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時空にえがく美意識
11月号 晩秋 2013
http://collaj.jp/
聖家族 軽井沢
室生犀星旧邸の真向かいにある「旧軽井沢 Cafe涼の音(すずのね)」は、旧サロモン別荘を改装し国の登録有形文化財に認定されたカフェです。ドカン煙突にベンガラ塗りの下見板張りという、初期軽井沢バンガロー建築の特徴をよく残しています。
旧サロモン亭の建設年は定かではありませんが「ショーハウス」(前号で紹介)と似た中廊下を中心に各室を配置したプランで、明治期の建築ではないかといわれています。ライシャワー婦人となった元松方総理大臣の孫娘・松方ハルさんの所有だったものを、カナダの貿易商のサロモン氏が買い取り、一時は森瑤子さんもここで執筆活動をしていました。所有者不在となり荒れ果てていたものを、現オーナーによって保存・整備され「軽井沢を代表する別荘建築の雰囲気を多くの人に体験して欲しい」という思いから、2012年 7月カフェとして開放されました。
著名人の別荘が多く所有者の入れ替わりも頻繁な軽井沢では、歴史的価値のある別荘の保存は難しいテーマでした。今は「軽井沢ナショナルトラスト」などにより、軽井沢の歴史を掘り起こす、地道な研究・保存活動がすすめられています。
素敵な人たち 10吉田龍太郎(TIME&STYLE)
Bonsai(さいたま市北区盆栽町加藤蔓青園)
私達の目にどれだけのものが見えているのだろうか。孤独感や喪失感と言ったどん底の状態を潜り抜け、見えてくるものもある。寒さの中で持っているもの全て失い、絶望的な状況にいながらにして気づく真っ白な雪景色の美しさ。生きるか死ぬかのような切羽詰まった状況の中で追い込まれた時に立ち現れてくる人間の姿も、普段は見えていない真実の姿だ。普段は私達の目には見えていないもの、気づかないことも、心の在り方により美しいものは遠くにあるのでは無く、すぐそばにあることを知る。そのように私達の周りを見廻してみると、見慣れた風景の中に見えなかった真実や新しい発見が隠されていたりする。昨今は海外での日本ブームと言うこともあり、Japan Styleとか Cool Japan など、Japanの名の付く海外向けの日本の文化輸出の試みが行われているが、その試みの道のりは長くそして遠いものであることを実感する。最近では日本文化の再発見と言う流れもあって、日本食や伝統工芸などを見直す動きも多くなってきたが、本当にどれだけ私達日本人が日本のことを知っているのだろうか。ニュースなどのメディアもこぞって日本文化とか伝統工芸とか歴史とか言っているけれど、私達は自分たちの文化や歴史のことを知らない、知らなさすぎると思う。そう言う僕自身も全くの勉強不足で言えたぎりではない。日本人の美意識とか日本の物作りとか言っているが、その独自の価値や背景を知らなければ単に受け売りの『日本人の繊細さ』などと言った、なんとなくクリスタルな感じでそれ以上に説明ができない。私達日本人が今、世界に売り物にしようとしているいわゆる日本文化というものが果たしてどういうものであるのか。日本人が改めて自国の歴史や伝統文化を学び、そして私達自身の中にあるその種子を育んでゆかなければ、日本の私達のこれからは前に進んでゆかないように感じている。日本人のこれからにとって、私達が近年喪失してしまった大切な生活文化の根本にある背景をもう一度学ぶことが必要だと感じています。学ぶべきことの本質はその文化の真の背
景にあるものです。伝統様式や仕来りは永い時間の中で培
われた大切なものですが、本当に大切なことは表層的な文
化の形式ではありません。私達日本人がこれから日本独自
の産業や製品を生み出してゆこうとするならば、先人が長
い時間と共に培ってきた習慣や仕来りを学び、良いものを
取り戻し、自分たちの現代の生活の中や感覚の中で租借し
て、これまでの時間とこれからの時間を結びつけてゆくこと
が、日本人が本当の意味での日本人独自の文化や産業を見
いだしてゆくために必要な土壌なのだと感じています。
先日から自分たちの店舗で『盆栽』の販売を始めました。
それまで日本固有の趣味の園芸という概念として『盆栽』
を捉えていましたが、その背景や使途を学ぶほどに『盆栽』
に対する新鮮な発見と、『盆栽』の深い背景と魅力に引き
つけられます。『盆栽』は屋内では育てられませんので、基
本的に自然界の植物自生環境と同じように太陽の光と風雨
に晒されるような庭などの屋外で育てなければなりません。『盆栽』はそれを楽しむ時のみに屋内に取り込み、
『床の間』に飾るのです。『床の間』には一つの空間としての意味があります。そこに置かれた『盆栽』と背景の壁に掛けられた絵(すなわち『軸』)、そして『水石』という石の置物。その3つの要素『盆栽』『軸』『水石』の意味と関係性をつないで一つの文脈を生み出します。それは、詩を詠むごとくに季節や景色に見立てて行われる大人の『遊び』であり、客人に対する粋な『もてなし』であるのです。そして『盆栽』を『床の間』にしつらえる上で使用する数多くの道具や様々な様式形態が存在します。その要素は多種多様であり、無限の組み合わせがあると同時に、固い『しきたり』も存在します。それは形式のための形式ではなく、あくまでルールに基づいた『感性』の表現のための基本といえるのです。そのような文化の上にある『盆栽』の真の意味は『時間』の概念にあります。小さな盆の中に凝縮された大きな自然に、何十年、数百年に渡り一日とも欠かすことのできない水を与え続けることは、永い時間を掛けて植物を愛でることであり『時間』を愛でることでもある。
まさに『盆栽』の神髄は『時間=Time』であり。時間の成す『姿= Style』である。すなわちTime & Styleって、なんのこっちゃ。
旧軽井沢通りを二手橋に向かって行
があります。江戸初期からこの場所で営業をつづける軽井沢随一の老舗旅館で、明治の文人サロンだったことでも知られます。街道沿いに広い間口を持っているのは、江戸時代に「休泊茶屋」を商っていたためです。宿場町の出入口にあたり、旅人はここで強飯やそばをかき込み「銭箱」に代金を入れていきました。当時を彷彿とさせる古い銭箱の中には木彫の打ち出の小槌が入っていたそうです。
つるや旅館の廊下に掲げられた明治 30年代の別荘案内図。100戸近い別荘の持ち主の大半は外国人ですが、新渡戸稲造や三井三郎助、末松謙澄、鹿島岩蔵の名前もあります。ちなみに軽井沢に初めて別荘を建てた日本人は、英国留学帰りの海軍大佐・八田裕二郎といわれます。明治19年、ショー司祭がはじめて訪れてから10余年で、軽井沢は宣教師や公使館員、商館員の別荘地として瞬く間に整備されていきました。保守的な慣習の強かった信州の山中で、軽井沢はなぜ外国人宣教師たちを受け入れ、夏場の生活を支えることができたのでしょうか?
2代目市川左團次が旅館裏手に建てた別荘。没後は離れの客室として利用され、著名な文人もここをサロンとしていました。東京から棟梁を招いて建てさせた、軽井沢では珍しい本格的な数寄屋造りです。
「軽井沢が別荘地として発展した背景には、宿場町時代からの歴史がある」と、つるや旅館 18代目主人の小峰弘敬さんはいいます。山中の寒村であった軽井沢が栄えたきっかけは、江戸幕府が整備した五街道のひとつ中仙道でした。東海道を表街道とすれば中仙道は裏街道ともいえ、信濃や北陸(加賀、富山、越後)諸大名の参勤交代に利用され、善光寺参りのルートでもありました。上州(群馬)から碓氷峠を越えて信州に入った軽井沢、沓掛(中軽井沢)、追分の 3宿は「浅間根腰の三宿」といわれ、それぞれ異なった雰囲気をもっていたようです。なかでも軽井沢は国境に位置し、大名から庶民まで様々な旅人をもてなすことで生計を立ててきました。▼ つるやにちなみ、鶴をほどこした透かし彫り。
「宿場町の土壌があったからこそ、明治中頃まだ抵抗のあった外国人宣教師を受け入れることができた」と小峰さん。天保 7年(1836)の記録によると、軽井沢には120軒ほどの家屋があり、本陣・脇本陣 5軒、旅籠屋 21軒がありました。なかでも加賀藩の大名行列は華やかで、一晩で2カ月分の売上があったそうです。幕府の天領として開放的な気風もあり、毎日のように通る大名行列を村人は土下座して迎えました。こうした軽井沢の特性は明治になっても続きます。宣教師一家が到着すると村人はこぞって取り囲み、荷物をもって別荘に案内し、コックやメイド役をつとめ、川の水汲みや洗濯など、ひと夏の生活全般を世話しました。軽井沢の人々には今も「ご別荘」と呼ぶ習慣が残っています。軽井沢名物「軽井沢彫」の家具。明治中頃に日光の木彫職人を呼びよせ、富士山やサクラといった日本を象徴するモチーフを彫刻した家具を作らせたのがルーツです。当時のものは外国人が本国に持ち帰りやすいよう分解式だったようで、教会のベンチや椅子にも似たフォルムです。
離れの茶室も客室として使われています。江戸時代、休泊茶屋として繁盛したつるやは、間口 7間以上もある広い庇の下や土間の縁台に一膳飯や煮しめ、うどん、二八そばをならべ、毎日数百人の旅人を送り出したそうです。上客は奥の座敷で、しっぽくそばや鯉料理で酒席をかこみ、古くは「更科紀行」を編んだ松尾芭蕉や小布施へ向った葛飾北斎もここを通りました。つるや主人は代々、佐藤仲右衛門を襲名し、隠居すると作兵衛を名乗りました。俳句をたしなみ話し上手で江戸時代の文人墨客とも酒を交わしたようです。主人の隠居所となった裏の水車小屋は「作兵衛水車」と呼ばれ、堀辰雄『美しい村』にも登場します。▲先々代仲右衛門と犀星は友人同士のようにみえます。▼昭和中頃のつるや旅館。昭和 46年に離れを除いて焼失し文士のすごした部屋や貴重な史料が失われました。
ショー司祭が軽井沢に別荘地を求めたとき、大塚山の土地を世話したのは先々代の佐藤仲右衛門でした。明治期につるやは、宣教師はじめ外国人を泊める旅館に転業し、地元民と外国人のコーディネーター役をつとめます。やがて明治 40年代になると日本人の別荘も多くなり、つるや旅館は著名な文人(島崎藤村、室生犀星、芥川龍之介、萩原朔太郎、永井荷風、谷崎潤一郎、菊池寛、堀辰雄など)が訪れる文士サロンとなります。なかでも室生犀星と先々代主人は仲がよく「俳句などをつうじ、文士の話相手をできる素養があったからでしょう」と小峰さん。文士のマドンナ役となったのは、日銀理事の未亡人で、歌人・アイルランド文学者の片山広子(松村みね子)でした。芥川龍之介は聡明な夫人に心ひかれ、芥川を敬愛した堀辰雄も娘の総子に惑わされます。堀は錯綜する人間模様を『聖家族』に描き、総子を『菜穂子』のモチーフとしました。昭和 8年、まだ軽井沢に人の少ない初夏。つるや旅館の一室で執筆中の堀辰雄は、中庭でひとりの少女、銀行家の娘・矢野綾子と出会います。堀は女子美大生で油絵を描きに来た綾子と、旅館裏「水車の道」やサナトリウムへの道で心を通わせ、大きなキャンバスを抱えながら歩いた恋心を美しい筆致で『美しい村』に描きます。やがて 2人は婚約しますが、互いに病んでいた肺の治療のため富士見高原療養所に入所しました。世間から隔離された 2人の濃密な時間を描いた作品が『風立ちぬ』です。
つるや旅館の中庭に佇むと、ここを訪れ、ひと夏の交友を結んだ文士たちの声が聞こえてくるようです。 参考文献:『軽井沢物語』佐藤不二男著 軽井沢書房刊
[悪夢の前夜に至るまでの話 28]
その姿を見て身震いがした。耳を塞いで逃げ出したかった。でも
設楽不動産の名義が変わる。黒崎商事。冗談のような話だ。こ
夏姫にはそれができなかった。駆け寄り、横たわる猫を拾い抱いて、
こ数日、クロは事務所の椅子に座り、何事かを考えている。ギ
近くの大学病院に駆け込んだ。今の私がこの子と出会ったのは運
リシャ彫像のように若く端正な顔立ち。しかし歳の割には眉間の
命なんだって思った。「治してください」通路ですれ違う医者に頼
皺が深い。そこだけが老人のようだった。その後ろに凪が立って
んで回った。「犬猫病院に行きなさい」誰もがそう言う中で、若い
いる。半ば閉じた目。完全服従の静かな表情。ロックマンが口
男の先生が「どれ」と言って腰を上げてくれた。幸い怪我は右前
「俺は夏姫と約束したからな。お前を守るってよ」
それでも地球は
# 22ロックマン5
を開いた。「夏姫がまだ抜けきれてないんだ」クロがどこか眠そ
うな目をロックマンに向けた。「 薬か ? 」「 そうなんだ。ルート
ないのにどこから手に入れてるんだか 」「 残党だろ設楽の 」設
楽は組の系列から追放された。どこで何をしているのか、誰に
も分からない。「そうだとは思うんだけど、この前も学校で猫を
殺されたっていってたな」「いずれ切れるだろう、そのラインも。
本人はお前が守ってやってるんだろ? 」「お
「ああ。でも心配でよ」
足だけだった。「引きずることになるけど、もう大丈夫」内緒で処
置をしてくれたその先生の言葉に涙をながした。夏姫はその子と
自分とを重ね合わせていた。まったく思いがけない方向から襲って
くる悪意。クスリを打たれた。寄ってたかって乱暴された。抗いよ
うがなかった。自分という惨めなほどの弱さ。目を閉じて頭を振っ
て忘れようとしたが、記憶はますます鮮明になるばかりで……。
その子には家でしばらくご飯をあげていたが、喘息の母親の側に
前らどうにかなったのか? 」ロックマンが口を閉じる「 まあ、ど
ずっと置いておくことができず、学校に連れて行った。部室で面
うでもいいんだけどな」とクロ。「なるわけないだろ、中学生だ
回ってる
倒を見ることにした。同級生のカレンが 「ポチ」ってあだ名をつけ
ぜ ?」その時初めて後ろに立つ凪がクスリと笑った。「歳なんて
てくれた。カイトもすごくかわいがってくれた。カイト……。彼は
関係ないわ、そうでしょロック ?」
私がこんなことになったのを知ったらどう思うだろうか ?
[悪夢の前夜に至るまでの話 29]
野田 豪(AREA)
[悪夢の前夜に至るまでの話 30]
夏姫は「あの日」の翌日、家の前でその三毛猫を見つけた。走り
凪がクロに耳打ちする。クロがうなずく。「そろそろ潮時だな」「夏
去る車。立った今轢かれたのだろう。動けず、間断なく鳴いている。祭りに」「 …… 」
[悪夢の前夜に至るまでの話 31]
凪が長い話を語り終えた後。スカートの位置を直しながら最後に言った。「あなたにはあなたの役割があるの。ガキじゃないんでしょ、できるわね ?」ナツは頷くしかなかった。彼の想像を越えた大きな二つの暴力。
ンが夏姫を追いすがるように抱き止めた。お前が右に曲がっ
「いつの日か、ていつもの辛い日常に戻らなくてもいい日が来たとして、左の道を行っていい日が来たとして 」「 …… 左の道は学校に行く道」「う、うん … そうだな。あー !じゃなくてよー。もっと、そういうんじゃなくてな …難し
力と女。抗いようがなかった。そう。彼はまだ子供だったのだ。いな日本語はよー。っていうか俺バカだからなー」夏姫がほんのちょっと笑った。顔に赤みが一差し戻る。「お ?笑ったな。えーっと、そうそう。
[悪夢の前夜に至るまでの話 32]左の道が、なんかすごい幸せに続く道だったとしてだ」ロックマンは、ポチが死んだ。ゴルフクラブで殴殺された。校舎から見た男たち。その夏姫の両肩を掴んで、もうほとんど叫んでいた。「お前、その道を誰と一人に見覚えがあった。思い出したくない記憶に締め上げられる。カレン行きたい ?猫は死んじまったけど、俺とかは居るしよー。俺はお前の為なが隣で泣いていた。夏姫は流す涙をもうすでに持っていなかった。カイトら何だってできんだよ。食べ物とか住む …… 」それを遮るように夏姫が…… カイト。心の中で片思いの男の子の名前を繰り返すだけだった。囁いた。「 カイト君 」小さいがしっかりとした声だった。「カ、カイト君 ?誰だそりゃ?」「 カイト君と手をつないで、その左の道を歩きたいな 」ロッ
[悪夢の前夜に至るまでの話 33]クマンは空を仰ぎ、しかしすぐ、その顔を彼女に戻した。「おーそうか。ロックマンはこの数日後の彼女と会っている。落ち窪んだ目。艶のない分かった。じゃーよー、俺が 2人を守ってやるぜ。お前とそのカイト君と髪。しわがれた声。「 大丈夫か ?」「 … はい 」「 家でクスリやってんのやらをよ。絶対だ、約束だ。だから夏姫よー元気だしてくれよ。そんでよ、か ? 」「 いえ 」「 誰から買ってるんだ ? 」「 買ってないです 」「 俺にでそのくらい俺にやらせてくれよ。な? 頼むよう、頼むから 」きることはないのか ? 」「 けっこうです 」「 …… 」途方に暮れたロックマンは頭をボリボリかきながらしゃがみ込んだ。「夏姫 ?」夏姫が無表[悪夢の前夜に至るまでの話 最終章]情で彼を見下ろす。「 例えばな … この商店街はあそこで終わるよな。で、そして、ついに悪夢の夜の幕があがる。お前はいつも右に曲がる。右に曲がりゃ、突き当たりが自分の家だからカイト、カレン、ナツ、夏姫、クロ、凪、ロックマン、設楽、木村、荒川。だ 」夏姫が怪訝な顔をしてかぶりを振った。「 いや、聞けよ 」ロックマ狂乱の夏祭りが始まる。
堀と綾子が歩いた水車の道。
矢ケ崎川にかかる大宮橋を渡り、お気持ちの道を散策しながら、宣教師たちの開発した別荘地、ハッピーヴェレーに向かいます。
美しい村
西洋人はもうぽつぽつと来ているようですが、まだ別荘などは大概閉されています。その閉されているのをいいことにして、それにすこし山の方だと誰ひとりそこいらを通りすぎるものもないので、僕は気に入った格好の別荘があるのを見つけると、構わずその庭園の中へはいって行って、そこのヴェランダに腰を下ろし、煙草などをふかしながら、ぼんやり二、三時間考えごとをしたりします。たとえば、木の皮葺きのバンガロオ、雑草の生い茂った庭、藤棚(その花がいま丁度見事に咲いています)のあるヴェランダ、そこから一帯に見下ろせる樅や落葉松の林、その林の向こうにみえるアルプスの山々、そういったものを背景にして、一篇の小説を構想したりなんかしてるんです。 堀辰雄『美しい村』より
私はなんだか急に考えごとでもし出したかのように黙り込んだ。私たちはその橡の林を通り抜けて、いつか小さな美しい流れに添い出していた。しかし私はいま自分の感じていることが何処まで真実であるのか、そんなことはみんな根も葉もないことなんじゃないかと疑ったりしながら、気むずかしそうに沈黙したまま、自分の足許ばかり見て歩いていた。そうして私は、そんな自分の疑いに対するはっきりした答えを恐れるかのように、いつまでも彼女の方を見ようとはしないでいた。が、とうとう私は我慢し切れなくなってそんな沈黙に苦しんでいるらしいのを見抜いた。そういう彼女の打ち萎れたような様子は私には溜まらないほどいじらしく見えた。突然、後悔のようなもので私の胸は一ばいになった。……私がほとんど夢中で彼女の胸をつかまえたのは、そんなこんがらがった気持ちの中でだった。彼女はちょっと私に抵抗しかけたが、とうとうその胸を私の腕のなかに切なそうに任せた。……それから数分経ってから初めて、私はやっと自分の腕の中に彼女がいることに気づいたように、何ともかんとも言えない歓ばしさを感じ出した。 堀辰雄『美しい村』より
内田 和子(A&A)
つれづれなるままに
第 3回 金沢の旅第二章
九谷焼の水指
今日は、昨日の轍は踏むまいと、念入りに電車時間をチェック。美術館開館同時に入れるよう、早めに朝食をす
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ませホテルを出発した。無事、大聖寺駅に到着。えっ ?タクシーないの ?と思いしや、地元のボランティの方が道案内をしてくださ
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り、歩くこと 分(徒歩 7分とあるが ……)図書館を抜けた先の石川県九谷焼美術館に着いた。庭続きの踏み石の先に入り口がある。館内へ入ると、左手に 2階へ続く広い螺旋状の階段があり、高窓から日が入りやさしく中へと誘う。ゆっくりと九谷焼を見て回る。歴代ものの大皿や花瓶がずらりと並び、その色絵に息をのむ。古九谷をはじめ伊万里もあるが、年代によってずいぶんと異なる。コンピュターが何台もならび、九谷焼きの歴史や絵付けの様子、釜入れなどがビデオで紹介されている。たくさんの書籍もおいてあり、自由に閲覧できる。たっぷりの時間をかけて、九谷焼に浸った。 2Fのレストランで、オーガニックの材料でつくった身体にやさしそうなランチをテラスでいただく。木々の葉がそよぎ、水の音が聞こえる。ゆったりとした時間が流れる。富田玲子さん(象設計集団)、お目にかかったことはないが、新聞で見たお顔が浮かぶ。突然、茶室を見たいと思い、お願いをしてみた。催事がある時にしか開けないのを、東京から富田玲子さんのファンとして美術館を見に来たと言って、無理を聞いていただいた。 2階奥には立派な茶室がある。手前に小さなサロンもあり、さまざまなイベントがひらかれているという。美術館は地元の方々の集う場所にもなっている。九谷焼を堪能し、茶室、サロン見学、庭の散策、テラスでいただいたオーガニックの昼食、大満足で、美術館を後にした。金沢駅へ戻り、ここからはあらかじめ決めておいた観光ルートにのって、金沢の観光スポット東茶屋街、兼六園、金沢 世紀美術館をめぐるバスに乗る。金沢市内地図にも大分慣れてきた。
つれづれなるままに九谷焼の水指
金沢の兼六園前に九谷焼の店がある。間口は狭く建物も古いが、ガラス越しにならぶ小さな皿や、香炉に引き寄せられ、店先へと入る。奥には、大きな皿や壷がいくつもならんでいる。九谷焼は色が鮮やかなので、普段使いの食器を選ぶのはなかなかむづかしいが、飾ってもよし、使ってもよし。九谷焼との出会いは古い。昔、絵柄の違う小皿 2枚を買ったのがはじまり。この日も、色とりどりの小皿や小鉢、湯のみ茶碗と、目が移る。
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九谷焼美術館で目の鍛錬をしてきたからだろうか、自分でも見る目の違っているのがわかる。気に入ったものだけが目に入る。昔買った九谷焼きの小皿は、外国から来た友人への贈り物にしたので、今、私の手元にはない。店のご主人は 代後半、小柄で品の良さそうなその方は、九谷焼き窯元の方。自ら絵付けをし、ロクロを廻し、九谷焼を追求し続けているという。時間に追われる旅ではない。一通りお店の品を見たところで、ガラスケースの中にある、品評会に出展したという水指を見せていただいた。茶道のたしなみはない。が、茶室に置いたらさぞかし美しいだろうと眺めていたら、ご主人
「手にとってみてください」と言う。両手で包みながら、その文様をさまざまにかざしてみた。うす水色の地肌に茶色の波模様が描かれている。緑や赤の絵柄が九谷焼と思っていた私は、「これも九谷焼きですか ?」と、無粋な質問をして恥ずかしい思いをした。なにより絵付けをしたご本人から、九谷焼の変遷、蘊蓄を聞く贅沢を味わった。話しを聞きながら手元に慣れたその水指は、作者名入りの箱に入り、我が家の家宝として迎い入れることとなった。高揚した気分を沈め、ふたたび市内バスに乗って、二十一世紀美術館へ。憩いの場ともなっている広場に腰をおろし、美術館外観を眺めたあと、中へ入る。若い人たちで一杯だった。あこがれの SANAAのお二人の設計である。みんなその空間にいることで、なにかを感じとりたいのだと思う。若くはないが私もその一人である。夕食は、ホテルの中でゆっくりとる。美術館でみたすばらしい九谷焼と、金沢の旅を誘った建築家・富田玲子さん、妹島さん、西澤さんの建築に触れられたことに感謝した。そしてなにより、九谷焼窯元のご主人が作った水差を直々に購入できたこと、我ながらたいしたものだと、自分をほめ、乾杯した。金沢ひとり旅、終わりよければすべてよし !!! 2日間、至福の旅であった。
軽井沢では珍しい「和」の人気スポットが、作家・室生犀星の旧居です。昭和 6年に建てられ、犀星は亡くなる前年まで毎夏をここで過ごし、小さな書斎で執筆活動を続けました。疲れては横になり、起きてまた書くというマイペースな仕事ぶりだったようです。また昭和19〜24年には東京から家族で疎開し通年暮らしました。代表作である長編小説『杏っ子』には、戦中の軽井沢が克明に描かれています。
杏っ子 釦(ボタン)の店
「何処も大変な人ね。」駅頭でもすでに疎開の群衆でごった返し、町の中にくるまが這入ると、この土地に別荘を持つ人の往来で、通りは夏と同じ賑やかさであった。異様な一種の好みを見せた服装、ネッカチーフ、口紅、自転車、ぞろぞろ歩き、そんな光景はちょっと余処では見られない戦争がどこにあるかと思われる光景だった。丸太小屋に着くと二十年つき合っていても、ここにはもはや馬鈴薯一個頒けてくれる店はない、寒冷地帯で生産がないため、町の人にも食料はなかった。唯、銀行は預金でふくれあがっていたが、金はまるで役にたたないのだ。彼方此方の店に手頼って食料を尋ねてみたが、何処にも、一滴のあぶらさえ分けてくれる店はなかった。杏子は一束の葱を提げてやっと戻ってきた。
「誰もぷんとして横を向いただけよ。それが何もないという返事なのよ。」
「そうか、恐ろしい土地だ。」 室生犀星『杏っ子』より
庭造り名人で苔好きの犀星は、庭一面を苔で覆い、敷石や紅葉の美しいカエデなどを絶妙のバランスで配置しています。霧の多い軽井沢は苔には最適な環境で今も教育委員会の方が日々の手入れを怠りません。
犀星を慕った堀辰雄や立原道造も別荘をたびたび訪れ、まるで我が家で過ごすかのようにくつろいでいたそうです。自分より若くして逝った詩人への思いは『我が愛する詩人の伝記』に綴られています。堀辰雄とともに追分の旅館「油屋」から犀星を訪ねた立原道造は、庭の椅子に腰掛け、風に身を預けるようにして、犀星の仕事が一段落するのを待ったそうです。辰野金吾賞を3年連続で受賞し、若手建築家としても注目された立原が結核で亡くなったのは昭和14年(1939)。第一回 中原中也賞を受賞した24歳のときでした。
▲ 立原道造(右写真左端)と室生一家の写真。
優しき歌Ⅰ
追ひもせずに 追はれもせずに 枯木のかげに
立つて 見つめてゐる まつ白い雲の
おもてに ながされた 私の影を .
(かなしく 青い形は 見えて来る)
私はきいてゐる さう! たしかに
私は きいてゐる その影の うたつてゐるのを ……
それは涙ぐんだ鼻声に かへらない
昔の過ぎた夏花のしらべを うたふ
((あれは頬白(ほほじろ) あれは鶸(ひは) あれは 樅(もみ)の樹 あれは 私 …… 私は鶸 私は 樅の樹…… ))こたへもなしに私と影とは 眺めあふ いつかもそれはさうだつたやうに
影は きいてゐる 私の心に うたふのを
ひとすぢの 古い小川のさやぎのやうに
溢れる泪(なみだ)の うたふのを …… 雪のおもてに .
立原道造『優しき歌Ⅰ』より立原道造や堀辰雄が逗留した茶室風の離れ。別荘には志賀直哉や正宗白鳥、川端康成なども訪れ、軽井沢の文学サロンとなっていました。あたりをゆっくりと散歩したり、連れ立って近くの万平ホテルのカフェへでかけ、日暮れまでのひとときを過ごすこともあったようです。
旧軽井沢のはずれ、二手橋を渡ってすぐのところに室生犀星の文学碑があります。死後に手間をかけたくないという配慮から、犀星自らが費用をだし、土地を選び設計した珍しい文学碑です。韓国で入手した一対の俑人像の下には、金沢から分骨された室生夫妻の遺骨が眠っているそうです。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」の言葉どおり、故郷金沢にほとんど帰らなかった犀星にとって、軽井沢は自らが創りだした故郷だったのかもしれません。ちなみにこの碑を見下ろす場所に、吉村順三の別荘がたっています。
詩集『鶴』から「切なき思ひぞ知る」が彫られた文学碑。完成の翌年、犀星は 74歳で亡くなりました。川を眺める心地いい場所に石垣の休憩所をもうけ、突然の雨にも困らないよう屋根をかけています。気配りの人、犀星の心持ちを感じました。
我は張りつめたる氷を愛す斯(かか)る切なき思ひを愛す我はそれらの輝けるを見たり斯る花にあらざる花を愛す我は氷の奥にあるものに同感す我はつねに狭小なる人生に住めりその人生の荒涼の中に呻吟せりさればこそ張りつめたる氷を愛す斯る切なき思ひを愛す
昭和三十五年十月十八日室生犀星之建
前回に続いてボローニャのお話。街の中心部は、二十三年前には考えられなかったグローバル・ブランドの店が軒を連ねていて、いささかガッカリ。宿のマネジャーにそう言ったら予期せぬ答えが返ってきた。「そりゃ 世紀インターネットの時代ですから。でも、自慢できることがあります。この街には未だに、スターバックスが一軒もありませ
ん。凄いでしょ」。
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マクドナルドは、ある。しかしスタバは、ない。「なぜスタバがないのか。街で一番美味しいカプチーノを出す店がありますから、ぜひ行ってみて下さい。そしたら、解りますよ、そのわけが」と紹介されたので、さっそく翌日訪ねてみた。本当に小さな店。いかにもオタクっぽい三十代半ばという感じの男が、一人で切り盛りしている。世界中どこだって、本格派のコーヒー屋と骨董銀屋はオタクチックと相場が決まっている。で、カプチーノと自家製チーズケーキを試してみた。合わせて 5ユーロに満たない金額。私自身一時、豆の自家焙煎に凝っていた。だから多少はコーヒーを知っている。しかし、カプチーノの真の美味しさは何も知らなかったのだと、この店で思い知らされた。
どちらかと言えば無愛想な店主に「ホテルのマネジャーに言われて訪ねてみた」と言ったら、すかさず「ジョヴァンニか。で、カプチーノとケーキはどうだった ?」。「文句なし !」と答えたら、うなずきと微笑みが返ってきた。店を出る前に地下のトイレに降りた。店主自身が塗り上げた荒々しい仕上げの、朱色の壁。そこに貼られたサキソフォン奏者の古びたモノクロのポスター。ジョン・コルトレーンだ。その昔、長くモダン・ジャズに沈潜していた私は、ポスターの貼り方、ペンキの塗り方、そしてその色彩感覚に、自分に共通する「オタク志向」を感じた。そうか、店主は、コルトレーンが好きなのか。あのダサいサックスがねえ。まあ人の好みはそれぞれだ。同じ意味で、スタバのカプチーノだって、決して悪くはない。しかし、ある一点の高みを追求するという姿勢においてスタバは、この小さな店の「オタク」志向 &嗜好とは、勝負にならない。そして、この店主に代表される志向 &嗜好を好む人々が、ボローニャには多く住む。薄切りハムやサラミのパック詰めには、見向きもしない人たち。それは同時に、専門店のコーヒーに妥協のない水準を求める人たちなのであって、生半可な味では決して満足しない。スタバが出たとしても、お商売は難しそうだ。たしかに、街の一部は観光化が進み、 H&Mにナイキ・ショップ化し、若いツーリスト向けの安いピザやパスタ中心の店が、二十三年前よりは増えている。しかしその点を除けば、むしろ様々な点において、以前よりも専門店の水準が上がっていると感じた。欧州一古く、ウンベルト・エーコがいるボローニャ大学の影響だろう、この小さな町では、本屋に出くわす機会が多い。例えば、まだ新規開店間もない新刊書店。旅のガイドブックの隣に、現代思想や文化人類学、政治学さらには哲学書が平積みされている。思想とアートが棚一杯にぎっしり詰まっている。一方で、古色蒼然たる店構えで、ムッソリーニとファシスト関連の書籍が山ほど揃っている古本屋。日本から持ってくるのを忘れ、双眼鏡を買いに小さなカメラ &光学機器店に入って「これが一番」と出されたのは、普段使っているニコンとは価格が一桁違う、カール・ツァイスとライカだった。冗談でしょと言ったら「明け方と夕暮れに使ってみれば、他の安価な製品との違いは歴然ですよ。ニコンをお使いの日本の方なら違いがわかると思いますけれど」と、生まれて初めて双眼鏡の本質に触れる説明を受けた。同行者のお土産買いに付き合って入った小さなスカーフ専門店は、ニューヨークのヘンリ・ヴェンデルが霞んで見える、驚くべき品揃えだった。カフェ、本屋、光学機器屋、そしてスカーフ屋。それに夢のような水準のアイスクリ
ーム屋。小さな専門店が、それぞれの専門をとことん愛して、オタクチックに営業し
ている。またこの小都市は、ランボルギーニとバイクのドゥカティ創業の地でもある。
世界的に知られる歌劇場、ロンドンのナショナルギャラリーの中世美術コレクション
が子供だましに思えてくる美術館と教会フレスコ画の数々。挙げていけば、キリがな
い。要するにボローニャは、重々しい伝統を背景にした、本物指向が極めて強い町な
のだ。「イタリア随一の美食の都」は、単に「食」の水準だけが突出しているわけでは、
決して、ないのだ。
ところでこの小都市は、近世の歴史上、様々な政治闘争の舞台となっていて、今もその激しさは変わらない。四世紀に渡って続いたヴァティカン直轄領時代の後、第二次世界大戦前は、ファシストの強力な拠点のひとつとなる。戦争中は反ファシストのレジスタンス勢力が強く、戦後は社会・共産党系の左派勢力が政治の中核を占めてきたことで知られる。実際、街で一番目立つスーパーのチェーンは「生協」だ。それはしかし、東京で「生協」と呼ばれる店舗とは別世界で、「ブルジョワ的デカダンス」と呼んでもいいほどの、グルメ志向に満ちている。「はじめに主義主張ありき」ではない。「まずもって官能に導かれる食ありき」。それこそが楽しく生きる原点だと、スーパ
ーの棚が語っている。
大原千晴さんのサロンセミナー『光と影の都ヴェネツィア仮面舞踏会のデカダンス&ヴェネト料理の魅力』が、12月1日 (日) 西麻布のイタリアン「ソルジェンテ」で開催されます。詳しくは、左下のリンクから。
明治 32年(1899)、軽井沢初の本格的西洋ホテル「軽井沢ホテル」(現存ぜず)が開業し、同年に第二の開国ともいわれる「内地雑居」により外国人の自由旅行や居住地の選択が許されると、軽井沢は全国の宣教師の集まる集会所としても利用され、より多くの宿泊施設や貸し別荘が求められました。それにともない東京の資本も軽井沢開発に進出しはじめます。明治 38年(1905)開業の三笠ホテルは、東京の銀行家・山本直茂により、湯ノ沢の原野 25万坪の土地を買い与えられた山本直良によって建てられました。直良は農科大学(東大農学部)で農業をまなび、軽井沢で酪農経営を試みましたが(外国人による需要もあった)、冬の厳しさから酪農は困難を極め、ホテルや別荘地開発に転身したといわれています。
三笠ホテルの設計は、辰野金吾門下で東京駅や日銀にも関わった岡田時太郎、棟梁は万平ホテルを手がけた小林代造、そして現地の監督としてライバルであるはずの初代 佐藤万平(万平ホテル)が参加しています。
スティック・スタイル(木骨造)によりゴシック風の貴族趣味を強調した外観やヴィクトリア調の内装は、日本の上層階級を意識したものと思われます。山本家は華族や資産家とも交流が深く、直良の妻・愛子の兄は有島武郎でした。また直良の子も、建築家や音楽家、画家などとなり孫には山本直純がいます。こうした芸術一家によって運営された三笠ホテルは、上層階級のサロンとなり「軽井沢の鹿鳴館」とも呼ばれました。ホテルのマークやインテリア、家具は有島生馬(武郎の弟)がデザインし、食器は京都から陶芸家を招いてひらいた「三笠焼」を用いました。客室には軽井沢彫りの家具を置き、土産物として「あけびつる細工」を考案するなど地域振興の試みも行われました。三笠ホテルの晩餐会(大正はじめ)。左から近衛文麿伯爵(後に首相)、黒田長和夫人、黒田長和、山本直良(オーナー)、徳川義親(植物学者・尾張徳川家第19代当主)、毛利夫人、有島武郎、里見.(作家・武郎の弟)、徳川慶久夫人、近衛文麿夫人。他に渋澤栄一や乃木希典もホテルの常連だった一方、有島が所属した「白樺派」のサロンでもあり、1970年まで営業した三笠ホテルは軽井沢のブランド化に大きな役割をはたしました。明治 43年(1910)桂太郎首相の別荘建設を機に西園寺公望など政界の大物が次々と訪れ、軽井沢は政府の奥座敷となっていきました。宣教師たちによって「娯楽を自然に求めよ」をスローガンとした軽井沢では「飲む・打つ・買う」の風俗を認めないという、いわゆる軽井沢憲法が町の不文律になりました。その一方テニスや乗馬、登山、ゴルフなど英国・ドイツで発達したヨーロッパ型リゾートが輸入されます。これは富国強兵をすすめ質素倹約を標榜した政府要人にとっても、保養先として都合のいい環境でした。軽井沢は健康的リゾートのイメージを頑なに守ることで、上流階級や実業家を呼び込み町の資金源にしていくという、保養地の新しいビジネスモデルを築いたのです。
外国人や上流階級の隠れ里だった軽井沢の名を広く知らしめたのは、大正 12年(1923)有島武郎の心中事件でした。『生まれ出づる悩み』や『或る女』で知られ、北海道・有島農場の解放(農民に無償で農場を譲り渡した)でも話題となった
白樺派の人気作家は、夫ある女性編集者とともに三笠ホテル近くの有島家別荘(浄月庵)で命を断ちました。大スキャンダルとして新聞報道され、軽井沢に
文士たちのロマンスの場というイメージを与えました。
会場入口には、長年にわたり橋本夕紀夫さんのデザインを支えてきた、伝統技術を継承した全国各地の職人たちの作例(庵治石や七宝柄格子、金箔など)やインテリア模型、プロダクト製品を展示していました。
「空気の茶室」茶室を「纏(まとう)」と表現したくなるような空間です。
「空気の茶室」に続き 0月 21日〜 29日まで、橋本夕紀夫さんプロデュースにより、左官職人久住有生さんの作品展「心を土に託して」も開催されました。会場で小舞(こまい)
を組み、その場で塗りあげた土壁は圧巻です。裏側にまわると、竹などで組まれた小舞壁の様子がよくわかりました。会期中も乾燥がすすみヒビが入ったり、色むらが出たりと、いきもののように変化したそうです。仕事で使われる数十種類のコテも展示されました。
明治 26年(1892)、碓氷トンネルの開通とともに、軽井沢は新たな時代を迎えます。映画「風立ちぬ」に描かれたアプト式の電気機関車10000形(明治 45年から)は、26のトンネルと18の橋梁を抜け横川〜軽井沢間を結んでいました。日本有数の高低差をもつ鉄道の敷設は鹿島が中心となって担当し、日本海と太平洋を鉄道で結ぶという政府の悲願をわずか 2年ほどの工事で達成したのです。東京から1日で来られる軽井沢に注目した鹿島岩蔵は、県営畜産場だった土地を買い上げ外国人向け貸別荘を開発しました(現在の鹿島の森)。長野新幹線の開通以降、信越本線の横川〜軽井沢間は廃線となり、軽井沢〜篠ノ井間は第三セクター「しなの鉄道」によって結ばれています。しなの鉄道に乗り追分へ向かいました。
中軽井沢のあたりから雄大な浅間山が姿を表しました。1783年 8月5日の大噴火は天明の大飢饉を引き起こし、田沼意次失脚の遠因ともなりましたが、この日は穏やかな山容を見せています。明治期に中軽井沢(沓掛)を開発したのは星野温泉(星野リゾート)でした。絹貿易で財を築いた星野嘉助は、明治 37年(1904)沓掛の原野を入手し、白糸の滝から流れる湯川を動力として製材業を始めました。嘉助は生糸業の利益を温泉開発に投資し星野温泉を開業。以降、星野家は植林によって草原を広葉樹林へとかえ、風光明媚なリゾート地を育てあげました。軽井沢・沓掛・追分という「浅間根腰の三宿」のなかでも、追分は中仙道(京都方面)と北国街道(新潟方面)の分岐点で、幕府の役所が置かれた高級な宿場町でした。軽井沢宿と同様、明治になると中仙道沿いの宿場はさびれ、追分も軽井沢を規範としたのどかな別荘地へと変わっていきました。今も旧中仙道沿いには、宿場町を思わせる古い建物が残っています。追分を案内してくれたのは、木工家・出光晋さんです。上の建物は出光さんお気に入りの「軽井沢測候所」。100年続く浅間山火山観測の中心でしたが、2009年から無人化されました。「地元民にとって、浅間山のご機嫌を見るのは毎朝の習慣」と出光さん。大正 12年、室生犀星のさそいで初めて軽井沢を訪れた堀辰雄(当時19歳)は、30歳の頃から立原道造(10歳年下)と共に追分宿の「油屋旅館」に投宿し執筆活動を続けていました。油屋旅館は数年前に営業を終えましたが、地元有志により設立されたNPO法人「油やプロジェクト」が中心となり、カフェや古書店、ギャラリーなどを集めた施設として活用され様々なイベントを開催しています。昭和12年、堀辰雄は婚約者・矢野綾子との日々を描いた「風立ちぬ」を書き上げ、油屋で生涯の伴侶となる加藤多恵に出会います。その秋に油屋は隣家からの失火で全焼。川端康成の別荘にいた堀は難を逃れましたが書きかけの原稿や資料を失い、立原道造は宿から焼け出されます。堀たち文士の協力もあり、油屋は旧丸子町(上田市)の養蚕家屋を移築して旅館を再開しました。1階の「アートプロジェクト沙庭」では、長野県・上田市在住のアーティスト櫻井三雪さんの木彫展がひらかれていました。上田市に生まれた櫻井三雪さんの父親は大工を営み、実家はお米や野菜もつくっていたそうです。20歳の頃、岩手県龍泉洞で青く澄んだ水を見たことをきっかけに、ものづくりに目覚め、多くの木工家を輩出した上松技術専門校で木工の基礎を学びました。
風立ちぬ 春
「どうして、私、この頃こんなに気が弱くなったのかしら? こないだうちは、どんなに病気のひどいときだって、何んとも思わなかったくせに……」と、ごく低い声で、独り言でも言うように口ごもった。沈黙がそんな言葉を気づかわしげに引きのばしていた。そのうち彼女が急に顔を上げて、私をじっと見つめたかと思うと、それを再び伏せながら、いくらか上ずったような中音で言った。「私、なんだか急に生きたくなったのね……」それから彼女は聞えるか聞えない位の小声で言い足した。「あなたのお蔭で……」 .
それは、私達がはじめて出会ったもう二年前にもなる夏の頃、不意に私の口を衝(つ)いて出た、そしてそれから私が何んということもなしに口ずさむことを好んでいた、
風立ちぬ、いざ生きめやも。
という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、またひょっくりと私たちに蘇(よみがえ)ってきたほどの、 .いわば人生に先立った、人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切ないまでに愉しい日々であった。 堀辰雄『風立ちぬ』より
ケノス代表
メディア・ユニバーサルデザイン.1ーカラーに於ける図と地の関係、隣接可能な色ー
この 9月14日・15日は、せっかくの連休にも関わらず、休日返上で「メディア・ユニバーサルデザイン 2級 -MUDディレクター資格検定」に臨んだ。初日はレイアウト編、2日目は色覚編で午前・午後の講義の最後に 1時間の試験がある。それに加え10月半ばには、両課題の実技宿題提出があった。結果はまだ来ないが、再受験も覚悟している。昨年秋にメディア・ユニバーサルデザイン(以下 MUD)3級、MUDアドバイサー資格を取得してから今回を迎えたが、受験者は 99%印刷業界人で、私のような建築・プロダクトデザイン畑は全国でも珍しいだろう。MUD協会の理事長からも「この資格、ケノスさんが一番難しいんじゃない?」といわれる始末である。前号でも書いたが、日本スーパーマーケット協会で「2020スマートストアはこうなる」の講演を行なった。そこで話したポイントのひとつに「ストアはメディア化する!」があった。ネットショッピングの魅力は時間節
円グラフの色は、色覚に障害のある方にはどう見えるでしょうか?
約もあるが、やはり価格である。それに対してリアル店舗での買い物は、そこに行ってこそ得られる「環境体験と総合的な情報シャワーへの共感とその享受」という感動であろう。とすれば、店舗環境から発せられる様々な情報類は、効率よくできるだけ多くの人に伝わらなければならない。以前にも書いたが、人間は得られる情報の 87%を視覚から得ているといわれる。最も重要なのはいうまでもなく、避難経路図等、非常時対応の為の各種メディアの
「MUD」化だが、この説明は次回にゆずる。今回は店舗環境と販売空間での「MUD」の必要性について述べてみる。店舗環境の案内情報の中でよく見られるものの代表が、現在位置を知らせるストアディレクトリ(大型ショッピングセンターでよく見られる店舗場所の案内)である。多層階の施設なら各フロア案内が加わる。施設が備えるトイレやミルクルーム等のサービス施設案内や誘導サイン等も大切だ。そして売場の中でもっとも重要なものの一つに、購買意欲をかき立てる POPカードやプライスカードがある。ショッピングに疲れて、ちょっと一服しようと Cafeへ入れば、メニューなど理解しなければならない情報を挙げ始めればきりがない。もしこれらのメディアが可読性の低いデザインで、視力の弱い人に対する配慮を欠いていたらどうだろうか?いろいろなお店の中でも、日常生活に欠かせないスーパーマーケットやコンビニエンスストアでメディア類が見にくかったらとても不便だ。加齢による視力の低下も弱視と捉えれば、その数は何と 3,000万人にもなるらしい。スーパーマーケットでは以前に比べ、店内の情報露出量が大幅に増えつつある。競合に勝ち抜くため、地産地消を奨める地場野菜コーナーをひろげたり、
「今日の夕飯のおかずはこれがお奨め」などのメニュー提案コーナーを充実させたり、PB(プライベートブランド)コーナー価格の安さをアピールする等、店中に POPが溢れかえっている。活気にあふれた売場は見ているだけでも楽しいのだが、よくよく POP等を見ていくと、掲示してある情報がどれだけお客様に理解され、受け入れられているのだろうかと疑問に思う。「レイアウト」や「文字使い」、「色使い」に問題のあるカード類も多い。
実は、わが国で色覚に障害のある方は 320万人も
存在すると云われている。加えて今後急速にすすむ
「高齢化による弱視化」への対応も早急に行なわなければならない。私は一般のスーパーマーケットでさえ、「ストアのメディア化」という店舗革新をむかえると予想している。弱視化等に対応するためには、店内の各所で掲示されるコミュニケーションツールのレベルアップが必要で、全て「MUD」の視点をもち、しっかりと作られる事が、メディア化をすすめるための重要なサービスとなる。
「全ての人に情報を正確に伝える」ことが「MUD」の使命である。印刷物や放送がメディアという固定観念を脱すれば視野が大きくひろがる。私は店舗の構成要素全てがメディアであると考えているので、空間・環境が「MUD」でソリューション出来るかトライをはじめた。
だから受験したのです。
色覚障害には様々な症状があり、下記は色の見え方の一例です。
編集局註:MUD視点で、フォント(UDフォント新丸ゴ)や色を選んでみました。
昭和13年、34歳で加藤多恵と結婚した堀辰雄は、旧軽井沢水源地近くのスイス風山荘を新居として夫婦で暮らし始めます。自然に囲まれながら執筆にはげむ生活は、都会の文学青年憧れのライフスタイとなりました。昭和 19年には疎開のため油屋の用意してくれた隣家に引っ越し、追分で冬を越します。多恵子夫人は食糧難の中、にわとりを飼ったり畑を作ったり、病状の一進一退する堀を支え続けました。昭和26年、油屋の近くに建てた約15坪の小さな新居は「堀辰雄文学記念館」の敷地内で保存・公開されています。
堀辰雄がデザインしたといわれる椅子と机。
この夏、映画「風立ちぬ」によって多くの人で賑わった記念館に、高原の爽やかな風が吹き抜けていきます。昭和 28年、多恵子夫人や矢野綾子の妹・良子に看取られ、著名な文士から追分の地元民まで多くの人に愛された「辰ちゃんこ」は、48歳でこの世を去りました。一方多恵子夫人は堀への思いや文士との交流、追分の暮らしを描いた数々の随筆をのこし、2010年まで 96年の生涯を全うしました。
昭和13年2月4日 堀辰雄から加藤多恵宛の手紙
綾子は死んでゆく前に、僕のいる前でね、お父さんに僕にいい人を持たせて上げて下さいと言い残していったのです。それがもう最後の言葉になりはしないかと思うほど、死を前にして苦しんでいましたが、それから突然
「お父さんも本当に好い人だったし、辰ちゃん(綾子もいつのまにか僕のことをそう呼んでいました、君もそのうち僕をそう呼ぶようにさせてやるから)も本当に好い人だったし、私、本当に幸福だった」となんだかそんな苦しみの中から一所懸命になって言って、それからそのまま最後の死苦のなかに入っていきました。
(中略)僕の仕事そのものの事なんぞあんまり分かって下さらなくともいいのです。寧ろよく分からないなりに、それが決して馬鹿々々しいものでないという事だけ信じていてくれたらそれが一番好い。作品のいい悪いに拘らず、苦しんでした仕事の報酬としては、そういう無批判的に仕事のあとの僕をねぎらってくれる、温かい胸が何よりなのです。ずっと前に死んだ僕のお母あさんのように、又、死んだ綾子だってそうであったように。
ヤギのジョージ ♥ BC工房 主人 鈴木惠三
追分から小諸にかけての浅間山麓には、木工家の工房が点在しています。追分で「工房 風緑木」を主宰する出光 晋(すすむ)さんは東京・新宿に生まれ、東急ハンズやカンディハウス(旭川)をへて家具作家として独立。はじめ御代田に工房をもうけ、7年ほど前、追分に工房兼自宅を建てました。新作の D-chair type5は「ここ数年の迷いを振り切った椅子」とのこと。部材を細く、薄く加工した無駄のないフォルムで、座はペーパーコードで張っています。普段はニコやかな出光さんですが、木工機械に向ったとたん表情が一変しました。
出光さんが強い影響を受けた木工家のひとりに、御代田の村上富朗さんがいます。アメリカでウィンザーチェアに出会って以来、黙々と自分なりのウィンザーを模索し続けた方で、その仕事の早さや技術の確かさは、木工のプロや建築家にも高く評価され、周辺の若手木工家にとっても大きな支えとなっていました。
「村上さんの椅子から様々な事を学ばさせてもらいました。影響を受けたものを色々と作ってみてはじめて、自分なりの椅子の姿が見えてきたと思います」と出光さん。出光晋さんの参加する木工家グループ「種」の展覧会が、東京・表参道のプロモ・アルテギャラリーで開催されました。小諸や追分、佐久、御代田、上田に加え神奈川のメンバーも加わり、テーマを変えて新作を発表しています。今回のテーマは「女性のための木(気)づかい」。写真中央は田澤祐介さん(神奈川・森想木工舎)のタオル/ハンガーラック。折りたたみ式で、さり気なくそばに控える存在でありたいそうです。
出光晋さんは、ジオ・ポンティの名作「スーパーレジェーラ」よりも軽い椅子を出品。座面をテグスで張りフレームを極限までそぎ落とした構造です。座るのが怖いくらいシンプルですが、木組みはしっかりしていて座面もやわらかく、お尻によくフィットします。左:宮鍋 慶さん(御代田町・工房「木跡 kiseki」)は、思い出を包み込む家具を提案。奥様のウエディングドレス(実物)を一着だけかけたキャビネットを出展しました。上:ネモファニチャー(佐久市)の荻原敬さんは、奥様のためにつくった新作ラウンジチェアを展示。仕様を決定する過程で「脚を引っ掛けるから角を丸くしよう」とか「座面は大きくしてあげよう」とか、色々な思いが湧いてきて「これが気遣いというものか」と感じたそうです。座面クッションを厚くするなどあたたか味を持たせながら、金属フレームを使って構造体を強化しています。右:佐々木保(小諸・KURAN)さんは、木製ハンドバッグを提案。引き出しが飛び出さない工夫をしています。