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江戸の道、縄文の道 時空を超える美意識 https://collaj.jp/秋袷 2025 古来から鈴鹿峠は、不破関(関ケ原)、愛発関(越前)と並ぶ「三関」(さんげん)のひとつでした。壬申の乱(672年)の際は、大海人皇子(天武天皇)が鈴鹿の関を閉ざす「固関」を行いました。町の北側の内山には聖武天皇や斎王が使った鈴鹿赤坂頓宮があったといわれます。伊勢神宮の入口でもある関宿では、一年を通じて正月飾りを玄関に飾る風習があります。東海道五十三次のひとつ「関宿」は三重県西北端の亀山市にあります。長さ約1.8kmの街道には200軒以上の伝統的町家が残り、昭和 59年「重要伝統的建造物保存地区」に選定されました。昭和 27年国道 1号線が宿場町を外れて開通したため、東海道としては全国で唯一、宿場の町並みがそのまま残ります。昭和55年には「町並み保存会」が発足し、名古屋大学工学部建築学科小寺武久研究室などの協力によって行われた調査は『関宿伝統的建物群保存地区調査報告』にまとめられました。近くにはかつて液晶テレビで知られたシャープ亀山工場があり、旧東海道沿いの過疎化、高齢化が進む一方、近隣には新興の住宅団地も造成されています。中世の頃、関宿は伊勢平氏の流れをくむ関氏によって治められていました。関氏の祖、平実忠は鎌倉幕府の重臣でしたが、1333年北条氏の滅亡後は鎌倉から帰国して伊勢国の豪族に成長します。戦国時代には織田信長に屈服させられ、三男の信孝が関宿を支配しました。信長の死後、織田信孝は豊臣秀吉に敗れ、蒲生氏郷の配下だった関盛信が関宿を治めましたが、蒲生氏郷が会津に転封されると、関氏も白河に移りました。慶長 6年(1601)には徳川家康による宿駅制度によって関宿は東海道の宿場町として整備され、鈴鹿峠越えの拠点として、また伊勢別街道と大和街道の分岐点として大いに繁盛しました。 全長 1.8kmの大規模な宿場町新所町 +中町 +木崎 町並みは最初、西側の新所町と東側の木崎に集落が形成され、天正 11年(1583)関盛信により宿場町として中町が作られたと考えられています。中町は一番町から六番町まで計画的に整備され、問屋場や本陣、脇本陣が設けられ、伝馬役をになう宿駅の中核で、道中奉行の支配をうけていました。元禄 5年(1692)の関宿図によると、総長は14町 16間で、家数は総計 492軒、天保 14年(1843)には家数 632軒、人口1942人、本陣2、脇本陣2、旅籠屋 42(大10軒、中18軒、小14軒)、そのほか100軒近い飲食小売店が軒を並べていました。 かねき伊藤彦市商店は、慶應元年(1865)創業の茶問屋です。伊勢地方では鎌倉時代から盛んにお茶が栽培されてきました。 Vol.75 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ ミチシルベっていうのはさ ひとところに佇んでさ正しい方向ばっかりを 指し示してるものじゃあないのかい? 調査によると、関宿には幕末から明治期の建物が約 45%、大正から戦前までが 24%と、戦前の建物が 70%近くも残っています。中町には特色ある町家が多く、本陣や脇本陣のほか、玉屋、鶴屋など規模の大きな旅籠も現存します。徳川家康が利用した「御茶屋御殿」と呼ばれる陣屋の前には高札場が設けられ、隣接する旅籠「玉屋」は歴史資料館として公開されています。慶応元年(1865)に新築された主屋は軒が特別高く、左官で白く塗り込めた 2階部分には宝珠をレリーフした虫籠窓をシンボルにしています。▼伊勢講など団体の到着時は講札を掲げて歓迎しました。 「関で泊まるなら鶴屋か玉屋」と謳われた玉屋。通り土間の横には街道に開放された広い板の間(ミセ・チョウバ)があり、奥の座敷と2階を客室として使いました。江戸後期の宿賃は1泊 2食付きで 250文(7000円位)、昼食代が100文(2500円位)で、1日最低 10000円は掛かりました。米を持ち込んで自炊する安価な木賃宿もありました。通り土間の奥にある吹き抜けの広い土間(ニワ)にはカマドや炊事場があり、客の食事を用意していました。その外には石造りの井戸を囲んだ井戸端があります。 ▼旅籠で使われていた漆器なども展示されています。 武士などが泊まった「離れ」は、 一般の客室よりも上等な作りで、床の間や書院が備えられています。襖の上の欄間は玉屋 12代主人理右衛門が彫ったといわれます。玉屋歴史資料館は、平成 5年に建物と敷地を町が買い受け、旅籠の姿を取り戻すため 3年掛けて保存修復工事を行い平成 8年にオープンしました。 ▼ 庭の土蔵は1739年の建築です。 階段を上がった 2階には、一般客の部屋があります。畳の大広間を障子で仕切った間取りで、部屋の大きさをフレキシブルに変更できます。玉屋のような大きな旅籠は1日100〜200名ほどの客があり、多くは一室に数組が泊まる相宿となりました。当時の旅行ガイドブックには、相宿のエチケットも書かれています。 今年も開催「六本木アートナイト 2025」9月 26日(18:30〜 22:00)、27日(13:00〜 22:00)、28日(13:00〜 20:00) キム・アヨン《デリバリー・ダンサーズ・アーク:0度のレシーバー》 カン・ジェウォン《Exo2_crop_xl》《Flame》 イム・ジビン《EVERYWHERE》 TAGO 《韓国の鼓動 ドラム・シャーマン》 「都市とアートとミライのお祭り」をテーマに、今年も六本木アートナイトが開催されます。会期は 2025年 9月 26日(金)〜 28日(日)。14回目を迎える今回は、「RAN Focus」とし て韓国が選ばれ、映像作家キム・アヨンやカン・ジェウォン、イム・ジビンなど気鋭の韓国人アーティスト6組が参加します。その他、計約 30組が、六本木ヒルズ、東京ミッドタウン、国立新美術館、龍土町美術館通り、六本木交差点、天祖神社、を舞台にパフォーマンス、音楽、映像、トーク、デジタルアートなど 50以上のプログラムを展開します。 草野絵美《Synthetic Youth - Takenoko Zoku》フォン・チェン・ツォン《Sailing Castle: Roppongi》 TOKYO MIDTOWN AWARD 2025 Pre 山本 裕& Honey → B《妖怪図鑑六本木ノ夜》 10月「新しい始まり」2026年を映す1カ月。 10月について書くのは今回で4回目となりました。毎年同様ですが、一年の中で 10月は少し特別です。その年の10月から徐々に翌年のエネルギーが動き出し、2月頃にかけて新しいエネルギーへと切り替わります。10月は 2026年の流れを映す、予行演習といえる1カ月です。 心と体と思考の健康をデザインする とっておきの休み時間 43時間目 2025年 10月のエネルギーは「10(=はじまり)」であり、2026年は一年を通して「10」のエネルギーが流れます。この10月はスタートのエネルギーが強い「はじまりの始まり」の一か月。より一層「新しい」を意識して過ごすと良い循環が生まれていきます。 これまでと同じような事も、10月はあえて新しい手法にチャレンジしたり、いままでにない視点や思考を取り入れたりと、これまでの延長線とは違う新しい道を進む、探る、作ってみることがポイントです。習慣に流されず、まっさらな気持ちで取り組んでいきましょう。 “はじまり ”は決して安定したものではありません。ざっくり方向性を決めたら、上手くいくかどうかは一旦横に置き、まずはスタートします。上手くいかなければやりながら軌道修正をして方向性を探り、可能性を広げていく。”可能性 ”もまた重要なポイントです。 また、新しく着手するとすぐに成果や甲斐を求めがちですが、初動に大きな期待をしないこと。一喜一憂せず、周りの声に惑わされず、淡々と自分が描いた世界を進みます。方向を間違わなければ、いずれ何かが動き出し、自然と次の流れができていきます。 残りの9月は新しいエネルギーを迎えるために、余分なものを手放し、心身思考を軽くしておきましょう。 写真&文 大吉朋子今年の春頃からだったか、毎朝歩くようになった。いわゆる「ウォーキング」である。朝起きたら簡単に身支度をして、まずは外に出て歩く。これまで私は「ただ歩く」ことに気が進まず、人に勧めることはあっても自分ではしなかった。むしろ、歩くだけはツマラナイ、と思っていた。それなのに、だ。人の思い込みも変化してくれるもので、気合を入れて始めたわけでも、強い意志をもって始めたわけでもないけれど、「ウォーキング」はその日の予定に応じてしっかり組み込まれるようになった。なぜ始めたのか?といえば、”なんとなくやってみようか ”の本当に軽い気持ちの思いつき。 私は体質として血圧が低めなのか、低血圧という自覚はないものの、これまで病院で血圧測定をすると数値が低いといって看護士さんに驚かれることが何回かあった。一般的には立っているのも辛い数値らしいのだが、私はいたって普通の感じ。ただ、朝起きて ”すぐ ”というのはけっこう気合と準備が必要で、一気にはエネルギーが上がってこない感覚はあり、私にとって朝のランニングはとてもハードルが高かった。 いつもより早く起きた朝、ふと「歩いてみようか?」と思い立ち、考えを巡らす前にさっさと着替えてスニーカーを履いて外へ。ふだん向かう方向とは違う方に歩きだしてみた。ひんやりと澄んだ空気が気持ちよく、自然と足が進んだ。「朝起きてすぐ」には抵抗があったはずなのに、「あれ、意外と大丈夫?」という感じ。 早朝ならではの空気の色というのか質感というのか、大好きな雰囲気が広がっていて、とても気分が良かった。犬の散歩をする人の多さや、早くから出勤する人の様子など、新たな発見があるのも面白かった。 気づけば季節は進み、太陽の位置も強さも変わっていた。「習慣にしよう!」なんて思ってもみなかったのに、いつのまにか朝ウォーキングは毎日の楽しみとなり、これまでハードルが高かった朝ランも、必要に応じて予定に組み込めるようになってきた。 朝のウォーキング習慣が始まってから血圧を測っていないけれど、肌身離さず装着している AppleWatchで計測されるヘルスケア数値にはわずかながら変化があるので、おそらく微細な変化を遂げている様子。今ではその負荷が日常の一部となりつつあるけれど、基礎体力がわずかに向上した感覚もある。数値はともかくとして、今までできるとも思っていなかったことが、いつのまにか日々のルーティンに入り込み、全体的に前向きに進んでいることが嬉しい。 そして、夏の朝からは近所に住む親の様子をチェックに行く、というルートが加わった。何もなければそれでよいし、何かありそうだったら対策を考える。これもまた、以前はなかった習慣が日常に組み込まれたひとつの出来事。 自分が歳を重ねれば当然親も歳を重ねる。歳の差は絶対に縮まらないのだから当たり前のことなのに、何事もないときには意外と忘れてしまう。そして、高齢になればなるほど、変化の方向は上昇よりも低下へと向かうことを、あらためて目の当たりにする。”生命力 ”と、その強弱という表現しようのない人のエネルギーについて、観察するたびに思考が巡る。 私にとって朝のウォーキングは、日常の中にありながらも、どこか一段上の視点から今を眺めているような時間になっている。ランニングとはまた違う感覚で、かなり気に入っている。 関まちなみ資料館 「関まちなみ資料館」では、関宿の典型的な町家を見学できます。主屋は切妻屋根の平入りで、奥までの通り庭(ドマ)が設けられています。入口の脇にはミセノマがあり、その奥に座敷があります。 通り庭を進むと主屋の座敷があり、立派な床の間や書院が設えられています。座敷からは中庭と角屋(つのや)、離れが見えます。角屋は主屋と離れを連結する建物で、渡り廊下にそって井戸や炊事場や風呂、便所などがあります。 角屋の廊下を進むと主屋と連絡した離れに入れます。離れの1、2階は町並み保存の歴史展示室になっています。敷地の端には裏口があります。離れの後ろに畑を設けた町家もあります。入口の帳場に設けられた箱階段で 2階に上がります。江戸時代に天井のある2階を作れたのは大きな旅籠だけで、通常の町家は街道側の軒高を低くした厨子二階(つしにかい中 2階)が大半でした。ここでは屋根勾配に沿った竿縁天井を設け畳を敷いて居室として利用しています。明治になると江戸幕府による高さ規制が解け、2階を設ける家が多くなります。 2階の壁は個性を表現する場所になっています。1)塗籠系窓の額縁を強調して、大きさ、形、色、位置などに個性を出したタイプ。幕末から明治中頃にかけて多い。2)真壁系柱を見せた真壁にして、開口部を設けないタイプと窓を付けるタイプがある。縦繁格子を組み合わせることも。3)手摺系二階壁面を障子やガラス引戸にして、その前に手摺を設けた開放的なタイプ。明治以降に多い。板ガラスのサイズが小さかったため、格子の間隔が狭い。 昭和初期のタイルやブロック塀も、宿場町の変遷を示す歴史的要素の一部と考えられています。 ウシイ製紐は火縄銃の縄を作った関宿の歴史を継いでいます。その向かいには大名行列を見送った御馳走場があります。 西部開拓時代のサルーンで見逃せないのは、開拓が進むに連れ てサルーンの様子が変わっていくこと。当初は圧倒的に「お酒中心」の店が、前回ご紹介したように、そこに「博打」が加わり、雰囲気を盛り上げる音楽も登場する。では、料理については、どうだったのか。その興味深い歴史を覗いてみよう。 少し歴史をさかのぼって「サルーン」と呼ばれる形の店が登場する以前は、どうだったのか。まだ英国やフランスそしてスペインが植民地獲得を争っていた時代のアメリカでは、開拓されたばかりの町で酒と食事を提供したのは、簡素な居酒屋、それに宿泊もできた居酒屋兼宿屋だった。町の周囲には開拓農民が定住し始める一方で、更に奥地へと開拓地を求めていく移民や、毛皮を求める猟師、先住民との交易を目的とする商人、兵士、砂金探しの男たちなど、多彩な人々が町を通り過ぎていく。なので、簡素な居酒屋と宿は、無くてはならない存在だった。一方それは、女性や子供たちも訪れる町のコミュニティ・センター的な場所でもあった。食べ物としては、ハムやベーコンそれにホットビスケット(温めて食べる スコーンに似た丸いパン)などが用意されていた。こうした中にサルーンが登場する。 1825年頃から急速に各地に広がりはじめ、 1860年頃には、「ビールやウィスキーなどの酒と料理を提供する店」=「サルーン」という形が定着する。明治維新の直前だ。 前回触れたように「サルーン」 という言葉はフランス語から来ている。それは西部開拓時代の初め、現在のアメリカの非常に大きな部分がフランスの勢力下にあったからだ。 1803年、まだ若きアメリカ合衆国は、当時「ルイジアナ」と呼ばれた中西部に広がる広大な領域をフランスから買い入れる。時の米国大統領は、グルメでパリ滞在も長く、豊かな食材を生みだす農園経営で知られるトーマス・ジェファーソン。一方、売却を認めたフランス側のトップは、皇帝ナポレオン1世だ。戦の天才たる「英雄」は、戦の連続で空になった国庫を満たすためアメリカ中西部の所領を売却した。今考えれば、これは歴史に残る国家的な大損失だ。ロシアのアラスカ売却の比ではない。というのも、この時アメリカに売り渡された土地がどれほどのものかを知れば、誰しもそう思うはずだ。それがどれくらいの広さだったかと言えば、現在のルイジアナ州を筆頭に、アーカンソー、ミズーリ、アイオワ、オクラホマ、カンザス、ネブラスカ、ノースダコタ、サウスダコタのほぼ全域。それに加えて現在のミネソタ、モンタナ、ワイオミング、そしてコロラド各州の一部地域という具合だ。この買い入れで、当時の合衆国は面積が倍増している。その結果として、中西部開拓が一気に本格化する。で、サルーンがそこら中に誕生していくことになる。 青い部分が元フランス領。 こうした背景もあって開拓時代のアメリカは、どこでも人の動きが激しかった。 欧州各地からの移民が爆発的に増え始めるに連れて、サルーンも多彩な形で発展していく。この時代、新たに開かれる町は、主要な移民集団の構成や、町の経済を支える産業、町が交通の要衝であるか否かなどの違いで、その個性が形作られていく。サルーンは、こうした町の個性をそのまま反映する鏡のような存在だった。だから、単にサルーンといっても、その客層、店作り、出される酒や料理に至るまで、地域ごと町ごとに、千差万別の個性があった。西部劇映画では、ほぼワンパターンで描かれるサルーンだが、あのようなサルーンは、サルーンのごく一部の姿に過ぎない。 こうして欧州各国から怒涛のように押し寄せる移民(その大半は農民)の到来によって、すごい勢いで中西部の開拓が進んでいく。その過程で、それぞれの地域に大きな町すなわち都市が誕生する。中でも、サルーンの歴史を語るうえで欠かせない特別な都市が、現在のルイジアナ州ニューオーリンズだ。アメリカで最もフランス文化の足跡が色濃く残る都市の一つといわれていて、町の名からして新オルレアンであり、周辺の地域一帯は広範囲にわたってフランス風の地名で溢れている。そ 19 の世紀半ばの発展が物凄い。 1830年からのいる。この都市は全長ため、周辺は大きな干潟が広がる一帯で、湿度が高く平均気温も高めで、基本穀物である小麦やトウモロコシの栽培が難しい。そのため、爆発的に増える人口を支える基本的な食料は、海産物以外はほぼすべて、ミシシッピ川を北に数千キロもさかのぼった、小麦とトウモロコシの畑作地帯から運ばれてきていた。 では、このニューオーリンズの爆発的な発展は、何によってもたらされたものなのか。それは、サトウキビと綿花だ。その集積地であり取引市場であり、その輸出港として栄え 30 年間で、人口が 3 8 0 0 kを超える長大な大河ミシシッピ川の河口にある ていく。特にサトウキビは、亜熱帯的な気候が必須で、ニューオーリンズから、その北西 12 0 kほどに位置する、現在の州都バトンルージュまでの一帯で栄え、最盛期には広大なサトウキビ農園が 5 0 0カ所もあったという。また、バトンルージュから北東 4 5 0 kほどのヴィカーズ周辺までは、綿花生産の中心地となっていた。どちらも黒人奴隷労働者の存在を抜きには語れない暗黒の歴史がある。 こうした暗黒面を抱えながらニューオーリンズは、砂糖と綿製品輸出の爆発的な伸びにより、全米でも有数の豊かな交易港湾都市として発展していく。多くのバレリーナを描いた印象派の画家として知られるエドガー・ドガは 1872年、自身の家系のルーツであるニューオーリンズの親戚の家を訪ねていて、このとき、ニューオーリンズの富の象徴であった綿花取引所の内部の様子を描いた作品を残している。もともとフランス領であったため、当時のニューオーリンズは、ある意味パリと直結していた。その影響は、この絵に描かれた、綿花の取引をする男たちの服装からも、うかがい知ることができる。当然この地の料理にも、パリ的フランス的な影響は色濃く及んでいて、当時ニューオーリンズは全米でも有数のグルメ都市として知られていた。 だからこそ、ニューオーリンズのサルーンの料理に要注目なのだ。では、具体的にどのような料理が提供されていたのか。その一例を挙げてみよう。「フランス 4倍弱になって ニューオリンズのサルーン「 Little Gem 」 ミシシッピ川の河口ニューオリンズの綿花取引所 農場主の館 西欧食文化ヒストリー 早稲田大学 中野校第一次世界大戦・ドル高・禁酒法がもたらした第2回第4回アメリカ食文化へのパリ(フランス)の影響 ンションセンター パンが山盛りの大きなバスケット」、「贅沢にたっぷりバターを使って炒めた肉や 第第5回古代ローマ帝国、ふたつの食の基盤スパイス交易のインパクトモノ(食器や台所用具や農具)と絵画から探る食文化史野菜穀物に秘められた第3回 ※(早稲田大学エクステンションセンター)をご覧ください。 1詳しくは左下のリンク回歴史 野菜の料理」、「オイスターチャウダー(牡蠣をバターやクリームや牛乳を使って 2025全11月5日、12日、19日 5回年秋講座が開催されます。 2025年 10月(毎水曜10:40.12:10 22日、 29日、) 軽く煮込んだ料理)」、「重さ kという巨大な牛肉のロースト」、「様々なジャガイモ料理」、「羊肉のシチュー」、「トマトの煮込み」「フランス風マカロニ(マカロニにバター、小麦粉、牛乳で作るベシャメルソース(ホワイトソース)をかけ、グリュイエールなどのチーズをたっぷり振り、時にコニャックで風味付けした料理)」。また店によっては、ニシンの燻製、塩味ピーナッツ、ポテトチップス、デ 大原千晴さん ィルピクルス(小ぶりの硬いキュウリのピクルス)など酒のつまみ的なものまで。 10 いずれも、濃厚な味付けで、おつまみ類は塩っ辛いものが中心だ。こうした料理が、温かい料理は、アルコールランプで保温される銀メッキ製の大きな保温皿に盛られていたというから、まさにフランス風だ。 18 ここで注目すべきは、実は「料理の提供のされ方」なのだ。 18 5 0年代ニューオーリンズのサルーンでは、上に挙げた料理はすべて、原則「取り放題」(食べ放題)のビュッフェスタイルで提供されていた。それどころか、驚くべきことに、この「食べ放題の料理」は、酒類を一品でも注文すれば、原則「無料」。それは文字通り「フリーランチ」と呼ばれていた。大半のサルーンでは、午前時半から午後1時までこのフリーランチが提供されていた。フランス(パリ)文化を背景として、当時の米国では抜きん出て料理の水準が高い上に、これが無料!一気に全米にその噂は広まって、他の都市でもフリーランチは広まっていき、ついには「終日フリーランチ提供中」なんて店まで登場するに至る。 ではなぜ、ニューオーリンズのサルーンは「フリーランチ」などという、一見赤字覚悟のような営業をし始めたのか。儲けを増やすためだ。「食べ物は無料だが、飲み物(酒)は有料」これがポイントだ。先にあげた濃厚な料理や塩っ辛いおつまみを食べ続ければ、当然、喉が渇く。呑兵衛なら、あっという間に、ビールやワインやウィスキーやカクテル類が進むことになる。その基本は「海老で鯛を釣る」=「無料の食べ放題で呑兵衛を釣る」なのであって、これは現代の日本でも結構あちらこちらで有効に機能しているのではないか。 百五銀行の亀山支店 関プラザ出張所は、町並みに調和するデザインが採用されており、銀行のロゴは掲示されていません。ATMには「現金自動取扱所」と表示されています。 宿場町の西側、木崎の町家は、平屋や中二階の比較的低い建物が多く、間口は 3〜 5間程度と狭いのが特徴です。2階の壁面には真壁が多く、前面に格子やガラス戸を入れた仕舞屋(商いをやめた家)の構えも見られます。幕末・明治の伝統建築と大正・昭和の住宅が混在しており、生活感のある独特の空気をかもしだしています。 伝統的建造物の保存修理工事の流れ 伝統的建造物群保存地区の建物の修繕には補助金制度があり、以下のような流れで保存修理工事が行われます。1)現地調査:詳細な現状調査により建物がいつ、どのように建てられ、どのように変化したかを把握し、修理が必要な個所を特定。2)保存修理計画の立案:建物が建てられた当時の姿を明らかにして、修理後の間取り、外観、修理方法などを決定。3)保存修理工事:解体を行い、新たな修理箇所が見つかった場合は計画を変更したり、工法を検討します。間取りについて所有者と協議を進め、地震に備えた補強工事も検討。4)保存修理工事の実施:計画に基づいて、保存修理工事を進めます。再利用できる部材は出来るだけ活用し、内部については所有者の意向に基づき近代化します。外観に比べ内装にかかる費用の補助は少ないので、所有者にとって負担となります。宿場町の東端「東の追分」には、伊勢神宮への旅のスタートとなる「一の鳥居」が立っています。これは宇治橋の内側に立つ鳥居を式年遷宮の際に移築したもので、元々は内宮正殿の棟持ち柱です。伊勢の地で40年を経てから関宿に設置され、さらに20年の時を刻みます。 内宮正殿の柱 街道沿いの家には、揚げ店(ばったり)と呼ばれる上げ下げ式のベンチがありました。幅は2m程度、奥行40cm程度で、売り物を並べたり人が座ったりします。庇の出は60cm程度が多く、柱から腕木と持ち送りで支えられ。持ち送りには繰形が見られます。庇には桟瓦を葺いたものや厚板葺があり。瓦には家紋や文様を入れます。庇の下に日よけとなる幕板を下げることもあります。 2019年にオープンした「関の山車会館」は、毎年 7月にひらかれる「関宿祇園夏まつり」に使われる山車(やま)を展示しています。関の山車は、狭い街道を通るために幅を制限されているため「関の山」の語源になったともいわれます。主屋はもともと関萬古(せきばんこ)焼を明治から昭和初期に開発した三谷家の町家でした。 ドラゴンシリーズ 131 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 『美しさ』との出会い 美しいと思うとき、その美しさに説明は要らない。 何かをつくるときには、必要なものや不要なもの、時代の要請などさまざまな要素を考える。しかし、それらを並べ立てると重要事項のリストになってしまう。 「美しい」と感じるときに理由が必要だろうか。 ふいに訪れる美しいものとの出会いは、胸の鼓動を高鳴らせたり、切なさで胸を締めつけたりする。そのとき湧き上がった感情は、時が経っても心に深く刻み込まれ、純金の刻印のように鮮やかに残り続ける。旅先で出会う地球と宇宙がつくり出す壮大な景色、山々の自然の中での動植物との偶然の邂逅、そして日々の暮らしの中にふと浮かび上がる何気ない瞬間、私たちの生活には、そんな美しさとの出会いが常に潜んでいる。 その時々の心の状態と響き合い、美しいものを捉えられたとき、時間と人との偶然の出会いが融合し、脳の中で新しい感情という化学反応が生まれる。美しさとの出会いから生じるスパークする火花のような感情を、私たちは生きながら探し続けているのかもしれない。 もし、自分が何かを生み出す理由があるとするならば、それは「美しさ」に向かうことではないだろうか。ものをつくり出す営みの中で究極的に求めるのは、個としての美しさ、集合体としての美しさ、そして全体を包み込む空間としての美しさである。その空間は、人間という有機的で感情的な存在を媒介に、さまざまな匂いや気配を纏い、独自の美しい世界へと醸成されていく。 ひとつの個体の存在にも、宇宙的な広がりと深みと強さがある。狭く感じるような、小さく見えるような世界の中にも自分の時間だけでは辿り着けない遠大で深淵な深さが存在する。 そのように物事には、内部に向き合うことで見えてくる奥行きと洗練がある。その具体と抽象が交錯する世界には定義がなく、法則も方法も存在しない。時に自由で、独自で、無秩序ですらある。しかし、その複雑さの中にも「美しさ」という感覚的で感情的な概念と、一定の完成度が確かに存在している。私たちは理由づけできない混沌の中で、美しさを探り、その概念と向き合いながら、何かを目指していくのだ。 人が生み出す美しいものからは、必ず何かを感じ取ることができる。そこには、それぞれが明確に求めるものが示す何かが存在する。美術家や音楽家が自己と向き合い、独自の表現を模索して生み出す作品。 料理人が修行と研鑽を重ね、食材との出会いや対話からつくり出す奥深い食の世界。職人が日々の繰り返しの中で素材と技術の可能性を見出し、それを精神性によって昇華させた完成度の高い日常の品々。全ての行為の集積は複雑に重なり合い、影響を与え合いながら独自の世界を形成してゆく。そこには研鑽から得られる高度な技術によって、見える世界と見えない精神的なものが刻まれ、佇まいとなって確実に存在している。 『美しさ』の根拠を説明することは難しい。しかし、『美しさ』には確かな力がある。存在と行為を考えるとき、そこには存在そのものへの眼差しがあり、想像する美しさと向き合うことが、私たち人間の自らの行いの根拠となっている。自然と生命そのものに、美しさは宿っている。それは、途方もない時間をかけて生まれ育まれた自然界だけが持つ必然の美である。自然が生み出す造形は、無駄のない洗練として際立ち、人間もまたその自然の一部であることを改めて思い起こさせる。 「愛する」ということもまた、『美しさ』を定義するのと同じように難しい。かつて映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の最後で、連続する数多くのキスシーンを目にしたとき、理屈を超えた何かの『愛する』と言う意味を映像から感じた。あの無意味で無秩序な人間的感覚こそ、美しさと通じる、人間だけが持つ独自のものなのだろう。 昭和初期のコンクリート構造を伝える 幻の橋タウシュベツ川橋梁 北海道 上士幌町 撮影:森 博樹 北海道の中央に位置する上士幌町は、酪農や畑作、林業といった産業を基盤に、明治時代から自然と共に歩んできた町です。内陸部に位置するため鉄道の敷設は遅れ、帯広駅と上士幌駅を結ぶ士幌線の開業は1926年(大正15年)となりました。タウシュベツ川橋梁は、十勝三股駅への延伸に伴って計画され、音更川の支流であるタウシュベツ川を渡る鉄道橋として1939年(昭和14年)に完成しました。完成から16年後、水力発電ダム(糠平湖)の建設により士幌線はルート変更され、橋はダム湖に沈むこととなりました。糠平湖は季節により劇的に水位変化するため、その姿を見られる時期は限られます。なお橋の近くまで行くためには、NPO法人ひがし大雪自然ガイドセンターのツアーに参加するか、林道ゲートの通行鍵を道の駅かみしほろで借りる必要があります(有料・要 WEB予約)。林道ではヒグマの目撃情報が相次いでいるため、ガイドの同行するツアーがおすすめです。また 700mほど離れたタウシュベツ川橋梁展望台からも見学できます。全長130m、アーチは11個並びます。タウシュベツとはアイヌ語で、カバの木が多い川という意味です。 橋は水没と露出、凍結と融解を繰り返すことで徐々に崩壊し、昭和初期の鉄筋コンクリート構造をあらわにした貴重な史料となっています。物資の輸送が困難な山間地に、短工期・低コストで鉄道橋をかける手段として選ばれたのが、当時最新の鉄筋コンクリートアーチ橋でした。鉄骨やレンガを運ぶ必要がなく、現地で採れる砂利や割石を材料として使えます。昭和 9年には沿線が大雪山国立公園に指定されたこともあり、景観と調和するデザインも考慮したといわれます。上士幌駅から十勝三股駅への延伸のため、谷や川を渡る約 60カ所もの鉄筋コンクリートアーチ橋が建設されました。▲ 士幌線の終点「十勝三股駅」は木材を積み出していました。▼建設時の様子。橋脚にアーチ状の型枠を組んでいます。NPOひがし大雪アーチ橋友の会ホームページから。 崩壊した姿からその構造が伺えます。10mおきに橋脚を構築し、その上にアーチ状の木の型枠をつくり、鉄筋を配筋してからコンクリートを流し込みます。鉄筋コンクリート部分はカップ状になり、そこに割石を詰めて線路を敷設しました。鉄道省技術者の知恵の結晶である一方、側面の壁が崩れると割石が落下するなど弱点も見えてきます。1987年、士幌線は廃線となり、コンクリートアーチ橋梁は取り壊されることになりました。しかし保存を望む市民の声の高まりから上士幌町は橋梁を取得し「旧国鉄士幌線コンクリートアーチ橋梁群」として守られることになったのです。今はひがし大雪アーチ橋友の会が中心となり、駅や橋梁に案内板を設置したり、補修工事を行うなど保存・活用を進めています。▲ サンリオピューロランドの入場料は、大人 3,900円〜。 ▼ 東京都埋蔵文化財センターの入場料は無料です。 日本最大級の計画市街地「多摩ニュータウン」。実はこの丘陵からは 964 カ所もの遺跡が見つかり、東京都内での遺跡研究の中心地となっています。40年以上の研究成果を見られるのが、多摩センター駅から徒歩 5分の「東京都埋蔵文化財センター」です。近くにはサンリオピューロランドがありますが、それに負けない存在感のあるキャラクターが沢山揃っています。遺跡には1〜 964の番号が付けられました。 No.72遺跡出土の土面は、丘陵人(おかびと)の肖像です。 広大な多摩ニュータウンには様々な地域があります。最初期に開発された諏訪・永山地区などは、団地の老朽化により過疎化・高齢化が進んでいましたが、複数の団地を一括で建て替える大規模団地リニューアルなどにより活気を取り戻しつつあります。 多摩ニュータウンは、東京都の稲城市、多摩市、八王子市、町田市にまたがり面は2,884ヘクタールに及びます。開発は昭和 40年代にはじまり、それに先立って大規模な遺跡調査が行われました。想定以上の縄文遺跡が多数発見され、竪穴式住居、土器、石器、落とし穴をはじめ、大規模な環状集落も見つかります。多摩川の支流、大栗川、乞田川を中心に複数の集落を形成した、7千年前から続くニュータウンがあったのです。 3万年の記憶 多摩ニュータウン遺跡群最古の遺物は、後期旧石器時代(約 3万年)の石器で、氷河期が終わる頃でした。気候は北海道に近く、針葉樹林にすむ大型のナウマンゾウやオオツノジカを求めて移動する生活を送っていました。獲物を解体したナイフ形の石器や角錐状石器が見つかっています。20,000 年前頃から気候は暖かくなり始めると、ナウマンゾウなど大型動物が居なくなります。イノシシやシカなど動物の小型化に合わせて新しい石器が作られるようになりました。 埋蔵文化財センターのアイドル「ナンデくん」。 ▲ 縄文草期の石器は、とても洗練されたフォルムです。 ▼ 展示されている土器(本物)に直接触れることもできます。 15,000年前頃に土器が登場すると食材の加工技術や調理方法が飛躍的に進歩し、生活は大きく変わり、縄文早期と呼ばれる時代が訪れました。この頃はまだ石器も多く使われていました。中小の動物が狩るための弓矢や陥し穴などの新しい狩りの方法が発達し、木の実など植物の採取もより豊かになっていきました。そうした背景から竪穴住居が作られ始めます。 多摩ニュータウンのヴィーナス。 多摩の女性たち 多摩ニュータウン遺跡からは、縄文中期の「背面人体文土偶」(大の字に立ったように見える土偶)が沢山見つかっています。これらは将来の幸福な結婚、妊娠、出産を願う成人儀礼に用いられたと推測され、妊娠線や出臍といった妊婦の特徴が表されています。中でも大型の土偶は多摩ニュータウンのヴィーナスと呼ばれています。 温暖な気候は約 6千年前にピークとなり、海水面が今よりも3〜5mほど上昇した「縄文海進」が起こります。現在は地球温暖化による海面上昇が問題となっていますが、6千年前にも同じことが起こり、東京 23区の多くが水没しました。約5千年前、温暖な気候は安定し、獣や魚、山菜や木の実が豊富な落葉広葉樹や照葉樹の大きな森が広がります。多摩の丘陵人は大きなムラを作り、安定した定住生活をするようになりました。土器の文様にはヘビなどの動物をモチーフにしたものが多く、有孔鍔付土器のような特殊な形の土器も作られます。また鳥を象った把手を持つ土器が多く見られるようになります。これは祭事に使われた特別な土器であったと考えられています。 ▼ 約 6千年前の縄文海進により東京 23区の多くが水没。 底が尖った土器をどのように使うかを説明したコーナーもあります。自立しない土器は住居内にのカマドで使われます。火を炊いて支柱で支えたカメ状の土器でお湯を沸かします。その上に底に穴を開けた土器を起き、木の実や穀物を蒸しました。多摩丘陵では土器に適した粘土が沢山採れました。 No.248遺跡(町田市小山ヶ丘)では、全国でも最大規模の粘土採掘坑が見つかり、635トンの粘土が千年以上にわたり採掘されたと想定されています。隣接する№ 245 遺跡では床に積まれた粘土や焼く前の縄文土器などが見つかり、土器の工房と推定されています。縄文後期後半になると、人々はなぜかこの丘陵からいっせいに姿を消し、多摩ニュータウン建設まで長い眠りに付きました。 「中之条ビエンナーレ 2025」 9月13日〜10月13日群馬県中之条町 市街地、伊参、四万温泉、沢渡暮坂、六合エリア アニタ・ガラツツァ 撮影 Fumihito Nagai 大野 光一 撮影 Fumihito Nagai 三梨 伸《兵どもが見る夢》テレサ・クレア 撮影 Fumihito Nagai 今年第10回を迎えた中之条ビエンナーレは、2007年から2年に1度、群馬県中之条町で開催される国際現代美術祭です。かつては養蚕や鉄鉱石で栄え、ラムサール条約に登録さ れた湿原や歴史的な温泉郷、伝統的な祭事など、美しい里山文化に溢れた中之条町に、世界各国のアーティスト147組が参加して、中之条市街地、伊参(いさま)、四万温泉(しまおんせん)、沢渡暮坂(さわたりくれさか)、六合(くに)という5エリア 50会場に、様々なアートを展開しています。 西島 雄志田中七星 撮影 Fumihito Nagai 大矢りか 撮影 Kazuyuki Miyamotoクリスティアン・ボッフェッリ 撮影 Fumihito Nagai 俳優江良潤さんの一人芝居「天の魚」が、今年は東京・神奈川・埼玉で 10月に公演されます。石牟礼道子さんの小説『苦海浄土』をもとにした舞台で、今も認定基準を巡る裁判が続く現在進行形の公害「水俣病」の実相を訴えます。舟に鍋釜を積み込み夫婦で漁に出た日「天のくれる魚をとってその日をくらす。これほどの栄華はどこにあるか」と江津野老は水俣の海を称えます。その豊かな海はチッソの排出した水銀に汚染され、魚を食べた息子や孫は病に冒され、それでも家族を支えるため漁に出続けた江津野老にも水俣病の症状が出ていました。江良潤さんは 2019年から、時来社 石田弘見さんと協働し、ライフワークとなる「天の魚」公演を続けています。 【 公演スケジュール 】 問い合わせ・予約は 04-2998-4621(時来社)まで ● 10月 4日(土)〈狛江公演〉 会場:エコルマホール(東京都狛江市元和泉 1-2-1) 開場:午後2時30分 / 開演:午後3時 入場料:2500円 (高校生以下無料) 〈協力〉ひめしゃら塾 ●10月11日(土)〈相模原公演〉 会場:藤野倶楽部「百笑の台所」 (神奈川県相模原市緑区牧野 4611-1) 開場:午後 4時 30分/開演:午後 5時 入場料:無料(「百笑の台所」お客様感謝公演) 問い合わせ・予約:090-7010-2532(桑原) ● 10月18日(土)〈所沢・東村山公演〉 会場:図書喫茶カンタカ (東京都東村山市秋津町 3-30-6) 開場:午後 4時 30分/開演:午後 5時 入場料:2500円(高校生以下無料)+ワンドリンク代 ●10月25日(土)〈川越公演〉 会場:本町の長屋(埼玉県川越市元町 1-12-2) 開場:午後 4時/開演:午後 4時 30分 入場料:2500円(高校生以下無料) 〈後援〉NP О法人川越蔵の会 仙台藩伊達家上屋敷(新橋汐留)からは、染付の宴席用食器が出土しました。地下室に打ち割られた状態で大量に捨てられていました。その理由は謎です。 尾張藩上屋敷出土の陶磁器を時期ごとに展示して、江戸時代のはじまりから幕末、明治まで、陶磁器の移り変わりを展示したコーナー。300年の陶磁器の流れを辿ることができます。 宮城県の米どころとして知られる登米(とめ)ですが、北上川の東岸には豊かな森がひろがり、全国でも珍しい「広葉樹」を扱う登米町森林組合があります。東日本大震災の際は木造仮設住宅、公営住宅の建設を支援したり、プレカット工場を運営して木の家づくりを進めたり、原発事故の影響をうけたキノコ栽培の復興を助けたりと、様々な取り組みを続けてきました。そのひとつが、デザイナー小泉 誠さんと協働した家具「kitakami」です。左のワークチェアは、カシノナガキクイムシが媒介するナラ菌による被害を受けたナラ枯れ材を活用することで、全国の森林で深刻な問題となっているナラ枯れへの対策を提案しています。kitakami曲げ木椅子は、ナラ材を三次元曲げ加工した椅子です。三次元曲げ加工を得意とする秋田木工の高度な職人技から生まれました。2本の曲げ木だけで構成されたシンプルなフォルムでありながら、しっかりと腰と背を支えてくれる、軽くて座り心地のいい椅子です。こけし作家の我妻昇さんと協働した「なかよしこけし」や、登米町のケヤキとクリを仕口のように組み合わせた「kitakami center table」、マグネットを仕込んだ部材の組み合わせで A4のマス目をつくることができる「kitakami A4flame」など、北上の木の魅力をひきだした、様々なプロダクトが開発されています。会場となった JR蒲田駅近くの日本工学院専門学校蒲田校は、放送、演劇、マンガ・アニメ、ゲーム、CG、IT、デザイン、建築、音楽などクリエイティブな人材を育成しています。▼サイン会で長蛇の列を作った宮武一貴さんは、マクロス、宇宙戦艦ヤマト、ダンバインなどのメカデザインで知られています。 メイン会場となった日本工学院アリーナ地下 4階の大ホールでは、ステージでのトークショーや講演、コンサート、表彰式のほか、ディーラーズ(物販スペース)、サイン会などが開かれました。ディーラーズには老舗同人誌『宇宙塵』(うちゅうじん)のコーナーも設けられ、貴重なバックナンバーを購入できました。1962年創刊の『宇宙塵』は、星新一、小松左京、筒井康隆、光瀬龍、夢枕獏、山田正紀をはじめ、SF界をリードする作家たちの発表の場であり続けています。3号館 10階では、会費制の分科会が開かれました。今回は学園での開催ということもあり、25歳以下の学生は参加費無料となりました。『横田順彌と古典 SF』では、北原尚彦さん、日下三蔵さん、藤倉珊さん、牧眞司さん、中根ユウサクさんが、古典 SF研究の草分け横田順彌(2019年没)について語りました。名著『日本 SFこてん古典』は、江戸時代の黄表紙から、佐藤春夫、山本周五郎、井伏鱒二による SF小説、星新一の父・星一の SF『三十年後』などを紹介し、SF界意外からも注目されます。また『宇宙ゴミ大戦争』などハチャメチャSFでも多くの読者を楽しませました。表智之さん(北九州市漫画ミュージアム)の『マンガ原画保存の最前線』では、最近話題になっているマンガ原画の重要性や保存の難しさについて語られました。最近はマンガ制作のデジタル化が進んでいますが、紙に描かれたマンガ原画には印刷物には現れない様々なヒストリーが記録されています。 『SF史のなかのゲンロン SF創作講座』では、大森望さん(翻訳家・書評家)が主任講師を務めるゲンロン SF創作講座の果たした役割を、本人と菅浩江さん、東浩紀さん、小浜徹也さんたが語り合い、第 8回ゲンロン SF新人賞『君と歩く、くり返しの行き先』の作者秋吉洋臣さんも紹介されました。 『翻訳家に訊く。若い人にすすめたい海外SFは?』は、増田まもるさん、内田昌之さん、鍛治靖子さんたち SF小説の翻訳家が、おすすめの SF作品を紹介しました。 『世界の駄っ作機 30周年を祝う部屋』は、モデルグラフィックス誌での連載 30周年を迎えた『世界の駄っ作機』の著者 岡部いさくさん(軍事評論家)を囲み、駄作といわれる飛行機たちについて、石川潤一さん、富永浩史さん、青井邦夫さん、笠井正智さんと語り合いました。 ▼▼ 日本 SF大会のハイライトは「星雲賞」の受賞式です。1970年にはじまり、筒井康隆、小松左京、半村良、かんべむさし、山田正紀、眉村卓、川又千秋、井上ひさし、高千穂遙、田中芳樹、夢枕獏といった、錚々たる作家が受賞してきた、日本 SF界で最も名誉ある賞です。小説、映画、コミック、ノンフィクションなどの各賞がファン投票によって選ばれます。 日本長編部門(小説) 日本長編部門(小説)は『本好きの下剋上 司書になるためには手段を選んでいられません』 香月美夜著(TOブックス刊)が受賞しました。本を生きがいとする主人公が異世界に転生し、紙を発明したり、印刷技術を確立したり、奮闘する様子が描かれています。 ノンフィクション部門 ノンフィクション部門を受賞した『SF少女マンガ全史昭和黄金期を中心に』 (筑摩書房刊)は、日本古典 SF研究会初代会長長山靖生さんによる SF少女マンガ研究書。竹宮惠子、萩尾望都、山田ミネコなど1970〜80年代の黄金期を中心に傑作が生まれた背景を解説。 海外長編部門(小説) 海外長編部門(小説)の『システム・クラッシュマーダーボット・ダイアリー』 (東京創元社刊)は、アメリカ人作家マーサ・ウェルズさんの作品。著者にかわり訳者の中原尚哉さんが賞状を受け取りました。ウェルズさんは来年 4月川崎で開催される「はるこん」に来日予定です。 コミック部門 コミック部門に選ばれた市川春子さんの『宝石の国 全 13巻』(講談社 アフタヌーン KC)は、透明感のある独特の世界観が人気の作品。宝石の体を持つ人型の生物と月人の闘いを描きます。ジェンダー SF研究会が主催する第 24回Sense of Gender賞も受賞しました。 アート部門メディア部門 自由部門 アート部門では、漫画家・アニメディア部門を受賞した『侍タイメーターの麻宮騎亜さんが昨ムスリッパー』は、監督の安田年に続き星雲賞を受賞しまし淳一さんが脚本・撮影・照明・た。漫画作品『サイレントメビ編集までを手掛けた自主制作ウス』やアニメーション『宇宙映画。単館上映から全国上映自由部門には、『小型月着陸実証機SLIM(スリム)の月面ピンポイント着陸 雄伝説 Die Neue These』なミー賞最優秀作品賞を受賞しま 郎さんは、SF小説をきっかけに JAXA 究所の SLIMプロジェクトチームが表彰 されました。賞状を受け取った坂井真一 どを手掛ける麻宮さんは、会した。主演女優とプロデューサ 場で迫力あるライブペイントをーを務めた沙倉ゆうのさんと、 披露しました。安田監督が表彰されました。 を目指す職員が多いと語りました。 、『銀河英』9912戦艦ヤマト へと人気が広がり、日本アカデ 成功』が選ばれ、JAXA宇宙科学研 さて近年、モーレツな暑さに日本列島が襲われ、真剣に命の危険を感じているのは自分だけではないと思うのですが。夏バテする間もなく、追い打ちをかけるがごとく押し寄せる熱波はどうにもとまらない猛威となりました。いよいよといいますかとうとう、エアコンに頼らなければ生きられない世界に到達してしまったようですね…… 日中、買い物や病院に出かけることさえ憚られるんですから。帽子に日傘を差しカバンを持って歩きだしては見たものの、またたく間にマスクを付けた部分は息苦しくジワリ首元から汗が流れ落ちる状態になってしまいます。 「日が落ちるまで待とうよホトトギス」実のところ夏に弱い自分の行動パターンは出来ちゃってたんですけれど。イチ都民の切なる願いを申し上げるなら加速度を増す温暖化に歯止めをきかせられる身近な対策を早急に実行してもらいたい。これに尽きます。都心のど真ん中で、しかも外の現場で汗だくになりながら働く人の頭上を 80年以上前に起きた戦時中を思い起こさせる低空飛行、大型旅客機までがまるで特攻部隊なんじゃない?とみまごうばかりに飛んでゆくなんて、本来ありえないでしょ? 私はせっかくの南風が吹く夏の日を疎ましく想うようになりました。今日もまた表参道交差点に立つ「和をのぞむ -山の手空襲追悼碑」の上を旅客機が轟音を撒き散らし飛んでゆく。 『和をのぞむ』碑文太平洋戦争の末期、昭和二十年五月、山の手地域に大空襲があり、赤坂・青山地域の大半が焦土と化しました。表参道では、ケヤキが燃え、青山通りの交差点付近は、火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が亡くなりました。戦災により亡くなった人々を慰霊するとともに、心から戦争のない世界の平和を祈ります。港区政六十周年にあたり、この地に平和を願う記念碑を建立します。 平成十九年一月港区赤坂地区総合支所 区政六十周年記念事業実行委員会 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】