横丁を見つけました。店名看板が並ぶ横丁入口デザインのイメージは自然発生的な匂いがしていましたし、どの店も満席で、細い通路までところ狭しと客と椅子がはみ出していましたので、自然発生型と感じました。しかし雑然としながらある意味一体感もあり、客層が従来の横丁客層よりも大分若かったこと等から、ノスタルジーを感じないこの空間は何なんだろうとも思っていました。
明治通り宮下パークの「渋谷横丁」。
は、かつての公設市場「山下ショッピングセンター」跡に、横丁スタイルの酒場として 2年以上の時間をかけ地元との調整を重ねたすえ、意図して作られた 2009年頃オープンの「ネオ横丁」だったことが分かりました。
5㎡)で13区 .9㎡)〜5坪(16 .一店舗あたり3坪(9
画からスタートして、繁盛を重ねて今では 20区画もあるそうです。コンセプト(こだわりと云っています)は、1.『狭くて奇麗じゃない空間』2.『奇をてらわない手づくりメニュー』
明治通り宮下パークの「渋谷横丁」。
の実現です。コロナ禍前でしたがここが持つ賑わいは半端ではなかったです。3密どころではなく5密、いや7密位の異常に濃縮した活気でした。
今年の 7月、渋谷明治通り沿いの宮下公園跡地に出来た商業施設「MIYASHITAPARK(宮下パーク)」1階に併設された「渋谷横丁」は、北海道食市、近畿食市、北陸食市など北から南までの産直食材、B級グルメ等、日本全
ところがある仕事の基本調査をしている中で「恵比寿横丁」
.3
『ターゲットにこだわらない”たまり場”の提供』
国のソウルフードを集め、手作り感溢れるメニューを横丁ら
しく、気楽に、カジュアルに楽しめる空間に仕立ててあります。
「恵比寿横丁」と同じプロデューサーの企画で、特徴は屋内主通路面両側のお店と公園テラス席と名づけた屋外通路に面した店があり、開放感と季節感を楽しめることです。規模は約300坪(約1,000㎡)、店内1,200席、屋外300席で個性豊かな19店が集まっています。ここで発散されるお客の熱気とエネルギーはものすごいものがあります。
「恵比寿横丁」に勝るとも劣りません。コロナ禍でなければこの状況は当たり前なのですが、集まっている密度と発散状態を見ると、コロナ予防出来ているのか少し気になるところではあります。
もう一つ、新観点のネオ横丁が生まれています。今年の 6月にオープンした虎ノ門ヒルズ「虎ノ門横丁」は、当然計画的につくられた「ネオ横丁」なのですが、ビジネス棟 3階という立地から、前出の 2つの横丁とはコンセプトが大きく異なります。森ビルがディベロッパーで、入居している店舗は、今まで多店舗展開を一切してこなかった東京の名店 26店舗が集められていています。道幅(通路幅)にゆとりを持ち各店の面積を小さくして、店主や調理する人の「顔」が見えるようレイアウトされていました。名物親父に会いにきてつながる、安心出来て節度ある対応をしてくれる機能を持つ居酒屋的店舗の集合体という、結果としての横丁的存在を目指して
虎ノ門ヒルズの「虎ノ門横丁」。
いるのでしょう。営業時間も 23:00までと都心のビル施設として終電で帰れるよう配慮されています。新しい試みとしてはワインセラー、東京の水を使ったジンを製造するブルワリー、ビールサーブ専門カウンター等があり、いわゆる「角打ち」的使い方ができ、好きなお酒を各お店に持ち込むことも可能です。また 3軒以上の飲み歩き専用カウンター、つまり「はしごカウンター」も設けられ、様々な飲み方、食べ方が出来る、お客目線で自由な楽しみ方を発見する、今までにない飲食環境の提供が行われています。
広尾や原宿にも「ネオ横丁」ビルが立て続けに出来ています。コロナ禍での外出自粛が永く続きましたし、各種のGO TO ○○キャンペーンも始まりました。夜間の外出を控えるという、若年層の我慢もそろそろ限界なのでしょう。SNSでのゆるい繋がりもそれなりにいいのでしょうが、集う、情報交換する、議論する、慰めあうなど、料理とお酒をかこんで時間を共有する楽しさは、改めて大切なものだと納得した人も多いのではないでしょうか。疲れたサラリーマン風のおじさん達が、愚痴を言い合いながら盃を呷る姿は今でも横町居酒屋の風情の一つですが、数年後コロナ禍が明けたとき「アフター 5」はどの様なスタイルになっているのでしょうか。リモートワークや ZOOM飲み会によって、アフター 5イベントが姿を消すということは先ず考えられないのですが ……。
3階への階段を上がると、交田(まじた)紳二さんの古美術店「古美術アンドン」があります。交田さんは陶芸家であるとともに、&nを運営する鵜飼屋開発興行合同会社の代表社員もつとめています。
▲ 黄瀬戸(桃山時代)の陶片は大変貴重なもの。
▼ 茶道 松尾流(名古屋)の煙草盆。灰皿は黄瀬戸。
長年、作陶を続けてきた交田さん。&nの設立に関わり、自らコレクションしてきた茶碗、陶片などを扱う骨董店をオープンしました。地元の「金華山焼き」は、江戸末期から昭和初期まで金華山周辺で焼かれた陶器の総称です。濃尾地震など天災によって盛衰を繰り返し、陶土は多治見などから運んでいたようです。上は、林晃三の作品。
▲ 明治の尾張で活躍した加藤石春は、尾張徳川家、板垣退助に愛用され「立田錦」という独自の釉で人気の高い作家です。 ▼3階では、右高さん主宰の絵画教室もひらかれています。
店頭とともに、インターネットオークションを通じての販売も行っています。勉強のためコツコツ集めてきた古い陶片は、オープン時に大量に売れたそうです。「岐阜の旅館・ホテルに宿泊する人は、鵜飼だけでなく色々な理由で集まっていることが分かってきました。&nをきっかけに、色々なニーズを掘り起こしたい」と交田さん。
ノスタルジア・オブ・マッドスタジオ &アトリエ
全面ガラス張りの景色のいい2階に、衣装作家 松田悟(さとる)さんのアトリエがあります。岐阜柳ケ瀬商店街でデニムやバッグの店を営みながら、撮影用のオリジナル衣装を制作してきた松田さん。コロナ禍を機に非対面型のショップを試みようと、数カ月前、&nに拠点を構えました。
松田さんは、コレクションしてきた衣服をレンタルするビジネスも考えているそうです。希少性の高い服を楽しむための新たな仕組みです。コットンや毛織物など素材もストックされています。尾張はかつて毛織物の産地でした。
▼地元の美濃和紙を使ったウェディングドレス。
松田さんは独学で服飾を学び、デザイン画を描いて型紙も自分で起こしています。エプソンの仕事では沖縄ロケを行い、カメラマンが撮影した景色をガーゼ生地にプリントして仕立てました。衣装の制作はスタイリストからの注文が多いそうです。
AREA Tokyoの産学共同プロジェクト始動 AREA Tokyo×武蔵野美術大学
AREAは、若手デザイナーの育成と世界への発信を目的に、製品化を前提としたデザイ 秋のインテリアイベント DESIGNART TOKYO 2020にあわせ、受賞作品発表展
ンコンペ、 AREA Tokyo DesignAwardを初開催しました。今回は武蔵野美術大学工芸 示会が、南青山 3丁目交差点近く「 AREA Original Furniture」でひらかれます。
工業デザイン学科インテリアデザインコースの学生 20名が参加し、夏の 2カ月間をかけて
“ALIENATION”(異化効果)をテーマとした製品開発プロジェクトに挑戦。生み出された 「 AREA Original Furniture」 東京都港区北青山 3 -2-2
作品のなかから、デザイナーなど審査員により 5人の優秀作が選ばれました。 2020年 10月 23日(金)〜 11月 3日(火祝)11時〜 19時
作品のプレゼンテーション会場
▲
▲
優秀作に選ばれた学生5人。椅子、照明、シェルフなどアイデアに溢れた多彩な提案がありました。
THE NOMAD LIFE ザ ノマドライフ アンティーク
1階の「THE NOMAD LIFE」は、名古屋のアンティークショップで10年ほど経験を積んだ矢田和照さんの店。矢田さんは、&nを設計した建築家 門脇和正さんとの縁で&nの計画を知り、家族で名古屋から越してきました。開店から1年がたち、アンティークショップの少ない岐阜での知名度も徐々に上がってきたそうです。
「アンティークショップは、お客様とのコミュニケーションが大切な仕事。商品の背景にあるストーリーを伝えていきたい」と矢田さん。名古屋のショップよりも、ゆったり会話できるのが嬉しいそうです。店での販売だけでなく、内装のコーディネートや施工にも関わり、アンティークな空間づくりへと仕事の領域を広げています。
「&nのメンバーと交流して様々なイベントに関わったり、自ら企画するのも楽しい。岐阜の皆さんは温かく僕らを迎え入れてくれました」と矢田さん。市役所はじめ地元との様々なつながりが生まれています。今の悩みはコロナ禍の影響で海外へ買い付けに行けないこと。平日はリフォーム工事の手伝いなどをしながら、ライフスタイル全般に関わるアンティークショップを目指しているそうです。
▼長良天然ワイン醸造のラベルには鮎が描かれています。
&n設立メンバーのひとり建築家近松慶孝さんは、カウンターバー「カヤック」のマスターになりました(現在はコロナの影響で休業中)。岐阜ではここでしか飲めない珍しいカナダ産ワインや地元「長良天然ワイン醸造」のワインを揃え、地域交流の場にしたいそうです。「昔の住民たちは、本業や家庭以外に、街に貢献する仕事を沢山してきたと思います。&nをつうじて、街や社会ための仕事を増やしたい。個人的には仕事でも家庭でもない居場所が出来たことが嬉しい」と近松さん。
「長良川リバースケープ」の企画によって話題となったイベントが、「長良川鵜飼屋花火大会」でした。コロナ禍により終戦直後から続く花火大会が中止されるなか、実行委員会「あげる会」を結成し、企業や個人、団体の寄付を約500万円集め、ボランティアの手によって日時・場所を公開しない15分間のシークレット花火大会を開催しました。「花火大会は当たり前に開催されるものだと思ってきましたが、予算がどこから集められ、どのように開催されるかを知るきっかけとなりました」と近松さん。
分離派建築会100年展建築は芸術か?
パナソニック汐留美術館(東京都港区東新橋1-5-1) 2020年10月10日(土).12月15日(火)10.18時水曜休館
今から100年前の大正9年(1920)、東京帝国大学建築学科の同期、石本喜久治、瀧澤眞弓、堀口捨己、森田慶一、矢田茂、山田守(後に大内秀一郎、蔵田周忠、山口文象が加入)により「分離派建築会」が結成されました。ウィーン分離派や新しい芸術の世界的な動向を見つめ、建築と芸術の関係を模索しながら昭和3年まで7回の作品展をひらきました。
大正9年、分離派建築会創立時の写真 矢田茂、山田守、石本喜久治、森田慶一、堀口捨己、瀧澤眞弓 写真協力:NTTファシリティーズ
やがて昭和を代表する建築家、研究者になっていく彼らの、帝大時代の卒業制作(東大に保管されている)が展示され、日本的モダニズムの萌芽からその成熟までを、影響を与えた要素と共に順を追って見られる会場構成になっています。本展は2012年から活動する「分離派100年研究会」の研究成果をまとめたもので、コロナ禍のなか、担当学芸員の大村理恵子さんをはじめ沢山の方が困難な状況を乗り越えて実現しました。一方分離派建築会もスペイン風邪、関東大震災といった災禍をくぐり抜け、新しい時代を作り上げていったのです。
Vol.16
原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
月夜を待って 咲く花を ゆらす風はやさしくて
鵜飼楽屋町家一棟貸しの宿
&nの隣には、建築家近松慶孝さんが大正7年築の町家を買取り、一棟貸しの宿に改築した「鵜飼楽屋」があります。&nよりも先に計画され、&n設立のきっかけともなりました。近松さんが町家の売り出しを知ったときは、町家を解体し更地にする予定だったそうです。耐震基準などに適合しない古い町家は、安全のため更地にされてしまうことも多いのです。
一念発起して町家を購入した近松さんは、宿泊施設への改修をすすめました。元々は材木問屋として建てられましたが、現代生活にあわせた住居に改装されていたので、できるだけ建設当時の姿に戻すことを目指したそうです。左官塗りの土壁はなるべく壊さず、耐震補強に制振ダンパーを使うなど、工夫して元のテイストを残しました。またバスルームには長良川流域のヒノキ、スギを使用し、タイルは多治見製、襖紙には美濃和紙を張るなど、地元の素材を多用しています。
細長い町家の特徴である3間続きの和室。フローリングをあえて畳に戻し、本来の姿を蘇らせました。材木問屋らしく、町家としては太い柱・梁が使われ骨太な印象です。箪笥や屏風、絵画などは住人が使っていたものを継承しました。なかには熊谷守一の版画が眠っていたそうです。
夕食はあえて用意せず、地域の飲食店を紹介しています。「宿泊客に長良を歩きまわってもらい、その魅力を感じながら地域の食を楽しんでほしい。今後はもっと、町の体験プログラムを充実したいです」と近松さん。設計の仕事を手掛ける際も、なるべく古い家を改装して、地域の景観を崩さず大切にしていきたいと考えるようになったそうです。
▲カフェ、燻製、古美術など多彩な屋台が並びました。
長良川の川岸に10軒以上の屋台が並んだ「&n夜市riverside」には、沢山の人が訪れました。台風14号の影響で10月15日(鵜飼い仕舞いの日)に延期となり、川原に設けられた桟敷では鳳川伎連や足立由美子さん、佐藤ひろ子さんが参加したコンサートもひらかれ、心地よい秋の川原をみんなで楽しみたいという熱意が伝わってきました。
ドラゴンシリーズ 73
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
コロナ禍のヨーロッパ出張記
の第
第
ヨーロッパではフランス、スペイン、イギリス、オランダ、ス
イス、ドイツ、イタリアなど多くの国々で。コロナウィルス感染
波が
月下旬から
月中旬に掛けて、第
も急速に拡大しています。こんな状況のなか、
11日までスイス、イタリア、オランダに
2
ました。
ののイタリアに入国すると
旅行会社に問い合わせると、ミラノまでの直行便は出ているも
週間の自主隔離措置が行われると言
うこともあって、その前に用事のあったスイスのチューリッヒに行き用事を済ませ、陸路でイタリアに入国することにしました。スイスのチューリッヒ国際空港では、入国前の飛行機の中でコロナウィルス感染に関する書類が配布され、ヨーロッパでの滞在先など詳細を記入して追跡調査が出来るように細かな内容の書類を
提出しました。入国検査の際には日本のパスポートを提示するとスイスでの滞在理由と、その後の滞在国や理由を詳しく聞かれました。日本人がビジネスでの滞在と言うことで入国が制限されることはありませんでした。
チューリッヒではアムステルダムのスタッフ
てレンタカーを借り、スイスとイタリアの国境を越えて約
かけてミラノ市内に到着しました。今年の
心とする北イタリアは、欧州でのコロナウィルス第最も拡大し、多くの重症患者と死者を出しました。
波収束のためにミラノ市民はそれまでの行動習慣を変え街
中の人の大半がマスクを着用し、距離を充分とるようになっていました。
8月のバカンスシーズンに入ってからは緊張感も緩み、感染の
9
10
3
2
1
波、第
波より
月
日から
月
週間の出張に行ってき
名と待ち合わせ
時間
月以降、ミラノを中
波の感染が
1
91
26
10
2
5
2
第
は第
2
1
波もありましたが、他のヨーロッパ各国の感染拡大と比較すると、イタリア
波の経験もあって感染者の拡大を上手く押さえ込んでいる感じがしました。
ミラノ市民の行動は日本の私たちの行動形態とほとんど変わりません。いや、もしかすると日本人よりもミラノ市民の方が敏感に警戒している印象を受けました。打ち合わせや取材の際にもソーシャルディスタンスを守り、人々がマスクをして充分な距離を守っています。
ミラノ滞在後にスイスに戻り、チューリッヒからアムステルダムに移動しましたが、現在、スイスとオランダはヨーロッパの中で最も感染者の拡大している国と言われています。アムステルダムに到着すると、スイス入国と同じように滞在先など詳細を明記した書類を提出しました。しかし、その後はスムーズにアムステルダム市内まで移動してショップ( Time & Style Amsterdam)に到着しました。感染が拡大するなかで、アムステルダム市民のほとんどはマスクを付けていません。自転車がお店の前をビュンビュン走り過ぎますが、マスクを付けていないのには驚きました。その日、オランダの1日の感染者数は6000人に達しました。人口の少ないオランダで6000人というのは、他国よりも高いレベルです。現在は毎日7000人近い感染者数となっており、レストラン、バーなどの飲食店をすべてクローズするよう政府からセミロックダウンの指示が出ました。この対策で感染者が減少しなければ、完全なロックダウンをするとオランダ政府も言っ
3
ています。日間、アムステルダムではショップ最上階にある時計台の下の屋根裏部屋に
2
置かれた、隈研吾氏デザインのベットやデスク、ソファーで快適に過ごしました。ちなみに時計台の中にはシャワー室があって、洗濯機も設置しています。アムス
4
2
テルダムのショップはオランダ人名、ドイツ人、日本人名で運営していますが、これまで感染はなく安全に元気にしています。入り口では必ずお客様の検温を行
1
い、マスク着用を原則としています。距離も充分確保して対応してきたこともあり、
2
日本のショップがカ月間休業した間も、一度も閉じることはありませんでした。
3
そして、アムステルダムからチューリッヒ経由で成田に向かいました。飛行機に乗ると、入国のためにコロナウィルス関連の書類を記入しました。全て英文で書かれた枚の書類で日本での滞在先などの詳細を記入して連絡方法をメール、 L I N E、携帯電話から選択するようになっていました。成田に到着すると入国
2
手続きの前にコロナウィルスの抗体検査を行います。検査スタッフの緊張を感じ、到着した私自身にも緊張感がありました。検査ブースは一人づつ小 141
さく区分けされ、そこで唾液を自分で試験管に入れるのですが、充分な量を採取するのに平均すると5分くらい掛かります。ブースにはレモンと梅干しの絵が貼られ、検査スタッフの方々からもっと入れてくださいと度もアドバイスいただき、こんな状況の中で懸命に働いている方々に申し訳ない気持ちでした。
試験管に検体を採取して〜時間で試験結果が出ます。自分の試験番号を持って、番号の書かれた折り畳み椅子で待機しました。初めは数十人でしたが、飛行機の到着が増えるとともに検査結果を待つ人々が増えてゆき、時間の間に500人くらいまで増えました。
現在、日本は基本的には外国人の入国を禁止していますので、入国できるのは、海外在住の帰国者や外国人も日本に家族のいる人達です。それでも検査結果の待機場は直ぐに一杯になりました。これから入国者が増えて来ることを考えると、全員の検査は難しくなってくると感じました。そして私の検査番号が呼ばれてました。緊張しながら検査結果を聞きに行くと無事「陰性です」と言われて、赤い陰性の紙をもらいました。なんだか今までもらったどんな紙よりも意味ある紙に感じました。それから自動になった入国手続きをして、手荷物受取場でスーツケースを取って無事に日本国内に入ることができました。それから日間の隔離期間を経るまでは自宅隔離待機となり、今も隔離。自宅でこの原稿を書いています。
岐阜市北部、長良の高富街道沿いに、昭和を代表する哲学者久松真一(1889〜1980)の記念館(元住居)があります。『茶道の哲学』、『禅と美術』といった著作からも分かるように、茶道や禅を探求し、哲学と茶道、禅、仏教の関連を分かりやすく説きました。その住居は久松真一の号にちなんで「抱石庵(ほうせきあん)」と呼ばれています。
抱石庵は大正3年頃、久松真一と実父・大野定吉によって建てられました。大野定吉は村会議員をつとめた富農で、茶道、華道、絵画、陶芸などを愛する風流人として知られ大徳寺昭隠禅師から八白庵の号を授かっています。一方、祖父母から浄土真宗を日々伝えられた真一少年は僧侶を志していましたが、成長に連れ近代的な哲学へ興味は移りました。そんななか岐阜中学校長林釟蔵(福沢諭吉の教え子)から西田幾多郎の存在を教えられます。当時、新進気鋭の哲学者として注目された西田幾多郎に憧れ、久松真一は京都帝国大学の哲学科へ進学します。岐阜長良からの京大進学は、当時大変なことでした。哲学を学んだ久松は、大学卒業後、アカデミックな学問に疑問を感じ、西田に悩みを打ち明けます。西田の紹介で京都妙心寺池上湘山老師に師事した久松真一は、「臘八接心」(12月1日〜8日まで7日間不眠不休の座禅)に初めて参禅すると、自己の思想を決定する「無相の自己」の覚証に到りました。
インド・ブッダガヤで座禅を組む久松真一(1958)
▲雑誌『ライフ』1955年5月に掲載された写真。
京都で久松真一の心を捉えたのが「茶道」でした。著書『茶道の哲学』では、茶道と禅は一体であり、茶室は参禅の場でもあると説いています。今も続く京都大学の「心茶会」は、太平洋戦争開戦前夜、昭和16年はじめに茶道を志す京大生が結成した会です。戦時に茶道とはけしからん、という声もあるなか、学生は妙心寺塔頭の春光院に暮らす久松を訪ね指導を求めました。実技面は裏千家第14代家元の淡々斎千宗室宗匠がにない、一丸となって禅と茶道を実践しました。
2階の書院。床の間にはビンロウジュなど珍しい銘木が使われています。掛け軸は西田幾多郎の書です。
記念館は今、久松家を継いだ久松定昭さんによって運営されています。久松真一を慕う教え子やファンのため、12年ほど前に私費を投じて耐震改修工事などを行い(設計:エムズ建築設計事務所三澤文子)、第2、第4日曜日に予約制で公開する記念館としてオープンしました。左の茶碗と茶入は、美濃陶祖12代加藤景秋作の織部茶碗。1957年、ロックフェラー財団の援助で渡米した久松真一は、先に渡米していた鈴木大拙とハーバード大学などで「禅と禅文化」を講義しました。その後ヨーロッパへ渡り、マルセル、ハイデッガー、ユングなどと交流して、禅の世界的な普及につとめました。この碗はその長い旅を共にしたもので、ユングフラウ登山の際も茶を点てたそうです。長く京都に暮らした久松真一は、1974年この実家に戻り、1980年90歳で亡くなるまでの6年を過ごしました。久松定昭さんは子供のころ、家族一緒に、仏間で久松真一「人類の誓い」を唱えたことを覚えているそうです。弾道ミサイル実験が行われた際は、ニクソン大統領に抗議の電報を打つ久松真一の姿を見たこともあるといいます。
〈人類の誓い〉わたくしたちはよくおちついて本当の自己にめざめ、
あわれみ深いこころをもった人間となり、
各自の使命に従ってそのもちまえを生かし、
個人や社会の悩みとそのみなもとを探り、
歴史の進むべきただしい方向をみきわめ、
人種国家貧富の別なくみな同胞として手をとりあい、
誓って人類解放の悲願をなしとげ、
真実にして幸福なる世界を建設しましょう。
京都で料理店「大吉」を営んでいた杉本立夫(泥牛)さんの作品「湖畔」。杉本さんは家族ぐ
久松真一が特に愛用していた加藤景秋作「岩清水」。景秋は兄の林景正とともに古い窯
るみで久松真一と交流し、30歳の頃、久松の影響で作陶を始め骨董業に転身しました。
跡から陶片を拾い集め、織部や志野など桃山時代の作陶を研究しました。
久松真一は1962年正月、NHKラジオ「宗教の時間」で、初夢をテーマとして、自らの仏教観を分かりやすく語っています。
仏教では「無明長夜の夢」という言葉で、現実を夢にたとえる。現実というものを、かえって夢の世界のように、客観性のない、永遠性のない、実のないものとして見ている。
私達は現実のありかたに無知であってはいけない。現実を批判して、その実態を見極めることが本当の人間の知恵であり、その知恵に達すると、こうした無常の世界に留まることはできない。なんとかして本当に覚めた世界というものに出ないとならない。そういう欲求が起こってくる。それが宗教の芽生えであり、悟りへの動機である、
世の中が混乱するほど、修行によって真実の世界に気づかなければならない。覚めたなら、そこが真実の世界。覚めた場所、覚めた時が仏国土(浄土)である。
歴史的な世界に離れて仏国土があるのではない。天国や西方浄土に理想の世界があるわけではなく、覚めた場所が浄土である。
加納白鴎の作品。
▲皿の裏には、ひらがなで「の」というサインが入っていました。
久松定昭さんが、イサム・ノグチから久松真一に贈られた貴重な備前焼の四方皿を見せてくれました。1952年、イサム・ノグチは魯山人と共に岐阜、京都、大阪をめぐり、金重陶陽の指導で備前焼を学んでいます。その成果は同年、神奈川県立近代美術館(鎌倉)でひらかれた個展に出品されました。イサム・ノグチは同時期に、岐阜提灯オゼキのため照明器具「AKARI」シリーズもデザインしています。
久松真一は無数の書を残し、親しい人に贈っていました。最初の著作『東洋的無』(1939)を50歳の時に、以降『茶の精神』(1948)、『絶対主体道』(1948)、『禅と美術』(1958)、『無神論』(1981)、『茶道の哲学』(1987)などを出版。これらは『久松真一著作集』全9巻にまとめられています。その他、西田幾多郎、鈴木大拙の全集出版にも協力していました。
私の場合で言えば、今回のコロナで、レクチャーを中心とする仕事の多くがキャンセルとなり、感染への不安から、外出も大幅に控えるようになって、半年が経過した。その間、何をしていたかといえば、これまでの仕事を全面的に見直し、追いかけている様々なテーマについて今後、何をどう探索していくべきか、腰を据えて考え続けてきた。一日の大半を過ごす書斎は、幾重にも連なる本の壁が部屋の大半を覆うという古本屋のごとき惨状で、その分厚い本の壁の間の僅かな空間に、椅子と机が置かれている。その机の下も本がぎゅう詰めで、足を伸ばすことさえ難しい。こうして完全なる巣ごもり状態突入で、否が応でも、巣に溢れるあれやこれやの本の言葉に改めて耳を傾けることになった。その結果、予期せぬ形で、心の内面に大きな変化が起きた。
長年の間にいつしか積み重なった本の数々。いずれもこれまで追いかけてきたテーマの知識を深めるために買い集めたものが大半だ。西欧食文化史という広大深遠な森が追求対象であるため、関連分野の専門史書はもちろん、詩集、小説、神話、おとぎ話、そして占星術関連まで、分野は多岐にわたる。これまでは、これらの本の中に「情報を求めて読む」 30ことが多かった。レクチャーの準備、文章を書く際の資料として。あくまでも「歴史的事実」を語るための証拠確認のための読書、というよりも本の内容確認。こうした「情報を求めて読む」姿勢では当然、著者の言葉が発する光と熱を、敢えてフィルターで取り去って読むことになる。極端な場合には「事実確認ができれば OK」ということさえあった。
だが今回は違う。「情報を求めて読む」というフィルターを捨て去ったことで、素直にその著者たちの語る言葉と向き合うことになり、それで初めて気が付いた。熱い言葉で語っている著者が少なくない、ということを。考えてみれば当然のことで、元々そうした光と熱を放つ本であるからこそ購入しているのだ。なのに、その著者たちの言葉が発する光に目をつむり、その熱い言葉に耳をふさいで、「情報を求めて読む」ことを続けてきた。その「虚しさ」にはじめて、気がついたのだ。なぜなら、これまで信じてきた「クールな客観的事実の中にこそ真実がある」という信仰が崩れ去ったからだ。結果、多少著者のバイアスが掛かっていたとしても、光を発し熱のある言葉で語られた「著者にとっての事実」の中にこそ「歴史的な真実」はある、そう確信するに至った。
数年前に骨董銀器商の店舗を閉じるまでの年間、1年の4分の1は、欧州もしくは米国で古い銀器を探し回るという暮らしで、旅は私にとって、日常だった。さまざまな場所をめぐり歩いたおかげで、それなりに知見が広がった。世界中どのような場所であっても、実際に訪れてみなければわからない。訪れた場所で実際に経験し、積み重ねてきた旅の実体験の数々。その意味と重みを迷うことなく信じてきた、これまでは。だが、この半年の間に、その考えが大きくゆらぎ始めた。果たして「ある街に旅すること」=「その街を深く知ること」なのか。「どこかに住むこと」=「その街なり国を深く知ること」なのか。それは大きな勘違いではないのか。今強く、そう思い始めている。無論、旅や居住という実体験は、ないよりはあったほうがいいに決まっている。だが、それが「漫然とした薄っぺらな旅や居住体験」であるならば、果たしてどうか。行ったことがある「だけ」、住んだことがある「だけ」。自分自身の体験でも、こうした場合がかなりある。
たとえば、今ご自身が住んでいる場所を中心に、半径4㎞の円を地図上に描いてみるといい。4㎞というのは、年寄りでものんびり歩いて1時間で到達する距離だ。その円の内部に描かれた一点を指し示されたとき、頭の中にその街角の光景をありありと思い浮かべることができる場所が、どれくらいあるか。それが円の面積の半分に及ぶ、とするならば、驚異的な水準ということになると思う。大半の人は、その円の大部分の地域を知らない。仕事を持つ人であれば、そんなものなのだ。それ
30
30
スト、どこであろうと同じこと。まっとうに仕事をして働いている限り、子育てに追われている限り、自身の住む街で「よく知っている」なんて言えるのは、通勤通学路と日常の買い物を中心とする、ごくごく限られた生活圏の範囲に限定されている。居住の実体験なんて、その程度ものに過ぎない。だから「この方はどこどこ在住年でいらして現地の事情に深く通じていらっしゃいます」なんて言葉を額面通り受け止めるのは考え直したほうがいい。これが通るなら、あなただって外国で「この方、東京在住年で、「現地の事情」に精通していらっしゃいます」と紹介してもらえることになるのだから。
だが、この広い世界の中には、こうした街での出来事や人間の実情を、焦点を絞って、光を放つ熱い言葉で語ることのできる人々が存在する。詩人、作家、映画作者、画家などのアーティストだけではない。社会学者、歴史研究者、文化人類学者などの中にも、これができる人々がいる。そうした人々が描き出す、その街と人と社会。それが多少歪んだレンズを通して描き出された情景であったとしても、構わない。その訴える力、対象への深い思い、そこから溢れ出る光と熱。そこにこそ「歴史的真実」へとつながる何ものかが秘められている。薄っぺらな実体験よりも、こうした語り部が描き出す世界に触れることのほうが、はるかに歴史的な真実に近づくことができる。今は心の底からそう思い始めている。
私達は今、インターネットを通じて膨大な情報を入手できる時代に生きている。私がこれまで訪れたことのある欧米の都市については、歩いた通り、訪れた建物、そのほとんどをグーグルマップ上で再確認することができる。それどころか、有名な美術館や教会などは、その内部にまで入り込んで館内を歩き回ることさえ可能になりつつある。薄っぺらな旅や居住体験は、このヴァーチャルな環境下で、かなりの部分代用することができるようになり始めている。であるとするならば、むしろ重みがあるのは、光と熱を発してこれらを語る人間たちの言葉ではないだろうか。自分自身もなんとかして熱い言葉を紡ぎ出すことができるようになりたい。コロナ蟄居の中で今、そんな道を探り始めている。
が三軒茶屋、ロンドンのケンジントン、パリのパッシー、 NCのアッパー・ウェ
Y
岐阜市立中央図書館を中核とする「みんなの森ぎふメディアコスモス」。2階の木造格子屋根には岐阜県産ヒノキが使われ、半透明の天蓋(グローブ)の頂点から自然換気や採光を行い、エネルギー消費を抑えています。設計はプロポーザルで選ばれた伊東豊雄建築設計事務所。
▼ 1階の縦繁格子は、少し太めになっています。
問屋街がさびれると、間口が狭く奥行の深い町家は、倉庫や住宅に転用されました。2000年代に入ると「長良川プロムナード計画」によって電柱は地中化され、住民による「川原町まちづくり協定」が策定されると、建物の高さ、材料、色などを統一した整備が進められました。
材木問屋が多かったことを示す、銘木店もあります。
明治20年創業の川原町泉屋。天然鮎の炭火焼きはもちろん、珍しい鮎の熟れ寿司、鮎ラーメンも人気です。焼鮎の笹巻き寿し、鮎塩焼、鮎うるか焼、若鮎の天ぷら、鮎ぞうすいが揃ったコースは、長良川の味覚を一度に楽しみたい方にオススメ。店舗設計は豊田保之さん(トヨダヤスシ建築設計事務所)です。
菅さんに交代してはや1カ月、苦労人ということで人の痛みは少しはわかるのではと期待したが、所信表明の前に随分と物議を醸し出している。
コロナの自主防衛、夏の酷暑もなんとか乗り越えて、ようやく過ごしやすを感じ始めているが、古稀仲間のメールやりとりは、膝の痛みから旬の野菜献立あれこれに加え、日本学術会議論争、医師会問題、デジタル行政環境、オレオレ詐欺問答、果物泥棒への怒り、と振り幅が大きい。時事問題はかなり過激な発言がとび交い、なかなか割って入れない。新聞を読んでいないとついていけない。時々、「まぁどうでもいいか」と、自嘲気味なため息も発しているが、いやいやまだまだ、物申す70歳美魔女軍団、侮ってはいけない。皆、一線からは卒業しているがエネルギーがあり余っているのか、ここでの政治批判は容赦ない。まぁこちとらは、ちょっと出掛けただけでも2週間の様子見、まだまだ恐る恐るの毎日だが、家に閉じこもっていても、話題に事欠かないのはありがたい。
季節は巡り、庭先の木々も紅葉し葉が舞う。秋の長雨も猛暑に耐えてきた草花にとっては、甘露そのものではないだろうか。と外出も外食もままならない日々を自宅で過ごしていると、庭先のほんの小さな変化もまた楽し。すっかり枝が枯れて夏にはみすぼらしい姿になっていた木、切ってしまおうと思っていたのに、今は葉をつけてぐんぐんと伸びている。花を咲かせずにいた沈丁花も小さい芽が隠れている。ちょっとハサミを入れただけだが、たまの刺激が効いたのかもしれない。それともこちらが気にし始めたので、気取っているのかもしれない。
70の振り幅
真夏にはお隣さんから家庭菜園で作ったというトマト、ミョウガ、ゴーヤをいただいた。トマトは不揃いだがどれも瑞々しい。ゴーヤはゴーヤチャンプルにしてみたが、これは苦くてイマイチ。しかし無農薬の野菜は魅力的。猫の額でもできる野菜作りに挑戦してみようと、畑を持つ友人に聞いてみると、「70過ぎてからはムリ!」とけんもほろろ。それでも色々調べていると、友人から日除けがわりのゴーヤがたくさん出来て配っているけど、あなたいる?というメーが届いた。あのにがさを克服するのはちと無理と断ったが、連日ゴーヤ料理のメールが届く。読んでいるだけでもにがさが口に広がってくる。沖縄で食べたゴーヤは種類が違うのか、とても美味しかったことを思い出す。
それはそれとして、庭で野菜ができるのはなんとも羨ましく、簡単野菜作りをしつこく聞いてみたが、早朝から蚊と格闘しながらの雑草取り、水やり、出来過ぎた野菜のおすそ分け、ご近所付き合い ……などなどスーパーで必要なものだけを買うのとは違う気遣いがあるとのこと。これらを含めて70になってからは「ムリ」とのこと。足腰だけではない。若い時と違って歳を取ると人に合わせることが出来ない。これはよくわかる。妙に納得。毎日採っても採っても実るゴーヤの貰い先に頭を抱える彼女の助言は素直に聞くことにした。野菜ではなく、果物がいいかなぁなんて思って庭を眺めていると、蚊が最後の力を振り絞って攻撃してくる。
慌てて窓を閉めて蚊取り線香をたくが、土いじりは上手にこの蚊とも付き合えなければなるまい。70の手習いの難しさは感じるが、諦めてはいない。好きなトマトを作ってみたいし、レモンの木もいい。ブルーベリーを植えるのもいい、綺麗な花木も眺めてみたいし……と夢見る夢婆さんの懲りない想いは続く。
そう、まだまだ振り幅いっぱいの70。仲間と共に時事問題に高い関心を持って、容赦ない裁断をしながら、湿布薬を塗っての鎌倉史跡散策、贅沢三昧カニ旅行計画と、コロナ収束までメールと長電話でなんとか乗り切りっていきたいと思う。
古い家並みの続く川原町。その一画に、岐阜和傘を扱う「長良川てしごと町家CASA」があります。
▲CASA店長河口郁美さん。オリジナルの和傘袋や和傘立てなど、現代生活で和傘を使う工夫を提案しています。
かつて岐阜は和傘の一大産地でした。江戸時代から岐阜の加納藩は武士に傘作りを奨励し、最盛期の昭和20年代には年間1000万本ほどの和傘を作りました。しかし今「市民さえその事実をあまり知らない」とCASA店長河口郁美さん。その理由のひとつは、京都などへの卸売りが主で、市内に和傘販売店がないことでした。そこでNPO法人ORGAN(理事長蒲勇介氏)が中心となり、和傘を見て、買える店として築100年の町家を改装し2018年にCASAをオープンしました。
CASAには、和傘CASA、ORGAN活版印刷室、スタジオhiyori(写真スタジオ)、株式会社オゼキ(岐阜提灯)が入居し、レンタルのイベントスペースもあります。オゼキはイサム・ノグチがデザインした「AKARI」シリーズで知られています。
岐阜・加納が傘の産地になったのは、長良川流域で良質な材料が揃ったからです。傘の骨になる竹、ロクロを作るエゴノキ、丈夫な美濃和紙、和紙に塗る荏油や柿渋、そして細かな加工ができる関の刃物。大消費地である京都に近いことも特徴です。上は田中美紀さん作の、美濃和紙を柿渋で仕上げた和傘。荏油を塗ると透明感が出て、飴色に光ります。CASAの一室で、田中美紀さんに「糸かがり」の作業を見せて頂きました。岐阜出身の田中さんは大学でスペイン語を学び、通訳を目指していました。国や地域へのプライドを堂々と表現するスペイン人に対し、自分は日本文化について語ることが出来ないと思っていたある日、田中さんは岐阜の傘問屋で、光に透ける和傘の美しさに魅了されます。作業中の傘の骨の本数は44本あり、骨に開けた小さな穴に、決められた手順で糸を通します。糸は骨を丈夫にするとともに美しさを引き立て、パターンによって職人の個性を表現できる場でもあります。和傘のそばで働き続けたいと感じた田中さんは、大学卒業後、傘職人になることを目指します。しかも岐阜では珍しい、全行程を一人で手掛けられる職人になりたいと考えました。和傘の工程は20以上あり、岐阜は古くから分業化によって効率と品質を高めていました。田中さんは各工程の職人の傍らで手を動かしながら、仕事を横目で見て覚え、自分で試すを繰り返し、10年かけて様々な工程を身につけます。昔ながらの職人世界で苦労した一方「当時は優れた職人が沢山いて幸運だった」と田中さん。高齢化が進むなか、分業制の維持は年々難しくなっています。左写真の青い傘「ギャラクシー」は、長良川上流郡上八幡「渡辺染物店」の本藍染めした美濃和紙を張り、長良川流域の素材で作ったCASAオリジナル和傘です。河口さんと田中さんの協働から生まれました。美濃和紙は縦と横に漉くことで繊維が絡み合い、薄く丈夫になります。上写真の「ロクロ」は開閉機構の要となるパーツで、細かい溝に竹の骨を糸で連結します。天ロクロに親骨、手元ロクロに小骨を連結し、手元ロクロを上げることで傘が開く仕組みです。ロクロを作るのは、全国でも長屋木工所の長屋一男さん一人となり、存続が危ぶまれていましたが、最近後継者ができました。とはいえ「機械の老朽化や後継者不足は深刻で今がギリギリの状態」と田中さん。和傘の骨格を作る「繰り込み」、ロクロと骨を連結する「つなぎ」、骨組みに和紙を張る「張り」、和紙に荏油や亜麻仁油など傘油をひいて干す「天日干し」、骨にカシュー漆を塗る「漆かけ」といった作業を行い、完成まで1〜2カ月以上かかるそうです。いま田中さんは子育てをしながら、自宅の工房で月に15〜20本ほどの和傘を作っています。「和紙の魅力を最大にひきだしてくれるのが和傘と思う」と田中さん。手仕事による量産を追求した分業から、ひとりで1本の傘を作り上げる工房へと、和傘産地の変化を担っています。河口さんの傘(右)は現在の傘よりも細く、技術力の高さが分かります。柄の付け根には、職人の名が記されています。
河口郁美さんが、母の花嫁道具として持たされた40年以上前の古い蛇の目傘を見せてくれました。加納のマルト藤沢商店製で、CASAでも同社の傘を扱っています。「偶然にもマルト製の和傘を持っていて、和傘との縁を感じました」と河口さん。「いつかは和傘を使いたいと思っていた」と喜んで買っていく観光客も多いそうです。NHKの番組やネットで紹介される機会も増え、CASAの存在もあって販売数は伸びていますが、需要に生産が追いつかないのが現状。ロクロや傘骨などをつくる職人育成資金をつのるため、岐阜市、岐阜和傘協会によるふるさと納税(和傘などの返礼品あり)も始まっています。
Roche Bobois Design Award 2019 受賞作品展
Roche Bobois(フランス)は、2009年から2年に1度のペースで、若き才能を発掘する「Roche Bobois Design Award」を開催しています。優秀作には製品化のチャンスが与えられ、世界のRocheBoboisで販売されるかもしれない夢のあるコンペ。2019年の開催地として武蔵野美術大学が選ばれ「OLD NEW、NEW OLD」をテーマに、伝統と革新を融合させたオリジナリティ溢れる応募作が集まり受賞作品が選定されました。今回は製品化を目的とした最終モデルが、Roche Bobois TOKYOで世界初展示されます。 Roche Bobois TOKYO(東京都渋谷区神宮前3-35-1)2020年10月23日(金)〜11月3日(火祝)11時〜19時
Roche Bobois TOKYOで世界初展示
TOKA SHELF UNIT Sanako Osawaヤスリシートに発想を得たユニットシェルフ。ORI CONSOLE Soichiro Tanaka薄い大理石のコンソールテーブル。
MARU TABLES BASSES Ryohei Totsuka竹製の脚を湾曲させたカクテルテーブル。
岐阜市白木町の古民家を改装した「そば切りすず野」。前菜、季節の天ぷら、お刺身などをあわせた蕎麦懐石(要予約)がおすすめです。
岐阜大仏黄檗宗 正法寺
和紙からつくられた日本一の大仏
岐阜市金鳳山正法寺の大仏(大釈迦如来像)は、和紙からつくられた大仏として日本一の規模、高さ13.63mを
の外側に竹を編んで大仏を形づくり、粘土を塗ってからお経を書いた和紙を貼って、漆と金箔で仕上げています。18世紀の終わり、相次ぐ地震や天災をおさめるため、大仏建立を決意した11代惟中和尚は、各地を行脚して大仏につかう経本を集めますが、志なかばで亡くなります。遺志をついだ12代肯宗和尚により38年かけて完成しました。
8mのイチョウを心柱として、木製の骨格 .誇ります。周囲1
ほど前でした。世はコロナ禍の只中、区役所 1階のロビーにまで、特別融資や給付金の相談コーナーが設けられており、 9階の特設相談コーナーには大勢の申請者が順番待ちをされていました。
当区役所は増上寺大門と東京プリンスホテルが目印。階の食堂から眺める東プリ周辺には東京タワーも見えて、それはなかなかの景色なんです。ここへ来ますと、数年前、食堂で味噌ラーメンを食べた記憶が蘇る。当時、我々マンションの理事 2名と 4人で環境課に伺い、会議室にて課長さんや環境アセスメント担当者さんとお話をさせて頂いたことがありました。
11
それは向かいの建設工事に関連し発生した様々な問題、アスベストやら、騒音、粉塵など、累積された迷惑行為を伝えるため、必然的に起きた住民からのアクションでした。なにか改善の必要に迫られたなら、行動せねばなりません。相互作用によって、少しだけでもその状況を変えられるかもしれないからです
さて、羽田新航路のお話に戻ります。今年 2月の試験飛行時から、国交省航空局と港区環境課両方に、現場の実情を伝えてきたつもりですが、3月から4月にかけて、年度替わりを挟んだこともあり、港区の対応や回答については、しばらく静観し様子見をしようと
その 7
青山かすみ
日
10
本日、南風なれども
と言う。「へぇ〜、ちゃんと引き継ぎしてるんだ」と、ちょっと感心したものです。
先の質問事項について、文章で回答してほしいと伝えたら、
日付、港区環境リサイクル支援部環境課長の名前入りで
回答書が届きました。今、改めて何度も読み直してみる。この回答文章は、区長の考え方を手短に要約したもので、国の羽田空港機能強化に、港区は区民の理解が得られるよう務めるという考え方を示した文章になっている。区民(国民、都民)はガマンせいということらしい。
いつのまにか季節は南風から北風へと移りゆき、
は数えるほどの飛行にとどまってはおりますが、そのかわり、米国の黒い小型機や消防、警視庁の小型機が航空法を守らぬ低〜い高度でこの辺りをぐるぐる回遊しておりますぞ。
4月
17
10
羽田新航路では、飛行機同士のニアミスや着陸のやり直しが増えています。
月の空襲
【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】