Colla:J コラージ 時空に描く美意識

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時空を超える美意識 https://collaj.jp/親月 2023 軽井沢別荘譚 / あたらしい軽井沢の生き方 保養地から永住の地へ コロナ禍にともなう別荘ブームにより、ここ数年で大きく変わった軽井沢。今から130年以上前、外国人の保養地からはじまり、今は北陸新幹線で東京からわずか1時間ほど。夏の別荘地から冬の避寒地、そして永住の地へと変貌しています。日本には多くの保養地がありますが、軽井沢は別格としてコロナ禍の数年で地価が大きく値上がりしました。美しい自然、利便の良さ、管理のいい別荘地、店舗の充実など様々な理由が挙げられますが、その根本には保養地軽井沢をひらいた外国人宣教師をはじめ、皇族、華族、政治家、財界人、文化人たちが育み、守ってきた歴史的な価値があります。 江戸時代の軽井沢は、中山道の宿場町として栄えました。矢ケ崎川にかかる二手橋から軽井沢宿がはじまり、険しい碓氷峠を越える旅人達が英気を養いました。明治19年に国道(碓氷新道)が開通すると、役割を失った宿場町は急速にさびれます。そこにやってきたのが、東京芝公園 聖アンデレ教会の司祭 カナダ生まれのアレキサンダー・クロフト・ショー師でした。福沢諭吉家の家庭教師をつとめていたショー師は1885年ころ軽井沢を訪れ、カナダのような高原の景色と涼しさに魅了され軽井沢を「屋根のない病院」と名付けました。夏の暑さに辟易としていた外国人達が、その噂を聞き避暑にくるようになります。1895年には外国人のための教会堂「ショー記念礼拝堂」(旧軽井沢基督教会)がひらかれました。 軽井沢の別荘第一号といわれるのが、ショー師によって建てられたショーハウスです。「軽井沢スタイル」のルーツといわれ、1986年軽井沢 100年記念としてショー記念礼拝堂の奥に復元されました。シンプルな木造2階建で、各室をガラス入りの引き戸で仕切り、日本住宅を靴履き用にしたような簡素なプランです。夏場しか利用しないため、壁は薄く断熱されていません。その後、外国人の別荘が次々と建てられ、避暑地にも秩序が大切と考えた外国人により、社交、防災、風紀維持のソサエティとして「軽井沢避暑団」が結成されました。郵便制度を整え、病院をつくって地元の人も受け入れるなど、従来の温泉地とは異なる保養地のコミュニティが形成されます。 テニスファンあこがれの軽井沢会テニスコート。会員制ですがオフシーズンは非会員も利用可能なようです。1929年ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計のクラブハウスが、ラスキン研究で知られる御木本隆三氏から寄贈されました。1917年から続く「軽井沢国際テニストーナメント」(軽トー )は、テニスのオープントーナメントとして日本最古と言われます。 ▲ 江戸時代から続く「つるや旅館」。 心・体・思考の健康をデザインする とっておきの休み時間 10時間目 「新しい生活習慣」 写真&文 大吉朋子 新年に向けて師走は、さまざまな納めの時期であり、なんといっても「大掃除」の時期である。毎年、この行事が来るとわかっていても年末のギリギリ、晦日や大晦日に一気に大掃除をやっていた。2022年の締めとなる掃除も、やはり晦日と大晦日にやるも、例年とはだいぶ違った。 年の終わる頃に引っ越しをした。「引っ越し」は、私にとって本当の一大事である。なんと 35年ぶりのことで、つまり、大人になってから一度も引っ越しをしたことがない。 我が家族は自由というのか、私が子供のころは皆一緒に暮らしていたものの、大学生頃になると、皆それぞれの暮らし方を選び、社会人になるといつのまにか家族で住んでいた家に私はひとりで暮らしていた。都心からはずれた片田舎ではあるものの、車バイクがあればどこでもサクッと出かけられ、都心にも電車で1本。ほどほどに自然もあって、ほどほどの快適さを感じながら住み続けた。それが35年も。 家は年月とともに傷みが進む。ひとりになった時大きくリフォームをして、その後さまざまな修理をしながら暮らすも、当初の頃のような丁寧な掃除はだんだん行き届かなくなった。会社勤めをしていた頃は、家にいるのは朝と夜だけで毎日生活するだけで精一杯。掃除は毎日ちょこちょこやればいい、と言われても、当時の私にはとてもそうはできなかった、とあらためて思う。 気合いを入れてきれいにしようと掃除を始めても、年月が積み上げたものを新品ほどにきれいにはできず、出来る限りやるも限度がある。新しいものをいつまでもきれいに使い続けるというのはなかなかエネルギーがいる。今回の引っ越しで、思いがけず生活にうれしい変化が起きた。 「朝の掃除、ちょこちょこ掃除」が日々の習慣になってきた。 これまでも、それなりには掃除をしていたものの、新しい住まいに移ってから掃除の時間がとても増えた。最初が肝心、と、どこか自分に言い聞かせていたところもあるけれど、きれいな状態に保つためには本当にちょこちょこ掃除すればいいのだと、妙に腹落ちした。 あたりまえと言えばあたりまえ。それでも、「あたりまえ」が出来ていなかった身としては、あたりまえが出来つつあることに喜びを感じる。家事の対価は高額だという試算が一時話題になったけれど、確かにそう思う。暮らしの空間をきれいに保つというのは本当にやることが多い。時間もかかる。きりがない。プロがいるのもわかる。 気がすむ程度に掃除をして、ほどほどきれいに保てていると、気忙しいのに気持ちはとても落ち着いている。手入れがされている快適さとはこういう感覚なのだと、新しい気持ちを味わってもいる。 引っ越して1カ月。まだちゃんと続いている。自分のために暮らしを整える、という丁寧な感覚がいよいよ私にも定着するのでは?と、ちょっと期待している。朝の冷たい空気の中動いていると、カラダも活性化して、とてもとても良い感じがする。 ヨガ数秘学 -大吉朋子 . あけましておめでとうございます。 今年も、ヨガ数秘学がどなたかのお役にたちますように願っております。 2023年1月は 8のエネルギーが流れます。 2023年はパワフルなエネルギーからスタートします。「8」は、生命力、パワー、力強さを表す数字。いきなり全力で突き進んでいくエネルギーが満ちています。お休みモードとは無縁なエネルギー。新年は早々にエネルギッシュに参りましょう。まだエンジンがかかりきらない、という方はしっかり喝を入れて、流れに置いていかれませんように! 今は、がんばれる時でもあります。 2023年 2月は 9のエネルギーが流れます。 「9」は学びを深める数字。ひとつをとことん学びマスターする、達人の数字でもあります。小手先の知識で知った気にならず、自分のエネルギーを使って深く深く学ぶことが大事。人から聞いたことを鵜呑みにせず、自分できちんと調べること。人から聞いたことで知った気になる “知ったかぶり ”にはご注意を。2月は知識を蓄えるのにぴったりの時期です。ぜひ学びの時間を。 【 2月生まれの方へ ワンポイントアドバイス 】 2月生まれの方は「気遣いのひと」。自分のことより相手のことを優先して、自分の事は後回しになりがちです。物事の表側より裏側から先にみていくクセがあるのも2月生まれの特徴で、相手のことをおもんばかる気持ちが強すぎて出てしまうことも。まわりを優先しすぎず(良いことなのですが!)、まずは自分を大事に。自分自身が一人で完全でいることに意識を向けると、おのずと周囲との調和もうまくいきます。 その花柄のワンピースのせいなのかな? 君のまわりに花が飛んでる気がするのもいつもよりなんだか可愛くみえてしまうのも Vol.43 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ 夏の避暑地として栄えてきた軽井沢ですが、一年を通して別荘を利用したり、生活の場として移住を希望する方が増えています。そのためには、冬の寒さの中でも、快適に過ごせる家づくりが欠かせません。標高 900〜1000mの高地にあり、氷点下の日が 3分の1以上という軽井沢は、秋から春まで別荘を閉めるのが常識でした。しかし今『軽井沢を避寒地に』という大胆な提案をしているのが軽井沢建築社です。同社の関泰良さんは 6年前、東京から軽井沢に移住。東京の工務店参創ハウテックで培った温熱環境技術をいかし、自らの生活体験をもとに、一年を通して心地よく暮らせる家づくりを追求しています。オフィスは築 300年以上の古民家(元は牛舎)をリノベーションし、冬でも快適に過ごせるよう温熱環境を整えました。 軽井沢追分エリアの森に、アクセサリーブラン 軽井沢を創造の場に ドBYOKA(ビョーカ)を運営する三田正規さ 暮しを発信する BYOKAの生き方ん、松田陽子さんの自宅兼オフィスがあります。 軽井沢町西部の追分は、かつて中山道・北国街道の分岐点として栄えた宿場町でした。観光客の多い中心部から少し離れ、大型店舗や大病院のある佐久市へ出やすいエリアとして、都会からの移住者にも人気です。アクセサリーブランドBYOKA(ビョーカ)を運営する三田正規さん、松田陽子さん夫妻は、東京から地方へ拠点を移そうと考え葉山など色々な場所を見てまわった結果、新しい生活の場として軽井沢を選び土地探しを始めました。軽井沢建築社の関泰良さんとはその頃からの付き合いで、新居の設計・施工を依頼。2022年6月に完成した新居の住心地や、軽井沢での生活について伺いました。この敷地を選んだ理由のひとつは、利便性のいい県道沿いにありながら他の建物が見えない、森の木々に囲まれた環境だったそうです。カーテンのない窓から、刻々と変わる光の変化を楽しめます。 大切な土地選びと基礎づくり 軽井沢は土地選びが難しい場所といわれます。各エリアで自然環境、利便性、ブランド価値、地価が大きく異なるため、信頼できる地元のパートナーが欠かせません。三田邸の敷地は県道沿にあり、車の利便と自然環境をバランス良く備えた平坦な山林でした。軽井沢建築社では工事の様子をホームページで公開することで施工の信頼性を高めています。寒冷地では特に大切といわれる基礎工事の様子を見てみましょう。 ▲ ▲ ▲ 敷地は雑木林でした。必要最低限の樹木を伐採します。▲ 伐採が終わり、敷地全体が見えるようになりました。 基礎底版を凍結深度以下にしないと、地面が凍った際に基礎が動いてしまう。 ▲基礎底板が地面の凍結深度以下になるよう地面を掘ります。▲ 凍結深度より基礎底板が浅いと、凍結の際に動いてしまいます。▲抜根も終わり防湿シートを被せ墨出コンクリートをうちます。 ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ 基礎の型枠を組み、床コンクリートの鉄筋を配筋します。▲ 配筋が終わると、第三者機関による配筋検査を受けます。▲ 土台と立ち上がり基礎を連結するアンカーボルトなどを設置。 ▲ 基礎がきれいに完成し、構造材が搬入されます。▲ 構造体を組み立てると、家の姿がだんだんと形になってきます。▲ 構造体が組み上がりました。 夫妻がブランドを始めたのは17年ほど前。ネットショップ創成期にセレクトショップのECサイトを立ち上げ、ブログを活用してファンを増やしました。その後、陽子さんが、オリジナルのジュエリーをデザインし、当時は会社員だった正規さんが週末や夜を利用して自宅でジュエリーを制作。二人三脚でブランドを成長させていきました。人気の秘密は、日常の使い勝手を考え抜いたシンプルなデザイン。服装にあわせツーウェイ、スリーウェイに使え、自分でサイズを調整できるリングも揃っています。 7年ほど前からは、情報発信をInstagramに移行し、フォロワー2.5万人を越える人気ブランドに成長。全国のセレクトショップでも扱われるようになりました。ビジネスの拡大とともに東京の自宅兼オフィスが手狭になったものの、アトリエ、オフィス、ギャラリー、住居、撮影スタジオといった沢山の役割をもつ建物を東京に持つことは難しいと考えたそうです。 事務作業やアクセサリーの発送などを行うオフィス。あえてオフィスチェアを置かず、ヨーロッパの名作チェアを揃えた家庭的な空間で、デスクの向こうには森の景色が絵画のようにひろがります。 オフィスの奥にある正規さんの工房。建設関係の仕事を20年以上続けていた正規さんでしたが、陽子さんのジュエリーづくりを手伝ううちに、その魅力にはまり、彫金・ロストワックス製法などを学んでいったそうです。 設計の際はInstagramを考慮して、撮影の背景となる壁面や大きな引き戸を設けたり、雨でも撮影できるようデッキに屋根を付けたりと、スタジオの役割を重視しました。東京では人や建物が写ってしまい撮影場所に苦心したそうですが、ここはどこを撮っても絵になってストレスが無いそうです。新居で撮影するようなってフォロワーは3万人を超え、4万人に迫る勢いです。愛用のライカが空間の柔らかな陰影を捉えます。 1階の床はフラットなモルタル土間。天井も下がり壁のないフラットな仕上がりで、照明器具も最小限に抑えています。暖房には1台のエアコンで全館冷暖房を可能にした、特許取得の「パッシブ冷暖システム」を採用し、空間全体を均一な暖かさに保ちます。 寝室と洗面、バスルームはシームレスにつながり、大きな窓から森の木立が見える高原リゾートのようなライフスタイルを実現。朝起きて顔を洗い、身支度を整える動線がスムーズになりました。「東京の喧騒によるストレスがなく、ゆったりとした暮らしが余裕を生み出してくれます」と陽子さん。 学校で建築を学んだ三田夫妻は、この家のプランを自分たちで描きました。さらに軽井沢建築社とのコラボにより、ディテールまで考え抜かれたデザインが実現しました。大型引き戸のレールは天井と床に埋め込んだフラットなデザイン( )。パッシブ冷暖システムの吹出口ガ ラリは、クールな印象の金属製( 2)。継ぎ目なく仕上げられた人工大理石製洗面ボールと洗面カウンター( 3 )。風呂や換気システムなどのコントローラーは、小さな扉で壁内に隠しました( )。ドライヤーはコンセントを取り付けた扉の中に収納でき、散らかりやすい洗面がすっきり( )。 ▲ゴミ箱はキャスター付きで、蓋が電動でひらきます。 背面の大型収納は、引き戸を全面開口できます。冷蔵庫、食器、調理家電からゴミ箱までを収納して、急な来客のときも、ここに片付けることですっきりとしたキッチンを保てます。陽子さんがよく買い物をする「つるや軽井沢店」(右)は、他県からも客が来る人気のスーパーで、車で10分ほどの近さ。食材調達の不便はないそうです。 ▲裏庭の屋外照明など、新しい計画が今も進行中です。 2階にはゲストルームのほか、洗濯機や洗濯干しスペースあります。1階は生活感をなるべく出したくないという陽子さんのアイデアでサニタリーを2階に設けました。今春にはギャラリーを自邸にオープンする予定です。ジュエリーの創造、情報発信、お客様とのつながりと、軽井沢への移住によって夫妻の人生は新たなステージに登ったようです。 コラージの誌面には郷愁を誘う雰囲気があふれている。子供の頃いつかどこかで、見たことがあるような、ないような、昔懐かしい何か。心の奥底にしまわれていて、長い間眠りについていた遠い記憶。そういえば、昔あったなあ、こういう雰囲気の建物や街が。そんな記憶を呼び起こすきっかけとなる風景や町並みや建物の写真が毎号紹介されている。その建物や町並みの選択には、しかし、ひとつの明確な個性がある。それが何かといえば、紹介 される建物の多くが、明治・大正・昭和初期を中心とする ほどの間に建てられた建物が中心となっている、という点だ。西 暦で言えば、一八六八年(明治元年)〜一九三八年(昭和 本年2023年を起点として考えると、今から156年前〜 前の間ということになる。歴史的な大きな視点に立つと、この 年間は「明治維新の時代」であり、我が国が猛烈な勢いで江戸の衣を脱ぎ捨てて「近代化」(西欧化?)に邁進していった時代だった。ではなぜ、その間に建てられた建物に私たちは郷愁をおぼえるのだろうか。 それは、この時期に建てられた建物が、「江戸の衣」を完全には脱ぎ捨てきれていなかったためだと思う。その大半は一見洋風ながら「雰囲気洋風」とでもいうべきものであって、決して、駒場の加賀前田公爵邸や岩崎邸のような「本格的洋建築」ではない。これら「一見洋風」もしくは「江戸洋折衷」の雰囲気。これが昭和初期までは確実に都会には溢れていた。昭和初期の和風アールデコなんて、その最後の代表だと言っていい。例えば竹久夢二の世界。この江戸の衣、これが極めて洗練されたものであったがために、その豊かさを知る人ほど、これを捨て切ることが出来なかったのだ。たとえば永井荷風や谷崎潤一郎のように。そして現代を生きる私達の暮らしの中にも、江戸の衣の断片が、今も様々な形で生き続けている。一種の深層意識みたいなもので、ふだん意識することがないだけだ。 コラージは、こうした「雰囲気洋風」もしくは「江戸洋折衷」の建物を、全国各地を訪ね歩いて丁寧に発掘し、毎号私達に提示 13 年間 年)頃。 年 70 85 70 してくれる。いわば、プルースト『失われた時を求めて』の町並み・建物版だ。その見事な映像と的確な人物・建築・地域の紹介文でコラージは、私達の深層に横たわる、江戸の衣の存在を目覚めさせる。だから郷愁を感じる。いや、感じさせられる。「あっそういえば、あの頃……」コラージは私達の心の奥底に眠る「痛いところを突いてくる」雑誌なのだ。 こうした「雰囲気洋風」建物群が、バブル以前まではまだ、東京のあちこちに残っていた。私が知る範囲で、小さなビルで言えば、銀座・日本橋・新橋・築地界隈。洋館なら、六本木〜赤坂・狸穴・ホテルオークラ周辺・麻布や青山の一部。例えばアークヒルズとミッドタウンの大規模再開発が行われた地域には、子供の頃の思い出が山ほどある。その昔都電が走っていた六本木交差点から溜池方面に向けて坂道を下り切ると、今井町の都電の停留所。カステラの文明堂があり、いつも甘い香りが漂っていた。そこから今のアークヒルズがある一帯の丘陵状の斜面には、不思議な雰囲気の洋館や塀の中が見えにくい邸宅が、斜面に点在していた。これら邸宅の庭の木々が鬱蒼とした細い坂道を歩いていくと、赤レンガの霊南坂教会の建物に出くわす。すると外国人の姿も目立ち始めて、異国というか異界的 な雰囲気があった。これはアークヒルズの反対側(赤坂側)の斜面や、現在のミッドタウンの裏側一帯についても同様で、それこそ「お屋敷」という言葉にふさわしい建物があちこちに点在していた。また、現在は六本木ヒルズとなってしまった一帯から有栖川公園そして広尾へと下る一帯にも、数は少ないが、邸宅がポツポツと隠れていた。それが今はもう、ほとんど残っていない。だが私の頭の中には、あの頃の地域の雰囲気というものが深く刻まれている。 このように誰しも自身が暮らした住居と地域に関する記憶は、かなり正確に覚えているものであって、そう簡単には忘れない。小中高一貫校に通っていたという人でもない限り、小学校3年生の時の同級生の顔と名前は、その大半を忘れているはず。ところが、その時点で自身が暮らしていた家の間取り、居間・台所・食堂・風呂・トイレ・階段はもちろん、自分の部屋であれば家具の配置から窓の位置まで、ほぼ正確におぼえている人が多い。さらに、家から一歩外に出て、家の前の道路、隣近所の家々、と進むにつれて、少しずつ記憶が不鮮明になっては行くが、それでも、通った学校、最寄り駅とそこまでの道筋、買い物に行かされたお店、お祭りのある神社、大きなお寺、交番、その他周囲で目立った建物などは、その位置をかなり正確に思い出すことが出来るはずだ。重要なのは、こうした記憶は基本的に、人間の五感の中で最も感受性が高いと言われる視覚的な映像、あえて言えば、「空間感覚を伴う映像」として記憶されている、という点だ。また、この映像記憶は、覚えようと意識して記憶したものではなく、人間の五感に基づく、いわば「本能的な記憶」とでも呼ぶべき性質の記憶だ。したがってこれは、入試や資格試験のため一生懸命に努力して意識を集中して頭に叩き込む「意識的な記憶」とは、まったく性質が異なる。 困ったことに、一生懸命努力して頭に叩き込んだ「意識的な記憶」は、常にメンテナンスをしていないと、いつか忘れてしまう。仕事で獲得した一種の技術的な記憶は、特に事務職の場合、仕事を離れてしまえば数年で忘れてしまう。これに対して、人間の五感を通じて、日々の暮らしの中で自然に獲得し蓄積された「本能的記憶」は、人間の体全体に刻み込まれることで、そう簡単には、忘れない。長い回り道をしたが、ここからが本題だ。コラージの誌面は、私達の「本能的記憶」 に働きかけてくるのだ。自身が暮らす界隈の建物や町並みは、私達の記憶の原点であり、基準となるもので、自分自身が何者であるかを確認する上で、非常に大切なものなのだ。例えば今大論争の種となっている、神宮外苑の銀杏並木周辺の樹木伐採問題。あの再開発を推進した中心にいる選良たちの中には、おそらく、ただの一人も、青山・外苑・赤坂地区で育った人、この地域に長く暮らした経験のある人がいないのだろう。東京ほどの大都会であれば、新陳代謝が必要なこと、言うまでもない。だが、都市の記憶として大切なモニュメントは、決して資本の僅かな利潤のための生贄としてはいけないと思う。なぜなら、こうした都市の大切なモニュメントは、私達ひとりひとりの心の奥底に眠る「本能的記憶」の重要な一部分を構成しているからだ。これを失うことは、自身の基準点を失うことに通じる。基準点を失えば、あとはデラシネと化して虚しく漂うだけの存在になってしまうではないか。それも、誰かの経済的な利潤のために。「生態的な記憶」としての「味覚と食感」の話を書くつもりが、なぜかこんな話に。2023年は誠にもって先行き不透明なり。故に、我らが心の原点を守るためにも、頑張れコラージ! 軽井沢聖パウロカトリック教会 アントニン・レーモンドの望郷 旧軽井沢銀座の近くに建つ軽井沢聖パウロカトリック教会。フランク・ロイド・ライトの助手として来日し、そのまま日本に残った建築家アントニン・レーモンドにより昭和10年に設計されました。生まれ故郷に近い、スロヴァキアの教会をモチーフにした急勾配の三角屋根や独特な鐘楼が特徴です。栗の丸太を使ったむき出しの天井には、X型に組んだ「鋏型トラス」見えます。ノエミ夫人やジョージ・ナカシマが内装や家具を手掛け、堀辰雄の随筆「木の十字架」に登場するなど建設当初から話題の教会でした。レーモンドは軽井沢で多くの別荘建築に携わりましたが、第二次世界大戦中は一時、米国に帰国していました。大戦中の軽井沢には帰国しない米国、英国などの人々が集めら、厳しい監視下で暮した歴史もあります。 3年ぶりのクリスマスライブ KEI AKAGI + SHUNYA WAKAI JAZZ LIVE AT TIME &STYLE MIDTOWN クリスマスの六本木。TIME & STYLEMIDTOWNで毎年ひらかれていたケイ赤城さんのクリスマスJAZZライブが、3年ぶりに開催されました。この日のパートナーはジャズベーシストの若井俊也さん、久々の再会に、打ち合わせにも熱が入ります。 ケイ赤城さんは1953年仙台で生まれ、牧師の父と共に4歳から12歳までを米国で過ごします。5歳から家族のすすめでピアノを習いThe Cleveland Music Settlementでピアノ理論や音楽史を学びました。帰国後、青森県弘前 東奥義塾高校の先生に影響されJAZZに目覚めます。その頃聴いたマイルス・ディビス「ブルー・イン・グリーン」が演奏されました。 国際基督教大学(ICU)で哲学と作曲学をおさめたあと、再び渡米した赤城さんは、カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校の哲学科博士課程に入学します。その頃は大学教授を目指していたそうですが数々のバンドから声がかかり、プロミュージシャンの道を歩くことになります。そして1989年、高校時代から憧れてきたマイルス・ディビスグループに参加。晩年のマイルスとの2年間は、赤城さんに大きな影響を与えました。この日はマイルスに捧げたアルバムNew Smiles And TraveledMiles(1998年)からの1曲も披露されました。現在赤城さんはロスに在住し、カリフォルニア大学アーバイン校の教授としてJAZZ史や作曲技法を教えています。コロナ禍によるリモート講義は、自分にとっても学生にとってもつらかったと語ります。 赤城さんと若井さんは10年以上のおつきあい。3年の空白を感じさせない、息のあったセッションでした。1988年生まれの若井さんは、3歳からピアノや作曲を学び、明治大学でコントラバスに出会います。2013年にはケイ赤城トリオのレギュラーとして国内外のツアーに参加。2021年12月にはピアニスト赤坂拓哉さんとのデュオでアルバム「StandardsDays」「StandardsNights」を2枚同時発売しました。久々にリアルなライブに参加したお客様も多く、人が集うことの大切さ、それをつなぐ音楽の至福を、あらためて感じたクリスマスでした。 卯年年明け元旦のお天気は、それはもうこのうえなく見事な正月晴れでした。名峰「富士山」とその取り巻きたちの面々も超ゴキゲンに微笑んでくれてましたね。 「あぁ、こんな素晴らしい景色と光に出会えるなんて生きててよかった」心の底からありがたい気持ちになったものです。しばしそんな感動にひたり、帰京。 考えてみると一回り前のうさぎ年から12年もの月日が経ったことになる。「光陰矢の如し」とは名言なり。福島沖に発生した大型地震とそれに伴う津波により超リアルな激的災害をわたしたちは体験した。原子力発電所も爆発してしまい、放射能が漏れ出したというのに、はたしてあの体験は生かされているのか疑問だ。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」のが人間だけど、その前に起きたヒロシマへの原爆投下という日本にしか持ち得ない、唯一無二、惨憺たる傷跡をどこへ置き忘れてしまったんだろう。汚染水も海に垂れ流しちゃうっていうし、もうチト環境問題の方へ国家予算を投入すべきと思うよね。今さらジローとはいえ、自分もふくめ改善すべき点だらけよね。あの手この手で目先を変えた消 その34費のあおり。ついついその流れに合わせることで生まれる無理、無駄、ムラ。いろいろな面を本当の意味で見直すべき時がきていったい何年すぎたんだろう。ほったらかしのままだから、日本はまた置いてけぼりになったと思う。世界の競争などに勝てっこないし、今さら勝たなくていいんじゃない?大国にはない東の果の小さな島国らしく生きればい 青山かすみいはずでしょ。 南風なれども コロナ禍に至り4年、ウクライナにおける戦禍の終焉はいまだ見えぬまま一年が過ぎようとしている。しかし、現実は理想どおりにいかぬもの。戦争してる場合じゃないのに。すぐにでもに氷河の融解を止めなきゃならないのに。地球のバロメーターが狂ってしまったから、人間も狂わざるをえないのかしら……こわいよ〜もう手遅れか〜そんなことをあらためて考えさせられる2023年の幕開けです。 旧軽井沢銀座に近い室生犀星記念館は、作家・室生犀星が愛した夏の家です。犀星は昭和6年にこの家を建てると、亡くなる前年までここで執筆活動を続けました。戦時中は東京から家族で軽井沢に疎開しましたが、食料には苦労したそうです。堀辰雄はじめ立原道造、川端康成、志賀直哉、正宗白鳥ら多くの作家がこの家を訪れ、軽井沢の文学サロンとなっていました。 庭造りに熱中した室生犀星は、自ら庭石を運んで見事な苔庭をつくりました。秋には落葉が庭をおおい、夏とはガラリと景色が変わります。柔らかい落葉の道を歩くと、小鳥たちのさえずりが聴こえ、木漏れ日が樹木の姿を地面に映し出します。豊かな自然と宣教師たちによってひらかれた自由な気風にひかれ、多くの文人が軽井沢を訪れます。明治23年には森鴎外、翌年には正岡子規が馬車鉄道に乗って来軽しました。その頃はまだ浅間山と広大な原野、草原に咲く花々が景色の主役で「幾重の山嶺めぐらして草のみ生い茂りたれば、その色染めたらんよりも麗はし」と子規はその印象を記しています。 ドラゴンシリーズ 99 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 人間に見えないもの、人間に見せないもの。 ずっと前から、そして普段からのことだが ……もう一人の自 分が何かを囁く。 『オイ、怖いぞ、失敗するぞ。お前は何も持ってないぞ。ほら、お前は何もできない。』そんな呪文のような囁き声が聞こえてくる。そんなもう一人の自分の声は何かに向き合った時に限りどこからか囁き、聞こえてくる別の顔を持った自分自身。そんな声は自分だけにしか聞こえないものだと思っていた。最近になって誰もいない部屋の中や家の中に何かの存在を感じることが多くなってきた。それは誰か身近な人なのかもしれないし、知らない何かの存在なのかもしれない。一人で静かな時間を過ごしていると、誰かが家の中を歩くようなそんな存在を感じることが多くなってきた。見える世界と見えない世界の境界線が 存在するように感じている。何度かそんな境界を漂ったが、はっきりと見える世界の先に、見えない世界を見たように感じた。 人間が命を授かった時、生命の 億年以上の起源の歴史を経 てゆくように生命の姿が変化してゆくように、胎児の姿が魚から爬虫類を経て人間の姿に変化すると聞いたことがある。人間の記憶の中には生命の起源からの歴史が記憶の残像として私たちの体に刻まれている。 そんな人間の記憶が時々、気配として出現することがあるのではないだろうか。 アムステルダムのお店は1888年に警察署として建造されたが、大きな運河の脇に建つ要塞のような立地と見張り台のような大きなテラスと時計台のある堂々とした建物で2015年 1 1 までの130年間、アムステルダム市の警察署として街の歴史に深く関わっ てきた。2016年からその建物を引き継いで僕らのお店として使用しているが、僕が初めてその場所を訪れた時には警察署そのままの姿を残していた。 階には覗き窓付きの鉄扉とステンレス製のトイレ、タイル張りの腰掛けベ 5 ンチの独房がそのままに残されていた。そして地下の奥の部屋にはコンクリートのベッドがメートルくらいの壁面に施されている(今もそのまま使用 11 している)。 1その部屋は多分、遺体の安置部屋であったのであろう。今でも手術室にも 3 似た独特の冷たさと怖さを持っている。この警察署であった130年の間には様々な歴史的な出来事が起こり、 Jordanヨルダンと名付けられたアムステルダムのその地域はユダヤ人が多く住み、警察署を訪れ、また運ばれたことだろう。すぐ近くにはアンネフランクの家があり、多くのユダヤ人がドイツ軍によって連れ去られた場所であり、その歴史の真っ只中にある場所なのだ。 アムステルダムのスタッフは時々、大きな床が割れるような音を聞くことがあると言う。昨年月、僕もアムステルダムを訪ねて夜中までお店で展覧会の準備をしていると、階の独房があった場所からとても大きな破裂するような音が突然に起こり、驚いた。だが、何か悪い気はしなかった。人間の目には見えない何か、人間には見せないように存在しているものは存在する。 東京のリビングのラグに座ってローテーブルを文机代わりに正月日の昼間の静かな時間に書き物に集中していると、誰も存在しない部屋の右の視界の端っこにフッと白いふわっとした人影のようなものが動いてすぐにキッチンの方に隠れたように感じた。しかし、時々、疲れて体調が悪い時に瞳の中にチラチラと動く視神経のアレだと気にしないようにしていた。もしも何かだとしても振り向いてもどうせ何も見えないだろうとそのまま見過ごすことにした。すると直ぐに僕以外に誰も存在しない同じ部屋の中で大きな音をさせて何かが落ちた。時々、置いていたものがその重力に耐えきれずにその場所から落下することがあるが、落下するタイミングは偶然で単独であることがほとんどである。しかし、視界の右端に白い影が動いた直後のことだったから、誰もいない空間の中で本当に驚いた。 怖さを通り越して、何がそこに落下したのか?それを確かめるべく血がカッと頭に登るのを感じながら直ぐに飛び上がって大きな落下物が何かを確認 した。それは冊の絵本と枚の大きな封筒、同じ作家のものだったが、な 14 ぜに落下したのかを理解することはできなかった。それは誰かからのメッセージなのではないだろうかと直感し、祭壇に置いてある親父の写真の顔を見 3 つめた。年末から一度も祭壇の親父に挨拶もしていない。祭壇の親父の写真 1 2 さえも見てもいないことに気付いた。親父が動いた?これは母に何かがあっ たことを親父が知らせているかもしれないと思い直ぐ母に電話した。 3 216 正月は帰省しないで、母に 2月日になってまだ電話さえもしていなかっ 1 た。母に何かあったのか?電話すると明るく元気な声で応答してくれてホッ 3 とした。母としばらく会話しているうちに、さっきの落下したことはすっかり忘れて親父の昔話を沢山した。そして親父が自分くらいの年齢の時のことを母が教えてくれた。久しぶりに母とゆっくりと電話で話が出来た。それからフッと落下した場所の周りを見ると、そこには息子が歳の時にプレゼントしてくれて、その後年間に天井まで大きく育ち折れ曲がった植物が僕に何かを伝えているような気がして、こ 12の日間全く水をあげてなかったことに気がついた。直ぐにキッチンのやかんに新鮮な水を入れて本の植物にたっぷりと水を与えた。 冊の絵本と冊の封筒を棚から床まで無風の空間の中から落下させる物理的なエネルギーは大きなもので、空の上から降りてきた親父のパワーなのか、または植物の水くれパワーなのか、もしくはどこからか降りてきた方々の仕業かは分からいが、誰かからの何かのメッセージなのだろう。 正月の日間は久しぶりに時間を気にせず音楽を聴きながら、読書に耽り、仕事のことやこれからの人生について深く考える時間を持つことができ新鮮だった。音楽と読書と思考する時間は普段は分断されていて、同じ時間の中で混ざり合って空間と一つになる感覚を持つことの深みをしばらくぶりに感じることができ、その時間の質について再び考えるきっかけとなった。 部屋に登場した白いフワッとした何かは、普段は見えないものがただ静寂の中だから見えただけのことかもしれない。心と体をそこに置いて、精神からリラックスする時間は時に不思議なものを見せてくれるし、自分の中に存在する自覚できない自分自身の内面をチラッと垣間見ることができる場所なのかもしれない。この日間の時間は数年分にも相当する質があったように感じ、そしてその日に巡り会えた自分の運命に感謝した。 今月の茶道具 8 茶杓 東方朔 / 藤の裏葉 千利休 作 桃山時代 藤田美術館蔵 多くの茶道具は、茶人の「好み」(デザイン)によって工人が作りますが、茶杓は茶人自身が竹や木を削り作りました。そのため茶人の分身として子弟や縁者によって尊ばれ、その縁記を茶杓をしまう筒に記録しました。千利休作の「東方朔」は別名「藤の裏葉」とも呼ばれ、高い蟻腰や鋭角に曲がった櫂先に思想を込めた最高傑作といわれます。豊臣秀吉に切腹を命じられた利休は、最後に茶杓「泪」を削り高弟古田織部に与えました。織部は黒い筒をつくり、位牌代わりに拝んだと伝えられます。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】