KARUIZAWA EDITION 02
軽井沢別荘譚 / 中軽遊学編
時空を超える美意識
https://collaj.jp/仲の春 2023
あこがれの軽井沢ブライダルで人気の「星野リゾート軽井沢ホテルブレストンコート」。毎日沢山のカップルが永遠の誓を唱える三角屋根の軽井沢高原教会は、かつて「芸術自由教育講習会」がひらかれた教育の場でした。今も入り口には「星野遊学堂」の文字が刻まれています。
1914年、中軽井沢に星野国次氏が開業した「星野温泉旅館」には、北原白秋、与謝野鉄幹・晶子、寺田寅彦、若山牧水らが逗留し、中軽井沢は文人・画家にとって憧れの地となりました。1918年頃、自由画教育運動で知られる山本鼎は、星野温泉の十二号別荘(三渓園から移築)にアトリエを設け、北原白秋、島崎藤村たちと共に芸術自由教育講習会を開催します。
ホテルに隣接する「石の教会」には、内村鑑三記念堂があります。
その活動はキリスト教思想家内村鑑三に引き継がれ、会場の材木小屋は「星野遊学堂」(遊ぶことも善なり、遊びもまた学びなり)と名付けられました。内村鑑三は晩年の毎夏を十二号別荘で過ごし、星野国次氏をはじめ多くの人に宗派を超えた理念を伝えます。戦後は「軽井沢高原教会」と改名され、1974年、軽井沢で初めてキリスト教信者以外の挙式を受け入れました。
「ノックしてみよう」大きな扉を前にしたハカセがこう言って振り返りました。
キキとココが前髪をフワフワと逆立ています。そしてそのまた向こうには、通り抜けてきた電気の木の林の火花が、いくつも光っているのが見えました。
Vol.44
原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ
永住をふまえた別荘探しにおすすめの中軽井沢エリア
星野リゾート発祥の地として知られる中軽井沢。南北に走る国道146号を軸に「ハルニレテラス」など人気スポットが点在する星野エリア、大正時代から西武によって開発された「千ヶ滝別荘地」、三井不動産による「三井の森」といった、永住者にも人気の高い自然に恵まれた別荘地や、中軽井沢駅やスーパーツルヤに近く生活に便利な「上ノ原」、「前沢」エリアがあります。
中軽井沢・星野エリアに建つ、軽井沢建築社の「VILLATHERMAL塩壺」を訪ねました。軽井沢では1〜3月を中心に多いときは30cmほどの雪が降りますが、玄関前の広い庇によって、雪や雨に濡れにくいよう工夫されていました。玄関には1坪ほどのウォークインクローゼットがあり、庭道具、ゴルフバッグ、自転車、靴などをしまうのに便利です。
床下にエアコンで暖気を吹き出し、ダクトによって熱を分配することで、屋内全体を均一な暖かさに保ちます。
暖房には同社が開発し特許取得した「パッシブ冷暖」が採用されています。これは市販のエアコンを使って全館暖房を実現した画期的なシステムで、エアコンの温風を床下に吹き出し、ダクトによって暖気を全部屋に分配します。床暖のようなじんわりとした暖かさがあり、室内の温度差も小さいのが特徴で、設備費用や暖房費を抑えることができ、大掛かりなメンテナンスも不要です。
冬場の暖房費を抑えるために大切なのが断熱性です。VILLATHERMAL塩壺の断熱等性能等級は「等級6」を確保しています。これは昨年10月に新設された等級で、HEAT20G2基準に相当し、Ua値は0.28以下と高い性能を誇ります。断熱性能を最新基準にバージョンアップすることで「別荘の方が東京より温かく快適」という声が聞かれるようになりました。そこで同社は「軽井沢を避寒地に……」という提案をしています。避寒地といえば沖縄、ハワイなどでしたが、冬を快適に楽しむという新しい暮らし方が軽井沢から発信されています。
窓には3枚トリプルガラスを採用し、熱を逃がしません。冬を贅沢に楽しむための薪ストーブも備えています。
リビングの一画はひだまりのヌックです。窓辺の豊かな空間で、森の景色を一枚の絵画のように楽しめます。「窓辺を快適な空間にするのが、意外と難しいんです」と軽井沢建築社の関泰良さん。窓ガラスが冷たくなると、そこに室内の暖かな空気が触れて風が起こり、肌寒さを感じさせます。それを防ぐには室温を出来るだけ均一にして、対流を起こさいないことがポイント。そこに設計ノウハウが詰まっていると関さん。
軽井沢の別荘の多くは、地元の管理会社と管理契約を結んでいます。冬場に水道管を破裂させないための「水抜き」や、水道、電気の開通といった準備を管理会社に頼む必要があり、別荘を利用しなくても一定の管理費がかかりました。「パッシブ冷暖」はIoTと連動し、温度センサーによって別荘の室温、外気温、湿度がリアルタイムで分かり、エアコンの入切、設定温度の調整もスマートフォンで遠隔操作できます。事前に外から暖房を入れれば、到着までに家を暖めておくこともでき、厳冬期に暖房をタイマー運転すれば、室温が氷点下になることを防ぎ水道の「水抜き」が不要になります。1階リビングの腰壁には大谷石。非日常的な別荘の雰囲気を味わえます。お風呂から眺める森の景色も格別です。
四季折々の自然が美しい「雲場池」(くもばいけ)。かつてこの水は、宿場に泊まる大名や公家の御用水に使われ「御膳水」と呼ばれていました。特に紅葉の季節は、軽井沢一の人気スポットとして多くの人でにぎわいます。まだ人影の少ない早朝、ゆったりと散歩を楽しめるのは、別荘をもつ人の特権です。
かつて雲場池の周囲には、伏見宮邸、前田侯爵邸、松平伯爵邸、大隈侯爵邸、鳩山邸といった華族、政治家の別荘が並び、堀辰雄、川端康成、室生犀星など文人が散策を楽しみました。
雲場池の周囲を植林、整備したのが野澤源次郎でした。大正時代、貿易商・野澤組を経営した野澤源次郎は、離山のふもとに約200万坪の広大な土地を購入し、道路などインフラを整備して別荘地開発をすすめます。大隈重信、桂太郎、後藤新平、高橋是清など政界と太いパイプをもつ野澤は、大正4年、細川護立、徳川慶久の別荘を建設し、軽井沢を自然豊かな別荘地に育てようと壮大な構想を描きました。
軽井沢六本辻の交差点は野澤源次郎が開発した別荘地の中心に位置し、2012年から時計回りのラウンドアバウトとして運用されています。6本の道が合流し、その1本は雲場池に向かいますが、池の近くには駐車場がないため、混雑時は自転車やタクシーがおすすめです。
今月の茶道具 9
信楽花入
安土桃山16世紀 東京国立博物館蔵
安土桃山時代に焼かれた信楽焼の「花入」です。陶土を筒形に成形してから前後にたわめ、土肌の色の違いにより立体感を高めています。さらに竹の節のような凹線が施され、見る人の想像力を掻き立てます。裏側には金具が付き、床柱の花釘などに掛ける「掛け花入」としても使えます。茶道は花器を「花生け」ではなく「花入れ」といいます。その違いについて武者小路千家 13世有隣斎宗匠は
「茶室の床の花は、自然の花の美しさを最も効果的に客の目に供することにこそ心を用いますが、その美しさの持続は期待しません。いわば瞬間の美、すぐ失われるからこそいっそう貴重な美を追求するものであります。それゆえ器の名も花入です」(『茶
花十講』主婦の友社刊)と述べてらっしゃいます。出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
軽井沢グルメのニューフェイス
軽井沢くろいわ無二
首都圏から人が集う軽井沢にはグルメな飲食店が沢山あります。旧軽井沢エリアにはフランスベーカリー、わかどり、デリカテッセンなど古くから愛される老舗がある一方、「グルメ通り」と呼ばれる中軽井沢・塩沢通りには、エルミタージュ・ドゥ・タムラ、ル・ボン・ヴィボン軽井沢、無彩庵池田、無限などがあり、東京の名店が支店を出すことも珍しくありません。そんなグルメな軽井沢に2021年6月オープンした「軽井沢くろいわ無二」は、中軽井沢星野エリアに近い国道146号線沿いにあります。入り口には黒竹の垣根が設えられ、京の風情を感じさせるつくりです。くろいわは、京都・祇園丸山で修行した黒岩宏達さんが、東京恵比寿にひらいた懐石料理店です。軽井沢の北、嬬恋で生まれた黒岩さんが、いつか軽井沢に店を持ちたいという思いを叶えたのが、この「軽井沢くろいわ無二」でした。くろいわにちなみ黒をテーマカラーにして、入り口の黒漆喰には、黒岩さんの実家にあった古い欄間を嵌め込んでいます。
入り口には季節ごとの食材が立派な彫刻のつづら箱にディスプレイされ、この日の料理のテーマを暗示しています。軽井沢や群馬の野菜をはじめ、鮎などの川魚、地元猟師がとった鹿、熊、イノシシといった四季折々の食材が食卓を彩ります。
地元で20年にわたり愛された大衆料理店を、軽井沢建築社がリノベーションしました。もっとも大切にしたのが、カウンター越しに見える景色です。まるで写真のファインダーのように景色を見せる。これをコンセプトとして、建築家奥野公章さん(奥野公章建築設計室)と軽井沢建築社が共同で設計・施工にあたりました。春の新緑、夏の青葉、秋の紅葉、冬の雪と、窓の景色と料理を一体にするため、カウンターは焼き場などを設けずにすっきりシンプルに仕上げました。
この「軽井沢くろいわ無二」を任されたのが、32歳の若き店主浅井恭平さんです。広島の料亭で修行し22歳のときに上京。黒岩さんの料理に対する熱意に惚れ込み、入店したそうです。基本的な味付けはもちろん、カウンターに立つための姿勢や所作まで厳しい修行を受けながら、料理や室礼のセンスを深めるため茶道や華道も身につけ、27歳で板長に抜擢されました。29歳の頃、軽井沢出店の話があったときは、黒岩さんが軽井沢に移住する予定でしたが、一緒に現地で物件をみたり店のプランを考えているうちに、自分が行きたいと志願したそうです。同じ若い世代の移住者として、軽井沢建築社の関泰良さんとは、公私にわたるお付き合いを続けています。軽井沢への移住は、浅井さんの料理に変化をもたらしました。一軒一軒農家を訪ね野菜や米を直接分けてもらったり、山へ山菜を採りに行ったり、狩猟に参加して動物を解体し、肉のぬくもりを直に感じたり、東京の市場では分からないことが沢山あると浅井さん。受け取った食材をお客様に美味しく提供し、作り手たちにも喜んでもらうのが僕らの仕事といいます。
店の下を流れる清流湯川。軽井沢の水は硬度が高いため、出汁には滋賀県の超軟水(岩深水)を使い、山菜の処理には軽井沢の水、炊飯にはブレンドと用途で分けているそうです。
▼軽井沢彫のお盆や箸置き。稲穂をあしらったオリジナルの
文様が彫られています。
炭を混ぜ畳模様を付けたモルタルの床や黒い瓦の床、黒漆喰風の壁など、黒鷺城(松本城)をモチーフにしています。
旧軽井沢「鹿島の森」エリアは、明治 26年から、碓氷峠のアプト式鉄道工事を請け負った鹿島組によって開発されました。長野県の種畜場が公売される情報を得た鹿島岩蔵は、15万坪を坪 5厘、計 750円で購入します。地元からは「あんな荒地を買うなんて」と揶揄されますが、鹿島はそこに六軒別荘と呼ばれた貸別荘を建てました。家具、寝具、食器を揃えた貸別荘は西洋人に人気となり、別荘へ続く小道を通して両脇に落葉樹が植えられます。やがて別荘地には皇族や細川家など旧藩主、元首相、財界人の別荘が建ち、軽井沢で最もステイタスの高いエリア「鹿島の森」となります。小道は今も近衛レーンとして当時のまま残り、その先に名門クラブ「旧軽井沢ゴルフクラブ」があり、かつては新橋の料理屋「花月」や銀座の理髪店「米倉」などが、夏季限定の店を出して賑わいました。ゴルフ客のロッジとして昭和 35年にスタートしたのが「ホテル鹿島ノ森」でした。町民の憩いの場「矢ケ崎池」の向こうに軽井沢大賀ホールが見えます。ソニー名誉会長で声楽家でもあった大賀典雄さんから寄贈された16億円の資金等によって建設さた珍しい五角形のホールです。四角いホールは音が反響しあってしまうということから、五角形が選ばれたようです。内装には落葉松がふんだんに使われています。
矢ケ崎池の奥に浅間山、手前には離山が見えます。頂上が平な離山はテーブルマウンテンとも呼ばれ、手軽なトレッキングコースとして人気です。
前回お話したとおり私たちは、自分が住んでいる部屋や家や街
の様子は、ごく自然に記憶して、その記憶はそう簡単に消えることがない。小学校入学以来、何度か引越や家の建替えを経験しているが、いずれの場所についても、かなり鮮明に覚えている。家の内部はもちろん、周囲の町並みや大通りや路地も含めて、映像として記憶している。この点に関しては、勤めていた会社についても同様だ。数年前、中学校時代の古い友人と飲み明かした。そんなときには決まって「あの八百屋の角を曲がったところだったよな、あいつんちは」とか「中学の校庭の裏にあった団地だろ」というような会話が延々と続くことになる。半世紀近い長い年月を経ても、二人の間に共通して語ることの出来る「場所の記憶」があるからだ。場所の記憶は、人と人の心をつなぎ合わせる大切な絆でもあるのだ。
一方これが「何々君のこと、おぼえている?」と名字を挙げられた場合、すぐには思い出せないことが多い。人の顔や名前は忘
れてしまいがちだ。それに対して「場所の記憶」は長期間、鮮明な映像として心に刻まれる。そしてこのことは、大昔から知られていた。古代ギリシア時代とある宴席で、天井が崩れ落ちて宴席の出席者の殆どが瓦礫の下で亡くなる、という事故があった。瓦礫の下となった遺体は損壊も激しく、身元調べが難航しそうだと誰もが思っていた。ところが、ただひとり事故の直前、その宴席を離れていて奇跡的に難を逃れた出席者がいた。その男が「宴席の出席者の名前を席の位置どおりに正確に記憶していた」ため、被害者の身元が明らかになった。男の名はシモニデス(BC.556〜 468頃)。「場所(建築物)を鍵とする記憶術の祖」とも呼ばれる詩人で、その詩作の一部は日本語訳がアンソロジーに収録されるほどの人だ。
ではなぜ、この詩人が「記憶術の祖」と言われるのか。それは古代ギリシアで、詩が果たした社会的な役割の大きさに加えて、当時の知識人にとって「文章を暗記する力」が極めて重要だった
崩落する宴会場と、難を逃れる詩人シモニデス。
ことが背景にある。彼らの学習ではまず、古来伝わる模範となる言い回しや表現を頭に叩き込む。次に、これを自身の演説や詩作に的確に応用して草稿を練る。そして、その内容を完全に頭に叩き込んだ上で、人々の心を動かす演説や詩の朗唱を行う。このとき原稿なんて、見ない。だいいち当時は「気軽に使える安価な紙」がなかった。だから、頭で覚えるしかなかった。当然「記憶力が極めて重要」ということになる。さらに印刷物や電話や放送という「メディア」もなかった。他者に何かを伝えたければ、声に出して相手に伝える。「肉声で語る言葉の力」は、現在よりも遥かに重要だった。宴席で、議場で、すり鉢階段状のアリーナで、響き渡る肉声で訴えかける言葉の力。これがなければ、人々の支持を集めることができなかった。王も軍人も役人も聖職者も共に、現代で言えば、詩人・役者・歌手・物語作者としての力量が求められていた。とりわけ詩人は、王や貴族・軍人など、
「社会上層の人々の所業を称える言葉を、記憶の中から紡ぎ出す者」として権力者
に重用された。シモニデスもまた、そうした詩人の一人だったのだ。
古代ギリシアの宴会の歴史を調べる過程で私は、シモニデスの記憶術の存在を
知った。「宴会の歴史、何それ?」と思われるでしょうが、宴会の形式は社会を映し出す鏡そのもの。出席者がカウチに横臥して行われた古代ギリシア・ローマの宴席は、単に酒を酌み交わしてごちそうを楽しむだけの場ではなかった。例えば現代にまで伝わる「古代ギリシア時代の詩」は、その大半がシンポシオンと呼ばれる酒宴の席で朗唱するために創作されたものだ。またホメロスの長大な詩篇も同様に、酒宴で朗詠されることで誕生した、というのが昨今通説となりつつある。このように当時の「詩」は、肉声で朗唱されるものであって、文字を通して目で読むものではなかった。こうした詩人の詩心を刺激して、心の底から湧き出る言葉に力を与えてくれたのが「酒神ディオニュソス」(バッカス)で、時に荒ぶることがあるとは言え、その存在が重要視されたことは、いうまでもない。このように古代ギリシア・ローマの宴席は、泥酔の挙げ句のご乱行があった一方で、中身の濃い言葉の創作と発表の場でもあったわけで、現代の日本語である「宴会」とか「宴席」という言葉のイメージでは表現しきれないものだと感じる。
原稿を見ずに長大な詩を宴席で朗唱する。記憶する力があって初めて成り立つ世界だ。我が国でも稗田阿礼という物語を記憶してこれを正確に語ることのでき
ギリシャ・ローマの議場では言葉の力が重要だった。
カウチで食事するローマ人(ポンペイ遺跡の壁画)
た天才がいたわけで、古代社会はどこでも、こうした人々が文字通り「古くからの言い伝えを語り継ぐ」ことで、社会の標となっていた。西欧では記憶力を重視する古代ギリシア以来の伝統が中世に復活する。そしてその伝統は形を変えながら、現代に至るまで続いている。たとえば政治家や社会の指導者に求められるスピーチ力。これがなければ、アメリカの大統領選を戦い抜くことは到底できない。では、振り返って、我が国の政治家や指導層はどうか。ニュース映像で毎日見かける、我が国の大臣や政治家や官僚たち。わずか1分ほどの発表でさえ、原稿に目を落としながら、これを読み上げるのみ。文字数で、たった300字ほど。これを覚えることができない? プロンプターを使用する場合でも、「流れる文字を読むだけ」だから、言葉にまったく力がない。「聴く力」はおありになっても、「言葉を生み出す力」・「訴えかける力」が、ない。
経済団体のお偉いさんたちも同様で、だから国際的な会議の場で、我が国の代表たちは極めて存在感が薄い。日本国はこれで随分と損をしていると思う。例外的に立憲民主党の野田元首相や自民党の河野太郎さんあたりはまだしも、大半の
ポンペイの壁画に描かれた鶏や魚。
皆様はスピーチがスピーチになっていない。誰かが書いた原稿を読むだけであれば、香川照之や役所広司、白石加代子や天海祐希や小林聡美あたりを代表として起用したほうが、よほど国のためになる。香川照之なら中国の外交トップとなった王毅様相手に「言葉の力量と見事な身振り」で十分戦える、そう思いませんか。あっ、脱線してしまった。話を戻そう。
古代ギリシア・ローマの宴席ついては、この数十年で研究が大きく進み、かな
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り細かなことがいろいろ分かってきている。食器や席の並べ方、使用された家具調度、用意されたワインの産地、ワインのサーブの仕方、当時の基本的な食材の産地や輸送網、そして、おそらくこんな感じの料理が出されたのではないか、というあたりまで、徐々に解明されつつある。だが、なかなか解き明かすことの出来ないことがある。その代表が、出された料理の「食感」や「味わい」といった辺りの「味覚」についてだ。昔の人々が、ある場面で、ある食べ物を口にした時、どのような感覚でこれを受け止めたか。食文化史の最前線では、一部の研究者がその追求を始めている。それは私たち個人個人が「思い出として記憶する味覚」に通じる世界だ。味覚の記憶。食べ物の思い出。共に食卓を囲み、盃を交わし、同じ釜の飯を食う間柄での味覚。ひとりごはんの味わい。歳の叔母と老人施設で話をしていて、昔食べた料理の話になった。それがきっかけで、このことを少し深く考えるようになった。果たして味覚はどのように、人の心の中に記憶されていくものなのか。疑問は尽きない。
芸術的なパルフェ「パルフェビジュー .」をはじめ、ケーキ、ジェラート、焼き菓子と常に斬新なメニューで話題を呼ぶ東京・等々力の「 P.TISSERIE ASAKO IWAYANAGI 」。開店して7年の軌跡から、お菓子作り、店舗デザイン、SNSを連動した新しい時代のブランディングが見えてきました。一般社団法人テンポロジー未来機構とのコラボレーションでお届けします。2015年秋、シェフパティシエールの岩柳麻子さんと、建築家の宿澤 巧さんによって「P.TISSERIE ASAKO IWAYANAGI」がオープンしました。まるで宝石のようなパルフェ「パルフェビジュー. 」は女性誌の連載やWeb、SNSで盛んにとり上げられ、数時間待ちの行列ができる人気店となります。そこに至るまでには二人三脚の長い道のりがありました。
東急大井町線 等々力駅から徒歩約4分のP.TISSERIE ASAKO IWAYANAGI。全体をグレーの左官で仕上げた店内に、岩柳麻子さんデザインの白いユニフォームが躍動する舞台のような空間です。デザインを手掛ける宿澤巧さんは、山梨県塩山のフルーツ農家に生まれ、武蔵工業大学(現東京都市大学)で建築を学びます。隈研吾建築都市設計事務所、青島裕之建築設計室をへて26歳でtrimtabを共同設立、32歳でBLaNc一級建築士事務所設立。ブティック、レストラン、住宅などを設計し、なかには数千億円規模に成長したブランドのオーナもいました。「特に失敗から学ぶことが多かった」と宿澤さん。
P.TISSERIE ASAKOIWAYANAGIのテーブル席は予約制で「 パルフェビジュー .」を提供しています。
洋菓子店の命ともいえるショーケースは、宿澤さんの設計です。通常はケーキを2段、3段に重ねることが多いですが、一段におさめ天井からスポットライトで照らしました。グレーの背景のなかでケーキの色が際立ち、静的なケーキと動的なスタッフの対比が高揚感をかき立てます。ケースのサイズは高さ30×奥行き85cmで、ペアガラスを留め加工したフレームレス。照明には「モデュレックス」を採用し厨房を4000K、テーブル席を2700Kと色温度を変え、左官材モールテックス(原田左官工業所)に深い陰影を与えています。「美術品のようにケーキを展示する。美術館の中のレストランという雰囲気でつくりました」と宿澤さん。
ASAKO IWAYANAGI SALON DE TH.
一昨年オープンした3号店「ASAKO IWAYANAGI SALON DE TH.」。1号店から歩いてすぐの場所にあり、予約なしでもイートインを楽しめます。ここも宿澤さんの設計で、全体をモールテックスのグレーで仕上げ、朝8時からのモーニングメニューをはじめ、パン、ケーキ、ジェラート、ガレット、クレープ、日本茶など多彩なメニューを提供しています。
▲カウンターに埋め込まれたジェラートの冷凍ケース。 ▼ショーケースは、デニッシュ、パン、ケーキに対応した3つの温度に分かれています。
この店が生まれたきっかけのひとつがコロナ禍でした。1号店が予約制となったため、近所の人が気軽に立ち寄れる店の必要性を感じたことと、休店中に皆で開発したメニューを出すための店として企画されました。テーマとして選ばれたのが、パリ発のテーブルウェア「アスティエドヴィラット」です。薄く繊細な白い器にあわせ、2ミリの鉄板を左官で仕上げた食器棚がデザインされました。天井ライトのスリット幅を70mmにおさえ、マグネットで器具を取り付けるなど、ディテールまで薄さや軽さを追求しつつ、左官のムラ感が空間に温かみを与えます。照明のコントロールにはルートロンを使い、朝、昼、夜とシーンを切り替えています。
割れやすく高価なアスティエの食器を飲食店で使うことは普通ありませんが、ここではスタッフ自らが銀継ぎして大切に使い続けています。モーニングメニューやパンのサンド、デニッシュといった新メニューは、コロナ禍のなかで考案されました。数カ月の休店を余儀なくされたとき、スタッフたちは宿澤さんの出身地・塩山の古民家に集い、農作業をしながらすごします。その時のまかないメニューをヒントにして、楽しみの中から新しいメニューが生まれました。ハム、ソーセージ、パテなどは、スタッフによって店内で作られています。
▲ パテドカンパーニュ。 ▼菜の花とテテドモアンヌのサンド。モーニング界のトップランナーを目指しているという「モーニングスペシャリテ」(予約制)をはじめ、パルフェなど独特の世界観を表現したInstagramは17万人という業界トップのフォロワー数を誇ります。撮影はインテリアデザイナー兼カメラマンの乙部洋平さんが担当し、撮影時間にあわせて岩柳麻子さんがパルフェビジュー .のマスターピースを作り、撮影後すぐに材料の分量などを記録したレシピを制作し、原価計算する手法がとられています。「ひとつくらいは、思い通りのスイーツを作らせてあげたい」という宿澤さんの思いから生まれたパルフェビジュー .でしたが、4,000〜5,000円を越える価格帯でありながら、スイーツファンの心をとらえ続けています。
『パルフェビジュー .アグリュウム』は柑橘類にワサビをあわせています。
心・体・思考の健康をデザインする
とっておきの休み時間11時間目
「みどりへのあこがれ」
写真&文大吉朋子
「みどりのある暮らし」という美しい響きにずっと憧れている。
私にとって花と同じくらい心躍る存在である植物。とはいえ、切り花とは違い、つねに成長する生きもの、日々の手入れや適当な環境が必要で、私にとってはそれなりのハードルの高さがあった。
ある時期、私の家にはたくさんの観葉植物があり、寝室にもいっぱいで、緑の中で寝ているような感覚だったことを思い出す。当初は、枝ぶりや葉も整っていて、さほど手がかからず良かったものの、日当たりが良かったおかげでぐんぐん成長し、やがて成長しすぎて伸びすぎてしまい、ついに無精な私の手には負えなくなり、ひとつふたつと我が家からいなくなっていった。
それでも、みどりがある暮らしにはいつも憧れがあり、雑誌で素敵なグリーン特集があると買っては眺めるの繰り返し。依然として、自分にはちゃんと手入れする覚悟というのか、さまざまな余裕が整っていなかった。唯一、異様に丈夫なゴムの木だけは私のいい加減さをよそ目に、まぁまぁ過酷な環境でも自分で勝手に太陽を浴びて、驚くほどすくすく育っていた。
いつか「みどりのある暮らし」をきちんと実現したい。
無精を自認しながらも、ずっとその気持ちだけは枯れていなかった。
そして、ようやくその機が熟した。やはり「引っ越し」である。お掃除とともに植物との時間にギアが入った。水やりのタイミングやら葉の様子やらヨゴレやら、細かく観察している自分に驚く。
とはいえ、植物のことはまったくの素人で、名前も大ざっぱにしかわからない。育て方もよくわかっていないから、そのつどメモして検索して調べる、の繰り返し。まずは丁寧にみどりを育てることに慣れる、というところから始めようという感じで、わからないなりにも、色々なみどりの緑色を眺めているだけで気持ちがあがって元気をいただく。
立春を過ぎて、まだまだここからが寒い日がやってくるものの、冬より春が近いこの時期はやはりうれしい。暖かさを感じる頃になって、草木がどんなふうに日々変化していくのか、ほんとうに楽しみになっている。
まだまだ丁寧な暮らしとはいえないけれど、みずみずしく元気に育っている植物をみて、自分の成長もすこーし垣間見える。ひとつひとつに丁寧に向き合うという姿勢の習慣づくり。
あんなにハードルが高いと思っていたものも、いつかは身の丈に近づいてくるのだと、今日もみどりを眺めてにんまりしている。
春が待ち遠しい。もっといろいろなみどりを大事に育てたい。がんばろう。
ヨガ数秘学
-大吉朋子 .
2023年 2月は 9のエネルギーが流れます。
「9」は手放しの数字。なんとなくもったいないと捨てられない物、嫌々やっている仕事や人間関係、思考や感情、習慣、クセといったあらゆることの中に潜む「不要」なものを手放すというのがこの2月のテーマです。なんでも手放すわけでもなく、本当に残るべきものは自然と残ります。いらないものは潔く手放す。その姿勢で残りの2月を過ごしてまいりましょう。
2023年 3月は 10のエネルギーが流れます。
「10」はスタートの数字。2月に手放し、すっきりとした環境や気持ちでの新しいスタートの1ヶ月です。3月は何かひとつでも新しいことを始めてみることがおすすめです。上手くいくかどうかを考えるよりもまずは始めてみる。果実を実らせるにも、まずは種から始まりますから。そんな心がけでいくと、アップダウンしながらもエネルギーは上向いていきますよ。
【 3月生まれの方へ ワンポイントアドバイス 】
3月生まれの方はとってもポジティブな思考の方々。一人二人でいるよりも、みんなの中にいることが自然体。だからこそ気を付けたいのは 「頑張りすぎない」ということ。大丈夫?と聞かれて、「大丈夫、大丈夫!」と答えていたらご注意を。みんなのために、となりすぎていませんか?嫌なこと、苦手なことにも時には向き合わないとなりません。時には断る勇気が大切です。
▲ガラスで仕切ったチョコレートブースに立つ岩柳麻子さん。自ら毎日、お菓子を作り続けています。
昨年完成した「ASAKO IWAYANAGI LABO」は、宿澤さんの思いを込めたお菓子作りの研究所です。成長と共に郊外にセントラルキッチンを設けるケーキ店が多いなか「あくまで等々力で作り続けたい」と宿澤さん。フランスのチョコレート製造機、イタリアのジェラート製造機、ドイツのパン製造機を導入し、2年の歳月をかけて実現したそうです。15℃に温度管理されたチョコレートのブースには、岩柳麻子さんの姿がありました。桑沢デザイン研究所でテキスタイルデザインを学んだ岩柳さんは、飲食店のアルバイトをきっかけに製菓の道へ進み、武蔵小山でケーキ店を立ち上げシェフパティシエールになります。ファンづくりのため始めたケーキ教室は、自分でホールケーキを作れることが好評でした。10年間シェフをつとめた後、宿澤さんに独立した店を持ちたいと相談し、ここで初めて2人の経験がつながります。ケーキ需要が落ち込む夏場を乗り切るために考案されたのが、宿澤さんの実家、塩山の果実を使ったパルフェやジェラートだったのです。▼パン生地の発酵時間を調整できる、ドイツの機械。高価ですが、美味しいパン生地に仕上がるそうです。
焼き菓子を中心とした「ASAKO IWAYANAGIPLUS」は2018年のオープン。ギフトに人気の焼き菓子はパッケージデザインを自社で行い、ハイブランドの贈答品に採用されています。ECサイトでも販売され、コロナ禍で休店になった際は、その売上が店を支えたそうです。いま宿澤さんが力をいれているのが、パンづくりです。LABOに導入したドイツの最新機器は、パン生地の発酵の仕上がり時間を調整できるため、深夜にパン生地をこねる作業から開放されます。宿澤さんは見本市をまわり最新情報を集めることで、今までの業界の常識にしばられない、自分たちの体制に適した作り方を研究しています。
岩柳さんは今、これからのブランドのあり方について考えています。定番のお菓子を残すことも大切ですが、いまあるものを壊し、挑戦し続ける姿勢を伝えていきたいと岩柳さん。街を自転車で走りながら季節の変化を感じ、それをお菓子に投影する。岩柳さんのお菓子作りはこれからも進化していきそうです。今年6月には、ザ・リッツ・カールトン福岡の開業で話題の「福岡大名ガーデンシティ」に、はじめての支店となる「ASAKO IWAYANAGIFUKUOKA」を出店する予定で、海外へと飛躍する日も近そうです。
ドラゴンシリーズ 100
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
戦前生まれ
『戦後生まれ』と言うのには当たらないのかもしれないけど、僕らが生まれた1960年代は戦争が終わって僅か年から年しか経過していない時代だった。戦争が終わり、たった年しか経過していない戦後に僕は生まれた。
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全く戦争をイメージできない僕ら、代の世代とその後の若い世代、30、40代が持つ戦争に対する遠い昔話の感覚は変わらないだろう。
僕らの時代にもベトナム戦争が長く続き、米ソの冷戦、その後の湾岸戦争、中東地域で多くの戦争や内戦が起こったが、まさか僕らの時代には大国が他国に攻め込み、戦車やロケット弾、戦闘機からの空爆など、本当の意味での国際的な戦争は絶対に起こらないだろうと思ってきた。ましてやロシアやアメリカ、中国、インドといっ
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た大国同士が核戦争と向き合う危機など、人類のセーフティネット
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ワークが世界中にインターネットを通じて張り巡らされている情報化社会の中ではあまりにも非常識で、非現実的なことであると考えていたのは僕だけではないだろう。 15北朝鮮のように情報社会 20から隔離されてきた国以外 20
は、世界を自由に往来できる時代となり、中国のように情報統制された国であれ大国同士が本当の意味で戦うことはあり得ないと世界中の人々が信じていた。そんな僕らが感じていた遠い『戦争』と言う言葉の距離感が、いつの間にか音も立てずに静かにすーっと近寄ってきて気付けば横にそっと佇んでいる。得体の知れない何かを手の中に隠し持った怖ろしい不審者のような存在の不気味さが実感を帯びてきた。そしてウクライナやロシアの現実として、崩壊してゆく街や人間の姿が毎日のように流され、僕らは無神経になってその映像を受け入れ続けている。
人々の感覚は次第に、日々の映像と情報、誰かが意図を持って流し続ける洗脳に侵され、戦後に日本国民、そして世界中の人類が後悔し反省して掲げた白旗を下ろし始めた。
しかし誰も守ることができないものが武器であり、武器を持つからこそ犠牲になる人が生まれる。戦後に世界の国々は原爆による無慈悲で凄惨な犠牲を直視することなく、無知で凶暴で狂った悪魔のように最も大きな犠牲を生み出す武器を作り続け、そして鋭い刃で他国を脅しながら自国の主権を守ってきた。
天才アインシュタインはじめ科学者たちも、人間の理性を甘くみたその破壊的な武器によってしか均整が取れない人間社会を前に進めてしまった。戦後の反省から生まれた「戦争の放棄」という日本の素晴らしい考えは時間の経過と共に劣化し、苦しみや痛みの記憶を忘れ去り、戦争を知らない世代の人間たちがまた戦前の過ちを繰り返そうとする。日本国民の多くは、自己防衛の為と言う理由で軍備を強化し、防衛すべきと考えるようになった。
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戦後の日本にとって、憲法第条と非核三原則、あえて戦争的な視点から表現するならば、この 2つの大きな武器は安全で最強の武器となった。しかしこの人
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類究極の武器を自らが捨て、「防衛力」という言葉を使って人々を騙し、他国に向けて使用する武器を持つことに進んでいる。
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その先の日本に何があるのだろうか。最も自由で民主的であるアメリカ社会が育んだ大きな問題が銃社会であり、自己防衛の為の武器の存在が暴発し社会に大きな影を生み出してしまっている。そのような武器をいくら準備して防衛しようとしても、相手の強大な攻撃から自国民を本当に守れると信じているのであろうか。それこそ戦前の軍部の愚考が犯した、勝てない敵国に国民をプロパガンダで誘動した大きな過ちと同じではないか ……。
世界の歴史を見ても日本の歴史を見ても、戦争を繰り返してきた人間は、同じ過ちを繰り返すものだ。どの時代にもどの国々にも、それぞれの正当性と理屈が存在する。しかし戦争が始まれば、現在のウクライナとロシアの戦争で分かるように、多くの代から代の未来を待つ若者たちが日々の戦いの中で死んでゆき、私たち世代の親は計り知れぬ悲しみと苦しみ、そして憎しみを繰り返す。それが自国を守る戦争と言うものの現実なのではないだろうか。
現代の社会の中に存在する矛盾を直視しながらも、生命として、自然界の生き物として、動物、人間として、私たちが持つ理性と愛と言う崇高な尊いものを信じて、他人に対し前向きな愛を持つことに人類の小さな単位から進み始めることなのではないだろうか。自分の持つ感情や発想、そして願いと行動は世界中の様々な場所で始まるシンクロニシティだと信じ。
僕は子供の頃に母から戦時中の話を聞くのが好きだった。それは食べるものが何も無く、いつも芋ばかり食べていたことや大きな爆撃機が飛んできて、多くの爆弾が落ちたことなど、物語のように空想するような話だったからだ。中学時代に起こった戦争のことを、父はあまり話したがらなかったように思う。祖父が近所に落下した焼夷弾の不発弾の犠牲となって、戦後は寝たきりだったこともあり、長男であった父は建築用の河川の砂を運ぶ仕事をして、友人が学校に通うのを横目に家族を支えた。戦中と戦後の苦しい時代を思い出したくなかったのだろう。
僕らの両親の世代にしてみれば『戦中に生まれて』戦争を経験した世代であり、さらに一つ前の世代である祖父母の時代であった『戦前生まれ』の人々は、もうほとんどこの世からいなくなってしまった。しかし、私たちの小さな子供たちは十年後に、いや、もしかすると数年後には『戦前生まれ』と呼ばれるかも知れない。
南風なれども
その35
青山かすみ
梅の蕾も膨らみだすところの如月。雪解月、初花月と言いたいところだが、節分、立春、stバレンタインを過ぎても底冷え感が拭えぬ二月である。この冬から春へのだいじな準備期間に西洋と東洋の中間地点で大地震が起きてしまった。
日を追うごと、ひとまわり前の卯年・春3月のことがよみがえ
るのは不思議だ。東北を襲ったあの大地震と押し寄せた大津波が自分の記憶の中でフラッシュバックし比べてしまってる。もうすでに12年を経たはずが、こんなにすぐ反応してしまうことに自分自身驚きを隠せない。
また日本では1923年(大正12年)に発生した関東大震災から数え、ちょうど100年の節目でもあるからね。地球のアチラコチラで起こってる閉塞感極まりない問題を、人間一人一人少しづつの行いで改善してゆければと思う。わたしたちは身近な日常茶飯を見直すことできてるかな?ライフスタイルって年齢ごと微妙に変化してゆくものだし。3年に及ぶコロナ禍での経済的影響に加え、羽田新航路によってもたらされた超低空飛行の騒音被害プラス米軍ヘリと自国ヘリによるによるダブルパンチ。今まで経験したことのない重圧となって危険な毎日を過ごさざるを
得なかったんだから、そのダメージを考えただけでも戦争を体験したことと同じよね。物質的には一見豊かな時代になったようだけど、実のところどうなんだろうね。中国の繁栄の影に生まれた大気汚染や公害から逃れるすべはあるのだろうか。砂漠化や乾燥による森林火災は増すばかり。海水の温暖化から発生する豪雨も止めれずの悪循環状態をどうするつもりなんでしょう。
廃油からエコ燃料ができるからと目の色変えて回収する時代になったと聞くが、そのためにどれだけ大きなエネルギー代をかけてるんですか?笑えて妙な話じゃございません?ポーズが大事な時代はもう終わってるのに。現都知事さんは東京を売り込むべく、シンガポールのような国際都市にしたいと語っていらっしゃいましたが……もっと花と緑に囲まれたグリーン都市に向かっていただきたく、切に願うばかりです。
高層ビルディングほど日本人に似つかわしくないものはございませんもの。自由に窓も開けられませんから。今、日本橋周辺ではしばらくご無沙汰してる間にビル風吹きまくりとなって、超寒々しくなりましたわねぇ。
江戸らしい風情がますます消えてしまいましたわ〜羽田の第三ターミナルも稼働し始めたそうですけれど、なんですか完成してみたら人の動線と交通手段移動時乗り換え方法などの点で問題がありありの模様とのこと。世界中の様々な人々が利用する空港なのですから物事を長期的に捉え、蓄積された史料をもとに総合力をつけたうえで焦らず、自国ならではの昔からの知恵を込めたものづくりをすべきかと。
エネルギーを蓄えながら災害への備えも必須な時代に十分対応でき、それでいて心地よい空間を構築していただきたいです。飛行機が離発着するそばのホテルで過ごすなんて時間に追われるビジネスマンくらいでしょ?普通の観光客は目的地へ直行したいはずですよね。都心新ルート問題と羽田第三ターミナルの問題や、それにつながる様々な再開発問題は今後も長きに渡り物議をかもす最重要課題となるはずです。
「羽田エアポートガーデン」の入り口は少し分かりにくい場所にあり、入ると長い連絡通路が続いています。飛行機を降りて、わざわざここに来る訪日客がいるのかな〜と疑問を感じました。その対応としてか、連絡通路にそって「JapanPromenade」15店が設けられています。日本の伝統をテーマにして和菓子、扇、傘、日本茶などのショップが並んでいました。200mほど歩くと、やっとショップ&レストランエリアにたどり着きます。広い免税店やコンビニのほか「羽田参道」というエリアには、個性的なバッグ、化粧筆、文具、雑貨店が17店舗並び、インバウンドに対するアンテナショップ的役割をもっているように感じました。
このプロジェクトの事業者は「一般競争入札総合評価落札方式」により選定され、公募した3事業者から住友不動産のチームが選ばれました。国交省のプレスリリース(平成28年6月17日)によると、総合順位1位の住友不動産チームは内容評価点が最下位でしたが、年間の貸付料(国への賃料)が27億円と高かったため、1位になったことが分かります。選定にあたった有識者からは、第3ターミナルとの一体感がうすく、独立性が強いことを心配する声もありました。施設の中核となる住友不動産の「ホテルヴィラフォンテーヌ羽田空港」はエアポートホテルとしては日本最大の1717室を誇ります。この計画の主軸が、オリンピックに押し寄せる訪日客であったことが伺えます。
最奥部にある巨大な吹き抜け空間は、ラーメン、カレー、うなぎ、寿司、焼肉など15店が並ぶレストラン街です。通常、空港のフードコートは旅客動線の途中に設けられますが、ここへ来るには第3ターミナルから最長300mも歩きます。オリンピックというスタートダッシュを失った「羽田エアポートガーデン」。その将来は巨大ホテル運営の成否にかかっていると感じました。
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